Santa Lab's Blog


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「太平記」奥州勢着坂本事(その2)

鎌倉より西には手差す者もなかりければ、夜昼よるひる馬を早めて、正月十二日近江あふみ愛智河えちがはの宿に着かれけり。その日大館中務おほたちなかづかさ大輔たいふ、佐々木の判官はうぐわん氏頼うぢよりその頃いまだ幼稚えうちにて立てもりたる観音寺くわんおんじの城郭を攻め落として、敵を討つ事すべて五百余人、翌日早馬を先き立てて事の由を坂本へ申されたりければ、主上しゆしやうを始めまゐらせて、敗軍の士卒じそつことごとく悦びをなし、心ざしを蘇しめずと言ふ者なし。すなはち道場坊の助註記じよちゆうき祐覚いうかくに仰せ付けられ、湖上こしやうの船七百余艘よさうを点じて志那しなの浜より一日が内にぞ渡されける。ここに宇都宮紀清きせい両党、主の催促に依つて五百余騎にて打ち連れたりけるが、宇都宮は将軍しやうぐん方にありと聞こへければ、面々にいとまを請ひ、色代しきだいして志那の浜より引き分かれ、芋洗いもあらひまはつて、京都へこそ上りけれ。




鎌倉から西には敵はいなかったので、夜昼馬を早めて、新田義貞は正月十二日に近江国の愛智河宿(現滋賀県愛知郡愛荘町)に着きました。その日大館中務大輔(大館幸氏。新田氏)が、佐々木判官氏頼(佐々木氏頼)はその頃まだ幼く立ち籠もっていた観音寺城(現滋賀県近江八幡市安土町にあった山城)を攻め落として、敵を討つこと都合五百人余り、翌日早馬を立ててこれを坂本(現滋賀県大津市坂本町)に知らせると、主上(第九十六代後醍醐天皇)をはじめ、敗軍の士卒([軍兵])は一人残らずよろこび、気を晴らさない者はいませんでした。すぐに道場坊の助註記([註記]=[寺院で論議の際、題を読み上げ、また論議を記録する役僧])祐覚に命じて、琵琶湖上に船七百艘余りをもって志那の浜(現滋賀県草津市。琵琶湖最南端)より一日の内に来させました。ここに宇都宮紀清両党(宇都宮氏の武士団。紀姓益子氏と清原姓芳賀氏)が、主(宇都宮公綱きんつな)の催促によって上洛し五百騎余り付き従っていましたが、宇都宮(公綱きんつな)が将軍(足利尊氏)方にいると聞いたので、それぞれ別れを申して、色代([挨拶])して志那浜より別れ、芋洗(一口いもあらひ。現京都府久世郡久御山町)を迂回して、京都に上りました。


続く


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by santalab | 2016-06-30 08:41 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その9)

讃岐のかみが五百余騎、左右へさつと被懸阻また取つて返さんとする処に、讃岐の守が乗つたる馬、敵の打つ太刀に驚きて、弓杖ゆんづゑ三杖みつゑ計りぞ飛びたりける。飛ぶ時鞍に被余真倒まつさかさまにどうど落つ。落つるとひとしく敵三騎落ち合ひて、起こしも不立切りけるを、讃岐の守乍寐二人ににんの敵の諸膝薙いで切り据へ、起き揚がらんとする処を、和田にぎたが中間わしり懸けて、やりの柄を取り延べて、喉吭のどぶえを突いて突き倒す。倒るる処に落ち合つて首をば和田に被取にけり。




讃岐守(細川頼春)の五百余騎は、左右へさっと駆けられてまた取って返そうとするところに、讃岐守が乗った馬が、敵の打つ太刀に驚いて、弓杖三杖ばかり飛び上がりました。(細川頼春は)馬が飛び上がった時鞍から真っ逆さまに落ちました。落ちると同時に敵三騎が落ち合って、起こす間もなく斬り懸かるところを、讃岐守は倒れたままに二人の敵の諸膝を薙いで斬り倒し、起き上がろうとしましたが、和田の中間([武士の下位の者])が走りかけて、槍の柄を取り延べて、喉笛を突いて突き倒しました。細川頼春が倒れるところに落ち合って首を和田に捕られました。


続く


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by santalab | 2016-06-30 08:34 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その8)

