Santa Lab's Blog


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「大鏡」陽成院(その3)

及ばぬ身に、かやうのことをさへ申すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人の知ろし召したることなれば。いかなる人かは、この頃、古今・伊勢物語など覚えさせ給はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申すことも、この御仲らひのほどとこそはうけたまはれ。末の世まで書き置き給ひけむ、怖ろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、中々に気色あることも、をかしきこともありけるもの』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。世継『二条にでうの后と申すは、この御事なり。




わしにとっては関わりのない話、このようなことを申すのは、畏れ多いことじゃが、誰もが知っていたことじゃから。誰が知っておろうか、今では、古今・伊勢物語なども知ってはおらんじゃろう「見もせぬ人の恋しきは」(「見ずもあらず 見もせぬ人の 恋しきは あやなくけふや ながめくらさむ」=「逢ったこともないあの人のことが恋しくて仕方ありません。ただぼんやりして日を送るわたしです。」)など申したのも、そんな関係を詠んだ歌かも知れんのう。末世まで書き残すとは、業平は恐ろしいまでの数寄者であったのだろうよ。いずれにせよ、昔は、それほどまでに、思うところがあったものよ』と申して、笑いました。恋心と申すものでございましょうか、とてもうれしそうでございました。世継『二条后と申すのは、藤原高子たかいこ(第五十六代清和天皇女御)のことじゃ。


続く


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by santalab | 2014-04-30 17:10 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」陽成院(その2)

母后は、清和の帝よりは九年の御姉なり。二十七と申しし年、陽成院やうぜいゐんをば産み奉り給へるなり。元慶ぐわんぎやう元年正月にきさい<に立たせ給ふ、中宮と申す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮に上がり給ふ。御年四十一。この后宮の、宮仕ひし初め給ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世籠もりておはしける時、在中将ざいちゆうじやう忍びてて隠し奉りたりけるを、御せうとの君達、基経もとつねの大臣・国経くにつねの大納言などの、若くおはしけむほどのことなりけむかし、取り返しにおはしたりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」と詠み給ひたるは、この御事なれば、末の世に、「神代のことも」とは申し出で給ひけるぞかし。されば、世の常の御かしづきにては御覧じ初められ給はずやおはしましけむとぞ、思え侍る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮そめどののみやまゐり通ひなどし給ひけむほどのことにやとぞ、推し量られ侍る。




母后(藤原高子たかいこ)は、清和帝(第五十六代清和天皇)より九歳歳上じゃった。二十七の年に、陽成院を産みになられたということじゃ。元慶元年(877)の正月に后に立たれて、中宮と申された。御年三十六じゃった。同じ元慶六年(882)の正月七日に、皇太后宮に上がられた。御年四十一じゃった。この后宮が、宮仕えに出られた頃のことはよく分からぬ。まだ世に出られておいででない頃、在五中将(在原業平なりひら)が忍んで連れ出して隠されたんじゃが、兄である君達、基経大臣(藤原基経)・国経大納言(藤原国経)とか申すお方が、若かった頃のことじゃが、妹を取り返された時、「つまもこもれりわれもこもれり」(「武蔵野は けふはな焼きそ 若草の つまもこもれり 我もこもれり」=「武蔵野を、今焼き払うのは止めなさい。若草のようなあなたの妹も、わたしも隠れているのだから。」)と詠んだのは、このことじゃよ、末の世に、「神代のことも」(「大原や 小塩の山も けふこそは 神代のことも 思い出づらめ」=「大原野神社=現京都市西京区大原野にある神社。在原業平が晩年に遁世した場所。の小塩山(現京都市西京区にある山)も 、今日ばかりは、神代を思い出されたのではありませんか。わたしのように。」)と詠んだのは昔を思い出してのことじゃろう(藤原高子が大原野神社に詣でた時に詠んだ歌らしい)。そういうことじゃから、世の常のことじゃが清和天皇が皇后を寵愛されたとも、思えぬ。もしかすれば、皇后は業平を忘れ難く、業平は染殿に通っておられたのではないかと、思えるんじゃ(業平は第五十一代平城天皇の孫)。


続く


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by santalab | 2014-04-30 16:34 | 大鏡 | Comments(0)


「大鏡」陽成院(その1)

