Santa Lab's Blog


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「平家物語」請文(その4)

ただしこれについてかれを案ずるに、通盛みちもりきやう以下当家たうけ数輩すはい摂州せつしう一の谷にてすでにちうせられはんぬ。なんぞ重衡一人いちにん寛宥くわんいうをよろこぶべきや。それ我が君は、故高倉のゐんの御ゆづりを受けさせ給ひて、御在位ざいゐすでに箇年、まつりごと尭舜げうしゆんの古風をとぶらふところに、東夷とうい北狄ほくてきたうを結び軍をなして入洛じゆらくあひだ、かつうは幼帝えうてい母后ぼこうの御嘆きもつとも深く、かつうは外戚ぐわいせき近臣きんしんいきどほり浅からざるによつて、しばらく九国にかうす。還幸くわんかうなからんにおいては、三種さんじゆ神器しんきいかでか玉体を放ち奉るべきや。それ臣は君をもつて心とし、君は臣をもつてたいとす。君安ければすなはち臣安く、臣安ければすなはち国安し。君かみに憂ふれば臣しもに楽しまず。心中しんぢうに憂へあれば、体外たいぐわいによろこびなし。曩祖なうそ平将軍へいしやうぐん貞盛さだもり相馬さうま小次郎こじらう将門まさかど追討つゐたうせしよりこの方、とう八箇国をしづめて、子々孫々ししそんぞんに伝へて、朝敵てうてき謀臣ぼうしん誅罰ちうばつして、代々世々だいだいせぜにいたるまで、朝家てうかの聖運をまぼり奉る。しかればすなはち故亡父ばうふ太政だいじやう大臣、保元平治両度りやうど逆乱げきらんの時、勅命ちよくめいを重んじてわたくしのめいかろんず。これひとへに君のためにして、まつたく身のためにせず。




あれこれ考えますと、通盛卿(平清盛の弟平教盛のりもりの嫡男)以下、当家(平家)数人が、摂津国一の谷(神戸市須磨区)ですでに誅せられました。なぜ重衡(平重衡。清盛の五男)一人の寛宥([寛大な気持ちで罪過を許すこと])をよろこぶべきでしょう。それに我が君(第八十一代安徳天皇)は、故高倉院(第八十代天皇。安徳天皇の父)から帝位を譲り受けられて、在位すでに四年、政治を尭舜([中国古代の伝説上の帝王、尭と舜])の古風([昔の風習])に倣っているところに、東夷([粗野な東国武士])北狄([北方の異民族])が、党を組み軍勢となって入洛したので、幼帝(安徳天皇)母后(安徳天皇の生母で清盛の娘徳子とくこ=建礼門院)の嘆きは深く、また外戚(天皇母方の親族=平家)近臣の怒りも浅からずして、しばらく九国([九州])に移られたのです。帝の還幸なしに、三種の神器([八咫鏡やたのかがみ天叢雲剣あまのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])をどうして玉体([天皇の体])から離さなくてはならないのでしょう。臣は忠心をもって仕え、君は臣をもって体をなすものです。君が安心であれば臣もまた安心し、臣が安心であればこそ国も安全なのです。君に憂うことあれば臣も心穏やかでなく、心に心配事があれば、よろこべないのと同じことです。曩祖([祖先])である平将軍貞盛(平貞盛)が、相馬小次郎将門(平将門)を追討してより、平家が東八箇国([相模・武蔵・安房あは上総かづさ下総しもふさ・常陸・上野かうづけ下野しもつけ])を平定して、子々孫々に伝え、朝敵謀臣を誅罰して、代々世々にいたるまで、朝家の聖運([天子の運命])をお守りしてきたのです。だからこそ故亡父太政大臣(平清盛)は、保元(保元の乱(1156))平治(平治の乱(1159))両度の逆乱の時、勅命を重んじて命を惜しまなかったのです。これすべて君(後白河院)のためであって、我が身のためにしたことではありません。


続く


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by santalab | 2013-07-30 07:11 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その16)

「御返り、いかが聞こえむ」と言へば、「いさ、物言へば、ひごみたりと、かしがましう言へば、聞き苦し。よきこと知り、物の心知りたらむ人、推し量りて申せかし」と言へば、守「人のために申すにもあらず、御身のためのことなり。三、四の君、御前をも、『いかに仕うまつらむ』と大将殿ののたまへば、北の方の御心に従ひ給ふにこそ。一つ同胞はらからの御心だに、かくやはある」と咎めれば、「かくこの御方ののたまふこと。麻呂は、いかに。心憂し。我が得たらむ丹波の荘は、年に米一斗だに出で来べき侍らず。今一つは越中にて、たはやすく物もはかるべきにあらず。弁の殿の得給へるは、三百石の物出で来なり。かく遠くしきは、景純かげずみり、くれたるなり」と、いみじくさいなみけれど、誰も誰も、大殿おとどのし置き給ひしを皆見給ひて、「かくやはのたまふべき。ただこれにて思せ。隔てなく、片身に顧みるべき人だに、かかる心を持ち給へる」と言へば、北の方「あはかしがまし。いたくな言ひ沈めそ。誰も誰も皆貧しければ、言ふにこそあらめ」と言ふほどに、左衛門の佐の来会ひて、心にもあらず思え、「身貧しけれど、よき人は、方異に、あやどるに、をかしうぞある。先づ、北の方の、ここにおはせしほどは、聞い奉り給へしが、いささか、のたまへること聞こえざりかし。かく心苦しき御物言ひも、あはれに従ひて、『心やはらまなり』とこそは、みそかにのたまふめりしか」とのたまへば、北の方「いかで、我死なむ。憎き、しき者にのたまへば、罪もあらむ」とのたまふに、「あなかしこ。よしよし、聞こえさせじ」とて、二人ながら、掻い続きて立てば、さすがに、「やや、この御返事申せ」と招き給へば、聞き入れぬやうにて、往ぬ。




