Santa Lab's Blog


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「太平記」兵部卿親王流刑の事付驪姫事(その7)

ある時嫡子の申生しんせい、母の追孝つゐけうの為に、三牲さんせいの備へを調へて、斉姜せいきやうの死してうづもれし曲沃きよくをく墳墓ふんぼをぞ被祭ける。そのひもろぎの余りを、父の献公の方へ奉り給ふ。献公折節をりふし狩場に出で給ひければ、この胙をつつんで置きたるに、驪姫りきひそかにちんと云ふ恐ろしき毒を被入たり。献公狩場よりかへつて、やがてこの胙を食はんとし給ひけるを、驪姫申されけるは、「外より贈れる物をば、先づ人に食はせて後に、大人たいじんにはまゐらする事ぞ」とて御前おんまへなりける人に食はせられたるに、その人忽ちに血を吐いて死にけり。こはいかなる事ぞとて、庭前なるけいけんに食はせて見給へば、鶏・犬ともにたふれて死ぬ。献公おほきに驚いてその余りを土に捨て給へば、捨てたる処の土穿げて、あたりの草木皆枯れしぼむ。驪姫偽つて泪を流しまうしけるは、「我太子申生しんせいを思ふ事奚齊けいせいに不劣。されば奚齊を太子に立てんとし給ひしをも、我こそ諌め申して止めつるに、さればよこの毒を以つて、我と父とを殺して、早くしんの国を捕らんと被巧けるこそうたてけれ。これを以つて思ふに、献公いかにも成り給ひなん後は、申生よも我と奚齊とをば、一日片時へんしも生けて置き給はじ。願はくは君我を捨て、奚齊を失ひて、申生の御心を休め給へ」と泣く泣く献公にぞ申されける。




ある時(献公の)嫡子の申生は、母の追孝のために、三牲([鶏・魚・豚])の供え物を調え、斉姜(献公の妃で、申生の母)が埋まっている曲沃(山西省臨汾りんふん市)の墳墓を祀りました。その胙([神に供える肉・米・餅 など])の余りを、父の献公(第十九代晋公)に贈りました。献公はちょうど狩場に出ていたので、この胙を包んで置いて帰りましたが、驪姫(献公の妃)が密かに鴆([中国に棲 むという、毒をもつ鳥])という猛毒を入れました。献公が狩場より帰って、やがてこの胙を食おうとしましたが、驪姫が申すには、「他所から贈られら物は、まず人に毒見させた後に、大人([地位や身分の高い人])に参らせるものです」と御前の人に食わえると、その人はたちまたに血を吐いて死にました。これはどういうことかと、庭前の鶏・犬に食わせて見ると、鶏・犬ともに倒れて死にました。献公はたいそう驚いてその残りを土に捨てると、捨てたところの土に沁み込んで、あたりの草木は皆枯れ萎んでしまいました。驪姫は偽りの涙を流して申すには、「わたしの太子申生への思いは奚斉(驪姫の子で、中国春秋時代の第二十代晋公)に劣るものではありません。ですから奚斉を太子に立てようとなさった時にも、わたしばかりが諌め申して止めましたのに、どうしてこの毒で、わたしと父とを殺して、早く晋の国を捕ろうとするのでしょう悲しいことです。そういうことであれば、献公がこの世になき後は、申生はよもやわたしと奚斉を、一日片時も生かしてはおかないでしょう。願わくは君(献公)よわたしを捨て、奚斉を殺し、申生の心を安められますよう」と泣く泣く献公に申しました。


続く


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by santalab | 2016-05-31 08:37 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿親王流刑の事付驪姫事(その6)

