Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1407 )



「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その12)

細河ほそかは陸奥のかみ・同じき相摸の守は、真木・葛葉くずはを打ちまはつて、八幡の西の尾崎をさき如法経塚によほふきやうづかの上に陣を取つて、堀一重を隔ててぞ攻めたりける。五月四日、官軍くわんぐん七千余騎が中より夜討ちに馴れたる兵八百人をすぐりて、法性寺左兵衛さひやうゑかみに付けらる。左兵衛の督昼ほどよりこの勢を我が陣へ集めて、笠符かさじるし一様いちやうに著けさせ、そと問はば、進むと名乗るべしと約束して、夜已に二三更にさんかうのほどなりければ、宿院しゆくゐんの後ろを廻つて如法経塚へ押し寄せ、八百人のつはものども、同音に鬨をどつと作る。細河が兵三千余人、暗さはくら分内ぶんないはなし、馬放れ人騒いで、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負ひ、討たるる者数を不知。遥かなる谷底へ人雪崩なだれをつかせて追ひ落とされければ、馬・物の具を捨てたる事、幾千万とも難知。




細川陸奥守(細川顕氏あきうぢ)・同じく相模守(細川清氏きようぢ)は、真木(現大阪府枚方市牧野)・葛葉(現大阪府枚方市樟葉)を打ち廻って、八幡(現京都府八幡市)の西の尾崎、如法経塚の上に陣を取って、堀一重を隔てて攻めました。五月四日に、官軍は七千余騎の中より夜討ちに馴れた兵八百人を選って、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)に付けました。左兵衛督は昼ほどよりこの勢を我が陣に集めて、笠符を一様に付けさせ、誰かと問えば、進むと名乗れと決めて、夜が二三更(午後十時頃?)ほどになると、宿院([寺の宿泊所。僧坊。また、宿坊])の後ろを廻って如法経塚へ押し寄せ、八百人の兵どもが、同音に鬨をどっと作りました。細川(顕氏)の兵三千余人は、暗くて敵味方も見分けが付かず、馬は放れ人は騒いで、太刀も抜かず、弓も引けずに、手負い、討たれる者は数知れませんでした。遥かなる谷底へ雪崩のように追い落とされて、捨てた馬・物の具([武具])は、幾千万とも知れませんでした。


続く


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by santalab | 2017-06-03 09:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田足利確執奏状の事(その1)

さるほどに足利宰相尊氏たかうぢきやうは、相摸次郎時行ときゆきを退治して、東国やがて静謐せいひつしぬれば、勅約の上はなんの子細か可有とて、いまだ宣旨をも不被下、押して足利征夷将軍とぞまうしける。東八箇国の官領くわんれいの事は、勅許ありし事なればとて、今度箱根・相摸川にて合戦の時、有忠ともがらに被行恩賞。先立さいだつて新田の一族ども拝領したる東国の所領どもを、悉く闕所けつしよに成して、給人きふにんをぞ被付ける。義貞よしさだ朝臣これを聞きて安からぬ事に被思ければ、その替はりに我が分国、越後・上野かうづけ・駿河・播磨などに足利の一族どもの知行ちぎやうの庄園を押さへて、家人けにんどもにぞ被行ける。これによつて新田・足利仲悪しく成つて、国々の確執無休時。




足利宰相尊氏卿(足利尊氏)は、相摸次郎時行(北条時行。鎌倉幕府第十四代執権北条高時たかときの次男)を退治して、東国はやがて静謐([静かで落ち着いていること])したので、勅約の上は何の問題があろうかと、宣旨もなしに、足利征夷将軍と名乗りました。東八箇国の官領([荘園])は、勅許がありましたので、今回の箱根・相摸川の合戦で、忠義の者たちに恩賞として与えました。先立ち新田(義貞よしさだ)の一族に拝領([目上の人から物をいただくこと])のあった東国の所領を、一つ残らず闕所([所有者・権利者を欠いた土地])にして、給人([幕府・主家から恩給としての所領を与えられた者])のものとしました。義貞朝臣(新田義貞)はこれを聞いて心穏やかでなく、その代わりとして、越後・上野・駿河・播磨などに足利一族が知行する荘園を押さえて、家人([家来])たちに与えました。これによって新田(義貞)・足利(高氏)は仲違いして、国々の確執([互いに自分の意見を強く主張して譲らないこと。また、そのために生じる不和])は休まることはありませんでした。



