Santa Lab's Blog


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「曽我物語」和田の館へ行きし事(その6)

和田のたまひけるは、「今暫くもさうらひて、細かに物語まうしたけれども、源太げんだと申す曲者が、御前おんまへまゐりつるが、いかやうにか申し上げ候はんずらん。あひ構へてし損じ給ふな」と言ひ置きて、和田は、御前へぞ参られける。この人々は、館にかへる。夜の更くるを待ちけるが、ややありて、十郎じふらう申しけるは、「くだん梶原かぢはらが、御分が言ひつる事を立ち聞きけるが、如何様、大勢おほぜいにて寄せぬと思ゆる。館を替へん」と言ひければ、五朗ごらう聞きて、「源太ほどの奴、何十人なんじふにんも候へ、一々に切り伏せなん」と申す。十郎聞きて、「身に大事だになくは、言ふに及ばず。ただそれがしに任せ候へ」とて、




和田(和田義盛よしもり)が申すには、「今しばらくも留まって、積もる話をしたいが、源太(梶原景季かげすゑ)と申す曲者([油断のならない者])が、君(源頼朝)の御前に参って、何を申し上げるか分かったものではない。用心してし損ずることのないように」と言い置いて、和田(義盛)は、御前に参りました。この人々(曽我祐成すけなり時致ときむね)は、館に帰りました。夜が更けるのを待っていましたが、しばらくして、十郎(祐成)が申すには、「あの梶原(景季)が、お主の話を立ち聞きしておったが、必ずや、大勢で寄せるであろうと思う。館を替えよう」と申せば、五朗(時致)はこれを聞いて、「源太ほどの奴、何十人あろうと、一々に切り伏せましょう」と申しました。十郎は聞いて、「身に大事がないことならば、申すまでもないことだが。ただわたしに任せよ」と申しました、


続く


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by santalab | 2015-05-31 21:31 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」和田の館へ行きし事(その5)

なほも和讒わんざんのものにて、何とか言ふと思ひ、しばしたたずむ。これをば知らで、和田のたまひけるは、「みづをよく泳ぐ者はもれ、馬によく乗る者は落ち、日はちう中に移る、月は満つるにかたぶく、高天かうてんに背くぐまれ、厚地かうちに抜き足せよとあるをや。この者は、十分じふぶんに過ぎて、いかがぞと思ゆる」。五朗ごらう、これを聞きて、「御陳法ちんぽふを用ひず、とほる者ならば、何ほどの事すべき。しや細首捻ぢ切りて、捨てさうらふべきを」とまうしければ、梶原かぢはら立ち聞きて、まことや、この者は、朝比奈あさいな汀優みぎはまさりの大力だいぢからをこの者と聞きたり、ここにて、喧嘩けんくわし出だし、勝負せんよりも、かみへ申し上げて、我が力もいらで失はん事、安かるべしと思ひ定めて、聞かざる由にて、かへりにけり。




きっと和讒([一方で親しみ、他方で悪く言うこと])申したのだと疑って、何を申すことかと、源太(梶原景季かげすゑ)はしばらく立ち聞きしました。これを知らずに、和田(和田義盛よしもり)が申すには、「泳ぎの上手い者でも溺れ、馬乗りの上手も馬から落ちるもの、日はちう中(宙中?)に上れば後は下りるばかり、月は満ちれば欠けるのみ、高天に背を屈め、厚地(大地)に抜き足せよと申すぞ。この者(景季)には、十分過ぎるほど、用心を怠らぬことじゃ」。五朗(曽我時致ときむね)は、これを聞いて、「陳法([中世の訴訟で、論人が自分の罪状を否認し無実を論証すること])を聞き入れず、通る者ならば、何の事がありましょう。奴の細首を捻じ切って、捨てるだけのこと」と申せば、梶原(景季)は立ち聞いて、たしか、この者は、朝比奈(朝比奈義秀よしひで)に汀優り([際立って勝れていること])の大力で、痴れ者と聞く、ここで、喧嘩を吹っかけ、勝負するよりも、上(源頼朝)に申し上げて、我が力も用いず失うことは、容易かろうと思い、聞かなかった振りで、帰りました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 21:26 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」和田の館へ行きし事(その4)

