Santa Lab's Blog


カテゴリ:太平記( 1415 )



「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その1)

山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢは今度八幡やはたの軍に功あつて、忠賞我に勝る人非じと被思ける間、先年拝領して未だたう知行なかりける若狭の国の斉所さいしよ今積いまづみを如本の可宛給由、佐々木の佐渡の判官入道はうぐわんにふだう道誉だうよしよくしてまうし達せん為に、日々に彼の宿所へ行き給ひけれども、「今日は連歌の御会席くわいせきにて候ふ」。「只今は茶のくわいの最中にて候ふ」とて一度も対面に不及、数剋すこく立たせ、暮るるまで待たせて、ただいたづらにぞ帰しける。




山名右衛門佐師氏(山名師氏)は今度の八幡の軍に功あって、忠賞我に勝る人はないと思っていたので、先年拝領していまだ知行していない若狭国の済所([平安中期以降、租税の徴収・官物の収納などを司った国衙こくがの役所])今積(現福井県小浜市)を本通り充てられるよう、佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)を通して申し達するために、日々かの宿所を訪ねるましたが、「今日は連歌([和歌から派生した詩歌の一 形態。五・七・五の発句と七・七の脇句以下,長短句を交互に連ねていくもの])の会席がござる」。「只今は茶の会の最中にござる」と申して一度も対面に及ばず、数刻立たせ、日が暮れるまで待たせたあげく、ただ徒らに帰しました。


続く


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by santalab | 2017-06-12 07:14 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」茨宮御位事(その1)

今度吉野殿と将軍と御合体ごがつていの儀破れて合戦に及びし刻み、持明院の本院ほんゐん・新院・主上しゆしやう・春宮・梶井かぢゐ二品にほん親王しんわうまで、皆南方の敵にとらはれさせ給ひて、あるひは賀名生あなふの奥、あるひは金剛山こんがうせんの麓に御座あれば、都には御在位ございゐの君もおはしまさず、山門には時の貫首くわんじゆも渡らせ給はず。この平安城へいあんじやう比叡山ひえいさんと同時に始まりて、すでに六百余歳、一日もいまだ斯かる事をば承り及ばず、これぞ末法の世になりぬるしるしよと、浅ましかりし事どもなり。されどもかくてはいかがあるべきとて、 天台の座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤じよういん親王をなし奉る。この宮は前門主の御振る舞ひに様替やうかはつて、遊宴奇物をも愛でせさせ給はず、行業ぎやうごふ不退ふたいにしてただ我が山の興隆をのみ御心に懸けられたりければ、靡き奉らぬ衆徒もなかりけり。さて御位には誰をか就け参らすべきとたづね求め奉るところに、本院ほんゐん第二の御子、三条さんでうの内大臣公秀きんひでの御娘三位殿さんみどのの御局、後には陽禄やうろく門院と申しし御腹に生まれさせ給ひたりしが今年十五にならせ給ふを、日野の春宮とうぐう権大進ごんのたいしん保光やすみつおほせて、南方へ取り奉らんとせられけるが、とかく料理れうりとどこほつて、保光京都に捨て置き奉りけるを尋ね出だし参らせて、御位には就け参らせけるなり。




今度吉野殿(第九十七代、南朝第二代後村上天皇)と将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)と合体の儀は破れて合戦に及んだ時、持明院の本院(北朝初代光厳天皇)・新院(北朝第二代光明天皇)・主上(北朝第三代崇光天皇)・春宮(崇光天皇の第一皇子、伏見宮栄仁ふしみのみやよしひと親王)・梶井二品親王(第九十三代後伏見院の第六皇子、承胤しよういん法親王)まで、皆南方の敵に捕らわれて、あるいは賀名生(現奈良県五條市)の奥、あるいは金剛山(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の麓におられたので、都には在位の君もおられず、山門(比叡山)には時の貫首([天台座主])も渡られることはありませんでした。平安城(平安京)と比叡山が同時に始まって、すでに六百余歳、一日もいまだこのようなことを聞くことはなく、これぞ末法([仏法が行われなくなる時代])の世になる験よと、嘆かわしいことでした。けれどもこのままではどうかと、天台座主には、梶井二品親王の弟子、承胤親王(第九十三代後伏見天皇の皇子)を就けられました。この宮は前門主の振る舞いとはまるで異なり、遊宴奇物を愛でることなく、行業不退にしてただ我が山の興隆をのみ心に懸けておられたので、靡かぬ衆徒([僧])はいませんでした。さても帝位には誰を即け参らせるべきと尋ね求めるところに、本院(光厳天皇)の第二皇子、三条内大臣公秀(正親町三条公秀)の娘三位殿局(正親町三条秀子)、後には陽禄門院と申された腹にお生まれになられた皇子が今年十五になっておられました、日野春宮権大進保光(日野保光)に命じて、南方(南朝)に移そうとしましたが、処置に手間取って、保光が京都に捨て置いたのを尋ね出して、位に即けられました(北朝第四代後光厳天皇)。



