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「承久記」頼家実朝昇進並びに薨去の事(その1)

頼朝は伊豆の国の流人たりしが、平家追討の院宣をかうぶりて、治承ぢしよう四年の秋の頃、謀反を起して六箇年の間天下安からず。元暦げんりやく二年の春夏の頃、平家を亡ぼし果て、静謐せいひつに属する事十三年、世を執る事十九年なり。




頼朝(源頼朝)は伊豆国の流人でしたが、平家追討の院宣を受けて、治承四年(1180)の秋頃に、謀反を起こして後六年間天下は乱れました。元暦二年(1185)の春頃、平家を亡ぼして、天下は穏やかとなり十三年間、頼朝が天下を取ること十九年でした。


続く


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by santalab | 2013-09-30 07:13 | 承久記 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その71)

この落窪おちくぼの物語四巻は、伝写のことわり重からず、巻の数もいと心許なけれど、古くは顕昭けんせうの色葉和歌集にその名見えて、近くは人の物に引きせうすれば、友の元にあり、さいはひと書写し侍ける後、る人の、持てるにて見合せたらん、よかなりと、またその人の知れるが元にもぞ、一つに借りこせたれば、かれこれあはせ見れば、そなたこなたもよろしく、ことば続き心とほりて、嬉しく、ありとあること、一つ漏らさで、後の便りと書きに書き付け侍るなりけり。時は長月二十日余りの頃、難波の海人あま苫屋とまやにて。




この落窪物語四巻は、伝写の正統も定かでなく、巻数も怪しいものですが、古くは顕昭(平安末・鎌倉初期の歌人・歌学者)の色葉和歌集(『和歌色葉』。上覚じようかく=平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての真言宗の僧。が著した歌学書で顕昭に批判を乞うため示し、その後第八十二代後鳥羽院に奉った)にその名が見えて、最近では落窪物語の文章を引いて誉める者がいたので、友人の手元にたまたまあったのを、これ幸いと書き写しましたが、その者の、持っているものと比べては、どうかと、またその者を知る人に、一部借りたいと人を遣って、わたしのものと合わせて見れば、それはいい具合に、言葉がつながり意味が理解できたので、とてもうれしくて、書かれているすべてを、一つもらさず、後の頼りとなると思って書き付けたものなのです。時は長月([陰暦九月])二十日を過ぎた頃、難波の海人の苫屋([粗末な漁夫の家])にて。


続く


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by santalab | 2013-09-30 07:08 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」三日平氏(その10)

さるほどに小松こまつの三位中将維盛これもりの卿の北の方は、風の便りのおとづれも、絶えて久しくなりければ、月に一度なんどは、必ず音連るるものをと思ひて待たれけれども、春過ぎ夏にもなりぬ。「三位中将、今は屋島にもおはせぬものを」なんどまうす者ありと聞き給ひて、北の方あまりの覚束なさに、とかうして使ひを一人いちにん仕立てて、屋島へ遣はされたりけれども、使ひやがて経ちもかへらず。夏け秋にもなりぬ。七月しちぐわつすゑにかの使ひ帰りまゐりたり。北の方、「さていかにや」と問ひ給へば、「過ぎさふらひし三月さんぐわつ十五じふご日のあかつき与三よさう兵衛びやうゑ重景しげかげ石童丸いしどうまるばかり御供にて、讃岐の屋島の立ちをば御出であつて、高野かうや御山おやまへ参らせ給ひて、御出家せさせおはしまし、その後熊野へ参らせ給ひて、那智の沖にて、御身を投げてましまし候ふとこそ、御供申したりし舎人武里たけさとは、申し候ひつれ」と申しければ、北の方、「さればこそ、怪しと思ひたれば」とて、引きかづいてぞ伏し給ふ。若君姫君も、声々こゑごゑをめき叫び給ひけり。




やがて小松三位中将維盛卿(平維盛)の北の方は、風の便りが訪れることも、絶えて久しくなって、月に一度は、必ず来るものと待っていましたが、春が過ぎ夏になりました。「維盛殿は、今は屋島にはおられないそうだ」などと話す者もいると聞いて、北の方はあまりにも不安になって、とにもかく使いを一人立てて、屋島に遣わしましたが、使いの者は日が経っても帰ってきませんでした。夏も盛りになり秋がやって来ました。七月の末に使いが帰ってきました。北の方が、「どうでしたか」と問うと、使いは、「去る三月十五日の夜明け前に、与三兵衛重景、石童丸だけを供にして、讃岐の屋島の忍び出て、高野山に行き、出家なされ、その後熊野へお出でになって、那智の沖で、身を投げられたと、維盛殿の供であった舎人武里が、申したのです」と言うと、北の方は、「まさかそのようなことが、不安に思っていましたが」と言って、引き被いて伏してしまいました。若君姫君も、声々に泣き叫びました。


続く


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by santalab | 2013-09-30 06:57 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」三日平氏(その9)

