Santa Lab's Blog


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「松浦宮物語」三(偽跋その1)

この物語、高き代の事にて、歌も言葉も、様ことに古めかしう見えしを、蜀山の道のほとりより、さかしき今の世の人の作り変へたるとて、無下に見苦しき事ども見ゆめり。いづれかまことならむ。唐土もろこしの人の「うちぬるなか」と云ひけむ、空言の中の空言をかしう。


貞観ぢやうぐあん三年四月十八日、染殿の西のたいで書き終はりぬ。


花非花霧非霧 夜半来天明去
来如春夢幾多時 去似朝雲覓処




この物語は、ずいぶん昔の話なので、歌も言葉も、今とはちがって古めかしく感じられますが、蜀山の道(「松浦宮物語」二)のあたりから今の世の人が作り変えて、まったく趣きを失っているところも見受けられます。元はどうだったのでしょう。唐土の人(宋玉そうぎよく)が「うちぬるなか」(『怠而昼寝 夢見一夫人』?)と書いた、空言の中の空言(夢の中での夢のような話)である『高唐賦』(楚の懐王が高唐で遊び疲れて昼寝をした時、夢の中で巫山ぶざんの神女と通じた。神女が去って行く時、朝には朝雲、暮れには通り雨となって参りましょうと申して、その通りになったという話)と申した、そのような話なのです。


貞観三年(861)四月十八日に、染殿(藤原良房よしふさの邸宅)の西の対屋で写し終わりました。


あなたは花のようにかぐわしいけれど花でもなく霧のように朧げながら霧ではない。
夜になるとやって来て夜が明けると去って行く。あなたはまるで朝雲のように去り、わたしだけが残されるのだ。(白居易)


続く


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by santalab | 2015-01-31 08:48 | 松浦宮物語 | Comments(0)


「増鏡」今日の日影(その6)

女房のよそひ、押し並べて皆蘇芳すはうの張り単襲ひとへがさねくれなゐ引倍木ひへぎ・濃き袴・蘇芳の表着うはぎ青朽葉あをくちばの唐衣・薄色の三重襷みへだすき、上下同じ様なり。まゐり給ひぬれば、蔵人左衛門権佐俊光としみつうけたまはりて、手車の宣旨あり。殿上人参りて御車引き入れ、御せうとの中納言公衡きんひら、別当兼ね給へり。うへの御をひの左衛門督通重みちしげ、御兄になずらうる由聞こゆれば、御屏風・御几帳きちやう立てらる。御座ござへ御車寄せらる。御ふすま、二位殿参らせ給ふ。御台参りて、やがて夜の御殿おとど詣上まうのぼり給ふ。この御衾は、京極院きやうごくゐんのめでたかりし例とかや聞こえて、公守きんもりの大納言、沙汰しまうされけるとかやうけたまはりしは、まことにや侍りけん。三箇夜のもちひも、やがてかの大納言沙汰しまうさる。内のうへの、夜の御殿おとどへ召して入らせ給へる御草鞋さうかいをば、二位殿取りて出でさせ給ひて、大納言殿と二人の御中に抱きて寝給ふと聞こえし。先々もさる事にてこそは侍りけめ。




女房の装いは、皆蘇芳([黒味を帯びた赤色])の張り単襲([裏をつけずに、袖口・裾などのへりって仕立てた単衣ひとえぎぬを数枚重ねること])・紅の引倍木([あこめ=中着。の裏を引きはがして仕立てた夏用のひとへの衣])・赤色の袴・蘇芳の表着([衣を重ねて着るとき、一番上に着る衣])・青朽葉([青みを帯びた朽葉色])の唐衣([装束の一番上に着用する上半身だけの短衣])・青色の裳([腰部から下の後方だけにまとった服])・三重襷([斜線を交差させた中に菱を入れ、 さらにその中に花菱や四つ菱を入れた文様])、上下とも同じ姿でございました。女御(西園寺鏱子しようし)が参られると、蔵人左衛門権佐俊光(日野俊光)がこれを知らせると、手車の宣旨([てぐるまの宣旨]=[車に乗って内裏に出入りすることを許されること])がございました。殿上人が参って車を引き入れました、兄である中納言公衡(西園寺公衡)が、別当([長官])を兼ねておられました。上(中院顕子あきこ。西園寺鏱子しようしの生母)の甥の左衛門督通重(中院通重)も、兄(西園寺公衡)と同じく扱われるように命じられて、屏風・几帳が立てられました。昼の御座([天皇の昼間の座所])に車を着けられました。衾([夜具])は、二位殿(中院顕子あきこ)が参らせました。御台([飯・菜などを盛った器をのせる長方形の台])が参り、やがて夜の御殿([天皇の寝所])へ上られました。衾は、京極院(第九十代亀山天皇皇后、洞院佶子きつし)の吉例とか申されて、公守大納言(洞院公守)が、取り計らわれたとお聞きしましたが、本当でございましょうか。三箇夜の餅([結婚当夜から三日間にわたって御殿にお祝いの餅を供えられる儀式])も、やがて公守大納言が計らい申されました。内の上(第九十二代伏見天皇)が、夜の御殿へ召して入られた草鞋([わらじ])を、二位殿が取られて、大納言殿と二人で抱いて寝られたということでございます。前々もそのようにされていたとお聞きしました。


