Santa Lab's Blog


カテゴリ:明徳記( 8 )



「明徳記」巻第中(その3)

塩冶えんや駿河守馳せ向かつて申しけるは、そもそもこれほどの大儀を御企てありて、定められたる相図ども、相違するほどは、いづくに御渡りありけるぞと、荒らかに申しければ、満幸みつゆきのたまひけるは、「されぼこそ運すでに尽きぬと思ゆるなり。その故は、夜半計りに陣を立つて、木の葉を分くる山路の、幽かなる跡を尋ねつつ、馬に任せて打つほどに、東の谷へ下るると思ひたれば、南へ向けて打ち行き、河島辺を打ち過ぎて、丹波口へ出でたれば、夜はほのぼのと明けにけり。これはいづくぞとてよくよく見廻したれば、大江山の中の手向けと見なして、これはそも何とありける事ぞや。さもあれ、先へは何物か道知るべをば、したりけるぞと尋ぬれば、火縅の鎧着て、葦毛なる馬に乗つたる武者、桂川へはこなたへこなたへと呼ばはつて、夜のほどは直前に打ちつるが、夜の明くると等しく、行方知らずになりたりと申しつるなり。さらに只事とも思えず。それより取つて返して馳せ上るほどに、京の軍の事も、桂川にてこそ聞きたりつれ。さるにても合戦の勝負は、何としたるやらん。心元なし」とのたまひければ、「戦は味方打ち負けて、上総殿小林両人ながら討ち死にして候ふ由、ただ今告げ来たつて候ふ」と申しければ、さては方々の手分けもいらぬ所なり。皆ただ一手になつて、二条の末へ押し寄せて、討ち死にするより外の事なしとて、一条口へと定めたりし土屋党も、引つ返して、一手になつてぞ寄せたりける。




塩冶駿河守(山名満幸みつゆきの家臣)が馳せ向かって申すには、そもそもこれほどの大儀を企てられて、定められた相図に、相違されるとは、いったいどちらにおられたのですかと、声を荒げて申せば、満幸が申すには、「運はすでに尽きたということだ。その訳は、夜半ばかりに陣を立って、木の葉を分ける山路の、かすかな跡を尋ねつつ、馬に任せて打つほどに、東の谷を下ろうと思っておったので、南へ向けて打ち行き、川島(現京都市西京区)辺を打ち過ぎて、丹波口(現京都市下京区)へ出るほどに、夜がほのぼのと明けてしまったのだ。ここはどこかとよくよく見廻せば、大江山(現京都府福知山市と与謝郡与謝野町との境にある山)の中の手向け(大江山鬼嶽稲荷神社?)ではないか、いったいこれはどうしたことか。ともあれ、先へは何者が道しるべを、しておったのかと訊ねれば、緋縅([紅で染めた紐・革緒などで縅すもの])の鎧を着て、葦毛の馬に乗った武者が、桂川へはこっちだこっちだと叫びながら、夜のほどは直前を打っておりましたが、夜が明けると等しく、行方知らずになりましたと申すのだ。さらにただ事とも思えない。そこから取って返して馳せ上るほどに、京の軍のことも、桂川で聞いたのだ。それにしても合戦の勝負は、どうなったのか。気になっておったのだ」と申したので、「軍は味方が打ち負けて、上総殿小林両人ともに討ち死にしたと、ただ今告げに参りました」と申せば、ならば手分けはいらぬ。皆ただ一手になって、二条の外れから押し寄せて、討ち死にするよりほかはないと、一条口へと決められていた土屋党も、引き返して、一手になって攻め寄せました。


続く


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by santalab | 2016-10-12 10:35 | 明徳記 | Comments(0)


明徳記

巻第中
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by santalab | 2016-10-05 15:14 | 明徳記 | Comments(0)


「明徳記」巻第中(その7)

