Santa Lab's Blog


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「増鏡」藤衣(その8)

今年もはかなく暮れて、貞永ぢやうえい元年になりぬ。定家ていかの中納言うけたまはりて、撰集の沙汰ありつるを、このほど御門下りさせ給ふべき由聞こゆればにや、いとく十月二日奏せられける。一年ひととせの内に奏せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞こゆ。「元久げんきうに新古今出で来て後、ほどなく世の中も引き変へぬるに、また新の字うち続きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍りけるとかや。




その年もあっという間に過ぎて、貞永元年(1232)になりました。後堀河天皇(第八十六代天皇)は定家中納言(藤原定家さだいへ)に仰せて、撰集の編纂を命じられましたが、このほど帝位を下りられると申されたので、急ぎ十月二日に奏上されました、たいそうありがたいことでございました。『新勅撰和歌集』と名付けられました。「元久に『新古今和歌集』を編纂されて、ほどなく世の中は変わってしまわれたのに(『新古今和歌集』は第八十二代後鳥羽院の院宣によるもので、その後後鳥羽院が隠岐に配流となったこと)、また新の字をお付けになられるとは、縁起でもないこと」などと、陰口を言う者もおりましたとか。


続く


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by santalab | 2013-11-30 07:22 | 増鏡 | Comments(0)


「承久記」官兵光季を攻むる事(その11)

簾の内より判官の射ける矢に胸板篦深のぶかに射られまろぶところを、郎等肩に引き掛けて出でにけり。平九郎判官車宿りに打ち入りて、「胤義たねよし宣旨の御使ひなり。太郎判官に見参らせん」と言はれて、簾の際に立ち寄り、「何と言ふぞ和人ども。君を勧め奉りて、日本一の大事を起こすは如何に。大将軍と名乗りつれば、矢一つ奉らん」とて放つ。胤義が弓の鳥打ち射切りて、並びたる武者に射立てたり。胤義人を進ませて、「思ふ様あり」とて引き退く。




糟屋有長ありながは簾の内から判官(伊賀光季みつすゑ)の射た矢に胸板([鎧の胴の最上部の、胸にあたる部分])を深く射られて転がり倒れましたが、郎等([家来])が肩にかついで出て行きました。平九郎判官(三浦胤義)は車宿り([牛車を収納する建物])に打ち入って、「胤義が宣旨の使いである。太郎判官(伊賀光季)と面会したい」と言われて、光季は簾の際に寄って、「要件は何だ。君(後鳥羽院)をそそのかし、日本一の大事件を起こすのはどうしてか。大将軍と名乗ったからには、矢の一つも奉る」と答えて矢を放ちました。矢は胤義(三浦胤義)の弓の鳥打ち([弓の上部のいちばん反りの大きい部分の上辺部])を射切って、胤義に並んでいた武者に刺さりました。胤義は武者たちを進ませて、「相手をしてやろう」と言って引き退きました。


続く


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by santalab | 2013-11-30 06:56 | 承久記 | Comments(0)


「平家物語」内侍所都入(その3)

四月しんぐわつ三日の日、九郎大夫の判官義経、源八げんはち広綱ひろつなをもつて、ゐんの御所へ奏聞せられけるは、「去んぬる三月二十四じふし日の卯の刻に、豊前ぶぜんの国田の浦、門司もんじが関、長門の国壇ノ浦、赤間が関にて、平家をことごとく攻め亡ぼし、内侍所ないしどころ、印の御箱、事故ことゆゑなう都へかへし入れ奉るべき」由、奏聞せられたりければ、法皇ほふわうおほきに御感あつて、広綱を御壺の内へ召して、合戦の次第をくはしう御たづねあつて、御感の余りに、広綱を当座たうざ左兵衛さひやうゑにぞなされける。同じき五日の日、北面にさふらとう判官信盛のぶもりを召して、「内侍所、印の御箱、一定いちぢやうかへり入らせ給ふか、見てまゐれ」とて、西国へ遣はさる。信盛やがて院の御馬たまはつて、宿所へもかへらず、鞭を上げ、西を指してぞ馳せ下る。然るほどに九郎大夫の判官義経、平氏男女なんによの生け捕りども、あひ具して上られけるが、同じき十四日播磨の国明石の浦にぞ着かれける。名を得たる浦なれば、更け行くままに月澄み上り、秋の空にも劣らず。女房たちは、差し集ひて、「一年ひととせこれをとほりしには、かかるべしとは思はざりしものを」とて、忍び音に泣きぞ合はれける。そつすけ殿、つくづく月を眺め給ひて、いと思ひ残せることもおはせざりければ、涙に床も浮くばかりにて、かうぞ思ひ続けらる。

