Santa Lab's Blog


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「義経記」忠信都へ忍び上る事(その5)

斯様かやう梶原かぢはらうとまれ、腹を据ゑ兼ねて、六波羅へまうさんと思ひつつ、五日の夜に入りて、半物はしたもの一人召し具して、六波羅へまゐり、江馬えまの小四郎を呼び出だして、この由伝へければ、北条ほうでうにかくと申されたり。「時刻を移さず寄せて捕れ」とて、二百騎の勢にて四条しでう室町にぞ押し寄せたり。昨日きのふ一日今宵こよひ夜もすがら、名残りの酒とて強ひたりければ、前後も知らず臥したりけり。頼むをんなは心変はりして失せぬ。常に髪けづりなどしける半物はしたもののありけるが、忠信ただのぶが臥したる所へ走り入りて、荒らかに起こして、「かたき寄せてさうらふぞ」と告げたりける。




女は梶原(梶原景茂かげもち)に嫌われて、我慢ならなくなって、六波羅(六波羅守護)に知らせようと、五日の夜になってから、半物([下女・召使い])を一人連れて、六波羅に参り、江馬小四郎(北条義時よしとき。北条政子の弟)を呼び出して、佐藤忠信よしのぶの居場所を知らせようと、北条(義時よしとき)に伝えました。北条(義時)が「すみやかに押し寄せて忠信を捕らえよ」と命じたので、二百騎の勢で四条室町に押し寄せました。昨日は一日一晩中、名残りの酒を勧められて、忠信は前後不覚で寝ていました。頼る女は心変わりしていなくなりました。いつも髪結いなどをしていた半物([下女・召使い])がいましたが、忠信が寝ていた部屋に走り入って、荒々しく起こして、「敵が寄せて来ました」と知らせました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 21:01 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」忠信都へ忍び上る事(その4)

梶原かぢはら三郎これを聞きて、余りの事なれば、中々兎角物も言はず。ただうとましきもののあはれにわりなきをたづぬるに、稲妻いなづま陽炎かげろふみづの上に降る雪、それよりもなほあたなるは、をんなの心なりけるや。これをば夢にも知らずしてこれを頼みて、身をいたづらになす忠信ただのぶこそ無慙むざんなれ。梶原三郎まうしけるは、「うけたまはさうらひぬ。景茂かげもちは一門の大事を身に当てて、三年みとせ在京ざいきやう仕るべく候ふが、今年は二年になり候ふ。在京の者の両役りやうやくは叶はぬ事にて候ふ。さればとて忠信追討ついたうせよと言ふ宣旨院宣ゐんぜんもなし。欲に耽つて合戦に忠を致したりとても、御諚ごぢやうならねば、御恩もあるべからず。仕損じては一門の瑕瑾かきんになるべく候ふあひだ、景久叶ふまじ。なほも御心ざし切なからん人におほせられ候へ」と言ひ捨て、急ぎ宿へかへりつつ、色をもをも知らぬ無道ぶたうの女と思ひ知り、つひにこれをば問はざりけり。




梶原三郎(梶原景茂かげもち)はこれを聞いて、あまりにも無情なことでしたので、何も答えませんでした。ただ女の情けなさが憐れで卑しさのほどを思い浮かべて、稲妻か陽炎か、さてはて水の上に降る雪、それよりも実のないものが、この女の心ではないか、それを夢にも知らず頼りにして、命を無駄にする忠信が憐れでならないと思いました。梶原三郎(景茂)が言うには、「話はお聞きしました。わたし景茂は一門の大事をこの身に受けて、三年間京に仕えることになりました、今年で二年になります。在京の者に両役(京と鎌倉に仕えること)はなりません。また忠信を追討せよとの宣旨([天皇の命令])院宣([上皇の命令])も出ていません。欲に引かれて合戦で忠義を致したところで、御諚([貴人・主君の命令])でなければ、恩(褒美)もないでしょう。もし仕損ずれば一門に瑕瑾([傷])が付くことになります、わたし景久にはお引き受けできません。より親しい人に申されなさい」と言い捨てて、急ぎ宿所に帰るすがら、色も香も知らない無道([人の道にはずれること])の女だと知って、女の許に通うことはありませんでした。