斯かりける所へ、大内左京権大夫義弘よしひろ、弓手の肘二箇所切られて、鎧の袖も兜のしころも散々に切り乱れて、馳せ来たつて申しけるは、大宮の戦御難儀に及ぶべきにて候ふ間、義弘討ち死に仕らでは叶はざる所と存知、身命を捨てて攻め戦ふ。宗との敵どもも、大略は討捕候ひぬ。義弘が兵も、数十人討ち死に仕つて、軍は打ち勝つて候へども、山名奥州氏清うぢきよ、また大勢にて、ただ今大宮を上りに攻め近付く由告げ来たり候へ。義弘が手の者ども、皆戦疲れて、この口難儀に存ずるなり。義弘討ち死に仕りなば、誰か義弘ほどに身命を捨てて支へ候ふべき。しからば定めて御大事出で来侍るべし。急ぎ入れ替への勢を向けられ候へかし。義弘ほどの勇士をば御持ち候ふまじきものをと、馬も我が身もあけになつて、大の眼を怒らかして、さも高声に申しければ、その気色辺りを払つてぞ見えたりける。




そうこうするところに、大内左京権大夫義弘(大内義弘)が、弓手([左])の肘二箇所切られて、鎧の袖も兜の錏([兜・頭巾の左右・ 後方に下げて首筋をおおう部分])も散々に切り乱されて、馳せ来て申すには、大宮の戦に苦戦して、この義弘が討ち死にせずば敵うまいと、身命を捨てて攻め戦いました。主な敵どもは、ほとんど討捕しました。義弘の兵も、数十人討ち死にして、軍には勝ちましたが、山名陸奥守氏清(山名氏清)が、また大勢で、ただ今大宮を上りに攻め近付くと知らせがありました。義弘の手の者どもは、皆戦い疲れて、この口を防ぐのに難儀しております。この義弘が討ち死にすれば、誰が義弘ほどに身命を捨てて支えることか。そうなれば必ずや大事になりましょう。急ぎ入れ替えの勢を向けられますよう。この義弘ほどの勇士がほかにおりましょうやと、馬も我が身も朱になって、大の眼を怒らして、高声に申したので、その勢いは他の者を圧倒しました。



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by santalab | 2016-10-04 10:28 | 明徳記 | Comments(0)


「明徳記」巻第中(その6)

そもそも今度御小袖を召されずして、燻皮ふすべかわの御腹巻を召されける事を如何と申すに、御小袖は、朝家の怨敵御退治の時、召さるる佳例の御著背きせながなり。今度は御家僕の悪逆を誡め、御沙汰の御退治なれば、敵に合はぬ御著背なる上、軍勢に御紛れありて、もし氏清うぢきよ満幸みつゆきらを御覧じ付けさせ給はば、人手にも懸けず、御自ら切り落とさんものをと、思し召しける故とぞ聞こえし。されども大方の御事柄ならねば、自余の兵に、御紛れあるべしとは見えさせ給はず。御馬廻りの軍奉行は、一色左京大夫詮範あきのり今川右衛門すけ仲秋なかあき、この両人とぞ聞こえし。いづれも元来名を得たる勇士どもなれば、御勢の進み退く所、御旗を堅く兵に守護せさせ、前後左右に馳せ廻つて、兵を勇め勢を起きてん。あたりを払へる形勢は、漢の高祖の韓信彭越ほうえつが、良将の機を司りて、百万の兵を指呼しこに随へしに異ならず。その外御馬廻りの人々も、思ひ思ひの馬物の具、鞍小具足に至るまで、金銀を色へて出で立ちて、肉に飽きける大馬どもを、大路狭しと馳せ引きて、敵に会ふべき手立てどもを、互ひに心に含みて、あらそひ進める有様は、如何なる天魔鬼神なりとも、この御勢に面を向くべきとは見えざりけり。