眺むれば 濡るる袂に 宿りけり 月よ雲居の 物語せよ




四月三日に、九郎大夫判官義経(源義経)は、源八広綱(源広綱)を遣わして、院御所に奏聞しました、「去る三月二十四日の卯の刻([午前六時頃])に、豊前国の田の浦(福岡県北九州市)、門司関(福岡県北九州市)、長門国壇ノ浦(山口県下関市)、赤間関(山口県下関市)で、平家を余さず攻め亡ぼしました、内侍所([三種の神器の一つ、八咫鏡やたのかがみ])、印の御箱([三種の神器の一つ、八坂瓊勾曲玉やさかにのまがたまの神璽を納めておく箱])を、無事都へお返しいたします」と、奏聞したので、法皇(後白河院)はたいそうよろこばれて、広綱を御壺([南庭])に呼んで、合戦の始終を詳しく訊ねられて、あまりのうれしさに、広綱を即座に左兵衛に任命しました。同じ四月五日に、北面武士([院御所の北面に伺候して警固にあたった武士])である藤判官信盛(藤原信盛)を呼んで、「内侍所(八咫鏡)、印の御箱(八坂瓊勾曲玉)が、確かに戻って来るか、見て参れ」と、西国に遣わしました。信盛はすぐに院の馬を賜って、宿所にも戻らず、鞭打って、西を目指して急ぎ下りました。やがて九郎大夫判官義経(源義経)は、平氏の男女の生け捕りたちを、引き連れて上っていましたが、同じ四月十四日に播磨国の明石浦(兵庫県明石市)に着きました。有名な浦でしたので、夜が更けるにしたがい月が美しく上り、秋の空に劣らないほどでした。女房たちは、集まって、「昨年ここを通った折には、このようなことになるとは思いませんでした」と、声を忍んで泣き合いました。帥佐殿(平時忠ときただの妻藤原領子むねこ)は、いつまでも月を眺めて、もはや思い残すこともなく、涙に床も浮くばかりに、こう思い続けました。

月をつくづく眺めておりますと、涙に濡れる袂に、月が宿ります。袂の月よ、海に沈んだ者たちが雲居([天上])でどうしているのか、話してくれませんか。


続く


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by santalab | 2013-11-30 06:50 | 平家物語 | Comments(0)


「神皇正統記」人(崇徳天皇)

第七十五代、崇徳すとくの院。いみな顕仁あきひと、鳥羽第二の子。御母中宮藤原の璋子しやうし待賢たいけん門院と申す〉、入道大納言公実きんざねの娘なり。癸卯みずのとうの年即位、甲辰きのえたつに改元。戊申つちのえさるの年、宋の欽宗皇帝靖康せいこう三年に当たる。宋のまつりごと乱れしより北狄ほくてきの金国起こりて上皇徽宗きそう並びに欽宗を捕りて北にかへりぬ。皇弟こうてい高宗江を渡りて杭州かうしうと云ふ所に都を立てて行在所あんざいしよとす。南渡なんとと云ふはこれなり。


