Santa Lab's Blog


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「増鏡」新島守(その13)

かくて世をなびかししたため行なふ事も、ほとほと古きには越えたり。忠実まめやかにめざましき事もおほくなり行くに、院のうへ、忍びて思し立つ事などあるべし。近く仕うまつる上達部・殿上人、増いて北面の下臈げらふ西面にしおもてなど言ふも、皆この方にほのめきたるは、明け暮れ弓矢・兵仗ひやうぢやうの営みより外の事なし。つるぎなどを御覧じ知る事さへ、いかで習はせ給ひたるにか、道の者にもやや立ち勝りて、賢くおはしませば、御前にてよき悪しきなど定めさせ給ふ。




このように武士が世を動かし治めることは、まったく古い時代にはなかったことでございました。幕府が朝廷に従わないことも多くなって、院の上(第八十二代後鳥羽院)には、人知れず思われるところがあったのでございましょう。お近くで仕える上達部・殿上人、まして北面の下臈([北面の武士]=[院の御所の北面に詰め、院中の警備にあたった武士])・西面([西面の武士]=[後鳥羽上皇の時、北面の武士に加えて置かれ、院の西に勤務した武士])などと言う者たちも、皆この後鳥羽院に心を寄せて、明け暮れ弓矢・兵仗([武器])の訓練の外に何もすることはありませんでした。後鳥羽院は剣(武道)のことにつきましても、どこで習われたのか、熟練者にもやや勝るほどに、馴れておられたので、御前で練習をご覧になられて善し悪しなどを申されたのでございます。


続く


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by santalab | 2013-10-31 21:11 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」新島守(その12)

その年の六月に、あづまて奉る。七月十九日におはしまし着きぬ。襁褓むつきの内の御有様は、ただ形代かたしろなどをいはひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京ごん大夫だいぶ義時よしとき朝臣心のままなり。されど、一の人の御子の将軍になり給へるは、これぞ初めなるべき。かの平家の亡ぶべき世の末に、人の夢に、「頼朝が後は、その御太刀あづかるべし」と、春日大明神おほせられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。




その年(承久元年(1219))の六月に、この子を東国に下されたのでございます。七月十九日に鎌倉に着かれました。襁褓([産着])に包まれて、まるで形代([祭りのとき、神霊の代わりとして置くもの。人形])を飾るようなものでございましたので、万事、右京権大夫義時朝臣(北条義時。北条政子の弟で鎌倉幕府第二代執権)の思うがままでございました。けれども、一の人([摂政・関白])の子が将軍(鎌倉幕府第四代将軍)になられたのは、これが初めてのことでございました。平家が亡んだ世(平安時代)の末に、ある人の夢に、「頼朝(源頼朝)の後は、その太刀をわたしが預かりますぞ」と、春日大明神が申されたのは、この若君(藤原頼経よりつね)のことだったのでございましょう(春日大明神は藤原氏の氏神)。


続く


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by santalab | 2013-10-31 09:51 | 増鏡 | Comments(0)


「平家物語」医師問答(その1)

同じき夏の頃、小松の大臣おとどは、かやうのことどもに、よろづ心細くや思はれけん、その頃熊野参詣のことありけり。本宮証誠しようじやう殿の御まへにて、しづかに法施ほつせまゐらせて、夜もすがら敬白けいびやくせられけるは、「親父しんぷ入道にふだう相国しやうこくていを見るに、悪逆無道あくぎやくぶだうにして、ややもすれば君を悩まし奉る。その振る舞ひを見るに、一期いちご栄華えいぐわなほ危ふし。重盛しげもり長子ちやうしとして、しきりに諫めをいたすと言へども、身不肖ふせうあひだ、かれ以つて服膺ふくようせず。枝葉しえふ連続して、しんをあらはし名を上げんこと難し。この時にあたつて、重盛いやしうも思へり。なまじひに列して、世に浮沈ふちんせんこと、あへて良臣りやうしん孝子かうしほふにあらず。しかじ、名を逃れ身を退いて、今生こんじやう名望めいばうを投げ捨てて、来世らいせの菩提を求めんに。ただし凡夫ぼんぶ薄地はくぢ、ぜひに惑へるがゆゑに、心ざしをなほ欲しいままにせず、南無なむ権現ごんげん金剛童子こんがうどうじ。願はくは、子孫繁栄絶えずして、仕へて朝廷てうていに交はるべくば、入道の悪心をやはらげて、天下てんがの安全を得せしめ給へ。栄耀えいえうまた一期を限つて、後混こうこんはぢに及ぶべくば、重盛が運命をつづめて、来世の苦輪くりんを助け給へ。




