Santa Lab's Blog


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明日に向かって走れ(言葉拙くて)

多分に誤解を生むと確信しながらも、ふとこんなことを思い浮かべている。一方は経験したこともなく比較さえ適わぬことであるし、ならば仮説とも言えない戯言に違いないのだけれど。まったく無責任な台詞に違いなく。


「戦争」が悪いのではない。「戦闘」=「軍」は今の世の中、「戦争」もなく故に「平和」と呼ばれる中にも常に起こっていると実感しているが、「国」対「国」が戦争であるとして、「人」対「人」をそう呼ばないとしても、単に「大きい」か「小さい」の違いではなかろうか。もとい、「戦争」が悪いのではない。「憎しみ」を生じること、詰まるところ「不完全」であることが「悪」である。「憎む者」、「憎まれる者」互いに言い分はあろう。でも、それは「憎しみ」を解き放つほどの「力」を持たない。


例えば、「こんなに愛しているのに」。「ゴメンナサイ(気持ち悪いことを言わないでよ)」。最終兵器「歩み寄り」では何も解決しないし、互いに一歩を引いて「和解」するとも思えなく。「軍」「国交断絶」との違いは何であろうか。


2016年がいい年になりますように。


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by santalab | 2015-12-31 21:52 | 独り言 | Comments(0)


「太平記」主上・上皇御沈落事(その11)

中吉ながぎりはかりごとに道開けて、主上しゆしやうその日は篠原しのはらの宿に着かせ給ふ。ここにて怪しげなる網代あじろの輿をたづね出だして、歩立かちだちなる武者どもにはかに駕輿丁かよちやうの如くに成つて、御輿の前後をぞ仕りける。天台の座主ざす梶井かぢゐ二品親王にほんしんわうは、これまで御供申させ給ひたりけるが、行くすゑとても道のほど心安く可過とも思えさせ給はねば、いづくにもしばし立ち忍ばばやと思し召して、「御門徒に誰かさぶらふ」と御たづねありけれども、「去んぬる夜の路次ろしの合戦に、あるひは疵をかうむつて留まり、あるひは心替こころがはりして落ちけるにや。中納言僧都そうづ経超きやうてう二位にゐ寺主てらじ浄勝じやうしよう二人ににんより外ほかは供奉ぐぶ仕りたる出世しゆつせ坊官ばうくわん一人も候はず」とまうしければ、さては殊更長途ちやうど逆旅げきりよ叶ふまじとて、これより引き別れて、伊勢の方へぞ赴かせ給ひける。




中吉(十郎)の謀に道は開けて、主上(北朝初代、光厳くわうごん天皇)はその日篠原宿(現滋賀県近江八幡市)に着きました。ここで粗末な網代([檜のへぎ板・竹・葦などを,斜めまたは縦横に組んだもの])の輿を探し出して、歩きの武者どもがたちまち駕輿丁([貴人の駕籠や輿を担ぐ人])のように、輿の前後を勤めました。天台座主梶井二品親王(第九十三代後伏見天皇の第六皇子、承胤しよういん法親王)は、ここまで供をいておりましたが、行く末とても道中安全だとも思えませんでしたので、どこにでもしばらく忍んでいようと思われて、「門徒の者が誰かおるか」と訊ねましたが、「さる夜の路次の合戦で、あるいは疵を負って留まり、あるいは心替わりして落ちたのでしょうか。中納言僧都経超、二位の寺主浄勝二人のほかは供奉をしております出世([僧])・坊官は一人もおりません」と申したので、ならばとても長途の逆旅([旅])は叶うまいと、これより引き分かれて、伊勢の方に向かいました。


続く


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by santalab | 2015-12-31 08:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新将軍京落事(その2)