東寺・大宮おほみやの鬨の声、七条口の烟を見て、「すはや楠木寄せたり」と、京中きやうぢゆうの貴賎上下あはて騒ぐ事不斜。細川陸奥のかみ顕氏あきうぢは、千本に宿して居たりけるが、遥かに西七条の烟を見て、先づ東寺へ馳せ寄らんと、僅かに百四五十騎にて、西の朱雀しゆしやかを下りに打ちけるが、七条大宮しちでうおほみやに控へたる楠木が勢に被取篭、陸奥の守のをひ細河ほそかは八郎はちらう矢庭やにはに被討ければ、顕氏主従八騎に成つて、若狭を指してぞ落ちける。細河讃岐の守頼春よりはるは、時の侍所さぶらひどころなりければ、東寺辺へ打ち出でて勢を集めんとて、手勢三百騎許りにて、これも大宮を下りに打ちけるが、六条ろくでう辺にて敵の旗を見て、「著到ちやくたうも勢汰へも今はいらぬ所なり。何様先づこれなる敵を一散らし散らさでは、いづくへか可行」とて、三千余騎控へたる和田にぎた・楠木が勢に相向かふ。楠木が兵兼ねてのたくみありて、一枚楯の裏のさんを繁く打つて、如階こしらへたりければ、在家の垣に打ち懸け打ち懸けて、究竟くつきやうの射手三百余人、家の上に登りて目の下なる敵を見下ろして射ける間、面を向くべき様もなくて進み兼ねたる処を見て、和田・楠木五百余騎くつばみを双べてぞ懸けたりける。




東寺(現京都市南区にある教王護国寺)・大宮大路の鬨の声、七条口の煙を見て、「楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)が攻めて来たぞ」と、京中の貴賎上下があわて騒ぐ様は尋常ではありませんでした。細川陸奥守顕氏(細川顕氏)は、千本(現京都市上京区?)にいましたが、遥かに西七条の煙を見て、まず東寺へ馳せ寄ろうと、わずかに百四五十騎で、西朱雀大路を急ぎ下りましたが、七条大宮に控えていた楠木(正儀)の勢に取り籠められて、陸奥守(細川顕氏)の甥、細川八郎がたちまち討たれたので、顕氏は主従八騎になって、若狭国を指して落ちて行きました。細川讃岐守頼春(細川頼春)は、時の侍所でしたので、東寺辺へ打ち出て勢を集めようと、手勢三百騎ばかりで、これも大宮大路を急ぎ下りましたが、六条辺で敵の旗を見て、「著到([著到状]=[不時の出陣命令を受けてそれに応じ、あるいはみずからこれを聞いて自発的に参着したことを記して提出する文書])も勢汰えも今は無用ぞ。とにかくまずはこの敵を一散らし散らずば、どこへも行けぬ」と申して、三千余騎が控えていた和田・楠木の勢に当たりました。楠木(正儀)の兵は予ねてより計略を巡らせて、一枚楯の裏のさん([戸・障子などの骨組み])を数多く打って、階のように拵えて、在家の垣に打ち懸け打ち懸けて、究竟の射手三百余人が、家の上に登って目下の敵を見下ろして矢を射たので、面を向くこともできずに進み兼ねたところを、和田・楠木五百余騎が轡を並べて駆けました。


続く


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by santalab | 2016-06-30 08:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その7)