兵衛ひやうゑすけ殿かやうにし給ふうへは、東国の大名だいみやう小名せうみやう、我も我もと引き出物を奉らる。むまだにも三百騎馬までありけり。池の大納言頼盛よりもりきやうは、命生き給ふのみならず、方々徳付いて都へかへり上られけり。同じき十八じふはち日、肥後のかみ定能さだよし伯父をぢ、平田の入道にふだう定次さだつぐを先として、伊賀伊勢両国りやうこく官兵くわんびやうら、近江あふみの国へ討つて出でたりければ、源氏の末葉ばつえふ発向はつかうして、合戦をいたす。同じき二十日の日、伊賀伊勢両国りやうこくの官兵ら、しばしも堪らず攻め落とさる。平家相伝さうでん家人けにんにて、昔のよしみを忘れぬことはあはれなれども、思ひ立つこそおほけなけれ。三日みつか平氏とはこれなり。




兵衛佐殿がこのようにもてなしたので、東国の大名小名も、我も我もと引き出物を贈りました。馬だけでも三百騎もありました。池大納言頼盛卿(平頼盛。清盛の弟)は、命を助かっただけでなく、たくさんの富を得て都に帰りました。同じ六月十八日、肥後守定能(平定能)の伯父である、平田入道定次を先頭に、伊賀伊勢両国の兵たちが、近江国に討って出ました、源氏の末裔たちも蜂起して、合戦しました。同じ二十日には、伊賀伊勢両国の兵たちは、しばしも防ぐことができずに攻め落とされました。平家相伝([代々])の家人で、昔の恩を忘れずにいることは心を打つものがありましたが、源氏に戦を仕掛けることは無謀なことでした。三日平氏とはこのような者たちでした。


続く


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by santalab | 2013-09-29 06:51 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その70)

女御の君の御家司けいしに和泉の守なりて、御徳いみじう見えければ、昔の阿漕あこき、今は典侍ないしのすけになるべし。典侍は二百まで生けるとや。




和泉守(阿漕あこきの叔母の夫)は女御([中宮])の家司([親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職])になって、たいそう徳を受けたので、昔阿漕と呼ばれていた落窪の君の女房は、典侍([内侍司=後宮の礼式などを司ったの次官])になったに違いありません。典侍(阿漕)は二百歳まで生きたということです。


続く


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by santalab | 2013-09-29 06:49 | 落窪物語 | Comments(0)


「承久記」後鳥羽の院の事(その8)

上古しやうこには地頭と言ふ事なかりしを、故鎌倉の右大将頼朝卿、平家を亡ぼしける勧賞けんじやうに、文治ぶんぢ元年の冬の頃、日本国の総追捕使になり給ふ。その後建久けんきう三年七月に征夷大将軍にし給ふ故に、国々に守護を置き郡郷に地頭を据ゑ、既に五升宛の兵粮米を宛て取る。これによつて領家は地頭をそねみ、地頭は領家を軽めけり。




上代には地頭([土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持つ者])という者はいませんでしたが、故鎌倉右大将頼朝卿(源頼朝)が、平家を亡ぼした勧賞([褒美])として、文治元年(1185)の冬頃、日本国の総追捕使([行政・軍事・警察権を持つ者])となりました。その後建久三年(1192)七月に征夷大将軍に就いて、国々に守護([諸国の治安・警備に当たる者])を置き郡郷には地頭を据えて、別に段別五升宛て(一反当たり五升)の兵粮米([戦時の兵糧に当てる米])を税として課しました。これによって領家は地頭を憎み、地頭は領家を軽んずるようになったのです。


続く


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by santalab | 2013-09-29 06:44 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」後鳥羽の院の事(その7)

これによつて新院とも、法皇の御仲ご不快なり。御在位四箇月に及ばずして、御位後堀河の院に参りて、王法尽き果てさせ給ひ、人臣世に背きし故を如何にと尋ぬるに、地頭・領家争論の故とぞ聞こえける。




こうして新院(土御門院)と、法皇(後鳥羽院)の仲は悪くなりました。結局仲恭ちゆうきよう天皇は在位四か月に及ばずして位を下り、後堀川院(第八十六代天皇)が帝位に就きましたが、これによって王法([政治])は廃退しました、そして人臣が世に背くことになった原因は、地頭([土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持つ者])と領家([荘園領主])の争いが原因と言われました。


続く


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by santalab | 2013-09-28 08:10 | 承久記 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その69)

そちは、この殿の御徳に、大納言になり給へり。


面白は、病重くて法師になりにければ、音にも聞こえぬなるべし。


かの典薬の助は、蹴られたりし病ひにて、死にけり。「これ、かくておはするも、見ずなりぬるぞ、口しき。などて、あまり蹴させけむ。しばし生けておいたらんものを」とぞ、男君のたまひける。




