Santa Lab's Blog


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「落窪物語」巻四(その41)

権のかみも蔵人の大夫も、送りせむとて、暇、朝廷おはやけに申して、皆下る。そち、被け物どもし給へば、人々の装束にとて、絹二百ひき、染草ども、皆あづけ給ひたれば、四の君、叢々そうそうと並びて、取り触れむ方なし。




権守も蔵人大夫(帥殿の長男と次男)も、帥殿を見送ろうと、休暇を、朝廷に願い出て、皆見送りに行きました。帥殿は、贈り物として、者たちの装束にと、絹二百疋([一疋]=[二反])、染草([染料になる草])など、すべて与えたので、四の君は、山のような品々が並ぶのを見て、どうすればよいのかと思いました。


続く


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by santalab | 2013-08-31 08:23 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その4)

その後滝口入道、同宿どうしゆくの僧に語りけるは、これもよにしづかにて、念仏の障礙しやうげさふらはねども、飽かで別れし女に、この住まひを見えてさふらへば、たとひ一度は心強くとも、またも慕ふことあらば、心も働き候ひなんず。いとま申す」とて、嵯峨をば出でて高野かうやへ上り、清浄しやうじやう心院しんゐんに行ひすましてぞたりける。横笛もやがて様を変へぬる由聞こえしかば、滝口入道、いつしゆの歌をぞ贈りける。

反るまでは 恨みしかども 梓弓 真の道に 入るぞうれしき

横笛が返事に、
反るとても なにか恨みむ 梓弓 ひきとどむべき 心ならねば




その後滝口入道が、同宿の僧に語るには、ここも静かな所で、念仏の妨げになることはありませんが、嫌いになって別れたわけでもない女が、この住まいを訪ねてきたので、たとえ一度はつれなくしても、また恋しく思うことがあれば、精神も統一できません。お別れしたく思います」と言って、嵯峨(今の京都市右京区)を出て高野(高野山。今の和歌山県伊都郡にあります)に上り、清浄心院(高野山にある寺院)で修行に励みました。横笛もやがて仏門に入ったと聞いたので、滝口入道は、一首の歌を贈りました。

梓弓ではないですが反る(髪を剃って仏門に入る)までは、さんざんわたしのことを恨みもしたことでしょう。あなたが恨みを忘れ、真の道([仏道])に入ったと聞いて、ありがたく思っています。

横笛の返事は、
梓弓が反ったからといって何を恨むことがありましょうか。わたしが髪を剃って仏門に入ったのは、あなたを引きとめることができなかったのはこのわたしだからなのです。


続く


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by santalab | 2013-08-31 08:18 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その3)

横笛この由を伝へ聞いて、我をこそ捨てめ、様をさへ変へけんことの恨めしさよ。たとひ世をば背くとも、などかはかくと知らせざらん。人こそ心強くとも、たづねて恨みんと思ひつつ、ある暮れ方に都を出でて、嵯峨の方へぞあくがれける。頃は如月きさらぎとを日余りのことなれば、梅津うめづの里の春風に、余所のにほひも懐かしく、大井川おほゐがはの月影も、かすみに籠めておぼろなり。一方ならぬあはれさも、誰故たれゆゑとこそ思ひけめ。往生院わうじやうゐんとは聞きつれども、定かにいづれのばうとも知らざれば、ここに安らひかしこにたたずみ、尋ねかぬるぞ無残なる。住み荒らしたる僧坊そうばうに、念誦ねんじゆこゑしけるを、滝口入道にふだうが声と聞き澄まして、「御様の変はりておはすらんをも、見もし見えまゐらせんがために、わらはこそこれまで参つてさぶらへ」と、具したるをんなに言はせければ、滝口入道、胸うち騒ぎ、浅ましさに、障子しやうじひまより覗きて見れば、裾は露、袖は涙にうちしをれつつ、少し面痩おもやせたるかほばせ、まことに尋ねかねたる有様、いかなる大道心者だいだうしんじやも、心弱うなりぬべし。滝口入道、人を出だいて、「まつたくこれにはさる人なし。もし門違かどたがへにてもやさふらふらん」と、言はせたりければ、横笛情けなう恨めしけれども、力及ばず、涙を抑へてかへりけり。