この天皇天下を治め給ふこと十八年。上皇と御仲よからで退かせ給ひき。保元ほうげんに、事ありて御出家ありしが、讃岐の国に移され給ふ。四十六歳おましましき。




第七十五代天皇は、崇徳院です。諱は顕仁と申し、鳥羽院(第七十四代天皇)の二番目の子(第一皇子)でした。母は鳥羽院中宮藤原璋子たまこ〈待賢門院と申します〉、癸卯の年(保安ほうあん四年(1123))即位、甲辰(天治てんぢ元年(1124))に改元。戊申の年(大治だいぢ三年(1128))、宋の欽宗皇帝靖康三年(靖康は二年まで)宋の政治が乱れてからというもの北狄([北方の異民族])の金国(女真(女眞よじん族王朝)が起こり上皇徽宗(欽宗の父)および欽宗を捕らえて北(金)に帰りました。皇弟高宗は江(江河=黄河)を渡り杭州(現中国浙江せつこう省)という所に都(南宋)を建立して行在所([行宮あんぐう]=[仮宮])としました。南渡と呼ばれるのはこのことです。


崇徳天皇が十八年間天下を治めました。上皇(鳥羽院)と仲がよくなかったので位を下りることになりました。保元(保元元年(1156)) に事(保元の乱)を起こして出家しましたが、讃岐国(現香川県)に移されました。四十六歳で(配所)でお隠れになりました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 20:34 | 神皇正統記 | Comments(0)


「増鏡」藤衣(その7)

まことや、その年十一月十一日、阿波あはの院隠れさせ給ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例ならず思されければ、御髪みぐし下ろさせ給ひにけり。ここら物をのみ思して、今年は三十七にぞならせ給ひける。今一度ひとたび、都をも御覧ぜずなりぬる、いみじう悲しきを、隠岐の小島にも聞こし召し歎く。承明門院しようめいもんゐんは、様々の憂き事を見尽して、なほ永らふる命の疎ましきに、またかく、同じ世をだに去り給ひぬる御歎きの、言はん方なさに、「など先立たぬ」と、口惜くちをしう思し焦がるる様、ことわりにも過ぎたり。かしこにて召し使ひける御調度てうど、何くれ、はかなき御手箱やうの物を、都へ人のまゐらせたりける中に、たまさかに通ひける隠岐よりの御文、女院の御消息せうそこなどを、一つに取りしたためられたる、いみじう哀れにて、御目も霧ふたがる心地し給ふ。家隆いへたかの二位の娘、小宰相と聞こえしは、おのづからけぢかく御覧じなれけるにや、人より異に思ひしづみて、御ぶくなど黒う染めけり。

うしと見し ありし別れは 藤衣 やがて着るべき 門出なりけり




思いもしなかったことでございますが、その年(寛喜くわんぎ三年(1231))の十一月十一日に、阿波院(第八十三代土御門院)がお隠れになられました。一生と申すものなんともはかないことでしょう。院(土御門院)はお身体を患われて、髪を下ろされたのでございます。近頃では思い悩まれるばかりでございましたが、三十八歳のことでございました。再び、都をご覧になられることなく、たいそうかわいそうなことでございましたが、隠岐の小島(第八十二代後鳥羽院)でもこれをお聞きになられて悲しまれました。承明門院(土御門院の生母。源在子ざいし)は、様々な悲しい目に遭われて、それでも命を永らえていることがいやになられておいででございましたが、また土御門院が、同じ世さえも去られてしまった悲しみに、申す言葉もなく、「どうして先立たせてはもらえなかったのですか」と、つらく思われておいででございましたが、道理にも過ぎたことでございました。土御門院が阿波でお使いになられておいでであった調度([家具])は、あれこれございましたが、小さな手箱のようなものを、都へ人が届けられましたがその中には、わずかに届けられた隠岐(後鳥羽院)からのふみ、女院(土御門院中宮、大炊御門麗子れいし陰明門院おんめいもんゐん)からの消息([文])などが、一つに閉じられておりました。承明門院はとても悲しくて、目も眩む思いがいたしました。家隆二位(藤原家隆)の娘、小宰相(土御門院小宰相)と呼ばれておりました女房を、お側で使われておられましたので、人になおさら悲しまれて、墨染の衣を着て喪に服したのでございます。