宰相さいしやう中将ちゆうじやう殿は二日より東寺に陣取ぢんどりて、着到を付けられけるに、御内・外様の勢四千しせん余騎と注せり。「さては敵の勢よりも、御方はなほ多かりけり。外都ぐわいとに向かつて防ぐべし」とて、時の侍所なればとて、佐々木の治部ぢぶ少輔せう高秀たかひでを、摂津の国へ差し下さる。当国は親父道誉だうよ管領くわんれいの国なれば、国中こくぢゆうの勢を相催あひもよほして、五百余騎忍常寺にんじやうじを陣に取つて、敵を目の下に待ち懸けたり。今川伊予のかみに三河・遠江の勢を付けて、七百余騎山崎へ差し向けらる。吉良治部ぢぶ太輔たいふ・宇都宮三河三郎・黒田判官を大渡おほわたりへ向けらる。自余の兵千余騎、淀・鳥羽・伏見・竹田へ控へさせ、羽林うりんの兵千余騎をば、東寺の内にぞ籠められける。




一方宰相中将殿(北畠顕能あきよし)は二日より東寺(現京都市南区にある寺。教王護国寺)に陣取って、着到([着到状]=[武士が幕府などに加勢の催促を受けて所定の場所に到着した事を記し、上申する文書])を付けて、身内・外様の勢四千余騎と記しました。「ならば敵の勢よりも、味方は多いぞ。外都に向かい敵を防ぐべき」と申して、時の侍所なればと、佐々木治部少輔高秀(佐々木高秀)を、摂津の国へ下しました。当国は親父道誉(佐々木道誉)が管領する国でしたので、国中の勢を集めて、五百余騎で忍常寺(現兵庫県川西市にある寺)を陣取って、敵を眼下に待ち受けました。今川伊予守(今川貞臣さだおみ)に三河・遠江の勢を付けて、七百余騎で山崎へ差し向けました。吉良治部太輔(吉良治家はるいへ)・宇都宮三河三郎(宇都宮久憲ひさのり蒲池かまち久憲)・黒田判官を大渡(淀大渡)へ差し向けました。自余の兵千余騎は、淀(現京都市伏見区)・鳥羽(現京都市南区・伏見区)・伏見(現京都市伏見区)・竹田(現京都市伏見区)へ控えさせ、羽林([近衛府の唐名])の兵千余騎は、東寺に残しました。


続く


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by santalab | 2015-12-30 10:48 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上・上皇御沈落事(その10)

六騎の兵、六方へ分かれて、逃ぐるを追ふ事各々数十町すじつちようなり。弥八余りに長追ひしたりけるほどに、野伏二十余人かへし合はせて、これを中に取り篭むる。しかれども弥八少しもひるまず、その中の棟梁とうりやうと見へたる敵に、馳せ並べてむずと組み、馬二疋があひだへどうど落ちて、四五丈許り高き片岸かたきしの上より、上に成り下に成りころびけるが、共に組みも放れずして深田の中へころび落ちにけり。中吉なかぎり下に成りてければ、挙げ様に一刀刺さんとて、腰刀をさぐりけるにころぶ時抜けてや失せたりけん、鞘許りあつて刀はなし。上なる敵、中吉が胸板の上に乗つ懸かつて、びんの髪を掴んで、首を掻かんとしけるところに、中吉刀加かたなぐはへに、敵の小腕をちやうとにぎりすくめて、「暫く聞き給へ、可申事あり。御辺今は我をな恐れ給ふそ、刀があらばこそ、刎ね返して勝負をもせめ。また続く御方なければ、落ち重なつて我を助くる人もあらじ。されば御辺の手に懸けて、首を取つて被出さたりとも、かつて実検にも及ぶまじ、高名かうみやうにも成るまじ。我は六波羅殿の御雑色おんざふしきに、六郎太郎と云ふ者にて候へば、見知りぬ人は候まじ。無用の下部の首取つて罪を作り給はんよりは、我が命を助けてび候へ、その悦びには六波羅殿の銭を隠して、六千貫被埋たる所を知つて候へば、手引きまうして御辺に所得せさせ奉らん」と云ひければ、まこととや思ひけん、抜いたる刀を鞘に差し、下なる中吉を引き起こして、命を助くるのみならず様々の引出物をし、酒なんどを勧めて、京へ連れて上りたれば、弥八六波羅の焼け跡へ行き、「まさしくここに被埋たりし物を、早や人が掘つて取りたりけるぞや。徳着け奉らんと思うたれば、耳のびくが薄くおはしけり」と欺いて、空笑ひしてこそ返しけれ。




