Santa Lab's Blog


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「太平記」正成参兵庫事付還幸の事(その1)

兵庫に一日御逗留とうりうあつて、六月二日被回腰輿えうよところに、楠木多門兵衛正成まさしげ七千余騎にて参向さんかす。その勢殊に勇々ゆゆしくぞ見へたりける。主上しゆしやう御簾ぎよれんを高く捲かせて、正成を近く被召、「大儀早速さつそくの功、ひとへに汝が忠戦にあり」と感じ被仰ければ、正成畏つて、「これ君の聖文せいぶん神武しんぶの徳に不依ば、微臣びしんいかでか尺寸せきすんはかりごとを以つて、強敵がうてきの囲みを可出さふらはんや」と功を辞して謙下けんげす。兵庫を御立ちありける日より、正成前陣せんぢん承奉うけたまはつて、畿内の勢を相従あひしたがへ、七千余騎にて前騎ぜんきす。その道十八里が間、干戈戚揚かんくわせきやう相挟み、左輔右弼さほいうひつ列を引き、六軍りくぐん次いでを守り、五雲しづかに御幸みゆきすれば、六月五日の暮れほどに、東寺まで臨幸りんかう成りければ、武士たる者は不及申、摂政・関白・太政だいじやう大臣・左右さう大将だいしやう・大中納言・八座・七弁・五位・六位・内外ないげの諸司・医陰いおんの両道に至るまで、我劣らじとまゐり集まりしかば、車馬しやば門前に群集くんしゆして、地府ちふに布雲、青紫せいし堂上だうじやう陰映いんえいして、天極てんきよくに列星。




(第九十六代後醍醐天皇は)兵庫に一日逗留されて、六月二日に腰輿に乗られて京に向かわれるところに、楠木多門兵衛正成(楠木正成)が七千余騎で参りました。その勢はとりわけ勇ましく見えました。主上(後醍醐天皇)は御簾を高く巻かせて、正成を近く召して、「大儀さっそくの功、ひとえにに汝の忠戦のお陰よ」と申されると、正成は畏って、「君の聖文が神武(初代天皇)の徳に叶わずば、しがない微臣のわたしがどうして尺寸(取るに足りない)謀を以って、強敵の囲みを遁れることがありましょう可」と功を辞して謙下([へりくだること])しました。兵庫をお立ちになられた日より、正成は前陣を務めて、畿内の勢を従え、七千余騎で前騎しました。その道十八里の間、干戈戚揚([武器])を携えた前騎に続いて、左輔右弼([君主の左右にいて、政治をたすける臣。輔弼 ほひつ)の臣])が列をなし、六軍([軍兵])が続いて警護した、五雲([五雲の車]=[中国で、五色の雲を描いた車。 貴人の乗用とした。また、天子の車])が静かに進んで、六月五日の暮れほどに、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)まで臨幸されました、武士は申すに及ばず、摂政(この時摂政はいなかった?)・関白(鷹司冬教ふゆのり)・太政大臣(今出川兼季かねすゑ)・左右の大将(左近衛大将は一条経通つねみち、右近衛大将は九条道教みちのり)・大中納言・八座([参議])・七弁([太政官])・五位・六位・内外の諸司・医陰([医師と陰陽師])の両道に至るまで、我劣らじと集まったので、車馬が門前に群集して、地府([大地])に雲を布き、青紫([公卿の衣冠の色])が堂上に輝きました、天極([北極星])に星が連なるようでした。


続く


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by santalab | 2016-02-29 07:46 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」諸将被進早馬於船上事(その3)

塩冶えんや判官高貞たかさだは、千余騎にて、一日先立つて前陣を仕る。また朝山太郎は、一日路にちぢ引き後れて、五百余騎にて後陣ごぢんに打ちけり。金持かなぢの大和のかみ、錦の御旗を差して左にこうし、伯耆はうきの守長年ながとしは、帯剣の役にて右にふ。雨師うし道を清め、風伯ふうはく塵を払ふ。紫微北辰しびほくしん拱陣きようぢんも、かくやと思えて厳重なり。されば去年の春隠岐の国へ被移させ給ひし時、そぞろに宸襟しんきんを被悩て、御泪のもとと成りし山雲海月の色、今は竜顔りようがんを悦はしと成つて、松吹く風もおのづか万歳ばんぜいを呼ぶかと被奇、しほ焼く浦のけぶりまで、にぎわう民のかまどと成る。




