Santa Lab's Blog


カテゴリ:信長公記( 13 )



「信長公記」大田口合戦の事(その3)

八月十八日、信長公、江北面へ馬を出だされ、横山に至りて御着陣。 八月二十日の夜に、大風おびただしく吹き出で、横山の城塀・矢蔵吹き落とし侯へつる。 八月二十六日、小谷をだにと山本山の間、五十町にはこれを過ぐべからず、その間の郷、中島と云ふ所に、一夜御陣を据えさせられ、足軽仰せつけられ、余呉・木本まで悉く御放火なり。




八月十八日、信長公は、近江国北方面へ馬を進められ、横山城(現滋賀県長浜市にあった城)に着かれました。八月二十日の夜に、大風が激しく吹いて、横山城の城塀・矢蔵を吹き倒しました。 八月二十六日、小谷城(現滋賀県長浜市)と山本山城(現滋賀県長浜市)の間、五十町(約5km)を過ぎることはありませんでした。その間の郷、中島という所に、一夜陣を構えられ、足軽に命じて、余呉(現滋賀県長浜市余呉町)・木本(現滋賀県長浜市木ノ本町)まで一つ残らず火を放ちました(長島一向一揆)。


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by santalab | 2014-09-09 21:27 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」大田口合戦の事(その2)

五月十六日、在々所々放火侯ひて、罷り退き侯ふのところに、長島の一揆ども山々へ移る。右手は大河なり、左は山の下道、一騎打ち節所の道なり。弓鉄砲を先々へまはし、相支へ侯ふ。柴田修理見合せ、殿しんがり侯ふのところ、一揆ども昆と差し懸け、 散々相戦ひ、柴田薄手を被り、罷り退く。二番、氏家卜全ぼくぜん取り合ひ、一戦に及び、 卜全、その外、家臣数輩すはい討ち死に侯ひしなり。




五月十六日には、在々所々に火を放ち、戻ろうとするところに、長島一揆どもは山々へ隠れました。右手は大河(鍋田なべた川)、左は山の下道([山陰・森陰・花陰など、物の陰や下になって通じている道])、一騎打ちが困難な道でした。弓鉄砲隊を先に立てて、敵の攻撃を防ぎました。柴田修理亮(柴田勝家かついへ)が戦況を窺うために、殿([最後尾])にいましたが、一揆どもが大勢で攻めて来たので、散々に相戦い、柴田(勝家)は薄手を被り、引き退きました。二番、氏家卜全(氏家直元なほもと)が進み出て、一戦に及び、 卜全、そのほか、家臣数名が討ち死にしました。


続く


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by santalab | 2014-09-09 21:20 | 信長公記 | Comments(0)


信長公記

太田和泉これを綴る

巻首
尾張国上下分かちの事
小豆坂合戦の事

巻一
公方様御生害の事
一乗院殿、佐々木承禎・ 朝倉御頼み叶はざる事
信長御頼み御請けの事

巻二
関役所御免除の事
伊勢御参宮の事

巻四
元亀げんき辛未かのとひつじ
佐和山城渡し進上の事
箕蒲合戦の事
大田口合戦の事
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by santalab | 2014-09-09 21:18 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」大田口合戦の事(その1)

五月十二日、河内長島面へ三口より御手遣り。信長は津島まで御参陣。中筋口働きの衆、佐久間右衛門、浅井新八、山田三左衛門、長谷川丹波、和田新助、中島豊後。川西多芸山の根へ付けて、太田ロヘ働きの衆、柴田修理亮、市橋九郎左衛門、氏家卜全ぼくぜん、伊賀平左衛門、稲葉伊予、塚本小大膳、不破河内、丸毛まるも兵庫、 飯沼勘平。