六騎の兵は、六方へ分かれて、逃げる野伏どもを各々数十町追い駆けました。弥八はあまりに長追いしたので、野伏二十余人は引き返して、弥八を中に取り籠めました。けれども弥八は少しもひるむことなく、その中の棟梁と思える敵に、馳せ並べてむずと組み、馬二匹の間に落ちて、四五丈ばかりの高い片岸([一方が 険しいがけになっている所])の上より、上になり下になり転がり落ちて、共に組みも放れず深田の中へ転び落ちました。中吉が下になったので、振り上げ様に一刀刺そうと、腰刀を探りましたが転んだ時に抜けてなくしたか、鞘ばかりあって刀はありませんでした。上の敵は、中吉の胸板の上に乗っかかって、鬢の髪を掴んで、首を掻こうとしましたが、中吉刀が使えないように、敵の小腕([腕の、ひじより先の部分])を挟み付けて、「しばらく聞かれよ、申すことがある。心配はいらぬ、刀があれば、刎ね返して勝負をするところだが。また後に続く味方もいない、落ち重なって我を助ける者もいない。ならばお主の手にかけて、我が首を捕ったところで、実検([首実検]=[戦場で討ち取った敵の首を大将の前で面識者に見せ、その首の主を確認させたこと])にも及ばず、高名にもなるまい。我は六波羅殿(北条仲時なかとき。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方)の雑色で、六郎太郎と言う者よ、見知った人はおるまい。つまらぬ下部の首を捕って罪を作るよりは、命を助けよ、その礼には六波羅殿が銭を隠して、六千貫埋めた所を知っておる、手引きしてお主に取らせよう」と言うと、本当と思ったか、抜いた刀を鞘に差し、下の中吉を引き起こして、命を助けるのみならず様々の引き出物をし、酒を勧めて、京に連れ立ち上りました、弥八は六波羅の焼け跡に連れて行き、「たしかにここに埋めたはずだが、早くも誰かが掘って盗んだか。お主に徳を付けてやろうと思ったのに、耳のびく([耳たぶ])が薄いお人よ」とだまして、空笑いして野伏を帰しました。


続く


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by santalab | 2015-12-30 08:43 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」頓宮心替事付畠山道誓事(その7)

さてその後は後陣ごぢんに防ぎ矢少々射させて、その夜小田原の宿を落ちて、伊豆の修禅寺しゆぜんじに立て籠る。その後畠山が舎弟尾張をはりかみ義深よしふか、信濃へ越えて、諏防すは祝部はふりと引き合つて、敵になると聞こへしかば、東国・西国・東山道とうせんだう、一度にいかさま起こり合ひぬと、洛中の貴賎騒ぎ合へり。




その後は後陣に防ぎ矢を少々射させて、畠山道誓だうせい(畠山国清くにきよ)はその夜小田原宿(現神奈川県小田原市)を落ちて、伊豆の修禅寺(現静岡県伊豆市にある寺院)に立て籠もりました。その後畠山(国清)の弟の尾張守義深(畠山義深)っは、信濃に越えて、諏防神社(現長野県諏訪市・茅野市にある諏訪大社)の祝部([神職の総称])が力を合わせて、敵となったと聞こえたので、東国・西国・東山道で、一度に蜂起するのではないかと、洛中の貴賎は騒ぎ合いました。


続く


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by santalab | 2015-12-29 09:34 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」頓宮心替事付畠山道誓事(その6)