悲しそうにしておられた、生前のお別れは、この藤衣([麻布で作った喪服])をやがて着るための門出でございましたのですね。


続く


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by santalab | 2013-11-29 17:24 | 増鏡 | Comments(0)


「義経記」熊野の別当乱行の事(その2)

年長け、よはひかたぶきて、一人の姫君をまうけ給ひたり。天下第一の美人にておはしければ、雲の上人うへびと我も我もと望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。大臣師長もろなが懇ろに申まうし給ひければ、さるべき由まうされけれども、今年は忌むべき事あり。東の方は叶はじ。明年の春の頃と約束せられけり。御年十五と申す夏の頃如何なる宿願しゆくぐわんにか、五条ごでうの天神にまゐり給ひて、御通夜おんつやし給ひたりけるに、辰巳の方より俄に風吹き来たりて、御身に当たると思ひ給ひければ、物狂はしくいたはりぞ出で来給ひたる。大納言、師長、熊野を信じまゐらせ給ひけるほどに、「今度の病ひ助けさせ給へ。明年の春の頃は参詣を遂げ、王子わうじ王子の御前にて宿願しゆくぐわんほどさうらふべし」と祈られければ、ほどなく平癒し給ひぬ。




二位大納言が歳をとり、老いてから、一人の姫君が生まれました。姫君は天下で一番の美人でしたので、殿上人たちは我も我もと求婚しましたが、叶いませんでした。大臣師長(藤原師長。当時は参議か?)が何度も求婚したので、二位大納言は婿取りすることにしましたが、今年は忌中の年である。東方も方角がよろしくない。来年の春頃にと約束しました。姫君が十五歳の夏の頃どのような宿願([かねてからの願望])があってのことか、五条天神(五條天神宮。京都市下京区にある神社)に参り、通夜([神社や仏堂にこもって終夜祈願すること])しましたが、辰巳([南東])より急に風が吹いて、身に当たると思ったとたん、正気を失って病いになってしまいました。二位大納言、師長は、熊野ゆや権現([熊野三社の主祭神])を信じていたので、「娘の病気を治してください。来年の春頃には参詣し、王子([九十九王子]=[熊野古道沿いに在する熊野修験の手で組織された一群の神社])王子の御前で宿願のお礼参りをしましょう」と祈りました、姫君の病気はたちまち平癒しました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 17:13 | 義経記 | Comments(0)


保元物語


後白河院御即位の事
法皇熊野御参詣並びに御託宣の事
法皇崩御の事
新院御謀反思し召し立つ事
官軍方々手分けの事
親治等生捕らるる事
新院御謀反露見並びに調伏の事付けたり内府意見の事
新院為義を召さるる事付けたり鵜丸の事
左大臣殿上洛の事付けたり著到の事
官軍召し集めらるる事
新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事
将軍塚鳴動並びに彗星出づる事
主上三条殿に御幸の事付けたり官軍勢汰への事

白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事
白河殿攻め落す事
新院・左大臣殿落ち給ふ事
新院御出家の事
朝敵の宿所焼き払ふ事
関白殿本官に帰復し給ふ事付けたり武士に勧賞を行はるる事
左府御最後付けたり大相国御嘆きの事
勅を奉じて重成新院を守護し奉る事
謀反人各召し捕らるる事
重仁親王の御事
為義降参の事
忠正・家弘等誅せらるる事
為義最後の事
義朝の弟ども誅せらるる事

義朝幼少の弟ことごとく失はるる事
為義の北の方身を投げ給ふ事
左大臣殿の御死骸実検の事
新院讃州に御遷幸の事並びに重仁親王の御事
無塩君の事
左府の君達並びに謀反人各遠流の事
大相国御上洛の事
新院御経沈めの事付けたり崩御の事
為朝生捕り遠流に処せらるる事
為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事
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by santalab | 2013-11-29 16:34 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その7)

