Santa Lab's Blog


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「太平記」北国下向勢凍死事(その3)

同じき十三日義貞朝臣敦賀つるがが津に着き給へば、気比けひの弥三郎大夫三百余騎にて御迎ひに参じ、東宮・一宮・総大将そうだいしやう父子兄弟を先づ金崎かねがさきの城へ入れ奉り、自余の軍勢をば津の在家に宿を点じて、長途ちやうどの窮屈を相助く。ここに一日逗留とうりうあつて後、この勢一所に集まり居ては敵はじと、大将を国々の城へぞ分けられける。大将義貞は東宮に付き参らせて、金崎の城に止まり給ふ。子息越後ゑちごかみ義顕よしあきには北国の勢二千余騎を添へて越後の国へ下さる。脇屋右衛門うゑもんすけ義助よしすけは千余騎を添へて瓜生うりふ杣山そまやまの城へ遣はさる。これは皆国々の勢を相付けて、金崎の後詰めをせよとのためなり。




同じ十月十三日に義貞朝臣(新田義貞)が敦賀の津(現福井県敦賀市)に着くと、気比弥三郎大夫(気比氏治うぢはる)が三百余騎で迎いに参り、東宮(恒良つねよし親王)・一宮(尊良たかよし親王)・総大将父子(新田義貞・義顕よしあき)兄弟をまず金崎ヶ城(現福井県敦賀市)に入れ、自余の軍勢を津の在家を宿を用意して、長途の窮屈([思うようにふるまえず気詰まりであること])をねぎらいました。ここに一日逗留した後、勢が一所に集まっていてはよくないと、大将を国々の城に分けました。大将義貞は東宮とともに、金崎ヶ城に留まりました。子息越後守義顕には北国の勢二千余騎を添えて越後国に下しました。脇屋右衛門佐義助には千余騎を添えて瓜生の杣山城(現福井県南条郡南越前町にあった城)に遣わしました。これは皆国々の勢を付けて、金崎城の後詰め([敵の背後に回って攻めること])をさせるためでした。


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by santalab | 2016-03-31 07:47 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野城軍事(その3)

さらばとて、案内知つたる兵百五十人ひやくごじふにんすぐつて、その日の暮れほどより、金峯山きんぶせんまはつて、岩を伝ひ谷を上るに、案の如く山のけはしきを頼みけるにや、ただここかしこの梢に旗ばかりを結ひ付け置いて防ぐべく兵一人もなし。百余人のつはものども、思ひのままに忍び入つて、木の下いはの陰に、弓矢を臥せて、兜を枕にして、夜の明くるをぞ待つたりける。合図あひづの頃にもなりにければ、大手おほて五万余騎、三方さんぱうより押し寄せて攻め上る。吉野の大衆だいしゆ五百余人、責め口に下り合つて防ぎ戦ふ。寄せ手も城の内も、互ひに命を惜しまず、追ひ上せ追ひ下ろし、火を散らしてぞ戦うたる。かかるところに金峯山きんぶせんよりまはりたる、搦め手のつはもの百五十人、愛染宝塔あいぜんはうだふより下り降つて、在々所々に火を懸けて、ときの声をぞ上げたりける。吉野の大衆だいしゆ前後の敵を防ぎ兼ねて、あるひはみづから腹を掻き切つて、猛火みやうくわの中へ走り入つて死するもあり、あるひは向かふ敵に引つ組んで、差し違へて共に死するもあり。思ひ思ひに討ち死にをしけるほどに、大手の堀一重ひとへは、死人に埋まりて平地ひらちになる。