昔異国にしん献公けんこうと云ふ人おはしけり。その后斉姜せいきやう三人の子を生み給ふ。嫡子を申生しんせいと云ひ、次男を重耳ちようじ、三男を夷吾いごとぞまうしける。三人の子すでに長成ひととなりて後、母の斉姜病ひにをかされて、忽ちに無墓成りにけり。献公歎之不浅しかども、別れの日数ひかずやうやく遠く成りしかば、移れば替はる心の花に、昔の契りを忘れて、驪姫りきと云ひける美人をぞ被迎ける。この驪姫ただ紅顔翠黛こうがんすゐたい迷眼のみに非ず、また巧言令色かうげんれいしよく君の心を令悦しかば、献公の寵愛甚だしうして、別れし人のおもかげは夢にも不見成りにけり。かくて経年月ほどに、驪姫また子を生めり。これを奚齊けいせいとぞ名付ける。奚齊未だをさなしといへども、母の寵愛に依つて、父のをぼへ三人の太子に超えたりしかば、献公常にまへの后斉姜の子三人を捨てて、今の驪姫が腹の子奚齊に、晋の国をゆづらんと思へり。驪姫心には嬉しく乍思、うへいつはつて申しけるは、「奚齊未だ幼くして不弁善悪を、賢愚更に不見さきに、太子三人を超えて、継此国事、これ天下の人の可悪処」と、時々よりよりに諌め申しければ、献公いよいよ驪姫が心に無私、世のそしりを恥ぢ、国の安からん事を思へる処を感じて、ただ万事を被任之しかば、そのますます重く成つて天下皆これに帰伏せり。




昔異国(中国)に晋(春秋時代)の献公(第十九代晋公)という人がいました。その后斉姜は三人の子を生みました。嫡子を申生といい、次男を重耳、三男を夷吾といいました(重耳・夷吾は斉姜の子ではないらしい)。三人の子が大人になって、母の斉姜は病に冒されて、たちまちにはかなくなりました。献公の嘆きは浅いものではありませんでしたが、別れの日数はようやく遠くなって、移れば替わる心の花に、昔の契りを忘れて、驪姫という美人を妃に迎えました。驪姫の紅顔([年が若く血色のよい顔])翠黛([緑色のまゆずみ])は目を惑わすばかりでなく、巧言令色([人に媚びへつらう様])は君の心をよろこばせたので、献公の寵愛は尋常ではなく、別れた人(斉姜)の面影を夢にも見なくなりました。こうして年月を経るほどに、驪姫は子を生みました。この子は奚斉と名付けられました。奚斉はまだ幼い者でしたが、母の寵愛によって、父(献公)の覚えは三人の太子を超えたものでしたので、献公は常々前の后斉姜の子三人を捨てて、今の驪姫の腹の子奚斉に、晋国を譲ろうと思っていました。驪姫は心ではうれしく思いながら、表面では偽り申して、「奚斉はまだ幼く善悪をわきまえていませんし、賢愚のほども知れぬ前に、太子三人を超えて、この国を継げば、天下の人はどう思うでしょうか」と、時々に諌め申したので、献公はますます驪姫に私心はあるまい、世の譏りを恥じ、国の太平を案じることに感心して、万事を任せるようになりました、驪姫の威はますます重くなって天下は皆驪姫に帰伏([服従])しました。


続く


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by santalab | 2016-05-31 08:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事(その9)

美作みまさかの国の住人ぢゆうにん菅家くわんけの一族は、三百余騎にて四条しでう猪熊ゐのくままで責め入り、武田の兵庫ひやうごの助・糟谷かすや・高橋が一千余騎の勢と懸け合つて、時移るまで戦ひけるが、跡なる御方の引き退きぬるていを見て、元より引かじとや思ひけん。また向かふ敵に後ろを見せじとや恥ぢたりけん。有元菅四郎佐弘ありもとくわんしらうすけひろ・同じき五郎佐光すけみつ・同じき又三郎佐吉すけよし兄弟三騎、近付く敵に馳せ双べ引つ組んで臥したり。佐弘すけひろは今朝の軍に膝口を被切て、力弱りたりけるにや、武田の七郎に押さへられて首を被掻、佐光は武田の二郎が首を取る。佐吉は武田が郎等らうとうと差し違へて共に死にけり。敵二人ににんも共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、死に残つては何かせん。いざや共に勝負せんとて、佐光と武田の七郎と、持ちたる首を両方へ投げ捨てて、また引つ組んで指し違ふ。これを見て福光ふくみつの彦二郎佐長すけなが殖月うゑつきの彦五郎重佐しげすけ・原田彦三郎佐秀すけひで・鷹取彦二郎種佐たねすけ同時に馬を引つ退し、むずと組んではどうど落ち、引つ組んでは指し違へ、二十七人にじふしちにんの者ども一所にて皆討たれければ、その陣の軍は破れにけり。