次の帝、陽成院天皇と申しき。これ、清和天皇の第一皇子なり。御母、皇太后宮高子たかいこと申しき。ごん中納言贈正一位ぞうじやういちゐ太政大臣長良ながらの御娘なり。この帝、貞観ぢやうぐわん十年戊子つちのえね十二月十六日、染殿院にて生まれ給へり。同じき十一年二月一日己丑つちのとうし、御年二つにて東宮に立たせ給ひて、同じき十八年丙申ひのえさる十一月二十九日、位に就かせ給ふ。御年九歳。元慶ぐあんぎやう六年壬寅みづのえとら正月二日乙巳きのとみ、御元服。御年十五。世を知らせ給ふこと八年。位下りさせ給ひて、二条院にでうのゐんにぞおはしましける。さて六十五年なれば、八十一にて隠れさせ給ふ。御法事ほふぢ願文ぐわんもんには、「釈迦如来の一年ひととせこのかみ」とは作られたるなり。智恵ちゑ深く思ひ寄りけむほど、いと興あれど、仏の御年よりは御年高しと言ふ心の、後世の責めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。




次の帝は、陽成院天皇(第五十七代陽成天皇)と申された。陽成天皇は、清和天皇(第五十六代天皇)の第一皇子じゃった。母は、皇太后宮高子(藤原高子)と申されたの。権中納言贈正一位太政大臣長良(藤原長良)の娘じゃった。陽成天皇は、貞観十年(869)戊子の十二月十六日に、染殿院(藤原良房よしふさの邸宅)でお生まれになられた。同じ貞観十一年(870)の二月一日己丑に、御年二つで東宮に立たれて、同じ貞観十八年(876)丙申の十一月二十九日に、帝位に就かれたんじゃよ。御年九歳じゃった。元慶六年(882)壬寅の正月二日乙巳に、元服された。御年十五じゃった。世を治められること八年。帝位を下りられて、二条院におられた。その後六十五年上皇としてあられ、八十一でお隠れになられたんじゃ。法事の願文には、「釈迦如来より一年長生きしたことよ」と書かれたそうじゃ。智恵深く仏道にも通じて、奇抜なものじゃったが、仏の御年よりも年高と申される心が、後世の責めとなられたと、人が夢に見たそうじゃが。


続く


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by santalab | 2014-04-30 16:27 | 大鏡 | Comments(0)


「承久記」院宣を泰時に下さるる事(その1)

十五日の刻、泰時やすとき雲霞の如くの勢にて、上河原より打ち立ち、四辻殿の院の御所へ寄すと聞えけり。一院、東西を失はせ給ふ。月卿・雲客うんかく前後を忘れてあわてさはぐ、責めての御事に院宣を泰時に遣はされけり。その状にいはく、

秀康ひでやす朝臣・胤義たねよし以下徒党、追討むべし之由、宣下既にはんぬ。また先の宣旨を停止、解却のともがら、還任令むべし之由、同じく宣下せかうぶをはる。およそ天下の事、今に於かん者、御口入り及ばざるといへどども、御存知の趣き、いかかでか仰せ知らざるや。凶徒の浮言に就きて、既にこの沙汰に及び、後悔左右にあたはず。ただし天災之時至るか。もつともまた悪魔の結構か。誠に勿論之次第なり。自今以後に於いては、武勇にたづさはる輩は、召し使ふべからず。また家をひんさず武芸を好む者、永く停止かうぶるべきなり。この如き故に自然御大事に及ぶ由、御覚知ある者なり。前非を悔ひて仰せ被るなり。御気色この如し。よつて執達くだんの如し。
六月十五日                   権中納言定高さだたか
武蔵のかみ殿




六月十五日の巳の刻([午前十時頃])、泰時(北条泰時)は雲霞の如く大勢で、上河原を出発し、四辻殿(一条万里小路までのこうぢにあった御所)の後鳥羽院御所へ寄せると聞こえました。一院(後鳥羽院)は、東西も不覚となりました。月卿([公卿])・雲客([殿上人])は前後も忘れてあわて騒ぎ、何とか事を収めようと院宣を泰時に遣わしました。その状には、

秀康朝臣(藤原秀康)・胤義(三浦胤義)以下の徒党([一味])を、追討すべきと、宣下が下りました。また先の宣旨は取消し、解却([官位を免ずること])の者たちを、還任([一度解任された人が、再びもとの官職に任ぜられること])することを、同じく宣下がありました。天下の事柄について、今後、口入れ([干渉])することはありませんが、存知([覚悟])の意趣を、知っていただくことにします。凶徒の浮言([根も葉もない噂])を耳にして、この沙汰に及び、後悔のしようもありません。ただ天災のようなもの。または悪魔の結構([計画])だったのか。まことに非は当方にあります。以後、武勇の者を、召し使うことはありません。また武家でない者であっても武芸を好む者については、永久にこれを禁止させましょう。武芸によって自ずと大事に至ることを、悟り知ったからです。前非を後悔してこう仰せがありました。後鳥羽院の御意向は以上の通りです。以上執達([通達])します。
六月十五日               権中納言定高(二条定高)
武蔵守(北条泰時)殿


