Santa Lab's Blog


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明日に向かって走れ(だって白いんだもん?)

そこは屋外のテラスのように思えました。だってテーブルも椅子も白くて。でも太陽が照り注ぐそんなこともなくてせいぜい蛍光灯の明かりなれば、室内だったかな。場所に関わらずおもむろに椅子に腰掛ければ「ビール」でしょ。


ビールを運んできた店員?困ったものですね、また夢の続きです。
「今日で終わりだね」
「そうだね」
「まぁ、一杯。時間は止められないし」
などとトンチンカンな会話もそれなりに成立するのが「夢」のいいところ。


で?
「欲望」も「理想」もしして「絶望」も、ほんのわずかのことやもしれぬ。だからこそ、そんなわずかで見えないその「間」に明らかに身の置けないその「魂」だけでも残しておきたいと思ったやも。


今日の自分を変えるのは「今日」のアタイでないにしろ、明日のアタイを変えるのは、明日のアタイであってほしいと思う。だから「今日」のあなたはあえて無視して。「明日」のあなたの行方は知らないけれど。


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by santalab | 2014-02-28 20:14 | 独り言 | Comments(0)


「義経記」静若宮八幡宮へ参詣の事(その5)

たれにか言はせんずるとおほせられければ、梶原かぢはらまうしけるは、「景時かげときが計らひにて舞はせん」とぞ申しける。鎌倉殿「いかがあるべき」とぞ仰せられける。梶原申しけるは、「我がてうに住まひせんほどの人の、君の仰せをいかでか背きまゐらせさうらふべき。そのうへすでに死罪に定まりて候ひしを景時申してこそなだめ奉りて候ひしか。善悪舞はせ参らせ候はんずる」と申しければ、「さらば行きてすかせ」と仰せられけり。梶原行きて、磯の禅師ぜんじを呼び出だして、「鎌倉殿の御酒気さかけにこそ御渡り候へ。斯かるところに川越かはごえの太郎御事を申し出だされ候ひつるに、あはれ音に聞こえ給ふ御舞ひ、一番見参らせばやとの御気色にて候ふ。何か苦しく候ふべき。一番見せ奉り給へかし」と申したりければ、この由をしづかに語れば、




頼朝が誰に言わせようかと申せば、梶原(梶原景時)が申すには、「この景時がなんとかして舞わせてみせましょう」と申しました。鎌倉殿(頼朝)は「どうやって舞わせるのだ」と申しました。梶原(景時)が申すには、「我が朝てうに住む者が、君(頼朝)の仰せをどうして背くことができましょう。その上すでに死罪に決まっていたのをこの景時が申して宥められたのです。いずれにせよ舞わせてみせましょう」と申せば、「ならば訪ねて上手く申してみよ」と申しました。梶原(景時)じゃ静御前の許を訪ねて、磯禅師(静御前の母)を呼び出して、「鎌倉殿(頼朝)が酒を召しておられます。ここに川越太郎(河越重頼しげより)が静の話をしたので、噂に聞く舞を、一番見たいと申されております。何の不都合がありましょう。一番舞を見せてほしい」と申したので、これを静御前に話せば、


続く


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by santalab | 2014-02-28 17:45 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静若宮八幡宮へ参詣の事(その4)

またある人まうしけるは、『容顔ようがん美麗なる白拍子しらびやうしを百人召して、ゐん御幸ぎよかうなりて、神泉苑しんぜんえんの池にて舞はせられば、龍神納受なふじゆし給はん』と言へば、さらばとて御幸ありて、百人の白拍子を召して舞はせられしに、九十九人くじふくにん舞ひたりしに、そのしるしもなかりけり。『しづか一人舞ひたりとても、龍神知見あるべきか。しかも内侍所ないしどころに召されて、禄重き者にてさうらふに』と申したりけれども、『とても人数にんじゆなれば、ただ舞はせよ』とおほせ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむじやうの曲と言ふ白拍子を半らばかり舞ひたりしに、みこしの岳、愛宕山あたごさんの方より黒雲にはかに出で来て、洛中にかかると見えければ、八大龍王はつだいりゆうわう鳴り渡りて、稲妻いなづまひかめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を出だし、国土安穏あんをんなりしかば、さてこそ静が舞に知見りけるとて、『日本一につぽんいち』と宣旨を賜はりけるとうけたまはりし」と申しければ、鎌倉殿これを聞こし召して、さては一番見たしとぞおほせられける。