美作国の住人菅家の一族は、三百余騎で四条猪熊(四条大宮)まで攻め入り、武田兵庫助・糟谷・高橋の一千余騎の勢と懸け合って、時が移るまで戦いましたが、後ろの味方が引き退くのを見て、元より引くまいと思っていたのか。また向かう敵に後ろを見せじと恥じたのか。有元菅四郎佐弘(有元佐弘)・同じく五郎佐光(有元佐光)・同じく又三郎佐吉(有元佐吉)兄弟三騎が、近付く敵に馳せ並べ引っ組んで臥しました。佐弘は今朝の軍で膝口を切られて、弱っていたのか、武田七郎に押さえられて首を掻かれ、佐光は武田二郎の首を取りました。佐吉は武田の郎等([家来])と刺し違えてともに死にました。敵二人もともに兄弟、味方二人も兄弟でしたので、死に残ったところで何かせん。ともに勝負しようと、佐光(有元佐光)と武田七郎は、持っていた首を両方へ投げ捨てて、また引っ組んで刺し違えました。これを見て福光彦二郎佐長(福光佐長)・殖月彦五郎重佐(植月重佐)・原田彦三郎佐秀(原田佐秀)・鷹取彦二郎種佐(鷹取種佐)は同時に馬を引き返し、むずと組んではどっと落ち、引つ組んでは刺し違え、二十七人の者どもが一所にて皆討たれたので、その陣の軍は敗れました。


続く


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by santalab | 2016-05-31 07:38 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿親王流刑の事付驪姫事(その5)

この御文、もし達叡聞、宥免いうめんの御沙汰もあるべかりしを、伝奏てんそう諸々もろもろいきどほりを恐れて、つひに不奏聞ければ、上天隔听中心の訴へ不啓。この二三年宮に奉付副、致忠待賞御内の候人こうにん三十さんじふ余人、ひそかに被誅之上は不及兎角申、遂に五月三日、宮を直義ただよし朝臣の方へ被渡ければ、以数百騎すひやくき軍勢路次ろしを警固し、鎌倉へ下し奉つて、二階堂のやつに土のろうを塗つてぞ置きまゐらせける。南の御方おかたまうしける上臈女房じやうらふにようばう一人より外は、着き副ひ進らする人もなく、月日の光も見へぬ闇室あんしつの内に向かつて、横切る雨に御袖を濡らし、岩のしただりに御枕を干し侘びて、年の半ばを過ごし給ひける御心の内こそ悲しけれ。君一旦の逆鱗に鎌倉へ下しまゐらせられしかどもこれまでの沙汰あれとは叡慮も不赴けるを、直義ただよし朝臣日来の宿意を以つて、奉禁篭けるこそ浅ましけれ。孝子その父に雖有誠、継母その子をざんする時は傾国失家事古よりそのるゐ多し。




この文が、もし叡聞に達していたならば、宥免の沙汰もあったでしょうが、伝奏は諸々の憤りを恐れて、終に奏聞に入れることはありませんでしたので、心中の思いを上天に届けたいとの願いは叶いませんでした。この二三年宮(護良もりよし親王)に付き添い、忠を致し賞を待つ身内の候人([門跡や諸大寺に仕えた妻帯・僧形の衆])三十余人も、密かに誅せられたのでとかく申すべくもなく、遂に五月三日、宮を直義朝臣(足利直義。足利高氏の弟)の方へ渡されました、数百騎の軍勢が路次を警固し、鎌倉へ下し、二階堂谷に土篭を塗って置きました。南御方(藤原保藤やすふぢの娘)と申す上臈女房一人のほかは、着き添う人もなく、月日の光も見えぬ闇室の内に向かって、横切る雨に袖を濡らし、岩の滴に枕を干し侘びて、年の半ばを過ごす心の内こそ悲しいものでした。君(第九十六代後醍醐天皇)の一旦の逆鱗に鎌倉へ下されましたがこれほどの沙汰があるとは思いもしませんでした、直義朝臣は日来の宿意故に、禁篭に及びましたが嘆かわしいことでした。孝子は父に真ありといいますが、継母が子を讒する([他人を陥れるために事実でない悪口を言うこと])時は国は傾き家を失うと古よりその例は多くありました。


続く


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by santalab | 2016-05-30 23:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事(その8)

