Santa Lab's Blog


<   2014年 01月 ( 119 )   > この月の画像一覧



明日に向かって走るのやめようかな?

スパゲティを「ズルズル」啜って食らう男、相向かってすわる女も「音」こそ控えめですが。「スパゲティ」は啜るもんじゃない。蕎麦じゃなし。場末の店ってのはこんなヤツらで結構満員なのですが、そういうあたいだって結局こんな場所に何とか座って、たった「一杯のかけ蕎麦」ではないけれど、長居するほかないんです。


仕事も人生も同じ。「がんばって」なんとかなるものでもありません。結果のみが求められるもの。「それを言われるのが怖くて」なけなしの金でたどり着くのは、こんなとこですら出来過ぎでしょうが、さすがに「冬」の寒空に突っ立ってる訳にもいかなくて。


何も走らなくとも「明日」はやって来るものです。それが「判決」の日であれ何であれ。毎日「羊の歩み」に慣れてしまったあたいは、なんとか「走り過ぎよう」としていたんでしょう。「逢坂の関」は「寄るも許さじ」などと申すことを知らずにいたのでしょう。


いつを「最期」と言わず。


[PR]
by santalab | 2014-01-31 21:21 | 独り言 | Comments(0)


「水鏡」飯豊天皇

次の御門、飯豊いひとよ天皇てんわうまうしき。これは女帝におはします。履中りちゆう天皇の御子に押磐おしはの皇子と申して、黒媛くろひめの御腹に皇子おはしき。その御娘なり。御母、はえひめなり。甲子きのえねの年二月に位に即き給ふ。御年四十五。この御門の御弟二人、かたみに位を譲りて継ぎ給はざりしほどに、御妹を位に即け奉り給へりしなり。さて、ほどなくその年の内十一月に亡せ給ひにしかば、この御門をば系図などにも入れ奉らぬとかやぞうけたまはる。されども日本紀には入れ奉りて侍るなれば、次第に申し侍るなり。




次の帝は、飯豊天皇と申されました。飯豊天皇は女帝でした。履中天皇(第十七代天皇)の皇子に市辺押磐皇子いちのへのおしはのみこと申す、黒媛の子である皇子がいました。その娘でした。母は、はえ媛でした。甲子の年(484)二月に帝位に即かれました。御年四十五でした。飯豊天皇の御弟二人が、互いに位を譲り継がなかったので、妹を帝位に即けたのです。それから、ほどなくその年の十一月にお隠れになられたので、飯豊天皇は系図に入っておられないと聞いています。されども日本書紀には入っておりますれば、これに習い申しました。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 20:57 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」清寧天皇

次の御門、清寧せいねい天皇てんわうまうしき。雄略ゆうりやく天皇の第三の御子。御母、皇太夫人葛城韓姫かつらぎのからひめなり。雄略天皇の御世二十二年戊午つちのえうま正月に、東宮に立ち給ふ。御年三十五。世を知り給ふ事、五年。御門、生まれ給ひて、御髪白く長かりき。さて、白髪皇子しらかのみことは申ししなり。民を愛し給ふ御心ありしを、父御門、御子たちの中に籠らし給ひて、東宮に立て奉り給ひしなり。庚申かのえさるの年正月四日、位に即き給ふ。御年三十七。世を知り給ふ事、五年なり。この御門、位を継ぐべき人なきことを嘆きて、よろづの国々に使ひを遣はして王孫を求め給ひしに、履中りちゆう天皇の御孫と云ふ人二人を播磨国より求め出して、兄をば東宮に立てて、弟をば皇子とし給ひき。