またある人が申すには、『容顔美麗なる白拍子を百人集めて、後白河院が御幸なさり、神泉苑(現京都市中京区にある庭園)の池にて舞わせたならば、龍神が納受([神仏が願いなどを聞き入れること])なされましょう』と言えば、ならばとて御幸あって、百人の白拍子を召して舞わせました、九十九人舞いましたが、その効き目はありませんでした。『静一人舞ったところで、龍神が知るだろうか。しかも内侍所([内裏内にあり、女官の内侍が奉仕した所])に呼ばれて、禄の重い者では』と申しましたが、後白河院が『人数の内ならば、舞わせよ』と仰せ下されて、静が舞うと、しんむじやう(新無常?)の曲という白拍子を半ばばかり舞った時、みこしの岳(御輿山?)、愛宕山(現京都市右京区の北西部にある山)の方より黒雲がにわかに湧き上がり、洛中にかかると思えば、八大龍王(雷)が鳴り渡り、稲妻が光り、皆人の目を驚かし、三日間の洪水となって、国土は安穏になったので、それで静が舞に通じていると、『日本一』の宣旨を賜わったと聞いております」と申せば、鎌倉殿(源頼朝)はこれを聞いて、ならば一番見たいと申しました。


続く


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by santalab | 2014-02-28 17:28 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静若宮八幡宮へ参詣の事(その3)

鎌倉殿「事々しや、いづくにて舞うて、日本一につぽんいちとはまうしけるぞ」、梶原かぢはら申しけるは、「一年ひととせ百日のひでりさうらひけるに、賀茂川かもがは桂川かつらがは皆瀬切れて流れず、筒井つつゐの水も絶えて、国土の悩みにて候ひけるに、次第久しき例文れいもん、『比叡ひえの山、三井寺みゐでら、東大寺、興福寺こうぶくじなどの有験うげん高僧かうそう貴僧百人、神泉苑しんぜんえんの池にて仁王経にんわうぎやうかうじ奉らば、八大龍王はつだいりゆうわうも知見納受なふじゆ垂れ給ふべし』と申しければ、百人の高僧貴僧仁王経を講ぜられしかども、そのしるしもなかりけり。




鎌倉殿(源頼朝)が「大げさな、どこで舞って、日本一とか申すのだ」と申せば、梶原(梶原景時かげとき)が申すには、「一年百日のひでりがございました、賀茂川、桂川は皆瀬切れて水は流れず、筒井([井戸])の水も絶えて、国土の悩みでございましたが、そのうち久しく用いられなかった例文に、『比叡の山、三井寺(現滋賀県大津市にある寺)、東大寺(現奈良県奈良市にある寺)、興福寺(現奈良県奈良市にある寺)などの有験の高僧貴僧百人、神泉苑(現京都市中京区にある庭園)の池で仁王経(仁王般若経)を唱えれば、八大龍王([雨乞いの神様])もこれを知り納受([神仏が願いなどを聞き入れること])されましょう』と申したので、百人の高僧貴僧が仁王経を唱えましたが、その効果はありませんでした。


続く


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by santalab | 2014-02-28 17:01 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静若宮八幡宮へ参詣の事(その2)

さるほどに鎌倉殿三島の御社参とぞ聞こえける。八箇国のさぶらひども御供まうしける。御社参の徒然に、人々様々の物語をぞ申しける。その中に河越かはごえの太郎しづかが事を申し出だしたりければ、「各々斯様かやうついでならではいかでか下り給ふべき。あはれ音に聞こゆるまひを一番御覧ぜられざらんは無念にさうらふ」と申しければ、鎌倉殿おほせられけるは、「静は九郎に思はれて、身を華飾くわしよくにするなるうへ、思ふ仲を妨げられ、その形見にも見るべき子を失はれ、何のいみじさに頼朝がまへにて舞ふべき」と仰せられければ、人々「これはもつとも御諚ごぢやうなり。さりながらいかがして見んずるぞ」と申しける。「そもそもいかほどの舞なれば、斯程かほどに人々念を懸けらるるぞ」とおほせられければ、梶原かぢはら「舞においては日本一につぽんいちにてさうらふ」とぞ申しける。




さるほどに鎌倉殿(源頼朝)は三島(現静岡県三島市にある三島大社)に社参されると
聞こえました。八箇国の侍たちが供をしました。社参の道中で、者たちは様々の物語を頼朝に申しました。その中に河越太郎(河越重頼しげより)が静御前の話をして、「皆の者よこのよなことがなければ静が関東に下ることはなかった。ああ噂に聞く舞を一番も見れないことが無念よ」と申せば、鎌倉殿(源頼朝)が申すには、「静は九郎(源義経)に思われて、身を華飾([不遜])になし、思う仲を妨げられ、形見にする子を失われたのだ、どうしてこの頼朝の前で舞おうか」と申せば、者たちも「これはもっともな仰せでございます。とは申せ何とかして見れないものか」と申しました。頼朝が「いったいどれほどの舞と言うのか、それほどに望むのはどうしてか」と申せば、梶原(梶原景時かげとき)が「舞では日本一でございます」と申しました。


