Santa Lab's Blog


<   2015年 11月 ( 150 )   > この月の画像一覧



「太平記」越前牛原地頭自害の事(その1)

淡河あいかは右京うきやうすけ時治ときはるは、京都の合戦の最中、北国の蜂起をしづめん為に越前の国に下つて、大野おほのこほり牛原うしがはらと云ふ所にぞをはしける。幾程無うして、六波羅没落の由聞こへしかば、相順あひしたがひたる国の勢ども、片時へんしの程に落ち失せて、妻子従類さいしじゆうるゐの外は事問ふ人もなかりけり。去るほどに平泉寺の衆徒しゆとをりを得て、かの跡を恩賞にまうし賜はらん為に、自国・他国の軍勢を相語あひかたらひ、七千余騎を率して、五月十二日の白昼はくちうに牛原へ押し寄する。時治敵の勢の雲霞の如くなるを見て、戦ふとも幾程が可怺と思ひければ、二十にじふ余人ありける郎等らうどうに、向かふ敵を防がせて、あたり近き所に僧のましましけるをしやうじて、女房をさなき人までも、皆髪に剃刀を当て、戒を受けさせて、偏へに後生菩提ごしやうぼだいの経営を、泪のうちにぞ被致ける。




淡河右京亮時治(淡河時治。六波羅探題南方、北条時盛ときもりの子)は、京都の合戦の最中、北国の蜂起を鎮めるために越前の国に下って、大野郡牛原(現福井県大野市)という所にいました。ほどなくして、六波羅が降参したと聞こえたので、相従う国の勢どもは、あっという間に落ち失せて、妻子従類のほかは誰もいなくなりました。やがて平泉寺(現福井県勝山市にある平泉寺白山神社)の衆徒([僧])は、この機会に、この地(牛原庄)を恩賞として賜わろうと、自国・他国の軍勢を味方に付けて、七千余騎を率して、五月十二日の白昼に牛原に押し寄せました。時治は敵の勢が雲霞の如く大勢であるのを見て、戦うともいくらも堪えることはできまいと思い、二十余人いる郎等([家来])に、向かう敵を防がせて、近くに僧がいたので呼び、女房幼い子どもまでも、皆髪に剃刀を当て、戒を受けさせて、一心に後生菩提([来世に極楽に生まれ変わること])の勤行を、涙ながらに行いました。


続く


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by santalab | 2015-11-30 18:52 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長門探題降参の事(その3)

その頃峯の僧正俊雅しゆんがまうせしは、君の御外戚ぐわいせきにてをはせしを、笠置かさぎの合戦の刻みに筑前の国へ被流てをはしけるが、今一時に運を開いて、国人くにうど皆その左右さいうに慎み随ふ。九州の成敗、勅許ちよくきよ以前はしばらくこの僧正そうじやうの計らひにありしかば、小弐・島津、かの時直ときなほを同道して降参の由をぞ申し入れける。僧正、「子細あらじ」と被仰て、すなはち御前おんまへへ被召けり。時直膝行頓首しつかうとんしゆして、敢へて不平視、遥かの末座まつざに畏つて、まことに平伏したるていを見給ひて、僧正なみだを流して被仰けるは、「去んぬる元弘げんこうの始め、無罪してこの所に被遠流時、遠州ゑんしう我を以つてあたとせしかば、あるひは過分くわぶんことばの下に面を垂れて泪を押しのごひ、あるひは無礼のおごりの前に手をつかねて恥を忍びき。しかるに今天道てんだうけんさいはひして、不測世の変化を見るに、吉凶相乱あひみだれ栄枯地を変へたり。夢現ゆめうつつ昨日きのふは身の上のあはれみ、今日けふは人の上の悲しみなり。『あたを報ずるに恩を以つてす』と云ふ事あれば、如何にもして命ばかりを可申助」と被仰ければ、時直ときなほかうべを地に着けて、両眼に泪を浮めたり。不日ふじつに飛脚を以つて、この由を奏聞ありければ、すなはち勅免あつて懸命の地をぞ安堵せられける。時直無甲斐命を助かつて、あざけりを万人の指頭しとうに受くといへども、時を一家いつけの再興に被待けるが、幾程もあらざるに、病ひの霧に被侵て、夕べの露と消えにけり。




