Santa Lab's Blog


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「増鏡」春の別れ(その19)

この大夫は、もとより仲良きどちにて、常に消息せうそこなど遣はすに、かく世に褒めらるるをいとよしと思ひて、兵衛ひやうゑかみの許へ言ひ遣る。

和歌の浦の 浪も昔に 帰りぬと 人より先に 聞くぞ嬉しき

かへし、
和歌の浦や 昔にかへる 波ぞとも かよふ心に 先づぞ聞くらむ




この大夫(花山院師賢もろかた)は、もとより二条為定ためさだとは親しい間柄でしたので、常日頃消息([文])を遣り取りしておりましたが、こうして為定が帝(第九十六代後醍醐天皇)に褒められたことをうれしく思って、兵衛督(二条為定)の許へ文を届けました。

和歌浦の浪(和歌の素晴らしさ)も昔に勝るとも劣らずと、帝(第九十六代後醍醐天皇)が申されたことを人より先に聞いて、何よりもうれしく思ったぞ。

返し、
素晴らしい和歌を撰んでくれたと帝が申されたことよりも、まずお主がそれをよろこび知らせてくれたことをうれしく思う。


続く


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by santalab | 2014-08-31 10:13 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」つげの小櫛(その28)

月日ほどなく移り過ぎぬれば、院も宮々も、各々散り散りにあかれ給ふほど、今少し物悲しさ勝る御心の内どもは尽きせねど、世の習ひなれば、さのみしもはいかが。昭慶門院せうけいもんゐんは、数多あまたの宮たちの御中に、勝れてかなしきものに思ひ聞こえさせ給ひしかば、御処分そうぶんなどもいとこちたし。大堰川おほゐがはに向かいて、離れたる院のあるをぞ奉らせ給へれば、そこにおはしまししほどに、川端殿かはばたどのの女院など、人は申し侍りし。かの所は臨川寺りんせんじとぞ言ふめる。都にも土御門室町にありし院、いづれもこの頃は寺になりて侍るめりとぞ。めでたくこそあはれなれ。




月日はほどなく移り過ぎて、院(第九十一代後宇多院)も宮々も、各々散り散りに別れられて、さらに物悲しさまさる心の内は尽きることはございませんでしたが、世の習いでございますれば、慰めようもございませんでしたでしょう。昭慶門院(第九十代亀山天皇の第二皇女、憙子きし内親王)は、数多くの宮たちの中でも、とりわけかわいがっておいででございましたので、処分([遺産])も格別なものでございました。大堰川(桂川)に面して、都から離れた院がございましたのを相続なされて、そこにおられましたので、川端殿の女院などと、人は申しておりました。かの所は臨川寺(現京都市右京区にある寺)と申します。都でも土御門室町にございました院も、いずれも今では寺になっております(現京都市上京区にある清浄華院しやうじやうけゐん)。おめでたくも悲しいことでございました。


続く


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by santalab | 2014-08-30 13:35 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」つげの小櫛(その27)

雨うちそそきて、気配けはひあはれなる夜、いたう深けて、そちの宮、例の北殿へまゐり給へれば、姫宮も御殿篭りぬ。さぶらふ人々も皆しづまりぬるにや、格子かうしなど叩かせ給へど、開くる人もなければ、空しくかへらせ給ふとて、書きて挿し挟ませ給ふ。

おのづから 眺めやすらむ とばかりに あくがれ来つる 有明の月

かへし、またの日、
徒らに 待つ宵すぎし 村雨は 思ひぞたえし 有明の月




時雨が降り、物悲しい夜が、たいそう更けてから、帥宮(尊治たかはる親王)が、いつものように北殿へ参られますと、姫宮(奨子しようし内親王。尊治親王の同母姉)は眠っておられました。お仕えしている女房たちも皆寝てしまったのか、格子([しとみ]=[格子を取り付けた板戸])を叩かれましたが、開ける人もなく、空しく帰られようと、文を書いて格子に挿し挟まれました。

あなたと話していると悲しみを慰められますので、自然と足が向いてしまいました。有明の月の月が出るまで待っておりましたが結局会えませんでしたが。

お返し、次の日、
あなたが訪ねて来ると思って待っておりましたが、村雨が降ったので訪ねては来ないかと眠ってしまいました。有明の月(尊治親王)が訪ねて来ると知っていたなら、待っておりましたのに。


続く


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by santalab | 2014-08-30 12:16 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」つげの小櫛(その26)

