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「承久記」関東の大勢水に溺るる事(その1)

二番に打ち入るともがらは、佐野の与一・中山の五郎・溝の次郎重次しげつぎ・臼井の太郎・横溝の五郎資重すけしげ・秋庭三郎・白井の太郎・多胡たご宗内むねうち七騎打ち上がる。三番に小笠原の四郎・宇都宮の四郎・佐々木の左衛門太郎・河野の九郎・玉の井の四郎・四宮の右馬じよう・長江の与一・大山の次郎・敕使河原の次郎、これも相違なく打ち上ぐる。




二番に川へ打ち入る者たちは、佐野与一・中山五郎・溝次郎重次・臼井太郎・横溝五郎資重(横溝資重)・秋庭三郎・白井太郎・多胡宗内七騎が向こう岸に上がりました。三番に小笠原四郎・宇都宮四郎・佐々木左衛門太郎・河野九郎・玉井四郎・四宮右馬丞・長江与一・大山次郎・敕使河原次郎が、これらの者も同じく向こう岸に渡りました。


続く


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by santalab | 2014-03-31 07:52 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」信綱・兼吉宇治河を渡す事(その5)

兼吉かねよしが馬もこれに連れて游がせけり。これを見て安東の兵衛も打ち入りけり。兼吉が馬、河中より三段ばかりぞ下がりける。信綱のぶつな、向かひへするすると渡して、打ち上げてぞ名乗りける。兼吉幾程なく打ち上がりて名乗る。佐々木が嫡子太郎重綱しげつな十五になるは、裸になりて父が馬の前に立ちて瀬踏みしけるが、かたき、向かふより雨の如くに射る間、裸にて敵はずして取りて帰りけり。




兼吉(橘兼吉)の馬も佐々木信綱に続いて泳がせました。これを見て安東兵衛(安藤忠家ただいへ)も川に打ち入りました。兼吉の馬は川中より佐々木信綱に三段(約30m)ほど遅れました。信綱は、向こう岸へ難なく渡ると、打ち上げて名乗りを上げました。兼吉もほどなく打ち上がり名乗りました。佐々木(信綱)の嫡子太郎重綱(佐々木重綱)十五歳は、裸になって父(信綱)の馬の前に立って瀬踏み([あらかじめ水の深さを測ること])していましたが、敵が、向こう岸より雨のように矢を射たので、裸では敵わないと取って帰りました。


続く


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by santalab | 2014-03-29 08:34 | 承久記 | Comments(0)


「大鏡」清和天皇(その2)

御母、二十三にて、この帝を産み奉り給へり。貞観ぢやうぐわん六年正月七日、皇后宮くわうごうぐうに上がり給ふ。きさいの位にて四十一年おはします。染殿そめどのの后と申す。その御時の護持僧ごぢそうには智証大師ちしようだいしにおはす。さばかりの仏の護持僧にておはしけむに、この后の御物の怪のこはかりけるに、など、え止め奉り給はざりけむ。さきの世のことにておはしましけるにやとこそ思え侍れ。天安てんあん二年戊寅つちのえとらにぞ唐より帰り給ふ。




母(第五十五代文徳もんとく天皇女御、藤原明子あきらけいこ)は、二十三で、清和せいわ天皇(第五十六代天皇)をお産みになられた。貞観六年(864)の正月七日には、皇后宮に上がられたのじゃ。后の位に四十一年おられた。染殿后と申されたお方じゃ。その時の護持僧は智証大師(円珍ゑんちん)じゃった。立派な仏の護持僧であられてな、染殿后に物の怪が憑かれて力も強かったが、どうして、憑きを落とせぬことがあるものか。前の世のことであったということじゃが。智証大師は天安二年(858)戊寅に唐より帰られたのじゃぞ。


続く


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by santalab | 2014-03-28 19:49 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」清和天皇(その1)