越前守(故大納言の長男)は北の方に「返事は、どうしましょう」と言うと、北の方は「どうかしら、何か申せば、僻み言だと、あれこれ言われます、聞きたくありません。正しいことを知って、人の心を分かる者が、適当な返事をすればよいでしょう」と答えました、越前守が「人のために申すのではありません、母上のためです。三、四の君、母上も、『できるばかりのことをしてさしあげましょう』と左大将殿が申してくれたのです、北の方(落窪の君)の意向を汲んでのことです。実の子でも、そんなことは申しません」と北の方を咎めれば、北の方は「そんなことを落窪の君が申すはずがありません。わたしが、どんなに、悲しんでいるかも知らないで。わたしがいただいた丹波荘なんて、一年に米一斗(十升=約18リットル)さえもできないのですよ。もう一つは越中で、田さえ簡単に作れない所だわ。弁殿(右中弁。中の君の夫)のいただいた所なんて、三百石(一石=約180リットル)の米が出来るのに。こんなに遠く出来の悪い所を、景純(越前守=故大納言の長男)が選んで、わたしにくれたのでしょうけど」と、越前守を責めました、誰かれも、大殿(故大納言)があらかじめ決めておいたことを知っていたので、越前守が「そんなことをおっしゃいますな。父上がお決めになったことです。離れることなく、父上にずっと寄り添ったあなたでさえ、そんな風に思っているとは」と言うと、北の方は「だまらっしゃい。わたしをそんなに責めないで。これも誰もかれもが皆貧しいからです、愚痴の一つくらい言いたくなるものですよ」と言っているうちに、左衛門佐(故大納言の三男)がやって来て、思ってもいないことを聞いて、「わたしは確かに貧しいけれど、心のきれいな人は、そんなことは言いませんよ、上品で、美しいものです。先ほど、大将殿の北の方(落窪の君)が、わたしの許に来たので、話をしましたが、まったく、不平など言っていませんでした。あなたの愚痴さえも、哀れに思って、『心穏やかであられますように』と、密かに申しているそうです」と言いました、北の方が「どうせ、わたしが死ねばいいと思っているに違いないんですから。わたしを憎み、心の悪い者と言う者には、ばちが当たることでしょう」と言うと、左衛門佐は「分かりましたよ。もうよしてください、わたしも何も申しませんから」と言って、二人(越前守と左衛門佐)とも、立ってしまいました、さすがに北の方も、「ちょっと待ちなさい、返事はどうするのですか」と呼び戻しましたが、二人は聞こえないふりで、出て行きました。


続く


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by santalab | 2013-07-30 07:03 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その15)

守、北の方、君たちに、「かうかうなむのたまへる」と言へば、北の方、この家は、いと惜しかりつるに、いとうれしくのたまへば、なほ、我はとらうじ代へらるると見ると思ふに、いとねたければ、「落窪の君の、かくし給ふか。いで、あはうれしのことや」と言ふに、越前の守、ただ腹立ちに腹立ちて、爪弾きをして、「うつし心にはおはせぬか。先々は、いとほしく恥をか見、ちようぜられ給ひし。引き返へて、かくねむごろに顧み給ふ御徳をだに、かつ見で、かくのたまふ。まして昔、いかなる様に。人聞きも、我が身も、物苦ほしや、落窪、何くぼとのたまふ」と言へば、北の方「何ばかりの徳か、我は見侍る。大殿おとどは父なれば、せしにこそあめれ。取りはづして落窪と言ひたらむ、何か僻みたらむ」と言へば、越前の守「あはれの御心や。物思ひ知り給はぬじぞかし。徳は見ずと。御心にこそ、差し当たりて、見ずと思すらめ、大夫、左衛門の佐になりたるは、誰がし給ふにか。景純かげずみはこの殿の家司けいしになりて加階せしは、誰がせしぞ。今にても見給へ。また、をのこも人々しくならむことは、ただこの御徳。先づは家も賜はぬに、この家領じ給はましかば、いづこに引き続きておはせまし。先づただ思し合はせよ。目の前なる事どもを見れば、うれしく哀れに思え給はずやある。景純らも、国を治めて、徳なきにしあらねど、妻を先づ思ふとて、え奉らず。今にてもえ奉るまじきは、子、心ざしの薄きぞかし。おのが生みたらむ子どもだに、かく愚かにて、仕うまつらぬ。御身は、かく哀れなる御心ばへを、泣く泣くこそ喜び聞こえ給はめ」と、とにかくに言ひ知らすれば、げにと思ひて、いらへせず。




