Santa Lab's Blog


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「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その9)

程経て後、江戸遠江の守、竹沢右京うきやうすけを縁に取つて兵衛の佐に申しけるは、「畠山殿故なく懸命の地を没収もつしゆせられ、伯父甥ともに牢篭らうろうの身と罷りなる間、力及ばずとも一族どもを引卒いんぞつして、鎌倉殿の御陣に馳せ向かひ、畠山殿に向かつて一矢射んずるにて候ふ。ただしさるべき大将をあふぎ奉らでは、勢の付く事あるまじきにて候へば、佐殿を大将に頼み奉らんずるにて候ふ。先づ忍びて鎌倉へ御越し候へ。鎌倉中に当家の一族いかなりとも二三千騎もあるべく候ふ。その勢を付けて相摸の国を打ち従へ、東八箇国を推して天下をくつがへはかりことを廻らし候はん」と、まことに容易げにぞ申したりける。さしも心ざし深き竹沢が執し申すなれば、非所疑頼まれて、すなはち武蔵・上野・常陸・下総の間に、内々与力しつる兵どもに、事の由を相触あひふれて、十月十日の暁に兵衛ひやうゑすけ殿は忍んで先づ鎌倉へとぞ急がれける。江戸・竹沢はかねて支度したる事なれば、矢口の渡りの舟の底を二所ふたところいて、みを差し、渡しの向かふにはよひより江戸遠江とほたふみかみ・同じく下野しもつけの守、混物具ひたもののぐにて三百余騎、木の陰岩の下に隠れて、余る所あらば討ち止めんと用意したり。跡には竹沢右京うきやうすけ究竟くつきやうの射手百五十人選つて、取つて帰されば遠矢とほやに射殺さんと巧みたり。




程経て後、江戸遠江守(江戸長門ながかど?)は、竹沢右京亮を伝手にして、兵衛佐(新田義興よしおき。新田義貞の次男)に申すには、「畠山殿(畠山国清くにきよ)故なく懸命の地を没収されて、伯父甥ともに牢篭の身となりました、力及ばずとも一族どもを引卒して、鎌倉殿(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)の陣に馳せ向かい、畠山殿(畠山国清=道誓)に向かって一矢射る覚悟でございます。ただしそれなりの大将がいなくては、勢が付くことはないと思い、佐殿(新田義興)を大将にとお頼みする次第でございます。まずは忍んで鎌倉へお越しくださいますよう。鎌倉中には当家の一族少なくとも二三千騎はあると思われます。その勢を付けて相摸国を打ち従え、東八箇国を平定して天下を覆そうと考えております」と、まこと容易げに申しました。心ざし深い竹沢があえて申すことでしたので、疑うことなく了承して、たちまち武蔵・上野・常陸・下総に、内々与力する兵どもに、事の由を触れ回り、十月十日の暁に兵衛佐殿は忍んでまず鎌倉へ急ぎました。江戸・竹沢はかねてより支度していたことでしたので、矢口の渡り(現東京都大田区矢口)の舟底を二箇所彫り貫いて、鑿を差し、渡しの向こう岸には宵のうちに江戸遠江守(江戸長門ながかど?)・同じく下野守、混物具([直兜]=[一同そろって鎧兜に身を固めること])で三百余騎、木の陰岩の下に隠れて、漏らす兵あらば討ち止めようと用意していました。後には竹沢右京亮が、究竟の射手百五十人を選って、取つて返すことあれば遠矢で射殺そうと待ち構えました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その8)

その後より竹沢我が力にてはなほ討ち得じと思ひければ、畠山殿の方へ使ひを立て、「兵衛ひやうゑすけ殿の隠れ居られて候ふ所をば委細ゐさいに存知仕つて候へども、小勢にては打ち漏らしぬと思へ候ふ。急ぎ一族にて候ふ江戸遠江とほたふみかみと下野守とを下され候へ。彼らによくよく評定ひやうぢやうして討ち奉り候はん」とぞ申しける。畠山大夫入道にふだう大きに悦びて、やがて江戸遠江の守とそのをひ下野しもつけの守を下されけるが、討つ手を下す由兵衛の佐伝へ聞かば、在所を替へて隔つる事もありとて、江戸伯父甥が所領、稲毛のしやう十二郷じふにがう闕所けつしよになしてすなはち給人きふにんをぞ付けられける。江戸伯父甥大きにいつはり怒つて、やがて稲毛の庄へ馳せ下り、給人を追ひ出だして城郭じやうくわくを構へ、一族以下の兵五百余騎招き集めて、「ただ畠山殿に向かひ一矢射て討ち死にせん」とぞ罵りける。