続く


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by santalab | 2015-01-31 08:37 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」今日の日影(その5)

その暮れつ方、とう中将ちゆうじやう為兼ためかぬの朝臣、御消息せうそこもてまゐれり。内のうへみづから遊ばしけり。

雲の上に 千代をめぐらん 初めとて 今日の日影も かくや久しき

くれなゐ薄様うすやうに、同じ薄様をもて包まれたんめり。関白殿、「包むやう知らず」とかやのたまひけるとて、花山に心得たると聞かせ給ひければ、遣はして包ませられけるとぞうけたまはりしと語るに、またこの具したる女、「いつぞやは、御使ひ、実教さねのり中将ちゆうじやうとこそは語り給ひしか」と言ふ。女御のよそひは、蘇芳すはうの張り単襲ひとへがさね・濃き裏の引倍木ひへぎ・濃き蘇芳すはうの御表着うはぎ・赤色の御唐衣・濃き御袴・地摺ぢずりの御奉る。




その日の暮れ方、頭中将為兼朝臣(京極為兼)が、消息([文])を持って参りました。内の上(第八十九代後深草院)が、自ら書かれたものでございました。

雲の上に、千代を廻らすはじめとなる今日の陽の光が永遠に続きますように。

紅の薄様([薄手の鳥の子紙])に、同じ薄様で包んでありました。関白殿(二条師忠もろただ)が、「どのように包めばよいのだろう」とか申されたとかで、花山(花山院家教いへのり)が心得ていると聞いて、使いを遣らせて包ませたとお聞きしましたと老尼が語れば、この老尼の供の女が、「この前は、お使いは、実教中将(小倉実教)と申していましたよ」と言いました。女御(西園寺鏱子しようし)の装いは、蘇芳([黒味を帯びた赤色])の張り単襲([裏をつけずに、袖口・裾などのへりって仕立てた単衣ひとえぎぬを数枚重ねること。女性が夏季に用いた])・赤裏地の引倍木([あこめ=中着。の裏を引きはがして仕立てた夏用のひとへの衣])・濃い蘇芳の表着([衣を重ねて着るとき、一番上に着る衣])・赤色の唐衣([装束の一番上に着用する上半身だけの短衣])・赤色の袴・地摺り([生地に文様を摺り出した布帛])の裳([腰部から下の後方だけにまとった服])を着けておいででした。


続く


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by santalab | 2015-01-30 21:16 | 増鏡 | Comments(0)


「松浦宮物語」三(その49)

「この奥も、本朽ち失せて離れ落ちにけり」と本に。




「この続きも、本が破損していてありません」と本に。


続く


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by santalab | 2015-01-30 08:09 | 松浦宮物語 | Comments(0)


「増鏡」あすか川(その1)

隙行く駒の足に任せて、文永ぶんえいも五年になりぬ。正月二十日、本院のおはします富小路とみのこうじ殿にて、今上の若宮、御五十日いか聞こし召す。いみじう清らを尽くさるべし。今年正月にうるうあり。後の二十日余りのほどに、冷泉院れいぜいゐんにて舞御覧あり。明けむ年、一院、五十いそぢに満たせ給ふべければ、御賀あるべしとて、今より世の急ぎに聞こゆ。楽所がくしよ始めの儀式は、内裏にてぞありける。試楽、二十三日と聞こえしを、雨降りて、明くる日つとめて、人々まゐり集ふ。新院はかねてより渡らせ給へり。