その頃峯僧正俊雅(藤原俊雅。第九十六代後醍醐天皇の生母、五辻忠子ちゆうしの甥に当たる?)と申す者が、君(後醍醐天皇)の外戚([母方の親戚])でしたので、笠置合戦(笠置山の戦い)の時筑前国へ流されましたが、今一時にして運は開かれて、国人は皆その左右([命令])に慎み従っていました。九州の成敗、勅許([天皇の許可])に及ばないものはこの僧正が決裁していましたので、小弐(小弐貞経さだつね)・島津(島津貞久さだひさ)は、時直(北条時直)を連れて降参した旨を申し入れました。僧正は、「降参の上は何も申さぬ」と申されて、すぐに御前に召されました。時直が膝行頓首([跪いて前に進み、 頭を地に付けてお辞儀をすること])し、あえて目を合わせることなく、遥か末座に畏まり、平伏している様を見て、僧正が涙を流して申すには、「去る元弘のはじめ、罪なくしてこの地に遠流された時、遠州(遠江国。現静岡県西部)ではわしのことを寇([賊])となしたので、ある時は過分の言葉に頭を垂れて涙を押し拭い、ある時は無礼で横柄な態度に手を押さえて恥を忍んだ。だが今天道の助けあって、測りかねる世の変化を思えば、吉凶は乱れて栄枯([盛衰])は入れ替わるものよ。夢現のようだが昨日は身の上の悲しみが、今日は人の悲しみに変わる。『恨みを晴らすには恩を報ずれべし』と申すことであるから、いかにもして命ばかりは助け申そう」と申したので、時直は頭を地に着けて、両眼に涙を浮かべました。日を置かず飛脚をもって、この由を後醍醐天皇(南朝初代天皇)に奏聞すると、すぐに勅免が下り命を繋ぎました。時直は甲斐ない命を助かって、嘲りを受け後ろ指をさされながらも、一家の再興を待ちましたが、いくほどもなく、病いに冒されて、夕べの露と消えました。


続く


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by santalab | 2015-11-30 11:30 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長門探題降参の事(その2)

かしこの浦に帆を下ろさんとすれば、敵やじりを支へて待ち懸けたり。この島に艫綱ともづなを結ばんとすれば、官軍くわんぐん楯を並べて討たんとす。残り留まる人々にさへ、今は心を沖津波おきつなみ、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮き舟のかぢを絶え、思はぬ風にただよへり。跡に留めし妻子どもも、いかが成りぬらんと、責めてその行末ゆくへを聞きて後、心安く討ち死にをもせばやと被思ければ、しばらくの命を延べん為に、郎等らうどうを一人船より上げて、小弐・島津しまづが許へ、降人かうにんに可成由をぞ伝へける。小弐も島津も年来のよしみ浅からざりけるに、今の有様聞くもあはれにや思ひけん。急ぎ迎ひに来て、己が宿所に入れ奉る。




この浦に帆を下ろそうとすれば、敵が弓矢を構えて待ち構えていました。この島に艫綱を結ぼうとすれば、官軍を楯を並べて討とうと待ち受けていました。残り留まった者たちは、今は心は沖津波のように、返る所もなく、寄せる所もなくて、この世を楫を失った浮き舟のように、思いがけない風に漂うばかりでした。留め置いた妻子たちは、どうなったのかと心配で、せめてその行く方を聞いた後に、心安く討ち死にしたいと思い、北条時直ときなほはしばらく命を繋ごうと、郎等([家来])を一人船より陸に上げて、小弐(小弐貞経さだつね)・島津(島津貞久さだひさ)の許へ、降人となると伝えました。小弐(貞経)も島津(貞久)も年来の好みは浅くなかったので、今の有様を聞いて哀れに思いました。急ぎ迎えて、宿所に招き入れました。