住吉に十八日御逗留とうりうあつて、うるふ二月十五日天王寺てんわうじへ行幸なる。この時伊勢の国司中院なかのゐん衛門ゑもんかみ顕能あきよし、伊賀・伊勢の勢三千余騎を率して被馳参けり。同じき十九日八幡やはたへ行幸成て、田中法印が坊を皇居くわうきよに被成、赤井・大渡おほわたりに関を据へて、兵山上山下さんげに満ち満ちたるは、ひたすら合戦の御用意なりと、洛中の聞こへ不穏。これによつて義詮朝臣よしあきらあそん法勝寺ほつしようじ慧鎮ゑちん上人を使ひにて、「臣不臣の罪を謝して、勅免を可蒙由申し入るる処に、照臨已に下情かじやうを被恤、上下和睦の義、事定まりさうらひぬる上は、何事の用心か候ふべきに、和田にぎた・楠木以下の官軍くわんぐんら、ひたすら合戦のくはたてある由うけたまはり及び候ふ。如何様いかやうの子細にて候ふやらん」と被申たり。主上しゆしやうぢきに上人に御対面有て、「天下未だ恐懼きようくを懐く間、ただ非常をいましめん為に、官軍を被召具いへども、君臣已に和睦の上は更に異変の義不可有。たとひ讒者ざんしやの説ありとも、胡越こえつの心を不存ば太平のもとゐたるべし」と、勅答あつてぞ被返ける。綸言已に如此。士女しぢよの説何ぞ用ゐる処ならんとて、義詮朝臣を始めとして、京都の軍勢、かつて今被出抜とは夢にも不知、由断して居たる処に、同じき二十七日にじふしちにちの辰の刻に、中院の右衛門の督顕能、三千余騎にて鳥羽より推し寄せて、東寺の南、羅城門らしやうもんの東西にして、旗の手を解き、千種の少将せうしやう顕経あきつね五百余騎にて、丹波路たんばぢ唐櫃越からうとごえより押し寄せて、西の七条に火を上ぐる。和田・楠木・三輪・越知をち・真木・神宮寺、その勢都合五千余騎、宵より桂川を打ち渡つて、まだ篠目しののめの明けぬ間に、七条大宮しちでうおほみやの南北七八町に村立つて、鬨の声をぞ揚げたりける。




(第九十七代後村上天皇は)住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)に十八日間逗留されて、(文和元年(1352))潤二月十五日に天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に行幸になられました。この時伊勢国司中院衛門督顕能(北畠顕能)が、伊賀・伊勢の勢三千余騎を率して馳せ参りました。同じ十九日に八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に行幸されて、田中法印の坊を皇居に成し、赤井(現大阪府枚方市)・大渡(現京都府八幡市)に関を据えて、兵が山上山下に満ち満ちましたが、ただ合戦の用意のためだと、洛中への聞こえは穏やかではありませんでした。これによって義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)は、法勝寺(かつて現京都市左京区にあった寺院)の慧鎮上人を使いにして、「臣が臣ならぬ罪を謝して、勅免を蒙る由を申し入れるところに、照臨([君主が国土・人民を統治すること])すでに下情([一般の民衆の実情。庶民生活の様子])を憐れまれ、上下和睦の義、事定まった上は、何事の用心もありませんでしょうに、和田・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)以下の官軍らが、合戦の企てをしておると聞き及んでおります。いったいどういうことでございましょう」と申し上げました。主上(後村上天皇)は直接慧鎮上人に対面されて、「天下はいまだ恐懼([恐れ畏まること])を懐いておる、ただ非常に備えるために、官軍を召し具しておるが、君臣すでに和睦の上は異変があるはずもない。たとえ讒者が何を申すとも、胡越の心がなければ太平が揺るぐものではない」と、勅答されました。綸言はこの通りでした。士女([男と女])の意見など聞く耳を持たずと、義詮朝臣をはじめとして、京都の軍勢は、出し抜かれたとは夢にも思わず、油断するところに、同じ二月二十七日の辰の刻([午前八時頃])に、中院右衛門督顕能(北畠顕能)が、三千余騎で鳥羽(現京都市南区・伏見区)より押し寄せて、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)の南、羅城門(現京都市南区にあった)の東西にして、旗の手を解き、千種少将顕経(千種顕経)は五百余騎で、丹波路唐櫃越え(現京都府京都市西京区と亀岡市篠町を結ぶ道)より押し寄せて、西七条に火を上げました。和田・楠木・三輪・越知・真木・神宮寺は、その勢都合五千余騎で、宵より桂川を打ち渡って、まだ東雲の明けぬ間に、七条大宮の南北七八町に群れ立って、鬨の声を上げました。


続く


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by santalab | 2016-06-30 08:24 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その6)