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by santalab | 2017-06-11 08:42 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その5)

去るほどに新田武蔵の守義宗よしむねは、四月二十七日にじふしちにち越後の津張つばりより立つて、七千余騎越中ゑつちゆう放正津はうじやうづに着けば、桃井播磨の守直常ただつね、三千余騎にて馳せ参る。都合その勢一万余騎、九月十一日前陣せんぢんすでに能登の国へ発向はつかうす。吉良三郎・石堂も、四月二十七日に駿河の国を立つて、路次ろしの軍勢を駈りもよほし、六千余騎を率して、五月十一日に先陣すでに美濃の垂井たるゐ・赤坂に着きしかば、八幡に力をはせんと遠篝とほかがりをぞ焚きたりける。これのみならず信濃のしもの宮も、神家じんけ・滋野・友野・上杉・仁科・禰津ねづ以下の軍勢を召し具して、同じき日に信濃を立たせ給ふ。伊予には土居とゐ得能とくのう、兵船七百余艘よさうに取り乗つて、海上より責め上る。東山とうさん北陸ほくろく・四国・九州の官軍くわんぐんども、皆我が国々を立ちしかば、路次の遠近に依つて、たとひ五日三日の遅速はあるとも、後攻ごづめの勢こそ近付きたれと、云ひ立つほどならば、八幡の寄せ手は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上しゆしやうは八幡を落ちさせ給ひしかば、国々の官軍くわんぐんも力を落とし果て、皆己が本国へぞ引つ返しける。これもただ天運の時不至、神慮より事起こる故とは云ひながら、とすれば違ふ宮方の運のほどこそはかられたれ。




やがて新田武蔵守義宗(新田義宗。新田義貞の三男)は、四月二十七日に越後の津張(現新潟県中魚沼郡津南町)より立って、七千余騎で越中の放正津(現富山県射水市)に着くと、桃井播磨守直常(桃井直常)も、三千余騎で馳せ参りました。都合その勢一万余騎が、九月十一日に前陣はすでに能登国に発向しました。吉良三郎(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔頼房よりふさ)も、四月二十七日に駿河国を立って、路次の軍勢を駆り集め、六千余騎を率して、五月十一日に先陣が美濃の垂井(現岐阜県不破郡垂井町)・赤坂(現岐阜県大垣市)に着くと、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に力を合わせようと遠篝を焚きました。これのみならず信濃の下宮(現長野県諏訪郡下諏訪町にある諏訪大社)も、神家・滋野・友野・上杉・仁科・禰津以下の軍勢を召し具して、同じ日に信濃を立ちました。伊予では土居・得能が、兵船七百余艘に取り乗って、海上より攻め上りました。東山道・北陸道・四国・九州の官軍どもも、皆己の国々を立ったので、路次の遠近により、五日三日の遅速はあるとも、後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢])の勢が近付くと、広まれば、八幡の寄せ手は皆退散するはずでしたが、今四五日を待たずして、主上(第九十七代後村上天皇)は八幡を落ちられました、国々の官軍も力を落とし果て、皆己が本国に引き返しました。これもただ天運の時至らず、神慮より事起こる故とは言いながら、ともすれば神慮に違う宮方の運のほどが推し量られました。


続く


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by santalab | 2017-06-10 08:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その4)