ならばと、案内知った兵百五十人を選って、その日の暮れほどより、金峯山に廻って、岩を伝い谷を上ると、思った通り山の険しさを頼みにしたのか、ただここかしこの梢に旗ばかりを結い付け置いて防ぐ兵は一人もいませんでした。百余人の兵どもは、思い通り忍び入ると、木の下岩の陰に、弓矢を隠して、兜を枕にして、夜が明けるのを待ちました。合図の頃になると、大手([敵の正面を攻撃する軍勢])五万余騎が、三方より押し寄せて攻め上りました。吉野の大衆([僧])五百余人は、責め口に下り合って防ぎ戦いました。寄せ手も城の内も、互いに命を惜しまず、追い上せ追い下ろし、火を散らして戦いました。そうこうするところに金峯山より廻っていた、搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])の兵百五十人が、愛染宝塔(愛染宝塔院。かつて現奈良県吉野郡吉野町の青根ヶ峰にあった安禅寺)より下り降って、在々所々に火を懸けて、鬨の声を上げました。吉野の大衆は前後の敵を防ぎ兼ねて、あるいは自ら腹を掻き切って、猛火の中へ走り入って死ぬ者もあり、あるいは向かう敵と引っ組んで、刺し違えて共に死ぬ者もいました。思い思いに討ち死にするほどに、大手の堀一重は、死人で埋まって平地になりました。


続く


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by santalab | 2016-03-31 07:33 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野城軍事(その2)

夜昼よるひる七日が間息をも不続相戦ふに、城中じやうちゆうの勢三百余人討たれければ、寄せ手も八百はつぴやく余人討たれにけり。いはんや矢に当たり石に打たれ、生死しやうじあひだを知らぬ者は幾千万と言ふ数を知らず。血は草芥さうかいを染め、かばね路径ろけいに横たはれり。されども城のてい少しも弱らねば、寄せ手のつはもの多くは退屈してぞ見へたりける。ここにこの山の案内者とて一方へ向かはせたりける吉野の執行しゆぎやう岩菊丸いはぎくまる、己が手の者を呼び寄せてまうしけるは、「東条の大将金沢かなざは右馬の助殿は、すでに赤坂の城を攻め落として金剛山こんがうせんへ向かはれたりと聞こゆ。当山たうざんの事我ら案内者たるに依つて、一方いつぱううけたまはつて向かひたる甲斐かひもなく、攻め落とさで数日すじつを送る事こそ遺恨ゐこんなれ。つらつら事のやうを案ずるに、この城を大手おほてより攻めば、人のみ討たれて落とす事あり難し。推量すゐりやうするに、城の後ろの山金峯山きんぶせんにはけはしきを頼んで、敵さまで勢を置きたる事あらじと思ゆるぞ。物馴れたらんずる足軽の兵を百五十人ひやくごじふにんすぐつて徒立かちだちになし、夜に紛れて金峯山より忍び入り、愛染宝塔あいぜんはうだふうへにて、夜のほのぼのと明け果てん時ときの声を上げよ。城の兵鬨のこゑに驚いて度を失はん時、大手搦め手三方さんぱうより攻め上つて城を追ひ落とし、宮を生け捕り奉るべし」とぞ下知げぢしける。




夜昼七日間息も継がず戦うと、城中の勢三百余人が討たれれば、寄せ手も八百余人が討たれました。言うまでもなく矢に当たり石に打たれ、生死を知らぬ者は幾千万と言ふ数を知りませんでした。血は草芥([雑草とごみ])を染め、屍は路径に横たわりました。けれども城の守りは少しも弱まることなく、寄せ手の兵の多くは退屈([困難にぶつかってしりごみすること])しているように見えました。ここにこの山の案内者として一方に向かわたせた吉野執行岩菊丸は、己が手の者を呼び寄せて申すには、「東条大将金沢右馬助殿(北条貞将さだゆき。ただし左馬助)は、すでに赤坂城(現大阪府南河内郡千早赤阪村)を攻め落として金剛山に向かわれたと聞く。当山のことは我らが案内者であるということで、一方を承って向かった甲斐もなく、攻め落とすことができずに数日を送ることこそ遺恨である。よくよく軍の様子を案ずれば、この城を大手([敵の正面を攻撃する軍勢])で攻めれば、人ばかり討たれて城を落とすことはできぬであろう。思うところ、城の後ろの山金峯山(吉野・大峯)には険しさを頼りにして、敵はそれほど勢を置いておらぬと思うのだ。軍馴れした足軽の兵を百五十人選って徒立ちにし、夜に紛れて金峯山より忍び入り、愛染宝塔(愛染宝塔院。かつて現奈良県吉野郡吉野町の青根ヶ峰にあった安禅寺)の上で、夜がほのぼのと明けようとする時に鬨の声を上げよ。城の兵は鬨の声に驚いてあわて騒ぐ時、大手搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])が三方より攻め上って城を追い落とし、大塔宮(護良もりよし親王)を生け捕れ」と下知しました。