同じしよう三年(1179)の夏の頃、小松大臣(平重盛しげもり。清盛の嫡男)は、このような天変地異が起こることに、何かと不安に思ったのか、その頃熊野に参詣しました。本宮証誠殿(熊野本宮大社)の前で、静かに法施([仏などに向かって経を読み、法文を唱えること])して、夜通し敬白([うやまい謹んで申し上げること])することは、「父親である入道相国(平清盛)のなすことを見ていると、悪逆無道([道に背いたひどい行いであること])で、時には後白河院を悩ませております。そのような振る舞いでは、一生涯の栄華が続くとはとても思えません。わたしは長男として、度々諌めておりましたが、未熟な身のため、父は服膺([心にとどめて忘れないこと])しようとはしません。子孫が続けて、親の名声を高めることは難しいのです。わたしは長男ですが、わたしは取るに足らない者だと思います。にもかかわらずわたしも臣下の者となって、世に浮き沈みすること、りっぱな臣でもなく親孝行者でもありません。ですから、臣下を退いて、この世の名声を投げ捨てて、来世の菩提([煩悩を断ち切って悟りの境地に達すること])を求めるのです。ただ凡人の浅はかさゆえ、悩み迷って、心ざしのままに参りません、南無権現([仏・菩薩が人々を救うため、仮の姿をとって現れること])であられる金剛童子([密教の護法神])よ。願わくは、子孫繁栄絶えることなく、代々仕えて朝廷にお仕えしたいのです、どうか入道(清盛)の悪心を穏やかにしてください、天下の安全を約束してください。もしくは栄耀([大いに栄えること])が一期限りで、後の子孫たちの恥となるのであれば、わたしの運命を縮めて、代わりに子孫たちの苦輪([六道生死の苦しみが繰り返されて止まないこと])をお助けください。


続く


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by santalab | 2013-10-31 08:13 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」旋風

さるほどに同じき五月ごぐわつ十二じふに日の午の刻ばかり、宮中きやうちう旋風つじかぜおびたたしう吹いて、人屋じんをくおほ転倒てんだうす。風は中御門なかのみかど京極きやうごくより起こつて、未申ひつじさるの方へ吹いて行くに、棟門むねかど平門ひらかど吹きぬいて、四五ちやう十町じつちやうばかり吹きもて行き、けた長押なげし、柱などは、虚空に散在し、檜皮ひはだ、葺き板のるゐ、冬の木の葉の風に乱るるが如し。おびたたしう鳴りどよむ音は、かの地獄の業風ごふふうなりとも、これには過ぎじとぞ見えし。ただしやをくの破損ずるのみならず、命を失ふ者も多し。牛馬ぎうばたぐひ、数を知らず打ち殺さる。これただごとにあらず、御占みうらあるべしとて、神祇官じんぎくわんにして御占あり。「今ひやく日の内に、禄を重んずる大臣の慎み、別しては天下てんがの大事、仏法ぶつぽふ王法わうぼふともにかたぶき、ならびに兵革ひやうがく相続さうぞくすべし」とぞ、神祇官、陰陽寮おんやうりやう共に占ひ奉る。