塩冶えんや判官高貞たかさだは、千余騎にて、一日先立って前陣を務めました。また朝山太郎は、一日路後れて、五百余騎で後陣を進みました。金持大和守が、錦の旗を挿して左に伺候し、伯耆守長年(名和長年)は、帯剣の役([帯剣して君主の側近に侍し、これを護衛する役])として右に付いていました。雨師([雨を司どる神])は道を清め、風伯([風の神])は塵を払いました。紫微北辰([天帝が住む紫微宮。北辰は北極星])の拱陣(大宮殿)も、このようなものと思われるほど厳かでした。去年の春に隠岐国へ移られた時には、何に付けても宸襟([天子の心])を悩まされて、涙の因となった山雲海月の色も、今は竜顔([天子の顔])をよろこばせるきっかけとなり、松吹く風も万歳を叫ぶように聞こえて、不思議に思えて、塩焼く浦の煙までもが、にぎわう民の竈に見えました。


続く


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by santalab | 2016-02-28 08:42 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事(その9)

ある夜雨風烈しく吹いて、とのゐする郎等らうどうどもも皆遠侍とほさぶらひに臥したりければ、今こそ待つ処のさいはひよと思うて、本間が寝処ねところの方を忍びて伺うに、本間が運や強かりけん、今夜は常の寝処を替へて、いづくにありとも見へず。また二間なる処にとぼしびの影の見へけるを、これはもし本間入道が子息にてやあるらん。それなりとも討つて恨みを散ぜんと、抜け入つてこれを見るに、それさへここにはなくして、中納言殿を斬り奉りし本間三郎と云ふ者ぞただ一人臥したりける。よしやこれも時に取つては親のかたきなり。山城入道に劣るまじと思うて走り懸からんとするに、我は元より太刀も刀も持たず、ただ人の太刀を我が物と憑みたるに、燈殊に明らかなれば、立ち寄らばやがて驚き合ふ事もやあらんずらんと危ぶんで、左右さうなく寄りず。いかがせんと案じわづらうて立ちたるに、折節をりふし夏なれば灯の影を見て、蛾と云ふ虫の数多あまた明かり障子しやうじに取り付きたるを、すはや究竟くつきやうの事こそあれと思うて障子を少し引き開けたれば、この虫数多内へ入つてやがて灯を打ち消しぬ。今はかうとうれしくて、本間三郎が枕に立ち寄つて探るに、太刀も刀も枕にあつて、主はいたく寝入りたり。先づ刀を取つて腰に差し、太刀を抜いてむな元に指し当てて、寝たる者を殺すは死人に同じければ、驚かさんと思つて、先づ足にて枕をはたとぞ蹴つたりける。蹴られて驚く処を、一の太刀にほぞうへを畳までつと突きとをし、かへす太刀に喉笛のどぶゑ指し切つて、心閑しづかに後ろの竹原ささはらの中へぞ隠れける。本間三郎が一の太刀に胸をとほされてあつと云ふ声に、番衆ばんしゆども驚き騒いで、火をとぼしてこれを見るに、血の付きたる小さき足跡あり。「さては阿新殿くまわかどののしわざなり。堀の水深ければ、木戸より外へはよも出でじ。探し出だつて打ち殺せ」とて、手に手に松明をとぼし、木の下、草の陰まで残る処なくぞ探しける。