五月十二日、河内長島(現三重県桑名郡長島町)面へ三方より手を差し向けました。信長は津島(現愛知県津島市)に陣を敷きました。中筋口の手の衆、佐久間右衛門(佐久間信盛のぶもり)、浅井新八(浅井政貞まささだ)、山田三左衛門(山田勝盛かつもり)、長谷川丹波守(長谷川与次よじ)、和田新助(和田定利さだとし)、中島豊後守。川西(揖斐いび川?木曽三川の一)多芸山(養老山。現岐阜県養老郡養老町・大垣市境にある山)のふもとを通り、太田ロ(現岐阜県美濃加茂市。中山道太田宿)の手の衆は、柴田修理亮(柴田勝家かついへ)、市橋九郎左衛門(市橋長勝ながかつ)、氏家卜全(氏家直元なほもと)、伊賀平左衛門(安藤定治さだはる)、稲葉伊予守(稲葉良通よしみち)、塚本小大膳(塚本重之しげゆき?)、不破河内守(不破光治みつはる)、丸毛兵庫頭(丸毛長照ながてる)、 飯沼勘平(飯沼長実ながざね)でした。


続く


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by santalab | 2014-09-09 21:15 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」箕蒲合戦の事

五月六日、浅井あざい備前、姉川まで罷り出で、横山へ差し向け、人数を備へ居陣侯ひて、先手足軽大将浅井七郎、五千ばかりにて、箕蒲みのうら面、堀・ 樋口居城近辺に相働き、在々所々放火候ふ。木下藤吉郎、横山に人数多大多大と申し告げ置き、百騎ばかり召し連れ、敵方へ見えざる様に、山裏を廻り、箕蒲へ懸け付け、 堀・ 樋口と一手となり、わづか五、六百には過ぐべからず。五千ぱかりの一揆に足軽を付けられ、下長沢にて取り合ひ、一戦に及ぶ。樋口が内の者・ 多羅尾相模守討ち死に侯ふ。この由、家来の土川平左衛門承り候て、懸け込み、討ち死に仕り候ふ。比類なき働きなり。一揆にて侯ふ間、終に追ひ崩し、数十人討ち捕る。また、下坂のさいかちと云ふ所にて、たまり合ひ、ここにてもしばらく相戦ひ、八幡下坂まで敗軍致し、浅井備前、 由なく人数打ち入り候ふなり。




五月六日、浅井備前守(浅井長政ながまさ)が、姉川(現滋賀県北部を流れる淀川水系の一)まで兵を進め、横山城(現滋賀県長浜市にあった城)に兵を差し向け、兵を集め陣を敷いて、先手足軽大将浅井七郎(浅井井規ゐのり)が、兵五千ばかりで、箕蒲面(現滋賀県米原市)、堀城(現滋賀県彦根市)・ 樋口の居城(樋口直房なほふさ?)近辺まで寄せて、在々所々に放火しました。木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、横山城に兵が大勢押し寄せたと言い置いて、百騎ばかり召し連れ、敵方に見つからないように、山裏を廻り、箕蒲へ駆け付け、 堀城・ 樋口(直房?)と一手となり、わずか五、六百には過ぎませんでした。五千ぱかりの一揆に足軽を付けて、下長沢(現滋賀県米原市 )で、一戦に及びました。樋口(直房?)の身内、多羅尾相模守が討ち死にしました。これを、家来の土川平左衛門が聞いて、敵に駆け入り、討ち死にしました。例のない忠義でした。一揆(武士集団)での討ち入りでしたが、終に追い崩し、数十人を討ち捕りました。また、下坂のさいかち(現滋賀県長浜市)という所でも、激突し、ここでもしばらく相戦いましたが、八幡下坂(現滋賀県長浜市。長浜八幡宮)まで敗軍し、浅井備前守(浅井長政)は、 仕方なく兵を引きました(姉川の戦い)。


続く


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by santalab | 2014-09-09 20:34 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」佐和山城渡し進上の事

二月二十四日、磯野丹波降参申し、佐和山の城渡し、進上して、高島へ罷り退く。すなはち、丹羽には五郎左衛門を城代として入れ置かれ候ひき。




元亀二年(1571)二月二十四日、磯野丹波守(磯野員昌かずまさ)が降参し、佐和山城(現滋賀県彦根市にあった城)を渡し、進上して、高島(現滋賀県高島市)に移りました。すぐに、丹羽長秀ながひでを城代として置かれました。


