Santa Lab's Blog


カテゴリ:保元物語( 137 )



保元物語


後白河院御即位の事
法皇熊野御参詣並びに御託宣の事
法皇崩御の事
新院御謀反思し召し立つ事
官軍方々手分けの事
親治等生捕らるる事
新院御謀反露見並びに調伏の事付けたり内府意見の事
新院為義を召さるる事付けたり鵜丸の事
左大臣殿上洛の事付けたり著到の事
官軍召し集めらるる事
新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事
将軍塚鳴動並びに彗星出づる事
主上三条殿に御幸の事付けたり官軍勢汰への事

白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事
白河殿攻め落す事
新院・左大臣殿落ち給ふ事
新院御出家の事
朝敵の宿所焼き払ふ事
関白殿本官に帰復し給ふ事付けたり武士に勧賞を行はるる事
左府御最後付けたり大相国御嘆きの事
勅を奉じて重成新院を守護し奉る事
謀反人各召し捕らるる事
重仁親王の御事
為義降参の事
忠正・家弘等誅せらるる事
為義最後の事
義朝の弟ども誅せらるる事

義朝幼少の弟ことごとく失はるる事
為義の北の方身を投げ給ふ事
左大臣殿の御死骸実検の事
新院讃州に御遷幸の事並びに重仁親王の御事
無塩君の事
左府の君達並びに謀反人各遠流の事
大相国御上洛の事
新院御経沈めの事付けたり崩御の事
為朝生捕り遠流に処せらるる事
為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事
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by santalab | 2013-11-29 16:34 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その7)

この為朝ためともは、十三にて筑紫つくしへ下り、九国を三年に討ち従へて、六年治めて十八歳にて都へ上り、保元の合戦に名をあらはし、二十九歳にて鬼が島へ渡り、鬼神を捕つてやつことし、一国の者ぢ恐ると言へども、勅勘の身なれば、つゐに本意を遂げず、三十三にして自害して、名を一天に広めけり。いにしへより今にいたるまで、この為朝ほどの血気の勇者なしとぞ諸人申しける。




為朝(源為朝。源頼朝の父義朝よしともの異母弟ですから、頼朝の伯父)は、十三歳で筑紫国(今の福岡県)へ下り、九国([九州])を三年の間に討ち従えて、六年間治めてから十八歳で京に上り、保元の合戦に名をとどろかせ、二十九歳で鬼が島に渡り、鬼神を捕らえて下僕として、一国の者たちをおびえ恐れさせたというものの、勅勘([天皇から受けるとがめ])を被る身であったので、ついには本望を遂げることなく、三十三歳で自害して、名を国中に広めました。遠い昔より今にいたるまで、為朝ほど血気盛んな勇者はいなかったと人々は言いました。


(終)


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by santalab | 2013-11-29 16:33 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その6)

その後は、船どもはるかに漕ぎ戻して申しけるは、「八郎殿の弓勢は、今に始めぬ事なれども、いかがはすべき。我らがよろひを脱ぎて、船にや着する」など、色々の支度にてほどれども、さし出づる敵もなければ、またおづおづ船を漕ぎ寄せけれども、敢へて手向かひする者もなし。これに付けても、たばかつて陸に上げてぞ討たんずらんと、心に鬼を作つて、左右なく近付かず。されども波のうへに日ををくるべきかとて、思ひ切つて、馬の足立つほどにもなりしかば、馬ども皆追ひ下ろして、ひたひたと打ち乗つておめいて駆け入れども、立て合ふ者のやうに見え、なけれども太刀を持つやうに思え、眼勢・事柄、敵の討ち入るらむを差し覗く体にぞありける。されば、かねて我真つ先駆けて討ち捕らんと申せし兵ども、これを見て討ち入る者一人もなし。全官軍の臆病なるにもあらず、ただ日頃、人ごとに怖ぢ習ひたるいはれなり。かやうに随分の勇士どもも、わろびれて進み得ず、ただ外溝を取りまはせるばかりなり。ここに加藤次景廉かげかど、自害したりと身を伏せてやありけん、長刀を持つて後ろより狙ひ寄りて、御曹子の首をぞ討ち落としける。よつてその日の高名の一の筆にぞ付たりける。首をば同じ五月に都へ上せければ、院は二条京極に御車を立てて叡覧あり。京中の貴賎道俗、郡集す。