続く


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by santalab | 2014-04-30 07:41 | 承久記 | Comments(0)


「宇津保物語」俊蔭(その46)

かかるほどに、年返りぬ。この子、まして、大きに聡く賢し、変化の者なれば、ただ大人のやうになりて、「人に見ゆれば、『誰が子ぞ。親は、誰とか云ふ。このわたりにあるなるべし』など言ひて求むれば、おのづから尋ねも来ぬべし。かくあるきて、人にも見え知られじ。この川にのみやは、いをはある」と思ひて、下りて、その川より、渡りて、北様に指して行きて、山に入りて見れば、大いなる童、土を掘りて、物を取り出でて、火を焚きて、焼き集めて、また、大いなる木の下に行きて、しひ、栗などを取りて、この子を、「何しに、この山にはあるぞ」と問へば、「魚釣りに来つるぞ、『おもとに食はせ奉らむ』とて」と言へば、「山には、魚はなし。また、生きたる物殺すは、罪ぞ。これを拾ひて食へ」と教へて、この堀り拾ひ集めたる物どもを取らせて、童は失せぬ。この子、「うれし」と思ひて、持て行きて、母に食はす。この後は、山に入りて、見せ知らせし芋、野老ところを掘りて、の実、かづらの根を掘りて養ふ。雪高う降る日、芋、野老のあり所も、木の実のあり所も見えぬ時に、この子、「我が身不孝ならば、この雪高く降り増され」と言ふ時に、いみじう高く降る雪、たちまちに降り止みて、日いとうららかに照りて、ありし童出で来て、例の芋、野老を焼き調じて取らせて、失せぬ。




しばらくすると、年が改まりました。娘の子は、ますます、大きく理解も早く賢くなって、変化(神仏が姿を変えた)の者だったので、すっかり大人のようになりました、「たまたま人に会えば、『誰の子か。親は、何という。このあたりに住んでいるのか』などと聞いてきたが、訪ねてくる人はいない。こうして歩きまわっても、人に知られることはめったにない。この川にしか、魚はいないのかな」と思って、川に下りて、その川を、渡って、北の方角を目指して歩いて行き、山に入ってみると、大きな子どもが、土を掘って、物を取り出して、それから火を焚いて、一つに集めて、また、大きな木の下に行って、椎の実や、栗などを拾っていましたが、この子に気がついて、「何しに、この山へ来ただ」と聞いてきました、子は「魚釣りに来たのだ、『母に食べさせてあげよう』と思って」と答えると、「山には、魚はおらん。それに、生きた物を殺すのは、罪ぞ。これを拾って食え」と教えて、掘った穴に拾い集めた物を子に与えて、童はどこかに消えてしまいました。子は、「うれしい」とよろこんで、家に持って帰って、母に食べさせてあげました。それからは、山に入って、童が教えてくれた山芋や、野老(ヤマノイモ科)を掘って、木の実を拾ったり、葛(つる草)の根を掘って、母に食べさせました。雪がたくさん降り積もった日には、山芋、野老がある場所も、木の実が落ちている所も見えません、この子は、「わたしが不孝者ならば、この雪よもっと降れ」と言うと、激しく降る雪も、たちまち降りやんで、陽がたいそうのどかに照り出すと、前に会った童がどこからか出てきて、穴を掘って取った山芋や、野老を焼いて調理してから与えてから、消え失せてしまいました。


続く


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by santalab | 2014-04-29 09:56 | 宇津保物語 | Comments(0)


「承久記」秀康・胤義ら都へ帰り入る事(その9)

祐親すけちかが乗り替へ落ち合ひて首を捕る。胤義たねよしこれを知らずして、弥太郎兵衛、ただ三四騎になりて東山を心ざして落ちて行く。次郎兵衛・高井の兵衛の太郎、これも東へ落ちけるが、六波羅の蓮華王院に馳せ入り、小竹の内にて二人念仏唱へて、刺し違へて失せにけり。胤義は心ざしつる東山に馳せ入りて、物の具脱き捨てて休みけり。