続く


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by santalab | 2014-09-09 19:57 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」伊勢御参宮の事

十月五日信長公山田に至つて御参宮。堤源介の所に御寄宿。六日に内宮・外宮・朝熊山に御参詣なさる。翌日御下向、小作御泊。八日上野に御陣を懸けられ、これより緒勢打ち納めらる。御茶筅ちやせん公、大河内おかはち城主として、津田掃部かもんを相添へ置かれ申され、安濃あのの津・ 渋見しぶみ・ 小作三箇所に滝川左近かせられ、上野には織田上野守を置き申され、御馬廻むままはりばかり京都へ御伴。その外、諸卒国々へ帰陣侯へと、御暇下さる。千草峠 を打ち越え、直ちに御上洛。九日に千草まで御出で、その日雪降り、山中大雪に 侯ふ事。十日江州市原に御泊。十一日御上京、勢州表一国平均に仰せ付けられたる様体、公方様へ仰せ上げられ、四、五日御在洛にて、天下の儀仰せ聞かる。


十月十七日 濃州岐阜に至りて御帰陣、珍重珍重。




十月五日信長公は山田(現三重県伊勢市)に参り参宮されました。堤源介の所に寄宿されました。六日に内宮・ 外宮・朝熊山(金剛證こんがうしよう寺)に参詣なさいました。翌日下向、小作(現三重県津市にあった木造こつくり城)にお泊まりになりました。八日伊勢上野城(現三重県伊勢市)に陣を敷き、ここで諸勢を解きました。茶筅公(織田信雄のぶかつ。信長の次男)を、大河内城主(現三重県松阪市にあった城)として、津田掃部(織田忠寛ただひろ)を付けて、安濃津城(現三重県津市)・ 渋見(現三重県津市)・ 小作(木造城)三箇所に滝川左近(滝川一益いちます)を置き、伊勢上野城には織田上野守(織田信包のぶかね。信長の弟)を置き、馬廻([騎馬の武士])ばかり京都へお伴させました。そのほかの、諸卒は国々へ帰陣せよと、暇を下されました。信長公は千草峠(伊勢と近江を結ぶ千草街道にあった峠。現滋賀県東近江市)を打ち越え、ただちに上洛されました。九日に千草(三重県三重郡菰野こもの町)まで進まれましたが、その日は雪が降り、山中は大雪でした。十日近江国市原城(現滋賀県甲賀市にあった城)にお泊になりました。十一日に上京、伊勢国中に命じられた内容を、公方様(足利義昭よしあき。室町幕府第十五代将軍)へ申し上げられました、四、五日京におられて、天下の政を拝聴になられました。


十月十七日美濃国岐阜城(現岐阜県岐阜市)に帰陣されました、よろこばしいことでございました。


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by santalab | 2014-09-08 12:22 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」関役所御免除の事

しかる間、田丸の城を初めとして、国中城々破却の御奉行、万方へ仰せ付けらる。その上、当国の諸関、取り分け往還の旅人の悩みたる間、末代に於いて御免除の上、 向後関銭召し置かるべからざるの旨、堅く仰せ付けらる。




その後、田丸城(三重県度会わたらひ玉城たまき町にあった城)をはじめ、国中の城を破壊するよう、方々へ命じられました。それに加え、当国(伊勢国)の諸関は、とりわけ往還の旅人の煩いとなっておりましたので、末代まで免除の上、 今後関銭所を置かないよう、強く命じられました。


続く


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by santalab | 2014-09-08 12:15 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」信長御頼み御請けの事

この上は、織田上総介信長をひとへに頼み入られたきの趣き、仰せ出だされ、すでに国を隔て、その上、信長沽弱の士なりといへども、天下の忠功を致さんと欲せられ、一命を軽んじ御請なさる。永禄えいろく十一年七月二十五日、越前へ御迎へのため、和田伊賀かみ、 不破河内守、村井民部、島田所之助を進上なさる。濃州西庄立政りふしやう寺に至りて公方様御成り、末席に鳥目千貫積ませられ、御太刀・御鎧・武具・御馬色々進上申され、その外、諸侯の御衆、これまた、御馳走なのめならず。この上は、片時も御入洛御急ぎあるべしと、思し召さる。