そして同じ(1180)五月十二日(史実では四月二十九日らしい)の午の刻(正午)頃、宮中に激しい旋風が吹き荒れて、たくさんの人家をなぎ倒しました。風は中御門京極(今の京都市左京区あたりですかね)から起こって、未申([南西])の方へ吹いて行きました(つまり、平安京の東北から南西に進んだということです)、棟門([屋根を切妻造りにした平入りの門]、公家の邸宅などに用いたらしい)平門([平たい屋根をのせた門])を吹きぬけて、四五町十町(距離でいうと一町=約109mですから1kmほども吹き進んだことになります。ちなみに平安京の大きさは東西約4.5km、南北約5.2kmらしい)も吹き進んで、桁([柱の上に横に通した木。梁と交差する])、長押([柱から柱へと水平に打ち付けた木])、柱などは、大空に散乱して、檜皮(檜皮葺きの屋根に用いた)、葺き板(板葺きの板)などは、冬に木の葉が風に乱れ舞うようでした。はげしく鳴り響く音は、地獄の業風([地獄で吹くという大暴風])も、これに過ぎないと思われました。家屋が壊れるばかりでなく、命を落とす者も多くありました。牛馬は、数知れないほど死にました。これはただごとではなく、御占([占い])するべきだとのことで、神祇官([朝廷の祭祀を司った役人])を呼びだして占わせました。「今から百日の間に、禄多い大臣が亡くなり、特に天下の大事件、仏法([仏道])王法([国王の定めた法])、ともに力が弱くなり、同時に争いが続くでしょう」と、審議官、陰陽寮([陰陽道のことをつかさどった役所])ともに占いの結果は同じでした。


続く


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by santalab | 2013-10-31 08:10 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」僧都死去(その5)

それより僧都の御娘の、忍うでおはしける御許にまゐつて、ありしやうをはじめより細々と語り申す。「中々文を御覧じてこそ、いとど御思ひは増さらせ給ひて候ひしか。くだんの島には、硯も紙もなければ、御返事ぺんじにも及ばず。思し召されつる御事どもは、さながらむなしうてみ候ひぬ。今は生々世々しやうじやうせせを送り、多生曠劫たしやうくわうごふをば隔て給ふとも、いかでか御こゑをも聞き、御姿をも見参らさせ給ふべき。ただいかにもして、御菩提を弔ひ参らさせ給へ」と申しければ、姫御前聞きも敢へ給はず、伏しまろびてぞ泣かれける。やがてじふ二の年尼になり、奈良の法華寺に行ひ済まして、父母ぶもの後世を弔ひ給ふぞあはれなる。有王は俊寛僧都の遺骨ゆゐこつを首にかけ、かうへ上り、奥のゐんをさめつつ、蓮華谷にて法師ほふしになり、諸国七道しちだう修行しゆげふして、しゆの後世をぞ弔ひける。かやうに人々の思ひ嘆きの積もりぬる、平家のすゑこそ恐ろしけれ。




そこから俊寛僧都の娘が、忍び居る所を訪ねて、俊寛の様子を順を追って細々と話しました。「あなたの文をご覧になって、いっそう思いを募らせたのではないでしょうか。あの島には、硯も紙もありませんので、返事をいただくことは叶いませんでした。僧都があなたを心配なさった思いは、すべて消えてなくなってしまいました。生々世々([生まれ変わり死に変わって経る多くの世])を経て、多生曠劫([何度も生まれ変わり死に変わりする久遠の時間])離れていようと、きっといつか僧都の声も聞き、姿を目にすることができることでしょう。今は何としてでも、菩提を弔いなさいませ」と申しました、姫御前は聞き終わる間もなく、伏し倒れて泣くばかりでした。やがて姫御前は十二歳の年に尼になって、奈良の法華寺(真言律宗の尼寺。今の奈良市にあります)で出家して、父母の後世を弔いました。有王は俊寛僧都の遺骨を首にかけ、高野山に上り、奥の院([弘法大師=空海を祭った場所])に納めて、蓮華谷(高野山の宿坊)で法師になって、諸国を修行して、主(俊寛)の後世を弔いました。このように人々の思い嘆きの積もった、平家の行く末を思うと空恐ろしいことでした。