次の帝、清和せいわ天皇と申しけり。文徳天皇の第四皇子なり。御母、皇太后宮明子あきらけいこと申しき。太政大臣良房よしふさ大臣おとどの御娘なり。この帝、嘉祥かしやう三年庚午かのえうま三月二十五日に、母方の御祖父おほぢ太政大臣おほきおとどの小一条の家にて、父帝ちちみかどの位に就かせ給へる、五日と言ふ日、生まれ給へりけむこそ、いかに折さへ華やかにめでたかりけむと思え侍れ。この帝は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞおはしましける。惟喬これたか親王の東宮争ひし給ひけむも、この御事とこそ思ゆれ。やがて生まれ給ふ年の十一月二十五日戊戌つちのえいぬ、東宮に立ち給ひて、天安てんあん二年戊寅つちのえとら八月二十七日、御年九つにてくらゐに就かせ給ふ。貞観ぢやうぐわん六年正月一日戊子つちのえね、御元服げんぶく、御年十五なり。世を保たせ給ふこと十八年。同じき十八年十一月二十九日、染殿院そめどののゐんにて下りさせ給ふ。元慶ぐわんぎやう三年五月八日、御出家すけ水尾みづのをの帝と申す。この御すゑぞかし、今の世に源氏の武者むさぞうは。それも朝廷おほやけの御固めとこそはなるめれ。




次の帝は、清和天皇(第五十六代天皇)と申された。文徳天皇(第五十五代天皇)の第四皇子じゃった。母は、皇太后宮明子(藤原明子)と申されたの。太政大臣良房大臣(藤原良房)の娘じゃた。清和天皇は、嘉祥三年(850)庚午三月二十五日に、母方の祖父じゃった、太政大臣(藤原良房よしふさ)の小一条殿で、父帝(文徳天皇)が帝位に就かれて、五日目に、お生まれになられたんじゃ、どれほどその時は華やかでめでたいことであったことじゃろう。清和天皇は、心清く、姿かたち麗しくあられたぞ。惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)と東宮を争われたのが、この清和天皇じゃった。やがて生まれた年の十一月二十五日戊戌に、東宮に立たれ、天安二年(858)戊寅の八月二十七日、御年九つで帝位に就かれたのじゃ。貞観六年(864)の正月一日戊子に、元服なされた、御年十五じゃった。世を治められること十八年。同じき貞観十八年(876)の十一月二十九日に、染殿院(藤原良房の邸宅)で位を下りられた。元慶三年(879)の五月八日に、出家なされた。水尾帝と申されたお方じゃ。この子孫じゃよ、今の世に源氏武者の一族と申すのは(清和源氏)。朝廷の警護をするようになったんじゃ。


続く


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by santalab | 2014-03-28 19:42 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」文徳天皇(その2)

御母きさいの御年十九にてぞ、この帝を産み奉り給ふ。嘉祥かしやう三年四月に后に立たせ給ふ。御年四十二。斎衡さいかう元年甲戌きのえいぬの年、皇后宮に上がり給ふ。貞観ぢやうぐわん三年辛巳かのとみ二月二十九日癸酉みづのとと、御出家すけして、潅頂くわんぢやうなどせさせ給へり。同じき六年丙申ひのえさる正月七日、皇太后に上がり居給ふ。これを五条ごでうきさいと申す。伊勢物語に、業平なりひら中将ちゆうじやうの、「よひよひごとにうちも寝ななむ」と詠み給ひけるは、この宮の御事なり。「春や昔の」なども。同じことのやうにさぶらふめる。いかなることにか、二条にでうきさいに通ひ増されける間の事どもとぞ、うけたまはりしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家と侍るは、別かぬ御仲にて、その宮に養はれ給へれば、同じ所におはしけるにや。




母后(第五十四代仁明にんみやう天皇皇后、藤原順子のぶこ)は御年十九で、文徳もんとく天皇(第五十五代天皇)をお産みになられた。嘉祥三年(850)の四月に后に立たれたのじゃ。御年四十二じゃった。斎衡元年(仁寿四年(854))甲戌の年には、皇后宮に上がられた。貞観三年(861)辛巳の二月二十九日癸酉に、出家なされて、潅頂([主に密教で行う、頭頂に水を灌いで緒仏や曼荼羅と縁を結び、 正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式])をお受けになられたのじゃ。同じ貞観六年(864)丙申の正月七日には、皇太后に上がられたのじゃ。五条后と申されたお方じゃ。伊勢物語に、業平中将(在原業平)が、「よひよひごとにうちも寝ななむ」(「人知れぬ わが通ひ路の 関守は よひよひごとに うちも寝ななむ」=「人知れずわたしはあなたの許に通うのです。関守よ、どうかわたしが通うその夜は寝ていてほしい。」)と詠んだのは、この宮のことじゃよ。「春や昔の」(「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」=「月もあの時見た月でなく、春も昔の春と同じではない。あなた(二条后=第五十六代清和天皇女御、藤原高子たかいこ)がいなくなった今でも、わたしだけがあの時と同じわたしであるのに。」)などもあるの。同じ頃のことに思われるが。どういうことじゃろう、二条后の許に通われている時のことと、聞いておるんじゃが。「春や昔の」も五条后のことを詠んだ歌じゃったんじゃろうか。五条后とは、深い仲じゃったんじゃろうが、二条后も同じ宮内で養われて、同じ所に住んでおられたのじゃろうかの(五条后は二条后の叔母)。