舎弟弥九郎走り寄り、その矢を抜いて打ち捨て、「君の御敵は六波羅なり。兄の敵は御辺なり。余すまじ」と云ふ侭に、兄が金棒ををつ取り振つて懸かれば、頓宮とんぐう父子各々五尺二寸の太刀を引き側めて、小躍こをどりして続ひたり。嶋津元より物馴れたる馬上ばじやうの達者矢継ぎ早やの手利きなれば、少しも不騒、田中進んで懸かれば、合いの鞭を打つて、押しもぢりにはたと射る。田中馬手めてまはれば、弓手ゆんでを越えてちやうと射る。西国名誉の打ち物の上手じやうずと、北国無双ぶさうの馬上の達者と、追つつかへしつ懸け違へ、人交ぜもせず戦ひける。前代未聞の見物なり。去るほどに嶋津が矢種も尽きて、打ち物に成らんとしけるを見て、かくては叶はじとや思ひけん、朱雀しゆじやか地蔵堂ぢざうだうより北に控へたる小早河こばいかは、二百騎にてをめいて懸かりけるに、田中が後ろなる勢、ばつと引き退きければ、田中兄弟、頓宮父子かれこれ四人のよろひの透き間内兜うちかぶとに、各々矢二三十筋にさんじふすぢ被射立て、太刀をさかさまに突きて、皆立ちずくみにぞ死にたりける。見る人聞く人、後までもしまぬ者はなかりけり。




舎弟の弥九郎が走り寄って、その矢を抜いて打ち捨て、「君(第九十六代後醍醐天皇)の敵は六波羅よ。兄の敵はお主である。一人も逃すまい」と言うままに、兄の金棒を取って振って懸かったので、頓宮父子は各々五尺二寸の太刀を引き側めて、小躍りして続きました。島津は元より物馴れた馬上の達者矢継ぎ早やの手利きでしたので、少しも騒がず、田中が進んで懸かれば、鞭を打って、馬を引き返しながら矢を射ました。田中が馬手([右])に廻れば、弓手([左])より馬越しに矢を射ました。西国名誉の打ち物([太刀])の上手と、北国無双の馬上の達者が、追いつつ返しつ駆け違え、人も交ぜずに戦いました。前代未聞の見物でした。やがて島津の矢種も尽きて、打ち物になるのも見て、敵わないと思ったか、朱雀の地蔵堂の北に控えていた小早川が、二百騎で喚いて懸かると、田中の後ろに付いていた勢は、ぱっと引き退いたので、田中兄弟、頓宮父子それぞれ四人の鎧の透き間内兜に、各々矢が二三十筋立ち、太刀をさかさまに突いて、皆立ちすくんだ姿で死にました。見る人聞く人、後までも惜しまぬ者はいませんでした。


続く


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by santalab | 2016-05-30 08:55 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿親王流刑の事付驪姫事(その3)

高氏たかうぢきやうこの事を聞いて、内々奉属継母准后被奏聞けるは、「兵部卿ひやうぶきやう親王しんわう為奉奪帝位、諸国のつはものを召し候ふなり。その証拠しやうご分明ぶんみやうに候ふ」とて、国々へ被成下処の令旨りやうじを取つて、被備上覧けり。君おほきに逆鱗あつて、「この宮を可処流罪」とて、中殿の御会くわいに寄事兵部卿親王をぞ被召ける。宮懸かる事とは更に不思召寄、前駈ぜんく二人ににんさぶらひじふ余人召し具して、忍びやかに御参内ありけるを、結城判官ゆふきはうぐわん伯耆はうき守二人、兼ねてより承勅用意したりければ、鈴の間の辺に待ち受けて奉捕之、すなはち馬場殿に奉押篭。




高氏卿(足利高氏)はこれを聞いて、内々(護良親王の)継母に当たる准后(第九十六代後醍醐天皇の寵妃、阿野廉子やすこ)に奏聞するには、「兵部卿親王(護良もりよし親王)が帝位を奪おうと、諸国の兵を集めております。この通り証拠は明らかでございます」と、(護良親王が)国々へ下した令旨([皇太子、三后 =太皇太后・皇太后・皇后、親王、内親王、女院、仏門に入った皇子が意を下達するときの奉書形式の文書])をもって、上覧に及びました。君(後醍醐天皇)はたいそう怒って、「この宮を流罪に処すべし」と申して、中殿御会に事寄せて兵部卿親王を召されました。護良親王はそのようなこととは思いも寄らず、前駆([行列 などの前方を騎馬で進み、先導する者])二人・侍十余人とともに、忍びやかに参内しましたが、結城判官(結城親光ちかみつ)・伯耆守(名和長年ながとし)二人は、予ねてより勅を承って用意していましたので、鈴の間(校書殿きようしよでん?清涼殿の殿上の間から蔵人が小舎人を呼ぶための鈴付きの綱が張り渡してあったらしい)の辺に待ち受けてて護良親王を捕らえ、たちまち馬場殿(武徳殿。平安京大内裏の殿舎の一)に押し籠めました。