船が沈められた後は、船をはるか沖に漕ぎ戻して相談するには、「八郎殿(源為朝ためとも)の弓の威力は、今更言うまでもないことだが、どうすればよいのか。わたしたちの鎧を脱いで、船に着せようか」などと、色々準備してしばらく経ちましたが、向かってくる敵もいないので、またこわごわ船を島に漕ぎ寄せたものの、進んで為朝に立ち向っていく者はいませんでした。敵がいないのは、我らを騙して陸に上げて討とうとしているのではいかと、無用に想像して、とにかく近付くことができませんでした。しかしながら波の上で日を送るのもどうかと思い、思い切って、馬の足が立つほどになれば、馬を皆船から下ろして、急ぎ馬に乗って喚き声を上げて駆けていくと、手向かう者がいるように見え、実はいないのに太刀を持っているように思え、眼勢・有様は、まるで敵が向かってくるのを窺っているかのように思えるのでした。こうして、我こそ真っ先に駆けて為朝を討ち捕ると言っていた兵たちも、これを見て討ち入る者は一人もいませんでした。全官軍が臆病であったのではなく、日頃より、人々が為朝を恐れるようになっていたからでした。このように大勢の勇士たちも、恐れて進むことができずに、ただ外溝を巡らしているばかりでした。加藤次景廉(加藤景廉。加藤景員かげかずの次男)は、為朝が自害したように見せかけて身を伏せているのかも知れないと、長刀を持って背後より近付いて、為朝の首を討ち落としました。これによってその日の高名([手柄])の筆頭になりました。為朝の首が同年(1170)五月に京に持ち上ると、後白河院は二条京極に車を出してご覧になられました。京中の貴賎も道俗([僧侶と俗人])も、為朝の首を見ようと集まってきました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 16:26 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その5)

「さりながら、矢一射てこそ腹をも斬らめ」とて、立ち向かひ給ふが、最後の矢を手浅く射たらむも無念なりと思案し給ふところに、一陣の船に、究竟の兵三百余人射向ひの袖をさしかざし、船を乗りかたぶけて、三町ばかり渚近く押し寄せたり。御曹子は矢頃少しとをけれども、件の大鏑おほかぶらを取つて継がひ、小肘こひぢまはるほど引き詰めて兵ど放つ。水ぎは五寸ばかりを射て、大舟の腹を穴たへつと射とをせば、両方の矢目より水入りて、船は底へぞ舞ひ入りける。水心ある兵は、楯・掻楯に乗つて漂ふ所を、櫓・櫂・弓のはずに取り付きて、並びの船へ乗り移りてぞ助かりける。為朝これを見給ひて、「保元のいにしへは、矢一すぢにて二人の武者を射殺しき。嘉應かおうの今は一矢に多くの兵を殺しおわりぬ。南無阿弥陀仏」とぞ申されける。今は思ふ事なしとて、内に入り、家の柱を後ろに当てて、腹掻き切つてぞ給ひける。




為朝ためとも(源為朝)は、「そうとはいえ、矢を一本射てから腹を斬ろう」と言って、敵に立ち向かいましたが、最後の矢を軽く討つのも無念と思っているところに、一陣の船で、最強の兵三百人余りが矢の向きの袖をふり上げて、船に乗って、三町(一町は約109m)ほどの渚近くに押し寄せてきました。為朝は矢の距離が少し遠いと思いましたが、いつもの大鏑([大きな鏑矢、鏑矢は音を発する矢])を弓に継ぎ、肘が回るほど引いてから兵に向かって放ちました。水際五寸(一寸は約3cm)ばかりの所を射て、大船の腹に穴を開けて射通したので、両方の矢目より水が入って、船は海の底へ舞いながら沈んでしまいました。泳ぎのできる兵たちは、手楯・掻楯([大形の楯])に乗って海に漂っているところを、櫓・櫂・弓の先端に取り付いて、仲間の船に乗り移って助かりました。為朝はこれを見て、「保元の昔は、矢一本で二人の武者を射殺したものだ。嘉應(高倉天皇の時代です。為朝が亡くなったのは1170年のことらしい)の今は一矢で多くの兵を殺してしまった。南無阿弥陀仏」と唱えました。今は思い残すことはないと言って、殿の内に入り、家の柱を背中に当てて、腹を切りました。