内侍所のひつをば、初め賜はつて持ちたりける人が田の中に捨てたりけるを、伯耆はうきの太郎左衛門長生ながなり、着たる鎧を脱ぎ捨てて、みづか荷担かたんしたりける。迹より追ふ敵ども、蒔き捨つる様に射ける矢なれば、御櫃のふたに当たる音、板屋を過ぐる村雨の如し。されども身には一筋ひとすぢも不立ければ、長生とかくかかくり付いて、賀名生あなふの御所へぞ参りける。多くの矢ども御櫃に当たりつれば、内侍所も矢や立たせ給ひたるらんと、浅ましくて御櫃を見進らせたれば、矢の跡は十三までありけるが、わづかに薄き桧木板ひのきいた射徹いとほす矢の一筋もなかりけるこそ不思議なれ。今度たばかりて京都を攻められん為に、先づ住吉・天王寺てんわうじへ行幸成りたりし時、児島三郎入道志純しじゆんも召されて参りたりけるを、「これが一大事なれば急ぎ東国・北国に下つて、新田義貞よしさだをひ・子どもに義兵を興こさせ、小山をやま・宇都宮以下、便宜びんぎの大名を語らひて、天下の大功を即時に致す様に、智謀をめぐらせ」とおほせ出だされければ、志純夜を日に継いで関東くわんとうへ下りたれば、東国の合戦早や事散じて、新田義興よしおき義治よしはるは河村のじやうに立て篭もり、武蔵のかみ義宗よしむね越後ゑちごの国にぞ居たりける。勅使東国・北国に行き向かうて、「君すでに大敵に囲まれさせ給ひて助けの兵、力疲れぬ。もし神竜しんりようして釣者てうしやの為に捕らはれさせ給ひなば、天下誰が為にか争はん」と、依義重可軽命習ひを申しければ、小山をやま五郎・宇都宮少将せうしやう入道も、「勅定ちよくぢやうに随ふなり」とて、東国静謐せいひつの計略を可運由約諾す。義興よしおき義治よしはるはなほ東国に止まりて将軍と戦ひ、新田武蔵のかみ義宗よしむね桃井もものゐ播磨の守直常ただつね・上杉民部の大輔・吉良三郎満貞みつさだ・石堂入道、東山とうせん・東海・北陸道ほくろくだうの勢を率し二手に成つて上洛しやうらくし、八幡の後攻ごづめを致して朝敵てうてきを千里の外に可退と、諸将の相図を定めて、勅使を先立ちてぞ上りける。




内侍所([三種の神器の一つである神鏡、八咫鏡やたのかがみ])の櫃は、最初に賜わって持っていた人が田の中に捨てたのを、伯耆太郎左衛門長生(名和長生)が、着ていた鎧を脱ぎ捨てて、自ら荷担しました。後を追う敵どもは、蒔き捨てるように矢を射たので、櫃の蓋に当たる音は、まるで板屋に降る村雨のようでした。けれども身には一筋も立ちませんでしたので、長生はなんとか逃れて、賀名生(現奈良県五條市)の御所にたどり着きました。多くの矢が櫃に当たったので、内侍所にも矢が立っているであろうと、嘆いて櫃を見ると、矢の跡は十三ありましたが、わずかに薄い桧木板を射通す矢は一筋もなかったのは不思議なことでした。今度謀略を廻らせて京都を攻めるために、まず住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)・天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に行幸された時、児島三郎入道志純も召されて参っていましたが、(第九十七代後村上天皇は)「今が一大事である急ぎ東国・北国に下って、新田義貞の甥・子どもに義兵を起こさせ、小山・宇都宮以下、便宜(親交)の大名を味方に付けて、天下の大功を即時に致すよう、智謀を廻らせ」と命じられたので、志純は夜を日に継いで関東に下りましたが、東国の合戦はすでに治まり、新田義興(新田義貞の次男)・義治(脇屋義治。新田義貞の弟、脇屋義助の子)は河村城(現神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もり、武蔵守義宗(新田義宗)は越後国にいました。勅使が東国・北国に向かって、「君(後村上天皇)が大敵に囲まれて守護の兵は、疲弊しています。神竜が魚に変じて釣者に捕らわれて、天下を誰のために争うというのですか」と、義を重んじ命を軽んじる道理を申せば、小山五郎・宇都宮少将入道(宇都宮公綱きんつな)も、「勅定に従いましょう」と、東国静謐の計略を廻らせることを約諾しました。義興・義治はなおも東国に止まって将軍(足利尊氏)と戦い、新田武蔵守義宗・桃井播磨守直常(桃井直常)・上杉民部大輔(上杉憲顕のりあき)・吉良三郎満貞(吉良満貞)・石塔入道(石塔義房よしふさ)は、東山道・東海道・北陸道の勢を率し二手になって上洛し、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢。援軍])に向かい朝敵を千里の外に退けるべしと、諸将の相図を定めて、勅使を先立てて京に上りました。


続く


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by santalab | 2017-06-09 07:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その3)