住吉に臨幸成つて三日に当たりける日、社頭に一つの不思議あり。勅使神馬じんめたてまつて奉幣を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬たまがきの前なるおほいなる松一本中よりれて、南に向いてたふれにけり。勅使驚いて子細を奏聞しければ、伝奏吉田の中納言宗房よしふさ卿、「えうは不勝徳」とのたまひてさまでも驚き給はず。伊達三位さんみ有雅いうがが武者所にありけるが、この事を聞いて、「あな浅ましや、この度の臨幸りんかう成らせ給はん事は難有。その故は昔いんの帝大戊たいぼうの時、世のかたぶかんずるしるしをあらはして、庭に桑穀くはの木一夜に生ひて二十にじふ余丈よぢやうはびこれり。帝大戊おそれて伊陟いちよくに問ひ給ふ。伊陟がまうさく、「臣聞くえうは不勝徳に、君の政のかくる事あるに依つて、天この兆しを降すものなり。君早く徳ををさめ給へ」とまうしければ、帝すなはち諌めにしたがひて正政撫民、招賢退佞給ひしかば、この桑穀の木また一夜の中に枯れて、霜露の如くに消え失せたりき。加様の聖徳を被行こそ、妖をば除く事なるに、今の御政道に於いてその徳何事なれば、妖は不勝徳とは、伝奏の被申やらん。かへす返すも難心得才学さいかくかな」と、眉をひそめてぞ申しける。その夜いかなる嗚呼をこの者かしたりけん。この松を押しけづりて一首の古歌を翻案ほんあんしてぞ書きたりける。

君が代の 短かるべき ためしには 兼てぞ折れし 住吉の松

と落書にぞしたりける。




住吉に臨幸になられて三日目に当たる日、社頭で一つの不思議がありました。勅使が神馬を献上して奉幣を捧げた時、風も吹かずして、瑞籬([神社など の周囲に設けた垣根] )の前の大きな松が一本途中より折れて、南に向いて倒れました。勅使は驚いて子細を奏聞すると、伝奏吉田中納言宗房卿(吉田宗房)は、「妖は徳に勝たず」と申してさほどは驚きませんでした。伊達三位有雅は武者所にいましたが、これを聞いて、「なんとも嘆かわしいことよ。この度の臨幸をなし遂げられることはなかろう。その故は昔殷の帝大戊(殷の第九代王)の時、世が傾く兆しを現じて、庭に桑の木が一夜に生えて二十余丈(約60m。一般に桑は高くとも15mほどらしい)もはびこった。帝大戊は怖れて伊陟(中国殷の政治家。伊尹いいんの子)に訊ねました。伊陟が申して、「妖は徳に勝たずと申しますが、君が政をおざなりになされたので、天がこの兆しを示されたのです。君よ早く徳を治めるなさいませ」と申したので、帝はたちまち諌めに従って政を正し民を憐れみ、賢人を招いて佞人([口先巧みにへつらう、心のよこしまな人])を退けたので、この桑の木は一夜の中に枯れて、霜露の如く消え失せました。このような聖徳を行ってこそ、妖を除くことができるのです、今の政道においてその徳のほどどれほどなれば、妖は徳に勝たずと、伝奏が申したのか。返す返すも心得ぬ才学かな」と、眉を顰めて([他人の嫌な行為に不快を感じて顔をしかめる])申しました。その夜いかなる嗚呼([道化])の者がしたのか。この松を削って一首の古歌を翻案([原作を生かし、大筋は変えずに改作すること])して書き付けました。

君が代が短いものであることを暗示したのでしょうか、折れてしまった住吉の松よ。(元歌は、『君が代の 久しかるべき ためしにや 兼ねてぞ栽ゑし 住吉の松』=『君が代が永遠に続くことを予言していたのでしょうか、遥か昔に植えられた住吉の松よ。』)

と落書しました。


続く


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by santalab | 2016-06-30 08:00 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その5)

憂かりし正平六年の歳れて、新玉の春立ちぬれども、皇居くわうきよはなほも山中なれば、白馬蹈歌あをむまたうか節会せちゑなんどは不被行。寅の時の四方拝しはうはい、三日の月奏ぐわつそう計りあつて、後七日の御修法みしほ文観もんくわん僧正そうじやううけたまはりて、帝都の真言院しんごんゐんにて被行。十五日過ぎければ、武家より貢馬くめ十疋・沙金しやきん三千両奏進之。その外別進の貢馬三十疋・巻絹まききぬ三百疋・沙金五百両ごひやくりやう女院にようゐん皇后三公九卿きうけい、無漏方引きまゐらす。二月二十六日にじふろくにち主上しゆしやう已に山中を御出であつて、腰輿えうよを先づ東条へ被促。剣璽けんじの役人計り衣冠正しくして被供奉。その外の月卿・雲客・衛府ゑふ・諸司のは皆甲胄を帯して、前騎後乗こうじよう相順あひしたがふ。東条に一夜御逗留とうりうあつて、翌日やがて住吉へ行幸なれば、和田にぎた・楠木以下、真木野まきの・三輪・湯浅入道・山本判官・熊野の八庄司しやうじ吉野十八郷じふはちがうの兵、七千余騎、路次ろしを警固仕る。皇居くわうきよは当社の神主津守の国夏くになつが宿所をにはかに造り替へて臨幸なし奉りけり。国夏すなは上階じやうかいして従三位じゆさんみに被成。先例未だなき殿上の交はり、時に取つての面目なり。