横笛は滝口が仏門に入ったと伝え聞いて、わたしを棄てて、僧になるとはなんと憎らしいこと。たとえ世に背くためとはいえ、どうして知らせてくれなかったのでしょうか。つれなくされても、捜し出して恨み事を言ってやろうと思って、ある日の暮れ方に都を出て、嵯峨の方へとふらふらと歩いていきました。頃は如月(二月)の十日過ぎのことでしたので、梅津の里(今の京都市右京区梅津)から吹く春風の、匂いも懐かしく、大井川(桂川。嵐山あたりらしい)に映る月影も、霞がたちこめてぼんやり見えました。ひとなみでないもの悲しさも、いったい誰のせいかと思いました。滝口が往生院に居ることは聞いていましたが、どの坊かまでは知らなかったので、往生院に静かにたたずんで、訪ねあぐねていましたが哀れなことでした。住み荒らした僧坊に、念誦の声がして、滝口入道の声と聞き澄まして、「僧になったあなたに、会いたくて、わたしはここまで訪ねてきたのです」と、供の女に伝えさせました、滝口入道は、落ち着かなくなって、いやしくも、障子の隙間から覗いて見れば、裾は露、袖は涙に濡れて萎れ、少し顔がやつれた表情で、何と声をかけてよいのかわからない有様でした、どんな大道心者([道心者]=[仏道に帰依した人])でも、気が弱くなるような姿でした。滝口入道は、人を出して、「本当にここにはそのような者はいません。もしや坊を間違えてはおりませんか」と、言わせました、横笛は情けなく恨めしく思いましたが、仕方なく、涙を抑えて帰っていきました。


続く


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by santalab | 2013-08-30 19:17 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その40)

暮れぬれば、そちいましぬ。御供の人々に物被けさせ給ふ。あるじなどせさせ給ふ。


四日よりは、日けつつなむ出でける。物々しく清げに目安し。面白の駒と一つ口に言ふべきにあらず。帥の言ふ、「罷り下るべきほどいと近し。したたむべき事どもの、いと多かるを、人もなし、渡り給ひね。また、下らむと言はむ人召し集めて、や思ひし立て。日はただ十余日になむある」とのたまへば、女君、「遠かなる所に、頼もしき人々を置き奉りては、いかで」とのたまへば、帥「さは、一人罷り下れとや。ただかく一二日見給ひて止み給ひなむとや思しし」と、うち笑ひ給ふ様、いと安らかなり。女君を、帥、かたちはをかしげなめり、心いかがあらむと、飽かず思ひけれど、かかるやむごとなき人の、わざとし給へるに、今日明日下るべきに捨つべきにあらず、と思ひて、「諸心もろごころに何事もし給へ」とて、にはかに迎ふれば、「しうはあらぬ婿取り。いとう迎ふるは」と笑ひ給ひて、御送り、るべき人々、睦ましき、御前には指し給へり。車三つして渡り給ひぬ。殿よりありける御達ごたち「今は何しにか参らむ」など言ひければ、北の方「なほ参れ」と、強ひて遣り給ひつ。我添ひて歩き給へば、本の御達「いつしかとも代り居給ふかな」「御心いかならむ。君たちの御ため悪しう、いみじうものあるべきかな」「ただ今の時の人の御族とて、押し立ちてあらむかし」など、己がどち、言ひ合へり。初めの腹とて、太郎はごんかみ、次郎は蔵人より叙爵じよしやく賜はりてある、このごろ死にたる腹の女子十、ニつになる男子なむありける。これニ人をなむ、父かなしくすとは愚かなり。