続く


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by santalab | 2013-12-31 20:56 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」忠信都へ忍び上る事(その3)

忠信ただのぶ京を出でて後、東国の住人ぢゆうにん梶原かぢはら三郎とまうす者在京ざいきやうしたりけるに、始めて見え初めてんげり。今のをとこまうすは、世にある者なり。忠信は落人おちうとなり。世にある者と思ひ代ゆべしと思ひ、この事を梶原に知らせて、討つかからむるかして鎌倉殿の見参げんざんに入れたらば、勲功くんこう疑ひあるべからずなど思ひ知らせんと思ひけり。斯かりければ、五条ごでう西洞院にしのとうゐんにありける梶原が許へ使ひをぞ遣りける。急ぎ梶原をんなの許へぞ行きける。忠信をば一間なる所に隠し置き、梶原三郎をぞもてなしける。その後耳に口を当てて囁きけるは、「呼び立て申す事は、べちの仔細になし。判官はうぐわん殿の郎等らうどう佐藤四郎兵衛しらうびやうゑと申す者あり。吉野のいくさに討ち洩らされて、過ぎぬ二十九日の暮れ方よりこれにあり。明日は陸奥みちのくへ下らんと出で立つ。下りて後に知らせ奉らぬとて、恨み給ふな。我と手を砕かずとも、足軽ども差し遣はし、討つか、搦むるかして、鎌倉殿の見参に入れて、勲功をも望み給へ」とぞ申しける。




忠信(佐藤忠信)が京を出た後に、東国の住人で梶原三郎(梶原景茂かげもち。梶原景時かげときの三男)と言う者が京に住んでいましたが、この男がかの女を見初めました。この男は、世に栄えある男だと女は思いました。忠信は落人になってしまった。世に栄えある男に乗り換えようと思って、忠信のことを梶原(景茂)に知らせて、討ち取るか捕らえるかして鎌倉殿(源頼朝)に見せれば、勲功([褒美])は間違いないことなどと思って知らせようと思いました。そして、五条西洞院にある梶原(景茂)の許へ使いを遣りました。梶原(景茂)は急いで女の許を訪ねました。女は忠信を一間の部屋に隠して、梶原三郎(景茂)をもてなしました。その後景茂の耳元に口を当ててささやくには、「お呼び立てしたのは、ただこれをお知らせするためです。判官殿(源義経)の郎等([家来])である佐藤四郎兵衛(忠信)と申す者がおります。吉野の戦に打ち漏れて、昨月二十九日の夕方よりここにいます。明日には陸奥に下るためにここを発ちます。下った後に知らせたと、恨むことはございません。あなた自身は手を使わずとも、足軽たちを差し遣わして、討つか、捕らえるかして、鎌倉殿(頼朝)にお見せして、勲功([褒美])をいただいてはどうでしょう」と言いました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 20:52 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」忠信都へ忍び上る事(その2)

をんな出で逢ひて、なのめならず悦びて我が方に隠し置き、様々やうやういたはり、父の入道にふだうにこの事知らせたりければ、忠信ただのぶを一間なる所に呼びてまうしけるは、「仮初めに出でさせ給ひしよりこの方は何処いづくにとも御行方ゆくへうけたまはらずさうらひつるに、物ならぬ入道を頼みて、これまでおはしましたる事こそ嬉しく候へ」とて、そこにて年をぞ送らせけり。青陽せいやうの春も来て、岳々たけだけ雪叢ゆきむら消え、裾野も青葉あをば交りになりたらば、陸奥みちのくへ下らんとぞ思ひける。かかりしほどに、「天に口なし、人を以つて言はせよ」と、が披露するともなけれども、忠信が都にある由聞こえければ、六波羅より探すべき由披露す。忠信これを聞きて、「我ゆゑに人にはぢを見せじ」とて、正月四日きやうを出でんとしけるが、今日けふは日も忌む事ありとて、立たざりけり。五日は女に名残りをしまれて立たず、六日のあかつき一定いちぢやう出でんとぞしける。すべてをとこの頼むまじきは、をんななり。昨日きのふまでは連理れんりの契り、比翼ひよくの語らひ浅からず、如何なる天魔の勧めにてやありけん、夜のほどに女心変はりをぞしたりける。