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by santalab | 2017-06-02 07:34 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その11)

山名右衛門うゑもんすけ財園院ざいをんゐんに陣を取れば、左兵衛さひやうゑかみなほ守堂口もりだうぐちに支へて防がんとす。四月二十五日、四方しはうの寄せ手同時にてふし合はせて攻め戦ふ。顕能あきよし卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千余騎にて、園殿口そのどのぐちに支へて戦ふ。和田にぎた・楠木・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢は、佐羅科さらしなに支へて戦ふ。軍未だ半ばなるに、高橋の在家より神火燃え出て、魔風十方に吹き懸けけるほどに、官軍くわんぐんけむりむせんで防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引き上がる。四方の寄せ手二万余騎、すなは洞峠ほらがたうげへ打ち上りて、土岐・佐々木・山名・赤松・松田・飽庭あくは・宮の入道にふだう、一勢一勢数十箇所すじつかしよに陣を取り、鹿垣ししがき結うて、八幡山を五重六重いつへむへにぞ取り巻きける。




山名右衛門佐(山名時氏ときうぢ)が、財園院に陣を取れば、左兵衛督(藤原康長やすなが)は守堂口に支へて防ごうとしました。四月二十五日に、四方の寄せ手は同時に相図を定めて攻め戦いました。顕能卿(北畠顕能)の兵、伊賀・伊勢の勢三千余騎は、園殿口に支えて戦いました。和田・楠木・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢は、佐羅科(現京都府八幡市)に支えて戦いました。軍いまだ半ばに、高橋の在家より神火が燃え出て、魔風が十方に吹き懸けたので、官軍は煙に咽んで敵を防ぐことができずに、皆八幡山に引き上りました。四方の寄せ手二万余騎は、たちまち洞ヶ峠(現京都府八幡市と大阪府枚方市の境にある峠)に打ち上って、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)・山名(山名時氏ときうぢ)・赤松(赤松則祐のりすけ)・松田・飽庭・宮入道が、一勢一勢数十箇所に陣を取り、鹿垣([砦の周りに設けて防御用にした垣])を構えて、八幡山を五重六重に取り巻きました。


続く


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by santalab | 2017-06-02 07:29 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その10)

数日すじつあつて後、淀の大明神だいみやうじんの前に浅瀬ありと聞き出して、二千余騎を一手になし、流れをつて打ち渡すに、法性寺の左兵衛さひやうゑかみただ一騎、馬の駆け上がりに控へて、敵三騎切つて落とし、りたる太刀を押しなほして、閑々しづしづと引きて返れば、山名が兵三千余騎、「大将とこそ見奉るに、きたなくも敵に後ろをば見せられ候ふものかな」とて追ひ懸けたり。「返すに難き事か」とて、兵衛の督取つて返してはつと追つ散らし、返し合はせては切つて落とし、淀の橋爪より御山おやままで、十七度じふしちど迄こそ返されけれ。されども馬をも切られず、我が身も痛手を負はざれば、袖の菱縫ひしぬひ吹き返しに立つ処の矢少々り懸けて、御山の陣へぞ帰られける。