その後よりは竹沢は我が力では討つことはできまいと思い、畠山殿(畠山国清くにきよ)の方へ使いを立て、「兵衛佐殿(新田義興よしおき。新田義貞の次男)の隠れておられる所は、詳しく知っておりますが、小勢では討ち漏らすのではないかと思っております。急ぎ一族の江戸遠江守(江戸長門ながかど?)と下野守とを下されますよう。彼らとよくよく評定して討ちたいと思います」と申しました。畠山大夫入道(畠山国清=道誓)はたいそうよろこんで、たちまち江戸遠江守とその甥下野守を下すことにしmしたが、討手を下すことを兵衛佐が伝え聞けば、在所を変えることもあろうかと、江戸伯父甥の所領、稲毛庄(現神奈川県川崎市高津区・中原区)十二郷を闕所([所有者・権利者を欠いた土地])にしてすぐさま給人([幕府や荘園領主から給田などを与えられた人])を決めました。江戸伯父甥はたいそう怒った振りをして、やがて稲毛庄へ馳せ下り、給人を追い出して城郭を構え、一族以下の兵五百余騎呼び集めて、「ただ畠山殿に向かい一矢射て討ち死にしようぞ」と声を上げました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:51 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その7)

すけ殿これを見給ひて、執事の弾正を近付けて、「いかがあるべき」と問ひ給へば、井の弾正、「凶を聞きて慎しまずと言ふ事や候ふべき。ただ今夜の御遊ぎよいうをば止められるべきとこそ存じ候へ」とぞ申しける。佐殿げにもと思ひ給ひければ、にはかに風気ふうきの心地ありとて、竹沢をぞ帰されける。竹沢は今夜のくはたて案に相違して、安からず思ひけるが、「そもそも佐殿の少将の御局の文を御覧じて止まり給ひつるは、いかさま我がくはたてを内々すゐして告げ申されたるものなり。この女姓によしやうを生けて置きては叶ふまじ」とて、明けの夜密かに少将の局を門へ呼び出で奉て、差し殺して堀の中にぞしづめける。痛はしいかな、都をば打ち続きたる世の乱れに、荒れのみまさる宮の中に、年経て住みし人々も、秋の木の葉の散々に、をのが様々になりしかば、頼む影なくなり果てて、身を浮草の寄る辺とは、この竹沢をこそ頼み給ひしに、何故なにゆゑと、思ひ分きたる方もなく、見てだに消えぬべき秋の霜の下に伏して、深き淵に沈められ給ひける今際いまはきはの有様を、思ひ遣るだにあはれにて、よその袖さへしほれにけり。




佐殿(新田義興よしおき。新田義貞の次男)はこれを見て、執事井弾正(井伊興種)を近付けて、「いかがするべき」と訊ねると、井弾正は、「凶と聞いて慎しまずということがございましょうか。今夜の御遊は止められるべきでございましょう」と申しました。佐殿はもっともなことと思い、にわかに風気の心地ありと申して、竹沢を帰しました。竹沢は今夜の企てがうまくいかなかったことに、心穏やかではありませんでしたが、「そもそも佐殿の少将の局の文を見られて御遊を止められたのは、きっとこの企てを内々推測して申したのであろう。この女姓を生かしておいては叶うまい」と、明けの夜密かに少将の局を門へ呼び出して、刺し殺して堀の中に沈めました。いたわしいことでした、都では打ち続き世は乱れて、荒れのみまさる宮中に、年経て住んでいた人々も、秋の木の葉のように散々になって、各々様々になりました、頼む影はなくなり果てて、浮草のの身のより所と、この竹沢を頼みにしていましたが、どうしてなのかと、思う隙もなく、見ては消える秋の露の下に臥して、深き淵に沈められる今際の有様を、思い遣るさえ悲しくて、他の袖さえも萎れるのでした。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:48 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その6)