(源為朝の子、為頼ですが、為朝に刺殺されたと思いきや、後の歴史に度々登場するのです。「保元物語」も所詮、「物語」ですから、こういった創作があって当然なのですが、『平家物語』にも「自害」したはずの「北の方」たちが、後の歴史に登場することがままありますしね。)


続く


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by santalab | 2013-11-29 15:14 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その4)

御曹子は、「思ひもよらず、沖の方に舟の音のしけるは、なに舟ぞ。見て参れ」とのたまふ。「商人舟やらん、おほく連れ候ふ」と申せば、「よもさはあらじ。我に討つ手の向かふやらん」とのたまへば、案の如く兵船なり。「さては定めて大勢なるらん。たとひ一万騎なりとも、うち破つて落ちんと思はば、ひとまどは鬼神が向かひたりとも射払ふべけれども、多くの軍兵を損じ、人民を悩まさんも不便なり。勅命を背きてつゐには何の甲斐かあらん。去んぬる保元に勅勘をかうぶつて流罪の身となりしかども、この十余年は当所の主となりて、心ばかりは楽しめり。それ以前も九国を管領しき。思ひ出なきにあらず。筑紫にては菊池・原田の兵をはじめて、西国の者どもは、皆我が手柄のほどは知りぬらん。都にては源平の軍兵、殊に武蔵・相模の郎等ども、我が弓勢をば知りぬらんものを。その外の者ども甲冑をよろひ、弓箭を帯したる計りにてこそあらんずれ。為朝ためともに向かつて弓引かん者は思えぬものを。今都よりの大将ならば、ゆがみ平氏などこそ下るらめ。一々に射殺して、海にはめむと思へども、終に叶はぬ身に無益の罪作つてなにかせん。今まで命を惜しむも、自然世もたてなをらば、父の意趣をも遂げ、我が本望をも達せばやと思へばこそあれ。またその上説法を聞きしに、欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因と言へり。されば罪をつくらば、必ず悪道に落つべし。しかれども、武士たる者殺業なくては叶はず。それに取つては、武の道、非分の者を殺さず。よって為朝合戦する事二十余度、人の命を断つ事数を知らず。されども分の敵を討つて非分の者を討たず。鹿かせぎを殺さず、鱗をすなどらず、一心に地蔵菩薩を念じ奉る事二十余年なり。過去の業因によつて今かやうの悪身を受け、今生の悪業によつて来世の苦果思ひ知られたり。されば今、この罪ことごとく懺悔さんげしつ。ひとへに仏道を願ひて念仏を申すなり。このうへは兵一人も残るべからず、皆落ち行くべし。物具も皆龍神に奉れ」とて、落行者どもに各々をのをの形見を与へ、島の冠者為頼ためよりとて、九歳になりけるを呼び寄せて刺し殺す。これを見て、五つになる男子、二つになる女子をば、母いだきて失せにければ力なし。