数日あって後、淀大明神(現京都市伏見区にある與杼よど神社)の前に浅瀬があると聞き出して、二千余騎を一手になし、流れを切って打ち渡すと、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)がただ一騎、馬の駆け上がりに控えて、敵三騎を切って落とし、曲がった太刀を押し直して、閑々と引いて返れば、山名(山名時氏ときうぢ)の兵三千余騎が、「大将と見るが、卑怯にも敵に後ろを見せるとは」と追いかけました。「返せというか」と、兵衛督は取って返してぱっと追い散らし、返し合わせては切って落とし、淀の橋詰より八幡山まで、十七度まで返しました。けれども馬も切られず、我が身も痛手を負うことなく、袖の菱縫([兜のしころ、鎧の袖・草摺などの裾板に、赤革の紐や赤糸の組紐でX形に綴じた飾り])吹き返し([兜の左右の錏の両端が上方へ折れ返っている部分])に立つ矢を少々折り懸けて、八幡山の陣に帰りました。


続く


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by santalab | 2017-06-01 07:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その8)

これのみならず、平家再興の計略、時や未だ至らざりけん、また天命にやたがひけん。名越なごや太郎時兼ときかぬが、北陸道ほくろくだうを打ちしたがへて、三万余騎にて京都へ責め上りけるも、越前と加賀とのさかひ大聖寺だいしやうじと云ふ所にて、敷地しきぢ上木うへき・山岸・瓜生うりふ・深町の者どもがわづかの勢に打ち負けて、骨を白刃はくじんの下に砕き、恩を黄泉くわうせんの底に報ぜり。時行ときゆきはすでに関東くわんとうにして滅び、時兼ときかぬはまた北国にて被討し後は、末々すゑずゑの平氏ども、少々せうせう身を隠しかたちを替へて、ここの山の奥、かしこの浦の辺にありといへども、今は平家の立ちなほる事難有とや思ひけん、その昔を忍びし人も皆怨敵をんてきの心を改めて、足利の相公しやうこうしよくし奉らずと云ふ者なかりけり。さてこそ、尊氏たかうぢきやう威勢ゐせい自然じねんに重く成つて、武運忽ちに開けければ、天下また武家の世とは成りにけり。




こればかりでなく、平家再興の計略の、時はまだ至っていなかったか、それとも天命に背いたのでしょうか。名越太郎時兼(名越時兼=北条時兼)は、北陸道の平和を従えて、三万余騎で京都に攻め上りましたが、越前と加賀との境、大聖寺(かつて現石川県加賀市にあった寺院)という所で、敷地(現石川県加賀市大聖寺敷地)・上木(現石川県加賀市)・山岸(現石川県輪島市)・瓜生(現石川県河北郡津幡町瓜生)・深町の者どものわずかの勢に打ち負けて、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報じました。時行(北条時行。鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかときの次男)はすでに関東で亡び、時兼もまた北国で討たれた後は、末々の平氏どは、わずかに身を隠し姿を変えて、ここの山奥、かしこの浦の辺におりましたが、今は平家が立ち直ることは困難だと思ったのか、その昔を忍び願う人も皆怨敵の心を改めて、足利相公(足利尊氏。[相公]=[参議])に付かない者はいませんでした。こうして、尊氏卿の威勢はたちまちにして重くなって、武運を開き、天下はまた武家の世となりました。


続く


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by santalab | 2017-06-01 07:06 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その7)

平家のつはもの、前後の敵に被囲て、叶はじとや思ひけん、一戦にも不及、皆鎌倉を指して引きけるが、また腰越こしごえにてかへし合はせて葦名あしな判官はうぐわんも被討にけり。始め遠江とほたふみの橋本より、佐夜さよの中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂じつけざか、これら十七じふしち箇度の戦ひに、平家二万余騎のつはものども、あるひは討たれあるひは疵をかうむりて、今わづかに三百余騎に成りければ、諏方すは三河みかはかみを始めとして宗との大名四十三人しじふさんにん大御堂おほみだうの内に走り入り、同じく皆自害して名を滅亡めつばうの跡にぞ留めける。その死骸を見るに、皆面の皮を剥いでいづれをそれとも見分けざれば、相摸次郎時行ときゆきも、定めてこの内にぞあるらんと、聞く人あはれをもよほしけり。三浦の介入道一人は、いかがして遁れたりけん、尾張をはりの国へ落ちて、舟より挙がりけるところを、熱田の大宮司これを生け捕つて京都へ上せければ、すなは六条河原ろくでうかはらにて首を被刎けり。