和田殿聞きて、こは如何に、曲者通りけるよ、さりながら陳じて見んと思ひければ、「自然の物語、何と聞きて、御分、御耳に入れんとはのたまふぞ。この面々、我に親しき事、上にも知ろし召されたり。それに付き、『御狩みかりうけたまはり、必ず召しはなけれども、末代の見物に、忍びて御供仕りさうらふ。若き者の習ひ、黄瀬川きせがはにて、をんなどもと遊びて候ひしが、君合沢あひざはの御所に御入りの由承り、急ぎまゐり候ひしあひだ、引出物をせず候ふ。かへりに何にても候へ、取らせん』とまうし候ふ間、『道の者は恥づかしきぞ。引出物せばよくせよ、し損じなば一家のはぢぞ』と申しつるが、この事ならでは、何申したりとも思えず、急ぎ御申しありて、義盛よしもり失ひ給へ」と、高声かうしやうなりければ、景季かげすゑも、「一興にこそ申し候へ。何とてか、和田殿は、それがしに会ひ給へば、由なき事にも、角を立ててのたまふらん。これは苦しからぬ事なり」とて、空笑ひして通りけり。




和田殿(和田義盛よしもり)はこれを聞いて、どうしたものか、曲者([油断のならない者])が通るとは、とは言え一つ言い紛らわしてみようと思い、「ほんの世間話を、どう思って、お主は、君(源頼朝)のお耳に入れると申されるや。この者たちが、わしと親しいことは、上も知っておられること。それで、『御狩と聞いて、必ずしも召しはないが、末代の見物に、忍んでお供に参ったのじゃ。若者の習い、黄瀬川(現静岡県を流れる川)で、女どもと遊んでおったが、君(頼朝)が合沢の御所に入られたと聞いて、急ぎ参ったのだ、引出物は用意しなかった。帰りに何か、取らせましょう』と申すので、『道の者([遊女])ではあるまいな。引出物はよくよく案じて調えよ、し損ずれば一家の恥ぞ』と申したが、ほかに、何を申したとも思えぬ、急ぎ君に申して、この義盛の命を取ればよかろう」と、大声で申せば、景季も、「一興に申したまでのこと。どういう訳か、和田殿(義盛)は、わたしに会えば、些細ないことでも、突っかかるように思えましてな。声を荒立てることでもありますまい」と申して、空笑いして通りました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 18:43 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」和田の館へ行きし事(その3)

盃二三度廻りて後、和田のたまひけるは、「あひ構ひて、せばよくし給へ。し損じなば、一家の恥辱なるべし。後ろ楯にはなり申すべし。頼もしく思ひ給へ」とて、さかづき差されけり。折節をりふし梶原かぢはら源太げんだ、館の前をとほりけるが、かく言ふを聞き付けて、「何事ぞや、和田殿。曽我の人々に、「せばよくせよ」とおほせられつる、不審なり。御耳にや入れさうらふべき」と言ふ。




盃が二三度廻って後、和田(和田義盛よしもり)のが申すには、「よくよく案じて、事を成すように。し損ずれば、一家の恥辱となる。後ろ楯になりましょうぞ。頼りに思われよ」と申して、盃<を差しました。ちょうどその時、梶原源太(梶原景季かげすゑ)が、館の前を通っていましたが、和田(義盛)がそう言うのを聞き付けて、「何の話をしておられるや、和田殿。曽我の人々(曽我祐成すけなり時致ときむね)に、「よくよく図り成されよ」と申されたのが、怪しく思われます。君(源頼朝)のお耳に入れるべきかとおほせられつる、」と言いました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 18:38 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」和田の館へ行きし事(その2)