次の帝は、清寧天皇(第二十二代天皇)と申されました。雄略天皇(第二十一代天皇)の第三皇子でした。母は、皇太夫人葛城韓姫(葛城韓媛)でした。雄略天皇のの御宇雄略天皇二十二年(478)戊午正月に、東宮に立たれました。御年三十五でした。世を治められること、五年でした。清寧天皇は、生まれながらにして、髪が白く長かったのです。そのため、白髪皇子と呼ばれました。民を愛する心を持っておられたので、父である雄略天皇は、皇子たちの中でとりわけ可愛がられて、東宮に立てたのでした。庚申の年(480)正月四日に、帝位に即かれました。御年三十七でした。世を治められること、五年でした。清寧天皇は、位を継ぐ人がいないことを悲しんで、国々に使いを遣わして王孫を探させました、履中天皇(第十七代天皇)の孫という二人を播磨国より探し出して、兄を東宮に立て、弟を皇子としました。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 20:52 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」雄略天皇

次の御門みかど雄略ゆうりやく天皇てんわうまうしき。允恭いんぎよう天皇第五の御子。御母、皇后忍坂大中姫おしさかのおほなかつひめなり。丙申ひのえさるの年十一月十三日、位に即き給ふ。御年七十。世を知ふこと、二十三年なり。この御門、生まれ給ひし時、宮の内なん光りたりし。大人になり給ひて後、御心たけくして多くの人を殺し給ひき。世の人、大悪天皇と申しき。二年と申しし七月に、御門、愛せさせ給ひし女、他男に逢ひにけり。御門怒り給ひて、男女二人ながら召し寄せて、四つの肢を木の上に張り付けて、火を点けて焼き殺し給ひてき。四年二月と申ししに、御門、この葛城山にて狩りをし給ひしに、御門の御容姿にいささかも違はぬ人出で来たれりき。御門「これは誰の人ぞ」とのたまはせしに、その人「先づ王の名を名乗り給へ。その後申さむ」と申ししかば、御門名乗り給ひき。その後「我は一言主の神に侍り」と申して、あひともに狩りをして、日暮れて帰り給ひしに、この一言主の神、送り奉りしかば、世の中の人「只人にはおはせぬか」とぞ申し合ひたりし。二十二年と申しし七月に、浦島の子、蓬莱へ罷りにけりと云ふ事侍りしなり。皆人の知り給ひたる事なれば、細かには申すべからず。




次の帝は、雄略天皇(第二十一代天皇)と申されました。允恭天皇(第十九代天皇)の第五皇子でした。母は、允恭天皇皇后忍坂大中姫でした。丙申の年(456)十一月十三日に、帝位に即かれました。御年七十でした。世を治められること、二十三年でした。雄略天皇が、お生まれになられた時、宮の内が光り輝いたといいます。大人になった後は、気が猛く多くの人を殺しました。世の人は、大悪天皇と申しました。雄略天皇二年(458)の七月に、雄略天皇が、愛されていた女が、他の男と嫁ぎました。雄略天皇は怒り、男女二人とも呼んで、両手両足を木の上に縛り付けて、火をつけて焼き殺しました。雄略天皇四年(460)二月に、雄略天皇が、葛城山(現奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境に位置する大和葛城山)で狩りをしましたが、雄略天皇とそっくりな人に遭いました。雄略天皇が「何という人だ」と申すと、その人は「まず王の名を名乗れ。その後申そう」と申したので、雄略天皇は名を申しました。その後「わたしは一言主神(現奈良県御所市にある葛城一言主神社の祭神)ぞ」と申して、ともに狩りをして、日暮れて雄略天皇が帰られる時、この一言主神が、見送りをされたので、世の人は「只人ではあられぬ」と言い合いました。雄略天皇二十二年(478)の七月に、浦島の子(浦島太郎)が、蓬莱([古代中国で東の海上にある仙人が住むといわれていた仙境])へ行ってきたということがありました。皆人の知ることですから、詳しく話すまでもありません。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 20:46 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」安康天皇(その2)

