Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1320 )



「太平記」新田起義兵事(その7)

久米河くめがはに一日逗留とうりうし給へば、河越かはごえ弾正だんじやう少弼せうひつ・同じく上野かうづけの守・同じく唐戸からと十郎左衛門・江戸遠江とほたふみの守・同じく下野しもつけの守・同じく修理しゆりすけ高坂かうさか兵部ひやうぶ大輔たいふ・同じく下野しもつけの守・同じく下総の守・同じく掃部かもんの助・豊島としま弾正左衛門だんじやうざゑもん・同じく兵庫ひやうごの助・土屋備前の守・同じく修理しゆりすけ・同じく出雲いづもの守・同じく肥後の守・土肥とひ次郎兵衛入道ひやうゑにふだう・子息掃部かもんの助・舎弟甲斐かひの守・同じく三郎左衛門さぶらうざゑもん・二宮但馬たぢまの守・同じく伊豆いづの守・同じく近江あふみの守・同じく河内かはちの守・曽我周防すはうの守・同じく三河みかはの守・同じく上野かうづけの守・子息兵庫ひやうごの助・渋谷木工左衛門もくざゑもん・同じく石見いはみの守・海老名四郎左衛門しらうざゑもん・子息信濃の守・舎弟修理しゆりすけ小早河こばやかは刑部ぎやうぶの大夫・同じく勘解由左衛門かげゆざゑもん・豊田因幡の守・狩野かのの介・那須遠江とほたふみの守・本間四郎左衛門しらうざゑもん・鹿島越前ゑちぜんの守・島田備前の守・浄法寺じやうほふじ左近の大夫・白塩しらしほ下総しもふさの守・高山越前ゑちぜんの守・小林右馬の助・瓦葺かはらふき出雲いづもの守・見田みた常陸の守・古尾谷ふるをや民部の大輔たいふ・長峯石見いはみの守・都合その勢八万余騎、将軍の陣へ馳せ参る。




(足利尊氏は)久米川(現東京都東村山市)に一日逗留すると、河越弾正少弼(河越直重ただしげ)・同じく上野守・同じく唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同じく下野守・同じく修理亮・高坂兵部大輔(高坂氏重うぢしげ?)・同じく下野守・同じく下総守・同じく掃部助・豊島弾正左衛門・同じく兵庫助・土屋備前守・同じく修理亮・同じく出雲守・同じく肥後守・土肥次郎兵衛入道・子息掃部助・舎弟甲斐守・同じく三郎左衛門・二宮但馬守・同じく伊豆守・同じく近江守・同じく河内守・曽我周防守・同じく三河守・同じく上野守・子息兵庫助・渋谷木工左衛門・同じく石見守・海老名四郎左衛門・子息信濃守・舎弟修理亮・小早川刑部大夫・同じく勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿島越前守(鹿島幹重もとしげ)・島田備前守・浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守、都合その勢八万余騎が、将軍(足利尊氏)の陣へ馳せ参りました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-14 07:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その1)

中にも千種の頭の中将忠顕ただあき朝臣は、故六条ろくでう内府だいふ有房ありふさ公の孫にておはせしかば文字もんじの道をこそ、家業かげふともたしなまるべかりしに、弱冠じやくくわんの頃より我が道にもあらぬ笠懸け・犬追物いぬおふものを好み、博奕ばくえき・婬乱を事とせられける間、父有忠ありただあのきやう離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。されどもこの朝臣、一時の栄花えいぐわを可開過去くわこ因縁いんえんにやありけん、主上しゆしやう隠岐の国へ御遷幸せんかうの時供仕りて、六波羅の討つ手に上りたりし忠功に依つて、大国三箇国、闕所けつしよ数十箇所すじつかしよ被拝領たりしかば、朝恩てうおん身に余り、そのおごり目を驚かせり。その重恩そのぢゆうおんを与へたる家人けにんどもに、毎日の巡酒を振る舞はせけるに、堂上だうじやうに袖を連ぬる諸大夫・侍三百人に余れり。その酒肉珍膳しゆじくちんぜんつひへ、一度に万銭もなほ不可足。また数十間すじつけんむまやを作り双べて、ししに余れる馬を五六十疋被立たり。さかもりんで和興に時は、数百騎すひやくき相随あひしたがへて内野うちの・北山辺に打ち出でて追出犬、小鷹狩こたかがりに日を暮らし給ふ。その衣裳はへう・虎の皮を行縢むかばきち、金襴纐纈きんらんかうけつ直垂ひたたれに縫へり。賎しきが服貴服謂之僭上。僭上無礼せんじやうぶれいは国の凶賊なりと、孔安国こうあんこくいましめを不恥けるこそうたてけれ。