続く


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by santalab | 2015-11-30 11:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長門探題降参の事(その1)

長門の探題遠江とほたふみかみ時直ときなほ、京都の合戦難儀の由を聞きて、六波羅に力を合はせんと、大船百余艘よさうに取り乗つて、海上を上りけるが、周防すはうの鳴渡にて、京も鎌倉も早や皆源氏の為に被滅て、天下悉く王化に従ひぬと聞こへければ、鳴渡より船を漕ぎ戻して、九州の探題と一所に成らんと、心筑紫つくしへぞ赴きける。赤間が関に着いて、九州のやうを伺ひ聞き給へば、「筑紫つくしの探題英時ひでときも、昨日きのふ早や小弐・大友おほともが為に被亡て、九国二島悉く公家の助けと成りぬ」と云ひければ、一旦催促に依つて、これまで付き従ひたるつはものどもも、いつしかやがて心変はりして、己が様々に落ち行きけるあひだ時直ときなほわづかに五十ごじふ余人に成つて柳浦やなぎがうらの浪に漂泊へうはくす。




長門探題遠江守時直(北条時直)は、京都の合戦が劣勢であることを聞いて、六波羅探題と力を合わせようと、大船百艘余りに取り乗って、海上を上っていましたが、周防鳴渡(現山口県柳井市)で、京も鎌倉もすでに皆源氏に亡ぼされて、天下はすべて王化(後醍醐天皇。第九十六代天皇、南朝初代天皇)に従っていると聞こえたので、北条時直は鳴渡より船を漕ぎ戻して、九州探題(鎮西探題の誤り。この時の鎮西探題は北条英時ひでとき=赤橋英時)と一所になろうと、筑紫へと赴きました。赤間関(現山口県下関市)に着いて、九州の様子を聞くと、「筑紫探題英時(北条英時)は、昨日早くも小弐(小弐貞経さだつね)・大友(大友貞宗さだむね)に討たれて、九国二島([九州・対馬・壱岐])は残らず公家の味方となった」と言ったので、一旦催促に従って、これまで付いていた兵たちは、いつしか心変わりして、思い思いに落ちて行きました、時直はわずか五十人余りとなって柳浦(現福岡県北九州市)の浪の上に漂いました。


続く


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by santalab | 2015-11-30 10:50 | 太平記 | Comments(0)


「曽我物語」富士野の狩場への事(その28)

馬も聞こふる名馬なり、主も究竟くつきやうの乗り手なり。三つある鹿に隔たりぬ。馬の掛け場もよかりける。十郎じふらう、これを見て、「この鹿は、らちの外に、勢子せこを破りて落ち来たるにや、追つかへして奉らん」とて、十三ぞくの大の中差し取りて番ひ、矢所おほしといへども、奥野の狩りのかへり様に、父の射られけん鞍の山形のはづれ、行縢むかばきの引き合はせ、報いの知らする恨みの矢、余の所をば言ふべからず。如何なる金山鉄壁きんざんてつぺきとも、心ざしのなどかとほらざらんと、弓手ゆんでになしてぞ下りける。




馬も名に聞こえる名馬でしたし、主(工藤祐経すけつね)も究竟の乗り手でした。三頭の鹿を追っていました。馬の掛け場に都合のよい所でした。十郎(曽我祐成すけなり)は、これを見て、「この鹿は、埒の外([埒外]=[ある物事の範囲の外])にも、勢子([狩猟の場で、鳥獣を追い出したり、他へ逃げるのを防いだりする役目の者])の囲みを破って来たのであろう、追い返してやるからな」と申して、十三束の大の中差し([征矢])を取って番い、矢所は多くありましたが、奥野の狩りの帰りがけに、父(河津祐泰すけやす)が射られた鞍の山形の端、行縢([旅行や狩りなどの際に足をおおった布また革])の引き合わせ([引き合わせ目])に、報いを知らす恨みの矢の狙いを付けました、ほかの場所は思いもしませんでした。どれほどの金山鉄壁([非常に堅固な物事])であろうとも、この志が通らぬことがあろうかと、弓手([左手])に見て山を下りました。