続く


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by santalab | 2016-03-30 08:08 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北国下向勢凍死事(その2)

河野・土居・得能は三百騎にて後陣ごぢんに打ちけるが、けんくまにて前の勢に追ひ遅れ、行くべき道を失うて、塩津しほづの北にり居たり。佐々木の一族と、熊谷くまがえと、取り籠めて討たんとしける間、相懸かりに懸かつて、皆差し違へんとしけれども、馬は雪にこごへて働かず、兵は指を落として弓を控へ得ず、太刀のつかをも握り得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつ伏しに貫かれてこそ死にけれ。千葉の介貞胤さだたねは五百余騎にて打ちけるが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷ひて、敵の陣へぞ迷ひ出でたりける。進退歩みを失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集まつて自害をせんとしけるを、尾張をはりかみ高経たかつねの許より使ひを立てて、「弓矢の道今はこれまでにてこそ候へ。曲げて御方へ出でられ候へ。この間の義をば身に替へても可申宥」。慇懃いんぎんにのたまひ遣はされければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞしよくしける。




河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。


続く


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by santalab | 2016-03-30 07:33 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北国下向勢凍死事(その1)

同じき十一日は、義貞よしさだ朝臣七千余騎にて、塩津しほづ海津かいづに着き給ふ。七里半の山中をば、越前の守護しゆご尾張をはりかみ高経たかつね大勢にて差し塞いだりと聞こへしかば、これより道を替へて木目峠きのめたうげをぞ越え給ひける。北国の習ひに、十月の初めより、高き峯々に雪降りて、麓の時雨しぐれ止む時なし。今年は例よりも陰寒いんかん早くして、風混かざまじりに降る山路やまぢの雪、甲冑かつちうそそき、鎧の袖をひるがへして、おもてを打つこと烈しかりければ、士卒じそつ寒谷かんこくに道を失ひ、暮山ぼざんに宿なくして、の下岩の陰にしじまり伏す。たまたま火を求め得たる人は、弓矢を折り焚いてたきぎとし、いまだ友を離れぬ者は、互ひに抱き付きて身を暖む。元より薄衣はくえなる人、飼ふ事なかりし馬ども、ここやかしこに凍え死んで、行く人道を去り敢へず。かの叫喚けうくわん大叫喚のこゑ耳に満ちて、紅蓮ぐれん大紅蓮の苦しみまなこさへぎる。今だに懸かり、後の世を思ひ遣るこそ悲しけれ。




