Santa Lab's Blog


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「曽我物語」十郎が討ち死にの事(その4)

祐成すけなりが最期の言葉ぞ、あはれなる。「五朗ごらうは、いづくにあるぞや。祐成、既に新田が手にかかり、空しく成るぞ。時致ときむねは、いまだ手負ひたるとも聞こえず、如何にもして、君の御前にまゐり、幼少えうせうよりの事ども、一々にまうし開きて死にさうらへ。死出の山にて待ちまうすべきぞ。追ひ付き給へ。南無阿弥陀仏」と言ひも果てず、生年しやうねん二十二歳にして、建久けんきう四年しねん五月二十八日の夜半ばかりに、駿河の国富士の裾野の露と消えにけり。弓矢取る身の習ひ、今に始めぬ事なれども、親の為に命をかろくし、かばね路径ろけいちまたに捨つれども、名をば、竜門りやうもん雲井くもゐに上ぐる、あはれと言ふも愚かなり。




祐成(曽我祐成)の最期の言葉こそ、哀れなものでした。「五朗(曽我時致ときむね)は、どこにいるのだ。この祐成は、すでに新田(仁田忠常ただつね)の手にかかり、空しくなろうとしておるぞ。時致は、まだ手負いしたとも聞こえず、なんとしてでも、君(源頼朝)の御前に参り、幼少からのことを、一々に申し開いてから死んでほしい。死出の山で待っておるぞ。追い付けよ。南無阿弥陀仏」と言いも果てず、生年二十二歳にして、建久四年(1193)五月二十八日の夜半ほどに、駿河国富士の裾野の露と消えました。弓矢取る身の習いは、今に始まったことではありませんでしたが、親のために命を軽んじ、屍は路径(径は小道)の岐(辻)に捨てても、名を、竜門(中国黄河の上流にある急流で、ここをさかのぼることのできる鯉は竜になるという)の雲井に上げました、哀れと言うも愚かなことでした。


続く


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by santalab | 2014-07-31 18:09 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」十郎が討ち死にの事(その3)

忠綱、勝つ乗つて打つほどに、左の膝を切られて、犬居いぬゐに成りて、腰の刀を抜き、自害に及ばんとするところに、太刀取りなほし、右のひぢはづれを刺してとほす。忠綱、今はかうと思ひ、やかたを指してかへりけるを、十郎じふらう伏しながら、掛けたる言葉ぞ、無慙なる。「新田殿、帰るか、まさなし。同じくは首を捕りて、かみ見参げんざんに入れよ。親しき者の手に掛からんは、本意ぞかし。かへせ、や、殿、忠綱」と呼ばはられて、げにもとや思ひけん、すなはち立ち帰り、あひだ斬りてぞ伏せたる。




忠綱(仁田忠常ただつね)は、勝つ乗って打つ続けると、祐成(曽我祐成すけなり)は左膝を切られて、四つん這いになり、腰の刀を抜き、自害に及ぼうとしましたが、忠常は太刀を取り直し、右臂の外れを刺し差し通しました。忠綱(忠常)は、もはや自害もできまいと思って、館に向かって帰ろうとしましたが、十郎(祐成)は伏しながら、かけた言葉が、哀れでした。「新田殿よ、帰るのか、どういうつもりぞ。同じくは首を捕って、上(源頼朝)の目にかけよ。親しい者の手に掛かるのが、本望ぞ。戻って来、い、殿よ、忠常よ」と呼ばれて、確かにと思ったのか、すぐに立ち帰り、胸の間を斬って伏せました。


続く


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by santalab | 2014-07-30 08:40 | 曽我物語 | Comments(0)


明日に向かって走れ(あの日に戻りたい)

明日に向かって走っていたのは、一周回って「あの時」に戻りたかったから?あれからもう何十周回ったか、いやいやまだ半周すらまだなのかも知れぬ。結局のところ「あの時」はただ一度きりのことなのであろう。ならば、急ぎ走ることもあるまい。


随分、無駄なことをしてきたものだとも思う。「器用」に切り替えることができたのなら、そんなことを考えることもなかったかも、けれど。「懺悔」すれば赦されるのは「宗教」の世界だけ、「時を戻す?」ほんの一秒止めることもできないで。