夜が暮れて、帥殿が左大臣殿にやって来ました。大宰府に下る供の者たちに贈り物をしました。見送りの者たちには供宴を設けました。


結婚して四日目からは、帥殿は朝遅くになってから左大臣殿を出て行くようになりました。帥殿は威厳があり清らかで見た目よい人でした。面白の駒と同じように言うべきではありません。帥殿が四の君に言いました、「大宰府に下る日も近くなった。整理しておかねばならないことも、多く残っているが、人もない、わたしの殿に移ってほしい。また、大宰府に下ってもよいと言う者を集めて、あなたも早く準備するように。残り十日余りです」と申したので、四の君は、「遠い所に、頼りになる人々を残して、どうして下れましょう」と答えました、帥殿は「それは、わたし一人で大宰府に下れと言うことか。ただ一二日あなたを逢っただけで終わりにしようと思っているか」と、言って笑いましたが、とてもやさしい口調でした。四の君のことを、帥殿は、「顔かたちは美しいが、心はどうだろうかと、ずっと思っていたが、左大臣殿のようなりっぱな人が、世話する四の君と、今日明日にも下るからと言って別れるべきではない、と思って、「わたしに従ってほしい」と、急ぎ四の君を殿に迎えました、左大臣殿は「悪くない婿取りをしたな。こんなに早く迎えに来るとは」と笑って、見送りに、相応の者たち、四の君と親しい者たちを、先ず帥殿に遣りました。車三台で移りました。左大臣殿より四の君に仕えていた御達([宮中・貴族の家に仕える上級の女房たち])が「なぜ帥殿に移らなければならないのですか」と言うと、左大臣殿の北の方は「とにかく参りなさい」と、強く言って女房たちを帥殿に移しました。北の方が女房たちに付き添いましたが、女房たちは「お仕えする北の方が替わられるとは」「北の方の心はどうでしょう。帥殿のお子たちにはよいことではありません、悲しく思われているのでは」「今の時の人の親族だからと、威張っておられるかも」などと、仲間たちで、言い合っていました。帥殿の最初の妻の子に、太郎([長男])は権守、次郎([次男])は五位蔵人([叙爵]=[六位から従五位下に叙せられること])でした、この頃亡くなった妻には十歳の女の子、二つになる男の子がいました。この二人の子を帥殿はとてもかわいがっていました。


続く


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by santalab | 2013-08-30 19:12 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その39)

そちは、この二十八日になむ、船に乗るべき日、取りたりければ、出で立ち、さらにいと近し。


かくて左の大臣おとどには、三日の夜のこと、今初めたるやうに設け給へり。「人は、ただかしづき労はるになむ、夫の心ざしも、かかるものをと、いとほしきこと添はりて思ひなる。細かにと口入れ給へ。ここにて事始めしたることなれば、愚かならむ、愛ほし」とのたまへば、女君、昔我を見はじめ給ひしこと、思ひ出でられて、「いかに思ほしけむ。阿漕あこきは、心憂き目は見聞かじと思ほえて。いかに、麻呂見初め給ひしり、始めて、やむごとなくのみ思ほし増さりけむ」とのたまへば、殿、いとよく微笑ほほゑみ、「さて、空言ぞ」とのたまひて、近う寄りて、「かの『落窪』と、言ひ立てられて、さいなまれ給ひし夜こそ、いみじき心ざしは、増さりしか。その夜、思ひ臥したりし本意の、皆叶ひたるかな。これが当に、いみじうちようじ伏せて、後には喜び惑ふばかり顧みばや、となむ思ひしかば、四の君のことも、かくするぞ。北の方は、うれしと思ひたりや。景純かげずみなどは思ひ知りためり」などのたまへば、女君「かしこにも、うれしとのたまふ時、多かめり」とのたまふ。