同じ(建武三年(1336)十月)十一日には、義貞朝臣(新田義貞)が七千余騎で、塩津(現滋賀県長浜市)・海津(現滋賀県高島市)に着きました。七里半の山中を、越前守護尾張守高経(斯波高経)が大勢で差し塞いでいると聞こえたので、これより道を替えて木目峠(木ノ芽峠。現福井県南条郡南越前町・敦賀市境にある峠)を越えて行きました。北国のこと、十月の初めより、高い峯々には雪が降って、麓の時雨は止む時がありませんでした。今年は例よりも陰寒が早く、風混じりに降る山路の雪は、甲冑に沁み通り、鎧の袖を翻して、面を激しく打ったので、士卒は寒谷に道を失い、暮山には宿もなく、木の下岩の陰に身を縮めて伏しました。たまたま火を得た人は、弓矢を折り焚いて薪とし、いまだ友と離れぬ者は、互いに抱き付いて身を暖めました。元より薄衣の人、主のない馬どもは、ここかしこに凍え死んで、行く人は道を避け難く、叫喚大叫喚([八大地獄の第四・五])の声は耳に満ちて、紅蓮大紅蓮([八大地獄の第七・八])の苦しみは目を覆いたくなるものでした。今にしてこの有様ですれば、後の世を思い遣ればなおさら悲しく思われました。


続く


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by santalab | 2016-03-29 21:23 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」日本朝敵の事(その6)

さるほどに東寺すでに院の御所となりしかば、四壁しへきを城郭に構へて、上皇を警固し奉る由にて、将軍も左馬のかみも、同じくこれに籠もられける。これは敵山門よりはるばると寄せ来たらば、小路こうぢ小路を遮つて、縦横じゆうわうに合戦をせんずる便りよかるべしとて、この寺を城郭にはせられけるなり。




やがて東寺(現京都市南区にある教王護国寺)が院(光厳上皇。北朝初代天皇)の御所となって、四壁に城郭を構えて、光厳上皇を警固したので、将軍(足利尊氏)も左馬頭(足利直義ただよし。尊氏の同母弟)も、同じく東寺に立て籠もりました。これは敵が山門(比叡山)からはるばる攻めて来るのならば、小路小路を塞いで、縦横に合戦するのに都合がよいと、東寺を城郭としたのでした。


続く


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by santalab | 2016-03-29 07:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」日本朝敵の事(その5)

この外大石おほいしの山丸・大山おほやま王子わうじ大友おほとも真鳥まとり・守屋の大臣・蘇我の入鹿・豊浦とよらの大臣・山田の石川いしかは・左大臣長屋・右大臣豊成とよなり・伊予の親王しんわう氷上ひかみ川継かはつぎ・橘の逸勢はやなり文屋ふんやの宮田・江美の押勝おしかつ井上ゐがみ皇后くわうごう早良さうらの太子・大友の皇子・藤原ふぢはら仲成なかなり天慶てんぎやう純友すみとも康和かうわ義親よしちか宇治うぢ悪左府あくさふ六条ろくでう判官はうぐわん為義ためよし・悪右衛門うゑもんかみ信頼のぶより・安陪の貞任さだたふ宗任むねたふ・清原の武衡たけひら・平相国清盛・木曽の冠者くわんじや義仲・阿佐原あさはら八郎はちらう為頼ためより時政ときまさ九代の後胤高時たかとき法師に至るまで、朝敵てうてきとなつて叡慮を悩まし仁義を乱る者、皆身を刑戮けいりくの下に苦しめ、かばねを獄門の前に晒さずと言ふ事なし。されば尊氏たかうぢきやうも、この春とう八箇国の大勢を率して上洛しやうらくし給ひしかども、ひたすら朝敵たりしかば数箇度すかどの合戦に打ち負けて、九州を指して落ちたりしが、この度はその先非せんぴを悔いて、一方の皇統を立て申して、征罰を院宣に任せられしかば、威勢の上に一つの理出で来て、大功たちまちにならんずらんと、人皆色代しきたい申されけり。




