Santa Lab's Blog


カテゴリ:狭衣物語( 14 )



「狭衣物語」巻一(その13)

四月うづきも過ぎぬ。五月さつき四日にもなりぬ。夕つ方、中将の君、内裏うちより罷で給ふに、道すがら見給へば、菖蒲あやめ引き下げぬしづもなく、行き違ひつつ、もて扱ふ様ども、「げに、いかばかり深かりける、十市とをちの里の小泥こひぢなるらん」と見ゆる、足元どもの由々しげなるが、いとおほく持ちたるも、「いかに苦しかるらん」と、目留まり給ひて、

浮き沈み ねのみながるる あやめ草 かかるこひぢと 人も知らぬに

とぞ思さるる。玉のうてな軒端のきばに掛けて見給へば、おかしくのみこそあるを、御車のさきに、顔なども見えぬまで、うづもれて、行き遣らぬを、御隋身みずいじんどもおどろおどろしく、声々こゑごゑひ留むれば、身のならんやうも知らずかがまりたるを、見給ひて、「さばかり苦しげなるを、かくな言ひぞ」とのたまへば、「慣らひにてさふらへば、さばかりの者は何か苦しう候はん」とまうす。「心憂くも、言ふものかな」と、聞き給ふ。




四月も過ぎました。五月四日になりました。夕方、中将の君【狭衣】は、内裏を出ました、道すがら眺めると、菖蒲を抱え持たない賎の男は一人もいませんでした、行き違いつつ、大変そうに見て、「まこと、どれほど深く入って取ったものであろうか、十市の里(現奈良県橿原市十市とほいち町。「遠」に掛かる)の小泥であろう」と見る、足元はすっかり泥にまみれて、たくさんの菖蒲を持つ姿に、「どれほどつらいことだろう」と、思わず目を留めて、

あやめ草のように、浮き沈みながら涙を流すばかり。わたしがこれほどまでに恋に苦しんでいることを、人は知らないが。

と思うのでした。玉の台([美しくりっぱな御殿])の軒端に掛かる菖蒲は、風流なものですが、車の前の、顔も見えぬほど、菖蒲を抱えて、歩くもままならぬ男を、隋身([近衛府の大将・中将・少将や、衛府・兵衛の長官や次官などに付き従い、その警護する者])が、厳しく、声を上げて、追い払うと、身を投げ捨てるように土下座するのを、見て、「菖蒲をかかえて難儀しておるではないか、罵るでない」と申せば、「世の常のことでございます、こやつどもは当たり前のことと思っております」と答えました。狭衣は「悲しいことを、言うものよ」と、聞きました。


[PR]
by santalab | 2015-10-02 08:57 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その12)

いとかく、遣る方なき御心のうちを、よに忍び過ぐし給へければ、晴れ晴れしからぬ御気色を、「ただ、人の御癖にこそは」と、飽かぬことに、たれも思い染み奉り給へど、「忍ぶ捩摺もぢずり」なんめり。太政大臣おほきおとどの御方こそ、いかにもいかにも、かやうの人のおはせねば、いとつれづれに思さるるままに、「さるべからん人の娘もがな。あづかりてかしづき立てんは」とさへ、明け暮れ、うらやませ給ふ。源氏の宮の御かたち、「かく世に勝れ給へり」と、名高く聞こし召して、春宮には、いみじう、ゆかしがり聞こえさせ給へれば、「げにさこそはつゐの事 ならめ」と、誰も思したり。内のうへも、昔の御遺言思し忘れず、あはれに思されて、今までよそよそにて、見奉らせ給はぬ、いとおぼつかなく本意ほいなう思し召されて、さすがについでなくては、御対面もなきを、「同じくは、おぼつかなからず、見奉らんな」と、内裏住うちずみさせ奉らまほしげにのみのたまはすれば、「いかにも、今少し、御盛りのほどをこそ誰にも見せ奉らめ」と、思しのたまはせつつ、おぼろげならで、いと思しをきてたる御有様なんめり。