女は部屋を出て忠信(佐藤忠信ただのぶ)と会って、とてもよろこんで女の殿に隠して、様々にもてなし、父である入道(浄雲じやううん)にこのことを知らせると、父は忠信を一間四方の部屋に呼んで言うには、「突然ここを出られてからどちらにおられるのか行方も知らずにいましたが、お役にも立たないわたしを頼りにして、ここを訪ねて来られたことをうれしく思います」と言って、忠信はそこで年を越しました。忠信は青陽([春])がやって来て、山々の雪も消え、裾野にも青葉が交じるようになれば、陸奥に下ろうと思っていました。やがて、「天に口なし、人を以つて言はせよ([天には口がないから何も言わないが、その意思は人の口を通じて告げられる])」と誰が言い出した訳ではありませんでしたが、忠信が都にいると聞こえてきたので、六波羅(六波羅守護)より探すため手配がありました。忠信はこれを聞いて、「わたしのせいで人に迷惑をかけるのは忍びない」と、正月四日に京を出ようとしましたが、忌み日であると、発ちませんでした。五日は女に名残りを惜しまれて発てず、六日の日の出頃には必ず出ようと準備しました。どんな男も頼りにしてはならないのが、女でした。昨日までは連理([夫婦・男女の間の深い契り])を約束し、比翼の鳥([雌雄それぞれが目と翼を一つずつもち、二羽が常に一体となって飛ぶという、中国の空想上の鳥])のように仲睦まじくありましたが、いったいどのような天魔([悪魔])の誘惑か、夜のうちに女は心変わりしてしまいました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 18:40 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」忠信都へ忍び上る事(その1)

さても佐藤四郎兵衛しらうびやうゑは、十二月二十三日に都へかへりて、昼は片辺かたほとりに忍び、夜は洛中に入り、判官はうぐわんの御行方ゆくへたづねけり。されども人まちまちにまうしければ、一定いちぢやうを知らず、あるいは吉野川よしのかはに身を投げ給ひけるとも聞こゆる。あるいは北国へかかりて、陸奥みちのくへ下り給ひけるとも申し、聞きも定めざりければ、都にて日を送る。兎角とかうするほどに、十二月二十九日になりにけり。一日片時へんしも心安く暮らすべき方もなくて、年の内も今日けふばかりなり。明日にならば、新玉あらたまの年立ちかへる春の初めにて、元三ぐわんざんの儀式ならば、事よろしからず、何処いづくに一夜をだにも明かすべきとも思えず、その頃忠信ただのぶ他事なく思ふをんな一人四条しでう室町に小柴こしば入道にふだうと申す者の娘に、かやと申す女なり。判官都におはせし時より見始めて浅からぬ心ざしにてありければ、判官都を出で給ひし時も、摂津の国河尻かはしりまで慕ひて、如何ならん船の中浪うちなみうへまでもと慕ひしかども、判官の北の御方数多あまた一つ船に乗せ奉り給ひたるも、あはれ詮なき事かなと思ふに、我さへ女を具足せん事もいかがぞやと思ひしかば、飽かぬ名残りを振り捨てて、独り四国へ下りしが、その心ざしいまだ忘れざりければ、二十九日の夜打ち更けて、女をたづね行きけり。