このほか大石山丸・大山王子(大山守皇子)・大友真鳥・守屋大臣(物部守屋。物部守屋の変)・蘇我入鹿(乙巳いつしの変)・豊浦大臣(蘇我蝦夷えみし。乙巳の変)・山田石川(蘇我倉山田石川麻呂。乙巳の変)・左大臣長屋(長屋王)・右大臣豊成(藤原豊成)・伊予親王・氷上川継(氷上川継の乱(782))・橘逸勢(橘逸勢)・文屋宮田(文室宮田麻呂)・江美押勝(恵美押勝=藤原仲麻呂。藤原仲麻呂の乱(764))・井上皇后(井上内親王)・早良太子(早良親王。藤原種継暗殺事件(785))・大友皇子(壬申の乱(672))・藤原仲成(藤原薬子くすこの兄。薬子の変)・天慶(承平天慶の乱)の純友(藤原純友)・康和(源義親の乱)の義親(源義親)・宇治悪左府(藤原頼長よりなが。保元の乱)・六条判官為義(源為義。保元の乱)・悪右衛門督信頼(藤原信頼。平治の乱)・安陪貞任(前九年の役)・宗任・清原武衡(後三年の役)・平相国清盛(平清盛)・木曽冠者義仲(木曽義仲)・阿佐原八郎為頼(浅原為頼。第九十二代伏見天皇を暗殺しようと宮中に乱入した。浅原事件)・時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権)九代の後胤高時法師(北条高時。鎌倉幕府第十四代執権)に至るまで、朝敵となって叡慮を悩まし仁義を乱す者は、皆身を刑戮([死刑に処すること])の下に苦しめ、屍を獄門の前に晒さぬことはありませんでした。なれば尊氏卿(足利尊氏)も、この春東八箇国の大勢を率して上洛しましたが、朝敵となって数箇度の合戦に打ち負け、九州を指して落ちて行きました、この度はその先非を悔い、一方の皇統(北朝)を立て、征罰を(北朝初代光厳院の)院宣によるものとなしたので、威勢の上に一つの道理が立ち、大功はたちまちに成し遂げられることと、人は皆色代([お世辞])を申しました。


続く


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by santalab | 2016-03-28 08:09 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」日本朝敵の事(その4)

これのみならず、朱雀院しゆじやくゐん御宇ぎよう承平しようへい五年に、将門まさかどと言ひける者東国に下つて、相馬郡さうまのこほりに都を立て、百官を召し仕うて、みづか平親王へいしんわうと号す。官軍くわんぐんこぞつてこれを討たんとせしかども、その身皆鉄身てつしんにて、矢石しせきにもやぶられず剣戟けんげきにも痛まざりしかば、諸卿僉議せんぎあつて、にはかにくろがねの四天を鋳奉て、比叡山ひえいさん安置あんぢし、四天合行がふぎやうの法を行はせらる、ゆゑに天より白羽しらはの矢一筋ひとすぢ降つて、将門が眉間に立ちければ、遂に俵藤太秀郷たはらとうだひでさとに首を捕られてけり。その首獄門に懸けて晒すに、三月まで色不変、まなこをも塞がず、常に牙を噛みて、「斬られし我が五体いづれの所にかあるらん。ここに来たれ。首継いで今一軍ひといくさせん」と夜な夜な呼ばはりける間、聞く人これを不恐言ふ事なし。時に道過ぐる人これを聞きて、

将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が 謀にて

と詠みたりければ、この首からからと笑ひけるが、眼たちまちに塞がつて、そのかばね遂に枯れにけり。




これのみならず、朱雀院(第六十一代天皇)の御宇承平五年(935)に、将門(平将門)と言う者が東国に下って、相馬郡(現福島県北東部)に都を立て、百官を召し仕えて、自ら平親王と名乗りました。官軍は挙って将門を討とうとしましたが、その身はすべて鉄身にして、矢石にも傷を負うことなく剣戟に切られることもありませんでした、諸卿は僉議して、急ぎ鉄の四天を鋳て、比叡山に安置し、四天合行法([密教で、四天王を本尊として同一の壇で行う修法])を行なわせました、すると天より白羽の矢が一筋降って、将門の眉間に立ったので、遂に俵藤太秀郷(藤原秀郷)によって首を捕られました。その首を獄門に懸けて晒すと、三箇月色は変わらず、目も塞がず、歯を食いしばり、「斬られた我が五体はどこにあるのだ。ここに集まれ。首を継いでもう一軍するぞ」と夜な夜な叫んだので、聞く人はこれを恐れずということはありませんでした。時に道を過ぎる人がこれを聞いて、