平家の兵は、前後の敵に囲まれて、敵わぬと思ったか、一戦にも及ばず、皆鎌倉を指して引き退きましたが、また腰越(現神奈川県鎌倉市)で返し合わせて葦名判官(蘆名盛員もりかず)も討たれました。はじめの遠江の橋本(現静岡県湖西市)より、佐夜の中山(現静岡県掛川市)・江尻(現静岡県静岡市清水区)・高橋(現静岡県静岡市清水区)・箱根山(現神奈川県足柄下郡箱根町)・相摸川・片瀬(現神奈川県藤沢市)・腰越・十間坂(現神奈川県茅ヶ崎市)、これら十七箇度の戦いに、平家二万余騎の兵どもは、あるいは討たれあるいは疵を負って、今はわずかに三百余騎になりました、諏方三河守(諏訪頼重よりしげ)をはじめとして主だった大名四十三人は、大御堂の内に走り入り、同じく皆自害して名を滅亡の後に留めました。その死骸を見れば、皆面の皮を剥いでいずれをそれとも見分けることができませんでした、相摸次郎時行(北条時行ときゆき)も、きっとこの中にあるだろうと、聞く人の涙を誘いました。三浦介入道ただ一人は、どのようにして遁れたのか、尾張国へ落ちて、舟から上がるところを、熱田の大宮司が生け捕って京都に上らせると、たちまち六条河原で首を刎ねられました。


続く


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by santalab | 2017-05-31 08:00 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その9)

悪五郎あくごらう討たれて官軍くわんぐん利を得たりといへども、寄せ手目に余るほどの大勢なれば、始終この陣には難怺とて、楠木次郎左衛門じらうざゑもん夜に入つて八幡へ引つ返せば、翌日朝敵てうてきやがて入り替はつて、荒坂山に陣を取る。しかれども官軍も不懸、寄せ手も不攻上、八幡を遠攻とほぜめにして四五日を経る処に、山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢ、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢を率して上洛しやうらくす。路次ろしの遠きに依つて、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、すぐに八幡へ推し寄せて一軍せんとて淀より向かはれけるが、法性寺ほふしやうじ左兵衛さひやうゑかみここに陣を取つて、淀の橋三間引き落とし、西の橋爪に掻楯かいだて掻いて相待あひまちける間、橋を渡る事は叶はず、さらばいかだを作り渡せとて、淀の在家をこぼちて筏を組みたれば、五月のながさめに水増さりて押し流されぬ。




悪五郎(土岐康貞やすさだ)が討たれて官軍は利を得ましたが、寄せ手は目に余るほどの大勢でしたので、いつまでもこの陣が堪えることはできまいと、楠木次郎左衛門(楠木三郎正儀まさのり。楠木正成の三男)は夜に入ると八幡山(現京都府八幡市)に引き返しました、翌日朝敵はたちまち入れ替わって、荒坂山(現京都府八幡市)に陣を取りました。けれども官軍も駆けず、寄せ手も攻め上らず、八幡を遠攻めにして四五日を経るところに、山名右衛門佐師氏(山名師氏)が、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢を率して上洛しました。路次遠く、荒坂山(現京都府八幡市)の合戦に間に合わなかったことを、無念に思い、すぐに八幡へ押し寄せて一軍しようと淀(現京都市伏見区)より向かいましたが、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)がそこに陣を取って、淀の橋を三間引き落とし、西の橋詰に掻楯([垣根のように楯を立て並べること])を掻いて待ち構えていたので、橋を渡る事は叶わず、ならば筏を作って渡せと、淀の在家を壊して筏を組みましたが、五月の長雨で水嵩が増して押し流されてしまいました。


続く


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by santalab | 2017-05-31 07:08 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その8)