かやうに朝夕宮仕ひのらうを積み昼夜無二の心ざしをあらはして、半年ばかりになりにければ、佐殿今は何事に付けても心を置き給はず、謀反の計略、与力の人数、一事も残さず、心底しんていを尽くして知らされけるこそ浅ましけれ。九月十三夜は暮天ぼてん雲晴れて月も名にふ夜を顕はしぬと見へければ、今夜明月のくわいに事を寄せて佐殿を我がたちへ入れ奉り、酒宴のみぎりにて討ち奉らんと議して、無二の一族若党わかたう三百余人もよほし集め、我が館のかたはらにぞ籠め置きける。日暮れければ竹沢急ぎ佐殿に参つて、「今夜は明月の夜にて候へば、恐れながらわたくしの茅屋ばうをくへ御入り候ひて、草深き庭の月をも御覧候へかし。御内の人々をも慰め申し候はん為に、白拍子ども少々召し寄せて候ふ」と申しければ、「興ある遊びありぬ」と面々に皆悦びて、やがて馬に鞍置かせ、郎従ども召し集めて、すでに打ち出でんとし給ひけるところに、少将の御局よりとて佐殿へ御消息ごせうそくあり。開いて見給へば、「過ぎし夜の御事を悪しき様なる夢に見参らせて候ひつるを、夢説きに問ひて候へば、重き御慎しみにて候ふ。七日が間は門の内を御出であるべからずと申し候ふなり。御心得候ふべし」とぞ申されたりける。




こうして竹沢は朝夕宮仕えの労を積み昼夜無二の心ざしを顕して、半年ばかりになれば、佐殿(新田義興よしおき。新田義貞の次男)は何事に付けても心を置くことはありませんでした、謀反の計略、与力の人数、一事も残さず、心底を尽くして知らせることこそ嘆かわしいことでした。九月十三夜は暮天の雲が晴れて月もその名にふさわしく見えたので、この夜明月の会に事寄せて佐殿を竹沢の館に呼んで、酒宴の最中に討とうと示し合わせて、無二の一族若党三百余人を呼び集め、我が館の傍らに隠し置きました。日が暮れると竹沢は急ぎ佐殿の許に参って、「今夜は明月の夜を開きたく、恐れながらわたくしの茅屋へお越しいただき、草深き庭の月をご覧くださいませ。身内の人々を慰め申すために、白拍子([平安末期から鎌倉時代にかけて流行した歌舞。また、それを演じる遊女])どもを少々呼んでございます」と申せば、「おもしろい遊びではないか」と面々に皆よろこんで、やがて馬に鞍を置き、郎従([家来])どもを呼び集めて、すでに出ようとするところに、少将局よりと申して佐殿に消息([文])がありました。開いて見れば、「昨夜の悪い夢を見ましたので、夢説きに訊ねてみますと、重き慎しみでございます。七日の間は門の内をお出でになりませんようにと申しました。用心されますように」と書いてありました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:43 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その5)

義興よしおき元より好色かうしよくの心深かりければ、無類思ひ通はして一夜のほどの隔ても千年を経る心地に思えければ、常の隠れ家を替へんともし給はず、少しひたたけたる式にて、その方様の草の所縁までも、心置くべき事とは露ばかりも思ひ給はず。まことに褒姒ほうじ一度んで幽王いうわう傾国、玉妃かたはらに媚びて玄宗世を失ひ給ひしも、かくやと思ひ知られたり。されば太公望が、好利者与財珍迷之、好色者与美女惑之と、敵をはかる道ををしへしを知らざりけるこそ愚かなれ。かくて竹沢奉公の心ざし切なる由を申しけるに、兵衛ひやうゑすけ早や心打ち解けて見参し給ふ。やがて鞍置きたる馬三疋、ただ今をどし立てたるよろひ三領、召し替への為とて引き参らす。これのみならず、越後より付きまとひ奉てここかしこに隠れたるつはものどもに、皆一献を進め、馬・物の具・衣裳・太刀・刀に至るまで、用々に随ひて漏らさずこれを引きける間、兵衛の佐殿も竹沢を異于なりと思ひをなされ、傍輩はうばいどもも皆これに過ぎたる御要人ごえうにんあるべしと悦ばぬ者はなかりけり。