さて帰りまゐりて、御門にまうすやう、「さらに奉るべからず。同じ皇子たちと云ふとも、我らが妹にて、いかでか逢はせ奉るべき」と申す由を偽り申ししかば、大きに怒り給ひて、いくさを遣はして殺し給ひてき。その妻を捕りて我が后とし給ひ、その妹を召して本意の如く大泊瀬おほはつせの皇子に逢はせ給ひつ。三年と申す八月に御門楼に登り給ひて、后の宮に「何事か思す事はある」と申し給ひしかば、后の宮「御門の御いとほしみをかうぶれり。何事をかは思ひ侍るべき」と申し給ふ。御門仰せられていはく、「我が身には恐るる事あり。この継子の眉輪まよわの王、大人しくなりて、我が、その父を殺したりと知りなば、定めて悪しき心を起こしてん」とのたまふを、この眉輪の王、楼の下に遊びありきて聞き給ひてけり。さて御門のひて后の御膝を枕にして、昼御殿籠りたるを、傍らなる太刀を取りて、眉輪の王過ち奉りて、逃げて大臣の家におはしにき。御門の御弟の大泊瀬おほはつせの皇子、このことを聞きて、軍を起こして、かの大臣の家を囲みて戦ひ給ひき。眉輪の王「もとより我位に即かんとの心なし。ただ父の仇を報ゆるばかりなり」と言ひて、自ら首を斬りて死ぬ。この眉輪の王七歳になんなり給ひし。




使いは戻ると、安康あんかう天皇(第二十代天皇)に申すには、「我が妹を差し出すことはできません。同じ皇子たちといえども、わたしの妹を、どうして逢わせなくてはならないのです」と申したと嘘を申したので、安康天皇はたいそう怒って、兵を遣わして大草香皇子おほくさかのみこ(第十六代仁徳にんとく天皇皇子)を殺させました。大草香皇子の妻(中磯皇女なかしのひめみこ)を捕り我が后とし、大草香皇子の妹を呼んで思い通り大泊瀬皇子の妻としました。安康天皇三年(456)の八月に安康天皇は楼に登り、后宮に「何か心配なことはあるか」と申せば、后宮は「帝の寵愛をいただいております。何も不安はございません」と申しました。安康天皇が申すには、「わたしには恐れることがあるのだ。そなたの継子の眉輪王のことだ、大人になって、わたしが、父を殺したと知ったなら、きっと悪心を起こすことだろう」と申すのを、眉輪王は、楼の下を歩いていて聞いていました。そして安康天皇が酔って后の膝を枕にして、眠った時、そばにあった太刀を取って、眉輪王は安康天皇を殺し、逃げて大臣(葛城つぶらという豪族らしい)の家に隠れました。安康天皇の弟の大泊瀬皇子(大泊瀬幼武尊おほはつせわかたけるのみこと。後の雄略ゆうりやく天皇)は、これを聞いて、軍を起こして、大臣の家を囲んで戦いました。眉輪王は「はじめからわたしが帝位に即きたいと思ってしたことではない。ただ父のかたきを取りたいと思ってのこと」と言って、みずから首を斬って死にました。眉輪王は七歳でした(眉輪王は焼き殺されたらしい。また七歳も『日本書紀』の誤りとのこと)。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 20:41 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」安康天皇(その1)

次の御門、安康あんかう天皇てんわうまうしき。允恭いんぎよう天皇の第二の御子。御母、皇后忍坂大中姫おしさかのおほなかつひめなり。甲午きのえうまの年十月に兄の東宮を失ひ奉りて、十二月十四日に位には即き給ひしなり。御年五十六。世を知り給ふ事、三年なり。明くる年の二月に御弟の雄略ゆうりやく天皇の大泊瀬おほはつせの皇子と申しておはせし、御妻になし奉らんとて、御叔父の大草香おほくさかの皇子と申しし人の御妹を奉り給へと、御門仰せ言ありて、御使ひを遣はしたりしに、この御子喜びて「身に病ひを受けて久しく罷りなりぬ。世に侍る事今日明日と云ふことを知らず。この人みなし子にて侍るを、見置き難くて黄泉路も安く罷られざるべきに、その容貌の醜きをも嫌ひ給はず、かかる仰せを蒙る、忝き事なり。この心ざしを表はし奉らん」とて、御使ひにつけてめでたき宝を奉れるを、この御使ひこれを見てふける心出で来て、この宝物をかすめ隠しつ。