しもとしてかみを退くる嗷訴がうそ下刻上げこくじやうの至りかなと、心中にはいきどほり思はれけれども、この者どもに背かれなば、東国は一日も無為なるまじと思して、やがて畠山が許へ使ひを立て、「去々年上洛しやうらくの時、南方退治たいぢの事は次になつて、もつぱら仁木右京うきやうの大夫を討たんと被謀候ひし事、隠謀のその一つにてあらずや。その後関東くわんとうに下向して、差したる罪科なく諸人の所帯を没収もつしゆせられ候ひける事、ただ世を乱して、基氏もとうぢを天下の人に背かせんとのくはたてにてぞ候ふらん。反逆ほんぎやく方々露顕ろけんの上は一日も門下に跡を留むべからず。退出及遅々、すみやかに討つ手を差し遣はすべし」とぞ言ひ送られける。畠山はその頃鎌倉にありけるが、この上は陳じ申すとも叶ふまじとて、兄弟五人並びに郎従以下引き具して、三百余騎伊豆いづの国を指して落ちて行く。この勢小田原の宿に着きたりける夜、土肥とひ掃部かもんの助、「御敵になつて落つる者に、矢一つ射懸けずと言ふ事やあるべき」とて、主従ただ八騎にて小田原の宿へ押し寄せ、風上より火を懸けて、けぶりの下より斬つて入る。畠山が方に、遊佐ゆさ神保じんぼ・斎藤・杉原、出で向かつて散々に追ひ払ふ。これほど小勢なりけるものをとて、時の興にぞ笑ひ合ひける。




下の者が上を退ける強訴([強硬な態度で相手に訴えかける行動])は、下刻上([室町時代において、社会的に身分の低い者が身分の上位の者を実力で倒す風潮])の最たるものと、心中では怒りを覚えましたが、この者どもに背かれれば、東国は一日も穏やかではあるまいと思い、やがて畠山(畠山国清くにきよ)の許へ使いを立て、「去々年上洛の時、南方(南朝)退治のことは次にして、ひたすら仁木右京大夫(仁木義長よしなが)を討つことを謀ったのは、隠謀([ひそかにたくらむ悪事])のその一つではなかったか。その後関東に下向して、さして罪科もなく諸人の所帯を没収しておるのは、ただ世を乱して、この基氏(足利基氏。足利尊氏の四男。初代鎌倉公方)を天下の人に背かせようとの企てであろう。反逆方々露顕の上は一日も門下に跡を留めることはならぬ。早々に退出しなければ、すみやかに討っ手を差し遣わす」と伝えました。畠山(国清)はその頃鎌倉にいましたが、この上は陳じ申すとも叶うまいと、兄弟五人並びに郎従([家来])以下を引き連れて、三百余騎で伊豆国を指して落ちて行きました。この勢が小田原宿(現神奈川県小田原市)に着いた夜、土肥掃部助は、「敵になって落ちて行く者に、矢の一つも射懸けずということがあってよいものか」と、主従ただ八騎で小田原宿へ押し寄せ、風上より火を懸けて、煙の中を斬って入りました。畠山方に、遊佐・神保・斎藤・杉原という者どもが、出で向かって散々に追い払いました。これほどの小勢なる者に何が出来ようと、時の興と笑い合いました。


続く


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by santalab | 2015-12-29 09:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」頓宮心替事付畠山道誓事(その5)

その濫觴らんしやう何事ぞとたづぬれば、去々年の冬、畠山入道にふだう南方退治たいぢの大将として上洛しやうらくせし時、東八箇国の大名・小名数を尽くしてぞ上りける。この軍勢長途ちやうどに疲れ数月すげつの在陣にくたびれて、馬物の具を売るくらゐになりしかば、こらへかねて、畠山にいとまをも乞はず抜け抜けに大略本国へ下りける。遥かに程経て、畠山関東くわんとうに下向して彼らが一所懸命の所領どもを没収もつしゆして、歎けども耳にも聞き入れず、たまたま披露する奉行あれば、大きに鼻を突かせ追ひ込みける間、訴人そにんいたづらに群集くんじゆして、愁へを不懐言ふ者なし。しばらくは訴詔を経てまはりけるが、あまりに事興盛こうせいしければ、宗との者ども千余人、神水じんずゐを呑んで、所詮畠山入道にふだうを執権に召され仕り、毎事御成敗に随ふまじき由を左馬のかみへぞ訴へ申しける。