こうして、やるせない心の内を、忍んで日々を過ごしていましたが、悲しみに沈む姿を、「これも、性格なのだろう」と、常々、誰かれも思っていました、狭衣にとっては「忍ぶ捩摺」(『みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに』=『陸奥の信夫文知摺=もじれ乱れた模様のある 石に布をあてがい、その上から忍草などの葉や茎の色素を摺り付けたもの。のように乱れるのは、いったい誰のせい。わたしのせいではなくすべてあなたのせいです』。『古今和歌集』)の思いなのでした。太政大臣の方(堀川大臣の北の方の一)には、一人も、子がいませんでしたので、常々、「相応の人の娘がいないものか。預かり受けてかわいがってひとかどの娘にしたい」とさえ、明け暮れ思い、うらやましく思っていました。源氏の宮の姿かたちが、「世に優れている」との、噂を聞き付けて、春宮が、たいそう、気を惹かれておられると聞いて、「きっと春宮に参られるもの」と、誰しもが思っていました。内の上(今上天皇)もまた、故院【一条院】の遺言を忘れず、源氏の宮をかわいそうに思われておられました、今まで関わることなく、面倒を見ることもございませんでしたが、とても心配されて本心に適わぬものと思われておりました、さすがに機会もなく、対面することもありませんでしたが、「できれば、本意通り、世話をしたいものだ」と、申されて、内裏住み([入内])を望まれておりました、「どうか、近いうちに、入内させるように」と、帝は、並々ならず、申し置かれました。


続く


[PR]
by santalab | 2015-09-29 08:11 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その11)

十四五にならせ給ふ御かたちの、ほの見奉りけん人は、いかならん武士もののふなりとも、やはらぐ心は必ず付きぬべきを、中将の御心持ちはことわりぞかし。我も、幼うおはせし時は、片方かたえに、「かくのみ幼き者はめでたきもの」とのみ、思し習ひたるを、やうやう物の心知り習ひ給ふままに、「この御様ならん人を見ばや。さらんこそ生ける甲斐かひなかるべけれ」と、思し染みにければ、かくいとすさまじき御心ながらも、おのづから心憎きあたりあたりを、「いかにせんいかにせん」とのみ、物嘆かしくなり給ひて、かやうの「よそかの中宮のすけの隠れ蓑」も、うらやましうなり給ひて、人知れず、一渡りづつ案内し給はぬ渡りはなきにや、少しうちなずらひに思さるるもなきに、人知れぬ物思ひは、遣る方なく増さり給ひて、「『吉野の滝』とやつゐに」とのみ、立ちおほせらるるこそわりなかりけれ。




源氏の宮が十四五になられてその姿かたちを、わずかに見た人は、たとえ厳しい武士であろうと、心が和むほどでしたので、中将【狭衣】が恋しく思うのも道理でした。狭衣も幼い頃は、心の片隅で、「幼い女は美しいもの」とばかり、思っていましたが、物心付くようになるにつれ、「何としても源氏の宮のような女を妻にしなくては。そうでなければ男に生まれた甲斐がない」と、思うようになりました、心は穏やかではありませんでしたが、源氏の宮に想いを寄せて、「どうすればよいものか」と、悲しみました、かの「よそかの中宮亮の隠れ蓑」(『隠蓑』という物語らしいが)さえも、うらやましく思いながらも、人知れず、女を一目ずつ見歩きたいと、世の男たちのように思うことはなく、人知れず悲しみは、慰めようもなく増さり、「『吉野の滝』(『み吉野の 吉野の滝に 浮かびいづる 泡をかたまの 消ゆと見つらむ』=『吉野の滝に浮かんでは消えるはかない泡のように、珠=魂。も消えてしまうようだ』)」と、狭衣は折に付けつぶやいてやりきれない様子でした。


続く


[PR]
by santalab | 2015-09-28 23:30 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その10)

源氏の宮とまうすは、故先帝せんだいの御すゑの世に、中納言の御息所の御腹に、たぐひなく美しき女宮のまれ給へりしを、末にならせ給へるに、今さらのほだしを心苦しく思ししほどに、つにならせ給ひし年、院も、御息所も、うち続き隠れ給ひしかば、いと心苦しうて、この斎宮の、やがて迎へ取り聞こえさせ給ひて、中将の御同じ心に思ひかしづき給ふ。殿も、中宮の御事よりは、今少し心苦しう、やんごとなき事を添へて、思ひ奉り給へり。