この為朝ためともは、十三にて筑紫つくしへ下り、九国を三年に討ち従へて、六年治めて十八歳にて都へ上り、保元の合戦に名をあらはし、二十九歳にて鬼が島へ渡り、鬼神を捕つてやつことし、一国の者ぢ恐ると言へども、勅勘の身なれば、つゐに本意を遂げず、三十三にして自害して、名を一天に広めけり。いにしへより今にいたるまで、この為朝ほどの血気の勇者なしとぞ諸人申しける。




為朝(源為朝。源頼朝の父義朝よしともの異母弟ですから、頼朝の伯父)は、十三歳で筑紫国(今の福岡県)へ下り、九国([九州])を三年の間に討ち従えて、六年間治めてから十八歳で京に上り、保元の合戦に名をとどろかせ、二十九歳で鬼が島に渡り、鬼神を捕らえて下僕として、一国の者たちをおびえ恐れさせたというものの、勅勘([天皇から受けるとがめ])を被る身であったので、ついには本望を遂げることなく、三十三歳で自害して、名を国中に広めました。遠い昔より今にいたるまで、為朝ほど血気盛んな勇者はいなかったと人々は言いました。


(終)


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by santalab | 2013-11-29 16:33 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その6)

その後は、船どもはるかに漕ぎ戻して申しけるは、「八郎殿の弓勢は、今に始めぬ事なれども、いかがはすべき。我らがよろひを脱ぎて、船にや着する」など、色々の支度にてほどれども、さし出づる敵もなければ、またおづおづ船を漕ぎ寄せけれども、敢へて手向かひする者もなし。これに付けても、たばかつて陸に上げてぞ討たんずらんと、心に鬼を作つて、左右なく近付かず。されども波のうへに日ををくるべきかとて、思ひ切つて、馬の足立つほどにもなりしかば、馬ども皆追ひ下ろして、ひたひたと打ち乗つておめいて駆け入れども、立て合ふ者のやうに見え、なけれども太刀を持つやうに思え、眼勢・事柄、敵の討ち入るらむを差し覗く体にぞありける。されば、かねて我真つ先駆けて討ち捕らんと申せし兵ども、これを見て討ち入る者一人もなし。全官軍の臆病なるにもあらず、ただ日頃、人ごとに怖ぢ習ひたるいはれなり。かやうに随分の勇士どもも、わろびれて進み得ず、ただ外溝を取りまはせるばかりなり。ここに加藤次景廉かげかど、自害したりと身を伏せてやありけん、長刀を持つて後ろより狙ひ寄りて、御曹子の首をぞ討ち落としける。よつてその日の高名の一の筆にぞ付たりける。首をば同じ五月に都へ上せければ、院は二条京極に御車を立てて叡覧あり。京中の貴賎道俗、郡集す。




船が沈められた後は、船をはるか沖に漕ぎ戻して相談するには、「八郎殿(源為朝ためとも)の弓の威力は、今更言うまでもないことだが、どうすればよいのか。わたしたちの鎧を脱いで、船に着せようか」などと、色々準備してしばらく経ちましたが、向かってくる敵もいないので、またこわごわ船を島に漕ぎ寄せたものの、進んで為朝に立ち向っていく者はいませんでした。敵がいないのは、我らを騙して陸に上げて討とうとしているのではいかと、無用に想像して、とにかく近付くことができませんでした。しかしながら波の上で日を送るのもどうかと思い、思い切って、馬の足が立つほどになれば、馬を皆船から下ろして、急ぎ馬に乗って喚き声を上げて駆けていくと、手向かう者がいるように見え、実はいないのに太刀を持っているように思え、眼勢・有様は、まるで敵が向かってくるのを窺っているかのように思えるのでした。こうして、我こそ真っ先に駆けて為朝を討ち捕ると言っていた兵たちも、これを見て討ち入る者は一人もいませんでした。全官軍が臆病であったのではなく、日頃より、人々が為朝を恐れるようになっていたからでした。このように大勢の勇士たちも、恐れて進むことができずに、ただ外溝を巡らしているばかりでした。加藤次景廉(加藤景廉。加藤景員かげかずの次男)は、為朝が自害したように見せかけて身を伏せているのかも知れないと、長刀を持って背後より近付いて、為朝の首を討ち落としました。これによってその日の高名([手柄])の筆頭になりました。為朝の首が同年(1170)五月に京に持ち上ると、後白河院は二条京極に車を出してご覧になられました。京中の貴賎も道俗([僧侶と俗人])も、為朝の首を見ようと集まってきました。