中でも千種頭中将忠顕朝臣(千種忠顕)は、故六条内府有房公(六条有房。内府=内大臣)の孫でしたので文字(和歌)の道をこそ、家業とし嗜むべきところを、弱冠の頃より我が道にもあらぬ笠懸([馬に乗って遠距離の的を射る競技])・犬追物([騎馬で犬を追い、弓で 射る騎射訓練の武術])を好み、博奕・婬乱に耽ったので、父有忠卿(六条有忠)と父子の縁を切られて、不孝の身となりました。けれども忠顕朝臣が、一時の栄華を開いたのは過去の因縁によるものでしょうか、主上(第九十六代後醍醐天皇)が隠岐国へ遷幸の時供をして、六波羅の討手として上った忠功により、大国三箇国、闕所([財産没収刑又はその刑罰により所有者がいなくなった所領])数十箇所を拝領しました、朝恩は身に余り、驕りは目を驚かせるほどでした。重恩の家人どもに、毎日巡酒を振る舞い、堂上に袖を連ねる諸大夫・侍は三百人に余りました。その酒肉珍膳の費用は、一度に万銭でもなお足りませんでした。また数十間の厩を作り並べて、肉付きのよい馬を五六十匹立てていました。酒盛りが済むと、数百騎を従えて内野(大内裏があった場所。鎌倉時代には一面野原となっていたらしい)・北山(現京都市北区)辺に打ち出て犬を追い、小鷹狩りに日を暮らしました。その衣裳は豹・虎の皮を行縢([遠行の外出・旅行・狩猟の際に両足の覆いとした布帛ふはくや毛皮の類])に裁ち、金襴([金糸を絵緯えぬき=横糸。として文様を織り出した織物])纐纈([絞染])を直垂としました。『故賤服貴服、謂之僭上』(賎しき故に貴き服を着ることは、僭上=身分を越えて出過ぎた行いをすること。の振る舞いである。『孝経』)。僭上の無礼は国の凶賊であると、孔安国(前漢代の学者。孔子十一世の孫らしい)の戒めを恥じないことこそ愚かなことでした。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-14 06:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その6)

鎌倉より追つ付き奉る人々には、畠山上野かうづけ・子息伊豆いづかみ・畠山左京さきやうの大夫・舎弟尾張をはりの守・舎弟大夫の将監しやうげん・その次式部の大夫・仁木につき左京さきやうの大夫・舎弟越後ゑちごの守・三男修理しゆりすけ岩松いはまつ式部の大夫・大島讃岐の守・石堂左馬のかみ・今河五郎入道・同じき式部の大夫・田中三郎・大高だいかう伊予の守・同じく土佐の修理しゆりすけ太平おほひら安芸の守・同じく出羽ではの守・宇津木平三・宍戸安芸の守・山城の判官はうぐわん・曽我兵庫ひやうごの助・梶原弾正だんじやうちゆう二階堂にかいだう丹後の守・同じく三郎左衛門さぶらうざゑもん饗庭命鶴あいばみやうづる・和田筑前の守・長井ながゐ大膳だいぜんの大夫・同じく備前の守・同じく治部ぢぶ少輔せう・子息右近の将監しやうげんらなり。元より隠謀ありしかば、石堂入道・三浦の介・小俣をまた少輔せう次郎・葦名あしな判官はうぐわん二階堂にかいだう下野しもつけの次郎、その勢三千余騎は、他勢を交えず、将軍の御馬おんむまの前後に透き間もなくぞ打つたりける。