将門はこめかみを斬られたのだ、俵藤太の謀によってな。

と詠んだので、将門の首はからからと笑いました、眼はたちまちに塞がって、屍は遂に色を変えました。


続く


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by santalab | 2016-03-27 08:36 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」書写山行幸の事付新田注進の事(その4)

二十八日に法華山へ行幸ぎやうがう成つて、御巡礼あり。これより龍駕りようがを被早て、晦日つごもり兵庫ひやうご福厳寺ふくごんじと云ふ寺に、儲餉ちよしやうの在所を点じて、しばらく御坐ありける処に、その日赤松入道父子四人、五百余騎を率して参向さんかうす。竜顔りようがん殊にうるはしくして、「天下草創さうさうの功偏へになんぢら贔屓の忠戦に依れり。恩賞おんしやうは各々望みに可任」と叡感あつて、禁門の警固に奉侍ぶしせられけり。この寺に一日御逗留とうりうあつて、供奉ぐぶの行列還幸の儀式を被調ける処に、その日の午の刻に、羽書うしよを首に懸けたる早馬三騎、門前まで乗り打ちにして、庭上に羽書を捧げたり。諸卿驚いて急ぎひらいてこれを見給へば、新田小太郎義貞の許より、相摸入道にふだう以下いげの一族従類じゆうるゐら、不日に追討つゐたうして、東国すでに静謐せいひつの由を注進せり。西国さいこく・洛中の戦ひに、官軍くわんぐん勝つに乗つて両六波羅りやうろくはらを雖責落、関東くわんとうを被責事は、由々しき大事成るべしと、叡慮を被回ける処に、この注進到来たうらいしければ、主上しゆしやうを始めまゐらせて、諸卿一同に猶預ゆよ宸襟しんきんを休め、欣悦称嘆きんえつしようたんを被尽、すなはち、「恩賞は宜しく依請」と被宣下て、先づ使者三人に各々勲功の賞をぞ被行ける。




(第九十六代後醍醐天皇は)五月二十八日には法華山(現兵庫県加西市にある一乗寺)に行幸されて、巡礼なさいました。これより龍駕を早めて、晦日は兵庫の福厳寺(現兵庫県神戸市兵庫区にある寺院)という寺に、儲餉(会食)の在所を設けて、しばらくおられるところに、その日赤松入道(赤松則村のりむら)父子四人(赤松範資のりすけ、赤松貞範さだのり、赤松則祐のりすけ?)が、五百余騎を率して参りました。竜顔とりわけ麗わしくして、「天下草創の功はひとえにお主らが味方に付いて忠戦をなしたからである。恩賞は各々望みに任せるぞよ」と叡感あて、禁門の警固に奉侍しました。(後醍醐天皇は)この寺に一日逗留されて、供奉の行列還幸の儀式を整えるところに、その日の午の刻([午前十二時頃])に、羽書([急を要する檄文げきぶん=自分の考えや主張を述べて大衆に行動を促す文書])を首に懸けた早馬三騎が、門前まで乗り打ち([馬やかごに乗ったまま、貴人・神社・仏閣などの前を通り過ぎること])にして、庭上に羽書を捧げました。諸卿は驚いて急ぎ開いて見れば、新田小太郎義貞(新田義貞)の許より、相摸入道(鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかとき)以下の一族従類らを、たちまち追討して、東国はすでに静まったことを注進したものでした。西国・洛中の戦いで、官軍が勝つに乗って両六波羅(北方、北条仲時なかとき。南方、北条時益ときます)を攻め落としましたが、関東を攻めることは、由々しき大事となろうと、叡慮を廻らすところに、この注進が到来したので、主上(後醍醐天皇)をはじめ、諸卿一同に猶預([疑慮])の宸襟を休め、欣悦称嘆(喜悦嘆称)を尽くし、たちまち、「恩賞は請うままに」と宣下されて、まず使者三人に各々勲功の賞を下されました。