時雨はしたなく、風荒らかに吹きて暮れぬれば、宮、内に入り給ひて、御殿油とのあぶら近く召して、昼御覧じさしたる御きやうなど読み給ふほどに、若殿上人どもうち連れて、こなたの御宿直とのゐまゐれり。昼のつたの葉の散りぼいたるを、人々見るに、宮、「それに各々歌書きて」とのたまへば、中将ちゆうじやう為藤ためふぢの朝臣、

紅葉葉に なく音は絶えず 空蝉の からくれなゐも 涙とや見ん

清忠きよただの朝臣、
山姫の 涙の色も この頃は わきてや染むる 蔦の紅葉葉

光忠みつただの朝臣、
世の中の 歎きの色を 知らねばや 去年こぞに変はらぬ 蔦の紅葉葉

これらを取り集めて、北殿の内親王の御方へ奉らせ給ひければ、
さすがなほ 色は木の葉に 残りけり かたみも悲し 秋の別れ路




時雨がひどく降って、風が激しく吹いて日も暮れましたので、宮(奨子しようし内親王)、内へ入られて、殿油([大殿油おほとなぶら]=[宮中や貴族の邸宅でともす油のともし火])を近く寄せて、昼にご覧になられていた経など読んでおりますうちに、若殿上人どもがうち連れて、こちらの宿直に参りました。昼の蔦の葉の落ち葉を、人々見ておりましたが、宮が、「その葉に各々歌をお書きなさい」と申したので、中将為藤朝臣(二条為藤)、

この紅葉葉を見ても悲しみ泣く音は絶えません。空蝉となった紅色のこの落ち葉も、涙で染まったのでございましょうか。

清忠朝臣(坊門清忠)、
山姫([山奥に住む女の姿をした妖怪])さえこの悲しみに、血の涙を流したのではないでしょうか。それほどに鮮やかに色付いた紅葉葉でございます。

光忠朝臣(源光忠)、
世の中の悲しみを知らねばこれほどまでに色付くことはなかったでございましょう。去年と変わらぬ蔦の紅葉葉であったことでしょう。

これらを取り集めて、北殿の内親王(奨子しようし内親王)の方へ贈られました、
深い悲しみの色がこの木の葉に残っております。お互いに悲しく思われるのは、この秋の亀山院(第九十代天皇)とのお別れでございます。


続く


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by santalab | 2014-08-30 12:12 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」春の別れ(その18)

まことや、例の先に聞こゆべき事を、時たがへ侍りにけり。兵衛ひやうゑかみ為定ためさだ、故中納言の跡を受けて撰びつる撰集の事、正中しやうちゆう二年十二月の頃、先づ四季を奏する由聞こえし残り、このほど世に広まれる、いと面白し。御門、事の外に愛でさせ給ひて、続後拾遺とぞ言ふなる。中宮大夫師賢もろかたうけたまはりて、この度の集のいみじき由、様々おほせ遣はしたるに、御かへしに、為定、

今ぞ知る 集むる玉の 数々に 身を照らすべき 光ありとは

かへし、内の御製ぎよせい
数々に 集むる玉の 曇らねば これも我が世の 光とぞなる




思いもしなかったことあって、いつもでしたら急ぎ奏上するはずが、すっかり遅くなってしまったものでございます。兵衛督為定(二条為定)が、故中納言(二条為藤ためふぢ)の跡を受け継いで撰んだ撰集が、正中二年(1325)の十二月頃、まず四季を奏上されましたがその残りが、このほど世に広まりました。とても趣きがございました。帝(第九十六代後醍醐天皇)は、思いのほかおよろこびになられて、『続後拾遺和歌集』と名付けられたのでございます。中宮大夫師賢(花山院師賢)に命じられて、『続後拾遺和歌集』のすばらしさを、様々に申されました、返しに、為定から、

今に知ったことは、わたしが集めた数々の玉(和歌)に、我が身を照らす光があったことでございます。

返し、後醍醐天皇の御製([天皇の作る詩文や和歌])、
お前が集めたこの玉(和歌)が廃れることなければ、この『続後拾遺和歌集』が我が御代の光となるであろう。


続く


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by santalab | 2014-08-30 10:19 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」つげの小櫛(その25)

あはれに見奉らせ給ひつつ、名残りもいみじく眺められて、勾欄かうらんに押しかかり給へるゆふばえの御かたち、いとめでたし。ありつる紅葉もみぢを、西園寺さいをんじの大納言公顕きんあき宿所所とのゐどころへ遣はす。