ある夜雨風が激しく吹いて、宿直する郎等([家来])どもも皆遠侍([武家の屋敷で、主屋から遠く離れた中門のわきなどに設けられた警護の武士の詰め所])できるとも寝ていました、今こそ待った甲斐があったと思い、本間(本間泰宣やすのぶ)の寝所の方に忍んで窺いましたが、本間の運が強かったか、今夜はいつもの寝所を替えて、どこにいったか姿は見えませんでした。また二間の所に燈の影が見えたのです、これはもしや本間入道の子息ではないか。子息であろうと討って恨みを晴らそうと、抜け入って見れば、子息もここにはなくて、中納言殿を斬った本間三郎と言う者がただ一人で伏していました。これも考えてみれば親の敵よ。山城入道(本間泰宣)に劣るまいと思って走りかかろうとしましたが、阿新丸は太刀も刀も持たず、ただ人の太刀を頼みにしていましたが、燈がとても明るくて、近付けばたちまち気付かれるかも知れないと危ぶみ、軽率に近付くことができませんでした。どうしたものかと考えていましたが、ちょうど夏でしたので灯の影を見て、蛾という虫がたくさん明かり障子に取り付いていました、究竟([極めて都合がよいこと])よ起これと願って障子を少し引き開くと、この虫がたくさん内へ入ってたちまち灯を打ち消しました。上手くいったとうれしく思い、本間三郎の枕元に立ち寄って探ると、太刀も刀も枕にあって、主はぐっすり寝入っていました。(阿新丸)まず刀を取って腰に差し、太刀を抜いて胸元に指し当てて、寝た者を殺すは死人と同じ、起こそうと思い、足で枕を強く蹴りました。蹴られて本間三郎が驚くところを、一の太刀で臍ほぞうへを畳まで突き通し、返す太刀で喉笛を刺し切ると、静かに後ろの竹原の中へ隠れました。本間三郎は一の太刀で胸を刺し通されてあっと言う声に、番衆([番を編成して宿直警固にあたる者])どもは驚き騒いで、火を燃してこれを見れば、血の付いた小さな足跡がありました。「さては阿新殿のしわざか。堀の水は深い、木戸より外へは出られぬ。探し出して打ち殺せ」と、手に手に松明を灯し、木の下、草の陰まで残る所なく探しました。


続く


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by santalab | 2016-02-27 08:49 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事(その8)

このほど常に法談ほふだんなんどし給ひける僧来たつて、葬礼さうれい如形取り営み、空しきこつを拾うて阿新に奉りければ、阿新これを一目見て、取る手もたゆたふれ伏し、「今生こんじやうの対面遂に叶はずして、替はれる白骨を見る事よ」と泣き悲しむもことわりなり。阿新未だ幼稚えうちなれども、健気なる所存ありければ、父の遺骨ゆゐこつをばただ一人召し仕ひける中間ちゆうげんに持たせて、「先づ我より先に高野山かうやさんまゐりて奥の院とかやにをさめよ」とて都へかへし上せ、我が身はいたはる事ある由にてなほ本間がたちにぞ留まりける。これは本間が情けなく、父を今生こんじやうにて我に見せざりつる鬱憤を散ぜんと思ふゆゑなり。かくて四五日経けるほどに、阿新昼は病む由にて終日ひねもすに臥し、夜は忍びやかに抜け出でて、本間が寝処ねところなんど細々に伺うて、隙あらばかの入道父子ふしあひだに一人刺し殺して、腹切らんずるものをと思ひ定めてぞ狙いける。




このほどいつも法談などをしている僧が訪ねて葬儀を型通り営み、空しくなった骨を拾って阿新丸に手渡すと、阿新丸はこれを一目見て、取る手も危なげに倒れ伏し、「今生の対面遂に叶わず、白骨を見ることになるとは」と泣き悲しむのも当然のことでした。阿新丸はまだ幼くありましたが、健気なところがありましたので、父(日野資朝すけとも)の遺骨をただ一人召し使う中間([武士の下位の者])に持たせて、「わたしの先に高野山に参って奥の院とか申す所に納めよ」と言って都へ帰し上せ、阿新丸は体調が思わしくないと言ってなお本間(本間泰宣やすのぶ)の館に残りました。これは本間が情けなくも、父を今生で阿新丸に会わせなかった鬱憤を晴らそうと思ってのことでした。こうして四五日経るほどに、阿新丸は昼は病気の振りをして終日寝たままでしたが、夜になると忍びやかに抜け出て、本間の寝所を余さず窺い、隙あらばこの入道父子のどちらかを一人刺し殺して、腹を切ろうと覚悟を決めて狙いました。


続く


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by santalab | 2016-02-27 07:49 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事(その7)