そもそもこの度(室町幕府第三代将軍、足利義満よしみつが)小袖を召されず、燻革([松葉などの煙でいぶして着色した革])の腹巻([鎧の一])を召されたのはどういうことかと申せば、小袖は、朝家の怨敵退治の時に、召される佳例([吉例])の着背長([鎧・具足の美称。武将が着用した晴れの第一武装])でした。この度は家僕の悪逆を戒め、罰するための退治でしたので、着背長は敵にふさわしくないものである上、軍勢に紛れて、もし氏清(山名氏清。山名満幸の義父)満幸(山名満幸)らを見付けたならば、人手にも懸けず、自ら斬り落とそうと、思われてのことだということです。けれども大方([世間一般])の人ではありませんでしたので、自余の兵に、紛れることができるとも思われませんでした。馬廻り([騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制])の軍奉行には、一色左京大夫詮範(一色詮範)今川右衛門佐仲秋(今川仲秋)、この両人と聞きました。いずれも元より名を得た勇士でしたので、勢が進み退く時には、旗を堅く兵に守護させ、前後左右に馳せ廻って、兵を勇め勢を奮い立たせました。あたりを払う形勢は、まるで漢の高祖(前漢の初代皇帝、劉邦)の臣下韓信(中国秦末から前漢初期にかけての武将)彭越(中国秦末期から楚漢戦争期の武将)が、良将として機([物事の大事なところ])を司り、百万の兵を指呼([指図すること])に従えるようでした。そのほか馬廻りの人々も、思い思いの馬物の具([武具])、鞍小具足に至るまで、金銀を色えて([美しいいろどりをしていること])出で立ち、肉付きのよい大馬どもを、大路狭しと馳せ引いて、敵と戦う手立てを、互いに心に含んで、争うかのように進める様相は、いかなる天魔鬼神であろうとも、この勢に対峙すべきとは思えませんでした。


続く


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by santalab | 2016-10-04 10:24 | 明徳記 | Comments(0)


「明徳記」巻第中(その5)

さるほどに、京都には山名播磨守満幸みつゆき、出雲伯耆讃岐丹後四箇国の勢、一千二百余騎一手になつて、寄せ来る由聞こえしかば、細川武蔵入道常久畠山右衛門すけ基国もとくに、都合その勢二千七百余騎、皆雀の森二条口へ出張して、二つ引両の旗五流れ打ち立て、魚鱗に進み、虎踏に開きて、一足も退かず。一戦の中に万卒の死を軽くせよと、兵を進めて控へたり。御所も御馬廻り三千余騎にて、中御門大宮へ打つて出でさせ給へて、東西の攻め口難儀ならん方を、御合力あるべしとて、御旗を進めて控へさせ給ふ。御所のその日の御装束には、わざと小袖をば召されず。燻皮ふすべかわの御腹巻の中二通り、黒皮にて威したるをぞ召されたりける。同じ毛の五枚兜の緒を締め、累代の御重宝と聞こえし、篠作りといふ御帯刀に、二つ銘といふ御太刀を、二振り添えて佩かせ給ひける。薬研徹やげんとほしといふ御脇差しを差させ給へて、御秘蔵の大河原毛、五尺の馬と聞こえしに、金覆輪の御鞍置きて、厚總鞦あつふさしりがい懸いてぞ召されたる。