続く


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by santalab | 2016-05-29 17:06 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿親王流刑の事付驪姫事(その4)

宮は一間なる所の蜘手結うたる中に、まゐり通ふ人独りもなうして、泪の床に起き伏させ給ふにも、こはいかなる我が身なれば、弘元の始めは武家のために隠身、木の下岩の狭間はざまに露敷く袖を干し兼ね、帰洛の今は一生いつしやうの楽しみ未だ一日もへざるに、為讒臣被罪、刑戮けいりくうちには苦しむらんと、知らぬ前世の報いまでも思し召し残す方もなし。「虚名不久立」云ふ事あれば、さりとも君も可被聞召直思し召しける処に、公儀すでに遠流をんるに定まりぬと聞こへければ、不堪御悲、内々御心寄せの女房にようばうして、委細の御書を遊ばし、付伝奏急ぎ可経奏聞由を被仰遣。その消息せうそくに云はく、


先以勅勘之身欲奏無罪之由、涙落心暗、愁結言短。唯以一令察万、加詞被恤悲者、臣愚生前之望云足而已。夫承久しようきう以来、武家把権朝廷棄政年尚矣。臣苟不忍看之、一解慈悲忍辱法衣、忽被怨敵降伏之堅甲。内恐破戒之罪、外受無慙之譏。雖然為君依忘身、為敵不顧死。当斯時忠臣孝子雖多朝、或不励志、或徒待運。臣独無尺鉄之資、揺義兵隠嶮隘之中窺敵軍。肆逆徒専以我為根元之間、四海しかい下法、万戸以贖。誠是命雖在天奈何身無措処。昼終日臥深山幽谷、石岩敷苔。夜通宵出荒村遠里跣足蹈霜。撫龍鬚消魂、践虎尾冷胸幾千万矣。遂運策於帷幄之中、亡敵於斧鉞ふえつ之下。竜駕方還都、鳳暦永則天、恐非微臣之忠功、其為誰乎。而今戦功未立、罪責忽来。風聞其科条、一事非吾所犯、虚説所起惟悲不被尋究。仰而将訴天、日月不照不孝者、俯而将哭地、山川無載無礼臣。父子義絶、乾坤共棄。何愁如之乎。自今以後勲業為孰策。行蔵於世軽、綸宣儻被優死刑、永削竹園之名、速為桑門之客。君不見乎、申生死而晋国乱、扶蘇刑而秦世傾。浸潤之そしり膚受ふじゆうつたへ、事起于小、禍皆逮大。乾臨何延古不かがみ今。不堪懇歎之至、伏仰奏達。誠惶、誠恐謹言。
三月五日
護良もりよし
前左大臣殿

とぞ被遊ける。




宮(護良もりよし親王)は一間の蜘手を張り廻らされた内で、参り通う人は一人もなく、涙の床に起き伏していましたが、いったい我が身はどういう運命なのか、弘元の初めには武家のために身を隠し、木の下岩の狭間に露敷く袖を干し兼ねて、帰洛の今は一生の楽しみのいまだ一日も終わらぬうちに、讒臣によって罪を被り、刑戮([刑罰に処すること])に苦しまねばならぬもかと、知らぬ前世の報いまでも思い遣って悲しみは尽きませんでした。「虚名([事実とは違っている悪い噂])は長く立たず」ということあらば、きっと君(第九十六代後醍醐天皇)も真実を聞かれて思う直すこともあろうかと思っていましたが、公儀すでに遠流に定まったと聞こえたので、悲しみに堪えず、内々心を寄せていた女房を通じて、委細の書を書いて、付伝奏([親王家、摂家、寺社、武家などの奏請を院、天皇に伝え奏する職])に付けて急ぎ奏聞に入れるよう命じました。その消息([文])には、

