Santa Lab's Blog


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「松浦宮物語」二(その57)

父は若うて失せにければ、このかみぞ衛将軍とて、今の御代に時なるべけれど、世をさまりて後は、「外戚のまつりごとに臨む、世の乱るるもとゐなり」とのたまひて、人に勝るるかへり見もなし。ただ身のざえ、心の賢きを選ばれて、人を用いらるれば、各々心を添へて、世の治らむ政を思ひ励むべし。高きに奢らず、安きに怠らず、うち休む隙もなく、身づからも務め給ふ御心おきてをはじめ、いささかの隙あるべくもなく、磨ける珠の如見え給ふ御様、前の世ゆかしう、昔のためしあり難げなり。




后の父は若くして亡くなりました、后の兄が衛将軍([前漢以降の官職名])として、今の時代に時めくべきでしたが、世が治まって後は、「外戚が政治に口を挟めば、世が乱れる基になる」と申されて、人に勝って帝を支えることもありませんでした。ただ才能ある者、心のしっかりした者を選ばれて、人を用いたので、下臣たちも心から、世が治まる政に励みました。身分高きに奢らず、身の安泰に怠ることもなく、休む隙もありませんでした、后みずからも心を正されて、いささかも怠られず、ましてまるで磨かれた珠のように美しくありましたので、前世のほども思い出されるほどに、昔にも例のないほどの善政でした。


続く


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by santalab | 2014-11-30 09:11 | 松浦宮物語 | Comments(0)


「松浦宮物語」二(その56)

「外臣の賎しき身を捨てられず、忝き許され侍らば、遥けき浪の上を行き来の道としても、いかでかは、我が君の御慈しみを忘れ侍らむ」と奏するを、后もとほく聞こし召して、少しうちませ給ひて、「遠き海を渡り、さがしき山を越えて、わづらひなく過ぐしつべき月日をだに、さしも急がるるかへるさの船出を、また思ひ立たれむ長道こそ、もしまことと頼む人あらば、いとをこがましかるべけれ」とのたまはする御気配けはひも、怪しうのみ守られて、「もし離れぬ御所縁などに、うち紛れぬべきたぐひやあらむ」と思ひ寄れど、五官中郎将らうしやう鄧無忌とうふきと言ひける人の一つ娘、十三にて宮の内に選ばれまゐり給ひける、かたちの優れ給へるによりて、ほどなく位を進めて、十七にて后に立ち給へると言ふなれば、姉おととなどにおはせず。




「異国の外臣の賎しい身でありながら、かたじけなくも帝の御前を許されて、遠く浪の上を帰るとも、どうして、我が君の慈しみを忘れることがございましょう」と申し上げるのを、后も遠くで聞かれて、少し微笑まれて、「遠き海を渡り、険しき山を越えて、難なく月日も過ぎて、また早や帰るそなたの船出を、遥かに見送らねばならないことを悲しく思います、もしやそなたを留める人やあればと、おこがましくも思います」と申されるその表情は、不思議なほどに弁少将を見つめておられて、「もし離れぬほどの所縁あってのことか、后に会ったのもまた運命か」と思いました、后は五官中郎将([中国の前漢以降の官職名])鄧無忌という人の一人娘でした、十三歳で宮内に参りましたが、顔かたちに優れ、ほどなく位は上がり、十七で后に立たれたということでした、弁少将にとっては姉弟とも言えぬほどに若くありました。


続く


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by santalab | 2014-11-30 09:06 | 松浦宮物語 | Comments(0)


「松浦宮物語」二(その55)

思ひ乱るる積もりにや、悩ましうさへなりて、今日けふは立ち出づべき心地もせねど、あやにくく出でおはしましぬとて、まゐり集まるおとなひしるしければ、例の遥かにさぶらひ暮らせど、見し夢の迷ひに心の乱れて、「人の問ふまでや」と慎ましうのみなりまされば、いとどをさしづまりて候ふ。御門、例のなつかしう語らはせ給ふ。「春を過ぐしてと聞きし日数も、無下に残りなくなりぬるこそ。またいつと聞かむ月日をだに、しか習ひては、いかばかり待ちどほに思ゆべきを、かくて止みなむこそ言ふ甲斐かひなけれ」とて、押しのごはせ給ふ。いみじうおよすげて、あはれに忝く見奉る。「なぞや。あぢきなかりける契りのほどかな。かばかりなる御気色に馴れ聞こえて、あながちに急ぐ心よ」とうち思ゆる心弱けれど、様々乱るる節ぞおほかりける。