雨と降る 涙の色や これならん 袖より外に 染むる紅葉葉

女院の御兄弟せうとなれば、しめやかなる御山住みの心苦しさに、さぶらひ給ふなりけり。御返事かへりごと
いくしほか 涙の色の 染めつらん 今日を限りの 秋の紅葉葉




あはれに見奉らせ給ひつつ、名残りもいみじくながめられて、勾欄かうらんに押しかかり給へるゆふばえの御かたち、いとめでたし。この紅葉を、西園寺大納言公顕(西園寺公顕)の宿所所へ届けられました。

雨の如く降る涙色をしております。袖よりこぼれた涙で染まったのです、この紅葉葉は。

女院(第九十代亀山院の妃、西園寺瑛子えいし)の弟でしたので、侘しい山住まいの心苦しさに、ここににおられました。返事、
どれほど(幾入いくしほ)の涙に染められたのでしょうか。まるで今日を限りの秋と思えるほどに色付いた紅葉葉ですね。


続く


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by santalab | 2014-08-30 10:14 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」つげの小櫛(その24)

そち御子みこは、大多勝院だいたしようゐんの西のひさしに渡らせ給ふ。御まへの松の木には引かかれるつたの、紅葉もみぢの、いたう染め焦がすがしたるを取りて、九月三十日の夕つ方、昭訓門院の御方へ奉らせ給ふ。

あすよりの 時雨もまたで 染めてけり 袖の涙や つたの紅葉葉

木の葉よりもろき御涙は、ましていとど堰き兼ね給へりし。御かへし、
よもは皆 涙の色に 染めてけり 空にはぬれぬ 秋の紅葉葉




帥の皇子(帥宮。尊治たかはる親王)は、大多勝院(亀山殿。現京都市右京区)の西の廂([寝殿造りで、母屋もやの外側に張り出して付加された部分])に移られました。御前の松の木に絡んだ蔦が、紅葉して、鮮やかに色を染めているのを取って、九月三十日の夕方、昭訓門院(第九十代亀山院の妃、西園寺瑛子えいし)の方へ届けられました。

明日降る時雨も待たずに、蔦の葉が色付きました。袖の涙のせいなのでしょうか。

木の葉よりもろい涙を、止めることはむずかしいことでございます。お返し、
まさか涙色に染まっているとは(あまりに悲しい時、血の涙を流すという)。雨に濡れてもいない秋の紅葉葉なのに、それほどに嘆きは深かったのでしょう。


続く


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by santalab | 2014-08-30 10:04 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」つげの小櫛(その23)

院の二の御子みこの御母、忠継ただつぐの宰相の娘、今は准后と聞こゆる御腹におはします。この頃帥宮そちのみやと聞こゆるを、法皇とりわき御かたはら去らず馴らはし奉り給ひて、いみじうらうたがり聞こえさせ給ひしかば、人より異に思し歎くべし。頃さへ時雨がちなる空の気色に、山の木の葉も涙争ふ心地して、いと悲し。所がらしもいとどあはれを添へたり。川浪の響き、戸無瀬となせの滝の音までも、取り集めたる御心のうちどもなり。御日数ひかずのほどは、そちの宮一つ御腹の内親王なども、この院におはしますほど、徒然なるままに、はかなし事など聞こえ交はして、花紅葉はなもみぢにつけても、睦ましく馴れ聞こえ給ふべし。




院(第九十一代後宇多院)の第二皇子(尊治たかはる親王)の母は、忠継宰相(五辻忠継)の娘(五辻忠子ちゆうし)、今は准后と呼ばれておられます子でございました。この頃は帥宮と呼ばれておられましたが、法皇(第九十代亀山院)はとりわけそばから離さず、たいそう大切にされておられたそうでございますれば、人よりさらに嘆き悲しまれたことでございましょう、頃は時雨がちな空の景色に、山の木の葉も涙を争う心地して、たいそう物悲しくございました。場所がらもいっそう哀れを誘うのでございました。川浪の響き、戸無瀬([京都、嵐山付近の地名])の滝の音までも、心の内に悲しく響くのでございました。忌中のほどは、帥宮(尊治たかはる親王)と同母の内親王(奨子しようし内親王)なども、この院におられましたが、徒然なるままに、果なし事([とるに足りないようなこと])などを話されて、花紅葉を見るにつけても、睦ましく話されるのでございました。


続く


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by santalab | 2014-08-30 08:50 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」つげの小櫛(その22)

