Santa Lab's Blog


カテゴリ:承久記( 268 )



承久記

上巻
後鳥羽の院の事
頼家実朝昇進並びに薨去の事
義時追討御評定の事
光季・親広召さるる事
官兵光季を攻むる事
公継公意見の事
方々へ宣旨を下さるる事
二位殿口説き事並び引出物の事
関東合戦評定の事
義時宣旨御返事の事
京都方々手分の事
高重討死の事
尾張の国にして官軍合戦の事
秀康・胤義落ち行く事
阿曽沼の渡豆戸の事

下巻
官軍敗北の事
重忠支へ戦ふ事
相模の守戦の僉議方々手分の事
朝時北陸道より上洛の事
一院坂本へ御出立の事
方々責口御固の事
勢多にて合戦の事
宇治橋にて合戦の事
信綱・兼吉宇治河を渡す事
関東の大勢水に溺るる事
宇治の敗るる事
秀康・胤義ら都へ帰り入る事
院宣を泰時に下さるる事
胤義自害の事
京方の兵誅戮の事
京都飛脚の人々評定の事
公卿罪科の事
一院隠岐の国へ流され給ふ事
新院宮々流され給ふ事
広綱子息斬らるる事
胤義子供斬らるる事
中の院阿波の国へ移り給ふ事
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by santalab | 2014-06-19 08:07 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」中の院阿波の国へ移り給ふ事(その4)

そもそも承久じようきう如何なる年号ぞや。玉体ことごとく西北の風に没し、卿相けいしやう東夷あづまえびすの鉾先に当たる。天照大神・正八幡の御計らひなり。王法この時に傾き、東関天下を行ふべき由緒にてやありつらん。御謀反の企ての始め、御夢に黒き犬、御身を飛び越ゆると御覧じけるとぞ承る。かく院の果てさせ給ひしかども、四条の院の御末絶えたりしかば、後の後嵯峨の院に御位参りて、後の院と申す。土御門の院の御子なり。御恨みはありながら、配所に向かはせ給ひき。この御心ばせを神慮も受けしめ給ひけるにや。御末めでたくして、今の世に至るまで、この院の御末かたじけなし。承久三年の秋にこそ、物の哀れを留めしか。




そもそも承久(1219~1222)はどのような時代だったのでしょう。は玉体([天子または貴人のからだ])は余さず西北の風に没し、卿相([公卿])は皆東夷([関東武士])の鉾先に貫かれました。きっと天照大神・正八幡が決めたことでしょう。王法(朝廷)はこの時に衰退し、東関(幕府)が天下を執り行う由緒([物事の起こり])となりました。後鳥羽院が謀反を企てた頃、夢に黒い犬が、体を飛び越えるのを見たということです。こうして後鳥羽院は崩御されましたが、四条院(第八十七代天皇)の子孫は絶えて、後の後嵯峨院(第八十八代天皇。第八十三代土御門院の子、第八十二代後鳥羽院の孫)が帝位に就いて、後院と呼ばれました。土御門院の子でした。後鳥羽院に恨みを覚えながら、配所に向かわれました。この心を神慮([天意])が受けられたのでしょうか。後嵯峨院の子孫は栄えて、今の世に至るまで、後嵯峨院の子孫もありがたく思っておられることでしょう(後嵯峨院が南北朝時代のきっかけを作ったのですが)。それにしても承久三年(1221)の秋は、悲しみが残る年となりました。


(終)


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by santalab | 2014-06-19 08:05 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」中の院阿波の国へ移り給ふ事(その3)

室より御船に乗せ奉り、四国へ渡らせ給ふ。屋島の浦を御覧じて、安徳天皇の御事を思し召し出だしけり。讃岐の松山かすかに見えければ、かの崇徳院の御事も思召し出だしたり。
土佐へ御着きありけるを、「小国なり。御封米ほうまい難治の由」守護並びに目代申しければ、阿波の国へ遷されさせ給ふ。山路にかからせ給ふ折節、雪降りて東西見えず、まことに詮方なくて、君も御涙に咽ばせましまして、

うき世には かかれとてこそ 生れけめ 理知らぬ 我涙かな

と遊ばす。京にて召し使ひける番匠ばんじやう、木に登り枝を下して、御前に焼きたりければ、君も臣も御心少し着かせ給ひて、「番匠大功の者なり」とぞ仰せける。御輿掻き少し働きて、かの国へ着かせ給ふ。
浦々に 寄するさ波に 言問はん 沖の事こそ 聞かまほしけれ