思い乱れること積もり、病むほどになれば、今日は出仕する気も起きませんでしたが、帝がすでにお出になられたと、参り集まる物音が聞こえて、弁少将はいつものように御前の遥かに着きましたが、夢の中を彷徨っているような気がして心は乱れ、「人の問ふまでや」(『忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 』。平兼盛かねもり)と人目が気になって、いっそう気配りして心を鎮めようと務めるのでした。帝は、いつものように親しげに申されました。「春を過ぎれば国へ帰ると聞くが残る日数も、あとわずか。またいつか再会できる別れさえも、親しくなれば、どれほど待ち遠しいものかと思うが、再び会えぬ別れなれば言葉もない」と申されて、涙を押し拭われました。帝はたいそう大人びて、申されるので弁少将はかたじけなく思うのでした。「どうしてなのか。思うに任せない契りとでも言うべきか。これほどまでに帝が悲しまれておられるというのに、帰国を待ち遠しく思うのは」と心弱く思い、様々心乱れることばかりまさりました。


続く


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by santalab | 2014-11-30 09:01 | 松浦宮物語 | Comments(0)


「増鏡」月草の花(その22)

先陣は二条とみの小路の内裏に着かせ給ひぬれど、後陣のつはものは、なほ、東寺の門まで続き控へたりしとぞ聞こえしは、まことにやありけん。正成まさしげつかうまつれり。かの名和の又太郎は、伯耆ははきかみになりて、それも衛府ゑふの者どもにうち交じりたる、めづらしく様変はりて、揺すり満ちたる世の気色、「かくもありけるを、など浅ましくは歎かせ奉りたりけるにか」と、めでたきにつけても、なほさきの世のみ床し。車など立ち続きたる様、ありし御下りにはこよなく勝れり。物見ける人の中に、

昔だに 沈むうらみを 隠岐の海に 波立ち返る 今ぞ賢き

昔の事など思ひ合はすにやありけん。




先陣は二条富小路の内裏(西園寺実氏さねうぢの邸宅の一つであった冷泉富小路殿)に着きましたが、後陣の兵は、まだ、東寺(現京都市南区にある寺)の門まで続いていたという事ですが、本当でしょうか。正成(楠木正成)も参列しておりました。あの名和又太郎(名和長年ながとし)は、伯耆守となって、衛府の者たちに混じって後醍醐院を警固しました。世の中はかつてないほどに様変わりして、騒ぎ合っておりましたが、「帝のようなお方を、どうして嘆かわしくも悲しませることがあったのでございましょう」と、おめでたい姿を見るにつけ、以前の世の中をなつかしく思うのでした。車などが続く様は、後醍醐院が隠岐に下られた時とはまるで比べようもございませんでした。見物していた者の中に、

昔の嘆き恨みを隠岐の海に捨てて、波となられて都に帰られるとは、なんとすばらしいことでしょう。

後白河院(第八十二代天皇)が隠岐に移された昔を思って詠んだのでしょうか。


続く


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by santalab | 2014-11-30 08:07 | 増鏡 | Comments(0)


「太平記」山崎攻の事付久我畷合戦の事(その5)

そのそのいきほ参然さんぜんたるに辟易して、官軍くわんぐん数万すまん士卒じそつ、すでに開き靡きぬとぞ見へたりける。ここに赤松の一族に佐用さよ佐衛門三郎範家のりいへとて、強弓つよゆみの矢継ぎ早や、野伏戦に心利きて、卓宣たくせん公がせしところを、我が物に得たるつはものあり。わざと物の具を脱いで、歩立かちだちの射手いてに成り、くろを伝ひ、薮をくぐつて、とある畔の陰に縫はれ臥し、大将に近付いて、一矢狙はんとぞ待つたりける。尾張をはりかみは、三方さんぱうの敵を追ひまくり、鬼丸に付きたる血を笠符かさじるしにて押しのごひ、あふぎ開きつかふて、思ふ事もなげに控へたるところを、範家近々と狙ひ寄つて引き詰めてちやうと射る。その矢思ふ矢壺を不違、尾張の守が兜の真つかふはづれ、眉間の真ん中に当たつて、脳を砕き骨を破つて、首の骨の外れへ、矢先白く射出したりける間、さしもの猛将まうしやうなれども、この矢一隻に弱つて、馬よりまつさかさまにどうど落つ、範家えびらを叩いて矢叫びを成し、「寄せ手の大将名越なごや尾張の守をば、範家がただ一矢に射殺したるぞ、続けや人々」と呼ばはりければ、引き色に成りつる官軍くわんぐんども、これに機をなほし、三方より勝つどきを作つて攻め合はす。尾張をはりかみ郎従らうじゆう七千余騎、しどろに成つて引きけるが、あるひは大将を討たせていづくへか可帰とて、引つかへして討ち死にするもあり。あるひは深田ふかたに馬を馳せ込うで、叶はで自害するもあり。されば狐川きつねがははたより鳥羽の今在家いまざいけまで、その道五十ごじふ余町よちやうが間には、死人尺地せきぢもなく伏しにけり。