祐親(角田平二)の乗り替え([乗り換え用の馬を預かる侍])が上畠(三浦胤義たねよしの乳母子)の首を捕りました。胤義はこれを知らず、弥太郎兵衛ら、ただ三四騎になって東山を目指して落ちて行きました。次郎兵衛(三浦兼義かねよし?)・高井兵衛太郎(高井時義ときよし)も、東に向かって落ちて行きましたが、六波羅の蓮華王院(現京都市東山区にある寺。三十三間堂)に馳せ入り、小竹の中で二人念仏を唱えて、刺し違えて死にました。胤義は目指していた東山に馳せ入り、物の具([武具])を脱ぎ捨てて休みました。


続く


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by santalab | 2014-04-29 08:57 | 承久記 | Comments(0)


「承久記」秀康・胤義ら都へ帰り入る事(その8)

胤義たねよしは東寺を墓所と定めければ、「自余の者、それは落ちも失せよ。一足も退くまじ」とて入れ替へ戦ひけり。されども大勢しこみければ、心は猛く思へども、なまじひに一切れにも死に終はらず、東を指して落ち行きけり。角田の平二祐親すくやか者なり。胤義に目をかけて、押し並べて組まんとしけるが、祐親敵はじとや思ひけん胤義が乳母子上畠、馳せ通りけるに組んで落ちにけり。




胤義(三浦胤義)は東寺(現京都市南区九条町にある教王護国けうわうごこく寺)を墓場と決めて、「わし以外の者は、ここから落ち失せよ。わしは一歩も引くまいぞ」と言って入れ替わり戦いました。けれども大勢に取り囲まれて、心は強くありましたが、わずかに斬られましたが死に切れず、東を指して落ちて行きました。角田平二祐親は目ざとい者でした。胤義に目を付けて、押し並べて組もうとしましたが、敵わないと思ったのか胤義の乳母子上畠が、馳せ通るところを組んで馬から落としました。


続く


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by santalab | 2014-04-28 07:20 | 承久記 | Comments(0)


「宇津保物語」俊蔭(その45)

冬の寒くなるままには、さも、えすまじければ、この子、「我が親に、何を参らむ。いかにせむ」と思ひて、母に言ふやう、「いをを取りに行きたけれど、氷いと固くて、魚もなし。おもと、いかがし給はむずるぞ」と言ひて泣く時に、親、「何か悲しき。な泣きそ。氷解けなむ時に、取れかし。我、物多く食ひつ」と言へど、なほ、明くれば、河原に行きて、人多く、車などある時は、そのほど過ぐして、出でて見るに、水、鏡の如くこほれり。そのかみ、この子言ふ、「まことに我孝の子ならば、氷解けて、魚出て。孝の子ならずは、な出で来そ」とて泣く時に、氷解けて、大いなる魚出で来たり。取りて行きて、母に言ふやう、「我は、まことの孝の子なりけり」と語る。小さき子の、深き雪を分けて、足は海老のやうにて走り来るを見るに、いと悲しくて、涙を流して、「など、かく寒きに、出でてはありくぞ。かからざらむ折、出でて歩け」と泣けば、「苦しうもあらず。おもとを思う」とて、止まるべくもあらず。ありつる魚は、魚と見つれど、百味を備へたる飲食になりぬ。怪しうたへなること多かり。




冬になって寒くなると、魚釣りも、できなくなって、この子が、「我が親に、何を持って帰ればいいのだろうか。どうすればいいのか」と悩んで、母に言うには、「魚を取りに行きたいけれど、氷がとても固くて、魚もおりません。お母さん、いったいどうすればいいのでしょう」と言って泣きました、親(母)は、「何が悲しいのですか。泣くのをやめなさい。氷が解けてから、魚を取ればいいでしょう。わたしは、たくさん食べましたよ」と言いましたが、それでも、夜が明けると、子は河原に出かけて行きました、人が多くいて、牛車が止まっていたので、そこを通り過ぎて、河原に下りてみると、水は、鏡のように凍っていました。その時、この子は言いました、「本当にわたしが孝行の子ならば、氷解けて、魚を出してください。孝行の子でなければ、魚は出さなくて結構です」と泣いていると、氷が解けて、大きな魚が出てきました。子は魚を持って帰って、母に言うには、「わたしは、本当に孝行の子でしたよ」と話しました。こんな小さな子が、深い雪をかき分けて、足は海老のように縮こまって走って帰ってくるのを見ると、母はとても悲しくて、涙を流して、「どうして、こんなに寒い日に、出かけていくのですか。せめて寒くない日に、出かけなさい」と泣けば、子は「苦しくはありません。母が心配です」と言って、出ていくのをやめませんでした。子が持って帰る魚は、魚の形はしていましたが、数々の珍味を兼ね備えた味がしました。不思議で霊妙なことが多くありました。