越前守(故大納言の長男)は、北の方、君(故大納言の娘)たちに、「左大将殿がこのように申しました」と言うと、北の方は、この家を手放すことを、とても惜しんでいたので、うれしい知らせと、今まで通り、北の方の持ち物のままだと思うと同時に、落窪の君をとても妬ましく思って、「落窪の君が、そう口添えでもしたかえ。まぁ、うれしいことには違いないけれども」と嫌味言を申したので、越前守は、ただただ腹立ちするばかり、爪弾き([嫌悪・軽蔑・非難などの気持ちを表すしぐさ])をして、「心を入れかえるお気持ちはないのですか。この前、まことにはずかしい恥をかき、懲りたはずです。あなたに比べて、これほどまでに親切にしようとする落窪の君の徳([人徳])さえも、分かろうとせずに、そんなことを申すとは。ましてや昔、落窪の君にどんな仕打ちをして来たのですか。人聞きも、そして我が身さえも、心苦しくなります。落窪、何くぼと申していたでしょう」と言うと、北の方は「そんなものが何の徳になると言うんです、わたしには分かっているのよ、大殿(故大納言)は落窪の君の父なんですから家を与えたんです、けれどわたしだってできることはやって来たつもりです。出来の悪い子だったから落窪と言ったまでのこと、何を嫌味たらしく」と答えたので、越前守は「なんと哀れな心を持っているのですか。何も理解されないのですね。徳も分からないとは。あなたには、きっと、分からないと思いますが、(故大納言の三男が)大夫、左衛門佐([左衛門府の次官])になれたのは、誰のおかげだと思っているのですか。わたし景純(越前守)を左大将殿の家司([親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職])となって加階([位階を上げること])させたのは、誰ですか。今の有様を見てください。そうです、息子たちが人としてあるのは、ただ左大将殿の徳によるものではありませんか。あなたは家も持っていないのに、この家を左大将殿が持たれたら、いったいどこに住むというのですか。とにかく左大将殿と落窪の君に感謝なさいませ。目の前の物事を見れば、うれしくありがたいことと思わずにいられないでしょう。わたし景純たちも、国を治めていますから、決して徳がないわけではありませんが、妻を思うと、母上に財産を差し上げることはできません。今も差し上げることができないのは、子として、親を思う気持ちが薄いからです。あなたが生んだ子でさえも、愚かにも、十分にしてあげられません。母上、落窪の君のありがたい気持ちを、泣いてよろこび申し上げてください」と、あれこれと言うのも、当然のことと思って、北の方は返事もしませんでした。


続く


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by santalab | 2013-07-29 07:13 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」請文(その3)

再び物を思はせぬ先に、ただ我を失へや」とて、をめき叫び給へば、まことにさこそはといたはしくて、皆伏し目にぞなられける。新ぢう納言知盛とももりきやうの意見にまうされけるは、「さしもに我がてう重宝ちようほう三種さんじゆ神器しんきを都へかえし入れ奉たりとも、重衡しげひら返し給はらんことあり難し。ただそのやうを恐れなく、御請け文にまうさせ給ふべうもやさふらふらん」と申されければ、この儀もつともしかるべしとて、大臣殿御請け文を申さる。二位にゐ殿は涙に暮れて、筆の立てども思え給はねども、心ざしをしるべに、泣く泣く御返り事書き給へり。北の方大納言のすけ殿は、とかうのことをものたまはず、引きかづいてぞ伏し給ふ。その後平大納言時忠ときただきやう、院宣のお使ひ、御壺の召し次ぎ花形はなかたを召して、「なんぢ法皇ほふわうのお使ひとして、大波路おほなみぢしのいで、はるばるとこれまで下つたるしるしに、汝一期があひだの思ひ出一つあるべし」とて、花形がつらに、波形なみかたと言ふ焼い印をぞせられける。都へ返り上つたりければ、法皇ほふわう叡覧あつて、「汝は花形か」。「さんざふらふ」。「よしよし、さらば波形とも召せかし」とて、笑はせおはします。その後請け文をぞ開かれける。「今月こんぐわつ十四じふし日の院宣、同じき二十八日、讃岐国屋島の磯に到来たうらい、慎んでもつてうけたまはるところくだんの如し。