鎌倉より追い付き奉る人々には、畠山上野介(畠山高国たかくに)・子息伊豆守・畠山左京大夫(畠山国清くにきよ)・舎弟尾張守・舎弟大夫将監・その次式部大夫・仁木左京大夫(仁木頼章よりあき)・舎弟越後守(仁木義長よしなが)・三男修理亮・岩松式部大夫・大島讃岐守・石塔左馬頭(石塔頼房よりふさ。ただし右馬頭)・今川五郎入道(今川範国のりくに)・同じく式部大夫・田中三郎・大高伊予守(大高重成しげなり)・同じく土佐修理亮・大平安芸守・同じく出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曽我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同じく三郎左衛門・饗庭命鶴(饗庭氏直うぢなほ)・和田筑前守・長井大膳大夫・同じく備前守・同じく治部少輔・子息右近将監らでした。元より隠謀ありしかば、石塔入道(石塔義房よしふさ)・三浦介(三浦高通?)・小俣少輔次郎・葦名判官(葦名直盛なほもり)・二階堂下野次郎、その勢三千余騎は、他勢を交えず、将軍(足利尊氏)の馬の前後に隙間もなく付きました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-13 07:29 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事(その3)

東国・西国已に静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦まつらの者ども、大船たいせん七百余艘よさうにて参洛す。新田左馬の助・舎弟兵庫ひやうごの助七千余騎にて被上洛しやうらく。この外国々の武士ども、一人も不残上り集まりける間、京白河に充満して、王城の富貴ふうき日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引すとも、先づ大功のともがら抽賞ちうしやうを可被行とて、足利治部の大輔高氏たかうぢに、武蔵・常陸ひたち下総しもふさ三箇国、舎弟左馬のかみ直義ただよし遠江とほたふみの国、新田左馬の助義貞に上野かうづけ・播磨両国、子息義顕よしあき越後ゑちごの国、舎弟兵部ひやうぶ少輔せう義助よしすけに駿河の国、楠木判官正成に摂津の国・河内、名和伯耆はうきかみ長年ながとしに因幡・伯耆両国をぞ被行ける。その外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を賜わり給はりけるに、さしもの軍忠ありし赤松入道円心ゑんしんに、佐用さよの庄一所許りを被行。播磨の国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄かに心替はりして、朝敵てうてきと成りしも、この恨みとぞ聞こへし。その外五十ごじふ余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄けつしよたいしやうをば悉く公家被官ひくわんの人々拝領はいりやうしける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。




東国・西国はすでに鎮まり、筑紫の小弐・大友・菊池・松浦の者どもが、大船七百余艘で参洛しました。新田左馬助(新田義貞)・舎弟兵庫助(脇屋義助よしすけ)は七千余騎で上洛しました。このほか国々の武士どもが、一人残らず上り集まったので、京白川に充満して、王城の富貴は日頃の百倍にも達しました。諸軍勢の恩賞はしばらく延引するとも、まず大功の者どもの抽賞を行うべきと、足利治部大輔高氏(足利高氏)に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義(足利直義)に遠江国、新田左馬助義貞(新田義貞)には上野・播磨両国、子息義顕(新田義顕。新田義貞の長男)に越後国、舎弟兵部少輔義助(脇屋義助)に駿河国、楠木判官正成(楠木正成)に摂津国・河内、名和伯耆守長年(名和長年)に因幡・伯耆両国を与えられました。そのほか公家・武家の輩が、二箇国・三箇国を賜わりましたが、あれほど軍忠のあった赤松入道円心(赤松則村のりむら)には、佐用庄(現兵庫県佐用郡佐用町)一所を与えただけでした。播磨国の守護職は程なく召し返されました。こうして建武の乱(延元の乱)に円心はにわかに心変わりして、朝敵となったのもこの恨みによるものだといわれました。そのほか五十余箇国の守護・国司・国々の闕所([財産没収刑またはその刑罰により所有者がいなくなった所領])大庄を残らず公家被官の人々に拝領したので、まさに陶朱(范蠡はんれい。中国春秋時代の越の政治家、軍人)の富貴([陶朱猗頓たうしゆいとんの富]=[陶朱は 金満家として知られ、猗頓は魯国の富豪であったところから、莫大な富])に誇り飽白(中国戦国時代の韓の鄭国と漢代の趙の大夫白公のこと)が衣食に飽きる([飽白の衣食に飽く]=[中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑工事により、人々の生活が豊かになったという故事から、生活に不自由がないたとえ])に同じでした。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-13 07:22 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その5)