五月二十九日の暮れほどに、資朝すけともきやうを篭より出だし奉つて、「遥かに御湯も召され候はぬに、御行水ぎやうずゐ候へ」と申せば、早や斬らるべき時に成りけりと思ひ給ひて、「嗚呼ああうたてしき事かな、我が最後のやうを見ん為に、遥々とたづね下つたるをさなき者を一目も見ずして、てぬる事よ」と計りのたまひて、その後はかつて諸事に付けてことばをも出だし給はず。今朝までは気色きしよくしほれて、常には泪を押しのごひ給ひけるが、人間の事に於いては頭燃づねんを払ふ如くに成りぬとさとつて、ただ綿密の工夫の外は、余念ありとも見へ給はず。に入れば輿差し寄せて乗せ奉り、ここより十町許じつちやうばかりある河原かはらへ出だし奉り、輿舁き据ゑたれば、少しも臆したる気色もなく、敷皮しきかはの上に居直ゐなほつて、辞世のじゆを書き給ふ。

五蘊仮成形 四大今帰空
将首当白刃 截断一陣風

年号月日ねんがうつきひの下に名字みやうじを書き付けて、筆をさしおき給へば、切り手後ろへまはるとぞ見へし、御首は敷皮の上に落ちてむくろはなほ坐せるが如し。




五月二十九日の暮れほどに、資朝卿(日野資朝)を篭より出して、「長く湯も召されておられませんので、行水なさいませ」と申せば、早や斬られるべき時になったかと思い、「なんとも無念なことよ、わたしの最後の姿を見ようと、遥々と訪ね下った幼い子を一目も見ずして、命果てることになろうとは」とばかり申して、その後はまったく言葉を口にしませんでした。今朝までは力なく、常に涙を押し拭っていましたが、この世の頭燃([頭髪に火がついて燃えはじめること。危急のたとえ])を払うべき時を悟って、ただ綿密の工夫([仏道修行などに専念すること。特に禅宗で、座禅に専心すること])のほかは、余念ありとも見えませんでした。夜になると輿を差し寄せて乗せ、これより十町ばかりある河原に向かい、輿を舁き据えました、(日野資朝は)少しも臆した表情もなく、敷皮の上に居直ると、辞世の頌を書きました。

五蘊([仏教の説く四苦八苦の一])を受けて、我が身([四大]=[人間の身体])は今天に帰る。白刃がこの首を、まるで一陣の風のように断ち切るであろう。

年号月日の下に名字を書き付けて、筆を差し置き、切り手が後ろへ廻るかと思えば、首は敷皮の上に落ちて骸はなおも正座したままでした。


続く


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by santalab | 2016-02-27 07:44 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」諸将被進早馬於船上事(その2)

しかれども、主上しゆしやうなほ時宜しぎ定め難く被思召ければ、みづか周易しうえきひらかせ給ひて、還幸くわんかうの吉凶を蓍筮しぜいに就けてぞ被御覧ける。御占師うらなひに出でて云はく、「師は貞し、丈人吉無咎、上六大君有命、開国承家。小人勿用。王弼注云、処師之極、師之終なり。大君之命不失功なり。開国承家、以寧邦なり。小人勿用、非其道なり」と注せり。御うらなひすでに如此。この上は何をか可疑とて、同じき二十三日にじふさんにち伯耆はうき舟上ふなのうへを御立ちあつて、腰輿えうよ山陰せんおんの東にぞ被催ける。路次ろし行装ぎやうさう例に替はりて、頭の大夫行房ゆきふさ勘解由かげゆ次官じくわん光守みつもり二人ににん許りこそ、衣冠いくわんにて被供奉けれ。その外の月卿雲客げつけいうんかく衛府諸司ゑふしよしの助は、皆戎衣じゆういにて前騎後乗ぜんきこうじようす。六軍りくぐん悉く甲冑かつちうを着し、弓箭を帯して、前後三十さんじふ余里に支へたり。