「かくて、夜の更けんほど待たんも、遙かなり。いざや、和田殿の館へ行き、最後の対面せん」。「然るべし」とて、二人打ち連れ、義盛よしもりやかたへぞ行きける。やがて、義盛出で合ひて、「如何に殿ばらたち、遙かにこそ存ずれ。狩座かりくらてい、これが始めにてぞましますらん。何とか思ひ給ひけん。見物にはうへやあるべき」。十郎じふらうあふぎしやくに取りなほし、畏まつて、「さんざうらふ。斯様かやうの事は、めづらしき見事、末代の物語に、あの冠者くわんじやに見せ候はんため、二三日の用意にて、罷り出で候ふが、余りの面白さに、をのの朽つるを忘れ、曽我へ人こして候ふ、そのほどと存じて、まゐりて候ふ」と言ひければ、和田聞きて、なんでふその儀あるべき、日来の本意を遂げんとするが、一家の見果てに、義盛に今一度対面せんとてぞ来たりぬらんと、あはれに思ひければ、「さぞ思すらん、数多あまた見てさうらふだにも、面白く候ふ。まして、若き人々の始めて見給はんに、さぞ思し召すらん。嬉しくも来給ふものかな。予ねてより知り奉りなば、始めよりまうすべかりつるを」とて、酒取り出だし、勧められけり。




「こうして、夜が更けるのを待つのも、つまらぬ。どうだ、和田殿(和田義盛よしもり)の館へ行き、最後の対面をしようではないか」。「そうしましょう」と申して、二人打ち連れ、義盛の館を訪ねました。やがて、義盛は出て、「どうした殿たち、久しぶりではないか。狩座([狩倉=狩場])に顔を見せるのは、これが初めてではないか。何を思うてのことぞ。これ以上の見物はなかろう」申しました。十郎(曽我祐成すけなり)は、扇を笏に取り直し、畏まって、
「ご無沙汰しておりました。このような所に、出るのは初めてのことですが、末代の物語として、あの冠者(曽我時致ときむね)に見せたいと、二三日の用意をして、やって来たのですが、あまりの面白さに、斧の柄の朽ちる([斧の柄朽つ]=[『述異記』にみえる爛柯らんかの故事から、何かに心を奪われているうちに思わず長い時間を過ごしてしまうことのたとえ])のも忘れ、曽我へ人を遣ったのでございます、そのほどに、時致が参りました」と申せば、和田はこれを聞いて、どうしてそのようなことがあろう、日来の本意を遂げようとして、一家の見果てに、この義盛にもう一度会っておこうとやって来たのだろうと、哀れに思い、「そうであったか、何度見ても、面白いものよ。まして、若い人々が初めて見たのじゃ、そう思うのも当然のこと。訪ねてくれてうれしく思うぞ。そなたたちがそう思っていることを知っていたなら、わしの方から誘うべきであったものを」と申して、酒を取り出し、勧めました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 18:34 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」和田の館へ行きし事(その1)

「来たつて暫くも止まらざるは、有為転変うゐてんべんの里、去りて二度かへらざるは、冥途隔生きやくしやうの別れなり。哀傷あいしやう恋慕の悲しみ、今に始めぬ事なれども、日本国につぽんごくに我らほど物思ふ者あらじと案ずるに、劣らず歎きをする者のあるべきこそ、不便ふびんなれ」。五朗ごらう聞き、「誰やの者か、我らに勝りてさうらふべき」。「さればこそとよ、備前の王藤内わうとうないが、七年御不審をかうぶり、この度、安堵の御下し文を賜はると言ふ使ひ、先に下り、かくと言はば、国に止まる親類集まり、喜び合はんところに、また人下りて、討たれぬと言ふならば、さこそ歎かんずらんと、深き言葉を案ずるに、人としてのふある者は、天の加護に依り、人としてさいある者は、歎きによると見えたり。されば、王藤内助けばやとは思へども、雑言ざふごん余りに奇怪きくわいなれば、祐成すけなりにおきては余すべからず。御分も漏らすな」とまうしければ、「うけたまはる」とぞ言ひける。