この上は、織田上総介信長(織田信長)をひたすら頼るほかないと、申されたので、国は遠く、その上、信長は弱小の武士でしたが、天下の忠功を致そうと思い、命を軽んじて受けることにしました。永禄十一年(1568)七月二十五日に、信長は足利義昭よしあきを越前までお迎えに、和田伊賀守(和田惟政これまさ)、 不破河内守(不破光治みつはる)、村井民部(村井貞勝さだかつ)、島田所之助(島田秀満ひでみつ)をさし向かわせました。美濃国西庄の立政寺(現岐阜県岐阜市にある寺)に参り公方様(足利義昭)がお出になられました、末席に鳥目([銭])千貫積んで、太刀・鎧・武具・馬色々と進上されて、そのほか、諸侯の衆、これもまた、盛大に馳走されました。信長が同心の上は、片時も入洛を急ぐべきと、思われたのでございました。


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by santalab | 2014-09-08 08:52 | 信長公記 | Comments(0)


「信長公記」一乗院殿、佐々木承禎・ 朝倉御頼み叶はざる事

しかるに次男御舎弟南都一乗院義昭よしあき、当寺御相続の間、御身に対し、いささか以つて野心御座なきの旨、三好修理大夫・松永弾正方より宥め申され侯ふ。もつともの由仰せられ侯ひて、しばらく御在寺なさる。ある時、南都を潜かに出御ありて、和田伊賀守を御頼みなされ、伊賀、甲賀路を経て、江州矢島の郷へ御座を移され、佐々木左京大夫承禎しようていを頼み思し召すの旨、種々様々上意侯ふといへども、すでに主従の恩顧を、忘れ、同心あたはず、結局、雑説を申し出だし、情けなく追ひ出だし申すの間、頼む木本に雨漏れ、 甲斐なく、また、越前へ下向なされをはんぬ。朝倉の事、元来、その者にあらずといへども、 かの父上意を掠め、御相伴の次に任じ、我が国に於いて我意に振舞ひ、御帰洛の事、中々詞に出だされざるの間、これまた、公方様御料簡なし。




こうして(室町幕府第十二代将軍、足利義晴よしはるの)次男で第十三代将軍足利義輝よしてるの弟南都一乗院義昭(足利義昭)は、当寺(一条院。現奈良県奈良市の興福寺にあった塔頭の一)を相続されておられましたが、自身が、わずかも野心を持っておられぬことを、三好修理大夫(三好長慶ながよし)・松永弾正(松永久秀ひさひで)方に申されました。理路整然に申されて、しばらく一条院におられました。ある時、南都(奈良)を潜かに出られて、和田伊賀守(和田惟政これまさ)を頼られて、伊賀、甲賀路を経て、近江国矢島郷(現滋賀県野洲市)へ移られて、佐々木左京大夫承禎(六角義賢よしかた)を頼りたいと、種々様々上意([上意下達じやういかたつ]=[上位の者や上層部の命令・意向を、下に伝えること])されましたが、すでに主従の恩顧を、忘れ、同心せず、結局、雑説([とりとめのない噂])を申して、情けなく追い出されて、頼む木本に雨漏れ、 仕方なく、また、越前へ下向なさいました。朝倉(朝倉義景よしかげ)は、元来、主だった大名ではありませんでしたが、朝倉義景の父(朝倉孝景たかかげ)が上意を窺い、相伴衆([将軍が殿中における宴席や他家訪問の際に随従・相伴する人々])の次席に任じられ、我が国においては意のままに振る舞っておりましたが、帰洛のことを、勧めることもありませんでしたので、これもまた、公方様(足利義昭)は頼りにならないと思われました。


続く


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by santalab | 2014-09-08 08:45 | 信長公記 | Comments(0)

    

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