勅勘の身として無罪である由を奏上いたします、涙に暮れて心は沈み、愁えに耽っておりますれば端的に申し上げます。ただ一令(一度の命令)をもって万を察せられ、悲しむ者に憐れみを垂れられて、愚かな臣の生前のわずかな望みを叶えられますよう。そもそも承久以来、武家が朝廷の権を握り政を捨てて年を経て参りました。臣はいやしくして見るに堪えず、慈悲忍辱([種々の侮辱や苦しみを耐え忍び心を動かさないこと])の法衣を脱いで、たちまちにして堅甲([かたくて丈夫な鎧])の怨敵を降伏至らしめました。内には破戒の罪を恐れ、外には無慙([戒律を破って心に少しも恥じるところがないこと])の譏りを受けながら。けれども君(第九十六代後醍醐天皇)のために身を軽んじ、敵の前にして死を顧みることはありませんでした。わたしのほかにも忠臣孝子([親によく仕える子。親孝行な子])は多くおりましたが、あるいは心ざしを励まさず、あるいは徒らに時が来るのを待ちました。臣は尺鉄([わずかな武器])をも持たず、義兵は落ちて嶮隘の中に隠れて敵軍を窺うばかり。逆徒は元より己の欲のためだけに、四海([国内])に法を下し、万戸([一万戸の領地。広大な領地])を我が物としておりました。まことわたしの運命は天にあり身の置き所もありませんでした。昼終日深山幽谷に臥しては、石岩の苔を敷いて眠りました。宵に深山幽谷を出ては夜通し荒村遠里の霜を踏んで進みました。龍の鬚を撫でては魂を消し、虎の尾を踏んでは胸を冷やすこと幾千万度でしたか。結句敵を斧鉞([おのと、まさかり])をもって亡ぼしたのです。竜駕([天子の乗り物])を都に還させ、天に任せ鳳暦([天子の治世の年数])を永らしめたのは、畏れながら微臣の忠功ではありませんか、いったい誰のためになしたことか。いまだ戦功立つことなくして、罪の責めがたちまちにおとずれました。噂に聞くところするところ、一事はわたしが犯した罪にあらず、虚説([事実無根のことをいいふらす噂])によって悲しむその元をお尋ねになっていただきたいのです。今は天の訴えを蒙り、日月も照らぬ不孝者となり、地に伏して嘆く、山川([大地])も踏めぬ無礼の臣となりました。父子の義を絶ち、乾坤([天と地])に居場所はありません。どうして悲しまないことがありましょう。今後は勲業([国家や君主に尽くす働き、仕事])のために尽くすためにこの身を捧げたいと。世を行蔵([隠遁し世に出ないこと。出処進退])することを願います、どうか死刑の綸宣([綸言])を宥められ、竹園([天子の子孫。皇族])の名を永く削られて、速やかに桑門([出家して修行する人。僧侶])の客となされますように。君(後醍醐天皇)は知っておられましょう、申生(第十九代晋公、献公の子)が死んで国は乱れ、扶蘇(秦始皇帝の長男)を刑に処し世は傾むきました(扶蘇が父始皇帝の焚書坑儒に諫言したため怒りを買い、僻地の蒙恬もうてん=秦の将軍。の駐屯地へ遠ざけられた)。浸潤の誹り([水がすこしずつ浸みこんでいくように、徐々に非難 や悪口が信じられていくこと。 またそうした巧みな話術で人をたぶらかすこと])は、膚受の訴え([痛切な訴え])となり、些細な事が、皆大きな禍となった例です。乾臨([天子の行う裁決・処置])を古に求められて今のかがみ([戒め])になさろうとはされないのですか。懇嘆の至りに堪えずして、仰せに平伏するとともに奏達いたすものです。まことに恐れ多いことですが、畏まり謹言いたします。
三月五日
護良
前左大臣殿(近衛経忠つねただ?)