義興(新田義興よしおき。新田義貞の次男)は元より好色の者でしたので、類なく思い通い一夜のほどの隔ても千年を経る心地がして、常の隠れ家を替えることもなく、みだりがわしいほどでした、草([末々])の所縁に、用心すべきとは露ほども考えが及びませんでした。まことに褒姒(周の幽王の后。絶世の美女だったといわれ、西周を滅ぼす元凶となった)が一度笑んで幽王(周の第十二代の王)が国を傾け、玉妃(楊貴妃)が傍らで媚びて玄宗(唐の第九代皇帝)が世を失ったのも、このようにしてと思い知られました。なれば太公望が、金を好む者に珍宝を与えれば目がくらみ、好色の者に美女を与えれば惑わされると申した、敵を陥れる道を知らないことこそ愚かなことでした。こうして竹沢は奉公の心ざし切なる由を申すと、兵衛佐(新田義興)は早くも心を解いて見参しました。やがて鞍置きたる馬三匹、ただ今威し立てた鎧三領、召し替えのためと申して参らせました。こればかりでなく、越後より従い付きここかしこに隠れていた兵どもに、一献を勧め、馬・物の具([武具])・衣裳・太刀・刀に至るまで、それぞれ一人残らず贈ったので、兵衛佐殿も竹沢を格別に思うようになりました、傍輩どもも皆これに過ぎたる要人はないとよろこばない者はいませんでした。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その4)

かくて数日すじつあつて竹沢密かに新田兵衛ひやうゑすけ殿へ人を奉て申しけるは、「親にて候ひし入道、故新田殿の御手にしよくし、元弘の鎌倉合戦に忠を抽きんで候ひき。それがしまた先年武蔵野の御合戦の時、御方に参つて忠戦致し候ひし条、定めて思し召し忘れ候はじ。その後は世の転変てんぺん度々に及びて、御座ござの所をも存知仕つらで候ひつる間、力なくしばらくの命を助けて御代を待ち候はん為に、畠山禅門にしよくして候ひつるが、心中の趣き気色にあらはれ候ひけるに依つて、差したる罪科ざいくわとも思へぬ事に一所懸命の地を没収もつしゆせらる。結句討つべしなんどの沙汰に及び候ひし間、すなはち武蔵の御陣を逃げ出でて、当時は深山幽谷しんざんいうこくに隠れ居たるていにて候ふ。それがしがこの間の不義をだに御免あるべきにて候はば、御内に奉公の身と罷りなり候ひて、自然の御大事には御命に替はり参らせ候ふべし」と、懇ろにぞ申し入れたりける。兵衛ひやうゑすけこれを聞き給ひて、しばらくは申すところまことしからずとて見参をもし給はずして、密儀みつぎなんどを知らされる事もなかりければ、竹沢なほも心中のいつはらざるところを顕して近付き奉らんため、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申しける上臈女房の、年十六七ばかりなる、容色ようしよく類なく、心様いうにやさしくおはしけるを、とかく申し下して、先づ己が養君やうくんにし奉り、御装束しやうぞく女房にようばうたちに至るまで、様々に仕立て密かに兵衛の佐殿の方へぞ出だしたりける。




この後数日あって竹沢は密かに新田兵衛佐殿(新田義興よしおき。新田義貞の次男)へ人を遣わして申すには、「親でございます入道は、故新田殿(新田義貞)の手に属し、元弘の鎌倉合戦での忠はひときわのものでございました。某もまた先年の武蔵野の合戦の時には、味方に参って忠戦をいたしました。よもや忘れてはおられないでしょう。その後は世の転変度々に及んで、おられる所も知らぬままに、仕方なくしばらくの命を助けて代を待つために、畠山禅門(畠山国清くにきよ=道誓)に付いておりましたが、心中は顔に表れて、大した罪科とも思える咎により一所懸命([領地])の地を没収されました。果てには討つべしなどの沙汰に及び、たちまち武蔵の陣を逃げ出て、今は深山幽谷に隠れているようなものでございます。某のこれまでの不義をご免あるお積りですれば、身内に参り奉公の身となって、大事には命に代わり参らせましょう」と、懇ろに申し入れました。兵衛佐(新田義興)はこれを聞いて、しばらくは申すところ真実ではなかろうと見参もせず、密儀などを知らせることもありませんでしたが、竹沢はなおも心中が偽りでないことを示して近付くために、京都へ人を上せ、ある宮の御所より少将殿と申す上臈女房の、年十六七ばかりで、姿かたち類なく、心様に勝れた者を、どうにかして申し下すと、まず己の養君にして、装束女房たちにいたるまで、様々に仕立てて密かに兵衛佐殿に送り出しました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:12 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その3)