名越尾張守(北条高家たかいへ)の勢いにあっけに取られて、官軍数万の士卒([軍兵])は、すでに潰滅するように見えました。ここに赤松(赤松氏)の一族で佐用佐衛門三郎範家(佐用範家)と申して、強弓の矢継ぎ早や、野伏戦(ゲリラ戦)に長けて、卓宣公(魯宣公。中国春秋時代)が秘せしところ(『孫子兵法』)を、会得した兵がいました。物の具([武具])を脱いで、歩兵の射手となり、あぜを伝い、薮を潜って、とある畔の陰に隠れ伏して、一矢狙おうと機会を窺っていました。尾張守(北条高家)は、三方の敵を追いまくり、鬼丸に付いた血を笠符で押し拭い、扇を開いて、敵に気付くこともなく一休みしているところを、範家は近々と狙い寄ると弓を引き詰めて矢を射ました。矢は思った矢壺([矢を射るときにねらいを定める所])を外れず、尾張守の兜の真っ向の外れ、眉間の真ん中に当たって、脳を砕き骨を砕いて、首の骨の外れへ、矢先が突き抜けました、さすがの猛将も、この矢一つに弱って、馬よりまっさかさまに落ちました、範家は箙([矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器])を叩いて矢叫び([矢を射当てた時,射手があげる声])して、「寄せ手の大将名越尾張守(北条高家)を、範家がただ一矢に射殺したぞ、続けや人々よ」と大声上げたので、兵を引いていた官軍どもは、これに機を再び得て、三方より勝つ鬨を作って攻め合わせました。尾張守の郎従([家来])七千余騎は、力なく兵を引きましたが、ある者は大将を討たれていずこへ帰るべきと、引き返して討ち死にするもいました。ある者は深田に馬を馳せ込んで、仕方なく自害する者もいました。こうして狐川(現京都府京田辺市田辺狐川)の端より鳥羽の今在家(現京都市伏見区深草今在家町)まで、その道五十余町(約5km)の間には、死人が尺地([わずかな土地])もなく倒れ伏していました。


続く


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by santalab | 2014-11-29 09:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山崎攻の事付久我畷合戦の事(その4)

さるほどに搦め手の大将足利殿は、未明びめいに京都を立ち給ひぬと披露ありければ、大手おほての大将名越なごや尾張をはりかみ、「さては早や人に先を被懸ぬ」と、不安思ひて、さしも深き久我畷こがなはての、馬の足も立たぬ泥土でいどの中へ馬を打ち入れ、我先にとぞ進みける。尾張の守は、元より気早やの若武者なれば、今度の合戦、人の耳目じもくを驚かすやうにして、名を上げんずるものをと、兼ねてあらましの事なれば、その日の馬・物の具・笠符かさじるしに至るまで、当たりをかかやかして被出立たり。花緞子くわどんすの濃きくれなゐに染めたる鎧直垂よろひひたたれに、紫糸の鎧金物よろひかなもの繁く打つたるを、透間もなく着下して、白星しらほしの五枚兜の吹きかへしに、日光・月光の二天子を金と銀とにて彫りかして打つたるを猪首ゐくびに着成し、当家累代たうけるゐだい重宝ちようはうに、鬼丸と云ひける黄金作こがねづくりの円鞘まるざやの太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添へ、鷹護田鳥尾たかうすべをの矢三十六さんじふろく差いたるを、筈高はずだかに負ひ成し、黄瓦毛きかはらげの馬の太くたくましきに、三本唐傘を金具かながひに磨つたる鞍を置き、厚総あつぶさしりがいの燃え立つばかりなるを懸け、朝日の陰にかかやかして、光渡つて見へたるが、ややもすれば軍勢より先に進み出でて、あたりを払つて被懸ければ、馬・物の具のてい軍立いくさたちのやう、今日の大手の大将はこれなめりと、知らぬ敵はなかりけり。されば敵も自余の葉武者どもには目を不懸、ここに開き合はせかしこに攻め合ひて、これ一人を討たんとしけれども、鎧よければ裏かかする矢もなし。打ち物達者たつしやなれば、近付く敵を斬つて落とす。