その濫觴([物事の起こり])を尋ねれば、去々年の冬、畠山入道(畠山国清くにきよ)が南方(南朝)退治のの大将として上洛した時、東八箇国の大名・小名が数を尽くして京に上りました。軍勢は長途([長旅])に疲れ数月の在陣にくたびれて、馬物の具([武具])を売るほどになって、堪えかねて、畠山(国清)に暇も請わず抜け抜けにほとんど本国へ下ってしまいました。遥かに程経て、畠山(国清)が関東に下向すると彼らの一所懸命([中世、一箇所の領地を命をかけて生活の頼みにすること])の所領を没収して、嘆けども聞き入れませんでした、たまたま訴え申す者あれば、威迫したので、訴人は増えるばかりで、憂えを訴える者はいなくなりました。訴詔状ばかりが出されましたが、あまりにも過ぎた振る舞いでしたので、主な者ども千余人が、神水を呑んで([一味神水]=[中世・近世に、一揆などで誓約を結ぼうとする者が、起請文などを記し、各自署名の上、それを灰にして、神前に供えた水にまぜ、一同回し飲みして団結を誓い合った儀式])、畠山入道(国清)を執権になされてからというもの、御成敗にはとても従うことができないと左馬頭(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)へ訴え申しました。


続く


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by santalab | 2015-12-29 08:34 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」頓宮心替事付畠山道誓事(その4)

さるほどに仁木中務なかつかさ少輔せうは、京より伊勢へ落ちて、相摸のかみ相従あひしたがふと聞こへ、兵部ひやうぶの少輔氏春うぢはるは、京より淡路へ落ちて国中こくぢゆうの勢を相付けて、相摸の守に力を合はせ、兵船を調へて堺の浜へ着くべしと披露あり。摂津つの国源氏松山は、香下かしたじやうこしらへて南方にてふし合はせ、播磨路はりまぢを差し塞いで、人を通はせずと聞こへければ、一方ひとかたならぬ蜂起に、京都以外に周章しうしやうして、すはや世の乱出で来ぬと危ぶまぬ人もなかりけり。宰相さいしやう中将ちゆうじやう殿は畿内の蜂起を聞いて、「近国はたとひ起こるとも、坂東しづかなれば、東八箇国の勢召し上せて退治たいぢせんに、何ほどの事かあるべし」とて、あながちに騒ぐ気色もなかりけるところに、康安こうあん元年十一月十三日、関東くわんとうより飛脚到来して、「畠山入道にふだう道誓だうせい、舎弟尾張をはりの守御敵になつて、伊豆いづの国に立て籠り候ふ間、東国のみち塞がつて、官軍くわんぐんもよほしに応じず」とぞ申しける。




そうこうするほどに仁木中務少輔は、京から伊勢へ落ちて、相摸守(細川清氏きようぢ)に従うと聞こえたので、兵部少輔氏春(細川氏春)は、京より淡路に落ちて国中の勢を付けて、相摸守(細川清氏)に力を合わせ、兵船を調えて堺の浜(現大阪府堺市)へ着くと知らせました。摂津国の源氏松山(松山左馬頭)は、香下城(現兵庫県三田市)を造り南方(南朝)に牒し合わせ([文書による通告])、播磨路を差し塞いで、人を通わせずと聞こえたので、並々でない蜂起に、京都の外までさわぎになって、世の乱が起こるのではないかと危ぶまない人はいませんでした。宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)は畿内の蜂起を聞いて、「近国がたとえ起こるとも、坂東が静かならば、東八箇国の勢を召し上せて退治すればよい、何の心配もいらぬ」と申して、わずかも騒ぐことはありませんでしたが、康安元年(1361)十一月十三日に、関東より飛脚が到来して、「畠山入道道誓(畠山国清くにきよ)、舎弟尾張守(畠山義深よしふか)が敵となって、伊豆国に立て籠っております、東国の路は塞がって、官軍は集まりません」と申しました。