竹沢は元来ぐわんらい欲心熾盛しじやうにして、人のあざけりをも顧みずいにしへよしみをも思はず、情けなき者なりければ、かつて一義をも申さず。「さ候はば、兵衛ひやうゑすけ殿の疑ひを散じて相近付き候はん為に、それがしわざと御制法せいはふ候はんずる事を背いて御勘気かんきかうむり、御内を罷り出でたるていにて本国へ罷り下つて後、この人に取り寄り候ふべし」とよくよく相謀あひはかつて己が宿所へぞ帰りける。予て謀りつる事なれば、竹沢翌日より、宿々の傾城けいせいどもを数十人すじふにん呼び寄せて、遊びたはぶれ舞ひ歌ふ。これのみならず、相伴ふ傍輩はうばいども二三十人招き集めて、博奕ばくち昼夜ちうや十余日までぞしたりける。ある人これを畠山に告げ知らせたりければ、畠山大きにいつはり怒つて、「制法せいはふを破る罪科ざいくわ一つにあらず、およそ道理を破る法はあれども法を破る道理なし。いはんや有道いうだうの法をや。一人のとがいましむるは万人を為助けなり。この時ゆるに沙汰致さば、向後きやうこう狼籍らうぜき断つべからず」とて、すなはち竹沢が所帯を没収もつしゆしてその身を追ひ出だされけり。竹沢一言の陳謝ちんじやにも及ばず、「あな事々し、左馬の頭殿に仕はれぬ侍は身一つは過ぎぬか」と、飽くまで広言くわうげん吐き散らして、己が所領へぞ帰りにける。




竹沢は元より欲心熾盛([火が燃え上がるように勢いの盛んなこと])で、人の嘲りをも意にせず旧来の好みも気にかけず、情けのない者でしたので、いままで一義([一理])も言わぬ者でした。「ならば、兵衛佐殿(新田義興よしおき。新田義貞の次男)の疑いを散じて近付くために、某はわざと制法([定められた法律や規則])に背き勘気を被り、御内を出るようにして本国に下り、この人(義興)に近寄りましょう」とよくよく謀って宿所に帰りました。謀ってのことでしたので、竹沢は翌日より、宿々の傾城([美女])どもを数十人呼び寄せて、遊び戯れ舞い歌い興にふけりました。これのみならず、傍輩どもを二三十人招き集めて、博奕を昼夜十余日打って遊びました。ある人がこれを畠山(畠山国清くにきよ)に告げ知らせると、畠山はたいそう怒る振りをして、「制法を破る罪科一つにあらず、道理を破ることはあっても法を破ってよいという道理はない。申すまでもなく有道([正しい道にかなっていること])の法である。一人の咎を戒めることは万人を助けるためぞ。今甘い沙汰を致せば、今後狼籍がなくなることなし」と申して、たちまち竹沢の所帯([財産])を没収して宿所を追い出しました。竹沢は一言の陳謝もせず、「つまらぬことをがたがた申すことよ、左馬頭殿(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)に仕える侍は好き勝手もできぬとはつまらぬことよ」と、広言を吐き散らして、己の所領に帰りました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 09:01 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その2)

天に耳なしと言へどもこれを聞くに人を以つてする事なれば、互ひに隠密しけれども、兄はおととに語り子は親に知らせける間、この事なきほど鎌倉の管領くわんれい足利左馬のかみ基氏もとうぢ朝臣・畠山入道道誓だうせいに聞こへてげり。畠山大夫入道これを聞きしより敢へて寝食を安くせず、在所を尋ね聞いて大勢を差し遣はせば、国内通計つうげして行く方を知らず。また五百騎三百騎の勢を以つて、道に待ちて夜討ちに寄せて討たんとすれば、義興よしおきさらに事ともせず、蹴散らしては道を通り打ち破つては囲みを出でて、千変万化せんべんばんくわすべて人のわざにあらずと申しける間、今はすべきやうなしとて、手に余りてぞ思へける。さてもこの事いかがすべきと、畠山入道道誓昼夜ちうや案じ居たりけるが、ある夜密かに竹沢右京うきやうすけを近付けて、「御辺は先年武蔵野の合戦の時、かの義興の手にしよくして忠ありしかば、義興も定めてその旧好きうかうを忘れじとぞ思はるらん。さればこの人をたばかつて討たんずる事は、御辺に過ぎたる人あるべき。いかなるはかりことをもめぐらして、義興を討つて左馬のかみ殿の見参に入れ給へ。恩賞は宜依請に」とぞ語られける。