一日何も食べないで、目の前に「食物」があれば「手掴み」でも口にほおばって、息もできないくらいに。それでまた「何十時間」は生き延びることもできよう、それが「あの時」に繋がるとはとても思えない。腹を空かせて「フラフラ」。「それでも明日に向かって走ります?」。「もうリタイアしたら?」。


「それでも、一つ諦め切れないもの。それだけを探して」。もう、見付けてしまったのかもしれない、手に入れることができない「答え」だけは。「何もかも捨てて、それでも手に入れようとするのだろうか?きっと、そうするに違いないけれども、きっと無理なんだろうけれども」。


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by santalab | 2014-07-29 20:47 | 独り言 | Comments(0)


「曽我物語」十郎が討ち死にの事(その2)

しかれども、忠綱ただつな究竟くつきやうつはものなれば、おもても振らず、大音声だいおんじやうにて罵りけるは、「伊豆いづの国の住人ぢゆうにん、新田の四郎しらう忠綱、生年しやうねん二十七歳、国を出でしより、命をば君に奉り、名をば、後代こうたいに留め、かばねをば富士の裾野にさらす。さりとも、後ろを見すまじきぞ。御分ごぶんも引くな」と言ふままに、互ひにしのぎけづり合ひ、時を移して戦ひけるに、新田の四郎は、新手なり。十郎じふらうは、よひの疲れ武者、おほくの敵に打ち合ひて、かひな下がり、力も弱る。太刀より伝ふ汗に血と、手の打ち繁くまはりければ、太刀をひらめて受くるところに、十郎が太刀、つば本よりれにけり。




けれども、忠綱(仁田忠常ただつね)は、究竟の兵でしたので、恐れることなく、大声を張り上げて、「伊豆国の住人、新田四郎忠綱、生年二十七歳、国を出てからは、命を君(源頼朝)に奉り、名を、後代に留め、屍をば富士の裾野に晒す。たとえそうなろうが、敵に背を向けることはない。お前も逃げるな」と言うままに、互いにしのぎを削り合い、時を移して戦いました、新田四郎は、新手でした。十郎(曽我祐成すけなり)は、宵の疲れ武者、多くの敵と打ち合って、腕は下がり、力も弱っていました。太刀に伝う汗に血が混じり、忠常が繁く手を打ち出すと、太刀を横にして受けていましたが、十郎の太刀は、鍔本より折れてしまいました。


続く


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by santalab | 2014-07-29 09:01 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」十郎が討ち死にの事(その1)

やや暫くありて、伊豆いづの国の住人ぢゆうにん、新田の四郎しらうに、十郎じふらう打ち向かひ、「如何に曽我の十郎祐成すけなりか」「向かひそ」「新田の四郎忠綱ただつなよ」「さては、御分ごぶんと祐成は、正しき親類なり」「その儀ならば、互ひに後ろばし見るな」「左右さうに及ばず。今夜、いまだ尋常じんじやうなる敵に遭はず。ゆひ甲斐かひなき人の、郎等らうどうの手にかからんずらんと、心にかかりつるに、御辺に遭ふこそ嬉しけれ」「一家のしるしに、同じくは、忠綱が手に掛けて、後日に勧賞くわんじやうに行はれ給はば、御辺の奉公と思ひ給へ」と言ひて、打ち合ひける。十郎が太刀は、少し寸伸びければ、一の太刀は、新田が小臂こひぢに当たり、次の太刀に、小鬢こびんを切られけり。




ややしばらくして、伊豆国の住人、新田四郎(仁田忠常ただつね)に、十郎(曽我祐成すけなり)が出くわしました、「お前が曽我十郎祐成か」「そういうお主は誰だ」「新田四郎忠綱(忠常が正しい)だ」「ならば、お主とこの祐成は、まさしく親類よ」「ならば、互いに逃げるなよ」「申すまでもないこと。今夜、まだ名のある敵に遭っておらぬ。つまらない者の、郎等([家来])の手にかかってはつまらぬ、と思っていたが、お主に遭ってうれしく思うぞ」「一家の験として、同じくは、この忠常の手にかけて、後日勧賞に与かれば、お主の奉公と思われよ」と言って、打ち合いました。十郎(祐成)の太刀がわずかに伸びて、一の太刀は、新田(忠常)の小肘に当たり、次の太刀で、小鬢([頭の左右前側面の髪])を切られました。


続く


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by santalab | 2014-07-28 08:52 | 曽我物語 | Comments(0)


明日に向かって走れ(すべては破滅のために)

究極、行き着く先は「破滅」。だって「完全」な人はこの世にいないのだから、何かしら「妥協」して平衡を保つほかに方法はないのでは?あまりに「欠陥」が多過ぎて「爆発」するのは世の習い、人はそれほど出来が悪いものではない?