一方佐藤四郎兵衛(佐藤忠信ただのぶ)は、十二月二十三日に都に戻って、昼は京のはずれに隠れ居て、夜になると洛中に入っては、判官(源義経)の行方を探していました。けれども人の答えはまちまちで、確かなことは分かりませんでした、ある者は吉野川(奈良県中央部を流れる川)に身を投げたと言いました。またある者は北国を通って、陸奥に下ったと言い、どれが本当かまったく知れなかったので、忠信は都に留まって日々を送っていました。そうこうするうちに、十二月二十九日になりました。一日わずかの間も心安らぐことがありませんでしたが、年も今日ばかりとなりました。明日になれば新玉の年になり春がやって来ます、元三([正月三日間])の儀式([習わし])を、しようとも思いませんでしたが、またどこかで一夜を明かす気にもなれませんでした、その頃忠信が一途に思う女が一人、四条室町にいました小柴入道(浄雲じやううん)と言う者の娘で、かやと言う女でした。判官(義経)が都にいた頃に見初めてから親密な間柄でしたので、判官とともに都を出た時も、摂津国の河尻(河尻泊=神崎川河口にあった港。兵庫県尼崎市)まで付いて来て、どんな船波の上までもとすがりましたが、判官が北の方を数多く一つの船に乗せるのさえ、無益なことと思って、まして己が女を連れて行くのはどうかと思い、尽きない名残りを捨てて、独り四国へ下りました、忠信はその気持ちをまだ忘れていなかったので、二十九日の夜が更けてから、女の許を訪ねました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 18:33 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」住吉大物二箇所合戦の事(その9)

中にもしづかをば心ざし深くや思はれけん、具し給ひて、大物だいもつの浦をば立ち給ひて、渡辺に着いて、明くれば、住吉の神主長盛ながもりが許に着き給ひて、一夜を明かし給ひて、大和の国宇陀うだこほり岸岡きしのをかまうす所に着き給ひて、外戚げしやくに付けて、御親しき人の許にしばしおはしけり。北条ほうでうの四郎時政ときまさ、伊賀伊勢の国を越えて、宇陀へ寄すると聞こえければ、我ゆゑ人に大事をかけじとて、文治ぶんぢ元年ぐわんねん十二月十四日のあけぼのに、麓に馬を乗り捨てて、春は花の名山と名を得たる吉野の山にぞ篭られける。




義経は中でも静御前を殊に寵愛していたので、連れて、大物浦(現兵庫県尼崎市)を立って、渡辺(現大阪市中央区)に着いて、明ければ、住吉の神主長盛(津守長盛)の許に着いて、一夜を明かして、大和国宇陀郡岸岡(現奈良県吉野郡吉野町)という所に着いて、外戚([母方の親族])を頼り、親しい者の許にしばらくいました。北条四郎時政(北条時政)が、伊賀伊勢の国を越えて、宇陀へ寄せると聞こえたので、義経はわたしのために戦はさせたくないと、文治元年(1185)十二月十四日の曙に、麓に馬を乗り捨てて、春は花(桜)の名山と名を得た吉野山に籠りました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 17:04 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」住吉大物二箇所合戦の事(その8)

判官はうぐわんこれを見給ひて、「片岡かたをかあれ制せよ。さのみ罪な作りそ」とおほせられければ、「御諚ごぢやうにてさうらふ。さのみさのみ罪な作られそ」と言ひければ、弁慶これを聞きて、「それをまうすぞよ、すゑとほらぬ青道心あをだうしん、御諚を耳にな入れそ。八方を攻めよ」とて散々に攻む。杉船二さうは失はせて、三艘さんざうは助かり、大物だいもつの浦へぞ逃げ上がりける。その日判官いくさに勝ちすまし給ひけり。御舟のうちにも手負ふ者十六人、死ぬるは八人ぞありける。死したる者をば、敵に首を取られじと、大物の沖にぞしづめける。その日は御舟にて日を暮らし給ふ。夜に入りければ、人々皆くがに上げ奉り給ひて、心ざしは切なけれども、かくては叶ふまじとて、皆方々はうばうへぞ送られける。二位にゐの大納言の姫君は、駿河の次郎じらううけたまはつて送り奉る。久我こが大臣殿おほいどのの姫君をば喜三太きさんだが送り奉る。そのほか残りの人々は、皆縁々に付けてぞ送り給ひける。




