Santa Lab's Blog


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「太平記」正月二十七日合戦事(その1)

かかるところに去年十二月に、一宮関東くわんとうへ御下りありし時、搦め手にて東山とうせん道より鎌倉へ御下りありし大智院だいちゐんの宮・弾正尹だんじやうのゐんの宮、竹下たけのした・箱根の合戦には、合図あひづ相違して逢はせ給はざりしかども、甲斐・信濃・上野かうづけ下野しもつけの勢ども馳せまゐりしかば、御勢雲霞の如くになつて、鎌倉へ入らせ給ふ。ここにて事のやうを問へば、「新田、竹下・箱根の合戦に打ち負けて引つかへす。尊氏朝臣逃ぐるを追うて上洛しやうらくされぬ。その後奥州の国司顕家あきいへきやう、また尊氏朝臣の後を追うて、攻め上られさふらひぬ」とぞまうしける。「さらばいかさま道にても新田踏み留まらば合戦ありぬべし。鎌倉に逗留とうりうすべき様なし」とて、公家には洞院とうゐん左衛門さゑもんかみ実世さねよ・持明院右衛門うゑもんの督入道・信濃の国司堀河ほりかはの中納言・その中将ちゆうじやう基隆もとたか二条にでう少将為次ためつぐ、武士には、嶋津上野入道・同じき筑後ちくご前司ぜんじ・大伴・猿子ましこの一党・落合おちあひの一族・相場あひば石谷いしがえ纐纈かうけつ伊木いき津子つし・中村・村上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、これらを宗との者として都合つがふその勢二万余騎、正月二十日の晩景ばんげいに東坂本にぞ着きにける。




そうこうするところに去年十二月に、一宮(尊良たかよし親王)が関東に下られた時、搦め手として東山道より鎌倉に下った大智院宮(第八十四代順徳天皇の曾孫で、第九十一代後宇多天皇の猶子、忠房ただふさ親王)・弾正尹宮(第八十代高倉天皇の玄孫、惟明これあきら親王の曾孫らしい)、竹下(現静岡県駿東すんとう郡小山町竹之下)・箱根の合戦には、合図相違して合体することはありませんでしたが、甲斐・信濃・上野・下野の勢ども馳せ参ったので、軍勢は雲霞の如くになって、鎌倉に入られました。ここで軍の様子を訊ねると、「新田(新田義貞)は、竹下・箱根の合戦に打ち負けて引き返しました。尊氏朝臣(足利尊氏)は逃げる軍を追って上洛しました。その後奥州国司顕家卿(北畠顕家)が、また尊氏朝臣の後を追って、攻め上られました」と申しました。「ならば必ずや道中で新田が踏み留まることあれば合戦があろう。鎌倉に逗留すべきではない」と申して、公家には洞院左衛門督実世(洞院実世)・持明院右衛門督入道(持明院基行?)・信濃国司堀川中納言(藤原光継みつつぐ)・園中将基隆(園基隆)・二条少将為次(二条為次)、武士には、嶋津上野入道・同じく筑後前司・大伴・益子一党・落合一族・相場・石谷・纐纈・伊木・津子・中村・村上・源氏・仁科・高梨・志賀・真壁、これらを主だった者として都合その勢二万余騎は、(建武二年(1335))正月二十日の晩景([夕刻])に東坂本(現滋賀県大津市)に着きました。


続く


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by santalab | 2016-07-29 08:26 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その9)

げにも定禅ぢやうぜん律師推量の如く、敵京白河に分散して、一所へ寄る勢少なかりければ、義貞よしさだ義助よしすけ一戦に利を失うて、坂本を指して引つ返しけり。所々に打ち散りたるつはものども、にはかにあわてて引きける間、北白河・粟田口あはたぐちの辺にて、舟田入道・大館おほたち左近の蔵人・由良三郎左衛門さぶらうざゑもんじよう・高田七郎左衛門しちらうざゑもん以下いげ宗との官軍くわんぐん数百騎すひやくき討たれけり。卿律師、やがて早馬を立てて、この由を将軍へ申されたりければ、山陽せんやう山陰せんおん両道へ落ち行きける兵ども、皆また京へぞ立ち帰る。義貞よしさだ朝臣は、わづかに二万騎にまんぎの勢を以つて将軍の八十万騎はちじふまんぎを懸け散らし、定禅ぢやうぜん律師は、また三百余騎の勢を以つて、官軍の二万余騎を追ひ落とす。かれは項王かうわうが勇みを心とし、これは張良がはかりことを宗とす。智謀勇力いづれも取り取りなりし人傑じんけつなり。