源氏の宮と申すのは、故先帝の世の末頃、中納言の御息所([天皇の寝所に侍する宮女])の腹に、ためしのないほど美しい女宮が生まれました、先帝の世も末となりましたが、今さらに位を下りられる絆([人情にひかされて物事を行う妨げとなるもの])と心苦しく思われておられました、源氏の宮が三歳の時に、院【一条院】も、御息所も、続いてお隠れになられたので、気の毒に思われて、前斎宮が、やがて迎え取られて、中将【狭衣】と同じく我が子としてかわいがられました。殿【堀川大臣】も、中宮よりも、さらに気にかけて、大切にされて、養われました。


続く


[PR]
by santalab | 2015-09-28 21:32 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その9)

御手などは、いにしへの名高かりける人の跡は、千歳をれど変はらぬに、合はせ給ふ人々、朝廷おほやけを始め奉りて、「時世に従ふにや、なつかしく今めかしく見所あるすぢは、殊の外に勝り給へり」と、定められ給へり。また、琴・笛の音に付けても雲井を響かし、この世のほかまで澄み昇りて、天地あめつちを動かし、人の心も驚かし給ふべければ、いと余り由々しう親たちも思して、おさおさ、せ奉り給はねば、それも心に留めて、何事もし給はずなどあれば、「よろづに無心に、物すさまじき様にや」とぞ、し量られ給へれど、はかなき御言の葉、気色などより始め、物うちずんじ、催馬楽謡ひ、きやうなど読み給へるは、聞かまほしき愛嬌あいぎやう付き、恥づかしうなつかしき御有様などは、うち見奉るより、身の憂へも忘れ、思ふ事なき心地して、うち笑まれ、命延ぶる心地ぞし給ひける。万めづらしくめでたき御有様なり。かくのみ世の中に言ひでられ給ふを、大殿おとど・母宮などは、いと余り由々しく、あやゆきものに、思ひ聞こえさせ給へり。




狭衣の筆跡は、昔の名高い書家の文字と、千年を経て変わることなく美しく、比べ合わせる人々は、朝廷にも申し上げて、「時世([時代])に相応するのか、なつかしくも今風の素晴らしい文字は、古の書家以上に素晴らしいものです」と、評価していました。また、琴・笛についても天まで響き、この世の外まで澄み渡り、天地を轟かせ、人の心も驚かすほどでしたので、あまりに過ぎた才能だと親たちは思い、めったに、披露させませんでした、狭衣も意に沿って、自ら進んでなすことがなかったので、「何事も興味がないように振る舞って、大人しくしているのだ」と、思えました、けれどもちょっとした言葉の、趣きをはじめ、歌を読み、催馬楽([平安時代に隆盛した古代歌謡。元来存在した各地の民謡・風俗 歌に外来楽器の伴奏を加えた形式の歌謡])を謡い、経を読む声は、ぜひ聞いてみたいと思うほどに惹き付けるものがありました、人目を憚る健気な姿を、両親が見る毎に、狭衣は我が身の悲しみも忘れ、満足して、うれしくなって、命長らえるような気がするのでした。狭衣は何事においても不思議に思えるほどに優れていました。こうして狭衣が世の中の人々に賞賛されるのを、大殿【堀川大臣】・母宮【前斎宮】は、狭衣があまりにも優れていたので、かえって何か恐ろしいこともあろうかと、心配していました。


続く


[PR]
by santalab | 2015-01-12 07:47 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その8)

さこそ、思し離れたれど、なほ、この悪世あくせまれ給ひにければにや、ただ、引き寄せ給ふ道の便りにも、ただ、少し故付きたる、山賤やまがつの柴のいほりは、おのづから目留め給はぬにしもあるまじ。ましてすみれ摘みには、野をなつかしみ、旅寝し給ふあたりもあるべし。梵網経ぼんまうきやうにかや、「一見於女人」と、のたまへる事、思ひ出づれば、御車の簾うち下ろし給へど、側の、広う開きたるをば、えて給はざるべし。さだにいかでかはおはせざるべき。をとこと言ふものは、怪しきだに、身のほど知らず、あらぬ思ひを作るものとかや。光り輝き給ふ御かたちをばさる物にて、心ばへ、まことしき御ざえなどは、高麗こま唐土もろこしにもたぐひなき様にぞ、思ひ聞こえためる。