帥(四の君の夫)は、太政大臣殿の徳によって、大納言になりました。


面白の駒は、病を重らせて法師になったので、消息も分からなくなってしまいました。


典薬助は、蹴られて病気になり、死んでしまいました。「落窪の君が、わたしの妻でこうしていることを、見せずに終ったのが、悔しい。どうして、あれほど強く蹴ったのだろう。しばらく生かしておけばよかった」と、太政大臣は申しました。


続く


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by santalab | 2013-09-28 08:06 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」三日平氏(その8)

見参げんざんに入らんとこひしう存じてさふらへば、恨めしうも下り候はぬものかな」とて、知行ちぎやうすべき庄園しやうゑんじやうどもあまたなしまうけ、さまざまの引き出物をばんと、用意せられたりければ、東国の大名だいみやう小名せうみやう、我も我もと引き出物を用意して待つところに、下らざりければ、上下じやうげ本意ほいなきことどもにてぞありける。六ぐわつ九日の日、池の大納言頼盛よりもりきやう都へかへり上り給ふ。兵衛ひやうゑすけ殿、「今しばらくはかくてもおはせよかし」とのたまへども、大納言、都におぼつかなう思ふらんとて、やがて立ち給ひぬ。知行し給ふべき庄園私領しりやう、一所も相違さうゐあるべからず、並びに大納言になしかへさるべき由、法皇ほふわうまうさる。鞍置きむまじつ匹、はだか馬三十匹、長持三十えだに、がね、巻き絹、染物風情ふぜいの物を入れて奉らる。




早く会いたいと恋しく思っていたので、恨めしくさえ思っていたのです」と言って、知行([国務を執り行うこと])する庄園([私的所有地])荘([庄園に同じ])などをたくさん準備し、さまざまな引き出物を与えようと、用意したので、東国の大名小名も、我も我もと引き出物を用意して待つところに、やって来ました、頼盛(平頼盛よりもり。清盛の弟)たちは身分の上下なく意外なことにびっくりしました。六月九日に、池大納言頼盛卿(頼盛)は都に帰って行きました。兵衛佐殿(源頼朝)は、「しばらくここ(鎌倉)におられてはどうですか」と言いましたが、頼盛は、都が心配だと言って、すぐに帰りました。知行した庄園私領は、一つも違っていませんでした、また大納言に戻すことを、後白河院に願い出ました。頼朝は、鞍を置いた馬三十匹、鞍を置かない馬三十匹、長持三十枝に、黄金、巻き絹([軸に巻いた絹の反物])、染物などを入れて頼盛に贈りました。


続く


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by santalab | 2013-09-28 07:59 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」三日平氏(その7)

はるかの旅に赴かせ給ふ御事は、まことにおぼつかなう思ひまゐらせさふらへども、かたきをも攻めに御下り候はば、先づ一陣にこそ候ふべけれども、これは参らずとも、さらに御事かけ候ふまじ。兵衛ひやうゑすけ殿たづまうされ候はば、折節をりふしあひ労はることあつてと、おほせられ候ふべし」とて、涙を抑へて留まりぬ。これを聞くさぶらひども、皆袖をぞ濡らしける。大納言、苦々しう、かたはら痛く思はれけれども、このうへは下らざるべきにもあらずとて、やがて立ち給ひぬ。同じきじふ六日、池の大納言頼盛よりもりきやう関東くわんとうへ下着。兵衛の佐殿急ぎ対面をし給ひて、先づ、「宗清むねきよはいかに」と問はれければ、「折節相労はることあつて」とのたまへば、「いかに何を労はり候ふやらん。なほ意趣を存じ候ふにこそ。先年あの宗清がもとにあづけ置かれ候ひし時、事にふれて情け深う候ひしかば、あはれ御供に罷り下り候へかし。




はるか東国の旅に赴かれることですから、不安に思われていることとは存じます、敵を攻めるために下るのであれば、先陣として参りたいと思いますが、今度の旅は、そうではありません。兵衛佐殿(源頼朝)がわたしのことを訊ねたら、あいにく療養しておりますと、申し上げてください」と言って、涙を抑えて留まりました。これを聞いた侍たちは、皆涙で袖を濡らしました。大納言(平頼盛よりもり。清盛の弟)は、納得できず、また申し訳なく思いましたが、こうなった上は下らないわけにはいかないと、やがて出て行きました。同じ六月十六日に、池大納言頼盛卿(頼盛)は関東(鎌倉)に着きました。頼朝は急ぎ対面して、まず、「宗清(平宗清)はどうしたのですか」と問うと、頼盛は、「あいにく療養しております」と言うと、「いったいどんな病気だというのですか。わたしを恨んでいるとでもいうのでしょうか。先年わたしが宗清のもとに預け置かれた時、事あるごとに情け深くしてもらったので、供として来てほしかったのですが。


続く


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by santalab | 2013-09-27 07:32 | 平家物語 | Comments(0)

    

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