悲しむべき正平六年(1351)の年も暮れて、新玉の春になりましたが、皇居はなおも山中(賀名生殿。現奈良県五條市)にありましたので、白馬([紫宸殿で左右馬寮の白馬を天覧の後、群臣に宴を賜わる儀式])蹈歌([足で地を踏み拍子をとりつつ回る一種の集団舞踊])の節会も行われませんでした。寅の時([午前四寺頃])の四方拝([宮中で行われる一年最初の儀式])、三日の月奏([官人の出勤日数を調べ、翌月の一日に天皇に報告したこと])ばかりあって、後七日御修法([真言院において、一月八日から十四日までの七日間、天皇の安寧や国家安穏を祈る秘法])は文観僧正が承って、帝都の真言院(平安京大内裏中和院の西にあった密教の修法道場)で行われました。十五日を過ぎて、武家より貢馬([朝廷に進献する馬])十匹・沙金三千両(約110kg)が奏進されました。そのほか別進の貢馬三十匹・巻き絹三百疋(一疋=二反)・沙金五百両を、女院(第九十六代後醍醐院の後宮で第九十七代後村上天皇の生母、阿野廉子やすこ。新待賢門院)皇后(?)三公九卿([中国の秦漢時代の行政官職の総称])、漏れなく引き参らせました。二月二十六日に、主上(第九十七代後村上天皇)は山中を出られて、腰輿をまず東条(現大阪府柏原市?)へ向けられました。剣璽([天叢雲剣あめのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])の役人だけが衣冠を正しくして供奉しました。そのほかの月卿・雲客・衛府・諸司の尉([律令制における四等官の第三位の官])は皆甲胄を帯して、前騎後乗([後乗り]=[行列の最後尾を騎馬で行くこと])に従い、東条に一夜逗留されて、翌日やがて住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)に行幸されました、和田・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)以下、真木野・三輪・湯浅入道(湯浅定仏)・山本判官・熊野八庄司([紀伊熊野の八つの庄の庄司])吉野十八郷の兵、七千余騎が、路次を警固しました。皇居は当社の神主津守国夏の宿所をにわかに造り替えて臨幸なし奉りました。国夏はたちまち上階して従三位になりました。先例いまだなき殿上の交わりは、時に取っての面目となりました。


続く


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by santalab | 2016-06-30 07:15 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その4)

三位殿さんみどの御局とまうししは、今天子の母后にておはしませば、院号かうむらせ給ひて、新待賢門院しんたいけんもんゐんとぞ申しける。北畠入道源の大納言は、准后じゆごうの宣旨を蒙りて華著けたる大童子おほわらはを召し具し、てぐるまして宮中を出入すべきよそほひ、天下耳目じぼくを驚かせり。この人は故奥州あうしうの国司顕家あきいへきやうの父、今皇后くわうごう厳君げんくんにてをはすれば、武功と云ひ華族くわしよくと云ひ、申すに及ばぬ所なれども、竹園摂家ちくゑんせつけの外に未だ准后の宣旨を被下たる例なし。平相国へいしやうこく清盛入道出家の後、准后の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非ず、安徳天皇てんわう外祖ぐわいそたり。また忠盛ただもりが子とは名付けながら、正しく白河しらかはゐんの御子なりしかば、華族も栄達も今の例には引き難し。日野の護持院ごぢゐん僧正そうじやう頼意らいいは、東寺の長者醍醐の座主に被補て、仁和寺諸院家しよゐんげを兼ねたり。大塔おほたふの僧正忠雲ちゆううんは、梨本大塔おほたふの両門跡を兼ねて、鎌倉の大御堂おほみだう天王寺てんわうじの別当職に被補。この外山中伺候の人々、名家めいか清華せいぐわを超え、庶子は嫡家ちやくけを越えて、官職雅意に任せたり。もし如今にて天下定まらば、歎く人はおほくして悦ぶ者は可少。元弘一統の政道如此にて乱れしを、取つていましめとせざりける心の程こそ愚かなれ。