やがて、京都には山名播磨守満幸、出雲伯耆讃岐丹後四箇国の勢、一千二百余騎が一手になって、寄せ来ると聞こえたので、細川武蔵入道常久(細川頼之よりゆき)畠山右衛門佐基国、都合その勢二千七百余騎は、皆雀森(更雀きようしやく寺。今は京都市左京区にある)二条口へ出張して、二つ引両(足利氏の紋)の旗を五流れ立てて、魚鱗に進み、虎踏に開いて、一足も退きませんでした。一戦の中に万卒の死を軽くせよと、兵を進めて控えました。御所(室町幕府第三代将軍、足利義満よしみつ)も馬廻り([騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制])三千余騎とともに、中御門大宮へ打って出て、東西の攻め口の難儀なる方に、合力すべしと、旗を進めて控えました。御所のその日の装束には、わざと小袖を召されませんでした。燻革([松葉などの煙でいぶして着色した革])の腹巻に、黒皮で威した鎧を付けていました。同じ毛の五枚兜([しころ=兜の鉢から左右や後方に垂れて首を覆うもの。の板が五枚ある兜])の緒を締め、累代の重宝と聞こえる、篠作りといふ帯刀に、二つ銘(二つ銘則宗のりむね。現存)という太刀を、二振り添えて佩いていました。薬研徹しという脇差しを差して、秘蔵の大河原毛、五尺といわれる馬に、金覆輪([刀や鞍くらなどの縁飾りの覆輪に、金または金色の金属を用いたもの])の鞍を置いて、厚総鞦([馬具で、面繋おもがい胸繋むながい・尻繋の各部に付けた糸の総を特に厚く垂らしたもの])を懸いて乗っておりました。


続く


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by santalab | 2016-10-04 10:19 | 明徳記 | Comments(0)


「明徳記」巻第中(その4)

ここに土屋の一族ども、二十九日の宵に寄り会ひて、今生の名残りただ今夜ぞ限りなるらんと、物語どもしける中に、平次左衛門じようが近付きて申しけるは、「面々は今度の軍はいかが思ひ給ふぞ。さらに生きて帰るべき道とは思はれず候ふ。その故は、父にて候ふ入道、この間連々播州を諌め申しつる仔細ども、耳に留まつて侍るなり。今度不思議の合戦を思し召し立つ事、しかしながら一家の御運の末なるべし。殊更播州の御事は、幼少の御時より、在京ありしに、一向御所様の御扶持を以つて、長とならせ給ひぬ。また讃岐殿の御所労の後は、かの御代官とは申しながら、一方の家嫡の如く、丹波出雲両国を、御代官ある間、御一家の中にも、内々偏執の御方も侍る由聞き候ひき。その後讃岐伯耆両国を並ばせて、既に四箇国御分国となつて、毎時御意の如くならせ給ふ事、御所様の御恩にて侍るぞかし。それに御年少より、御馴染みを忘れ、四箇国御拝領の御恩を捨てて、今この合戦に及ぶほどの御恨みは何事ぞや。さりながらこの御厚恩を捨てて、御合戦あるべきは、例式に背いて、人笑しき事御振る舞ひあるべからず。ただ一筋に思し召し定められて、十卒相ともに死を一所にして、世の口遊くちずさみにならぬ様に御計らひあるべし。それに付けても、入道が一族たらん者は、一番に駆け入りて討ち死にすべき由、申されしことばの末も肝に銘ず。また事のていを見るに、千に一つも、この軍に打ち勝つべきやうもなし。されば、不儀の合戦にてはありけれども、明日この一門皆々討ち死にをしてこそ、勇士の心ざしはこれまでなりと、世の人口にも沙汰せられんずれ」と申したりければ、衆口同音に、もつとも我も我もさこそ存知たれとありしかば、しからばこの一族皆々相符をして、土屋党の者ども何十人討ち死にしたりと、人にも知られ、高名を子孫に伝へん事、何の疑ひあるべしや。また屍の恥をも隠し、煙となしてび給へとて、ある僧時衆を頼み、その座より布施ども様々送りつつ、死出立ちこそ哀れなれ。また死骸のしるしの一人も洩れぬ様に計らはばやと、存ずるは如何にと申しければ、各々その儀しかるべしとて、土屋党五十三人皆一様に、左に指懸ゆかけして、丈高たけたか指を、紅のいとにて結うたりける。これを見聞きする人毎に、弓矢の儀をば、誰も皆かくこそあらまほしけれとて、誉めぬ人こそなかりけれ。