御曹子(源為朝ためとも為義ためよしの子)は、「思いがけなく、沖の方で舟の音がするぞ、何の舟か。見てこい」と言いました。「商人の舟ではないでしょうか、たくさんの数です」と言ったので、為朝は、「そうではない。きっとわたしを討つために向かってくるのだろう」と言いました、案の定兵船でした。「ならばきっと大勢に違いあるまい。たとえ一万騎であっても、うち破ってでも落ちようと思えば、とりあえず鬼神が向かってこようとも射払うのだが、多くの軍兵を失い、人民が悩むのもかわいそうなことだ。勅命に背いたあげくに何か甲斐があるだろうか。去る保元に勅勘([天皇から受けるとがめ])を受けて流罪の身となったが、この十年余りはこの地の主となって、心ばかりは楽しめた。それ以前も九州を支配した。思い出がないわけではない。筑紫の菊池・原田の兵をはじめとして、西国の者たちは、皆わたしの手柄を知らないだろう。都の源平の軍兵、特に武蔵・相模の家臣たちも、わたしの弓の威力を知ってはおるまい。その他の者たちは甲冑を着て、弓を持っただけの者たちだ。わたしに向かって弓を引く者たちとは思えない。今都からの大将であれば、悪者である平氏など下ってこないだろう。一人一人射殺して、海に落としてしまおうとも思うが、終に夢叶わぬ身で無益の罪をつくって何になることか。今まで命を惜しんだのも、万一世の中が元通りになったなら、父(為義)の遺志もなし遂げ、我が本望も達せようと思へばこそだ。あの当時説法を聞いたが、過去の因を知らんと欲すれば、まさに現在の果を観るべし。未来の果を知らんと欲すれば、まさに現在の因を観るべし(過去の原因を知ろうとすれば、今の結果を見ればよい。未来の結果を知ろうとすれば、今の原因を見ればよい)と言っていた。ならば罪を作れば、必ず悪道([現世で悪事をした結果、死後におもむく苦悩の世界。地獄、餓鬼、畜生])に落ちるに違いない。しかしながら、武士である者は殺業なくしてはおれないものだ。そうであれば、武の道として、過分に殺さないことだ。わたしは合戦すること二十度余り、人の命を奪うこと数知れない。けれども分のある敵を討って道理のない者は討たなかった。鹿を殺さず、魚を獲らず、一心に地蔵菩薩に祈ること二十年余りになる。過去の業因([未来に苦楽の果報を招く原因となる善悪の行為])によって今このような悪身を受けて、今生の悪行によって来世の苦果([過去の悪業のむくいとして受ける苦しみ])を思い知るのだ。ならば今、この罪のすべてを懺悔しなくてはならない。ただ一つ仏道を願って念仏を唱えよう。こうなった以上兵は一人も残るな、皆落ち行け。武具はすべて龍神に奉納せよ」と言って、落行者たち一人一人に形見を与え、島の冠者為頼(源為頼)という、九歳になる子を呼び寄せて刺し殺しました。これを見て、五歳になる男の子、二歳になる女の子を、母が抱いたまま逃げてしまったのでどうすることもできませんでした。


続く


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by santalab | 2013-11-29 15:09 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その3)

大島の者、あまりに物荒く振る舞ひ給へば、竜神八部に捕られて失すらんと喜び思ふところに、事ゆへなくかへり給ふのみならず、あまつさへ、恐ろしげなる鬼童をあひ具して来りたれば、国人ますます怖ぢ恐る。この鬼童の気色を人に見せんとや、常に伊豆の国府へその事となく遣はしけり。しかれば国人、「鬼神の島へ渡り、鬼を捕らへて郎等として、人を喰い殺させらるべし」と、怖ぢ敢へる事なのめならず。されば為朝ためとももなほおごる心や出で来けん。しかれば国人も、「かくてはいかなる謀反をか起こし給はんずらん」など申しけるを、狩野かのう介伝へ聞きて、高倉院の御宇、嘉應かおう二年の春の頃、京上りしてこの由を奏問し、茂光しげみつが領地をことごとく押領し、あまつさえ鬼が島へ渡り、鬼神をやつことして召し使ひ、人民をしへたぐる由を訴へ申しければ、後白河院驚き聞き召して、当国並びに武蔵・相模の勢をもよほして、発向すべき由院宣をなされければ、茂光に相従ふ兵誰々たれだれぞ、伊藤・北条・宇佐美平太へいた・同平次へいじ・加藤太・同加藤次・最六郎・新田四郎・藤内とうない遠景とおかげをはじめとして五百余騎、兵船二十余艘にて、嘉應二年四月下旬に、大島の館へし寄せたり。