まこと定禅律師(細川定禅)が思った通り、敵は京白河(現京都市左京区)に分散して、一所へ集まっている勢は少なく、義貞(新田義貞)・義助(脇屋義助)一戦に利を失って、坂本(現滋賀県大津市)を指して引き返しました。所々に打ち散っていた兵どもも、にわかにあわてて引いたので、北白河(現京都市左京区)・粟田口(現京都市東山区。平安京七口の一つで、東海道の京への入り口)の辺で、舟田入道(船田義昌よしまさ)・大館(大舘)左近蔵人・由良三郎左衛門尉・高田七郎左衛門以下主な官軍数百騎が討たれました。卿律師(細川定禅)は、たちまち早馬を立てて、この由を将軍(足利尊氏)に伝えると、山陽・山陰両道へ落ちて行った兵どもは、皆また京に帰りました。義貞朝臣(新田義貞)は、わずかに二万騎の勢を以って将軍の八十万騎を駆け散らし、定禅律師は、また三百余騎の勢で、官軍の二万余騎を追い落としました。かれは項王(項籍=項羽。秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時、西楚の覇王と号したそうな)が勇みを心とし、これは張良(秦末期から前漢初期の政治家・軍師。字は子房。劉邦に仕えて多くの作戦の立案をし、劉邦の覇業を大きく助けた)の謀を第一としました。智謀勇力いずれも取り取りの人傑でした。


続く


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by santalab | 2016-07-28 08:20 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その8)

ここに細川ほそかはきやうの律師定禅ぢやうぜん、四国の勢どもに向かつてのたまひけるは、「いくさの勝負は時の運に依る事なれば、あながちに恥ならねども、今日の負けは三井寺みゐでらの合戦より事始まりつる間、我らが瑕瑾かきん、人のあざけりを遁れず。さればわざと他の勢を交えさずして、華やかなるいくさ一軍ひといくさして、天下の人口を塞がばやと思ふなり。推量するに、新田が勢は、終日ひねもすの合戦にくたびれて、敵に当たり変に応ずる事自在なるまじ。その外の敵どもは、京白河の財宝に目を懸けて一所にあるべからず。そのうへ赤松筑前のかみわづかの勢にて下松さがりまつに控へてありつるを、無代むたいに討たせたらんも口惜しかるべし。いざや殿ばら、蓮台野れんだいのより北白河へ打ちまはつて、赤松が勢となり合ひ、新田が勢を一当て当てて見ん」とのたまへば、とうきつばんの者ども、「子細候ふまじ」とぞ同じける。定禅ぢやうぜんなのめならず喜んで、わざと将軍にも知らせ奉らず、伊予・讚岐の勢の中より三百余騎をすぐつて、北野の後ろより上賀茂かみかもを経て、密かに北白河へぞ廻りける。ただすの前にて三百余騎の勢十方に分けて、下松さがりまつ薮里やぶさと静原しづはら松崎まつがさき・中賀茂、三十さんじふ余箇所よかしよに火を懸けて、ここをば打ち捨てて、一条・二条にでうの間にて、三所に鬨のこゑをぞ上げたりける。




ここに細川卿の律師定禅(細川定禅)が、四国の勢どもに向かって申すには、「軍の勝負は時の運に依ることなれば、必ずしも恥ではないが、今日の負けは三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)の合戦より始まった、我らの瑕瑾([恥])であり、人の嘲りを遁れることはなかろう。なれば他の勢を交えず、あっと驚く軍を一軍して、天下の人口を塞ごうと思うておる。思うところ、新田(新田義貞)の勢は、終日の合戦にくたびれて、敵に当たってたちまち反撃もできまい。そのほかの敵どもは、京白河(現京都市左京区)の財宝に目をかけて一所にはいないであろう。その上赤松筑前守(赤松貞範さだのり)がわずかの勢で下り松(現京都市左京区にある一乗寺)に控えておる、無代([ないがしろにすること])に討たせるのも口惜しいことよ。どうだ殿ども、蓮台野(現京都市北区)より北白河(現京都市左京区)を廻って、赤松の勢の振りをして、新田(新田義貞)の勢を一当て当ててみようではないか」と申せば、藤・橘・伴の者どもも、「異議なし」と同意しました。定禅はたいそうよろこんで、将軍(足利尊氏)に知らせることなく、伊予・讚岐の勢の中より三百余騎を選りすぐって、北野(現京都市上京区にある神社)の後ろより上賀茂(現京都市北区にある神社)を経て、密かに北白河へ廻りました。糺(現京都市左京区)の前で三百余騎の勢を十方に分けて、下り松・薮里(現京都市左京区にある薮里釈迦堂)・静原(現京都市左京区)・松崎(松ヶ崎。現京都市左京区)・中賀茂(現京都市左京区)、三十余箇所に火を懸けて、そこを打ち捨て、一条・二条の間で、三所に鬨の声を上げました。