将監しやうげんこれを見て、今は可助く人なしと思ひけるにや、腰の刀を抜いて腹を切らんとしけるを、悪五郎あくごらう、「暫し自害なせそ、助けんずる」とて、壺板に射立てられたる矢をば、脇立わいだてながら引き切つて投げ棄て、懸かる敵を五六人切り臥せ、関将監を左の小脇にさしはさみ、右手にて件の太刀を打ち振り打ち振り、近付く敵を打ち払つて、三町さんちやう許りぞ落ちたりける。跡に続ひていづくまでもと追ひ懸けける和田五郎も討ち遁しぬ。不安思ひける処に、悪五郎が運や尽きにけん、夕立ゆふだちに掘れたる片岸のありけるを、ゆらりと越えけるに、岸のひたひかたつちくわつとくづれて、薬研やげんのやうなる所へ、悪五郎落ちければ、わしり寄つて長刀の柄を取り延べ、二人ににんの敵をば討つてげり。入り乱れたる軍の最中なれば、首を取るまでもなし。悪五郎が引き切つて捨てたりつる、脇立許わいだてばかりを取つて、討つたる証拠しようごに備へ、身に射立て触れたる矢ども少々り懸けて、主上しゆしやう御前おんまへへ参り合戦のていを奏し申せば、「初め申しつる言葉に少しも不違、大敵の一将を討ち取つて数箇所すかしよの疵をかうむりながら、無恙して帰り参るでう、前代未聞の高名なり」と、叡感更に不浅。




関将監はこれを見て、今は助ける人もないと思ったか、腰の刀を抜いて腹を切ろうとしましたが、悪五郎(土岐康貞やすさだ)が、「今は自害するな、助けてやるぞ」と言って、壺板([脇楯わいだての上部にある右の脇壺に当てる鉄板])に射立った矢を、脇楯([大鎧の胴の右脇のすきまに当てる防具])ごと引き切って投げ捨て、懸かる敵を五六人切り臥せ、関将監を左の小脇に抱えて、右手で件の太刀を打ち振り、近付く敵を打ち払って、三町ばかり落ちました。後に続いてどこまでもと追いかける和田五郎(和田正隆まさたか)も討ち逃してしまいました。安からず思うところに、悪五郎の運が尽きたのか、夕立に崩れた片岸があったので、ゆらりと越えると、岸の額の盛り土が崩れて、薬研([薬研掘]=[V字形に深く掘った堀])のような所に、悪五郎が落ちたので、走り寄って長刀の柄を取り延べ、二人の敵を討ちました。入り乱れた軍の最中でしたので、首を取る隙もありませんでした。悪五郎が引き切って捨てた、脇楯ばかり取って、討った証拠として、身に射立てられた矢を少々折り懸けて、主上(第九十七代後村上天皇)の御前に参り合戦の次第を奏し申せば、「初めに申した言葉に少しも違わず、大敵の一将を討ち取って数箇所の疵を被りながら、無事に帰り参るとは、前代未聞の高名である」と、叡感はさらに浅いものではありませんでした。


続く


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by santalab | 2017-05-30 08:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その6)

この山は海道第一の難所なれば、源氏無左右懸かり得じと思ひけるところに、赤松筑前のかみ貞範さだのり、さしもけはしき山路やまぢを、短兵ただちに進んで、敵の中へ懸け入つて、前後に当たり、左右にげきしける勇力に被払て、平家またこの山をも支へず、大崩おほくづれまで引き退く。清久きよく山城のかみかへし合はせて、一足も不引闘ひけるが、源氏の兵に被組て、腹切る間もやなかりけん、その身は忽ちに被虜、郎従らうじゆうは皆被討にけり。路次ろし数箇度すかどの合戦に打ち負けて、平家やたけに思へども不叶。相摸河を引き越して、水をへだてて支へたり。時節をりふし秋の急雨しぐれ一通ひととほりして、河水岸を浸しければ、源氏よも渡しては懸からじと、平家少し由断して、手負ひを扶け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしけるところに、夜に入つて、かう越後ゑちごの守二千余騎にてかみの瀬を渡し、赤松筑前の守貞範さだのりは中の瀬を渡し、佐々木の佐渡の判官はうぐわん入道道誉だうよと、長井ながゐ治部の少輔は、しもの瀬を渡して、平家の陣の後ろへまはり、東西に分かれて、同時に鬨をどつと作る。