隙行く駒([年月の早く過ぎ去ることのたとえ])の足に任せて、文永五年(1268)になりました。正月二十日、本院(第八十八代後嵯峨院)のおられた富小路殿(現京都市中京区にあった持明院統歴代の御所)で、今上(第九十代亀山天皇)の若宮(亀山天皇の第二皇子、世仁よひと親王)の、五十日([五十日の祝]=[子どもが生まれて五十日目に行った祝い])が執り行われました。たいそう豪勢なものでございました。この年の正月に閏月がございました。後(閏月)の二十日過ぎの頃、冷泉院(第五十二代嵯峨天皇が創設した後院)で舞を御覧になられました。明年、一院(後嵯峨院)が、五十になられるというので、五十の賀を執り行うべきと、この年より世の中は準備を急いだのでございます。楽所始めの儀式は、内裏でございました。試楽は、二十三日ということでございましたが、雨が降って、明くる日の早朝に、人々が参りました。新院(第八十九代後深草院)はかねてより渡られておられました。


続く


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by santalab | 2015-01-29 14:37 | 増鏡 | Comments(0)


「松浦宮物語」三(その48)

身をかへて しらぬうき世に さすらへて なみこす袖の ぬるるをやみむ

思ひ寄らぬ心さは、「これも曇りなきにや」と、空恥づかしきものから、
「しらぬ世も 君にまどひし 道なれば いづれのうらの なみかこゆべき

怪しう。夢のやうなる僻耳の聞こゆるかな。などかう心得ぬことは」と、責めて書き寄すれど、なほうちこぼれつつ、解けぬ御気色わりなき心の内には、「我も人に異なるゆゑを聞きしかど、世の常ならずあり難きみるめに契りを結びながら、なほ心に染みて物思ふべくもまれにけるかな」と思ふにも、また、「くみてやしられむ」と、並べてならぬ御様どもは、恥づかしうぞ思ひ乱れ給ふ。




人の身となって、見知らぬ憂き世にさすらうこのわたしの、浪越す袖(『松山と 契りし人は つれなくて 袖越す波に 残る月影』=『末の松山=現宮城県多賀城市付近にあったという山。を浪が越さぬように、行く末を約束したあなたはつれなくて、わたしの袖は浪が越えたようにすっかり濡れて、月影が映るほどです』。藤原定家さだいへ)が濡れているのが見えませんか。

思いもしなかった華陽公主の心疾さ([心疾し]=[感覚や知能の働きが鋭くてすばやい])に、弁中将は「気付かれたのでは」と、思わず恥ずかしくなって、
「見知らぬ世で君(華陽公主)に心惑わすのは定めなのです、いったいわたしの何を恨んで、涙を流しているのでしょう。

わたしが浮気をするとでも。まるで夢の中でありもしない話を聞いているようです。まったく身に覚えのないことなのに」と、弁中将は華陽公主に文を差し出しましたが、なおも華陽公主は涙を流して、心の内の不安は消えていないようでした、「わたしが人とは異なる運命を持っていると聞いたが、世にないほどの深く契り合った仲なのに([海松布]=[海草]。見る目=あなた)、どうして疑いの心を持つのか」と思うにも、また、「くみてやしられむ」(『恨むるに 浅さぞまさる 吉野川 深き心は 汲みて知らなむ』=『わたしの恨みの思いは吉野川より深いものです。わたしの心の奥底を推し量り知ってほしい』。『狭衣物語』)と、いつもとうって変わった表情を見て、弁中将は恥ずかしく心は乱れました。


続く


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by santalab | 2015-01-29 08:37 | 松浦宮物語 | Comments(0)


「増鏡」北野の雪(その17)

その頃近衛の左大臣殿へ、摂ろく渡わたりぬ。二十二にぞなり給ふ。いとめでたき様なり。岡の屋殿の御太郎君ぞかし。御慶び申しに、両院より御馬引かる。大宮院琴、東二条院は御笛など、贈物ども、いつものことなるべし。西谷殿とも申し、深心院の関白とも申しき。