けれども、主上(第九十六代後醍醐天皇)はなおも時宜([時がちょうどよいこと。適当な時期・状況])定め難く思われて、周易に照らし合わせて、還幸の吉凶を蓍筮([占い])に委ねました。占師の卦に、「占いは以下の通り、丈人([長老])なれば吉にして咎なし、上六のこう([易の卦を組み立てる横の画])の意味するところ命あり、国を開き家を継ぐ。小人を用いることなかれ。王弼(中国三国時代の魏の学者・政治家)が記すところ、この占いが意味するところは、以下の通りです。大君は命を全うされるでしょう。国を開き家を継いで、国家は安泰でありましょう。ただし小人を用いてはなりません、道は閉ざされることでしょう」と記してありました。占いはこうでした。この上は疑いなしと、同じ五月二十三日に(後醍醐天皇は)伯耆の舟上(現鳥取県東伯郡琴浦町)を立たれて、腰輿([輿の一。前後二人で,手で腰のあたりの高さまで持ち上げて運ぶもの])に乗られて山陰道を東に向かわれました。道中の行装([旅行の際の服装])はいつもとはまるで違って、頭大夫行房(一条行房)・勘解由次官光守(高倉光守)二人ばかりが、衣冠を身に付けてお供しておりました。そのほかの月卿雲客([公卿と殿上人])・衛府諸司の助は、皆戎衣([戦の場に着て出る衣服])で前騎後乗([行列の前後を騎馬で行くこと])しました。六軍([軍隊])は一人残らず甲冑を着、弓箭を帯して、前後三十余里を固めました。


続く


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by santalab | 2016-02-27 07:38 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事(その6)

阿新殿くまわかどのこれをうれしと思ふに付けても、同じくは父のきやうく見奉ばやと云ひけれども、今日明日けふあす斬らるべき人にこれを見せては、中々黄泉路よみぢさはりとも成りぬべし。また関東くわんとうの聞こへもいかがあらんずらんとて、父子の対面を許さず、四五町隔たつたる処に置きたれば、父の卿はこれを聞きて、行末ゆくへも知らぬ都にいかがあるらんと、思ひ遣るよりもなほ悲し。子はそなたを見遣りて、浪路なみぢ遥かに隔たりしひなの住まゐを思ひ遣つて、心苦しく思ひつる泪は更に数ならずと、袂の乾く隙もなし。これこそ中納言のをはします楼のうちよとて見遣れば、竹の一叢ひとむら茂りたる処に、堀掘りまはし屏塗つて、行きふ人も稀なり。情けなの本間が心や。父は禁篭せられ子は未だをさなし。たとひ一所に置きたりとも、何程の怖畏ふゐかあるべきに、対面をだに許さで、まだ同じ世の中ながらしやうを隔てたる如くにて、なからん後の苔の下、思ひ寝に見ん夢ならでは、相看あひみん事もあり難しと、かたみに悲しむ恩愛の、父子の道こそあはれなれ。




阿新殿(日野邦光くにみつ)はうれしく思いながらも、同じくは父の卿(日野資朝すけとも)に早く会いたいと申しました、(本間泰宣やすのぶは)今日明日斬らるべき人に子を会わせては、黄泉路の障りとなるであろう。また関東に聞こたならばどうなることかと、父子の対面を許さず、四五町隔てた所に留め置いたので、父の卿はこれを聞いて、行末も知らぬ都でどうしているのだろうかと、思い遣るよりもさらに悲しく思いました。子は父の方を眺めて、浪路遥かに隔てた鄙の住まいを思い遣って、心苦しく思っていた涙は物の数ではなかったと、袂が乾く隙もありませんでした。これこそ中納言がおられる楼の中よと眺めれば、竹が一叢茂った所に、堀を掘り廻らし屏を塗って、行き通う人も稀でした。情けのない本間の心でした。父は禁篭され子はまだ稚なくありました。たとえ一所に置いたところで、何ほどの恐れもあろうはずもありませんでしたが、対さえ許さず、まだ同じ世の中にありながら生を隔てたように、亡き後の苔の下を、思い寝に見る夢のほかには、会うことも叶ぬのかと、互いに悲しむ恩愛の、父子の道こそ哀れでした。


続く


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by santalab | 2016-02-26 08:30 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事(その5)