土屋の一族どもは、(明徳二年(1391)十二月)二十九日の宵に寄り合って、今生の名残りは今夜が限りとなるやもと、物語をする中に、平次左衛門尉が近付いて申すには、「面々は今度の軍をどう思っておるや。さらに生きて帰るべき道とは思われぬ。その訳だが、父入道が、この間絶えず播磨守(山名満幸みつゆき)を諌め申しておった仔細([一部始終])が、耳に留まっておる。今度不思議の合戦を思い立たれたことは、御一家の運の末となろう。播磨守は、幼少の御時より、在京あって、まったくもって御所様(室町幕府第三代将軍、足利義満よしみつ)の扶持([俸禄])で、長となられたのだ。また讃岐殿(山名義幸よしゆき。山名満幸)がご病気になられた後は、代官とは申しながら、一方の家嫡の如く、丹波出雲両国を、司られたので、御一家の中にも、内々偏執([他を妬ましく思うこと])の御方もおられると聞いておる。その後讃岐伯耆両国を合わせ、すでに四箇国を所領して、思う通りになられたのも、御所様のご恩ではないか。ましてや年少よりの、馴染みを忘れ、四箇国御拝領の御恩を捨てて、今この合戦に及ぶほどの恨みがあろうや。とはいえ厚恩を捨てて、合戦されるからには、例式([決まり])に背いて、人に笑われるような振る舞いはできぬ。ただ一筋に覚悟を決めて、十卒([兵卒])ともに死を一所にして、世の口遊み([噂])にならぬように計らわれよ。それに付けても、入道の一族の者は、一番に駆け入って討ち死にせよと、申された言葉が忘れられぬ。また軍の様を見るに、千に一つも、この軍に打ち勝つことはできぬであろう。ならば、不義の合戦ではあるが、明日この一門が皆々討ち死にをしてこそ、勇士の心ざしはこれまでと、世の人の噂に上ろうではないか」と申せば、一族同音に、我も我もその通りよ申したので、ならば一族は皆同じしるしを付けました、土屋党の者どもが何十人討ち死にしたと、人にも知られ、高名を子孫に伝えることに、何の疑いもありませんでした。また屍の恥をも隠し、煙となしてくれと、ある僧時衆([時宗=浄土教の一宗派。の僧俗])を頼み、その座より布施どもを様々送りつつ、死出立ちしたのは哀れなことでした。また死骸のしるしを付けて一人も洩れないようにしなければと、思うがどうかと申せば、各々もっともだと、土屋党五十三人は皆一様に、左に指懸けして、丈高指([中指])を、紅の糸で結びました。これを見聞きする人毎に、弓矢([武士])の忠義は、誰も皆こうであるべきだと、誉めない人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2016-10-04 09:56 | 明徳記 | Comments(0)


「明徳記」巻第中(その2)

また大足次郎左衛門じよう、土屋党を引き選つて、仁和寺を打ち通つて、大将軍の堂の鳥居の前へ、打つて出だすべしと定めたりける兵ども、播磨守見え給はざりければ、兼ねての評定相違して、ただ茫然として控へたりける所に、大宮の合戦、味方打ち負けぬと思えて、鬨の声南へ靡き分けて、次第に幽かになり行きければ、皆手に汗を握り、固唾を呑んでありけるが、上総介修理すけが下部、二三人走り来て申しけるは、「大宮の合戦、味方打ち負けて、上総介殿小林修理亮殿を始めとして、二条大宮の一番勢、残り少なに討たれさせ給へて侍るなり。定めてはや、大将二人も、御討ち死にとこそ存じ候へ。我らていの者どもは、一人も残らず逃げ散り候ふほどに、跡の事は分明ならず候ふ」。「されば治定討たれ給ひて候ふものを、などや斯様に延び延びにて御渡り候ふぞ」と申しければ、いよいよ軍勢あきれたる所に、播磨守主従五騎にて馳せ来たる。これを見て兵ども、少し色を直しけり。