天に耳なしと言いますがこれを聞くのは人伝てによるもの、互いに隠密にとすれども、兄は弟に語り子は親に知らせたので、この事はあっという間に鎌倉管領足利左馬頭基氏朝臣(足利基氏。足利尊氏の四男)・畠山入道道誓(畠山国清くにきよ)の知るところとなりました。畠山大夫入道(道誓)はこれを聞いて寝食を安くすることなく、在所を尋ね聞いて大勢を差し遣わしましたが、国内に通計([知れ渡ること。広く知られること])して行方は知れませんでした。また五百騎三百騎の勢をもって、道に待ち懸けて夜討ちに寄せて討とうとしましたが、義興(新田義興。新田義貞の次男)はまったく事ともせず、蹴散らしては道を通り打ち破っては囲みを出て、千変万化はとても人のなす態ではないと申したので、今はどうすることもできないと、手を余していました。さても義興をどうすべきと、畠山入道道誓は昼夜策を考えていましたが、ある夜密かに竹沢右京亮を近付けて、「お主は先年武蔵野の合戦の時、義興の手に属して忠があれば、義興もきっと旧好を忘れてはおらぬと思うであろう。なれば義興を謀り討つのに、お主に勝る者はおらぬ。どんな手を使ってもよい、義興を討って左馬頭殿(足利基氏)の見参に入れられよ。恩賞を望むまま取らせよう」と申しました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 08:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田左兵衛佐義興自害事(その1)

さるほどに尊氏たかうぢきやう逝去せいきよあつて後、筑紫はかやうに乱れぬといへども、東国はいまだ静かなり。ここに故新田左中将さちゆうじやう義貞いえさだの子息左兵衛さひやうゑすけ義興よしおき・その弟武蔵の少将せうしやう義宗よしむね・故脇屋刑部ぎやうぶの卿義助よしすけの子息右衛門うゑもんの佐義治よしはる三人、この三四年が間越後ゑちごの国に城郭じやうくわくを構へ半国ばかりを打ち従へて居たりけるを、武蔵・上野の者どもの中より、二心なき由の連署れんじよ起請きしやうを書きて、「両三人の御中に一人いちにん東国へ御越し候へ。大将にし奉て義兵を上げ候はん」とぞ申したりける。義宗・義治二人ににんは思慮深き人なりければ、この頃の人の心左右なく頼み難しとて許容されず。義興は大早おほはやりにして、忠功人に先立たん事をいつも心に懸けて思はれければ、是非の遠慮を廻らさるるまでもなく、わづかに郎従百余人を行き連れたる旅人の様に見せて、密かに武蔵の国へぞ越えられける。元来ぐわんらい張本ちやうぼんともがらは申すに及ばず、いにしへ新田義貞よしさだに忠功ありしやから、今畠山入道道誓だうせいに恨みを含む兵、密かに音信いんしんを通じ、しきりにこびを入つて催促に従ふべき由を申す者多かりければ、義興今は身を寄する所多くなりて、上野・武蔵両国の間にその勢ひやうやくきざせり。