「来たって暫くも止まらぬは、有為転変([この世が 無常で、はかないものであるたとえ])の里、去りて再び帰ることがないのは、冥途隔生([人がこの世に生まれ変わること])の別れよ。哀傷([人の死を悲しみ嘆くこと])恋慕の悲しみは、今にはじまることではないが、日本国に我らほど悲しみ多い者はないと思えば、我らに劣らず悲しむ者がおることこそ、不憫なことよ」。五朗(曽我時致ときむね)はこれを聞き、「いったい誰が、我らに勝っておると申します」と訊ねました。「そのことだが、備前の王藤内(王藤内隆盛たかもり)が、七年のご不審([嫌疑を受けること])を被り、この度、安堵の下し文を賜わり使いが、先に下り、これを下せば、国の親類どもが集まり、よろこび合っていたが、また人が下って、討たれたと知らせたなら、さぞや悲しむことだろうと、深い(古い?)言葉を思えば、人としてのふ(報=果報)ある者は、天の加護を受け、人としてさい(災=応報)ある者は、悲しむと記されておる。ならば、王藤内(隆盛)を助けたいと思うが、雑言([いろいろな悪口やでたらめな言い掛かり])があまりに過ぎておる、この祐成には我慢ならぬこと。お主も漏らすな」と申せば、「分かりました」と答えました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 17:12 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」橘の事(その3)

その大臣の袖の香に、橘の移り来たりけるを、猿丸大夫が歌に、

五月まつ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

と詠みたりけり。我がてうに、橘植ゑ初めける事、この時よりぞ始まりける。また、橘に、盧橘ろきつと言ふ名あり。去年こぞの橘にほひしておけば、今年の夏まであるなり。その色、少し黒きなり。「盧」の字を「黒し」と読めばなり。さても、この二十一の君、女性によしやうながら、才覚人に優れしかば、斯様かやうの事を思ひ出だしけるにや。げにも、景行帝けいかうのみかど、橘を願ひ、誕生たんじやうありし事、幾程なくて、若君出で来たり、頼朝の御後を継ぎ、四海ををさめ奉る。




その大臣(田道間守たじまもり)の袖に、橘の香りが移るのを、猿丸大夫(三十六歌仙の一人)が歌に、

五月の盛りの花橘の香をかげば、なつかしい昔のあの人の袖の香がしました(『古今和歌集』。詠人知らず)。

と詠みました。我が朝に、橘を植えたのは、これが始まりでした。また、橘に、盧橘([キンカンの別名])と言う名があります。前年の橘に残しておけば、今年の夏までありました。その色は、少し黒いものでした。「盧」の字を「黒い」と読む故でした。さても、この二十一の君(北条政子)は、女性ながら、才覚は人に優れていましたので、この事を思い出したのでしょう。事実、景行天皇(第十二代天皇)は、橘を願って、誕生しましたが、ほどなくして、若君(源頼家よりいへ)が生まれて、頼朝の後を継ぎ、四海([国内])を治めました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 09:21 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」十番斬りの事(その10)

これらを始めとして、兄弟きやうだい二人が、手に掛けて、五十余人ぞ斬られける。手負ふ者は、三百八十余人なり。数々出づる松明も、一度ひとたび消えて、元の闇にぞなりにける。人はおほくありけれども、この人々の気色を見て、ここかしこに叢立むらだちて、寄する者こそなかりけれ。




これらの者どもをはじめ、兄弟二人(曽我祐成すけなり時致ときむね)の、手にかかり、五十余人が斬られました。疵を負うものは、三百八十余人でした。数々灯した松明も、あっという間に消えて、元の闇になりました。人は多くいましたが、この兄弟の威勢を見て、あちらこちらに控えて、近寄る者はありませんでした。


続く


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by santalab | 2015-05-31 09:15 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」十番斬りの事(その9)