箱根山は東海道第一の難所でしたので、源氏は攻めて来ないであろうと思うところに、赤松筑前守貞範(赤松貞範)は、険しい山路を上り、短兵急([いきなり敵に攻撃をしかける様])に、敵の中へ駆け入って、前後から攻め、左右を囲みました、平家は箱根山をも防げず、大崩(現静岡県静岡市・焼津市)まで引き退きました。清久山城守は返し合わせて、一足も引かず戦いましたが、源氏の兵に組まれて、腹を切る間もなかったか、その身はたちまちに捕らわれて、郎従([家来])は皆討たれました。路次での数箇度の合戦に打ち負けて、平家はやたけ([盛んに勇み立つ様])に思えど叶いませんでした。相摸川を渡って、川を隔てて防ぎました。ちょうど秋時雨が一通りして、河水が岸を浸していたので、源氏はまさか攻めて来ないであろうと、平家は少し油断して、手負いを助け馬を休めて、敗軍の士を集ようとするところに、夜に入って、高越後守(高師泰もろやす)は二千余騎で川上の瀬を渡り、赤松筑前守貞範(赤松貞範)は中の瀬を渡り、佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)と、長井治部少輔は、下の瀬を渡って、平家の陣の後ろに回り、東西に分かれて、同時に鬨をどっと作りました。


続く


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by santalab | 2017-05-30 07:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その5)

足利の相公しやうこうこの由を聞き給ひて、「六韜りくたうの十四変に、『敵経長途来急可撃』と云へり。これ太公武王にをしふるところの兵法なり」とて、同じき八日の卯の刻に平家の陣へ押し寄せて、終日ひねもす闘ひ暮らされけり。平家もここを前途せんどと心を一つにして相当あひあたる事三十さんじふ余箇度、入れ替へ入れ替へ戦ひけるが、野心のつわもの後ろにあつて、跡より引きけるに力を失つて、橋本の陣を引き退き、佐夜さよの中山にて支へたり。源氏の真つさきには、仁木につき細河ほそかわの人々、命を義にかろんじて進みたり。平家の後陣には、諏方すは祝部はふり身を恩に報じて、防ぎ戦ひけり。両陣互ひに勇気を励まして、終日ひねもす相戦あひたたかひけるが、平家ここをも被破て、箱根の水飲みづのみたうげへ引き退く。




足利相公(足利尊氏)はこれを聞いて、「六韜([中国の代表的な兵法書])の十四変に、『敵が長途につく時にはたちまちこれを攻めよ』と書かれておる。太公望が武王(周朝の創始者)に教えた兵法である」と申して、同じ八日の卯の刻([午前八時頃])に平家の陣へ押し寄せて、終日戦いました。平家もここを先途([勝敗や運命を決する大事な分かれ目])と思い心を一つにして攻め合うこと三十余箇度、新手を入れ替え入れ替え戦いましたが、野心の兵が後ろにあって、後に引いたので力を失い、橋本(現静岡県湖西市)の陣を引き退き、佐夜の中山(現静岡県掛川市)で対峙しました。源氏の真っ先を、仁木・細川の人々が、命を義に軽んじて進みました。平家の後陣には、諏訪(現長野県にある諏訪大社)の祝部([神職])が身を恩に報じて、防ぎ戦いました。両陣互いに勇気を励まして、終日戦いましたが、平家はここも破られて、箱根の水呑峠(箱根峠)に引き退きました。


続く


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by santalab | 2017-05-29 07:18 | 太平記 | Comments(0)

    

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