古津河こつかはの端を西に傍うて、御馬おんむまを早めらるるところに、備前の松田・備後の宮の入道がつはものども、二三百騎にて取り篭め奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁れ給ふべしとも不見けるが、天地神明の御加護もありけるにや、御鎧の袖・草摺くさずり二筋ふたすぢ当たりける矢も、かつて裏をぞ懸かざりける。法性寺左兵衛さひやうゑかみ、これまでもなほ離れまゐらせず、ただ一騎供奉したりけるが、迹より敵懸かれば引つ返して追ひ散らし、敵前をさへぎれば懸破て、主上しゆしやうを落とし進らせけるところに、いづくより来るとも不知御方の兵百騎計り、皆中黒の笠符かさじるし着けて、御馬の前後にさうらひけるが、近付く敵を右往左往うわうさわうに追ひ散らして、掻き消す様に失せにければ、主上は玉体無恙して東条へ落ちさせ給ひにけり。




木津川の川端を西に沿って、馬を早めるところに、備前の松田・備後の宮入道の兵どもが、二三百騎で取り囲みました。十方より射る矢はまるで雨が降るようでしたので、とても逃れることはできないと思われましたが、天地神明の加護があったか、鎧の袖・草摺([甲冑の胴の裾に垂れ、下半身を防御する部分])に二筋当たる矢も、裏を射通しませんでした。法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが?)は、これまでも(第九十七代後村上天皇の)側を離れず、ただ一騎供奉していましたが、後ろより敵が懸かれば引き返して追い散らし、敵が前を防げば駆け破って、主上(後村上天皇)を落とし参らせるところに、どこから来たとも知れず味方の兵が百騎ばかり、皆中黒(新田氏の紋)の笠符を付けて、馬の前後に付いて、近付く敵を右往左往に追い散らし、掻き消すようにいなくなったので、主上は玉体無事にして東条(現兵庫県加東市)へ落ちられました。


続く


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by santalab | 2017-06-08 08:03 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その2)

その中に宮一人討たれさせ給ひぬ。四条しでうの大納言隆資たかすけ円明院ゑんみやうゐん大納言・三条の中納言雅賢まさかたきやうも討たれ給ひぬ。主上しゆしやうは軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官がまゐらせたりける黄糸の鎧を召して、栗毛なる馬に召されたるを、一の宮弾正左衛門だんじやうざゑもん有種ありたね追ひ懸け進らせて、「可然大将とこそ見進らせ候ふ。きたなくも敵に被追立、一度も返させ給はぬ者かな」と呼ばはり懸けて、弓杖ゆんづえ三杖みつゑ許り近付きたりけるを、法性寺左兵衛さひやうゑかみきつとかへりみて、「にくひ奴ばらが云ふ様かな。いで己の手柄のほどを見せん」とて、馬より飛んで下り、四尺八寸の太刀を以つて、兜の鉢を破れ砕けよとぞ打たれたる。さしもしたたかなる一の宮、尻居しりゐにどうど打ち据ゑられて、目暮れ胆消えにければ、暫く心を静めんと、目を塞ぎて居たる間に、主上遥かに落ち延びさせ給ひにけり。




その中に宮が一人(第九十六代後醍醐天皇皇子、法仁ほふにん法親王?)討たれました。四条大納言隆資(四条隆資)・円明院大納言・三条中納言雅賢卿(三条雅賢)も討たれました。主上(第九十七代後村上天皇)は軍勢に紛れるために、山本判官が参らせた黄糸の鎧を召して、栗毛の馬に乗っておられましたが、一宮弾正左衛門有種が追いかけて、「しかるべき大将とお見受けする。卑怯にも敵に追い立てられて、一度も返さぬとはどういうことか」と叫んで、弓杖三杖ばかりに近付くところを、法性寺左兵衛督が振り返り見て、「憎むべき奴の言い様よ。わしの手柄のほどを見せてやるぞ」と言って、馬から飛んで下り、四尺八寸の太刀で、兜の鉢を破れ砕けよと打ち付けました。したたかな一宮も、尻居に打ち据えられて、目は暮れ胆は消えて、しばらく心を静めようと、目を塞ぐ間に、主上は遥かに落ち延びられました。


続く


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by santalab | 2017-06-06 08:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その1)