と書かれてありました。


続く


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by santalab | 2016-05-29 17:05 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿親王流刑の事付驪姫事(その2)

そもそも高氏たかうぢきやう今までは随分有忠じんにて、有過僻不聞、依何事兵部卿ひやうぶきやう親王しんわうは、これほどに御いきどほりは深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に官軍くわんぐん六波羅を責め落としたりし刻み、殿の法印の手の者ども、京中の土蔵どざうどもを打ち破つて、財宝どもを運び取りける間、為鎮狼籍、足利殿の方よりこれを召し捕つて、二十にじふ余人六条河原ろくでうかはらに切つてぞ被懸ける。その高札に、「大塔宮おほたふのみや候人こうにん、殿の法印良忠りやうちゆうが手の者ども、於在々所々、昼強盜ひるがうだうを致す間、所誅なり」とぞ被書たりける。殿の法印この事を聞いて不安事に被思ければ、様々のざんを構へ方便てだてを廻らして、兵部卿親王にぞ被訴申ける。加様かやうの事ども重畳ぢゆうでふして達上聞ければ、宮も憤り思し召して、志貴しぎに御座ありし時より、高氏卿を討たばやと、連々に思し召し立ちけれども、勅許ちよくきよなかりしかば無力黙止もだし給ひけるが、なほ讒口ざんこう不止けるにや、内々以隠密儀を、諸国へ被成令旨を、つはものをぞ被召ける。




そもそも高氏卿(足利高氏)は今までは随分忠義あって、過分の僻事([過ち])を聞くことはありませんでしたが、何故兵部卿親王(護良もりよし親王)は、これほどに(高氏に対して)憤り深いのか、そも根元を尋ねれば、去年の五月に官軍が六波羅を攻め落とした時、殿法印(良忠。二条師忠もろただの猶子)の手の者どもが、京中の土蔵を打ち破って、財宝を運び取ったので、狼籍を鎮めるために、足利殿(足利高氏)の方がこの者どもを召し捕って、二十余人を六条河原で斬って獄門に懸けました。その高札に、「大塔宮(護良親王)の候人([門跡や諸大寺に仕えた妻帯・僧形の衆])、殿法印良忠の手の者どもが、在々所々において、昼強盜を致したので、誅したものである」と書かれていました。殿法印はこれを聞いて腹を立て、様々の讒([他人を陥れるために事実でない悪口を言うこと])を仕立て方便を廻らして、兵部卿親王に訴えました。このことが重畳([幾重にも重なること])して上聞に達すれば、宮も憤りを覚えて、志貴(現奈良県生駒郡にある朝護 孫子寺)におられた時より、高氏卿を討たなくてはと、連々に思い立たれましたが、勅許もなく仕方なく口をつぐみました、けれどなおも讒口([讒言])は止むことがなかったか、内々隠密を遣わして、諸国へ令旨([皇太子、三后 =太皇太后・皇太后・皇后、親王、内親王、女院、仏門に入った皇子が意を下達するときの奉書形式の文書])をなし、兵を集めました。


続く


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by santalab | 2016-05-29 09:40 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿親王流刑の事付驪姫事(その1)

兵部卿ひやうぶきやう親王しんわう天下の乱に向かふ程は、無力為遁其身難雖被替御法体、四海すでに静謐せいひつせば、如元復三千貫長位、致仏法・王法紹隆給はんこそ、仏意にも叶ひ叡慮にもたがはせ給ふまじかりしを、備征夷将軍位可守天下武道とて、すなはち勅許を被申しかば、聖慮不隠しかども、任御望遂に被下征夷将軍宣旨。斯かりしかば、四海しかい倚頼いらいとして慎身可被重位御事なるに、御心のままに極侈、世のそしりを忘れて婬楽いんらくをのみ事とし給ひしかば、天下の人皆再び世のあやふからん事を思へり。大乱の後は弓矢をつつみて干戈かんくわ袋にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓つよゆみ射る者、大太刀おほたち仕ふ者とだに申せば、無忠被下厚恩、左右前後に仕承ししようす。あまつさ加様かやうのそら絡繰がらくる者ども、毎夜京白河しらかはまはつて、辻切りをしけるほどに、路次ろしに行き合ふ児法師ちごほふし女童部をんなわらんべ、ここかしこに被切倒、逢横死者無休時。これもただ足利治部卿を討たんと被思召けるゆゑに、集兵被習武ける御挙動ふるまひなり。