大島の者たちは、為朝(源為朝ためとも)があまりに荒い振る舞いをしていたので、竜神八部([天竜八部衆]=[天、竜をはじめとする仏法守護の八神])に捕らわれていなくなったと喜んでいましたが、何事もなく帰ってきただけでなく、その上に恐ろしげな鬼の子を連れて来たので、ますます怖じ気づいて恐ろしがりました。為朝はこの鬼の子を人に見せようとして、いつも伊豆国府に何という用事もなく遣わせました。伊豆国の者たちは、「為朝は鬼神の島へ行って、鬼を捕らえ家来にして、人を喰い殺させようとしている」と、たいそうおびえ恐れました。そうなると為朝もますます乱暴に振る舞うようになりました。伊豆の者たちは、「為朝はきっと謀反を起こすにちがいない」などと言っていることが、狩野介(狩野茂光=工藤茂光)の耳に入ったので、高倉院の御時、嘉応二年(1170)の春頃、京に上ってこのことを天皇に申し上げ、為朝が茂光の領地を押領([他人の所領である田畑や年貢を実力をもって収奪、支配すること])し、その上に鬼が島に渡り、鬼神を下僕として使い、人民を苦しめていることを訴えると、後白河院は驚いて、伊豆国並びに武蔵国(今の東京都あたり)・相模国(今の神奈川県)の勢を集めて、向かい討つように院宣を下されました、茂光は兵を従えて、伊藤・北条・宇佐美平太・宇佐美平次・加藤太(加藤光員みつかず)・同じく加藤次(加藤景廉景廉かげかど)・新田四郎(得川とくがは義季よしすえ?得川=徳川で家康に繋がるらしい。新田義重よししげ=源義重の四男)・藤内遠景(天野遠景)をはじめとして五百騎余り、兵船二十艘余りで、嘉應二年四月下旬に、大島の館に押し寄せました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 12:49 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その2)

さて島を巡りて見給ふに、田もなし、畑もなし。菓子もなく、絹綿もなし。「汝ら、何をもつて食事とする」と問へば、「魚鳥」と答ふ。「網曳く体見えず、釣する舟もなし、またはがも立てず、もちなはも引かず。いかにして魚鳥をば捕るぞ」と問へば、「我らが果報にや、魚は自然と打ち寄せらるるを拾ひ捕る。鳥をば穴を掘りて、領知分けてその穴に入り、身を隠し、こゑを学びて呼べば、その声について鳥おほく飛び入るを、穴の口を塞ぎて、闇捕りにするなり」と言ふ。げにも見れば鳥穴多し。その鳥のせいは、ひえどりほどなり。為朝これを見給ひて、件の大かぶらにて、木にあるを射落とし、空を翔けるを射殺しなどし給へば、島の者ども、舌を振りて怖ぢ恐る。「汝らも我に従はずは、かくの如く射殺すべし」とのたまへば、皆平伏して従ひけり。身に着る物は、網の如くなる太布なり。この布を面々の家々より多く持ち出でて前に積み置きけり。島の名を問ひ給へば、鬼が島と申す。「しかれば、汝らは鬼の子孫か」「さん侯ふ」「さては聞こゆる宝あらば、取り出だせよ。見ん」とのたまへば、「昔まさしく鬼神なりし時は、隠れ蓑・隠れ笠・浮かび靴・沈み靴・剣など言ふ宝ありけり。その頃は舟なけれども、他国へも渡りて、日食人の生贄をも捕りけり。今は果報尽きて、宝も失せ、かたちも人になりて、他国に行く事も叶はず」と言ふ。「さらば島の名を改めん」とて、太きあしおほく生ひたれば、蘆島とぞ名付ける。この島具して七島知行す。これを八丈島の脇島と定めて、年貢を運送すべき由を申しに、船なくしていかがすべきと嘆く間、毎年一度舟を遣はすべき由約束してけり。ただし今渡りたるしるしにとて、件の大童一人具してかへり給ふ。