続く


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by santalab | 2014-04-27 08:30 | 宇津保物語 | Comments(0)


「宇津保物語」俊蔭(その44)

かかるほどに、この子五つになる年、秋つ方、おうな死ぬ。この親子、いささか物食ふこともなくなりぬ。日を経て、つれづれとあり。この子、出で入り遊びありきて見るに、母の物も食はであるを見て、「いみじう悲し」と見て、「いかで、これ養はむ」と思ふ心つきて思へど、さる幼きほどなれば、なでふわざをも、えせず。つとめて、近き河原に出でて遊び歩けば、釣りする者、いをを釣る。「何にせむとするぞ」と言ふに、「親の、わづらひて、物も食はねば、ばむずるぞ」と言ふに、「さは、親にはこれを食はするぞ」と知りて、針を構へて釣るに、いとをかしげなる子の、大いなる河面かはつらに出でてすれば、「かくらうたげなる子を、かく出だしありかする、誰ならむ」と思ひて、「何せむに、かくはするぞ」と言へば、「遊びにせむずる」と言ふ。らうたがりて、「我、釣りて取らせむ」とて、多く釣りて取らする人もあるを、持て来て、親に食はせなどし歩くを、「かく、なせそ。物食はぬも、苦しうもあらず」と言へど、聞かず。かたちは、日々に、光るやうになりゆく。見る人、いだき美しみて、「親はありや。いざ、我が子に」と言へば、「否。おもとおはす」とて、さらに聞かず。日の暖かなるほどは、かくし歩きて、母に食はす。夢ばかりにても、ただ、この食はする物に懸かりてあり。




しばらく経って、この子が五歳になった年の、秋に、おばあさんが亡くなりました。この親子は、ほんのわずかの物を食べることもできなくなりました。日が経つにつれ、どうしようもなくなってしまいました。娘の子は、家を出たり入ったりして遊んでいましたが、母が何も食べないのを見て、「とても悲しい」と思って、「どうすれば、母に何か食べさせることができるのだろう」と一所懸命に考えましたが、まだ幼かったので、どんな方法も、思いつきませんでした。翌朝、家の近くの河原に出て遊びながら歩いていると、釣人が、魚を釣りました。子が「釣った魚をどうするのですか」と聞くと、釣り人は「親が、病気になってしまって、物が食べられなくなったので、この魚をあげるのです」と言ったので、「そうか、親に魚を食べさせよう」と、針を用意して釣りをしていると、とても釣りをする歳でもない幼い子が、大きな河のほとりで魚釣りをしていたので、「こんなにかわいい子を、こんな場所に行かせるのは、いったい誰なんじゃ」と思って、「どうして、釣りをしているのかい」と聞くと、子は「ただ遊んでいるだけです」と答えました。子をかわいく思って、「わしが、魚を釣ってやろう」と、たくさんの魚を釣ってくれる人もありました、魚を家に持って帰って、親(母)に食べさせました、母は「こんなことは、しなくてもいいから。物を食べなくたって、苦しくもないから」と言いましたが、子は聞きませんでした。子の姿かたちは、日を経るごとに、光るほど凛々しくなっていきました。見る人は、子を抱いてかわいがり、「親はいるのかい。どれ、わたしの子におなり」と言いましたが、「いいえ、母がおります」と言って、それ以上は答えませんでした。とても暑い日には、魚を日陰に隠して持って帰って、母に食べさせました。たとえほんの少しであっても、確かに、子の釣る魚が母子の命をささえていたのです。


続く


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by santalab | 2014-04-27 08:25 | 宇津保物語 | Comments(0)


「宇津保物語」俊蔭(その43)

かくて、この子、三つになる年の夏頃より、親の飲まず。母、怪しがりて、「など、あこは、この頃乳飲まぬ」と言へば、親、「なほ飲め。苦しうもあらず。異物ことものは食はず、乳をさへ飲まずは、いかがせむ」と言へば、「否。今は、な飲ませ給ひそ」とて、飲まずなりぬ。




こうして、この子が、三歳になった年の夏頃から、親(母)のあげる乳を飲まなくなりました。母は、不思議に思って、「どうして、この子は、この頃乳を飲まないのでしょう」と言って、親として、「まだ乳を飲まなくてはいけませんよ。苦しくありません。他の物も食べず、乳も飲まないで、どうするのですか」と言ったりしましたが、「いいえ、今は、飲みたくない」と、それからは乳を飲まなくなってしまいました。


続く


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by santalab | 2014-04-27 08:18 | 宇津保物語 | Comments(0)

    

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