故三位殿局(阿野廉子やすこ)と申されたのは、今天子(第九十七代後村上天皇)の母后でしたので、院号を下されて、新待賢門院と申されました(ちなみに阿野廉子はこの時には在命)。北畠入道源大納言(北畠親房ちかふさ)は、准后の宣旨を下されて花を付けた大童子([寺で召し使う少年のうち、出自などの理由で最上級とされた者])を召し具し、手輦に乗って宮中を出入する姿は、天下の耳目を驚かせました。この人は故奥州国司顕家卿(北畠顕家)の父、今の皇后(後村上天皇の女御)の厳君([父君])でしたので、武功と言い華族([清華家=公卿の家格の一。摂関家に次ぎ大臣家の上に位する家柄。の別称])と言い、申すまでもありませんでしたが、竹園([皇族])摂家のほかにいまだ准后の宣旨を下された例はありませんでした。平相国清盛入道(平清盛)が出家の後に、准后の宣旨を下されたのは、皇后(第八十代高倉天皇の中宮、平徳子とくこ)の父であるばかりでなく、安徳天皇(第八十一代天皇)の外祖([母方の祖父])でした。また忠盛(平忠盛)の子とは名付けながら、まさしくは白河院(第七十七代天皇)の子でしたので(白河院の寵妃、祇園女御は妹の子である平清盛を猶子にしたらしい)、華族も栄達も今の例には当てはまりませんでした。日野護持院僧正頼意は、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)の長者醍醐(現京都市伏見区にある醍醐寺)の座主に補されて、仁和寺(現京都市右京区にある門跡寺院)諸院家([門跡寺院の別院で、本寺を補佐し、諸種の法務を行う寺院])を兼任しました。大塔僧正忠雲は、梨本(現京都市左京区にある三千院)大塔(現京都市左京区にあった法勝寺)の両門跡を兼ねて、鎌倉大御堂(現神奈川県鎌倉市にあった勝長寿院)、天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)の別当職に補されました。このほか山中(賀名生殿。現奈良県五條市)に伺候の人々は、名家は清華を超え、庶子は嫡家を越えて、官職は思いのままでした。もしこのままが天下が定まれば、悲しむ人は多くよころぶ者は少なかったことでしょう。元弘一統の政道もこうして乱れましたが、戒めとしなかった心のほどこそ愚かなことでした。


続く


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by santalab | 2016-06-29 19:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その2)

先づ当職たうしよくの公卿には二条にでうの関白太政大臣だいじやうだいじん良基よしもと公・近衛このゑの右大臣道嗣みちつぐ公・久我こがの内大臣右大将うだいしやう通相みちすけ公・葉室の大納言長光ながみつ・鷹司の大納言左大将冬通ふゆみち洞院とうゐん大納言実夏さねなつ三条さんでうの大納言公忠きんただ・三条の大納言実継さねつぐ・松殿大納言忠嗣ただつぐ今小路いまこうぢ大納言良冬よしふゆ西園寺さいをんじ大納言実俊さねとし裏築地うらついぢ大納言忠季ただすゑ大炊御門おほひのみかど中納言家信いへのぶ四条しでうの中納言隆持たかもち・菊亭中納言公直きんなほ二条にでうの中納言師良もろよし花山院くわざんのゐん中納言兼定かねさだ・葉室の中納言長顕ながあき万里小路までのこうぢ中納言仲房なかふさ・徳大寺中納言実時さねとき・二条の宰相さいしやう為明ためあきら勘解由小路かげゆこうぢ左大弁宰相兼綱かねつな堀河ほりかは宰相さいしやう中将ちゆうじやう家賢いへかた・三条の宰相公豊きんとよ坊城ばうじやうの右大弁宰相経方つねまさ・日野の宰相教光のりみつ・中御門宰相宣明のぶあきら殿上人てんじやうびとには日野の左中弁時光ときみつ四条しでう左中将さちゆうじやう隆家たかいへ・日野の右中弁保光やすみつごんの右中弁親顕ちかあき・日野の左少弁させうべん忠光ただみつ・右少弁たひら信兼のぶかぬ勘解由かげゆの次官行知ゆきとも右兵衛うひやうゑすけ嗣房つぐふさらなり。