次の帝は、安康天皇(第二十代天皇)と申されました。允恭天皇(第十九代天皇)の第二皇子でした。母は、允恭天皇皇后忍坂大中姫でした。甲午の年(454)十月に兄の東宮(木梨軽皇子きなしのかるのみこ)を殺して、十二月十四日に帝位には即かれました。御年五十六でした。世を治められること、三年でした。明くる年の二月に弟の雄略天皇(第二十一代天皇)が大泊瀬皇子(大泊瀬幼武尊おおはつせわかたけるのみこと)と申されておられましたが、その妻にしようと、御叔父の大草香皇子(第十六代仁徳にんとく天皇皇子)と申す人の妹(草香幡梭姫皇女くさかのはたびひめのひめみこ)を差し出すよう、安康天皇が命じられたので、使いを遣わすと、大草香皇子はよろこんで「身に病いを受けて久しくなります。世にあることも今日明日ばかりかも知れません。妹には親もなく、残したまま黄泉路([冥土])にも心安く赴くことはできないのです、妹は容姿もよくありませんがお嫌いにならず、このようなことを申していただけるとは、ありがたいことです。わたしの気持ちを表しましょう」と申して、使いにすばらしい宝物を与えましたが、この使いはこれを見て己のものとしたいと思い、この宝物(押木珠縵おしきのたまかつらという宝冠らしい)を盗み取ってしまいました。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 20:12 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」允恭天皇(その3)

御門喜び給ふ事限りなくて、ときめき給ふさまに並ぶべき人なかりき。このことを姉后安からぬ事にし給ひしかば、宮を別に造りてぞ据ゑ奉り給へりし。四十二年おはしまししに、御門亡せ給ひしにを、新羅より年毎のことなれば、船八十に様々の物積みて、楽人八十人あひ添へて奉りたりしに、御門亡せ給ひにけりと聞きて、泣き悲しむこと限りなし。難波の津より京まで、この貢物を持て続け奉り置きて帰りにき。この後はわづかに船二つなどをぞ奉りし。また、怠る年々も侍りき。




允恭いんぎよう天皇はたいそうよろこんで、衣通郎姫そとほりのいらつめ(允恭天皇皇后忍坂大中姫おしさかのおほなかつひめの妹)をとりわけ寵愛しました。これを姉后(忍坂大中姫)が妬んで、宮を別に造り衣通郎姫を住まわせました(藤原宮。現奈良県橿原市)。允恭天皇四十二年間帝位に即かれて、お隠れになられました、新羅より毎年、船八十艘に様々の貢物を積んで、楽人([音楽を演奏する者])八十人とともに来朝しましたが、允恭天皇がお隠れになられたと聞いて、たいそう嘆き悲しみました。難波津より京(遠飛鳥宮とほつあすかのみや。現在奈良県高市郡明日香村飛鳥?)まで、貢物を持って参り置いて帰りました。この後はわずかに船二艘ばかりが来るだけでした。また、来朝しない年もありました。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 09:08 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」允恭天皇(その2)