再び悲しい思いをする前に、どうかわたしを殺してください」と言って、泣き叫びました、とても気の毒になって、皆目を伏せてしまいました。新中納言知盛卿(平知盛。清盛の四男)が意見を言うには、「もし我が国の大切な宝である、三種の神器を都へ返したところで、重衡(平重衡。清盛の五男)を返してくれることはないでしょう。頼朝(源頼朝)がどういうつもりでいるのか、請け文([承諾したことを書いた文書])に書いてみればどうでしょうか」と言ったので、もっともなことだと、大臣殿(平むねもり。清盛の三男)が請け文を口述しました。二位殿(清盛の継室平時子ときこ)は涙に暮れて、筆を起こすこともままなりませんでしたが、重衡への思いを筆に託して、泣きながら返事を書きました。重衡の北の方大納言佐殿は、何もいえずに、着物を引き被いて伏していました。その後大納言時忠卿(平時忠。二位殿=時子の兄)は、院宣の使いである、御壺の召し次ぎ([院の庁で、雑事を務めた下級役人])花形を呼んで、「お主は法皇(後白河院)の使いとして、大波路を、はるばるとここまで下った印として、お主の一生の思い出となるようなものを与えよう」と言って、花形の顔に、波形という焼き印を付けました。花形が都に戻ると、後白河院がご覧になって、「お主は花形か」。「そうでございます」。「そうか、ならば波形を見せてみよ」と言って、笑われました。その後請け文を開きました。「今月十四日の院宣、同じ二十八日に、讃岐国屋島(今の香川県高松市)に到着、慎んで以下の通り承りました。


続く


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by santalab | 2013-07-29 07:11 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」禿髪

かくて清盛公、仁安にんあん三年十一月十一日、歳五十一ごじふいちにて病ひにをかされ、存命の為にとて、すなはち出家しゆつけ入道にふだうす。法名ほふみやうをば淨海じやうかいとこそ付き給へ。その故にや、宿病しゆくびやうたちどころに癒えて天命をまつたうす。出家の後も、栄耀えいえうはなほ尽きずとぞ見えし。おのづから殿従ひ付き奉ることは、吹く風の草木をなびかすごとく、世のあふげることも、降る雨の国土をうるほすに同じ。六波羅殿の御一家いつけの君達とだに言へば、華族くわそくも英雄も、たれ肩を並べ、おもてを向かふ者なし。また入道にふだう相国しやうこく小舅こじうとへい大納言時忠ときただきやうののたまひけるは、「この一門にあらざらん者は、皆人非人にんぴにんたるべし」とぞのたまひける。さればいかなる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子ゑぼしのためやうより始めて、衣文えもんの掛き様にいたるまで、何事も六波羅様とだに言ひてしかば、一天いつてん四海しかいの人皆これを学ぶ。いかなる賢王けんわう賢主けんしゆの御まつりごと摂政せつしやうくわんばくの御成敗にも、世にあまされたるほどのいたづら者などの、かたはらに寄り合ひて、何となそりかたぶけ申すことは常の習ひなれども、この禅門世ざかりのほどは、いささかゆるがせに申す者なし。その故は入道相国のはかり事に、十四五六じふしごろくの童を三百人過ぐつて、髪を禿髪かぶろに切りまはし、あか直垂ひたたれを着せて、召し使はれけるが、京中きゃうぢうに満ち満ちて往返わうばんしけり。自づから平家の御事、悪し様に申す者あれば、一人いちにん聞き出ださぬほどこそありけれ、余党よたうに触れまはし、かのいへ乱入らんにふし、資財雑具ざふぐ追捕つゐふくし、その奴をからめて、六波羅殿へまゐる。されば目に見、心に知ると言へども、言葉に表はしてまうす者なし。六波羅殿の禿髪とだに言へば、道を過ぐる馬車むまくるまも、皆よぎてぞとほしける。禁門を出入しゆつにふすと言へども、姓名しやうみやうたづねらるるに及ばず。京師けいし長吏ちやうり、これがために目をそばむと見えたり。