帥殿(四の君の夫)は、今月二十八日に、船に乗ることが、決まったので、旅立ちは、さらに近くなりました。


左大臣殿は、三日夜の餅([三日の餅]=[婚礼後三日目の夜に、妻の家で新郎・新婦に食べさせた祝いの儀式])を、四の君が初めて結婚するように盛大に準備しました。「妻が、夫をただただ大切にお世話すれば、夫(帥殿)の気持ちも、同じように、妻を愛しく思うものです。心細やかに尽くしなさい。この結婚はわたしが言い出したことだから、疎かにすることは、憚られるのだ」と申すと、北の方(落窪の君)は、昔わたしを初めて見た時のことを、思い出して、「わたしの時はどう思われましたか。阿漕は、わたしが悲しい目に遭わないようにしてくれました。なぜ、わたしを初めてご覧になった時より、ずっと、わたしのことを大切にしてくださったのでしょうか」と言うと、左大臣殿は、大きく笑って、「はじめは、冗談だった」と申して、北の方に近く寄って、「『落窪の君』と、言われて、北の方(故大納言の妻)に言い罵られていた夜に、あなたへの想いが、増さったのだ。その夜、あなたを思い添い寝してわたしの思いは、すべて叶った。そのせいで、あなたが北の方にいじめられたので、後には喜び惑うばかりのことをしてあげよう、と思ったのだ、四の君のことも、同じようにしようと。北の方(故大納言の妻)はうれしく思うだろうか。景純(故大納言の長男)などは分かっているようだが」と申すと、左大臣殿の北の方も「わたしにも、うれしいと、何度も申しております」と答えました。


続く


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by santalab | 2013-08-29 20:15 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その2)

滝口これに最愛す。父この由を伝へ聞いて、「世にあらん者の婿子むこごにもなし、出仕しゆつしなんどをも、心安うせさせんと思ひたれば、由なき者を思ひ染めて」など、あながちにいさめければ、滝口まうしけるは、「西王母せいわうぼといつし人も、昔はあつて今はなし。東方朔とうばうさくと聞きし者も、名をのみ聞きて目には見ず。老少不定らうせうふぢやうさかひは、ただ石火せきくわの光に異ならず。たとひ人長命ぢやうみやうと言へども、七十しちじふ八十はちじふをば過ぎず。その内に身の盛んなることは、わづかに二十余年なり。夢まぼろしの世の中に、醜きものを、片時も見てなにかせん。思はしきものを見んとすれば、父の命を背くに似たり。これ善知識ぜんぢしきなり。しかじ、憂き世をいとひ、まことの道に入りなん」とて、十九の年もとどり切つて、嵯峨の往生院わうじやうゐんに行ひすましてぞたりける。




滝口(斎藤時頼)は横笛を最愛しました。父はこれを伝え聞いて、「世に名を聞く者の婿でもなし、出仕というものは、安心だと思っていたが、まさか理由もない者に心を寄せるとは」などと、強く忠告すれば、滝口が申すには、「西王母([中国の古代神話上の女神。不老長寿だったらしい])という者も、昔はいたが今はいない。東方朔([前漢の文人。西王母の桃を盗んで食べ長寿を得たという])と聞く者も、名が残るだけでどこにもいない。老少不定([人の寿命に老若の定めのないこと])の境遇は、ただ石火([きわめてわずかの時間])の光でしょう。たとえ長寿と言ったところで、七十八十を超えることはありません。その内で勢いがあるのは、わずか二十年余りにすぎません。夢幻のはかない世の中で、醜いものを、たとえわずかでも見るのは無駄なこと。見たいと思うものを見ようとすれば、父の命令に背くようなものです。これは善知識([人を仏道へ導く機縁となるもの])です。いっそのこと、憂き世を避けて、真の道([仏道])に入ることにします」と言って、十九歳の年に髪を丸めて、嵯峨(今の京都市右京区)の往生院(今の京都市右京区嵯峨にかつてあった寺らしい)に入ってひたすら修行に励みました。


続く


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by santalab | 2013-08-29 20:09 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その1)