その頃近衛左大臣殿(近衛基平もとひら)が、摂ろく([摂政・関白])となられました(近衛基平が関白になった)。二十二歳の若さでございました。たいそうおめでたいことでございました。岡の屋殿(近衛兼経かねつね)の長男でございました。慶び申し([任官や位階昇進のお礼を申し上げること])に、両院(第八十八代後嵯峨院・第八十九代後深草院)より馬を賜りました。大宮院(西園寺姞子きつこ。後嵯峨天皇中宮)が琴、東二条院(西園寺公子きみこ。後深草天皇中宮。西園寺姞子の同母妹)は笛など、贈り物も、いつものようになさいました。西谷殿とも申し、深心院の関白とも申されるお方でございます。


続く


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by santalab | 2015-01-29 08:22 | 増鏡 | Comments(0)


「増鏡」北野の雪(その16)

かくいふは、文永ぶんえい四年十二月一日なり。例の御物の怪ども現れて、叫びとよむ様いと恐ろし。されども、御祈りのしるしにや、えもいはず、めでたき玉の男御子生まれ給ひぬ。そのほどの儀式、いはずとも推し量るべし。うへも、限りなき御心ざしに添へて、いよいよ思す様に、嬉しと聞こし召す。大臣も、今ぞ御胸明きて、心落ち給ひける。新院の若宮も、この殿の御孫ながら、それは、東二条院の御心の中推し量られ、大方おほかたもまた、受け張りやむごとなき方にはあらねば、よろづ聞こし召し消つ様なりつれど、この今宮をば、本院も、大宮院も、際殊きはことに、もてはやしかしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺様にぞ、一方ならず思し結ぼほれ、すさまじう聞き給ひける。




ご出産は、文永四年(1267)十二月一日のことでございました。いつものように物の怪が現れて、叫び響く様はたいそう恐ろしいものでございました。けれども、お祈りの甲斐がございましたのか、言葉も及ばないほど、美しい玉の男の子皇子がお生まれになられました(第九十代亀山天皇の第二皇子、世仁よひと親王。後の第九十一代後宇多天皇)。その儀式のことは、申さずともお分かりになられることでございましょう。上(亀山天皇)も、限りなき寵愛とともに、ますます心をお寄せになられたので、うれしいことに思われたのでございます。大臣(洞院実雄さねお)も、望む通りでございますれば、満足されておられました。新院(第八十九代後深草院)の若宮(後深草天皇の第二皇子、熈仁ひろひと親王。後の第九十二代伏見天皇)も、この殿(実雄)の孫でございましたが、それは、東二条院(後深草天皇中宮、西園寺公子きみこ)の心の中も推し量られ、明け透けに、遠慮なく申すことでもございませんので、何も申すことはございませんでしたが、この今宮(世仁親王)を、本院(第八十八代後嵯峨院)も、大宮院(西園寺姞子きつし)も、格別に、かわいがられました。これも中宮(西園寺嬉子きし)におかれましては、気の毒なことではございましたが、なんとか子が欲しいと、西園寺方では、一方ならず気は塞いで、つらく思われるのでございました。


続く


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by santalab | 2015-01-28 08:21 | 増鏡 | Comments(0)


「松浦宮物語」三(その47)

もと馴れにけるや、映れる影の通ひ来るにや、いとしるにほひの似る物なきがうちかをる心地するに、時の間の隔ても、思ひ騒がるる心も消えて、御殿油召し寄せて、なほ守れど、火に輝き合ひて、ありつるばかりもさやかならず。鏡を懐に引き入れて、しばしうち臥しぬれど、胸より余る心地のみして、慰むところはなきものゆゑ、なほ近きは思ひ捨つまじきにや、あいなからむ夜れもまた心苦しうて、いたく更けてぞ、もとのやうにさし込めて、あだならず納め置きて、殿にかへり給へれば、悩ましき御心地に、並びなく待たれつるほどにも、打ち付けに心細うて入りおはするは、うれしう見遣り給へるに、いたう泣き給ひける目見まみの、例ならぬを怪し止め留め給ふに、寄りおはして、何やかやと聞こえ給ふままに、内ににほ御衣おんぞの世の常の香にもあらず、言ひ知らずめでたきが、思ひかけぬさきの世に、たぐひなしと身に染めし人の御かをりに、かすかに思えたるを、「怪しや。さば、この国にも、かかる類やあるべき」と、心置かれて、思ひの外なるに、裏なう待ちよろこびつる心の内の、少し恥づかしううち背かれて、涙の落ちぬるこそ、「我ながら、いつ習ひける心ぞ」と、思ひ知らるれ。