三年とまうしし正月に新羅へ医師を召しに遣はしたりしかば、八月にまゐりたりき。御門の御病ひをつくろはさせ給ひしに、そのしるしありて、御病ひ癒えさせおはしましにしかば、様々の祿どもなど賜はせて帰し遣はしてき。七年と申しし十二月に、御遊びありしに、御門琴を弾き給ふを、后聞き愛で奉りて、舞ひて、うち居給ひし折、「あはれ、姫御を参らせばや」と申し給ひしを、御門、「姫御とは誰がことにか」と問ひ申させ給ひしを、御琴のめでたさに、我にもあらず申し給へりけることにや侍りけん。さりながらも申し出だし給ひぬることなれば、隠し給ふべきならで、「我が弟に侍る弟姫となん申す。色、容貌なん世にまた並ぶたぐひ侍らず。衣の上、光り通り輝き侍り。世の人はされば衣通姫そとほりひめとぞ申す」。御門、これを聞こし召して、「それ奉り給へ」と、后を責め申させ給ひしかども、ともかくも御返り事も申し給はざりしかば、御使ひを遣はして七度まで召ししかども参り給はざりしかば、また御使ひ庭にひれ伏して、七日までつやつやとものを食はざりしを、御使ひの云ふ甲斐かひなく死なんことの浅ましさに、弟姫内へ参り給ひにき。




允恭天皇三年(414)の正月に新羅へ医師を呼びに遣わすと、八月に来朝しました。允恭いんぎよう天皇(第十九代天皇)の病気を治療させろと、その効果があり、治癒されたので、允恭天皇は様々な祿([褒美])を与えて帰しました。允恭天皇七年(418)の十二月に、遊びがあり、允恭天皇は琴を弾かれましたが、后(允恭天皇皇后忍坂大中姫おしさかのおほなかつひめ)はこれを聞いて、舞いました、舞い終わって、「ああ、姫を参らせればよかった」と申しました、允恭天皇は、「姫御とは誰のことか」と訊ねましたが、琴の音色の美しさに、我を失ってのことでした。けれども言い出したことでしたので、隠すことはできず、「わたしの弟姫([妹の姫])です。色、顔かたち世に並ぶ人はいません。その美しさといったら衣の上まで、光り輝き通すほどです。世の人はそれ故衣通姫(衣通郎姫そとほりのいらつめ)と呼んでおります」と申しました。允恭天皇は、これを聞かれて、「衣通郎姫を入内させよ」と、后(忍坂大中姫)に催促しました、何の返事もないままに、使いを遣わして七度まで呼びましたが参りませんでした、使いは庭に伏して、七日間ろくに食事も摂らなかったので、使いが死んでしまうことが悲しくて、弟姫(衣通郎姫)は内裏へ参りました。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 09:05 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」允恭天皇(その1)

次の御門、允恭いんぎよう天皇てんわうまうしき。仁徳にんとく天皇第四の御子。御母、皇后磐之媛いはのひめなり。壬子みづのえねの年、十二月に位に即き給ふ。御年三十九。世を知り給ふ事、四十二年なり。兄の御門亡せ給ひて後、大臣を始めて、位にはこの君こそ即き給ふべけれとて、しるしの箱を奉りしかども受け取り給はずして、「我が身久しく病ひに沈めり。朝廷おほやけの位は愚かなる身にて保つべきことならず」とのたまひしを、大臣以下なほ勧め奉りて、「帝王の御位の、空しくて久しかるべきにあらず」と、度々申ししかども、なほ聞こし召さずして、正月に兄御門亡せおはしまして、明くる年の十二月まで御門おはしまさでありしを、御乳母にておはしましし人の、水を取りて御うがひを奉り給ひしついでに、「皇子はなど位に即き給はで年月をば過させ給ふにか侍る。大臣より始めて、世の中の嘆きに侍るめり。人々の申すに従ひて位に即かせ給へかし」と申し給ふを、なほ聞こし召さで、うち後ろ向き給ひて、物ものたまはざりしかば、この御うがひを持ちて、さりとも、とかく仰せらるることもやと待ち居侍りしほどに、十二月の事にていと寒かりしに、久しくなりにしかば、御うがひも氷りて持ち給へる手も冷えとほりて、すでに死に入り給へりしを、皇子見驚き給ひて、抱き助けて、「位を継ぐことは極りなき大事なれば、今まで受け取らぬことにて侍れども、かくのたまひ合ひたることなれば、あながちに逃れ侍るべきことにあらず」。