さるほどに小松の三位中将維盛これもりきやうは、身柄は屋島にありながら、心は都へ通はれけり。ふるさとに留め置き給ひし北の方をさなき人々の面影のみ、身にひしと立ち添ひて、忘るるひまもなかりければ、あるに甲斐かひなき我が身かなとて、寿永じゆえい三年三月さんぐわつ十五じふご日のあかつき、忍びつつ屋島の立ちをば紛れ出で、与三兵衛重景よさうびやうゑしげかげ石童丸いしどうまると言ふわらは、船に心得たればとて、武里たけさとと言ふ舎人とねり、これ三人を召し具して、阿波あはの国結城ゆふきの浦より船に乗り、鳴戸の沖を漕ぎ過ぎて、紀のへ赴き給ひけり。和歌、吹上、衣通姫そとほりひめの神とあらはれ給へる玉津島の明神みやうじん日前にちぜん国懸こくけん御前おまへを過ぎて、紀の港にこそ着き給へ。それより山づたひに都へ上り、こひしき者どもをも、今一度見もし、見えばやとは思はれけれども、叔父をぢ本三位中将殿の生捕りにせられて、きやう鎌倉はぢをさらさせ給ふだにも口しきに、この身さへ捕らはれて、父のかばねに血をあやさんことも心憂しとて、千度ちたび心は進めども、心に心をからかひて、高野かうや御山おやままゐり給ふ。高野に年頃知り給へるひじりあり。三条さんでうの斎藤左衛門ざゑもん茂頼もちよりが子に、斎藤滝口時頼ときよりとて、もとは小松殿のさぶらひたりしが、十三じふさんの年本所ほんじよへ参りたり。建礼門院けんれいもんゐん雑仕ざふし横笛と言ふをんなあり。




やがて小松三位中将維盛卿(平維盛。清盛の嫡孫、重盛しげもりの嫡男)は、身は屋島(香川県高松市)にありながら、心は都に馳せていました。都に残した北の方(妻)と幼い子たちの面影だけを、身にしっかりと離さず、忘れることもできなかったので、あっても何の価値もない我が身であることと思って、寿永三年(1184)三月十五日の夜明け前に、忍んで屋島を紛れ出て、与三兵衛重景、石童丸と言う童、船に馴れていたので、武里の舎人([召使い])の、三人を供に付けて、阿波国結城の浦(今の徳島県海部郡由岐町あたりらしい)から船に乗り、鳴戸の沖(今の徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にある鳴戸海峡。渦潮で有名です)を過ぎて、紀路(紀伊国、今の和歌山県と三重県南部)へと船を進めました。和歌の浦(今の和歌山県和歌山市南部)、吹上の浜(今の和歌山県和歌山市)、衣通姫(紀伊国で信仰されていた玉津島姫と同一視され、和歌山県和歌山市にある玉津島神社に合祀されているらしい)で有名な玉津島の明神([神])、日前神宮(和歌山県和歌山市にある神社)国懸神宮(日前神宮の境内にあるらしい)の前を過ぎて、紀の港(やはり和歌山県和歌山市にあったらしい)に着きました。そこから山づたいに都に上り、恋しい者たち(妻子)に、もう一度見て、会いたいと思いましたが、叔父の本三位中将殿(平重衡しげひら。清盛の五男)が生捕りにされて、京鎌倉に恥をさらしたことも悔しいのに、我が身も同じように捕らわれて、父(平重盛しげもり。すでに病死)の屍に血を流すのも心苦しいので、何度も心は都に進みましたが、心と心を葛藤させて、高野山へ行くことにしました。高野山には数年来知る僧がいました。三条の斎藤左衛門茂頼の子で、斎藤滝口時頼(斎藤時頼。[滝口]=[蔵人所に属し、宮中の警衛に当たった武士])といって、もとは小松殿(維盛の父、平重盛)の侍でしたが、十三歳で本所([宮中])に配所になりました。建礼門院の雑仕([雑役])で横笛という女がいました。


続く


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by santalab | 2013-08-28 20:21 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その38)

四の君、まだとばりの内に寝給へり。北の方「起き給へ」と起こし給ふほどに、その文、持て来たり。男君、取り給ひて、「先づ見まほしけれど、隠さむと思すことも書きたらむ、とてなむ。後には必ず、見せ給へ」とて、几帳きちやうの内に差し入れ給へば、北の方、取りて奉れ給へど、手ふとしも取り給はず。「さは、読み聞こえむ」とて引き開け給ふ。四の君、かの初めの面白が書き出だしたりし文を思ふに、また、さもやあらむ、と胸潰れて思ふに、読み給ふを聞けば、