土御門院(第八十三代天皇)は室(室津。現兵庫県たつの市)より船に乗り、四国へ渡りました。屋島の浦(香川県高松市)をご覧になって、安徳天皇(第八十一代天皇)の事を思い出されました。讃岐の松山(松山津。現香川県坂出市)がかすかに見えたので、かの崇徳院(第七十五代天皇)の事も思い出されました。土佐国に着きましたが、「小国です。封米([封主のもとに進納された封物代米])を用意するのが困難です」と守護([諸国の治安・警備に当たった職])ならびに目代([国守の代理人])が申したので、阿波国に遷されました。山路にかかったちょうどその時、雪が降って東西も見えず、難儀されて、君(土御門院)は涙に咽びながら、

憂き世に泣きながら生まれたのは当然のことよ。こんなことで訳もなく流れるわたしの涙なのだから。

と詠まれました。京で召し使っていた番匠([木工寮もくれうに属して宮廷の建築に従事した職人])が、木に登り枝を下して、御前で焚いたので、土御門院も臣も心を少し落ち着かれて、「番匠こそ大功([大きな手柄・功績])の者である」と仰せがありました。輿を掻き少し進むと、阿波国に着きました。
浦々に寄せる波に聞きたいことがあるのだ。沖の向こうの都のことを。


続く
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by santalab | 2014-06-18 07:26 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」中の院阿波の国へ移り給ふ事(その2)

内々に皆父を恨み給ひけれど、誠の時は、いろはせ給はねど、父の御罪に遠国へ下らせ給ふぞ哀れなる。庁使万里までの小路の御所へ参りければ、御叔父土御門の大納言定通さだみち卿、泣き泣き出だし奉る。御供には女房四人、少将定平さだひら、侍従俊平としひら、医師一人参りけり。鳥も告げければ、大納言定通、御車寄せられけり。これは思し召し立つ道も一入ひとしほ哀れなれば、京中の貴賤も悲しみ奉ること限りなし。




心の内では皆父(後鳥羽院)を恨んでいたので、謀反にも、関与していませんでしたが、父の罪により遠国に配流になったのは悲しむべきことでした。庁使([検非違使庁の官人])が万里小路の御所へ参ると、土御門院の叔父である土御門大納言定通卿が、泣きながら出て来ました。供には女房四人、少将定平(中院なかのゐん定平か?)、侍従俊平、医師一人が参りました。鶏が時を告げたので、大納言定通(土御門定通)は、車を呼びました。旅立つ道はひときわ悲しいものでしたので、京中の貴賤の者たちも悲しむこと限りありませんでした。


続く
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by santalab | 2014-06-17 07:53 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」中の院阿波の国へ移り給ふ事(その1)

うるふ十月十日、土御門の中の院、土佐の国へ移されさせ給ふ。この院は今度御みなし。その上賢王にて渡らせ給ひければ、鎌倉よりもなだめ奉りけるを、「我ことごとくも法皇を配所へ遣り奉りて、その子として華洛からくにあらん事、冥の照覧憚りあり。また何の益かあらんや。承元しようげん四年の恨みは深しといへども、人界に生を受くる事は、父母ぶもの恩報じても報じ難し。一旦の恨みに依つて、永く不孝の身とならんこと罪深し。されば同じき遠島へ流れん」と、度々関東へ申させ給ひければ、惜しみ奉りながら、力なく流し奉りけり。




閏十月十日に、土御門中院(第八十三代天皇)が、土佐国に配流になりました。
土御門院は今度の謀反に関与していませんでした。その上賢王でしたので、鎌倉より減刑されていましたが、「わたし以外に法皇(後鳥羽院)までもが配所へ流され、その子でありながら華洛([京])に留まることは、冥土の照覧([神仏が御覧になること])にも差し障りがあろう。また都に留まったところで何かよいことがあるものでもなし。承元四年(1210)の恨み(土御門院が帝位を下された年)は深いが、人界に生を受けたことは、父母の恩に報いようとも報いきれないものだ。一旦([一時])の恨みによって、永く不孝の身になることは罪深いことである。ならば同じように遠島に流されよう」と、何度も関東(鎌倉幕府)に申されたので、惜しみながらも、仕方なく配流したのでした。


続く
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by santalab | 2014-06-16 08:24 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」胤義子供斬らるる事(その3)