まず当職の公卿には二条関白太政大臣良基公(二条良基)・近衛右大臣道嗣公(近衛道嗣)・久我内大臣右大将通相公(久我通相)・葉室大納言長光(葉室長光)・鷹司大納言左大将冬通(鷹司冬通)・洞院大納言実夏(洞院実夏)・三条大納言公忠(三条公忠)きんただ・三条大納言実継(正親町三条実継)・松殿大納言忠嗣(松殿忠嗣)・今小路大納言良冬(今小路良冬)・西園寺大納言実俊(西園寺実俊)・裏築地大納言忠季(正親町忠季)・大炊御門中納言家信(大炊御門家信)・四条中納言隆持(四条隆持)・菊亭中納言公直(今出川公直)・二条中納言師良(二条師良)・花山院中納言兼定(花山院兼定)・葉室中納言長顕(葉室長顕)・万里小路中納言仲房(万里小路仲房)・徳大寺中納言実時(徳大寺実時)・二条宰相為明(二条為明)・勘解由小路左大弁宰相兼綱(広橋兼綱)・堀川宰相中将家賢(花山院家賢)・三条宰相公豊(正親町三条公豊。正親町三条実継の子)・坊城右大弁宰相経方(勧修寺経方)・日野宰相教光(武者小路教光)・中御門宰相宣明(中御門宣明)、殿上人には日野左中弁時光(日野時光)・四条左中将隆家(四条隆家)・日野右中弁保光(日野保光)・権右中弁親顕(平親顕)・日野左少弁忠光(柳原忠光)・右少弁平信兼(関信兼)・勘解由次官行知・右兵衛佐嗣房(万里小路嗣房)らでした。


続く


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by santalab | 2016-06-29 08:40 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その3)

この外先官せんぐわんの公卿、非参議ひさんぎ、七弁八座、五位六位、乃至ないし山門園城をんじやう僧綱そうがう三門跡さんもんぜき貫首くわんしゆ諸院家しよゐんげの僧綱、並びに禅律の長老、寺社の別当神主に至るまで我先にと馳せ参りける間、さしも浅ましく賎しげなりし賀名生あなふの山中、如花隠映いんえいして、如何なる辻堂、温室をんしつ、風呂までも、幔幕引かぬ所もなかりけり。今参候する所の諸卿の叙位転任じよゐてんにんは、悉く持明院殿ぢみやうゐんどのより被成たる官途くわんとなればとて各々一汲いつきふ一階を被貶けるに、三条さんでう坊門ばうもん大納言通冬みちふゆきやうと、御子みこ左の大納言為定ためさだ卿許りは、本の官位に被復せけり。これは内々吉野殿へ被申通けるゆゑなり。京都より被参仕たる月卿げつけい雲客うんかくをば、降参人とて官職を被貶、山中伺候の公卿殿上人てんじやうびとをば、多年のらう功ありとて、超涯不次てうがいふじの賞を被行ける間、窮達忽ちに地をへたり。




このほか先官の公卿、非参議、七弁([太政官の七人の弁官])八座([参議の異称])、五位六位、また山門(延暦寺)園城寺(現滋賀県大津市にある寺院)の僧綱([仏教の僧尼を統轄し、大寺院などを管理する役職])、三門跡([天台宗三門跡]=[現京都市左京区にある三千院・京都市東山区にある青蓮院・同じく京都市東山区にある妙法院])の貫首([管主])、諸院家([院家]=[門跡寺院の別院で、本寺を補佐し、諸種の法務を行う寺院])の僧綱、並びに禅律(禅宗と律宗)の長老、寺社の別当神主に至るまで我先にと馳せ参ったので、嘆かわしいほどにみすぼらしい賀名生(現奈良県五條市)の山中は、花の影が映るように、辻堂、温室、風呂までも、幔幕([遮蔽と装飾を兼ねた幕の一])引かない所はありませんでした。この度参候する諸卿の叙位([位階を授けること])転任([同一の官庁内で昇進すること])は、残らず持明院殿(北朝第三代崇光天皇)よりなされた官途([官吏の職務、または地位。官職])でしたので各々一汲一階を下げられましたが、三条坊門大納言通冬卿(中院通冬)と、御子左大納言為定卿(二条為定)ばかりは、本の官位に復されました。これは内々吉野殿(第九十七代後村上天皇)に通じていたからでした。京都より参り仕える月卿雲客([公卿と殿上人])を、降参人として官職を降とし、山中伺候の公卿殿上人には、多年の労功ありと、超涯不次([異例の抜擢])の賞を行ったので、窮達([おちぶれることと栄えること])たちまちに天地を替えました。