さるほどに搦め手の大将足利殿(足利高氏)は、未明に京都を立ったと知らせがあったので、大手の大将名越尾張守(北条高家たかいへ)は、「すでに足利殿に先を越されたか」と、不安に思い、とても深い久我畷(鳥羽=現京都市南区・伏見区。から山崎=現京都府乙訓郡大山崎町。に通じる路)の、馬の足も立たない泥土の中へ馬を打ち入れ、我先にと進みました。尾張守は、元より気の早い若武者でしたので、今度の合戦で、人の耳目を驚かすほどに、名を上げようと、かねてより考えていたので、その日の馬・物の具([武具])・笠符にいたるまで、あたり輝くほどに主発しました。花緞子([花模様の付いた緞子=繻子織〔サテン〕地に繻子織の裏組織で模様を織り出した織物])の濃い紅に染めた鎧直垂([衣の下に着る衣])に、紫糸の鎧金物を数多く打った鎧を、透間もなく着て、白星([兜の星の銀色のもの])の五枚兜([五段のしころ=兜の鉢から左右や後方に垂れて首を覆うもの。を下げた兜])の吹き返し([兜の左右の錏の両端が上方へ折れ返っている部分])に、日光・月光([薬師如来の左右脇に侍する菩薩])の二天子を金と銀とにて彫り透かして打った兜を猪首([兜をあおむけてかぶること])にかぶり、当家累代の重宝で、鬼丸という黄金作り([金または金めっきの金具で作ったり、装飾したもの])の円鞘([軍陣用の肉厚の太刀を納めるためにこしらえた、断面が楕円形に近い鞘])の太刀に、三尺六寸(約108cm)の太刀を添えて、高薄部尾([薄部尾=薄黒い斑点のあるオジロワシの尾羽。の斑の部分が多いもの])の矢を三十六本差したえびらを、筈高([箙=矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器。に入れて背負った矢の矢筈が高く現れて見えること])に負い、黄瓦毛([黄白色で、 たてがみ・下肢・ひづめが黒いもの])のたくましい馬に、三本唐傘(桓武平氏維将流北条氏流の紋)を金具に付けた鞍を置き、厚総([馬具で、面繋おもがい胸繋むながい尻繋しりがいの各部につけた糸の総を特に厚く垂らしたもの])の鞦([尻繋]=[馬の尾の下から後輪しづわしおで=革紐の輪。につなぐ紐])に燃え立つばかりに赤いものを懸け、朝日の光に輝かして、きらめいていました、ややもすれば軍勢より先に進み出て、あたりを散らして駆けたので、馬・物の具の様、軍立ち([戦いぶり]を見て、今日の大手の大将はこの者だと、知らぬ敵はいませんでした。なれば敵もほかの葉武者([身分の低い、取るに足りない武者])どもには目をかけず、こちらに開き合わせあちらに攻め合い、これ一人を討とうとしましたが、よい鎧を着ていたので裏を通す矢もありませんでした。打ち物([太刀])の達者でしたので、近付く敵を斬っては落としました。


続く


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by santalab | 2014-11-29 09:49 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山崎攻の事付久我畷合戦の事(その3)