路遠けれども乗るべきむまもなければ、履きも習はぬ草鞋わらぢに、すげ小笠をがさかたぶけて、露分け分くる越路こしぢの旅、思ひ遣るこそあはれなれ。都を出でて十三日とまうすに、越前の敦賀の津に着きにけり。これより商人船あきんどぶねに乗りて、ほどなく佐渡の国へぞ着きにける。人してかうと云ふべき便りもなければ、みづから本間がたちに致つて中門のまへにぞ立つたりける。境節をりふし僧のありけるが立ち出でて、「この内への御用にて御立ち候ふか。またいかなる用にて候ふぞ」と問ひければ、阿新殿くまわかどの、「これは日野の中納言の一子にて候ふが、近来このごろ切られさせ給ふべしとうけたまはつて、その最後のやうをも見候はんために都より遥々とたづね下りて候ふ」と云ひも敢へず、泪をはらはらと流しければ、この僧心ありける人なりければ、急ぎこの由を本間に語るに、本間も岩木いはきならねば、さすがあはれにや思ひけん、やがてこの僧を以つて持仏堂ぢぶつだういざなひ入れて、蹈皮行纒たびはばきがせ足洗うて、おろそかならぬていにてぞ置きたりける。




遠路でしたが乗る馬もなく、履き慣れない草鞋に、菅の小笠をかぶり、露を分ける越路の旅を、思ひ遣れば哀れでした。都を出て十三日目に、越前の敦賀の津(現福井県敦賀)に着きました。これより商人船に乗って、ほどなく佐渡国に着きました。人伝ての便りもなく、(阿新丸=日野邦光くにみつ)自ら本間(本間泰宣やすのぶ)の館を訪ねて中門の前に立ちました。ちょうど僧がいましたが館を出て、「この館へご用でしょうか。またどのような用でしょう」と訊ねると、阿新殿は、「これは日野中納言(日野資朝すけとも)の子でございますが、近く斬られると承って、その最後を見届けるために都より遥々と訪ね下って参りました」と言いも敢えず、涙をはらはらと流しました、この僧は心のある人でしたので、急ぎこの由を本間に語ると、本間も岩木ではありませんでしたので、さすがに哀れに思ったか、やがてこの僧を以って持仏堂に入れて、蹈皮行纒([行纒]=[脛に巻き付けてひもで結び、脚を保護して歩行時の動作をしやすくするために用いたもの])を解がせ足を洗い、おろそかならぬ体に扱って留め置きました。


続く


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by santalab | 2016-02-26 08:13 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事(その4)

さるほどに、「君の御謀反をまうし勧めけるは、源中納言ぢゆうなごん具行ともゆき右少弁うせうべん俊基としもと・日野の中納言資朝すけともなり、各々死罪に行はるべし」と評定ひやうぢやう一途いちづに定まつて、「先づ去年より佐渡の国へ流されてをはする資朝のきやうを斬り奉るべし」と、その国の守護本間山城入道に被下知。この事京都に聞こへければ、この資朝の子息国光くにみつの中納言、その頃は阿新殿くまわかどのとて歳十三にてをはしけるが、父の卿召人めしうどに成り給ひしより、仁和寺辺に隠れてられけるが、父誅せられ給ふべき由を聞いて、「今は何事にか命をしむべき。父と共に斬られて冥途の旅の伴をもし、また最後の御有様をも見奉るべし」とて母に御いとまをぞはれける。母御ははごしきりに諌めて、「佐渡とやらんは、人も通はぬ怖ろしき嶋とこそ聞こゆれ。日数ひかずる道なればいかんとしてか下るべき。そのうへなんぢにさへ離れては、一日片時へんしも命ながらふべしとも思へず」と、泣き悲しみて止めければ、「よしや伴ひ行く人なくば、いかなる淵瀬にも身を投げて死なん」とまうしける間、母痛く止めば、また目のまへに憂き別れもありぬべしと思ひ侘びて、力なく今迄ただ一人付きひたる中間ちゆうげんあひ添へられて、遥々と佐渡の国へぞ下しける。