続く


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by santalab | 2014-02-28 16:42 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静若宮八幡宮へ参詣の事(その1)

磯の禅師 まうしけるは、「少人せうじんの事は、思ひまうけたる事なればさて置きぬ。御身安穏あんをんならば若宮へまゐらんと、かねての宿願しゆくぐわんなれば、いかでかただは上り給ふべき。八幡はちまん新血あらちを五十一日ませ給ふなれば、精進しやうじん潔斎してこそ参り給はめ。そのほどはこれにて日数ひかずを待ちさうらへ」とて、一日一日と逗留す。




磯禅師(静御前の母)が申すには、「少人(子)のことは、覚悟していたことですから言わずに置きましょう。もしお前(静御前)の命助かったなら若宮(現神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮若宮)へ一緒に参ろうと、宿願を立てていました、参詣しないまま京に上る訳には参りません。八幡は新血([出産の際の出血])を五十一日忌むと申しますから、精進潔斎してから参りましょう。そのまではここで日数を送りましょう」と申して、一日また一日と逗留することになりました。


続く


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by santalab | 2014-02-28 16:20 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静鎌倉へ下る事(その11)

藤次とうじが下人下りて見ければ、ただ今までは蕾む花のやうなりつる少人せうじんの、いつしか今は引き代へて、空しき姿たづね出だして、磯の禅師に見せければ、押し巻きたる衣きぬの色は変はらねども、跡なき姿となり果てけるこそ悲しけれ。「もしやもしやと浜のいさごの暖かなる上に、きぬつまを打ち敷きて置きたりけれども、事切れ果てて見えしかば、取りてかへりて、母に見せて悲しませんも中々罪深しと思ひて、ここにうづまんとては、浜の砂を手にて掘りたれども、ここも浅ましき牛馬ぎうばひづめの通ふ所とて痛はしければ、さしも広き浜なれども、捨て置くべき所もなし。ただ空しき姿を抱きて宿所にぞかへりける。しづかこれを受け取り、しやうを変へたるものを、隔てなく身に添へて悲しみけり。「哀傷あいしやうとて、親の歎きは殊に罪深き事にてさうらふなるものを」とて、藤次とうじが計らひにて、少人せうじん葬送さうさう、故左馬頭さまのかみ殿の為に作られたりける勝長寿院しようぢやうじゆゐんの後ろにうづみてかへりけり。「かかる物憂き鎌倉に一日にてもあるべきやうなし」とて、急ぎ都へ上らんとぞ出で立ちける。




藤次(堀親家ちかいへ)下人が浜に下って見れば、ただ今までは蕾みの花のようであった少人(子)が、いつの間にか、空しい姿となっていましたが探し出して、磯禅師(静御前の母)に見せれば、押し巻いた衣の色は変わりませんでしたが、面影もない姿となり果て悲しくなりました。「もしかもしかと浜の砂の暖かな上に、衣の端を敷いて置きましたが、すでに事切れているように見えたので、抱えて帰り、母(静御前)に見せて悲しませるのも罪深いことと思って、ここに埋めようと、浜の砂を手で掘りましたが、ここも卑しい牛馬の蹄の通う所と思えばかわいそうで、たいそう広い浜でしたが、捨て置く所もありませんでした。ただ空しき姿を抱いて宿所に帰りました。静は我が子を受け取り、命絶えた子を、同じように身に添えて悲しみました。「哀傷([人の死を悲しみ嘆くこと])と申す中に、子の死なせた親の歎きはとりわけ罪深いものです」と申して、藤次(親家)の計らいで、少人(子)を葬送し、故左馬頭殿(源義朝よしとも。頼朝・義経の父)のために作られた勝長寿院(頼朝が現神奈川県鎌倉市に建立した寺)の後ろに埋めて帰りました。静御前は「こんなに悲しい目を見た鎌倉に一日もいたくはない」と申して、急ぎ都へ上ろうと出で立ちました。


続く


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by santalab | 2014-02-28 16:06 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静鎌倉へ下る事(その10)