続く


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by santalab | 2014-03-28 19:37 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」文徳天皇(その1)

世継よつぎ文徳もんとく天皇と申しける帝は、仁明にんみやう天皇御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮藤原順子のぶこと申しき。その后、左大臣贈性一位太政大臣冬嗣ふゆつぎ大臣おとどの御娘なり。この帝、天長てんちやう四年丁末ひのとひつじ八月に生まれ給ひて、御心明らかに、よく人を知ろし召せり。承和じようわ九年壬戌みづのえいぬ二月二十六日に御元服げんぶく。同じき八月四日、東宮に立ち給ふ。御年十六。仁明天皇元おはする東宮を取りて、この帝を、承和九年八月四日、東宮に立て奉らせ給ひしなり。いかに安からず思しけむとこそ思え侍れ。嘉祥かしやう三年庚午かのえうま三月二十一日、位に就き給ふ。御年二十四。さて世を保たせ給ふこと八年。




世継は『文徳天皇(第五十五代天皇)と申された帝は、仁明天皇(第五十四代天皇)の第一皇子じゃった。母は、太皇太后宮藤原順子と申されたお方じゃ。后は、左大臣贈性一位太政大臣冬嗣大臣(藤原冬嗣)娘じゃったな。文徳天皇は、天長四年(827)丁末の八月にお生まれになられて、明朗で、知恵あるお方じゃった。承和九年(842)壬戌二月二十六日に元服された。同じ年の八月四日に、東宮に立たれたのじゃ。御年十六じゃったな。仁明天皇は元の東宮(恒貞つねさだ親王。第五十三代淳和天皇の第二皇子。承和の変で廃太子)を廃されて、文徳天皇を、承和九年の八月四日に、東宮にお立てになられたのじゃ。世継ぎを心配されてのことじゃったのだろうよ(承和の変は藤原氏による他氏排斥事件)。嘉祥三年(850)庚午の三月二十一日に、帝位に就かれた。御年二十四の時じゃ。その後世を治められること八年じゃった。


続く


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by santalab | 2014-03-28 19:27 | 大鏡 | Comments(0)


「承久記」信綱・兼吉宇治河を渡す事(その4)

安東の兵衛尉忠家ただいへも心得打ち並べ、佐々木に連れて打ち出づる。四郎左衛門信綱のぶつな、芝田に「ここは瀬か」とぞ問ひける。橘六打ち笑ひて、「御辺こそ近江の人にておはすれば、河の案内をば知り給はめ」と言ひければ、信綱「ことわりなり。幼少より板東にあつて、この河案内知らず」と申せば、その後兼吉音もせず、こここそとて河の中へ打ち入る。水波高くして兼吉が馬ためらふところに、佐々木は二位殿より賜はりたる板東一の名馬に、鞭も砕けよと打ちて、「近江の国の住人佐々木の四郎左衛門源の信綱、十九万騎が一番駆けて、この河に命を捨てて名を後の世に留むるぞ」と、おめきて打ち出だす。




安東兵衛尉忠家(安藤忠家)も心得て馬を並べ、佐々木(佐々木信綱)と連れ立って出て行きました。四郎左衛門信綱(佐々木信綱)は、芝田(橘兼吉かねよし)に「ここは瀬([川の浅い所])かと訊ねました。橘六(橘兼吉)は笑って、「お主は近江の者でござったな、川のことはよく知っておられるはず」と言うと、信綱は「それはそうだが。わたしは幼い頃より坂東にいたから、この川のことはよく知らないのだ」と申すと、その後は兼吉は何も答えないまま、ここだと川の中に打ち入りました。川波は高くて兼吉の馬が躊躇しているところを、佐々木(信綱)は二位殿(北条政子)から賜った坂東一の名馬を、鞭も砕けるほどに打って、「近江国の住人佐々木四郎左衛門源信綱が、十九万騎の一番を駆けて、この川に命を捨てて名を後世に残すのだ」と、喚きながら川に打ち入りました。


続く


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by santalab | 2014-03-28 07:50 | 承久記 | Comments(0)