続く


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by santalab | 2013-10-31 08:07 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」僧都死去(その4)

「この島へ流されて後は、こよみもなければ、月日の経つをも知らず。ただおのづから花の散り、葉の落つるを見ては、三年みとせの春秋をわきまへ、蝉のこゑばくしうをおくれば夏と思ひ、雪の積もるを冬と知る。白月びやくぐわつ黒月の変はり行くを見ては、三じふ日をわきまへ、指をつて数ふれば、今年はつになると思ゆるをさなき者も、早先立ちけるござんなれ。西はちでうへ出でし時、この子が行かんと慕ひしを、やがてかへらうずるぞと慰め置きしが、ただ今のやうに思ゆるぞや。それを限りとだにも思はましかば、今しばらくもなどか見ざらん。親となり子となり、夫婦の縁を結ぶも、皆この世一つに限らぬ契りぞかし。今は姫がことばかりこそ心苦しけれども、それは生き身なれば、嘆きながらも過ごさんずらん。さのみ永らへて、おのれに憂き目を見せんも、我が身ながらつれなかるべし」とて、おのづから食事をとどめ、ひとへに弥陀の名号みやうがうを唱へ、臨終りんじう正念しやうねんをぞ祈られける。有王ありわう渡つて二じふ三日とまうすに、僧都そうづいほりの内にて、つひはり給ひぬ。歳三十七とぞ聞こえし。有王むなしき姿に取り付き奉り、天にあふぎ地に伏し、心の行くほど泣き明きて、「やがて後世ごせの御供仕るべう候へども、この世には姫御前ばかりこそ渡らせたまひさふらへ。後世とぶらひ参らすべき人も候はず。しばし永らへて御菩提を弔ひ参らすべし」とて、臥所ふしどを改めず、庵を切り掛け、松の枯れ枝、葦の枯れをひしと取り掛けて、藻塩もしほけぶりとなし奉り、荼毘だび事を経ぬれば、白骨はくこつを拾ひ首にかけ、また商人船あきんどぶねの頼りにて、九国くこくにぞ着きにける。




俊寛は、「この島へ流されてからは、暦もないので、月日の経つのもわからない。ただ花が散り、葉が落ちるのを見て、三年の月日が経ったのを知るだけだ、蝉の声がすれば夏だと思い([麦秋]=[麦の取り入れをする季節。初夏])、雪が積もれば冬と知る(鬼界が島に雪は降りますかね?)。白月([月が満ち始めてから満月に至るまでの十五日間。旧暦の一日から十五日の間])黒月([満月後の旧暦十六日から月末までの間])が変わり行くのを見て、三十日([一月])を知り、指を折って数えれば、今年は六歳になると思う幼い子も、わたしを残して亡くなってしまった。西八条(清盛の殿)を出て行く時、この子が行くなと言って後を追って来たのを、すぐに帰るからと慰めたのを、つい今がたのように思うのだ。あれが最後だとわかっておれば、なぜしばらくあの子を目に焼き付けておかなかったのか。親となり事なり、夫婦の縁を結ぶのも、皆この世一つ限りの契りではあるまい。今となっては姫のことだけが心配だが、生き身ならば、嘆きながら過ごすほかはない。こうして命永らえて、辛い目をするのも、我が身ながら情けないことよ」と言って、自ら食事を断ち、ひたすら弥陀([仏陀])の名を唱え、臨終正念([阿弥陀仏を念じて極楽往生を願うこと])を祈りました。有王が鬼界が島に来てから二十三日目に、僧都は庵の中で、終に生涯を閉じました。三十七歳のことでした。有王はむなしくなった体に取り付いて、天を仰ぎ地に伏して、心のゆくまで泣き明かして、「すぐにでも後世([あの世])のお供を仕りたいと思いますが、この世には姫御前しかおりません。後世([来世の安楽])を弔う人もいません。しばらくは命永らえて菩提([死後の冥福])を弔わなければ」と、寝床をそのままに、庵を取り崩して重ね置き、松の枯れ枝、葦の枯れ葉を一面に被せて、藻塩の煙となして、俊寛を荼毘に付して、白骨を拾い首にかけて、また商人船に乗って、九国([九州])の地に就きました。