続く


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by santalab | 2016-06-29 08:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事(その1)

足利宰相さいしやう中将ちゆうじやう義詮よしあきら朝臣は、将軍鎌倉へ下り給ひし時京都守護の為に被残おはしけるが、関東くわんとうの合戦の左右は未だ聞こへず、京都は以外に無勢ぶせいなり。かくては如何様、和田にぎた・楠木に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦事をはかつて、暫く洛中を無為ぶゐならしめん為に、吉野殿へ使者を立て、「自今以後は、御治世ぢせいの御事と、国衙こくが郷保がうほ、並びに本家領家りやうけ、年来進止しんしの地に於いては、武家一向いつかうそのいろひを可止にて候ふ。ただ承久しようきう以後新補しんぽ率法りつはふ並びに国々の守護職、地頭御家人の所帯を武家の成敗に被許て、君臣和睦の恩慧おんけいを被施候ふは、武臣七徳の干戈かんくわをさめて、聖主万歳ばんぜい宝祚ほうそを可奉仰」しきりに奏聞をぞ被経ける。これによつて諸卿僉議あつて、先に直義ただよし入道和睦の由を申して、ことばの下に変じぬ。これもまたいつはつてまうす条無子細思いゆれども、はかりこと一途いちづたれば、先づ義詮よしあきらが被任申旨、帝都還幸くわんかうの儀をもよほし、しかうして後に、義詮をば畿内・近国の勢を以つて退治たいぢし、尊氏をば義貞が子どもにおほせ付けて、則ち被御追罰何の子細か可有とて、御問答再往さいわうにも不及、御合体がつていの事子細非じとぞ被仰出ける。両方互ひに偽り給へる趣き、誰かは可知なれば、この間持明院殿ぢみやうゐんどの方に被拝趨ける諸卿、皆賀名生あなふ殿へ被参。




足利宰相中将義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)は、将軍(足利尊氏)が鎌倉へ下った時京都守護のために残っていましたが、関東の合戦の雌雄はいまだ聞こえず、京都はまったく無勢でした。ややもすれば、和田・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)に攻められて、言う甲斐なく京を追い落とされると思い、一旦謀略を廻らせて、しばらく洛中を無為(何事も起きないこと)ならしめんために、吉野殿(第九十七代後村上天皇)へ使者を立て、「今後は、治世と、国衙([国領])の郷保(行政区の単位。郷は郡の下位の単位、保は郷の下位の単位)、並びに本家(最上位の荘園領主)領家(荘園に係る権利・利益の一部を付与された者)、年来進止([土地・財産・人間などを自由に 支配・処分すること])の地においては、武家がまったく関わりません。ただ承久以後新補([新補地頭]=[勝利した鎌倉幕府が敗北した朝廷側から没収した膨大な所領に新しく補置した地頭])の率法([新補率法]=[田畑十一町ごとに一町の田畑および反当り五升の加徴米を与えた])並びに国々の守護職、地頭御家人の所帯(所領)を武家の成敗に許されて、君臣和睦の恩恵を施されたならば、武臣は七徳([武の七つの徳。暴を禁じ、兵を治め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和せしめ、財を豊かにする])の干戈([軍])を収めて、聖主万歳の宝祚([天子の位])を仰ぎ奉るべし」としきりに奏聞に及びました。これによって諸卿僉議あって、先には直義入道(足利直義。足利尊氏の弟)が和睦の由を申しましたが、言下(たちまち)に変わりました。これもまた偽って申すことに違いないと思われましたが、謀は一途([一つの方法・手段])でしたので、まず義詮の申すに任せて、帝都還幸の儀を成し、その後、義詮をば畿内・近国の勢をもって退治し、尊氏は義貞(新田義貞)の子どもに命じて、たちまち追罰すべきであると、再度の問答にも及ばず、合体(正平一統)に問題なしと申されました。両方互いに偽ることを、誰も知らないことでしたので、この間持明院殿(北朝第三代崇光天皇。持明院殿は、現京都市上京区にあった持明院統の里内裏)方に拝趨([参上])していた諸卿は、皆賀名生殿(現奈良県五條市)へ参りました。


続く


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by santalab | 2016-06-29 07:21 | 太平記 | Comments(0)

    

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