やがて尊氏卿(足利尊氏)逝去の後は、筑紫は乱れましたが、東国はまだ静かでした。ここに故新田左中将義貞(新田義貞)の子息左兵衛佐義興(新田義興。新田義貞の次男)・その弟武蔵少将義宗(新田義宗。義貞の三男)・故脇屋刑部卿義助(脇屋義助。義貞の弟)の子息右衛門佐義治(脇屋義治)三人は、この三四年の間に越後国に城郭を構え半国ばかりを打ち従えていましたが、武蔵・上野の者どもの中より、二心ない由の連署の起請([自分の言動に偽りのないことや約束に違背しないことを、神仏に誓って書き記すこと。また、その文書])を書いて、「両三人の中から一人東国へこ越しくださいませ。大将になして義兵を上げようと思っております」と申し伝えました。義宗・義治二人は思慮深い人殿したので、義興は大逸りの者にして、忠功人に先立つことをいつも心に懸けていたので、是非の遠慮を廻らすまでもなく、わずかに郎従([家来])百余人を行き連れの旅人の様に見せて、密かに武蔵国へ向かいました。元より張本([悪事などを起こすもと。また,その人])輩は申すに及ばず、かつて新田義貞に忠功のあった一族、今に畠山入道道誓(畠山国清くにきよ)に恨みを含む兵は、密かに音信を通じ、しきりに媚に入って催促に従うと申す者が多くいましたので、義興は身を寄せる所が多くなって、上野・武蔵両国にその勢いをようやく現わそうとしていました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 08:50 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」安東入道自害の事付漢王陵事(その1)

安東左衛門入道聖秀しやうしうまうせしは、新田義貞よしさだの北の台の伯父をぢ成りしかば、かの女房義貞の状に我が文を書き添へて、ひそかに聖秀が方へぞ被遣ける。安東、始めは三千余騎にて、稲瀬川いなせがはへ向かひたりけるが、世良田せらだ太郎が稲村崎いなむらがさきより後ろへまはりける勢に、陣を被破て引きけるが、由良・長浜が勢に被取篭て百余騎に被討成、我が身も薄手数多あまた所負うて、おのたちかへつたりけるが、今朝こんてう巳の刻に、宿所は早や焼けてその跡もなし。妻子遣属さいしけんぞくはいづちへか落ち行きけん、行方ゆくへも不知成つて、可尋問人もなし。これのみならず、鎌倉殿の御屋形も焼けて、入道殿にふだうどの東勝寺へ落ちさせ給ひぬとまうす者ありければ、「さて御屋形の焼け跡には、傍輩はうばい何様腹切り討ち死にして見ゆるか」とたづねければ、「一人も不見候」とぞ答へける。これを聞いて安東、「口惜くちをしき事ことかな。日本国のあるじ、鎌倉殿ほどの年来住み給ひし処を敵の馬のひづめに懸けさせながら、そこにて千人も二千人も討ち死にする人のなかりし事よと、後の人々に被欺事こそ恥辱なれ。いざや人々、とても死せんずる命を、御屋形の焼け跡にて心しづかに自害して、鎌倉殿の御はぢすすがん」とて、被討残たる郎等らうどう百余騎を相従あひしたがへて、小町口へ打ち臨む。




安東左衛門入道聖秀(安東聖秀)と申すは、新田義貞の北の方の伯父でしたので、女房が義貞の状に文を書き添えて、密かに聖秀方へ届けました。安東(聖秀)は、はじめは三千余騎で、稲瀬川(現静岡県静岡市清水区および富士宮市を流れる富士川水系の一級河川)に向かいましたが、世良田太郎が稲村崎(稲村ヶ崎。現神奈川県鎌倉市)より背後に回った勢に、陣を破られて引き退きました、由良・長浜の勢に取り籠められて百余騎に討ちなされ、我が身も薄手を数多く負って、己の館に帰りました、けれども今朝巳の刻([午前十時頃])に、宿所は早や焼けてその跡もありませんでした。妻子遣属([眷属]=[一門])はどこへ落ちて行ったのか、行く方も知れず、訊ねる人さえいませんでした。これに止まらず、鎌倉殿の館も焼けて、入道殿(北条高時たかとき聖秀しやうしう)は、「無念なことよ。日本国の主、鎌倉殿(北条高時たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)が年来住んでおられた所を敵の馬の蹄に駆けられたというのに、そこで千人も二千人も討ち死にする人がいなかったと、後の人々に笑われることこそ恥辱である。さあ人々よ、討ち死にしなかったこの命を、館の焼け跡で心静かに自害して、鎌倉殿の恥を雪ごうではないか」と申して、討ち残った郎等([家来])百余騎を引き連れて、小町口に向かいました。


続く


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by santalab | 2016-01-31 08:42 | 太平記 | Comments(0)

    

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