判官(源義経)はこれを見て、「片岡(片岡常春つねはる)よ弁慶を止めよ。つまらない罪を作らせるな」と命じたので、「御諚([君主の命令])だ。そのようなつまらない罪を作るなと」と言うと、弁慶はこれを聞いて、「そんなことを申すか、それこそ棒にもかからぬ青道心([よく考えもせずに起こした信仰心])と申すものよ、御諚をわしの耳に入れるでない。八方を攻めよ」と言って散々に攻めました。杉船二艘を失わせて、三艘は助かり、大物浦(現兵庫県尼崎市)へぞ逃げ上ぼりました。その日判官(源義経)は戦に勝ちました。味方の舟の中にも疵を負う者十六人、死ぬ者は八人いました。死んだ者は、敵に首を取られないように、大物の沖に沈めました。その日は舟で日を暮らしました。夜になると、義経は者たちを皆陸に上げて、切ないことでしたが、こうなっては仕方ないと、女房たちを方々に送らせました。二位大納言(平時忠ときただ)の姫君(わらび姫)は、駿河次郎が承って送りました。久我大臣殿(源通親みちちか)の姫君は喜三太が送りました。その外残りの者たちは、皆それぞれ縁々も者に付けて送りました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 16:59 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」住吉大物二箇所合戦の事(その7)

やうもなき事、この舟をあの中にするりと漕ぎ入れよ。その時熊手取りて敵の舟端ふなばたに引つかけ、するりと引き寄せてがはと乗り移り、かぶとの真つかう篭手こてつがい、膝の節、腰骨、薙打なぎうちに散々に打たんずるほどに、兜の鉢だにも割れば、主奴ぬしめかしらたまるまじ。ただ置て物を見よ」と呟き言して、疫神やくじんの渡るやうにて押し出だす。御方は目をすましてこれを見る。小溝こみぞの太郎まうしけるは、「そもそもこれほどの大勢の中に、ただ二人乗つて寄る者は、何者にてかあるらん」と言へば、ある者これを見て、「一人は武蔵坊むさしばう、一人は常陸坊ひたちばう」とぞ申しける。小溝これを聞きて、「それならば手にも堪るまじぞ」とて、船を大物だいもつへぞ向けさせける。弁慶これを見てこゑを上げて、「きたなしや、小溝の太郎とこそ見れ。かへし合はせよや」と言ひけれども、聞きも入れず引きけるを、「漕げや海尊かいぞん」と言ひければ、舟端ふなばたを踏まへて、ぎしめかしてぞ漕ぎたりける。五さうの真ん中へするりと漕ぎ入れければ、熊手を取つてかたきの舟に打ち貫ぬき、引き寄せゆらりと乗り移り、ともよりへさきに向きて、薙打なぎうちにむずめかして、ひしぎ付けてぞとほりける。手に当たる者は申すに及ばず、当たらぬ者も思えず知らず海へ飛び入り飛び入り亡せにけり。