これによつて武蔵・上野より早馬を打つて鎌倉へ急を告ぐる事、櫛の歯を引くが如し。「さて敵の勢はいかほどあるぞ」と問へば、使者ども皆、「二十万騎にじふまんぎには劣り候はじ」とぞ答へける。仁木・細川の人々これを聞いて、「さては由々しき大事ごさんなれ。鎌倉中かまくらぢゆうの勢、千騎に増さらじと思ゆるなり。国々の軍勢はたとひ参るとも、今の用には立ち難し。千騎に足らぬ御勢を以つて、敵の二十万騎を防がん事は、叶うべしとも思え候はず。ただ先づ安房あは上総かづさへ開かせ給ひて、御勢を付けて御合戦こそ候はめ」と申されけるを、将軍つくづくと聞き給ひて、「軍の習ひ、落ちて後利ある事千に一つの事なり。勢をもよほさん為に、安房・上総へ落ちなば、武蔵・相摸・上野・下野の者どもは、たとひ尊氏に心ざしありとも、敵に隔てられて御方になる事あるべからず。また尊氏鎌倉を落ちたりと聞かば、諸国に敵になる者多かるべし。今度に於いては、たとひ少勢なりとも、鎌倉を打ち出でて敵を道に待て、戦を決せんにはしかじ」とて、十六じふろく日の早旦に、将軍わづかに五百余騎の勢を率し、敵の行き合はんずる所までと、武蔵の国へ下り給ふ。




こうして武蔵・上野より早馬を打って鎌倉へ急を告げること、まるで櫛の歯を挽く([物事が絶え間なく続く])ようでした。「敵の勢はどれほどか」と訊ねると、使者どもは皆、「二十万騎には劣りますまい」と答えました。仁木・細川の人々はこれを聞いて、「由々しき大事ぞ。鎌倉中の勢は、千騎に及ぶまいと思われる。国々の軍勢が参ったところで、今の用には立つまい。千騎に足らぬ勢をもって敵の二十万騎を防ぐことが、できるとも思えぬ。ただまず安房・上総に散って、勢を付けて合戦に及ぶのがよろしいでしょう」と申しましたが、将軍(足利尊氏)はつくづくと聞いて「軍の習い、落ちた後に勝つことは千に一つである。勢を集めるために、安房・上総へ落ちれば、武蔵・相摸・上野・下野の者どもは、たとえ尊氏に心ざしがあったとしても、敵に隔てられて味方になることはあるまい。また尊氏が鎌倉を落ちたと聞けば、諸国に敵になる者が多くいよう。今度に於いては、たとえ小勢であろうとも、鎌倉を打ち出て敵を道に待って、戦を決するほかない」と申して、(観応三年(1352))閏二月十六日の早旦に、将軍はわずかに五百余騎の勢を率し、敵に行き合う所までと、武蔵国に下りました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-12 08:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事(その2)

四門しもんの警固には、結城ゆふき七郎左衛門しちらうざゑもん親光ちかみつ・楠木河内かはちかみ正成まさしげ塩冶えんや判官高貞たかさだ・名和伯耆はうきの守長年ながとしなり。南庭の陣には右は三浦の介、左は千葉の大介貞胤ちばのおほすけさだたねをぞ被召ける。この両人兼ねては可随其役由を領状申りやうじやうまうしたりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成らん事を嫌ひ、三浦は千葉が右に立たん事を忿いかつて、共に出仕しゆしを留めければ、天魔の障礙しやうげ法会ほふゑ違乱ゐらんとぞ成りにける。後に思ひ合はするに天下久しく無為ぶゐなるまじき表示へうじなりけり。されどもこの法の効験かうげんにや、飯盛いひもりの丸城は正成に被攻落、立烏帽子たてゑぼしの城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打ち負けて、朝敵てうてきの首京都に上りしかば、共に被渡大路、やがて被懸獄門けり。