「あふことの ありその浜の まさごをば けふ君思ふ 数にこそ取れ

いつの間に恋の」となむありける。「御返り、や聞こえ給へ」とあれど、いらへもし給はず。大臣おとど「その文しばし」と、責めてのたまへば、「何のゆかしう思すらむ」とて、また差し入れ給ふ。「早や早や」と、硯、紙、具して、責め給ふ。四の君、返り言も、この殿見給ひつべかなりと、いと恥づかしくして、えとみに書き給はず。「あな見苦し。早や早や」とのたまへば、物も思えで書く。
われならぬ こひの藻おほみ ありそうみの 浜のまさごは 取りつきにけむ

とて、引き結びて、出だし給へれば、大臣「あなゆかしのわざや、今日の返り言は。見で止みぬるこそ、口しけれ」と、言ひ居給へる様、いとをかし。使ひに物被げさせ給ふ。




四の君は、まだ帳([室内や外部との境などに垂らして、区切りや隔てとする布])の内で寝ていました。北の方(落窪の君)が「起きてください」と言って起こすと、使いが帥殿の文(後朝きぬぎぬの文)を、届けに来ました。左大臣殿が、受け取って、「最初に見たいと思ったが、見られたくないと思っていることが書いてあるかもしれない、と開けずに持って来た。あなたが読んだ後、見せてほしい」と申して、几帳([間仕切りや目隠しに使う屏障具])の中にさし入れると、北の方(落窪の君)は、文を取って四の君に差し出しましたが、四の君は受け取りませんでした。北の方は「それならば、読んであげます」といって文を開けました。四の君は、初めての結婚で面白の駒が書いた文を思い出して、また、同じことが書いてあるかもしれないと、胸が潰れたように思っていましたが、北の方が読むのを聞いて、

「あなたに逢って、今朝あなたを想う気持ちは、荒磯ありそ浜(東尋坊=福井県坂井市あたりの海。歌枕)の荒波が真砂をさらう数ほどです。

いつの間にあなたに恋したのか」と書いてありました。北の方は「返事を、早くなさいませ」と言いましたが、四の君は返事もしませんでした。左大臣殿が「その文を見せてくれ」と強く申すと、北の方は「あなたも見たいのですね」と言って、左大臣殿に文を差し出しました。北の方は「早く、早く返事を」と言って、硯、紙を、用意して、四の君に催促しました。四の君は、返事も、左大臣殿に見られると思えば、とても恥ずかしくて、なかなか返事を書くことができませんでした。北の方が「返事を出さないのはよくないわ。早く早く」と言ったので、四の君はとにかく返事を書きました。
わたし以外に、恋の経験など多くおありでしょう。すでに、荒磯ありそ浜の真砂など、取り尽くしてしまわれたのではないですか。

と書いて、文を引き結んで、差し出すと、左大臣殿は「気になるな、今日の返事は。見ないのが、惜しまれる」と、申される様子が、とてもおかしいのでした。左大臣殿は使いに贈り物を与えました。


続く


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by santalab | 2013-08-28 20:18 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その37)

北の方、いかに思ふらむと、泣き給へば、「文度々遣らねど、心長きたぐひなむある。よも愚かに思はじ。難げに心合はぬ気色したるぞ、賢くもあらぬことぞ。先づ君を例の懸想のやうにやは侘び焦られ聞こえし。思ひ出でて時々聞こえしかど、見染め奉りし後なむ、なほざりにて止みなましかばと悔しかりし。さ思ゆるぞをかしき」など語らひ給ひて、二所ながら、起きて、こなたにこなたにおはしぬ。




左大臣殿の北の方(落窪の君)は、四の君が結婚をどう思っているのか、心配になって泣いたので、左大将殿は「文を度々贈って結婚しなくとも、縁が続くことはあるものだ。そんなに心配することもあるまい。難しい顔をして心配しても、仕方のないことだ。第一わたしはあなたに普通の嘆きや恋焦がれての文を贈ったことがありましたか。思い出して時々文を贈ったが、あなたに逢って後に、疎かにも文を贈るのを止めていたらきっと後悔していただろう。そう思えば何とも言えないが」などと話して、二人で、起きて、四の君の許(西の対)を訪ねました。