続く


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by santalab | 2015-11-30 06:11 | 曽我物語 | Comments(0)


「太平記」黒丸城初度軍の事付足羽度々軍の事(その1)

新田左中将さちゆうじやう義貞よしさだ朝臣、去る二月の始めに越前ゑちぜんの府中の合戦に打ち勝ち給ひし刻み、国中の敵の城七十しちじふ余箇所を暫時に攻め落として、いきほひまた強大かうだいになりぬ。この時山門の大衆、皆旧好きうかうを以つて内々心を通はせしかば、先づかの比叡山に取り上りて、南方の官軍くわんぐんに力を合はせ、京都を攻められん事は無下に容易かるべかりしを、足利尾張をはりかみ高経たかつね、なほ越前の黒丸のじやうに落ち残りてをはしけるを、攻め落とさで上洛しやうらくせん事は無念なるべしと、詮なき小事に目を懸けて、大儀を次に成されけるこそうたてけれ。




新田左中将義貞朝臣(新田義貞)は、去る(延元二年(1337))二月の始めに越前の府中の合戦に打ち勝った時、国中の敵(足利尊氏)の城七十余箇所をあっという間に攻め落として、勢いはまた強大になりました。この時山門(比叡山)の大衆([僧])は、皆旧好([昔からのよしみ])により内々心を通わせたので、まずは比叡山に上り、南方(南朝)の官軍と力を合わせ、京都を攻めれば戦に勝つことは容易いことでしたが、足利尾張守高経(足利高経)が、まだ越前の黒丸城(現福井県福井市黒丸城町)に落ち残っていたのを、攻め落とさずに上洛するのは無念だと、つまらない小事を気にかけて、大儀を次にしたのは愚かなことでした。


続く


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by santalab | 2015-11-29 10:42 | 太平記 | Comments(0)


「曽我物語」富士野の狩場への事(その27)

人は皆、鹿に心を入れ、如何にもして、上の見参に入らんと、峰に上り、谷に下り、野を分け、里をたづねけれども、余所目よそめいかがと思ひしに、勢子せこを破りて、鹿ししこそ三かしら出で来たりけれ。これは如何にと見るところに、かの祐経すけつねこそ、追つすがひては落としけれ。その日の装束しやうぞく、華やかなり。浮線綾ふせんれう直垂ひたたれに、大斑まだら行縢むかばき切斑きりうの矢負ひ、吹寄籐ふきよせどうの弓の真ん中取り、金紗きんしやにて裏打ちたる浮紋うきもん竹笠たけがさ、嵐に吹き靡かせ、黒き馬の太くたくましきに、白覆輪しろぶくりんの鞍置きてぞ乗りたりける。




人は皆、鹿を追い求め、如何にもして、上(源頼朝)の目に懸かろうと、峰に上り、谷に下り、野を分け、里に求めました、余所目にもいるとは思えませんでしたが、勢子([狩猟の場で、鳥獣を追い出したり、他へ逃げるのを防いだりする役目の者])の囲みを破って、鹿が三頭現れました。どこから来たかと見るところに、かの祐経(工藤祐経)が、鹿を追いかけて来ました。その日の装束は、とても華やかでした。浮線綾([文様の線を浮かして織った綾織物])の直垂([衣])に、大斑([鹿の皮で大きな斑点があるもの])の行縢([旅行や狩りなどの際に足をおおった布また革])に切斑([白羽に幾筋かの黒いまだらがある鷲の尾羽])の矢を負い、吹寄籐(重籐弓に劣る弓らしいが不詳)の弓の真ん中を持ち、金紗([金糸を縫取で織り入れたもの])で裏打ちした浮紋([地糸を浮かせることで文様を表すもの])の竹笠を、嵐に靡かせて、黒色の太くたくましい馬に、白覆輪([銀覆輪]=[器具の周縁をおおう覆輪で、銀または銀色の金属を用いて作ったもの])の鞍を置いて乗っていました。