四門の警固は、結城七郎左衛門親光(結城親光)・楠木河内守正成(楠木正成)・塩冶判官高貞(塩冶高貞)・名和伯耆守長年(名和長年)でした。南庭の陣には右は三浦介(三浦時継ときつぐ?)、左は千葉大介貞胤(千葉貞胤)を召されました。この両人はかねてはその役に従うと領状申しておりましたが、その期に及んで千葉は三浦が相手になることを嫌い、三浦は千葉が右に立つことに腹を立てて、ともに出仕しませんでした、天魔の障礙([妨げ])が、法会の違乱([法に違反し秩序を乱すこと])となったのでした。後に思い合わせると天下が久しく無為([無事])とならぬ表示([兆候])でした。けれどもこの法の効験か、飯盛丸城(現大阪府大東市・四條畷市)は(楠木)正成に攻め落とされ、立烏帽子城(現愛媛県松山市)は、土居(土居通増みちます)・得能(得能通綱みちつな)に攻め落とされ、筑紫は大友・小弐に打ち負けて、朝敵の首は京都に上ると、ともに大路を渡され、やがて獄門に懸けられました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-12 08:22 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その4)

諸方の合図あひづ事定まりければ、新田武蔵のかみ義宗よしむね左兵衛さひやうゑすけ義治よしはるうるふ二月八日、先づ手勢八百余騎にて、西上野に打ち出でらる。これを聞きて国々より馳せまゐりける当家他門の人々、先づ一族には、江田・大館おほたち・堀口・篠塚・羽河はねかは岩松いはまつ・田中・青竜寺しやうりゆうじ小幡をはた大井田おほゐた一井いちのゐ世良田せらた篭沢こもりざは、外様には宇都宮三河みかはの三郎・天野民部大輔たいふ政貞まささだ・三浦近江守・南木なんぼく十郎・西木さいぼく七郎しちらう酒勾さかわ左衛門・小畑左衛門・中金なかかね・松田・河村かはむら・大森・葛山かつらやま勝代かつしろ蓮沼はすぬま・小磯・大磯・酒間さかま・山下・鎌倉・玉縄たまなは梶原かぢはら・四宮・三宮・南西なんさい・高田・中村、児玉党こだまたうには浅羽あさば四方田よもだしやう・桜井・若児玉わかこだまたんの党には安保あふ信濃のかみ・子息修理しゆりすけ・舎弟六郎左衛門ろくらうざゑもん加治かぢ豊後の守・同じく丹内左衛門たんないさゑもん勅使河原てしがはら丹七郎たんしちらう西党さいたう東党とうたう・熊谷・太田・平山・私市きさいち・村山・横山・猪俣ゐのまた党、都合その勢十万じふまん余騎、所々に火を懸けて、武蔵の国へ打ち越える。




諸方の合図を定めて、新田武蔵守義宗(新田義宗。新田義貞の三男)・左兵衛佐義治(脇屋義治。脇屋義助よしすけの子)は、(観応三年(1352))閏二月八日に、まず手勢八百余騎で、西上野に打ち出でました。これを聞いて国々より馳せ参る当家他門の人々は、まず一族には、江田・大舘・堀口・篠塚・羽川・岩松・田中・青竜寺・小幡・大井田・一井・世良田・籠沢、外様には宇都宮三河三郎(蒲池久憲ひさのり)・天野民部大輔政貞(天野政貞)・三浦近江守・南木十郎・西木七郎・酒勾左衛門・小畑左衛門・中金・松田・河村・大森・葛山・勝代・蓮沼・小磯・大磯・酒間・山下・鎌倉・玉縄・梶原・四宮・三宮・南西・高田・中村、児玉党には浅羽・四方田・庄・桜井・若児玉、丹党には安保信濃守・子息修理亮・舎弟六郎左衛門・加治豊後守・同じく丹内左衛門・勅使河原丹七郎(勅使河原直重なほしげ)・西党・東党・熊谷・太田・平山・私市・村山・横山・猪俣党、都合その勢十万余騎が、所々に火を懸けて、武蔵国へ打ち越えました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-11 22:23 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事(その1)