やがて、「君(第九十六代後醍醐天皇)に謀反を勧めたのは、源中納言具行(源具行)・右少弁俊基(日野俊基)・日野中納言資朝(日野資朝)です。各々死罪になすべし」と評定は一途に定まって、「まず去年より佐渡国へ流されておる資朝卿を斬られよ」と、その国の守護本間山城入道(本間泰宣やすのぶ)に下知しました。このことが京都に聞こえたので、資朝の子息国光中納言(日野邦光)は、その頃は阿新殿と申して歳は十三でしたが、父の卿が囚人([捕らえられた人])になってからは、仁和寺(現京都市右京区にある寺院)辺に隠れていました、父が誅せられることを聞いて、「今は何に命を惜しむべき。父とともに斬られて冥途の旅の供をし、また最後の有様を見るべし」と母に暇を請いました。母はしきりに諌めて、「佐渡というのは、人も通わぬ怖ろしい島と聞いています。日数を経る道ですからどうして下ることができましょう。その上お前までいなくなってしまえば、一日片時も命永らえるとも思えません」と、泣き悲しんで止めたので、「もし伴い行く人がなければ、いかなる淵瀬にも身を投げて死ぬ覚悟です」と申したました、母は強ちに止めれば、目の前にして悲しい別れもあるやと思い侘びて、仕方なく今までただ一人付き添っていた中間([武士の下位の者])を添えて、遥々と佐渡国へ下しました。


続く


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by santalab | 2016-02-26 07:37 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」諸将被進早馬於船上事(その1)

都には五月十二日千種ちくさとうの中将ちゆうじやう忠顕ただあき朝臣・足利治部の大輔たいふ高氏たかうぢ・赤松入道円心ゑんしんら、追ひ追ひ早馬を立てて、六波羅すでに没落せしむるの由船上ふなのうへへ奏聞す。これによつて諸卿僉議せんぎあつて、すなはち還幸可成いなやの意見を被献ぜ。時に勘解由かげゆ次官じくわん光守みつもり諌言かんげんを以つて被申けるは、「りやう六波羅すでに雖没落、千葉屋ちはや発向はつかうの朝敵らなほ畿内に満ちて、いきほ京洛きやうらくを呑めり。また賎しきことわざに、「東八箇国の勢を以つて、日本国の勢に対し、鎌倉ぢゆうの勢を以つて、東八箇国の勢に対す」といへり。されば承久しようきうの合戦に、伊賀の判官はうぐわん光季みつすゑを被追落し事は容易かりしかども、坂東勢重ねて上洛しやうらくせし時、官軍くわんぐん戦ひに負けて、天下久しく武家の権威けんゐに落ちぬ。今一戦の雌雄しゆうを測るに、御方はわづかに十にしてその一二を得たり。『君子は不近刑人』とまうす事候へば、しばらくただ皇居くわうきよを被移候はで、諸国へ綸旨りんしを被成下、東国の変違へんゐを可被御覧ぜや候らん」と被申ければ、当座たうざの諸卿悉くこの議にぞ被同ける。




都では五月十二日千種頭中将忠顕朝臣(千種忠顕)・足利治部大輔高氏(足利高氏)・赤松入道円心(赤松則村のりむら)らが、次々に早馬を立てて、六波羅探題はすでに没落したと船上(現鳥取県東伯郡琴浦町)に奏聞しました。これにより諸卿に僉議させ、すぐさま還幸するべきかどうか意見を求めました。この時勘解由次官光守(高倉光守)が、諌言して申すには、「両六波羅はすでに没落いたしましたが、千葉屋(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に発向の朝敵らはなおも畿内に満ちて、その勢いは京洛まで達しております。また賎民の諺に、「東八箇国の勢は、日本国の勢に相当し、鎌倉中の勢は、東八箇国の勢に相当する」と申しております。承久の合戦で、伊賀判官光季(伊賀光季)を追い落とすことは容易いことでございましたが、坂東勢が重ねて上洛した時、官軍は戦いに負けて、天下は久しく武家の権威に落ちたのでございます。今一戦の雌雄を計れば、味方はわずかに敵の十のその一二を得ただけです。『君子は刑人に近付かず』と申しますれば、今しばらくは皇居を移すことなく、諸国へ綸旨([蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書])を下されて、東国の変移をご覧になられるのがよろしいでしょう」と申したので、当座の諸卿は残らずこの議に同意しました。


続く


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by santalab | 2016-02-26 07:25 | 太平記 | Comments(0)

    

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