続く


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by santalab | 2015-11-29 08:51 | 曽我物語 | Comments(0)


「太平記」青野原軍事付嚢沙背水事(その16)

かかるところに、執事師直もろなほ所々の軍兵を招き集め、「和泉のさかひ河内は故敵国なれば、さらでだに、恐懼きようくするところに、強敵かうてきその中に起こりぬれば、和田にぎた・楠木も力を合はすべし。未だ微なるに乗つて早速に退治たいぢすべし」とて、八幡やはたには大勢を差し向けて、敵の打つて出でぬやう四方しはうを囲め、師直は天王寺てんわうじへぞ被向ける。顕家あきいへきやう官軍くわんぐんども、疲れてしかも小勢なれば、身命を棄てて支へ戦ふといへども、軍無利して諸卒散り散りに成りしかば、顕家の卿立つ足もなく成り給ひて、芳野よしのへ参らんと心ざし、わづかに二十にじふ余騎にて、大敵の囲みを出でんと、みづから破利砕堅給ふといへども、その戦功いたづらにして、五月二十二日和泉いづみの堺安部野あべのにて討ち死にし給ひければ、相従ふつはもの悉く腹切り疵をかうむつて、一人も不残失せにけり。顕家の卿をば武蔵の国の越生こしふ四郎左衛門しらうざゑもんじよう奉討しかば、首をば丹後の国の住人ぢゆうにん武藤右京うきやうしん政清まさきよこれを取つて、兜・太刀・刀まで進覧したりければ、師直これを実検して、疑ふところなかりしかば、抽賞ちうしやう御感の御教書みげうしよを両人にぞ被下ける。あはれなるかな、顕家の卿は武略智謀その家にあらずといへども、無双ぶさうの勇将にして、鎮守府の将軍しやうぐんに任じ奥州あうしうの大軍を両度まで起こして、尊氏たかうぢの卿を九州の遠境ゑんきやうに追ひ下し、君の震襟を快く奉休られしその誉れ、天下てんが官軍くわんぐんに先立つて争ふともがらなかりしに、聖運天に不叶、武徳時至りぬるその謂はれにや、股肱ここう重臣ちようしん敢へなく戦場の草の露と消え給ひしかば、南都の侍臣・官軍も、聞きて力をぞ失ひける。




そうこうするところに、執事師直(高師直)は所々の軍兵を招き集め、「和泉の境は河内はかつての敵国であり、いっそう、恐れをなすべき、強敵が起こったからには、和田・楠木も力を合わすであろう。まだ勢が付かないうちに一刻も早く退治せよ」と申して、八幡(現京都府八幡市にある岩清水八幡宮)には大勢を差し向けて、敵が打って出ぬように四方を固め、師直は天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に向かいました。顕家卿(北畠顕家)の官軍ども(南朝)は、軍に疲れてしかも小勢でしたので、身命を捨ててて防ぎ戦いましたが、軍に負けて諸卒は散り散りになりました、顕家卿は留まる所なくして、吉野に参ろうと思い、わずかに二十余騎で、大敵の囲みを出ようと、敵を打ち破ろうとしましたが、甲斐もなく、五月二十二日和泉の境安部野(現大阪市阿倍野区)で討ち死にしました、相従う兵も残らず腹を切りあるいは疵を被って、一人残らず失せました。顕家卿は武蔵国の越生四郎左衛門尉に討たれました、首を丹後国の住人武藤右京進政清(武藤政清)が受け取り、兜・太刀・刀まで進覧([目上の人にお目にかけること])すると、師直はこれを実検して、疑うところがなかったので、抽賞([功績のあった者を抜き出して賞すること])を讃える御教書([家司が主の意思を奉じて発給した文書])を両人に下しました。哀れなことでした、顕家卿はその武略智謀に長け武家ではありませんでしたが、無双の勇将にして、鎮守府将軍に任じられて奥州の大軍を両度まで起こして、尊氏卿(足利尊氏)を九州の遠境に追い下し、君(南朝初代、後醍醐天皇)の震襟を快く安められたその誉れは、天下の官軍に先を争う輩もありませんでしたのに、聖運は天に叶わず、武徳([武士の威徳])の時代になって、股肱([主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下])の重臣は敢えなく戦場の草の露と消えてました、南都(南朝)の侍臣・官軍も、これを聞いて力を失いました。