「大鏡」序(その8)

文徳もんとく天皇と申す帝おはしましき。その帝よりこなた、今の帝まで十四代にぞならせ給ひにける。世を数へ侍れば、その帝、くらゐに就かせ給ふ嘉祥かしやう三年庚午かのえうまの年より、今年までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくも賢き君の御名を申すは、かたじけなくさぶらへども』とて、言ひ続け侍りし。




文徳天皇(第五十五代天皇)と申す帝がおられた。文徳天皇より以降、今の帝まで十四代になられる。年を数えれば、文徳天皇が、帝位に就かれた嘉祥三年(850)庚午の年より、今年までは百七十六年ばかりになるかの。賢帝の名を口にして申すことは、畏れ多いことであるが』と申して、話を続けました。


続く


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by santalab | 2014-03-28 00:20 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」序(その7)

世継『世間の摂政せつしやう関白くわんぱくと申し、大臣・公卿くぎやうと聞こゆる、古今いにしへいまの、皆、この入道にふだう殿の有様のやうにこそはおはしますらめとぞ、今様いまやうちごどもは思ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言ひもていけば、同じ種一つすぢにぞおはしあれど、かど別れぬれば、人々の御心用ゐも、また、それに従ひて事々になりぬ。この世始まりて後、帝は先づ神の世七代を置き奉りて、神武天皇じんむてんわうをはじめ奉りて、当代たうだいまで六十八代にぞならせ給ひにける。すべからくは、神武天皇をはじめ奉りて、次々の帝の御次第を覚え申すべきなり。しかりと言へども、それはいと聞き耳遠ければ、ただ近きほどより申さむと思ふに侍り。




世継は『世の摂政・関白と申し、大臣・公卿([大臣・納言・参議])と呼ばれた、古今の人たちは、皆、今の入道殿(藤原道長みちなが)のように立派であられたと、今の若者たちは思っていることじゃろう。けれども、そのようなことはなかったのじゃ。先に申せば、同じ種一つ筋(藤原氏)であられても、一門を分けて、人々の思いも、また、それに従ってそれぞれになると言うものじゃ。この世が始まった後、帝はまず神の世が七代あって、神武天皇(初代天皇)が就かれてより、当代まで六十八代にぞなられるぞ。できれば、神武天皇から始めて、次々の帝のことを話したいがの。とは言え、それはずいぶん昔のことじゃ、近いところより話すことにいたそう。


続く


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by santalab | 2014-03-28 00:15 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」序(その6)

世継『忠実まめやかに世継がまうさむと思ふにことは、事々かは。ただ今の入道殿下にふだうでんかの御有様の、世に優れておはしますことを、道俗男女の御前おまへにて申さむと思ふが、いと事多くなりて、数多あまたの帝王・后、また大臣・公卿くぎやうの御うへを続くべきなり。その中に、さいはひ人におはします、この御有様申さむと思ふほどに、世の中のことの隠れなくあらはるべきなり。伝てにうけたまはれば、法華経ほけきやう一部を説き奉らむとてこそ、先づ余教よけうをば説き給ひけれ。それを名付けて五時教ごじけうとは言ふにこそはあなれ。しかの如くに、入道殿の御栄えを申さむと思ふほどに、余教の説かるると言ひつべし』など言ふも、わざわざしく、事々しく聞こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思ふに、いみじうこそ言ひ続け侍りしか。




世継は『詳しくこの世継は申したいと思うておるが、ちと大げさかのう。ただ今の入道殿下(藤原道長みちなが)の有様が、世に優れておられることを、道俗男女の御前で申したいということじゃ、そのためには数多くのこと、多くの帝・后、また大臣・公卿([大臣・納言・参議])のことを話さねばならぬ。その中でも、とりわけ幸福なお人であると思うておるが、これを話せば、世の中のことも明らかになるに違いなかろうて。法華経一部を説かれるのに、まず余教(他の教え)を説かれるそうじゃ。それを名付けて五時教([釈迦が一代の五十年間に説いた教法を五期に分類した称])と言うそうじゃ。同じように、入道殿(道長)の栄華を申そうとすれば、余教を説く必要があるのじゃ』など申すのも、わざとらしく、大げさに思えて、「そうは申せ、対した話ではないでしょう」と思っておりましたのに、とてもよいお話を聞くことができたのでございます。


続く


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by santalab | 2014-03-28 00:11 | 大鏡 | Comments(0)

    

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