そうかしらん?人って「盾」と「矛」のどちらを数多く生み出してきたのか。あきらかに「矛」ではないのかと思うのですよ。「矛」=「破滅」でしょ。「攻撃は最大の防御」などと言って「武力」=「抑止力」などと。確かにそう思います、だって人が「矛」に勝る「盾」など発明したことなどないでしょ。「原爆」「水爆」を無力化する「防御力」はどこにあるというの?


「平和」であることを人は望みはしろ、そのために何ら努力をしてこなかったとは言わないまでも。「宗教」や「思想」、笑わせないで。ただ「信じない」だけで無力になってしまうようなものを「盾」にしないでね。


「信じるものは救われる」。バカじゃないの。なぜ人は「それを証明しなかったのだろう」。暗号のよな呪文のような「数式」をいくら生み出したのやもしれず、けれどもそれらの一つとして「矛」になりはしても「盾」になるかしらん。


「心の内など知れぬもの」。そう言って逃げていたのは結局のところ、当事者である「人」ではなかったのかと己を弁護するのもまた「人」故に。


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by santalab | 2014-07-27 19:44 | 独り言 | Comments(0)


明日に向かって走れ(紫の君)

「あなたに干渉しすぎたみたい。けれどもあなたに謝りはしない。なぜなら、『人に流されたのは結局のところ、あなたが弱かったからでしょ』。言い訳かも知れないけれども、人に流されてはだめ。それがたとえあなたがこの世で一番愛しく思える人であったとしても。あなたはあなたらしく生きなくては。わたくしが私らしく生きたとはとても言えないけれども、だからこそ、『あなたの意識の中にもう一度生きてみたくて』。でもそれを許容してはだめ。矛盾しているかしら。わたくしが私らしく。何の問題もないわね」。


「わたしはこの世にあってこの世のものではない存在。あなたのようにこの世に思い残したものなど何もないはずです。そんなことはきっとないでしょう。でも、そう思うことでわずかでも心休まるならばと思うことにするほかないから」。


「それで心は安らかになったかしら。どうにもならなくて、このわたくしに操られているほかないと思っているのでは。言い過ぎたかしら。でも、わたくしはあなたに安らぎなど与えるつもりはまったくないの、ごめんなさいね」。


「どうすればよかった、分かりません。今が不幸?それとも幸せ?何と比べて。理想はいつも雲の彼方にあって、現実は瞬きする間にも過ぎ去ってしまうもの。何かに身を委ねたところで、一生の保証が得られるものでもありません。あなたがわたしを思うままにしたいのなら、それもまたわたし」。


「悲しいことは言わないで。あなたはわたくしよりもずっと強いのよ。だから、わたくしを受け入れてくれた。わたくしは何よりも快くて。わたくしはあなたの大切なものをすべて奪ってしまったのかもしれないわね、きっとそう。『わたくしの一番大切なものを得ようとしたのがあなたでなければよかったのに』」。


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by santalab | 2014-07-27 19:42 | 独り言 | Comments(0)


「曽我物語」神代の始まりの事(その2)

好文かうぶんやからを寵愛せられずは、たれか万機のまつりごとを助けむ。または、勇敢ようかんともがら抽賞ちうしやうせられずは、如何でか四海の乱れをしづめん。かるがゆゑに、たう太宗文たいそうぶん皇帝くわうていは、傷を吸ひて、戦士をしやうし、漢の高祖かうそは、三尺さんじやくの剣を帯して、諸侯を制し給ひき。しかるあひだ本朝ほんてうにも、中頃より、源平両氏りやうじを定め置かれしよりこの方、武略を振るひ、朝家てうかを守護し、互ひに名将めいしやうの名をあらはし、諸国の狼藉らうぜきしづめ、既に四百余くわいの年月を送りをはんぬ。これ清和せいわ後胤こうゐん、また桓武くわんむ累代るいたいなり。しかりといへども、皇氏わうじを出でて、人臣に連なり、やじりを噛み、鋒先を争ふ心ざし、取り取りなり。