三月十五日より軍始まりて、すでに五十ごじふ余日に及べば、城中じやうちゆうには早や兵粮ひやうらうを尽くし、助けの兵を待つ方もなし。かくてはいかが可有と、云ひ囁くほどこそあれ。やがて人々の気色替はつて、ただ落ち支度の外はするわざもなし。去るほどにこれぞ宗との御用にも立ちぬべき伊勢の矢野の下野しもつけかみ・熊野の湯河ゆかは庄司しやうじ、東西の陣に幕を捨てて、両勢三百余騎降人かうにんに成つて出でにけり。城の案内敵に知れなば、落つるとも落ち得じ。さらば今夜主上しゆしやうを落としまゐらせよとて、五月十一日の夜半計りに、主上しゆしやうをばれう御馬おんむまに乗せ進らせて、前後につはものども打ち囲み、大和路やまとぢへ向かつて落ちさせ給へば、数万の御敵まへよぎり跡に付いて討ち留め進らせんとす。依義軽命官軍くわんぐんども、返し合はせては防ぎ、打ち破つては落とし進らするに、疵をかうむつて腹を切り、蹈み留まつて討ち死にする者三百人に及べり。




(正平七年(1352))三月十五日より軍が始まり、すでに五十余日に及んだので、城中ではすでに兵粮が尽きて、助けの兵も当てはありませんでした。どうすればよいものかと、囁き合いました。たちまち人々の気色は替わって、ただ落ち支度のほかは何もしませんでした。やがて主にご用に立つべき伊勢の矢野下野守・熊野の湯川庄司が、東西の陣に幕を捨てて、両勢三百余騎が降人となって城を出ました。城の案内が敵に知られれば、落ちようとしても落ちることは叶わぬ。ならば今夜主上(第九十七代後村上天皇)を落とし参らせよと、五月十一日の夜半ほどに、主上をば寮の馬に乗せ参らせて、前後に兵どもが打ち囲み、大和路へ向かって落ちようとするところに、数万の敵が前を遮り後に付いて討ち止めようとしました。義により命を軽んじる官軍どもは、返し合わせては防ぎ、打ち破って落とし参らせました、疵を被って腹を切り、踏み留まって討ち死にする者は三百人に及びました。


続く


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by santalab | 2017-06-05 07:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その13)

一陣破るれば残党まつたからじと見る処に、土岐・佐々木・山名・赤松が陣はすこしも動かず、鹿垣ししがききびしく結うて用心堅く見へたれば、夜討ちに可打様もなく、可打散便りもなかりけり。かくてはいつまでか可怺、和田にぎた・楠木を河内かはちの国へかへして、後攻ごづめをせさせよとて、彼ら両人を忍びて城より出だして、河内の国へぞ遣はされける。八幡にはこの後攻めを憑みて今や今やと待ち給ひける処に、これを我が大事と思ひ入れて引き立ちける和田五郎、にはかに病ひ出だして、無幾程も死にけり。楠木は父にも不似兄にも替はりて、心少し延びたる者なりければ、今日よ明日よと云ふ許りにて、主上しゆしやうの大敵に囲まれて御座あるを、如何がはせんとも心に不懸けるこそ方見うたてけれ。げうの子尭の如くならず、しゆんおとと舜に不似とは乍云、この楠木は正成が子なり。正行まさつらが弟なり。いつのほどにか親に替はり、兄にこれまで劣るらんと、そしらぬ人もなかりけり。




一陣を破って残党は一人も残らないと思われましたが、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)・山名(山名時氏ときうぢ)・赤松(赤松則祐のりすけ)の陣は少しも動かず、鹿垣([砦の周りに設けて防御用にした垣])を厳しく構えて守り堅く見えたので、夜討ちすることもできず、打ち散らす手立てもありませんでした。こうなってはいつまで堪えることができよう、和田(和田正隆まさたか)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)を河内国に返して、後詰め([敵の背後に回って攻めること。また、その軍勢])をさせよと、彼ら両人を密かに城から出して、河内国に発向させました。八幡ではこの後詰めを頼りにして今か今かと待つところに、これを我が大事と思い入れて引き連れた和田五郎(正隆)が、にわかに病いを患って、ほどなく死んでしまいました。楠木(正儀)は父(楠木正成)にも似ず兄(楠木正行まさつら。楠木正成の長男)とも違って、少しおっとりした者でしたので、今日よ明日よと言うばかりで、主上(第九十七代後村上天皇)が大敵に囲まれておられるのを、どうしようかと心配しませんでしたが嘆かわしいことでした。尭(中国神話に登場する君主)の子(丹朱)は尭のように立派でなく、舜(中国神話に登場する君主。堯の跡を継いだ)の弟は舜に似ずとはいいながら、この楠木(正儀)は正成の子でした。正行の弟でした。いつのほどに親と異なり、兄にこれまで劣るのかと、謗らぬ人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2017-06-04 08:51 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その12)