元弘三年春の頃、筑紫には規矩きく掃部かもんの助高政たかまさ・糸田左近の大夫将監しやうげん貞義さだよしと云ふ平氏の一族出で来て、前亡ぜんばう余類よるゐを集め、所々の逆党ぎやくたうを招いて国を乱らんとす。また河内かはちの国の賊徒ら、佐々目憲法けんぽふ僧正と云ひける者を取り立てて、飯盛山に城郭をぞ構へける。これのみならず、伊与の国には赤橋駿河のかみが子息、駿河の太郎重時しげときと云ふ者あつて、立烏帽子峯たてゑぼしがみねに城を拵へ、四辺の庄園を掠めりやうす。これらの凶徒、加法威於武力不退治者、早速に可難静謐とて、俄かに紫宸殿の皇居くわうきよに構壇、竹内たけのうち慈厳じごん僧正を被召て、天下安鎮あんちんの法をぞ被行ける。この法を行なふ時、甲冑の武士四門しもんを堅めて、内弁・外弁、近衛こんゑ、階下に陣を張り、伶人れいじん楽を奏する始め、武家のともがら南庭の左右に立ちならんで、抜剣四方しはうしづむる事あり。




元弘三年(1333)春の頃、筑紫には規矩掃部助高政(北条高政)・糸田左近大夫将監貞義(糸田貞義=北条貞義)という平氏の一族が現れて、前亡の余類を集め、所々の逆党を招いて国を乱そうとしました。また河内国の賊徒らが、佐々目憲法僧正という者を取り立てて、飯盛山(現大阪府大東市・四條畷市)に城郭を構えました。これのみならず、伊与国では赤橋駿河守(赤橋宗時むねとき)の子息、駿河太郎重時(赤橋重時)という者があって、立烏帽子峯(現愛媛県松山市)に城を構え、四辺の庄園を劫掠しました。これらの凶徒を、法威なしに武力で退治すること、たちまちに静謐し難しと、にわかに紫宸殿の皇居に壇を構え、竹内(現京都市左京区にある曼殊院。竹内門跡)の慈厳僧正を召されて、天下安鎮の法を執り行わせました。この法を行なう時には、甲冑の武士が四門を固めて、内弁・外弁、近衛が、階下に陣を張り、伶人([楽人])が楽を奏すると、武家の者どもが南庭の左右に立ち並び、剣を抜いて四方を鎮めました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-11 22:13 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その25)

去るほどに、治暦ちりやく四年八月十四日、内裏造営ざうえいの事始めあつて、後三条院ごさんでうのゐんの御宇、延久えんきう四年四月十五日遷幸せんかうあり。文人献詩伶倫れいりん奏楽。目出たかりしに、無幾程、また安元あんげん二年に日吉山王の依御祟、大内だいだい諸寮しよれう一宇も不残焼けにし後は、国の力おとろへて代々の聖主も今に至るまで造営の御沙汰もなかりつるに、今兵革ひやうかくの後、世未だ安からず、国つひへ民苦しみて、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、大内裏可被作とて自昔至今、我がてうには未だ用ひざる作紙銭、諸国の地頭・御家人の所領しよりやうに被懸課役条、神慮にもたが驕誇けうくうはしとも成りぬと、顰眉智臣も多かりけり。