好文(学問に親しむ者)の者たちを寵愛せずに、誰が万機の政を助けるというのでしょうか。また、勇敢な者どもに褒美を与えなければ、どうして四海([国内])の乱れを鎮めることができましょう。だからこそ、唐の太宗文皇帝(太宗。唐の第二代皇帝)は、傷を吸って、戦士を賞し、漢の高祖(劉邦)は、三尺の剣を帯して、諸侯を制したのです。こうして、本朝でも、中頃より、源平両氏を定め置くようになってより、武略を振るい、朝家を守護し、互いに名将の名を顕し、諸国の狼藉を鎮め、すでに四百余回の年月を送ってきました。源氏は清和(第五十六代清和天皇)の後胤([子孫])、また平家は桓武(第五十代桓武天皇)の累代でした。けれども、皇氏を出て、人臣に連なり、鏃を射、鋒先を争うその心様は、それぞれでした。


続く


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by santalab | 2014-07-27 08:32 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」曽我へ連れて帰り、喜びし事(その2)

一萬いちまんが乳母、月冴つきさへと言ふ女房にようばう庭上ていしやうに走り向かひ、馬の口を取り、「君達の御かへり」と言はんとて、余りにあわてて、「むまたちの帰り給ふぞや」と呼ばはりけり。兄弟きやうだいの人々、「馬より下り、母が方に行きければ、一門馳せ集まり、喜びの見参げんざん、隙もなし。しかれば、頼朝御いきどほり深く、御あはれみのあまねき事は、「めいてんの君は、時に蔽壅へいようるいをなし、しゆんゑんの臣は、しばしばしんしの悲しみを抱く」とは、文選もんぜんの言葉なるをや、今更思ひ知られたり。




一萬の乳母、月冴という女房が、庭上に走り向かい、馬のくつわを取り、「君達がお帰りになられました」と言おうとしましたが、あまりにあわてていたので、「馬たちが帰りました」と叫びました。兄弟(一萬・筥王)は、「馬から下りて、母のいる方に行くと、一門が馳せ集まり、よろこびの挨拶は、隙もないほどでした。しかしながら、頼朝の怒りは深く、広くあわれむことは、「めいてん([明哲]=[聡明で物事の道理に通じていること])の君主は、時に不都合から目を背け([蔽壅]=[ふさぎおおうこと])、しゆんゑん([俊乂しゆんがい]=[きわめて優れること])の臣は、しばしばしんし(後時)に悲しみを抱く」とは、文選([中国南北朝時代、南朝梁の蕭統しようとう=昭明太子によって編纂された詩文集])の言葉が、今更ながら思ひ知られるのでした。


続く


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by santalab | 2014-07-27 07:59 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」神代の始まりの事(その1)

それ、日域じちゐき秋津島あきつしまは、これ、国常立尊くにとこたちのみことより事起こり、宇比邇うひぢに須比智邇すひぢに男神なんしん女神によしんを始めとして、伊弉諾いざなぎ伊弉冉尊いざなみのみことまで、以上天神七代にて渡らせ給ひき。また、天照大神あまてるおほんかみより、彦波瀲武盧茲草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあわせずのみことまで、以上地神五代にて、おほくの星霜せいさうを送り給ふ。しかるに、神武天皇てんわうまうし奉るは、葺不合ふきあわせずの御子みこにて、一天のあるじ百皇はくわうにも始めとして、天下てんがをさめ給ひしよりこの方、国土をかたぶけ、万民の恐るるはかりこと、文武の二道にだうくはなし。




そもそも、日域(日本)秋津島(大和国)は、この、国常立尊(『日本書紀』・『古事記』で最初に現れた神)から始まり、宇比邇神(『古事記』に現れる神世七代の第三代の神。男神)・須比智邇神(『古事記』に現れる神世七代の第三代の神。女神)、男神・女神(宇比邇神・須比智邇神以降、『古事記』では男神・女神が対として現れる)を始めとして、伊弉諾尊・伊弉冉尊まで、以上天神七代に渡りました。また、天照大神から、彦波瀲武盧茲草葺不合尊まで、以上地神五代にて、多くの星霜([年月])を送りました。けれども、神武天皇(初代天皇)と申す帝は、葺不合の皇子で、一天下の主、百皇の始めとして、天下を治められてよりこの方、国土を傾け、万民が恐れる謀略は、文武二道に通じた帝はいませんでした。


続く


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by santalab | 2014-07-26 09:35 | 曽我物語 | Comments(0)

    

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