「あっという間に片付けてやろう、この舟をあの中にするりと漕ぎ入れろ。熊手で敵の舟端に引っかけ、引き寄せて乗り移り、兜の真向([正面])、篭手の番い(肘)、膝の節、腰骨、薙打ちに散々に打てば、兜の鉢さえ割れ、やつらの頭とてひとたまりもない。目にものを見せてやるぞ」とつぶやいて、疫神が渡るように舟を進めました。味方はじっとこれを見ていました。小溝太郎が申すには、「これほどの大勢の中に、たった二人だけで舟に乗って近付く者は、何者か」と言うと、ある者がこれを見て、「一人は武蔵坊(弁慶)、もう一人は常陸坊(海尊)です」と答えました。小溝はこれを聞いて、「そうならば手に負えない相手ぞ」と言って、船を大物(現兵庫県尼崎市)に返しまぢた。弁慶はこれを見て声を張り上げて、「きたないぞ、小溝太郎め。戻って来て戦え」と言いましたが、聞きもせず船を引きました、弁慶は「漕げや海尊」と言ったので、海尊は舟端に踏ん張って、櫓が軋むほどに漕ぎました。五艘の真ん中へするりと漕ぎ入れると、弁慶は熊手を取って敵の舟に引っ掛けると、引き寄せ乗り移り、艫([船尾])より舳([船先])に向かって、木棒を薙打ちに振り回して、敵を薙ぎ倒しながら通りました。当たる者は申すまでもなく、当たらぬ者さえもとっさに海へ飛び入って亡せました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 15:37 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」住吉大物二箇所合戦の事(その6)

片岡かたをか船枻せがいうへに片膝突いて、差し詰め引き詰め、散々にこそ射たりけれ。船腹ふなばらいちゐの木割りを十四五射立てて置きたりければ、水一はた入る。周章あはて狼狽ふためきて、踏みかへし、目のまへにて杉舟三艘さんざうまで失せにけり。豊島てしま冠者くわんじや亡せにければ、大物だいもつの浦に船を漕ぎ寄せて、空しき体をきて、泣く泣く宿所へぞかへりける。武蔵坊むさしばう常陸坊ひたちばうを呼びてまうしけるは、「安からぬ事かな。いくさすべかりつるものを。かくて日を暮さん事は宝の山に入りて、手を空しくしたるにてこそあれ」と後悔こうくわいするところに、小溝こみぞの太郎は大物にありと聞きて、百騎の勢にて大物の浦に馳せ下りて、くがに上げたりける船を五さう押し下ろし、百騎を五手に分けて、我先にと押し出だす。これを見て、弁慶は黒革威くろかはをどし海尊かいぞん黒糸威くろいとをどしよろひ着たり。常陸坊は本より究竟くつきやう楫取かんどりなりければ、小舟せうせんに取り乗り、武蔵坊はわざと弓矢をば持たざりけり。四尺ししやく二寸ありける柄装束つかしやうぞくの太刀いて、岩透いはとをしと言ふ刀を差し、の目彫りたるまさかり薙鎌ないかま、熊手舟にからりひしりと取り入れて、身を放さず持ちける物は、いちゐの木のばう一丈いちぢやう二尺ありけるに、くろがね伏せてうへ蛭巻ひるまきしたるに、石突きしたるを脇に挟みて、小舟のへさきに飛び乗る。




片岡(片岡常春つねはる)は船枻([和船の両側のげんに渡した板。櫓を漕いだり棹をさしたりするところ])に片膝突いて、ひっきりなしに、散々に矢を射ました。敵の船腹に櫟の木割りの矢を十四五本射立てたので、舟にあっという間に水が入り込みました。敵はあわて騒いで、舟を踏み返かへし、目の前で杉舟三艘が沈みました。豊島冠者が亡くなったので、大物浦に舟を漕ぎ寄せて、むなしい体を担いで、泣く泣く宿所へ帰っていきました。武蔵坊(弁慶)は常陸坊(海尊かいぞん)を呼んで申すには、「穏やかならぬことだ。戦すべきところぞ。こうして日を暮すことは宝の山に入って、何も手にできないようなものではないか」と後悔していましたが、小溝太郎は大物(現兵庫県尼崎市)に義経がいると聞いて、百騎の勢で大物浦に馳せ下り、陸に上げた船を五艘押し下ろして、百騎を五手に分けて、我先にと押し出しました。これを見て、弁慶は黒革威、海尊は黒糸威の鎧を身に付けました。常陸坊は元々究竟([熟練])の楫取でしたので、小舟に取り乗り、武蔵坊は弓矢を持たずに乗り込みました。四尺二寸(約126cm)ある柄に飾りのある太刀を帯いて、岩透と言う刀を腰に差し、猪の目([柄に彫ったハート形の飾り])を彫った鉞、薙鎌([長柄を付けた鎌])、熊手を舟にいくつも乗せて、身から放さず持つ物は、イチイの木の棒で一丈二尺(約3m60cm)あるものに、鉄を延べて上に蛭巻([太刀の柄・さやや槍・薙刀なぎなたなどの柄に 、金属の細長い薄板を間をあけた螺旋状に巻いてあるもの])したものに、石突き([矛・ 薙刀・槍などの柄の、地に突き立てる部分を包んでいる金具])を付けたものを脇に挟んで、小舟の舳([船先])に飛び乗りました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 15:30 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」住吉大物二箇所合戦の事(その5)