兵部卿親王(護良もりよし親王)が天下の乱に向かったのは、身の難を遁れるために法体を替えてのことでしたが、四海([国内])はすでに静謐([世の中が穏やかに治まっていること])となり、元通り三千の貫長の位(天台座主)に復し、仏法を致し・王法の隆盛を願うことこそ、仏意にも叶い叡慮にもそぐうものではしたが、備征夷将軍の位に備わり武道をもって天下を守りたいと、たちまち勅許を下されるよう申したので、聖慮は隠れなきものでしたが、望み通り遂に征夷将軍の宣旨を下されました。こうして、四海の倚頼([頼み])として身を慎み重ねて位に即かれるべきでしたが、 心のままに奢りを極め、世の譏りを忘れて婬楽に耽ったので、天下の人皆再び世が危うくなるのではないかと思いました。大乱の後は弓矢を包み干戈([武器])を袋に収めると申しますが、何の用もなく、強弓射る者、大太刀を使う者だと申せば、忠なく厚恩に与かり、(護良親王の)左右前後に仕えました。その上そのような絡繰る([裏にいて、様々に企む])者どもが、毎夜京白川を徘徊し、辻斬りをしたので、路次で行き合う児法師・女童部は、ここかしこに斬り倒されて、横死する者は休む隙もありませんでした。これもただ足利治部卿(足利尊氏)を討とうと思う故に、兵を集め武術を習わせるためでした。


続く


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by santalab | 2016-05-29 09:34 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事(その7)

島津安芸の前司これを聞いて、子息二人ににん手の者どもに向かつて云ひけるは、「日頃聞き及びし西国さいこく一の大力だいりきとはこれなり。彼らを討たん事大勢にては叶ふまじ。御辺たちはしばらく外に控へて自余の敵に可戦。我ら父子三人相近付あひちかづいて、進んづ退いつしばらく悩ましたらんに、などかこれを討たざらん。たとひ力こそ強くとも、身に矢の立たぬ事不可有。たとひ走る事早くとも、馬にはよも追つ付かじ。多年稽古の犬笠懸け、今の用に不立ばいつをか可期。出で出で不思議の一軍して人に見せん」と云ふ侭に、ただ三騎打ち抜けて四人の敵に相近付く。田中藤九郎これを見て、「その名はいまだ知らねども、猛くも思へる心ざしかな、同じくは御辺を生け捕つて、御方に成して軍せさせん」とあざ笑うて、くだんの金棒を打ち振つて、しづかに歩み近付く。島津も馬を静々しづしづと歩ませ寄りて、矢比やごろに成りければ、先づ安芸の前司、三人張りに十二束三伏じふにそくみつぶせ、しばし堅めてちやうと放つ。その矢あやまたず、田中が右の頬前ほうさきを兜の菱縫ひしぬひの板へ懸けて、篦中許のなかばか射通いとほしたりける間、急所の痛手に弱りて、さしもの大力だいりきなれども、目暮れて更に進み不得。




島津安芸前司(島津忠信ただのぶ?)はこれを聞いて、子息二人手の者どもに向かって言うには、「日頃聞いておる西国一の大力とはこの者どもよ。彼らを討つには大勢では叶うまい。お前たちはしばらく外に控えて自余の敵と戦え。我ら父子三人が近付いて、進んでは引いてしばらく疲れさせたなら、どうして討てぬことがあろう。たとえ力が強くとも、身に矢の立たぬことがあろうや。たとえ走ること速くとも、馬にはよもや追い付けぬ。多年稽古の犬笠懸け([犬追物=犬を射る競技。と笠懸=疾走する馬上から的に鏑矢を放ち的を射る競技])、今の用に立たずばいつをか期するべき。さあ不思議の一軍して人に見せようぞ」と言うままに、ただ三騎打ち抜けて四人の敵に近付きました。田中藤九郎はこれを見て、「その名は知らぬが、猛くも思える心ざしよ。お主を生け捕って、味方にして軍させたいものだ」とあざ笑って、金棒を打ち振って、ゆっくりと歩み近付きました。島津も馬を静々と歩ませ寄って、矢頃になると、まず安芸前司が、三人張りに十二束三伏の矢を、しばし固めて放ちました。その矢は誤たず、田中が右の頬先を兜菱縫の板([兜のしころ、鎧の袖・草摺などの最も下の板])へ懸けて、篦中ばかり射通したので、急所の痛手に弱り、大力の者でしたが、目は暮れてさらに進むことは叶いませんでした。


続く


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by santalab | 2016-05-29 09:28 | 太平記 | Comments(0)

    

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