続く


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by santalab | 2015-11-29 08:46 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」青野原軍事付嚢沙背水事(その15)

これによつて京都また騒動して、急ぎ討つ手の大将を差し向くべしとて厳命を被下しかども、軍忠異于他桃井もものゐ兄弟だにも抽賞ちうしやうの儀もなし。ましてその已下いげの者はさこそあらんずらんとて、かつて進む兵更になかりける間、かくては叶ふまじとて、師直もろなほ一家いつけを尽くして打ち立ち給ひける間、諸軍勢これに驚いて我も我もと馳せ下る。さればその勢雲霞の如くにて、八幡山やはたやまの下四方しはう尺地せきちも不残満ち満ちたり。されども要害の堀きびしくして、猛卒悉く心ざしを同じうして立て篭もりたる事なれば、寄せ手毎度戦ひに利を失ふと聞こへしかば、桃井兄弟の人々、我が身をかへりみて、今度の催促にも不応、都に残り留まられたりけるが、高家氏族かうけしぞくを尽くし大家軍兵を起こすと云へども、合戦利を失ふと聞きて、余所には如何見て過ぐすべき。述懐は私事、弓矢の道は公界くがいの義、遁れぬところなりとて、ひそかに都を打ち立つて手勢計りを引率いんぞつし、御方の大勢にも不牒合、自身山下さんげに推し寄せ、一日一夜攻め戦ふ。これにして官軍くわんぐん若干そくばく討たれ疵をかうむりける。直信なほのぶ・直常の兵ども、残り少なに手負ひ討たれて、御方の陣へ引いてくははる。この頃の京童部わらんべ桃井塚もものゐづかと名付けたるは、兄弟合戦の在所なり。これを始めとして厚東こうとう駿河のかみ大平おほひら孫太郎・和田近江あふみの守自ら戦ひて疵を被り、数輩すはい若党わかたうを討たせ、日夜旦暮たんぼ相挑あひいどむ。




これによって京都はまた騒動して、急ぎ討っ手の大将を差し向けるべしと厳命を下されましたが、とりわけ軍忠([軍功])があった桃井兄弟(桃井直常ただつね直信ただのぶ)にさえ抽賞([功績のあった者を抜き出して賞すること])の儀もなかったのだ。ましてそれ以下の者にあろうはずもないと、あえて進む兵はありませんでした、仕方なく、師直(高師直)が一家残らず打ち立ったので、諸軍勢もこれに驚いて我も我もと馳せ下りました。こうしてその勢は雲霞の如くとなり、八幡山(現京都府八幡市)の下四方に尺地([わずかな土地])も残らず兵で充満しました。けれども要害([攻防上で重要な地点])の堀の守りは固く、猛卒は残らず心ざしを同じくして立て籠もっていたので、寄せ手は毎度戦いに敗れていると聞こえました、桃井兄弟の人々は、我が身に対する処遇に満足せず、今度の催促にも応じず、都に残り留まっていましたが、高家氏族が残らず軍兵を起こしながら、合戦に敗れたと聞いて、知らぬ顔もできまい。述懐([愚痴や不平を言うこと])は私事、弓矢の道は公義である。逃れるべきではないと、密かに都を打ち立って手勢ばかりを引き連れ、味方の大勢にも付かず、手勢ばかりで山下に押し寄せ、一日一夜攻め戦いました。これによって官軍も多少討たれ疵を負いました。直信・直常の兵も、残り少なに手負い討たれて、味方の陣へ引き退いて加わりました。今京童部が桃井塚と呼んでいるのは、兄弟が合戦した場所なのです。これをはじめとして厚東駿河守・大平孫太郎・和田近江守も戦かって疵を被り、数人の若党が討たれましたが、日夜旦暮に戦いを挑みました。