四人の乳母、倒れ伏して天に仰ぎ悲しみける。保元ほうげんの昔、為義ためよしの幼稚の子ども斬られけん事、思ひ出だされけり。さてあるまじき事なれば、皆首を掻く。




四人の乳母は、倒れ伏して天を仰ぎ嘆き悲しみました。保元の昔(保元の乱(1156))、為義(源為義)の幼い子どもたちが斬られたことが、思い出されました。けれども生かしてはおけない事でしたので、皆首を斬られました。


続く
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by santalab | 2014-06-14 06:43 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」胤義子供斬らるる事(その2)

小川の十郎、「せめて幼稚なるをこそ惜しみもし給はめ。成人の者を止め給ふことしかるべからざる由」責めければ、尼上立ち出でて手を摺りて言はれけるは、「のたまふところはことわりなり。されども五・三の者どもは、生死を知らざれば、あきれたるが如し。なまじひに十一まで育て、眉目みめかたちも勝れたり。ただこの事を守殿へ申し給へ。五人ながら斬らるるならば、七十になる尼、何か命の惜しかるべき」と言ひければ、小川情けある者にて、許してけり。




小川十郎が、「幼い子を惜しむのは分かるが。成人の者を死罪にしないわけにはいかない」と責めると、尼上が出て来て手を合わせて言うには、「おっしゃられることは当然です。けれども五・三歳の者たちは、生死も分かっておりませんから、ただ思いもしなかったことだと諦めも付きます。やっとのことで十一まで育てたのです、眉目([顔立ち])姿かたちも人に勝っています。ただ五人ともに斬られるのなら、七十になる尼は、命が惜しいとは思いません」と言いました、小川は情けのある者でしたので、これを許しました。


続く
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by santalab | 2014-06-13 07:53 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」胤義子供斬らるる事(その1)

判官胤義たねよしが子ども、十一・九・七・五・三になる五人あり。矢部の祖母の許に養ひ置きたるを、権大夫、小川の十郎を使ひに立て、皆召されけり。尼も力及ばず。「今度世の乱れ、偏へに胤義が仕業なり。惜しみ奉るに及ばず」とて、十一になる一人をば隠して、弟九・七・五・三を出だしけるこそ不便なれ。




判官胤義(三浦胤義)の子どもに、十一・九・七・五・三歳になる五人がいました。矢部の祖母の許で養っていましたが、権大夫(北条義時よしとき)は、小川十郎を使いに立てて、皆連れて行こうとしました。尼もどうしようもありませんでした。「今度の世の乱れ(謀反)は、間違いなく胤義の仕業だ。命を惜しんだところで仕方のないこと」と言って、十一歳になる一人を隠して、弟である九・七・五・三歳を出しましたがかわいそうなことでした。


続く
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by santalab | 2014-06-12 07:38 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」広綱子息斬らるる事(その4)

この事を聞きて、信綱のぶつなを憎まぬ者はなかりけり。柳原にて、生年十一歳にて斬られけり。ためしなしとぞ申しける。京都にも限らず、鎌倉にも哀れなること多かりけり。




これを聞いて、信綱(佐々木信綱)を憎まない者はいませんでした。勢多伽丸せたかまるは柳原(現神奈川県鎌倉市)で、生年十一歳で斬られました(十四歳だったらしい)。京都に限らず、鎌倉でも悲しいことが多くありました。


続く
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by santalab | 2014-06-11 08:13 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」広綱子息斬らるる事(その3)

車に乗りて帰る所に、ちごの叔父四郎左衛門信綱のぶつな、急ぎ馳せ参つて、「この稚児を御助け候はば、さしもの奉公空しくなして、信綱出家し候ふべし」と支へ申しければ、信綱は今度宇治川の先陣なり、泰時やすときの妹婿なり。方々もつてさし置き難き仁なれば、五条土肥の小路に使ひ追ひ付きて、「かかる仔細ある間、力及ばず、泰時を恨むな」とて召し返しけり。




勢多伽丸せたかまるたちは車に乗って帰りました、そこへ叔父である四郎左衛門信綱(佐々木信綱)が、急ぎ走り参って、「この子を助けたなら、これまでの奉公が無駄になってしまう、わし信綱は出家するほかない」と反対しました、信綱は今度の宇治川の先陣でしたし、泰時(北条泰時)の妹婿でした。誰も佐々木信綱の言い分を退けることができませんでした、五条土肥小路で使いが追い付いて、「信綱殿がこのように申しておる、どうしようもないことだ、わたし泰時(北条泰時)を恨むでないぞ」と言って車を返しました。


続く
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by santalab | 2014-06-10 06:42 | 承久記 | Comments(0)

    

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