次に、甲斐かひの国の住人ぢゆうにんに、市川党いちかはたうに、別当べつたう次郎じらう、進み出でてまうしけるは、「如何なる痴れ者なれば、君の御前にて、斯かる狼藉らうぜきをば致すぞ、名乗れ、聞かん」と言ふ。五朗ごらう申しけるは、「事新しきをとこの問ひやうかな。曽我の冠者くわんじやばらが、親の敵討ちて出づると、幾度言ふべきぞ。臆して耳がつぶれたるか。親のかたきは、ぢんの口を嫌はず。さて、斯様かやうに申すは誰人たれびとぞ。聞かん」と言ふ。「これは、甲斐の国の住人市川党の別当の大夫が次男、別当の次郎定光さだみつ」とぞ答へける。五朗聞きて、「和殿は、盗人よ。御坂みさか・かた山・都留つる・坂東に籠もりて、きやう鎌倉に奉る年貢御物みもつ兵士ひやうじ少なきを、遠矢とほやに射て追ひ落とし、片山里の下種げす人の立て合はざるを、夜討ちなどにし、物取るやうは知りたりとも、はぢあるさぶらひに寄り合ひ、晴れのいくさせん事は、如何でか知るべき。今、時致ときむねに会ひて習へ。をしへん」とて、をどりかかりて打つ太刀に、高股たかもも切られて、引き退く。




次に、甲斐国の住人、市川党の、別当次郎が、進み出て申すには、「どれほどの愚か者が、君(源頼朝)の御前で、このような狼藉を働くのか、名乗れ、聞いてやる」と言いました。五朗(曽我時致ときむね)が申すには、「聞いたこともない奴が生意気な口を聞くものよ。曽我の冠者([若者])たちが、親(伊東祐親すけちか)の敵を討つためにやって来たと、何度言えばよいのだ。臆して耳が聞こえなくなったか。親の敵は、陣の口を嫌わぬものぞ。ともかく、名乗れと申すは誰だ。名を聞こう」と申しました。「これは、甲斐の国の住人市川党の別当大夫(市川行房ゆきふさ)の次男、別当次郎定光(市川定光)」とぞ答えました。五朗は聞いて、「お主は、盗人よ。御坂(現山梨県笛吹市)・かた山(片山?現山梨県甲府市)・都留(現山梨県都留市)・坂東(現山梨県笛吹市)に籠もり、京鎌倉に奉る年貢御物([天皇や貴人の食物])に兵士が少ないところを、遠矢に射て追い落とし、片山里の下種人([身分の賎しい者])で抵抗しない者を、夜討ちにし、物を盗むことは知っていても、恥ある侍が寄り合い、晴れの軍をすることは、まさか知ってはいないだろう。今から、この時致に聞け。教えてやろう」と申して、躍りかかり打つ太刀に、高股([腿の上の方])を切られて、引き退きました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 09:12 | 曽我物語 | Comments(0)


「曽我物語」十番斬りの事(その8)

斯かるところに、武蔵の国の住人ぢゆうにん新開しんかい荒四郎あらしらうと名乗り掛けて、進み出でてまうしける、「敵は何十人なんじふにんもあれ、それがし一人にや超ゆべき。出で合へや、対面せん」とぞ言ひける。十郎じふらう打ち向かひて、「やさしく聞こゆるものかな、『大匠たいしやうに代はりて仕へる者は、必ず手を破る』とは、文選もんぜんの言葉なるをや。引くな」と言ひて、飛んで掛かる。言葉は、主のはぢを知らず、「御免あれ」とて逃げけるを、十郎、繁く追ひ掛けたり。余りに逃げ所なくして、小柴垣こしばがきを破りて、高這ひにして逃げにける。




そうこうするところに、武蔵国の住人新開荒四郎(新開実重さねしげ。土肥遠平とおひら<の子)と名乗り、進み出て申すには、「敵は何十人もあれ、わし一人には敵うまい。出で合え、顔を見てやるぞ」と言いました。十郎(曽我祐成すけなり)は打ち向かい、「大口を叩く奴め、『大匠([技量のすぐれた大工])の真似をする者は、必ず怪我をするものだ』とは、文選([中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集])の言葉ぞ。逃げるなよ」と申して、飛んで掛かりました。言葉は、主の恥となるとも知らず、「御免するぞ」と言って逃げるのを、十郎は、しつこく追いかけました。新開荒四郎は逃げ場所を失い、小柴垣を破って、身を屈めて逃げました。


続く


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by santalab | 2015-05-31 09:05 | 曽我物語 | Comments(0)

    

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