為朝ためよし(源為朝)が島を見まわると、田もないし、畑もなく、果物も生っていませんでした。島の住人に、「お前たち、何を食っているのだ」と聞くと、「魚や鳥」と答えました。為朝は、「網を曳く者も見えず、釣りをするための舟もないし、またはが([はが]=[鳥を捕らえる装置])も立てず、もち縄([鳥などを捕らえるために、もちを塗った縄])も使う者もいない。どのようにして魚や鳥を捕っているのだ。」と聞くと、「わたしたち幸運の者、魚は波に打ち寄せられるの拾い捕るよ。鳥は穴を掘り、領知を分けてその穴に入って、身を隠して、鳥の声を真似て呼べば、その声を聞いてたくさんの鳥穴に入る、穴の入り口を塞いで、闇捕りするよ」と答えました。その通り見てみると鳥穴が多くありました。その鳥の大きさは、ひよどり(ヒヨドリ科)ほどでした(ひよどりはスズメ目で大きさもスズメほどの小鳥です)。為朝はこれを見て、いつもの大鏑([大鏑矢]=[狩猟用の野矢の一種])で、木にとまっていた鳥を射落とし、空を飛ぶ鳥を射殺したので、島の者たちは、怖気付き恐れました。「お前たちも俺に従わないと、このように射殺すぞ」と言ったので、全員ひれ伏して為朝に従いました。島の住人が着る物は、網のような太布で作られていました。この布をそれぞれの家々よりたくさん持ち出させて積み置きました。為朝が島の名前を聞くと、住人たちは鬼が島と答えました。為朝は、「ならば、お前たちは鬼の子孫か」住人は、「そうよ」為朝、「ならば噂に聞く宝があるだろう。持ってこい。見てみたい」と言いました、住人は、「昔本当に鬼神だった時、かくれみの・かくれがさ・浮かび靴・沈み靴・剣などの宝あったよ。その頃は舟なくても、他国渡って、毎日食人の生贄も捕ったよ。今は果報([前世での行いの結果として現世で受ける報い])もなくて、宝も失い、姿も人になって、他国に行くことできない」と答えました。為朝は、「ならば島の名を改めよう」と言って、太い蘆が多く生えていたので、蘆島と名付けました。為朝はこの島を含めて七島を支配しました。これを八丈島の脇島と決めて、年貢を運送するようにと命じました、船がないのでどうしようかと住人たちが嘆いていると、毎年一度舟を遣らせると約束しました。ただし今渡った証拠として、為朝は大童を一人連れて帰っていきました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 12:08 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その1)

昔の兵どもたづね下つて付き従ひしかば、威勢やうやく盛りにして、過ぎ行くほどに十年にあたる永万えいまん元年の三月に磯に出でて遊びけるに、白鷺・青鷺二つ連れて、沖の方へ飛び行くを見て、「鷲だに一羽に千里をこそ飛ぶと言ふに、いはんや鷺は一二里にはよも過ぎじ。この鳥の飛びやうは定めて島ぞあるらん、追つて見ん」と言ふままに、はや舟に乗つて馳せて行くに、日も暮れ夜にもなりければ、月をかがりに漕ぎ行けば、あけぼのにすでに島影見えければ、漕ぎ寄せたれども、荒磯にて波高く、いはほさかしくて、舟を寄すべきやうもなし。まはして見給ふに、戌亥の方より小川ぞ流れ出たりける。御曹子は西国にて舟には能く調練せられたり、舟をも損ぜず押し上げて見給へば、丈一丈あまりある大量の、髪はそらざまにとり上げたるが、身には毛ひしと生ひて、色黒く牛の如くなるが、刀を右に差しておほく出でたり。恐ろしなども言ふばかりなし。申し言葉も聞き知らざれば、大方推してあひ知らふ。「日本の人ここに島ありと知らねば、わざとはよも渡らじ。風に放たれたるらん。昔より悪風に逢ふて、この島に来る者生きてかへる事なし。荒磯なればをのづから来たる舟は浪に打ち砕かる。この島には舟もなければ、乗つてかへる事なし。食物なければたちまちに命尽きぬ。もし舟あらば、糧尽きざる先に早く本国に帰るべし」とぞ申しける。郎等どもは皆興を冷まして思ひけれども、為朝は少しもさはがず、「磯に舟をきたればこそ波にも砕かるれ。高く引き上げよ」とて、はるかの上へぞ引き上げける。