禅師ぜんじ悲しみけるは、「永らへて見せ給へとまうさばこそ僻事ひがことならめ、今一度いとけなかほを見せ給へ」と悲しみければ、「御覧じては中々思ひ重なり給ひなん」と情けなき気色にもてなして、霞を隔てとほざかる。禅師は裏無うらなしをだにも履き敢へず、薄衣うすぎぬかづかず、其駒そのこまばかり具して、浜の方へぞ下りける。堀の藤次とうじも禅師をとぶらひて、後に付きてぞ下りける。しづかもともに慕ひけれども、堀が妻女さいぢよまうしけるは、「産の則なり」とて、様々に諌め取り止めければ、出でつる妻戸の口にたふれ臥してぞ悲しみける。禅師は浜にたづね、馬の跡を尋ぬれども、少人せうじんの死骸もなし、今生こんじやうの契りこそ少なからめ、空しき姿を今一度見せ給へと悲しみつつ、なぎさを西へ歩みけるところに、稲瀬川いなせがははたに、浜砂はまいさごたはぶれて、子ども数多あまた遊びけるに逢うて、「馬に乗つたるをとこの、苦果くかと泣きたる子や棄てつる」と問へば、「何も見分けさうらはねども、あの水際みぎはの材木のうへにこそ投げ入れ候ひつれ」と言ひける。




磯禅師は悲しんで、「このままずっと見ていたいと申しているのではございません、せめてもう一度幼い子の顔を見せてください」と悲しめば、安達清常きよつねは「見ればますます思いが募るばかりぞ」と情けのない身体にもてなして、霞を隔てて遠ざって行きました。磯禅師は裏無([緒の太い草履])さえも履かず、薄衣も纏わず、其駒(静御前の下女)だけ連れて、浜の方へ下って行きました。堀藤次(堀親家ちかいへ)も磯禅師の後を追って、後に付いてぞ下って行きました。静御前もともに後を追いたいと思いましたが、堀(親家)の妻女が申すには、「お産の後ですから」と申して、様々に諌め取り止めたので、親家が出て行った妻戸([引き戸])の口に倒れ臥して悲しみました。磯禅師は浜を巡り、馬の跡を探しましたが、少人(子)の死骸もなし、今生の契りこそわずかでしたが、せめて空しい姿でももう一度見せてほしいと悲しみながら、渚を西へ歩いていると、稲瀬川(現神奈川県鎌倉市。由比ヶ浜に注ぐ川)の川端で、浜砂と戯れる、多くの子どもが遊んでいるのを見付けて、「馬に乗った男が、泣く子を棄てたのでは」と訊ねると、「子かどうかは分からない、あの水際の材木の上に何か投げ入れたよ」と言いました。


続く


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by santalab | 2014-02-28 16:02 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静鎌倉へ下る事(その9)

ややありて、「如何なる十悪じふあく五逆の者の、たまたま人界にんがいしやうを受けながら、月日の光をだにも定かに見奉らずして、まれて一日一夜をだにも過ごさで、やがて冥途にかへらんこそ無慙なれ。前業ぜんごふ限りある事なれば、世をも人をも恨むべからずと思へども、今の名残り別れの悲しきぞや」とて、袖をかほに押し当ててぞ泣きたり。藤次御産所に畏まつてまうしけるは、「御産の左右さうまうせとおほかうぶつてさうらあひだ、ただ今まゐりて申し候はんずる」と申しければ、「とても逃るべきならねば、く疾く」とぞ言ひける。親家ちかいへ参りてこの由を申したりければ、安達あだち新三郎しんざぶらうを召して、「藤次とうじが宿所にしづかが産したり、頼朝が鹿毛かげの馬に乗りて行き、由井ゆゐの浜にて失ふべき」と仰せられければ、清経きよつね御馬賜はつて打ち出で、藤次の宿所へ入りて、禅師ぜんじに向かひて、「鎌倉殿の御使ひにまゐりて候ふ。少人せうじん若君にて渡らせ給ひ候ふ由聞こし召して、抱き初め参らせよと御諚ごぢやうにて候ふ」と申しければ、「あはれ、はかなき清経かな。すかさばまことと思ふべきかや。親をさへ失へと仰せられし敵の子、殊に男子なんしなれば疾く失へとこそあるらめ。しばし最後の出で立ちせさせん」と申されければ、新三郎岩木いはきならねば、さすがあはれに、思ひけるが、心弱く待ちけるが、斯くて心弱くて叶ふまじと思ひ、「事々しく候ふ。御出で立ちも要り候ふまじ」とて、禅師が抱きたるを奪ひ取り、脇に挟み馬に打ち乗り、由井の浜に馳せ出でけり。