とはいえ、狭衣の女に対する興味はさほどではありませんでした、けれども、この悪世([仏法の衰えた時代。末世])に生まれた因果なのでしょうか、何とはなしに、牛車を引かせる道中で、何かしら、趣きのある、山賤([身分の賎しい者])の柴の庵([粗末な住まい])を見れば、自然と美しい女がいるのではないかと興味を覚えるのでした。まして、菫摘み(古代、スミレは染料に用いられたほか葉や根は食用、薬用にも供され春になると人々はこぞって菫摘みにいそしんだらしい)に出かけた折には、野をなつかしみ、旅寝することもありました。梵網経([菩薩戒経とも。大乗経典の一])にでしたか、「一見於女人」(『一見於女人能失眼功徳』=『一目女を見ればたちまち功徳を失う』)と、書かれていることを、思い出して、車の簾を下ろすものの、そばに、広く開いた窓を、閉じることはありませんでした。狭衣も女嫌いという訳ではありませんでした。男というものは、不思議なもので、身のほども弁えず、身のほども知らぬ恋をするものとか。狭衣の光り輝くほどの姿かたちは他の男に秀でていましたが、まして心持ち、優れた才能は、高麗([高句麗=朝鮮])・唐土([中国])にも例のないように、思われました。


続く


[PR]
by santalab | 2015-01-12 07:39 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その7)

稀々まれまれくだりも書きすさみさせ給へる水莖みづぐきの跡をば、めづらしくき難きものに思ふ人おほく、なほざりの行く手の一言葉も、「をかしくいみじ」と、心を尽くし、まいて、近きほどの気配けはひなどをば、千夜ちよを一夜になさまほしく、鳥の音つらき暁の別れに消えかへり、入りぬる磯の嘆きを、暇なく心をのみ尽くす人々、高きも賎しきも、様々、いかでかおのづなからん。それに付けても、いとど、恨みどころなく、すさまじさのみ増さり給ふべかめれど、いと並べてならぬあたりには、なだらかに情け情けしくもてなし給ひて、折に付けたる花・紅葉もみぢ・霜・雪・雨・風に付けても、あはれ増さりぬべき夕暮れ、「暁のしぎの羽風」に付けても、思ひかけず、いづれにも音連れ給ふ事は、蜻蛉かげろふに劣らぬ折々をりをりもあるに、中々、稲淵いなぶちの滝にもさはぎ勝りて、磯の磯振りにもなり給ふめり。




たまたまただ一行でさえ狭衣が書いた文を、大切にせずはいられない女も多く、ほんの一言の言葉さえも、「わたしに気があるのでは」と、恋い焦がれて、ましてや、狭衣の気配を身近く感じる夜を過ごした折には、その一時が千夜ほどであればと願いつつ、鳥の音が鳴くつらい暁の別れの時はたちまち、入りぬる磯(満潮で瀬がない=逢瀬がない。『潮満てば 入りぬる磯の 草なれや 見らく少なく 恋ふらくの多き』=『潮が満ちれば海に沈んでしまう磯の草のよう。逢っていられるのは時の間で、後は恋しく思うばかりです』。『拾遺和歌集』)の嘆きが、尽きない女たちは、身分の高い者そうでない者も、様々に、心穏やかではいられませんでした。狭衣のそのような性格を、だからといって、恨むこともできず、悲しみばかりが募りましたが、並々でない女に対しては、相応に愛情深くもてなして、季節折々の花・紅葉・霜・雪・雨・風につけても、涙を誘う夕暮れに、「暁の鴫の羽風」(「暁の鴫の羽掻き」?『暁の 鴫の羽掻き 百羽掻き 君が来ぬ夜は 我ぞ数掻く』=『暁に鴫が何度も羽掻き=鳥がくちばしで自分の羽をしごくこと。するように、あなたが通ってこない夜は、私は通わぬ夜の数をかぞえて悲しむばかり』。『古今和歌集』)の嘆きに、思いかけず、方々へ訪ねては、蜻蛉([トンボ])のように行き交うこともありました、女たちのときめきは、稲淵の滝(現奈良県高市郡明日香村稲淵を流れる稲淵川。飛鳥川の上流 )にもまして、磯の磯振り([磯に打ち寄せる荒波])を覚えるのでした。


続く


[PR]
by santalab | 2015-01-12 07:28 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その6)