続く


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by santalab | 2013-10-31 08:05 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」僧都死去(その3)

奥には、「などや三人流されてまします人の、二人ににんは召しかへされてさぶらふに、何とて一人いちにん残されて、今まで御上りも候はぬぞ。あはれたかきもいやしきも、をんなの身ほど言ふ甲斐かひなきことは候はず。をとこの身にても候はば、渡らせ給ふ島へも、などかたづまゐらで候ふべき。このわらはを御供にて、急ぎ上らせ給へ」とぞ書かれたる。「これ見よ、有王ありわうよ。この子が文の書きやうのはかなさよ。おのれを供にて、急ぎ上れと書いたることの恨めしさよ。俊寛しゆんくわんが心に任せたる憂き身ならば、いかでかこの島にて三年みとせの春秋をば送るべき。今年はじふ二になると思ゆるが、これほどにはかなうては、いかでか人にもまみえ、宮仕へをもして、身をも助くべきか」とて泣かれけるにぞ、人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふとは、今こそ思ひ知られけれ。




文の終わりには、「どうして三人流されて、二人は帰されたのに、どうして一人だけ残されて、今まで帰ってこれないのですか。ああ身分の高い者そうでない者も、女の身というのは何の役にも立たないものです。もしわたしが男であれば、父が流された島へも、どうして訪ねないことがありましょうか。有王を連れて、急いで帰ってきてください」と書いてありました。俊寛は、「これを見よ、有王よ。この子が書いたところでどうにもならないのに。お前を供にして、急ぎ帰れと書かれてわたしは情けなく思うのだ。わたしの思い通りになるのならば、どうしてこの島で三年の年月を送るのか。あの子は今年十二歳になると思うが、これほど幼くては、人に仕えたり、宮仕えもして、生計を立てることができようか」と言って泣くのでした、人の親の心は闇ではありませんが、子を思って悩むことを、今こそ思い知ったのでした。


続く


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by santalab | 2013-10-31 08:04 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」僧都死去(その2)

いづれも御嘆きのおろかなる方はさふらはねども、中にもをさなき人は、あまりに恋ひまゐらさせ給ひて、参り候ふ度毎には、『いかに有王ありわうよ、我鬼界が島とかやへ具して参れ』とのたまひて、むつからせ給ひしが、過ぎさふらひし如月きさらぎに、痘瘡もがさと申すことに、失せさせおはしまし候ひぬ。北の方はその御嘆きと申し、またこれの御事と申し、一方ひとかたならぬ御物思ひに思し召ししづませ給ひて、うち伏させ給ひしが、去んぬる三ぐわつ二日の日、つひにはかなくならせ給ひて候ひぬ。今は姫御前ばかりこそ、奈良の叔母をば御前の御許に忍うでおはしける、それより御文給はつて参つて候ふ」とて、取り出だいて奉る。僧都そうづこれを開けて見給へば、有王が申すにたがはず書かれたり。