片岡かたをか白き直垂ひたたれ黄白地きしらぢよろひ着て、わざとかぶとは着ざりけり。折烏帽子をりえぼしに烏帽子懸けして、白木しらきの弓脇に挟み、矢櫃やびつ一合いちがふ船枻せがいの上にからと置きて、蓋を取りてけければ、をばめで節のうへを掻きこそげて、羽をば樺矧かばはぎにぎたる矢の、いちゐ黒樫くろかしと強げなるところをこしらへて、まはり四寸、長さ六寸に拵へて、角木割つのぎはりを五六寸ぞ入れたりける。「何ともあれ、これを以つて、主を射ばこそ、鎧の裏かかぬとも言はれめ、四国のかた杉舟のはた薄なるに、大勢おほぜいは込み乗りて、船足ふなあしは入りたり、水際みづぎはを五寸ばかり下げて、矢目近やめちかにひやうど射るならば、のみを以つて割るやうにこそあらんずらめ。みづ舟に入らば、踏みしづめ踏み沈めて、皆失せんとするものを。助け舟寄らば、精兵せいびやう小兵こひやうをば嫌ふべからず。釣瓶矢つるべやに射てくれよ」とぞまうしける。つはものども「うけたまはる」と申しける。




片岡(片岡常春つねはる)は白い直垂([鎧の下に着る着物])に黄白地の鎧を着て、兜はかぶっていませんでした。折烏帽子([先を折った武士がかぶった烏帽子])に烏帽子懸け([烏帽子の上からかけ,あごの下で結ぶ緒])して、白木の弓を脇に挟み、矢櫃([矢を入れておく、蓋つきの箱])一合を船枻([和船の両側のげんに渡した板。櫓を漕いだり棹をさしたりするところ])の上にとんと置いて、蓋を取って開け、箆([矢])をまっすぐに延ばし節の上を削り、羽を樺矧ぎ([羽の上下に檀紙=高級和紙。を巻いたもの])に矧いだものに、櫟(イチイ)と黒樫の硬いところを継いで、周り四寸(約12cm)、長さ六寸(約18cm)にそろえて、角木割(芯を除いて)に五六寸(約15~18cm)差し込んだものでした。「何にせよ、この矢で、主を射れば、鎧を通すことは無理でも、四国の潟杉舟([潟舟]=[荷物運搬用の舟])のはた薄なるに、大勢が乗り、喫水深く、水際の五寸(約15cm)ばかり上を、矢目近やめちかにひやうど射るならば、鑿で割るように舟を射通すであろう。水が舟に入れば、舟を踏み沈めて、皆海に沈むはずだ。助け舟が寄れば、精兵([強弓の者])小兵([弓を引く力が弱い者])おかまいなしだ。釣瓶矢([続けざまに矢を射ること])に射てやれ」と申しました。兵たちは「承知しました」と答えました。


続く


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by santalab | 2013-12-31 14:14 | 義経記 | Comments(0)

    

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