大人をとなび給へるままには、あまり苦しう、憂きは、頼まれぬべき心地のみして、思さるる折々をりをりもあるべし。世の中の人も、うち見奉るは、怪しうこの世のものとも思ひ聞こえ給はず、「これや、この世のすゑのためにあらはれさせ給へる、第十六の釈迦牟尼仏さかむにほとけ」とて、手を擦り涙をこぼすおほかり。我が身の憂へも、思ふ事なき心地すれば、ましてことわり、親たちの心ざしには、言ひ知らず、あるまじき事をし出で給ふとも、この御心には少し苦しく思されん事は、露ばかりにてもたがへ給ふべくもなけれど、世のをとこのやうに、押し並べて、濫りがはしく淡々あはあはしき御心ばえぞ、なかりける。夢ばかりもあはれを掛け給はん「蔭の小草」などをも、思し心に思し放つべくもなかりけれど、いかなりけるにか、この世は、仮初めに、「世皆不牢固ふらうこ」とのみ、思さるるは、げに、世の人の、言種ことぐさに、思ひ聞こえさせたるやうに、仏の現れさせ給へるにや。人よりは、物すさまじげに、口惜くちをしき方に思ひ聞こえさせたる人もあるべし。




大人びるにつれ、狭衣は心苦しく、悲しくて、世の中をむなしく、思うことが増さるようになりました。世の中の人は、狭衣を見ては、不思議がりこの世のものとも思えず、「かれは、世末に現れた、第十六(『法華経』の「如来寿量品第十六」)に登場する釈迦牟尼仏(釈迦)だ」と言って、手を擦り涙をこぼす者が多くいました。狭衣は我が身の悲しみも、面に出せないような気がして、ましてや道理とはいえ、両親たちの愛情は、言葉にできないほどでしたので、源氏の宮への想いを知られたなら、きっとつらく思われることは、間違いのないことに思えました、けれど世の男のように、一言で申せば、浮ついた気持ちを持つことは、ありませんでした。たとえ夢ばかりに悲しみを寄せて「蔭の小草」(『み山木の 陰の小草は 我なれや 露しげけれど 知る人もなき』=『山の木陰の小草のように人目にも付かず悲しむわたしです。涙はとめどなく流していることを、誰も知らないのだから』。『新勅撰和歌集』)と、思い悩んで想いを消すことはできませんでした、どうしてなのか、この世は、仮の住まいで、「世皆不牢固」(『妙法蓮華経』の「隨喜功徳品第十八」にある文。「世の中に不常のものはなく、はかないものである」)と、思うほかありませんでした、まこと、世の人が、噂にして、言うように、仏の化身のようでした。他人に似ず、女に情けをかけることがなかったので、残念に思う女もいました。


続く


[PR]
by santalab | 2015-01-12 07:21 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その5)

かかる御中にも、斎宮をば、親様に、あづかり聞こえ給ひしかば、やんごとなき忝き方には、心ばへより始めて勝れ給へるにしも、かく世にあり難きこの世のものとも見え給はぬをとこ君さへ、ただ一人物し給へるを、いかでかは、世の常に思ひ聞こえさせ給はん。数多あまたにてだに、この御有様をば、「親たちも、いかでか、優れて思さざらん」と見え給ふ。この頃、御年二十にていまだ二つ三つ足り給はで、二位の中将とぞ聞こえさすめる。並べての人は、かばかりにては中納言にもなり給ふめるは。されど、この御有様の、よろづこの世の人とも見え給はず、いと由々しきに思し怖ぢて、御くらゐをだに、「あまりまだしきに」と、ちごのやうなるものに、思し聞こえさせ給ひたるを、押し並べての殿上人のやうに、交じらひ給はん心苦しさに、うゑの、なさせ給へるばし。母宮などは、「天人などの、初めて天降り給ひたるや」と、いとをそろしく、仮初めにのみ思ひ聞こえさせ給ひて、御交じらひなども、後ろめたう思ひ聞こえさせ給へど、「さのみはいかが」とて、交じらひ給ふにも、目を付け、心を添へ奉り給ふ様など、御心のいとまなげなり。雨風の荒きにも、月の光のさやかなるにも、当たり給ふをば、忌々いまいましく由々しうぞ、思ひ聞こえさせ給へる。