どなたもお嘆きのほどは並大抵ではありませんでしたが、中でも幼い子は、あまりにあなたを恋しく思って、わたしが訪ねる度に、『有王よ、わたしを鬼界が島という所へ連れて行け』と言って、わたしを困らせましたが、去る如月([旧暦二月])に、痘瘡([天然痘]。天然痘が根絶されたのは二十世紀後半になってからのことです)を患って、亡くなってしまいました。北の方の悲しみは、またあなたが流罪になったこともあって、たいそう悲しみに暮れて、伏せておいででしたが、去る三月二日に、終にお亡くなりになりました。今では姫御前だけが、奈良の叔母御前の許に忍んでおいでです、姫御前より文をいただいて持って参りました」と言って、取り出して俊寛に渡しました。俊寛が文を開けて見ると、有王が言う通りのことが書かれてありました。


続く


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by santalab | 2013-10-31 08:03 | 平家物語 | Comments(0)


「承久記」頼家実朝昇進並びに薨去の事(その32)

さても将軍の後嗣こうし絶え果て給はん事を悲しみ思ひ給ふ。二位殿の沙汰として、光明峯寺こうみようぶじの左大臣道家みちいへ公の三男頼経よりつねの卿を申し下し給ひ、源家の将軍の後嗣を継がしめ給ひけり。これによつて二位殿の代りとして義時よしとき天下の執権たりき。




それにしても将軍の後嗣([跡継ぎ])が絶え果ててしまったことを悲しみました。二位殿(北条政子)の沙汰として、光明峯寺(かつて現京都市東山区今熊野南谷町付近にあった寺)左大臣道家公(九条道家)の三男頼経卿(藤原頼経)をもらい受けて、源家の将軍の跡を継がせました。これにより二位殿に代わり義時(北条義時。北条政子の弟)が天下の執権([幕政を統轄した最高の職])となりました。


続く


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by santalab | 2013-10-31 07:58 | 承久記 | Comments(0)


「平家物語」那須与一(その4)

御方のつはものども、与一が後ろを遥かに見送つて、「この若者、一定いちぢやう仕うずると、思えさふらふ」とまうしければ、判官も頼もしげにぞ見給ひける。矢頃少しとほかりければ、海の中一反ばかりうち入れたりけれども、なほあふぎあはひは、七反ばかりもあるらんとこそ見えたりけれ。頃は二月にんぐわつじふ八日とりの刻ばかんのことなるに、折節をりふし北風激しう吹きければ、磯打つ波も高かりけり。舟は揺り上げ揺り据ゑ漂へば、扇もくしに定まらず、ひらめいたり。沖には平家船を一面に並べて見物す。くがには源氏くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも張れならずと言ふことなし。与一目を塞いで、「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光につくわうの権現、宇都宮、那須湯前ゆぜん大明神だいみやうじん、願はくは、あの扇の真ん中射させてばせ給へ。




源氏方の兵たちは、与一(那須与一)の背中をはるかに見送って、「この若者は、きっと扇を射落とすに違いないと、思うぞ」と申したので、判官(源義経)も心強いことと思いました。矢頃([矢を射るのにちょうどよい距離])に少し遠かったので、与一は馬を海の中一反(約11m)ほど進み入れましたが、なお扇までの距離は、七反ほどもあるように見えました。頃は二月十八日酉の刻(午後六時頃)のことで、ちょうど北風が激しく吹いて、磯を打つ波も高くありました。舟は波に揺れて上がったり下がったりして、扇も櫛([船がい]=[櫓を漕いだり棹をさしたりするところ])にじっとすることなく、ひらひら揺れていました。沖では平家たちが船を一面に並べて見物していました。陸では源氏の兵たちが馬を並べて見ていました。誰もかれも固唾を呑んで見守っていました。与一は目を閉じて、「八幡大菩薩よ、とりわけ我が国(下野国)の神でまします、宇都宮(宇都宮二荒山神社。今の栃木県宇都宮市にあります)、日光権現(今の栃木県日光市にある日光三山の神)、那須湯前大明神(今の栃木県那須郡那須町にある那須温泉神社の神か?)よ、願わくは、あの扇の真ん中を射させよ。


続く


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by santalab | 2013-10-31 07:55 | 平家物語 | Comments(0)

    

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