思い出してのことか、それとも鏡に映った影から通い来たのか、とても芳ばしい后の香りが漂うようような気がして、今生のわずかの別れも、思い乱れる心も消え去って、殿油([大殿油]=[宮中や貴族の邸宅でともす灯火])を取り寄せて、なおも鏡を見つめていましたが、ただ火の光が映るばかりで后の影は見えませんでした。弁少将は鏡を懐にしまうと、しばらく横になりましたが、胸の内の思いは止めようもなく、慰めることもできずに、まして后の悲しげな姿を忘れることができませんでした、ただどうしようもなく夜離れ([女のもとに男が通うのがとだえること])が心苦しくて、すっかり夜が更けてから、鏡を元通り閉じて、厳しく納めて、殿に帰ると、華陽公主は身重の身体で、弁中将の帰りを待ち遠しく思っているところに、言葉もなく帰るとしょんぼりとしていました、うれしく思いながらも見れば、たいそう泣き腫らした目元が、いつもと違ってどうしたのかと目を留めました、内から匂い立つ衣の香りは世のものとも思われず、言葉にならないほどすばらしいものでした、華陽公主はふと前の世に、ほかにないまでに美しい人の香りを、かすかに思い出して、「不思議なこと。后と同じ香りがする。この国にも、后のような人がいるのかしら」と、心配になりました、思いもしなかったことでした、心から弁中将の帰りをよろこぶ華陽公主でしたが、恥ずかしく思えるほどの嫉妬の心に、思わず涙がこぼれて、「我ながら、わたしに人を恨む心があるなんて」と、思い知らされるのでした。


続く


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by santalab | 2015-01-28 08:09 | 松浦宮物語 | Comments(0)


「増鏡」北野の雪(その15)

皇后宮は、日に添へて、御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せ給へるを、御門をはじめ奉りて、たれも誰も思し嘆きつるに、今年またその御気色あれば、いかがと思し騒ぎつつ、山々寺々に御祈りこちたく罵る。こたみだに、げにまたうちはづしては、いかさまにせん」と、大臣おとど・母北の方も安きも寝給はず、思し惑ふこと限りなし。ほど近くなり給ひぬとて、土御門殿の、承明門院の御跡へ移らせ給ふ。世の中響きて、天下の人高きも下れるも、司あるほどのは参りこみてひしめき立つに、殿の内の人々は、まして、心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなきぐわんどもを立て給ひ、賀茂のやしろにも、かの御調度てうどどもの中に、優れて御宝と思さるる御手箱に、きさいの宮みづから書かせ給へる願文ぐわんぶみ入れて、神殿に籠められけり。それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、まことにや侍りけん。




皇后宮(第九十代亀山天皇皇后、洞院佶子きつし)は、日に添えて、亀山天皇の寵愛を受けられるようになりました。姫宮(亀山天皇の第一皇女、睍子けんこ内親王)・若宮(亀山天皇の第一皇子、知仁ともひと親王)がお生まれになられましたが、すぐにお亡くなりになられたので、亀山天皇をはじめ、誰もかれもお嘆きになられておられましたが、この年また身篭られたので、ご心配になられて、山々寺々ではお祈りが頻繁に執り行われました。この度、また早世になられては、どうなることか」と、大臣(洞院実雄さねを)・母北の方(藤原栄子えいし)も安心して寝てもいられず、心配は限りございませんでした。出産が近付かれて、皇后(洞院佶子)は土御門殿の、承明門院(源在子ざいし。第八十二代後鳥羽天皇の妃で第八十三代土御門天皇の生母)の跡へ移られました。世の中は騒いで、天下の人は身分の高い者も下れる者も、官職のある者は参られてひしめき立ち、殿の内の人々は、まして、心も上の空に、慌ただしく走り回っておりました。大臣(洞院実雄)は、限りなく願を立てられて、賀茂の社(上賀茂神社・下鴨神社)にも、調度の中で、優れて家宝と思われる手箱に、后の宮(佶子)が自ら書かれた願文を入れられて、神殿([本殿])に納められました。その願文には、「たとえこの子ばかりであろうとも、この度は皇子をお授けくださいませ」と書かれたと聞いております。定かではございませんが。


続く


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by santalab | 2015-01-27 08:29 | 増鏡 | Comments(0)

    

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