しばらくあって、「どのような十悪([十種の重い罪悪])五逆([五種の最も重い罪])の者が、たまたま人界に生を受けながら、月日の光さえも定かに見ずに、生まれて一日一夜さえ過ごさないまま、たちまち冥途に帰らなくてはならないとはかわいそうなことです。前業は限りあることですれば、世をも人をも恨んではならないと思えども、今を名残りに別れることが悲しくてなりません」と申して、袖を顔に押し当てて泣くばかりでした。藤次(堀親家ちかいへ)がお産所に畏まって申すには、「お産の子が若君姫君か知らせよと命えお受けておりますれば、ただ今より参って申し上げようと思います」と申せば、「とても逃れることは叶いません、どうぞ早いうちに」と言いました。親家が参ってこれを申し上げると、頼朝は安達新三郎(安達清常きよつね)を呼んで、「藤次(親家)の宿所で静が子を産んだ、この頼朝の鹿毛の馬に乗って行き、由井の浜(由比ヶ浜。現神奈川県鎌倉市)で命を失え」と命じました、清経は馬賜わって打ち出ると、藤次(親家)の宿所へ入り、磯禅師(静御前の母)に向かい、「鎌倉殿(源頼朝)のお使いで参りました。少人(子)が若君であられると聞かれて、抱き取り参らせよとの御諚([命令])でございます」と申せば、「ああ、見え透いた嘘をおっしゃいますな。我を騙せるとでも思われたか。親をさえ失えと仰せらた敵の子です、とりわけ男子ですれば一刻も早く失えと申されたはずです。しばらくお待ちください最後の出で立ちの用意をいたします」と申せば、新三郎(安達清常)も心ない岩木ではありませんでしたので、あまりに哀れに、思って、気が沈みましたが、気丈にしなくてはと思って、「堅苦しいことはいりません。出で立ちの用意もいりません」と言って、磯禅師が抱いていた子を奪い取り、脇に挟み馬に打ち乗り、由井の浜(由比ヶ浜)に馳せて行きました。


続く


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by santalab | 2014-02-28 15:58 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」静鎌倉へ下る事(その8)

磯の禅師ぜんじは都の神仏にぞ祈りまうしける。「稲荷、祇園ぎをん、賀茂、春日、日吉山王さんわう七社、八幡やはた大菩薩、しづかが胎内にある子を、たとひ男子なりとも女子になしてべ」とぞ申しける。かくて月日重なれば、その月にもなりにけり。しづか思ひの外に堅牢地神けんらうぢじんあはれみ給ひけるにや、痛む事もなく、その心付くと聞きて、藤次とうじ妻女さいぢよ、禅師もろともに扱ひけり。殊に易くしたりけり。少人せうじん泣き給ふこゑを聞きて、禅師余りの嬉しさに、白き絹に押し巻きて見れば、祈る祈りは空しくて、三身さんじん相応さうおうしたる若君にてぞおはしける。ただ一目見て「あな心憂や」とて打ち臥しけり。静これを見て、いとど心も消えて思ひけり。「男子か、女子かや」と問へども答へねば、禅師の抱きたる子を見れば、男子なんしなり。一目見て、「あら心憂や」とてきぬかづきて臥しぬ。




磯禅師(静御前の母)は都の神仏に祈り申しました。「稲荷(現京都市伏見区にある伏見稲荷大社)、祇園(現京都市東山区にある八坂神社)、賀茂(現京都市北区にある上賀茂神社と左京区にある下鴨神社)、春日(現京都市右京区にある西院春日神社?)、日吉山王七社(現滋賀県大津市にある日吉大社の上七社)、八幡大菩薩(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)、静が胎内にある子を、たとえ男子であるとも女子にしてくださいませ」と祈りました。こうして月日重なって、臨月になりました。静御前は思いの外堅牢地神([大地を司る神])も憐れまれたのか、苦しむこともなく、産気付いたと聞いて、藤次(堀親家ちかいへ)の妻女が、磯禅師ともにお産に立ち会いました。お産はとても軽くすみました。少人(子)が産声を上げるのを聞いて、磯禅師があまりのうれしさに、白絹に押し巻いて見れば、祈る祈りは空しくて、三身相応([欠けたところがなく、りっぱであること])の若君でした。磯禅師はただ一目見て「悲しいこと」と申して倒れ伏してしまいました。静御前はこれを見て、いっそう心配になりました。「男子か、女子ですか」と訊ねましたが磯禅師が答えなかったので、磯禅師が抱いている子を見れば、男子でした。静御前も一目見て、「とても悲しい」と申して衣を引き被り伏してしまいました。


続く


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by santalab | 2014-02-28 15:51 | 義経記 | Comments(0)

    

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