こうして清盛公(平清盛)は、仁安三年(1168)十一月十一日(史実では二月十一日、誤写か?)、五十一歳ので病に冒され、生き長らえるために、すぐに出家し仏門に入りました。法名は淨海と名付けられました。それが功を奏したのでしょうか、病気はたちまち治って寿命を果たしました。出家の後も、栄華はなお尽きていないようでした。自然と天皇に従事することは、吹く風が草木をなびかせるのと同じように、世の者たちからうやまわれるのも、降る雨が国土をうるおすのと同じく当然のことでした。六波羅殿(平清盛のこと、京都六波羅、今の京都市東山区に平家の大殿があったらしい)一家の子息と言えば、華族(清華家、公家)も英雄(清華家と同じ)も、誰一人対等に張り合い、立ち向かえる者はいませんでした。また入道相国(清盛のこと、[相国]=[太政大臣])の義兄弟である平大納言時忠卿(平時忠、清盛の正室、時子の弟)が言うには、「清盛一門でない者は、皆人非人(人でなし)である」と言っておりました。そんな訳でどんな人も、この一門と関係を持とうとしました。烏帽子(公家のイメージが強いが、室町時代以降のことらしい。それまでは公家でなくとも被っていたそうな。先が折れ曲った黒い帽子)の折れ様から始めて、着物の着方にいたるまで、どんなことでも六波羅の様だと言っては、一天四海(日本中)の者たちは真似をしました。どのような賢王(賢明な君主)、賢主(賢王に同じ)が政治を行おうとも、摂政関白が法を定めようとも、世の者たちがが持て余すほどのいたずら者(何の役にも立たない者)などが、道脇とかに集まって、何かに文句をつけたり人を悪く言って非難するのが世の常であるけれども、この禅門(清盛のこと)が全盛であれば、多少なりとも一門のことをぞんざいに言う者はありませんでした。その訳は入道相国(清盛)の計略にありました、十四五六歳の童を三百人以上集めて、髪を禿(髪を短く切り揃えた子どもの髪型、おかっぱ)に切って、赤色の直垂(庶民が着る平服)を着せて、使用人としましたが、童たちが京中に満ち溢れて行ったり来たりしました。平家のことを、悪く言う者があれば、誰一人聞く者がいなければともかくもそうでなければ、残りの童たちに触れまわって、その者の家に押し入っては、財産やいろいろな道具を奪い取り、その奴を縄で縛って、六波羅殿(清盛の御殿)へ引き連れて行きました。その様子を見たり、知ったりすれば、言葉に出して平家の悪口を言う者はいなくなりました。「六波羅殿の禿髪」と言っただけで、道を往来する馬車も、皆道を避けて通してくれました。禁門(皇居)に出入りしても、名前をたずねられることもありません。京師(京)の長吏(役人)さえも、「六波羅殿の禿髪」から目をそらせました。


続く


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by santalab | 2013-07-28 19:55 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」請文(その2)

かつうは頼朝がかへり聞かんずるところも、言ふ甲斐かひなうさふらふ。そのうへ帝王ていわう御世おんよを保たせ給ふ御事も、ひとへにこの内侍所ないしどころの渡らせ給ふ御ゆゑなり。さて世の子ども、親しき人々をば、中将ちうじやう一人いちにんに思し召しかへさせ給ふべきか。この悲しいと言ふことも、事にこそより候へ。努々ゆめゆめ叶ひ候ふまじ」とのたまへば、二位にゐ殿、よにも本意ほいなげにて、重ねてのたまひけるは、「我故入道にふだう相国しやうこくに遅れて後は、一日片時へんし命生きて、世にあるべしとは思はざりしかども、主上しゆしやうのいつとなく、西海の波のうへに、漂はせ給ふ御心苦しさ、再び世にあらせ奉らんがために、憂きながら今日けふまでも永らへたれ。中将一の谷にて、生捕りにせられぬと聞きし後は、いとど胸堰きて、湯水ゆみづも喉へ入れられず。中将この世になきものと聞かば、我も同じ道に赴かんと思ふなり。




また三種の神器を返したところで頼朝が重衡しげひら(平重衡。清盛の五男)の願いを、叶えるとはとても思えません。その上、帝王(安徳天皇)が世を治められるのも、ひとえにこの内侍所([八咫鏡やたのかがみ])があってのことなのです。世の子ども、親しい者たちを、中将(重衡)一人と引き換えにすべきでしょうか。冷たいことを言うようですが、そういう訳なのです。よもや叶えられるものではないでしょう」と言えば、二位殿(清盛の継室平時子ときこ。重衡の生母)は、少しも納得できなくて、重ねていうには、「わたしは故入道相国(平清盛)と死に別れて後は、一日片時も命を生きて、世にあるべきとも思いませんでしたが、主上(安徳天皇)がいつまでも、西海の波の上に、漂っておられるのが心苦しく、再び世を治められますようにと、悲しみながらも今日まで命を永らえてきたのです。重衡が一の谷で、生捕りにされたと聞いた後は、いっそう胸が苦しくて、湯水さえ喉を通りません。もし重衡がこの世からいなくなったと聞いたなら、わたしも同じ道に赴きたいと思っているのです。


続く


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by santalab | 2013-07-28 08:01 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その14)