八幡やはた・山崎の官軍くわんぐんこれを聞いて、さらば難所なんじよに出で合つて不慮に戦ひを決せしめよとて、千種ちぐさとう中将ちゆうじやう忠顕ただあき朝臣は、五百余騎にて大渡おほわたりの橋を打ち渡り、赤井河原あかゐかはらに被控。結城ゆふき九郎左衛門くらうざゑもんじよう親光ちかみつは、三百余騎にて狐川きつねがはの辺に向かふ。赤松入道円心ゑんしんは、三千余騎にて淀・古川ふるかは久我畷こがなはての南北三箇所に陣を張る。これ皆強敵がうてきを取りひしぐ機、天を廻らし地を傾くと云ふとも、機を解きいきほひを被呑とも、今上いまのぼりの東国勢一万余騎に対して可戦とは見へざりけり。足利殿は、兼ねて内通の子細ありけれども、もしたばかりやし給ふらんとて、坊門ばうもんの少将雅忠まさただ朝臣は、寺戸と西岡の野伏ども五六百人駆りかりもよほして、岩蔵いはくら辺に被向。




八幡(現京都府八幡市)・山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)の官軍はこれを聞いて、ならば難所で待ち構えて一気に戦いを決しようと、千種頭中将忠顕朝臣(千種忠顕)は、五百余騎で大渡(宇治川、桂川の合流地点。山崎辺)の橋を打ち渡り、赤井河原(桂川の西側にあった洲)に控えました。結城九郎左衛門尉親光(結城親光)は、三百余騎で狐川(現京都府京田辺市田辺狐川)の辺に向かいました。赤松入道円心(赤松則村のりむら)は、三千余騎にて淀(現京都市伏見区)・古川(現京都市東山区)・久我畷(鳥羽=現京都市南区・伏見区。から山崎に通じる路)の南北三箇所に陣を張りました。これらの者は皆強敵を押しつぶそうとその思いは、天を廻らし地を傾けるほどでしたが、敵の機を失し勢いをくじくとも、今上りの東国勢一万余騎に対して敵うようには見えませんでした。足利殿(足利高氏)は、かねて内通の旨を申していましたが、もしや謀略かもしれないと、坊門少将雅忠朝臣(坊門雅忠)は、寺戸(現京都府向日市寺戸町)と西岡(現京都府乙訓郡西岡)の野伏ども五六百人を急ぎ集めて、岩蔵(現京都市左京区)辺に向かいました。


続く


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by santalab | 2014-11-29 09:41 | 太平記 | Comments(0)


「増鏡」月草の花(その21)

六月六日、東寺より、常の行幸の様にて、内裏へぞ入らせ給ひける。めでたしとも、言の葉なし。「去年の春いみじかりしはや」と思ひ出づるも、たとしへなく、今も御供の武士ども、ありしよりは、なほ、幾重いくへともなくうち囲み奉れるは、いとむくつけき様なれど、こたみは、うとましくも見えず。頼もしくて、めでたき御守りかなと思ゆるも、打ち付け目なるべし。世の習ひ、時につけて移る心なれば、皆さぞあるらし。




六月六日に、東寺(現京都市南区にある寺)より、いつもの行幸のように、内裏へ入られました。そのめでたさは、言葉にできないものでございました。「去年の春は寂しいものであった」と思いだされるのも、例えようもなく、今の供の武士たちは、かつてより、数多く、幾重にも回りを囲んで、とても恐ろしいものでございましたが、この度は、疎ましそうには見えませんでした。かえって頼もしくて、名誉ある警固と思われて、ちらり目を向けられました。世の中と申すもの、時が移れば心も変わるものですれば、いずれにせよそういうものでございましょう。


続く


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by santalab | 2014-11-29 08:33 | 増鏡 | Comments(0)


「太平記」山崎攻の事付久我畷合戦の事(その2)

りやう六波羅も名越なごや尾張をはりかみも、足利殿にかかるくはだてありとは思ひも可寄事ならねば、日々に参会さんくわいして八幡やはた・山崎を可被責内談評定ないだんひやうぢやう、一々に心底を不残被尽さけるこそはかなけれ。「大行之路能摧車、若比人心夷途。巫峡之水能覆舟、若比人心是安流なり。人心好悪苦不常」とは云ひながら、足利殿は代々代々相州さうしうの恩を戴き徳を荷つて、一家いつけの繁昌おそらくは天下の肩を可並もなかりけり。そのうへ赤橋さきの相摸のかみの縁に成つて、君達きんだち数多あまた出で来給ひぬれば、この人よも二心ふたごころはおはせじと相摸入道にふだうひたすらに被憑けるもことわりなり。四月二十七日にじふしちにちには八幡・山崎の合戦と、兼ねてより被定ければ、名越尾張の守大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作り道より被向。足利治部ぢぶ大輔たいふ高氏たかうぢは、搦め手の大将として五千余騎、西岡にしのをかよりぞ被向ける。