同じき二十六日、院のうへ、御素服そふく奉る。おはします殿には、黒き糸にて編みたるすだれをかけらる。浅黄べりのござに、うへ御衣おんぞは黒く、上の御袴は、裏柑子色かんじいろ、御下襲したがさねも黒し。同じ引倍木ひへぎ、浅黄の御桧扇ひあふぎ、御台まゐるも皆黒き御調度てうどどもなり。この御ついでに、御方々も御素服奉る。人数、昭訓門院せうきんもんゐん昭慶門院せうけいもんゐんは御娘、近衛殿このゑどのの北政所、関白殿の北政所、良助りやうじよ法親王、覚雲かくうん順助じゆんじよ慈道じだう性恵しやうゑ益性やくしやう行仁ぎやうにん性融しやうゆう法親王たち、上達部も、御山の御供し給ふ人々皆漏れず。院の二の御子の御母も、近来は法皇召し取りて、いと時めかせて、准后じゆんこうなど聞こえつれば、思ひ歎き給ふべし。昭訓門院は、やがて御髪みぐし下ろし給ふ。法皇は五十七にぞならせ給ひける。御骨も、この院に法華堂ほつけだうを建ててをさめ給へば、亀山の院とぞ申すべかんめる。禅林寺ぜんりんじ殿をば、おはしましし時より禅院になされき。南禅院と言ふはこれなんめり。




同じ九月二十六日、院の上(第九十一代後宇多院)は、素服([喪服])に替えられました。おられる殿には、黒糸で編んだ簾をかけられました。浅黄の縁のござに、上の衣は黒く、上袴([束帯のとき、大口袴の上にはく袴])は、裏は柑子色([赤みがかった黄色])、下襲([束帯の内着])も黒うございました。同じ引倍木([夏用のひとへの衣])、浅黄の桧扇([宮中で用いられた木製の扇])、御台([天皇や貴人の食事])にも皆黒い調度を用いられました。後宇多院とともに、方々も素服に替えられました。人数、昭訓門院(第九十代亀山院の妃、西園寺瑛子えいし)、昭慶門院(第九十代亀山天皇の第二皇女、憙子きし内親王)は娘でございました、近衛殿(近衛家基いへもと?)の北政所(亀山天皇の皇女?)、関白殿(九条師教もろのり?)の北政所(亀山天皇の皇女?)、良助法親王(亀山天皇の第四皇子)、覚雲(第七皇子)、順助(第九皇子)、慈道(第十一皇子)、性恵、益性、行仁、性融法親王たち、上達部も、葬送のお供をした人々は一人残らず衣を替えられました。院(第九十一代後宇多院)の第二皇子(尊治たかはる親王)の母(五辻忠子ちゆうし)も、近頃は法皇(亀山院)の許に参り、たいそう時めかれて、准后などと呼ばれておりましたので、嘆き悲しまれました。昭訓門院(西園寺瑛子えいし)は、やがて髪を下ろされました。法皇(亀山院)は五十七でございました。御骨も、亀山院(現京都市右京区にある天龍寺内)に法華堂(亀山殿法華堂)を建てて納められましたので、亀山院と申します。禅林寺殿を、おられた頃より禅院になされました。南禅院(現京都市左京区にある南禅寺)と呼ばれているのはそういう訳でございます。


続く


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by santalab | 2014-08-30 08:44 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」春の別れ(その17)

若宮三所、姫宮などもおはしましけり。御息所みやすどころの御腹にはあらねど、いづれをも今は昔の御形見とあはれに見奉らせ給ふ。卯月の末つ方、夏木立なつこだち心よげに茂り渡れるも、羨ましく眺めさせ給ふ。暁方、ほととぎすの鳴き渡るも、『いかに知りてか』と、御涙のもよほしなり。

もろともに 聞かましものを 郭公 枕並べし 昔なりせば




若宮が三人、姫宮もおられました。御息所(第九十一代後宇多天皇皇女、ばい子内親王 )の子ではありませんでしたが、いずれも邦良くによし親王(第九十四代後二条天皇の第一皇子)の形見と思われて悲しく思われるのでございました。卯月([陰暦四月])の末のこと、夏木立が心よさげに茂っているのを、羨ましく眺められておられました。暁方、ほととぎすが鳴き渡るのを、『どうして親王がお亡くなりになったのを知っているのでしょう』(『いにしへの こと語らへば ほととぎす いかに知りてか 古声のする』=『昔の話をしていることを、どうして知ったのかほととぎすよ。あの時と同じ声で鳴いている』)と申して、涙を流されたのでございます。

今年もご一緒に聞きたかったほととぎすの声が聞こえます。枕を並べて聞いたのはもう昔のことでございますね。


続く


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by santalab | 2014-08-29 08:46 | 増鏡 | Comments(0)

    

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