次の帝は、允恭天皇(第十九代天皇)と申されました。仁徳天皇(第十六代天皇)の第四皇子でした。母は、仁徳天皇皇后皇后磐之媛命でした。壬子の年(412)、十二月に帝位に即かれました。御年三十九でした。世を治められること、四十二年でした。兄の帝(第十八代反正はんぜい天皇)がお隠れになられた後、大臣をはじめ、帝位にはこの君が即かれるべきと、璽の箱([三種の神器の一つである神璽しんじ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])をお持ちしましたが受け取らず、「わたしは長く病いの身です。朝廷の位は病気の者には務まりません」と申しました、大臣以下はなお勧めて、「帝王の位に、長い間誰もおられないのはよろしくございません」と、度々申しましたが、なおも了承しませんでした、正月に兄帝(反正天皇)がお隠れになられて、明くる年の十二月まで帝は不在でしたが、乳母が、水をお持ちしてうがいをされた折に、「皇子はどうして位にお即きにならず年月を過ごされておいでですか。大臣をはじめ、世の中は悲しんでおります。人々の申されるままに位に即かれなさいませ」と申しました、それでも了承せずに、後ろを向いて、何も申されませんでした、乳母はうがいを持ったまま、きっと、何か申されると待っていましたが、十二月のことですればとても寒くて、長く待っていたので、うがいも凍り持つ手もすっかり冷えて、死にそうに見えたので、皇子はこれを見て驚き、抱き助けて、「位を継ぐことはとりわけ大事であり、今まで受け取らなかったが、これほどに申されるのであれば、逃れることはできまい」と申しました。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 08:59 | 水鏡 | Comments(0)


「水鏡」反正天皇

次の御門、反正はんぜい天皇てんわうまうしき。仁徳にんとく天皇第三の御子。履中りちゆう天皇の御弟なり。御母、皇后磐之媛いはのひめなり。履中天皇の御世、二年辛丑かのとうし正月に東宮に立ち給ふ。御年五十。履中天皇の御子おはせしかども、この御門を東宮には立て奉らせ給ひしなり。丙午ひのえうまの年正月二日、位に即き給ふ。御年五十五。世を知らせ給ふ事、六年。御門、御かたちめでたくおはしましき。御たけ九尺二寸五分。御歯の長さ一寸二分。上下整ほりて、玉を貫きたるやうにおはしき。生まれ給ひし時、やがて御歯ひとつ骨の如くにて生ひ給へりき。さて瑞歯みづはの皇子とぞ申し侍りし。この御世には、雨風も時に従ひ、世安らかに、民豊かなりき。位に即き給ひて、次の年十月に都、河内国柴垣しばかきの宮に遷りにき。




次の帝は、反正天皇(第十八代天皇)と申されました。仁徳天皇(第十六代天皇)の第三皇子でした。履中天皇(第十七代天皇)の弟でした。母は、仁徳天皇皇后皇后磐之媛命でした。履中天皇の御宇、履中天皇二年(401)辛丑正月に東宮に立たれました。御年五十でした。履中天皇には皇子がいましたが、反正天皇を東宮には立てられました。丙午の年(406)正月二日に、帝位に即かれました。御年五十五でした。世を治められること、六年でした。反正天皇は、体格がとてもりっぱでした。背が九尺二寸五分(約280cm)。歯の長さは一寸二分(約3.6cm)。上下とも揃って、玉を連ねたように輝きました。反正天皇が生まれて、すぐに歯が一本骨のように生えました。それで瑞歯皇子(多遅比瑞歯別尊たじひのみづはわけのみこと)と呼ばれました。反正天皇の時代には、雨風も季節に従い、世は平穏で、民は豊かでした。反正天皇が位に即かれて、次の年十月に都を、河内国柴垣宮(丹比柴籬宮たじひのしばかきのみや。現大阪府松原市の柴籬神社)に遷されました。


続く


[PR]
by santalab | 2014-01-31 08:52 | 水鏡 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