続く


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by santalab | 2015-11-29 08:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」青野原軍事付嚢沙背水事(その14)

顕家あきいへきやうこれを聞きて、般若坂はんにやざかに一陣を張り、都よりの敵に相当あひあたる。桃井もものゐ直常兵の先に進んで、「今度諸人の辞退する討つ手を我ら兄弟ならでは不可叶とて、そのえらびに相当たる事、かつうは弓矢の眉目びぼくなり。この一戦に利を失はば、度々の高名かうみやう泥土でいどまみれぬべし。心ざしを一つに励まして、一陣を先づ攻め破れや」と下知げぢせられしかば、曽我左衛門さゑもんじようを始めとして、究竟くつきやうの兵七百余騎身命を捨てて切つて入る。顕家の卿の兵も、ここを先途と支へ戦ひしかども、長途ちやうどの疲れ武者何かは叶ふべき。一陣・二陣あらけ破れて、数万騎の兵ども、思ひ思ひにぞ成りにける。顕家の卿も同じく在所を知らず成り給ひぬと聞こへしかば、直信なほのぶ・直常兄弟は、大軍を容易く追ひ散らし、その身は無恙都へかへり上られけり。されば戦功は万人の上に立ち、抽賞ちうしやうは諸卒の望みを塞がんと、独りみして待ち給ひたりしかども、更にその功その賞に不中しかば、桃井もものゐ兄弟はよろづ世の中を述懐じゆつくわいして、天下てんがの大変を憑みに懸けてぞ待たれける。懸かるところに、顕家の卿舎弟春日の少将せうしやう顕信あきのぶ朝臣、今度南都を落ちし敗軍を集め、和泉いづみさかひに打ち出でて近隣ををかし奪ひ、やがて八幡山に陣を取つて、いきほひ京洛を呑む。




顕家卿(北畠顕家)はこれを聞いて、般若坂(奈良坂。現奈良県奈良市の北から京都府木津川市木津に出る坂道)に一陣を張り、都からの敵を待ち構えました。桃井直常(桃井直常ただつね)は兵の先を進んで、「今度諸人が辞退する討っ手を我ら兄弟の他になしと、選ばれた者ぞ、弓矢の眉目([名誉])である。だがこの一戦に敗れれば、度々の高名はずべて泥土に塗れよう。心ざしを一つに励まして、一陣をまず攻め破れ」と命じたので、曽我左衛門尉(曽我師助もろすけ)をはじめとして、究竟の兵七百余騎が身命を捨てて切り入りました。顕家卿の兵も、ここを先途([勝敗・運命などの大事な分かれ目])と防ぎ戦いましたが、長旅の疲れ武者では敵うはずもありませんでした。一陣・二陣が散るように破られて、数万騎の兵どもは、散り散りになりました。顕家卿も同じく居場所も知れなくなったと聞こえたので、直信(桃井直信。直常の弟)・直常兄弟は、大軍を容易く追い散らし、その身は無事に都に帰り上りました。なれば戦功は万人の上に立ち、抽賞([功績のあった者を抜き出して賞すること])は諸卒の望みを絶つであろうと、独り笑みを浮かべて待っていましたが、まったく功賞はなく、桃井兄弟は世の中を述懐([愚痴や不平を言うこと])しながら、天下の大変を頼みにして待ちました。そうこうするところに、顕家卿の弟春日少将顕信朝臣(北畠顕信)が、この軍で南都を落ちた敗軍を集め、和泉の境に打ち出でて近隣の者どもを奪い集めて、やがて八幡山(現京都府八幡市)に陣を取りました、その勢いはまさに京洛を呑み込もうとしていました。


続く


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by santalab | 2015-11-29 08:28 | 太平記 | Comments(0)

    

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