やがて、治暦四年(1068)八月十四日、内裏造営の事始めあって、後三条院(第七十一代天皇)の御宇、延久四年(1072)四月十五日に遷幸されました。文人は詩を献上し伶倫([楽人])は楽を奏しました。めでたいことでしたが、ほどなく、また安元二年(1176)に日吉山王(現滋賀県大津市にある日吉大社の祭神)の祟りにより、大内の諸寮が一宇も残らず焼けた後は(安元の大火は安元三年(1177))、国の力は衰えて代々の聖主も今にいたるまで造営の沙汰はありませんでした、兵革([戦])の後、世はまだ安穏でなく、国の費えに民は苦しんで、不帰馬于花山陽不放牛于桃林野、馬を崋山(西安の東にある山)の陽(南)に帰さず馬を桃林の野に放たず([馬を崋山の陽に帰し牛を桃林の野に放つ]=[戦争が終わり平和になるたとえ。周の武王=周の創始者。は殷を滅ぼしたときに、戦争に使用した馬を崋山の南側に帰し、武器などを運搬させた牛を桃林に放って、二度と戦争はしないことを人民に示したという])大内裏を造営すべきと今に至るまで、我が朝では用いられなかった紙銭を作り、諸国の地頭・御家人の所領には課役([租税と夫役])を懸けました、神慮にも違い驕誇([おごり高ぶって大言を吐くこと])の発端ともなると、眉を顰める智臣も多くいました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-10 08:24 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その3)

また三浦の介・葦名あしな判官はうぐわん二階堂にかいだう下野しもつけの二郎・小俣をまた宮内少輔せうも高倉殿方にて、薩埵山の合戦に打ち負けしかば、降人になつて命をば継ぎたれども、人の見るところ、世の聞くところ、口惜くちをしきものかな、あはれ謀反を起こさばやと思ひけるところに、新田武蔵のかみ・同じき左衛門さゑもんすけの方より、頼み思ふ由を申したりければ、願ふところのさいはひかなと悦びて、すなはち与力して、この人々密かに扇谷あふぎのやつに寄り合つて評定ひやうぢやうしけるは、「新田の人々旗を上げて上野かうづけの国に起こり、武蔵国へ打ち越ゆると聞こへば、将軍は定めて鎌倉にてはよも待ち給はじ、関戸せきと入間河いるまがはの辺に出で合つてぞ防ぎ給はんずらん。我ら五六人が勢なにとなくとも、三千騎はあらんずらん。将軍戦場に打ち出で給はんずる時、わざ馬廻うままはりに控へて、合戦すでに半ばならんずる最中、将軍を真ん中に取り籠め奉り、一人も残らず討ち捕つて後に御陣へはまゐり候ふべし」と、新田の人々の方へ合図あひづを堅く定めて、石堂入道・三浦介・小俣をまた・葦名は、働かで鎌倉にこそ居たりけれ。




また三浦介・葦名判官(蘆名直盛なほもり。ただし、遠江守。葦名判官盛員もりかずは兄)・二階堂下野次郎・小俣宮内少輔も高倉殿(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)方として、薩埵山(薩埵峠。現静岡県静岡市清水区)の合戦に打ち負けたので、降人になって命をつないでいましたが、人の目、世の評判に、何とも悔しいことよ、何とかして謀反を起こそうと思っているところに、新田武蔵守(新田義興よしおき。新田義貞の次男)・同じく左衛門佐(脇屋義治よしはる。新田義貞の弟、脇屋義助の子)の方より、頼りにしたいと申してきたので、願うところの幸いとよろこんで、たちまち与力して、この人々が密かに扇ヶ谷(現神奈川県鎌倉市)に寄り合って、評定するには、「新田の人々が旗を上げて上野国に起こり、武蔵国に打ち越えると聞こえれば、将軍(足利尊氏)はきっと鎌倉で待ち受けることはないでしょう、関戸(現東京都多摩市)・入間川(現埼玉県を流れる荒川水系の一級河川)の辺に出で合って防ぐに違いありません。我ら五六人の勢は少ないが、三千騎はありましょう。将軍が戦場に打ち出た時、わざと馬廻([大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制の一])に控えて、合戦の最中に、将軍を真ん中に取り籠め、一人も残らず討ち捕った後に陣に参りましょう」と、新田の人々の方へ合図を固く定めて、石塔入道(石塔義房よしふさ)・三浦介(三浦高通?)・小俣・葦名(葦名直盛なほもり)は、鎌倉に残りました。


続く


[PR]
by santalab | 2017-04-10 07:43 | 太平記 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