続く


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by santalab | 2016-03-27 08:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」日本朝敵の事(その3)

されば天照太神あまてらすおほんがみよりこの方、継体けいたいの君九十六代、その間に朝敵てうてきとなつて亡びし者を数ふれば、神日本磐余予彦天皇かんやまといはあれひこあめすべらみのみこと御宇ぎよう天平てんぴやう四年に紀伊の国名草郡なくさのこほりに二丈余の蜘蛛あり。足手長くして力人に超えたり。綱を張る事数里に及んで、往来の人を残害ざんがいす。しかれども官軍くわんぐん勅命をかうむつて、くろがねの網を張り、鉄湯てつたうを沸かして四方しはうより攻めしかば、この蜘蛛遂に殺されて、その身つだつだにただれにき。また天智天皇てんわうの御宇に藤原千方ちかたと言ふ者あつて、金鬼きんき・風鬼・水鬼・隠形鬼おんぎやうきと言ふ四つの鬼を使へり。金鬼はその身堅固にして、矢を射るに立たず。風鬼は大風を吹かせて、敵城を吹き破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地ろくちできす。隠形鬼はその形を隠して、にはかに敵を取りひしく。かくの如きの神変じんべん、凡夫の智力を以つて可防あらざれば、伊賀・伊勢の両国、これが為に妨げられて王化に従ふ者なし。ここに紀朝雄ともをと言ひける者、宣旨をかうむつてかの国に下り、一首の歌を詠みて、鬼の中へぞ送りける。

草も木も 我大君の 国なれば いづくか鬼の 棲かなるべき

四つの鬼この歌を見て、「さては我ら悪逆無道あくぎやくぶだうの臣にしたがつて、善政有徳うとくの君を背き奉りける事、天罰遁るるところなかりけり」とてたちまちに四方しはうに去つて失せにければ、千方ちかた勢ひを失うてやがて朝雄ともをに討たれにけり。




こうして天照大神よりこの方、継体の君九十六代、の間に朝敵となって亡んだ者を数えれば、神日本磐余予彦天皇(初代神武天皇)の御宇天平四年に紀伊国の名草郡(現和歌山県和歌山市)に二丈余の蜘蛛がいました。足手は長く力は人に超えていました。綱を数里に張って、往来の人を残害しました。けれども官軍が勅命を蒙って、鉄の網を張り、鉄湯を沸かして四方より攻めたので、この蜘蛛は遂に殺されて、その身はずたずたに刻まれました。また天智天皇(第三十八代天皇)の御宇に藤原千方と言う者がいて、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と言う四人の鬼を使っていました。金鬼はその身が堅く、射る矢が立ちませんでした。風鬼は大風を吹かせて、敵城を吹き破りました。水鬼は洪水を起こして、敵を陸地に溺れさせました。隠形鬼はその姿を隠して、たちまち敵を捕らえました。このような神変([人知でははかり知ることのできない、不可思議な変異])を、凡夫の智力で防ぐことはできませんでしたので、伊賀・伊勢の両国は、このために王化に従う者はいませんでした。ここに紀朝雄と言う者が、宣旨を蒙ってかの国に下り、一首の歌を詠んで、鬼の中へ投げ入れました。

草も木もわれら大君の国であるぞ。どこに鬼の棲家があるというのだ。

四人の鬼はこの歌を見て、「我らは悪逆無道の臣に従い、善政有徳の君に背いた、とうてい天罰を遁れることはできぬ」とたちまちに四方に去って失せました、千方は勢いを失ってやがて朝雄(紀朝雄)に討たれました。


続く


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by santalab | 2016-03-26 09:00 | 太平記 | Comments(0)

    

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