昔の兵たちも為朝ためとも(源為朝)を探し出して家来に付いたので、威勢も盛んになり、月日が過ぎ行き流刑になって十年目の永万元年(1165)の三月に為朝が磯に出て遊んでいると、白鷺・青鷺が二匹連れだって、沖の方へ飛んで行くのが見えました、「鷲でさえ千里を飛ぶと言うが、鷺が飛んでいく先はまさか一二里ということはあるまい。鳥が飛んでいくということはきっと島があるにちがいない、鳥を追いかけて見てみよう」と言ったかと思うと、すぐに舟に乗って急ぎ進んで行きました、日も暮れて夜になったので、月を篝火代わりにして漕いで行きました、夜明け前に島影が見えたので、漕ぎ寄せましたが、荒磯で波は高く、舟を着けることができませんでした。舟を島のまわりを廻らせて見ると、戌亥([北西])の方角から小川が流れ出していました。御曹子(為朝)は西国で育ったので舟にはよく慣れていました、舟を壊すことなく陸に上げてまわりを見ると、背が一丈(一丈は約3m。そんなに背の高い人はいません)あまりもある数多くの、髪は空に向かって立って、体は毛で覆われて、色は黒くまるで牛のような者たちが、刀を右に差して大勢出てきました。恐ろしいというほかありませんでした。話す言葉も聞きとれず、身ぶり手ぶりで会話しました。「日本人ここに島あること知らない、わざわざやって来ない。風に流されたか。昔から悪風([暴風])に逢って、この島に来た者生きて帰ることない。荒磯で乗って来た舟は波に打ち砕かれるよ。この島には舟ない、乗って帰ることできない。食物ないすぐに命尽きる。舟あったら、食料尽きる前に早く日本帰れ」と言いました。家来たちは皆興味をなくしてしまいましたが、為朝は少しもうろたえることなく、「磯に舟を置いたままだと波に砕かれるぞ。陸高く引き上げよ」と言って、磯からはるか遠くに舟を引き上げさせました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 11:40 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝生捕り遠流に処せらるる事(その2)

為朝ためとものたまひけるは、「我清和天皇の後胤として、八幡太郎の孫なり。いかでか先祖を失ふべき。これこそ公家より賜つたる領なれ」とて、大島を管領するのみならず、すべて五島を打ち従へたり。これは伊豆国住人、狩野かのう茂光しげみつが領なれども、いささかも年貢をも出ださず、島の代官三郎大夫忠重ただしげと言ふ者の婿になつてけり。茂光は、「上臈婿取つて我をわれともせず」と忠重ただしげを恨みければ、かくして運送をなすを、為朝聞き付けて、しうと忠光を呼び寄せて、「このくだり奇怪なり」と言ふうへ、勇士なれば始終わがため悪しかりなんとや思ひけん、左右の手の指を三づつ切つて捨ててけり。そのほか弓矢を取つて焼き捨つ。すべて島中に我郎らの外、弓箭を置かざりけり。




為朝(源為朝)が言うには、「わたしは清和天皇の子孫(清和源氏)で、八幡太郎(源義家よしいへ)の孫(為朝の父は為義ためよし義家よしいへの養子になったので、為朝は義家の孫となった)だ。どうして先祖の土地を失うことがあろう。ここは公家より賜わったわたしの領地だ」と言って、伊豆大島を領有するだけでなく、すべて伊豆五島を支配しました。そこは伊豆国の住人、狩野介茂光(狩野茂光=工藤茂光)の領地でしたが、少しも年貢も納めず、島の代官三郎大夫忠重という者の婿になっていました。茂光は、「身分の高い婿を取っておきながらわたしを大切にしない」と忠重を恨んでいました、忠光が作物を茂重に送ることを、為朝が聞きつけて、舅([妻の父])である忠重を呼び寄せて、「とんでもない奴め」と言って、勇士でもあり為朝にとって都合が悪いと思ったのか、左右の手の指を三本ずつ切って捨ててしまいました。また島の弓矢を取って焼き捨てました。島中に為朝たちのほかに、弓矢を持つ者はいなくなりました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 11:21 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝生捕り遠流に処せらるる事(その1)