また大足次郎左衛門尉が、土屋党を引き選って、仁和寺(現京都市右京区にある寺院)を打ち通って、大将軍堂(現京都市上京区にある大将軍八神社)の鳥居の前へ、打って出よと命じていた兵どもも、播磨守(山名満幸みつゆき。山名時氏ときうぢの孫)がいなかったので、かねての評定と相違して、ただ茫然として控えていましたが、大宮の合戦に、味方が打ち負けたと思えて、鬨の声が南へ靡き分かたかと思えば、次第にかすかになりました、皆手に汗を握り、固唾を呑んで成り行きを見守っていましたが、上総介(山名義数よしかず?山名時氏の子)修理亮(小林義繁よししげ?山名時氏の子である山名氏清うぢきよの家臣)の下部([武士の下位の者])が、二三人走り来て申すには、「大宮の合戦に、味方が打ち負けて、上総介殿小林修理亮殿(小林義繁)をはじめとして、二条大宮の一番勢は、残り少なに討たれました。おそらくすでに、大将二人も、討ち死にされておられるでしょう。我らほどの者は、一人も残らず逃げ散りましたので、後のことは分かりかねます」。「大将が討たれたのならどうして一所に討たれなかったのか、何故ここまで逃げて来たのだ」と申したので、ますます軍勢はあきれ返るところに、播磨守(山名満幸)主従五騎で馳せて来ました。これを見て兵どもは、少し勢いを取り戻しました。


続く


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by santalab | 2016-10-04 09:30 | 明徳記 | Comments(0)


「明徳記」巻第中(その1)

さるほどに、山名播磨守満幸みつゆきは、十二月二十九日の宵より、峯の堂を降り下つて、夜半計りに桂河を越え、梅津に陣を取り寄せて、明け行くそらを待ちける所に、明くれば晦日つもごり卯の刻計りに、二条大宮辺に軍ありと思えて、上は冷泉中御門、下は三条四条の通りまで、鬨の声夥しく聞こえければ、さてはこの手よりの攻め口こそ遅延なれ。急ぎ押し寄せて、かの手と徹し合ひて、同時に西京口より攻め入るべしと、大将播磨守を尋ねけれども、更に陣中に見え給はざりければ、これは如何にと、皆々色を失ひて、ここかしこにわしせ散つて尋ねけれども、見え給はず。宵に供したりける馬廻りの人々に問ひければ、暗さは暗し、雨は降る。薄雪交じりの細道を、たどるたどると下りつるほどに、大将の御事は知らずといひければ、不思議の事なりとて、諸人あきれたる気色にて寄すべき様もなかりけり。




やがて、山名播磨守満幸は、(明徳二年(1391))十二月二十九日の宵より、峯の堂(現京都府亀岡市)を下りて、夜半ばかりに桂川を越え、梅津(現京都市右京区)に陣を取り寄せて、明け行く空を待つところに、明ければ晦日卯の刻(午前六時頃)ばかりに、二条大宮辺に軍ありと思えて、上は冷泉中御門(現京都市中京区)、下は三条四条(現京都市中京区・下京区)の通りまで、鬨の声が夥しく聞こえたので、さてはこの手の攻め口は出遅れたか。急ぎ押し寄せて、かの手と合わさって、同時に西京口より攻め入るべしと、大将播磨守を探しましたが、陣中にはいなかったので、これはどういうことかと、皆々は顔色を失い、ここかしこに馳せ散って探しましたが、どこにも見えませんでした。宵に供をしていた馬廻り([騎馬の武士で、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた武家の職制])の人々に訊ねると、昨夜はとても暗く、雨さえ降っていた。薄雪交じりの細道を、たどるように下るほどに、大将とはぐれてしまったのだと答えたので、不思議なことだと、諸人はあきれた様子で攻めようともしませんでした。


続く


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by santalab | 2016-10-03 17:21 | 明徳記 | Comments(0)

    

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