続く


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by santalab | 2015-12-29 08:26 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」頓宮心替事付畠山道誓事(その3)

清氏きようぢさしもの勇士なりしかども、かくては敵はじとや思はれけん、舎弟右馬の助とただ二騎打ち連れて篠峯ささのみね越に忍んで都へ紛れ入る。一夜のほども洛中には隠れ難きと思はれければ、兄弟別々になつて、相摸のかみは東坂本へ打ち越へ、一日馬の足を休めて天王寺てんわうじへ落ちければ、右馬のかみは夜半に京中きやうぢゆうを打ち通り、大渡おほわたりを経て、かねての合図あひづを違はず天王寺へぞ落ち着きける。相摸の守やがて石堂刑部卿の許へ使者を立て、「清氏すでに讒に依る者訴へ、罪なく死罪を行はれんと候ひつる間、身の置き所なき余りに、天恩を戴いて軍門に降参仕つて候ふ。旧好きうかうその故も候へば、ひたすら貴方きはうを頼み申すにて候ふ。ともかくもしかるべき様に御計らひ候へ」とぞ言ひ遣はされける。石堂刑部卿急ぎ使者に対面して、先づとかくの返事に及ばず、「こはそも夢かうつつか」とて、やや久しく涙を袖に押さへらる。やがて参内して事の子細を奏聞せられけるに、左右の大臣相議あひぎしていはく、「敵軍かうべを延べて帝徳にくだる。天恩なんぞこれをめぐまれざらん。早く軍門に慎しみ仕へて、征伐の忠をもつぱらにすべし」と、恩免の綸旨りんしを下されしかば、石堂限りなく悦びて、すなはち細河に対面し給ふ。互ひに言葉なくして涙にむせび給ふ。しばらくあつて、「世の転変今に始めぬ事にて候へども、不慮の参会こそ多年の本意にて候へ」とばかり、色代しきだいしてぞ帰られける。ただ秦の章邯しやうかん趙高てうかうざんを恐れ、楚の項羽かううに降りし時、面を垂れ涙を流して言葉には出でずども、讒者の世を乱る恨みを含みし気色に異ならず。




清氏(細川清氏)は勝れた勇士でしたが、こうなっては敵わないと思ったか、舎の右馬助とただ二騎打ち連れて篠峯越([仰木越]=[現滋賀県大津市と京都市左京区大原を結ぶ峠])で忍んで都に紛れ入りました。一夜のほども洛中には隠れることは叶わぬと思い、兄弟別々になつて、相摸守(細川清氏)は東坂本(現滋賀県大津市)へ打ち越え、一日馬の足を休めて天王寺(現大阪市天王寺区)へ落ちると、右馬頭は夜半に京中を打ち通り、大渡(木津川の渡り)を経て、かねての合図通り天王寺に落ち着きました。相摸守はやがて石堂刑部卿(石塔頼房よりふさ)の許へ使者を立て、「清氏すでに讒言により、罪なく死罪になろうとしておりましたが、身の置き所もなく、天恩を戴いて軍門に降参する次第でございます。旧好の好がございますれば、ひたすら貴方を頼み申すものでございます。ともかくもしかるべき様に計らわれますよう」と伝えました。石堂刑部卿(石塔頼房)は急ぎ使者に対面して、まずは返事にも及ばず、「これはそもそも夢か現か」と申して、ややしばらく涙を袖で押さえていました。やがて参内して事の子細を奏聞すると、左右の大臣が相議して申すには、「敵軍が首を延べて帝徳に降るのだ。天恩なんぞこれに恵みを与えぬことがあろうや。早く軍門に慎しく仕えて、征伐の忠を尽くせ」と、恩免の綸旨を下しました、石堂(石塔頼房)は限りなくよろこんで、すぐに細川(清氏)と対面しました。互いに言葉をなくして涙に咽ぶばかりでした。しばらくあって、「世の転変は今にはじめぬことでございますが、不慮の参会こそ多年の本意でございます」とばかり、色代([挨拶])して帰りました。ただ秦の章邯(秦の将軍)・趙高(秦の宦官、政治家)が、讒言を恐れて、楚の項羽に降った時、顔を伏せ涙を流して言葉にはしませんでしたが、讒者が世を乱す恨みを抱いたのに異なりませんでした。