さるほどに、「為朝ためともを搦めて参りたらん者には、不次の賞あるべし」と宣旨下りけるに、八郎、近江国輪田と言ふ所に隠れて、郎等一人法師になして、乞食させて日を送りけり。筑紫へ下るべき支度をしけるが、平家の侍筑後守家貞いへさだ、大勢にて上ると聞こえければ、そのほど昼は深き山に入りて身を隠し、夜は里に出でて食事を営みけるが、有漏の身なれば病み出だして、灸治などおほくして、温室大切の間、古き湯屋を借りて、常に居り湯をぞしける。ここに佐渡兵衛重貞しげさだと言ふ者、宣旨をかうぶつて、国中を尋ね求めけるところに、ある者申しけるは、「このほどこの湯屋に入る者こそ怪しき人なれ。大男の恐ろしげなるが、さすがに尋常気なり。歳は二十ばかりなるがひたひに傷あり、由々しく人に忍ぶと思えたり」と語れば、九月二日湯屋に居りたる時、三十余騎に手し寄せてけり。為朝真つ裸にて、合ひ木を持つて数多あまたの者をば打ち伏せたれども、大勢に取り籠められて、言ひ甲斐なく搦められにけり。季実すゑざね判官請け取つて、二条を西へ渡す。白き水干・袴に、赤き帷子かたびらを着せ、もとどりに白櫛をぞ挿したりける。北の陣にて叡覧あり。公卿・殿上人は申すに及ばず、見物の者市をなしけり。おもての傷は合戦の日、政清まさきよに射られたりとぞ聞こえける。すでに誅せらるべかりしが、「以前の事は合戦の時節なれば力なし。事すでに違期せり。いまだ御覧ぜられぬ者の体なり。かつは末代にありがたき勇士なり。しばらく命を助けて遠流せらるべし」と議定ありしかば、流罪に定まりぬ。ただし息災にては後悪しかりなんとて、かひなを抜きて伊豆の大島へ流されけり。かくて五十余日して、肩つくろひて後は、少しよはくなりたれども、矢束やづかを引く事、今二つ伏せ引き増したれば、物の斬るる事昔にをとらず。




やがて、「為朝(源為朝)を捕らえて連行した者には、破格の褒美を与えよう。」と宣旨が下りました、八郎(為朝)は、近江国輪田(「輪田」=「和田」でしょうか。ならば、今の滋賀県甲賀市ですが)という所に隠れ住んで、家来を一人法師にさせて、乞食をさせて日を送っていました。筑紫へ下るための支度をしていました、平家の侍筑後守家貞(平家貞)が、大勢で上ってくると聞いたので、昼は深い山に入って身を隠し、夜は里に出て食事をしました、有漏([煩悩])の身でしたので病いが出て、灸治([灸をすえて治療すること])など多くの治療をしましたが、体を温めるのが大切ということで、古い湯屋([浴場のある建物])を借りて、いつも居り湯([別に沸かした湯を湯船に移し入れて使う風呂])をしていました。そこへ佐渡兵衛重貞(佐渡重貞)という者が、宣旨を賜って、国中為朝を探し求めていると、ある者が言うには、「最近この湯屋に入る者が怪しいのです。大男で恐ろしげですが、いつも目立たないようにしています。歳は二十ほどですが額に傷があり、明らかに人から隠れているように思えます」と話したので、九月二日為朝が湯屋に入った時、三十騎余りで攻めました。為朝は裸のまま、そのあたりにあった木を持って多くの者を打ち伏せましたが、大勢の者たちに囲まれて、言葉もなく捕らわれてしまいました。季実判官が為朝を受け取って、二条を西へ連行しました。白色の水干([狩衣の一種])・袴に、赤色の帷子([単衣の着物])を着て、髪に白櫛を挿していました。北の陣([内裏の北の朔平さくへい門にあった兵衛府の詰所])で後白河天皇がご覧になりました。公卿・殿上人は言うまでもなく、見物の者たちがまるで市のように列をなしました。顔の傷は合戦の日に、政清(鎌田政清)に射られたということでした。すぐに死罪になるはずでしたが、「前のことは合戦でのことだから仕方のないことだ。それにもう終わったことである。今まで見たことのないりっぱな体格をしておるの。ならば今後何かの役に立つ勇士だ。しばらく命を助けて遠流にしようではないか」と評議があって、流罪と決まりました。ただし元気なままでは悪事を働くかもしれないと、腕の関節を抜いて伊豆大島に流しました。こうして五十日余り経って、肩も直った後は、少し力は弱まったけれども、矢を射ることについては、前に増して二つ伏せ([伏せ]=[一束]=[握りこぶしの親指を除いた指四本の幅])長く弓を引けるようになったので、威力は前に劣ることはありませんでした。


続く


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by santalab | 2013-11-29 11:07 | 保元物語 | Comments(0)

    

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