中でも、この斎宮は、親代わりのようにして、先帝から譲り受けたものでしたので、たいそう大切にされて、他の北の方にもまして寵愛されて、この世のものとも思えぬ男君が、一人生まれましたので、それはもう、とりわけかわいがりました。堀川大臣には子が数多くありましたが、この子の美しさは、「親でさえ、どうして、他に優ると思わないはずがない」と思えるほどでした。その頃、この子【狭衣】は二十歳に二つ三つ足りないほどで、二位の中将でした。同じほどの人は、その年ですでに中納言になっていました。けれども、狭衣の美しい姿かたちは、まるで世の人とも思えないほどに、あまりに優れていたので両親は畏れ多く思い、二位中将の位さえも、「まだ幼いので」と、年端もいかないと、申し上げましたが、並みの殿上人として、人と交じらわせることを気の毒に思われて、帝は、位に就けられたのでした。母宮【前斎宮】は、「天人が、天降ったのではないか」と、畏れ多く思い、この世にあるのも一時のことではないかと思い、人との交じらいさえ、後ろめたく思っていましたが、「帝がお決めになられたことなれば」と、人と交じらわせながらも、常に目を留め、気にかけて、心の休む間もありませんでした。雨風の激しい日も、月の光の美しい夜も、狭衣の姿は、畏れ多いほどに優って、見えました。


続く


[PR]
by santalab | 2015-01-11 20:56 | 狭衣物語 | Comments(0)


「狭衣物語」巻一(その4)

この頃、堀川の大殿おとどと聞こえさせて、関白し給ふは、一条のゐん当帝たうだいなどの、一つ后腹きさいばらの五の御子みこぞかし。母后ははきさいも、うち続き帝の御すぢにて、何方いづかたに付けても、押し並べての大臣おとどと聞こえさするも忝けれど、何の罪にか、徒人ただうどになり給ひにければ、故院の御遺言のままに、帝、ただこの御心に世を任せ聞こえさせ給ひて、おほやけわたくしの御有様めでたし。二条堀川のわたりを四町き込めて、心々に隔てつつ、造り磨かせ給へる玉のうてなに、北の方三人をぞ住ませ奉る。堀川二まちには、御所縁離れず、故先帝せんだいの御妹、さきの斎宮おはします。洞院とうゐんには、ただ今の太政大臣おほきおとどの御娘、一条のきさいの宮の御おとと、春宮の御叔母、代々よよの御覚え、内々の御有様も、華やかにいとめでたし。坊門ばうもんには、式部卿の宮と聞こえし御娘ぞ、中には、我が御もてなしよりほかには心苦しかるべけれど、女君の、世に知らずめでたき、一人生み奉り給へりけるを、内に参らせて、ただ今の中宮と聞こえさせ給ふ。今上きんじやうの一の宮さへまれさせ給ひて、いきほひ中々勝れてめでたく、行くすへまで頼もしき御有様なり。築地ついぢ一重ひとへを隔てつつ、うち通ひてぞ、殿は見奉り給ふ。




その頃、堀川大臣と申されて、関白であられたのは、一条院・当帝(今上天皇)と、同じ后の第五皇子でした。母后も、代々天皇の血筋でしたので、何にとりましても、並みの大臣と呼ばれるのも畏れ多いことでしたが、何の罪あってか、徒人になられて(臣籍降下)、故院(一条院)の遺言通り、今上天皇は、ただこの堀川大臣の思うままに世を任せられたので、堀川大臣は公私ともに栄えられました。二条堀川(現京都市中京区)あたりに四町の大殿を構え、それぞれ別々の、厳しく造った玉の台([りっぱな御殿])に、北の方三人を住まわせていました。堀川二町には、所縁ある、故先帝の妹と、前斎宮([伊勢神宮に奉仕した皇女また女王。伊勢大神宮斎王いつきのみこ])が住んでおられました。洞院([仙洞]=[院御所])には、今の太政大臣の娘、一条院の后宮の妹、春宮の叔母が住んでいました、誰かれも代々天皇に大切にされて、内々の暮らしぶりも、たいそう華やかでした。坊門(門近く)には、式部卿の宮と呼ばれる人の娘が住んでいました、大殿では、三人の北の方ほど優遇されておらず心苦しいことでしたが、女君で、世にないほど美しい娘が、一人生まれて、内裏に参らせました、今の中宮でございます。この中宮に今上天皇の第一皇子が生まれて、たいそう栄えられて、行く末までも頼もしい限りでした。堀川大臣は築地([土塀])一重を隔てて住んでおりましたが、それぞれの許に通われて、世話をされていました。


続く


[PR]
by santalab | 2015-01-11 20:50 | 狭衣物語 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
返歌 草枕…に因んで短歌..
by 井上勇 at 23:54
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