大将殿「しうはあらぬ所々をこそは領じ給ひけれ。この家は、などか君達、北の方の御中には奉り賜はざりし。異所のあるか」とのたまへば、女君「さもなし。ここは、かう久しう年頃住み給はれば、得じ。北の方に奉りてむとなむ思ふ」とのたまへば、男君「いとよきこと。これは、君得給はずとも、おのれあれば、おはしなむ。皆、怨みの心もあらむ」と、うち語らひ給ひて、越前の守近う呼び寄せて、「そこに、その事どもは知らむ。など、いとここがちには見ゆるぞ。豪家とわづらはしがりてあるか」と、うち笑ひ給へば、守「さらに、さも侍らず。もと、物し給ひし時、皆、し置き、預け奉るなり」と申せば、「さかしうも、そ給ひけるかな。『ここに誰も誰も住みつき給ふめるを、何しにかは』と、ここにのたまふめればなむ。北の方、り給ふべし。この帯二つは、衛門の佐と、そこにと、一つづつ。美濃なる所の券と帯一つ、留めつる。無下に、さ、し置き給ひけむ御心ばへの、甲斐かひなきやうなれば」となむのたまへば、越前の守「いと不便なること。みづからし置き侍らぬことなりとも、殿になむ。知ろし召すべし。いはむや、さらに『我が、かく、し置く』など言ひ置き侍るにしたがひては。誰も誰も皆少しづつ分かたれ侍るめるものを」とて取らせねば、大将「怪しくも言ふかな。自らの心、僻様ひがざまひし置かばこそあらめ。かく見給へば、ここに得給ふ、同じこと。この君は、おのれあらむ限りは、さてものし給ひてむ。うち続き、幼き人々あれば、頼もし。うて、はやう四の君なむ、思ふ人少なきやうに物し給ふなるを、おのれ一向にり聞こえむと思ふ。その君たちの得給はむに添へられよ。今ニ所には、御夫たちになむつけて仕うまつるべき」とのたまへば、越前の守、かしこまり喜ぶ。「先づ、かくなむと物し侍らむ」とて立てば、「もし返しなどし給へむ、取りて物し給ふな。むつかし、同じことをのみ言へば」とのたまふ。「帯は、なほ、かくて、人に賜はせ、遣はせ給はむ」と申し給へば、「今用ならむりは物せむ。うとき人たちにしあらねば」とて、ひて取らせ給ふ。




左大将殿は「よい領地をお持ちですね。この家は、どうして娘たち、北の方に譲られなかったのですか。ほかに家をお持ちですか」と申すと、落窪の君は「ほかにはありません。ここは、北の方、姉妹たちが長く住んでいるのですから、いただくことはできません。北の方に差し上げてはどうでしょうか」と言いました、左大将殿は「それはよい。ここを、落窪の君がいただかなくとも、わたしがいるのだから、三条殿に住めばよいことだ。すべていただいたなら、恨む者も出てこよう」と、落窪の君と話して、越前守(故大納言の長男)を近くに呼び寄せて、「あなたも、分かっているでしょう。どうして、わたしばかり譲られるのですか。豪家と思って気をつかっているのでは」と申して、笑いました、越前守は「まったく、そのようなことはございません。父(大納言)が、遺言を申した時に、皆、分けて、わたしに預けたものなのです」と申すと、左大将は、「それは賢い、ことをなされました。『けれどもこの殿には故大納言のお子たちが皆住んでいるのに、どうしていただくことができましょう』と、落窪の君が申しておる。北の方に、お与えください。この帯二つは、衛門佐(故大納言の三男)と、あなたが、一つずつもらえばよい。わたしたちは美濃の荘園の券([荘園・田地・邸宅などの所有を証明する手形])と帯一つを、いただきましょう。無下に、故大納言殿が、分けてくださったお気持ちを、無駄にはできませんから」と申しました、越前守は「それは困ります。たとえ父が取り分けなかったとしても、左大将殿に差し上げるべき物なのですから。分かってくださいませ。申すまでもなく、『故大納言が、こうして、分けて置く』と申して取り置いた意思に背くことになります。わたしたちは皆少しずつ遺産を分けてもらっています」と言って左大将が返そうとする品々を受け取りませんでした、左大将が「そうおっしゃいますな。わたしは、故大納言の意思に背くとは思ってはいない。故大納言のお気持ちを知ることができたのであれば、わたしがいただいたも、同然のこと。落窪の君はわたしがいる限り、今まで通り暮らして行ける。わたしたちには、幼い子たちもいるのだから、後々の安心だ。むしろ、すぐにでも四の君(故大納言の四女)の、世話をする者もいないようだし、わたしがすべて面倒を見ようと思っているくらいだ。あなたたちが与えられた遺産の足しにしてほしい。二人(大君と中の君)には、夫に対して便宜を図ってあげよう」と申すと、越前守は、かしこまり喜びました。「さっそく、左大将殿の話を伝えましょう」と言って立ったので、左大将殿は「もし返されても、受け取らないでくれ。面倒だ、同じことを言うのは」と申しました。そして「帯は、やはり、今のまま、お主(越前守)が持っていてください、必要になれば人を遣ります」と申すと、越前守は「入り用になればすぐにお返しします。遠い間柄ではありませんから」と言いました、左大将は無理やり越前守に帯を受け取らせました。


続く


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by santalab | 2013-07-28 07:50 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」鱸(その3)