両六波羅(北方は北条仲時なかとき、南方は北条時益ときます)も名越尾張守(北条高家たかいへ)も、足利殿(足利高氏)にこのような企みがあるとは思いも寄らず、日毎に参会して八幡(現京都府八幡市)・山崎(現京都府乙訓郡大山崎町)を攻めるべく内談評定([内々での話し合い])を、残すところなく尽くしましたが無益なことでした。「大行の路は車を砕くほど険しいが、人の心に比べればなんてことはない。巫峡([中国・長江三峡の二番目の峡谷])の流れは舟を覆すが、人の心に比べればなんてことのない流れよ。人心の好悪苦の思いは常に変わるものだ」とはいうものの、足利殿(高氏)は代々相州(赤橋守時もりとき。登子の兄。相模守)の恩を受け徳を支えて、一家の繁昌はおそらく天下に肩を並べる者はいませんでした。その上赤橋前相摸守(赤橋守時)と縁になって(足利高氏の正室は、守時の娘登子なりこ)、君達も多くいましたので、高氏が謀反の心を持っていはずもないと相摸入道(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)もひたすら頼りにしていましたがもっともなことでした。四月二十七日には八幡・山崎の合戦と、かねてより決めていたので、名越尾張守(北条高家)は大手([敵の正面に当たる軍勢])の大将として七千六百余騎、鳥羽の作り道([新道])より向かいました。足利治部大輔高氏(足利高氏)は、搦め手([敵陣の後ろ側を攻める軍勢])の大将として五千余騎、西岡(現京都府乙訓郡西岡)より向かいました。


続く


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by santalab | 2014-11-28 12:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山崎攻の事付久我畷合戦の事(その1)

りやう六波羅は、度々の合戦に打ち勝ちければ、西国さいこくの敵恐るるに不足と欺きながら、宗との勇士と被憑たりける結城ゆふき九郎左衛門くらうざゑもんじようは、敵に成つて山崎の勢にくははりぬ。その外、国々の勢ども五騎十騎、あるひは転漕てんさうに疲れて国々に帰り、あるひは時の運をはかつて敵にしよくしける間、宮方は負くれども勢いよいよ重なり、武家は勝てどもつはもの日々に減ぜり。かくてはいかが可有と、世をあやぶむ人多かりけるところに、足利・名越なごやの両勢また雲霞の如く上洛しやうらくしたりければ、いつしか人の心替はつて今は何事か可有と、色をなほして勇み合へり。かかるところに、足利殿は京着きやうちやくの翌日より、伯耆はうき船上ふなのうへひそかに使ひをまゐらせて、御方に可参由を被申たりければ、君殊に叡感あつて、諸国の官軍くわんぐん相催あひもよほ朝敵てうてきを可御追罰由の綸旨をぞ被成下ける。




両(南北)六波羅は、度々の合戦に打ち勝って、西国の敵恐れるに足らずとうそぶいていましたが、主だった勇士と頼りにしていた結城九郎左衛門尉(結城親光ちかみつ。結城宗広むねひろの次男)が、敵となって山崎の勢に加わりました。そのほか、国々の勢どもが五騎十騎と、ある者は転漕([兵糧を陸と海から運ぶこと])に疲れて国々に帰り、ある者は時の運を窺って敵になったので、宮方(後醍醐院方)は負けても勢はますます増えて、武家(鎌倉幕府方)は勝っても兵は日々に減り続けました。このままではどうなることかと、世を危ぶむ者が多くいましたが、足利(足利高氏たかうぢ)・名越(北条高家たかいへ)の両勢が雲霞の如く上洛したので、いつしか人は心変わりして今は何事も心配あるものかと、顔色を戻して勇み合いました。やがて、足利殿(高氏)は京着の翌日より、伯耆の船上(現鳥取県東伯郡琴浦町にある山)に密かに使いを参らせて、味方に参る由を申されると、君(第九十六代後醍醐院)はとりわけうれしく思われて、諸国の官軍を集め朝敵(鎌倉幕府)を追罰すべきとの綸旨を下されました。


続く


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by santalab | 2014-11-28 12:23 | 太平記 | Comments(0)

    

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