細河ほそかは陸奥のかみ・同じき相摸の守は、真木・葛葉くずはを打ちまはつて、八幡の西の尾崎をさき如法経塚によほふきやうづかの上に陣を取つて、堀一重を隔ててぞ攻めたりける。五月四日、官軍くわんぐん七千余騎が中より夜討ちに馴れたる兵八百人をすぐりて、法性寺左兵衛さひやうゑかみに付けらる。左兵衛の督昼ほどよりこの勢を我が陣へ集めて、笠符かさじるし一様いちやうに著けさせ、そと問はば、進むと名乗るべしと約束して、夜已に二三更にさんかうのほどなりければ、宿院しゆくゐんの後ろを廻つて如法経塚へ押し寄せ、八百人のつはものども、同音に鬨をどつと作る。細河が兵三千余人、暗さはくら分内ぶんないはなし、馬放れ人騒いで、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負ひ、討たるる者数を不知。遥かなる谷底へ人雪崩なだれをつかせて追ひ落とされければ、馬・物の具を捨てたる事、幾千万とも難知。




細川陸奥守(細川顕氏あきうぢ)・同じく相模守(細川清氏きようぢ)は、真木(現大阪府枚方市牧野)・葛葉(現大阪府枚方市樟葉)を打ち廻って、八幡(現京都府八幡市)の西の尾崎、如法経塚の上に陣を取って、堀一重を隔てて攻めました。五月四日に、官軍は七千余騎の中より夜討ちに馴れた兵八百人を選って、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)に付けました。左兵衛督は昼ほどよりこの勢を我が陣に集めて、笠符を一様に付けさせ、誰かと問えば、進むと名乗れと決めて、夜が二三更(午後十時頃?)ほどになると、宿院([寺の宿泊所。僧坊。また、宿坊])の後ろを廻って如法経塚へ押し寄せ、八百人の兵どもが、同音に鬨をどっと作りました。細川(顕氏)の兵三千余人は、暗くて敵味方も見分けが付かず、馬は放れ人は騒いで、太刀も抜かず、弓も引けずに、手負い、討たれる者は数知れませんでした。遥かなる谷底へ雪崩のように追い落とされて、捨てた馬・物の具([武具])は、幾千万とも知れませんでした。


続く


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by santalab | 2017-06-03 09:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田足利確執奏状の事(その1)

さるほどに足利宰相尊氏たかうぢきやうは、相摸次郎時行ときゆきを退治して、東国やがて静謐せいひつしぬれば、勅約の上はなんの子細か可有とて、いまだ宣旨をも不被下、押して足利征夷将軍とぞまうしける。東八箇国の官領くわんれいの事は、勅許ありし事なればとて、今度箱根・相摸川にて合戦の時、有忠ともがらに被行恩賞。先立さいだつて新田の一族ども拝領したる東国の所領どもを、悉く闕所けつしよに成して、給人きふにんをぞ被付ける。義貞よしさだ朝臣これを聞きて安からぬ事に被思ければ、その替はりに我が分国、越後・上野かうづけ・駿河・播磨などに足利の一族どもの知行ちぎやうの庄園を押さへて、家人けにんどもにぞ被行ける。これによつて新田・足利仲悪しく成つて、国々の確執無休時。




足利宰相尊氏卿(足利尊氏)は、相摸次郎時行(北条時行。鎌倉幕府第十四代執権北条高時たかときの次男)を退治して、東国はやがて静謐([静かで落ち着いていること])したので、勅約の上は何の問題があろうかと、宣旨もなしに、足利征夷将軍と名乗りました。東八箇国の官領([荘園])は、勅許がありましたので、今回の箱根・相摸川の合戦で、忠義の者たちに恩賞として与えました。先立ち新田(義貞よしさだ)の一族に拝領([目上の人から物をいただくこと])のあった東国の所領を、一つ残らず闕所([所有者・権利者を欠いた土地])にして、給人([幕府・主家から恩給としての所領を与えられた者])のものとしました。義貞朝臣(新田義貞)はこれを聞いて心穏やかでなく、その代わりとして、越後・上野・駿河・播磨などに足利一族が知行する荘園を押さえて、家人([家来])たちに与えました。これによって新田(義貞)・足利(高氏)は仲違いして、国々の確執([互いに自分の意見を強く主張して譲らないこと。また、そのために生じる不和])は休まることはありませんでした。



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by santalab | 2017-06-02 07:34 | 太平記 | Comments(0)

    

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