「太政大臣は一人いちじんに師範として、四海しかい儀刑ぎけいせり。国ををさめ道を論じ、陰陽いんやうやはらげをさむ。その人にあらずは、すなはち欠けよ」と言へり。則闕そくけつくわんとも名付けられたり。その人ならではけがすべき官ならねども、この入道にふだう相国しやうこく一天いつてん四海しかいたなごころの内に握り給ふうへは、子細に及ばず。そもそも平家かやうに繁盛はんじやうせられけることは、ひとへに熊野権現の御利生ごりしやうとぞ聞こえし。そのゆゑは、清盛いまだ安芸のかみたりし時、伊勢の国安濃あのの津より、船にて熊野へまゐられけるに、おほきなるすずきの船へをどり入つたりければ、先達せんだちまうしけるは、「昔、周武王しうぶわうの船にこそ、白魚はくぎよは踊り入つたるなれ。いかさまにもこれは権現の御利生と思え候ふ。参るべし」と申しければ、さしも十戒じつかいを保つて、精進しやうじん潔斎けつさいの道なれども、みづか調味てうびして我が身喰ひ、いへの子郎等らうどうどもにも喰はせらる。その故にや吉事きちじの身内続いて、我が身太政だいじやう大臣に至り、子孫の官途くわんども、りようの雲に昇るよりはなほすみやかなり。九代くだいせんじようを超え給ふこそめでたけれ。




「太政大臣は天皇の手本として、天下に模範を示さなければならない。国を治め進むべき道を論じ、陰陽(吉凶)をおだやかに落ち着かせる。該当する者でなければ、すみやかに解職すること」と言われていました。則闕の官(太政大臣のこと、[則闕]=[たちまち欠く])とも名付けられました。能力を備えた者でなければ位につくことが許されない官職でしたが、この入道相国(平清盛のこと)は天下を掌握した限りは、細かな事情を申し上げることもないでしょう。そもそも平家がこのように栄華を極めたのは、一言でいうと熊野権現(熊野三所権現、つまり、熊野三社の主祭神である本宮の家都御子神けつみこのかみ、新宮の熊野速玉神はやたまおのかみ、那智の熊野夫須美神ふすみのかみの三神)の恩恵だと言われました。その訳は、清盛がまだ安芸守であった時、伊勢国の安濃津(今の三重県津市にあった港らしい)から船に乗って熊野(熊野三山、熊野詣での地、和歌山県、三重県にまたがり世界遺産の一つ)に詣でられた時、大きな鱸([スズキ科、出世魚])が船に飛び込んできたので、先達([一般信者が修行のために山に入る際の指導者])が言うには、「昔、周(中国最古の王朝(B.C.1023?~B.C.256))の武王(周の建立者)の船に、白魚が飛び込んだということです。きっとこれは熊野権現の恩恵だと思います。さあ参りましょう」と言ったので、厳しく十戒を守って、精進潔斎([肉食を断ち、身を清めること])でいなければならない道中でしたが、清盛自ら味を付けて自ら食べて、一門の者家来にも食べさせました。それが故でしょうかめでたい事が親族に続いて、清盛自身は太政大臣にまでなりましたし、子孫の位も、竜が雲に昇るよりももっと速く上がりました。九代にわたる先祖を超えてまことにめでたいことでした。


続く


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by santalab | 2013-07-27 08:33 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」鱸(その2)

かくて忠盛ただもり、刑部卿になつて、任平にんぺい三年正月しやうぐわつ十五じふご日、歳五十八ごじふはちにて失せ給ひしかば、清盛嫡男ちやくなんたるによつて、その跡を継ぎ、保元はうげん元年七月しちぐわつに、宇治うぢ左府さふ、世を乱り給ひし時、御方みかたに手先をかけたりければ、勧賞けんじやう行はれけり。もとは安芸のかみたりしが、播磨のかみに移つて、同じき三年に太宰だざい大弐だいにになる。また平治へいぢ元年十二月じふにんぐわつ信頼のぶより義朝よしともが謀反の時も、御方にて賊徒を討ちたひらげたりしかば、勲功くんこう一つにあらず、恩賞おんしやうこれ重かるべしとて、次の年正三位じやうざんみに叙じよせられ、うち続き宰相さいしやう衛府ゑふかみ、検非違使の別当べつたう中納言ちうなごん、大納言に上つて、あまつさへ丞相しようじやうくらゐに至る。左右さうを経ずして、内大臣ないだいじんより太政だいじやう大臣従一位じゆいちいに至り、大将だいしやうにはあらねども、兵仗ひやうぢやうを賜つて随人ずゐじんを召し具す。牛車ぎつしや輦車れんじやの宣旨をかうぶつて、乗りながら宮中きうちう出入しゆつにふす。ひとへに執政しつせいの臣の如し。