続く


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by santalab | 2013-11-29 16:26 | 保元物語 | Comments(0)


「保元物語」為朝鬼が島に渡る事並びに最後の事(その5)

「さりながら、矢一射てこそ腹をも斬らめ」とて、立ち向かひ給ふが、最後の矢を手浅く射たらむも無念なりと思案し給ふところに、一陣の船に、究竟の兵三百余人射向ひの袖をさしかざし、船を乗りかたぶけて、三町ばかり渚近く押し寄せたり。御曹子は矢頃少しとをけれども、件の大鏑おほかぶらを取つて継がひ、小肘こひぢまはるほど引き詰めて兵ど放つ。水ぎは五寸ばかりを射て、大舟の腹を穴たへつと射とをせば、両方の矢目より水入りて、船は底へぞ舞ひ入りける。水心ある兵は、楯・掻楯に乗つて漂ふ所を、櫓・櫂・弓のはずに取り付きて、並びの船へ乗り移りてぞ助かりける。為朝これを見給ひて、「保元のいにしへは、矢一すぢにて二人の武者を射殺しき。嘉應かおうの今は一矢に多くの兵を殺しおわりぬ。南無阿弥陀仏」とぞ申されける。今は思ふ事なしとて、内に入り、家の柱を後ろに当てて、腹掻き切つてぞ給ひける。




為朝ためとも(源為朝)は、「そうとはいえ、矢を一本射てから腹を斬ろう」と言って、敵に立ち向かいましたが、最後の矢を軽く討つのも無念と思っているところに、一陣の船で、最強の兵三百人余りが矢の向きの袖をふり上げて、船に乗って、三町(一町は約109m)ほどの渚近くに押し寄せてきました。為朝は矢の距離が少し遠いと思いましたが、いつもの大鏑([大きな鏑矢、鏑矢は音を発する矢])を弓に継ぎ、肘が回るほど引いてから兵に向かって放ちました。水際五寸(一寸は約3cm)ばかりの所を射て、大船の腹に穴を開けて射通したので、両方の矢目より水が入って、船は海の底へ舞いながら沈んでしまいました。泳ぎのできる兵たちは、手楯・掻楯([大形の楯])に乗って海に漂っているところを、櫓・櫂・弓の先端に取り付いて、仲間の船に乗り移って助かりました。為朝はこれを見て、「保元の昔は、矢一本で二人の武者を射殺したものだ。嘉應(高倉天皇の時代です。為朝が亡くなったのは1170年のことらしい)の今は一矢で多くの兵を殺してしまった。南無阿弥陀仏」と唱えました。今は思い残すことはないと言って、殿の内に入り、家の柱を背中に当てて、腹を切りました。


(源為朝の子、為頼ですが、為朝に刺殺されたと思いきや、後の歴史に度々登場するのです。「保元物語」も所詮、「物語」ですから、こういった創作があって当然なのですが、『平家物語』にも「自害」したはずの「北の方」たちが、後の歴史に登場することがままありますしね。)


続く


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by santalab | 2013-11-29 15:14 | 保元物語 | Comments(0)

    

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