続く


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by santalab | 2013-08-27 07:25 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」千手前(その9)

この心をきつ相公しやうこうの詩に作れるを、三位中将今思ひ出で、口ずさび給ふにや、いとやさしうぞ聞こえし。さるほどに夜も明けければ、狩野かのの介いとままうして罷り出づ。千手のまへかへりけり。そのあした兵衛ひやうゑすけ殿は、持仏堂ぢぶつだう法華経ほけきやう読うでおはしけるところへ、千手の前帰りまゐりたり。兵衛ひやうゑすけ殿うちみ給ひて、「さてもゆふ仲人ちうじんをば、おもしろうもしつるものかな」とのたまへば、斎院さいゐん次官じくわん親義ちかよし、御まへに物書いてさふらひけるが、「何事にて候ふやらん」とまうしければ、佐殿のたまひけるは、「平家の人々は、この二三か箇年は、いくさ合戦の営みのほかは、また他事あるまじきとこそ思ひしに、さても三位中将の琵琶びはのばち音、朗詠らうえいの口ずさび、夜もすがら立ち聞きつるに、いうにやさしき人にておはしけり」とのたまへば、親義申しけるは、「たれも夕べうけたまはりたく候ひしかども、折節をりふしあひ労はることの候ひて、承らず候ふ。この後は常に立ち聞き候ふべし。平家は代々歌人才人たちにて渡らせ給ひ候ふ。先年あの人々を、花に例へて候ひしには、この三位中将殿をば、牡丹の花に例へて候ひしか」とぞ申しける。三位中将の琵琶のばち音、朗詠の口ずさみ、兵衛の佐殿、後までもありがたきことにぞのたまひける。その後中将ちうじやう南都へ渡されて、斬られ給ひぬと聞こえしかば、千手の前は、中々物思ひの種とやなりにけん、やがて様を変へ、濃き墨染めにやつれ果てて、信濃の国善光ぜんくわう寺に行ひ済まして、かの後世ごせ菩提を、とぶらひけるぞあはれなる。




この気持ちを橘相公(橘広相ひろみ)が詩にしたためたことを、三位中将(平重衡しげひら。清盛の五男)は今思い出して、口ずさむ声は、とても趣深く聞こえました。やがて夜も明けて、狩野介(狩野宗茂むねもち)は出て行きました。千手前も帰りました。その日の朝兵衛佐殿(源頼朝)は、持仏堂([持仏や先祖の位牌を安置しておく堂])で法華経を唱えていましたが、千手前が帰って来ました。頼朝は微笑んで、「それにしても夕べ仲人(源平の仲立ちとなる人の意か)を、楽しませてくれたそうだな」と言うと、斎院次官の親義は、御前で物書きをしていましたが、「何かありましたか」と申せば、頼朝が言うには、「平家の者たちは、この二三年は、戦合戦のほかは、何もしなかったと思っていたのに、それにしても重衡の琵琶のばち音、朗詠([歌])の声、夜通し立ち聞きしておったが、とても優雅な人だな」と言うと、親義が申すには、「わたしも話を聞いておりましたが、ちょうど体の調子がすぐれなくて、伺うことができませんでした。後は立ち聞きしてみましょう。平家は代々歌人才人([学問・芸能に優れた人])の家系です。先年平家の者たちを、花に例えていましたが、重衡殿は、牡丹の花に例えられました」と申しました。重衡の琵琶のばち音、朗詠の声、頼朝は、後までもありがたいことだと言いました。その後重衡は南都([奈良])へ移されて、斬られたと聞こえたので、千手前は、思い悩む種となったのか、やがて様を変え、濃い墨染めの僧衣姿となって、信濃国の善光寺(今の長野県長野市にある寺院)で出家して、重衡の菩提([死後の冥福])を、弔うことこそあわれなことでした。


続く


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by santalab | 2013-08-27 07:21 | 平家物語 | Comments(0)

    

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