こうして忠盛(平忠盛、清盛の父)は、刑部卿(刑部省の長官、刑部省は司法を司る役所、今の裁判所)になって、任平三年(1153)一月十五日に、五十八歳で亡くなりました、清盛が嫡男(長男)でしたので、その跡を継ぎ、保元元年(1156)七月に、宇治左府(藤原頼長よりなが、頼長は、従一位左大臣まで上った人ですが、近衛天皇(1139~1155)が崩御したのは、頼長が呪詛したためだといわれて、鳥羽院(1103~1156)によって、宇治に蟄居させられました。これを仕組んだのが、藤原忠通ただみちと鳥羽院皇后美福門院、藤原得子なりこだったらしい。[左府]=[左大臣])が、世を乱していた時ですが(保元の乱(1156)のこと。保元の乱は、鳥羽院、後白河天皇(1127~1192)と崇徳院(1119~1164)の争いでしたが、同時に、藤原忠通と藤原頼長の争いでした)、御方(後白河天皇の御殿)を手下の者に守らせたので勧賞([褒美])に与りました。もとは安芸守でしたが、播磨守になって、同じ三年(保元三年、1158)に太宰大弐(太宰府の次官、太宰権帥の次の位)になりました。また平治元年(1159)十二月に、信頼(藤原信頼)義朝(源義朝)が謀反の時(藤原信頼、源義朝といえば、平治の乱。平治の乱は、後白河院と二条天皇(1143~1165)、美福門院の争いです。平治の乱では、清盛は後白河院側ではなく、二条天皇側につきました)も、御方(二条天皇の御殿)で反逆者たち(後白河院側)を討伐したので、勲功(君主に尽くした功績に対する褒美)は一つにとどまらず、褒美も多くすべしと、次の年(1160)に正三位を授けられ、続いて宰相(参議)、衛府督(六衛府の長官、左右の近衛大将、左右の兵衛督、左右の衛門督を指す。清盛は、右衛門督でした)、検非違使の別当(検非違使庁の長官)、中納言、大納言を経て位も上がり、丞相(大臣)の位にいたりました。左右(左大臣、右大臣)を経ずに、内大臣(名誉大臣)より太政大臣従一位にいたり、大将(近衛府の長官、左右の近衛大将)ではありませんでしたが、兵仗(お伴の武官)を与えられて、随人(兵仗と同じ)を召し連れました。牛車輦車(手車、人力車)の宣旨(天皇の命)をいただいたので、車に乗ったまま宮中を出入することを許されました。まるで執政(摂政、関白)のようでした。


続く


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by santalab | 2013-07-27 08:19 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」鱸(その1)

その子どもは皆諸衛しよゑすけになる。昇殿しようでんせしに、殿上てんじやうの交はりを人嫌ふに及ばず。ある時忠盛ただもり、備前の国より上られたりけるに、鳥羽のゐん「明石の浦はいかに」と仰せければ忠盛畏まつて、

有明の 月も明石の うら風に 浪ばかりこそ よるとみえしか

まうされたりければ、ゐんおほきに御感ぎよかんあつて、やがてこの歌をば、金葉集きんえふしふにぞ入れられける。忠盛、また仙洞せんとうに最愛の女房にようばうを持つて夜な夜な通はれけるが、ある夜おはしたりけるに、かの女房のつぼねに、つまに月出だしたるあふぎを取り忘れて、出でられたりければ、かたへの女房たち、「これはいづくよりの月影ぞや、出で所おぼつかなし」など、笑ひあはれければ、かの女房、
雲井より 忠盛きたる 月なれば おぼろげにては 言はじとぞ思ふ

と詠みたりければ、いとど浅からずぞ思はれける。薩摩のかみ忠教ただのりの母これなり。似るを友とかやの風情にて、忠盛の好いたりければ、かの女房もいうなりけり。




平忠盛の子どもたちは皆諸衛佐([諸衛]=[左右近衛府、左右兵衛府、左右衛門府の総称]、[佐]=[次官])になりました。昇殿することになって([佐]は[従五位上相当])、殿上人との交遊を嫌うこともありませんでした。ある時忠盛が備前国(今の岡山県の東南部に香川県、兵庫県の一部を含んだ)から京に上ったので、鳥羽院が「明石の浦はどうだった」と言われたので忠盛は畏まって、

有明の月も明石の浦風(浜風)によって波のように押し寄せてくるので、まるで月夜のように美しかったですよ(「明石の浦」と「浦風」、「波が寄る」と「夜と見えし」を掛けています)。

と詠んだので、鳥羽院はとても感心されて、後にこの歌を、金葉集(『金葉和歌集』は白河院(1053~1129)が勅命した勅撰和歌集、ちなみに白川院は鳥羽院の祖父にあたります、時代が前後しているような気もしますが、[金葉集]が完成したのは、1126年のことらしく、鳥羽院の時代と重なります)に入れられました。忠盛は、また仙洞(上皇の御所)に最愛の女房を持って毎夜通われていましたが、ある夜おいでになったときに、その女房の部屋に、端の方に月が出た扇を忘れて、出ていかれたので、近くの女房たちが、「これはどこに出た月影(月光)でしょうか、出所がよくわかりません(忠盛はいったいどこへ出かけたのでしょうか)」などと、笑い囃したので、その女房は、
雲のいる所から忠盛殿は来られるのです。そんな忠盛殿の月ですから、出所ははっきりしません。ですから言わないでおきましょうよ。

と詠んだので、とても愛情深い仲だと思われたのでした。薩摩守(今の鹿児島県西部)の忠教(平忠教)の母がこの女房なのです。「似るを友」([似た者通しが仲良くなること])のことわざの通りなのでしょうか、忠盛が好き好んだ、その女房も優れた女性でした。


続く


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by santalab | 2013-07-27 07:54 | 平家物語 | Comments(0)

    

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