続く


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by santalab | 2015-12-29 08:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」頓宮心替事付畠山道誓事(その2)

朝倉が兵三百余騎鬨の声に驚きて、「すはや相摸のかみの寄せたるは。定めて大勢にてぞあるらん。引いて後陣ごぢんの勢にくはれ」とて、矢の一つをも射ず、朝倉敦賀を引きければ、相伴あひともなふ兵三百余騎、馬物の具を取り捨てて、越前の府へぞ逃げたりける。さればこそ思ひつる事よと、人毎に言ひもてあそぶと沙汰せしかば、尾張をはり左衛門さゑもんすけ大きに怒つて、やがて大勢を率して十月二十九日椿峠へ打ち向かふ。相摸守のこれを聞きて、「今度は一人も敵と言ふ者を生けて遣るまじければ、自身向かはでは叶ふまじ」とて、城には頓宮四郎左衛門しらうざゑもんじようを残し置き、舎弟右馬の助ともに五百余騎にて追手おふての敵に馳せ向かふ。敵陣難所なれば、待ちてや戦ふ、懸かりやすると思安しあんして、いまだ戦ひ決せざるところに、重恩他に異なれば、これぞ二心あるまじき者と頼まれける頓宮四郎左衛門にはかに心替はりして、旗を上げ木戸を打つて寄せ手の勢を後ろより城へ引き入れける間、相摸の守に相従あひしたがつはものども、戦ふべき力尽き果てて、右往左往に落ちて行く。朽ちたる縄を以つて、六馬をば繋ぎて留むるとも、ただ頼み難きこの頃の武士の心なり。




朝倉の兵三百余騎は鬨の声に驚いて、「相摸守(細川清氏きようぢ)が攻めて来たぞ。きっと大勢に違いない。引いて後陣の勢に加われ」と、矢の一つも射ず、朝倉は敦賀(現福井県敦賀市)を引き退いたので、従う兵三百余騎は、馬物の具([武具])を捨てて、越前の府(現福井県越前市)に逃げました。だから申したではないかと、人は皆馬鹿にしているぞと知らせたので、尾張左衛門佐(六角氏頼よりうぢ)はたいそう怒って、すぐに大勢を率して十月二十九日に椿峠(現福井県三方郡美浜町)に向かいました。相摸守(細川清氏)はこれを聞いて、「今度は一人も敵という者は生かして帰す訳にはいかぬ、このわしが向かずにおれようか」と申して、城には頓宮四郎左衛門尉を残し置き、弟の右馬助とともに五百余騎で追っ手の敵に馳せ向かいました。敵陣は難所にありましたので、待って戦うべきか、打って懸かるかと思案して、まだ戦いが起こらぬ前に、重恩他人に勝れて、二心あるとも思えぬ者と頼りにしていた頓宮四郎左衛門がにわかに心替わりして、旗を上げ木戸を打ち破って寄せ手の勢を後ろより城へ引き入れたので、相摸守に従う兵どもは、戦う力も尽き果てて、右往左往に落ち行きました。朽ちた縄で、六馬を繋ぐとも([朽索きゆうさくの六馬をぎよするが如し]=[腐った縄で六頭の馬を操るように、非常に困難で危険なことのたとえ。『書経』])、ただ頼み難いのがこの当時の武士の心でした。


続く


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by santalab | 2015-12-29 07:13 | 太平記 | Comments(0)

    

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