続く


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by santalab | 2016-07-27 08:09 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その7)

将軍を始め奉りて、吉良・石堂いしだうかう・上杉の人々これを見て、御方の者どもが敵となり合ひて後ろ矢を射るよと思はれければ、心を置き合ひて、高・上杉の人々は、山崎を指して引き退き、将軍・吉良・石堂・仁木につき・細川の人々は、丹波路たんばぢへ向かつて落ち給ふ。官軍くわんぐんいよいよ勝つに乗つて短兵たんへい急に取りひしぐ。将軍今はのがるる所なしと思し召るけるにや、梅津むめづ桂河かつらがは辺にては、鎧の草摺くさずり畳み上げて腰の刀を抜かんとし給ふ事、三箇度に及びけり。されども将軍の御運や強かりけん、日すでに暮れけるを見て、追ひ手桂河より引きかへしければ、将軍もしばらく松尾まつのを・葉室の間に控へて、梅酸ばいさんかつをぞ休められける。




将軍(足利尊氏)をはじめ、吉良・石堂(石塔)・高・上杉の人々はこれを見て、味方の者どもが敵となって後ろ矢を射ると思い、用心して、高・上杉の人々は、山崎(現大阪府三島郡島本町)を指して引き退き、将軍・吉良・石塔・仁木・細川の人々は、丹波路に向かって落ちて行きました。官軍は勝つに乗って短兵急([刀剣などをもって急激に攻める様])に攻め立てました。将軍今は遁れるところなしと思ったか、梅津(現京都市右京区)、桂川(現京都市右京区)辺では、鎧の草摺([甲冑の胴の裾に垂れ、下半身を防御する部分])を畳み上げて腰の刀を抜こうとすること、三度に及びました。けれども将軍の運が強かったか、日がすでに暮れるのを見て、追い手は桂川より引き返したので、将軍もしばらく松尾(現京都市西京区)・葉室(現京都市西京区)の間に控えて、梅酸渇を休めました([梅酸渇を休む]=[魏の武帝が軍隊を引き連れて道に迷い、水がなくて乾きに苦しんだ際、前進すれば実のなった梅林があって乾きを癒やすことができると励ますと、士卒は梅と聞いて口中につばが出て、進むことができたという故事])。


続く


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by santalab | 2016-07-25 12:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その6)

官軍くわんぐんわざと長追ひをばせで、なほ東山を後ろに当てて勢のほどをぞ見せざりける。搦め手よりいくさ始まりければ、大手おほてこゑを受けて鬨を作る。官軍の二万余騎と将軍の八十万騎はちじふまんぎと、入れ替へ入れ替へ天地を響かして戦ひたる。漢楚八箇年の戦ひを一時に集め、呉越ごゑつ三十度の軍を百倍になすとも、なほこれには過ぐべかず。寄せ手は小勢なれども皆心を一つにして、懸かる時は一度にさつと懸かつて敵を追ひまくり、引く時は手負ひを中に立ててしづかに引く。京勢きやうぜいは大勢なりけれども人の心調べずして、懸かる時も揃はず、引く時も助けず、思い思ひ心々に戦ひける間、午の刻より酉のはりまで六十ろくじふ余度の懸け合ひに、寄せ手の官軍度毎に勝つに乗らずと言ふ事なし。されども将軍しやうぐん大勢おほぜいなれば、討たれども勢もすかず、逃ぐれども遠引とほびきせず、ただ一所にのみこらへ居たりけるところに、最初に紛れて敵に交はりたる一揆の勢ども、将軍の前後左右に中黒なかぐろの旗を差し上げて、乱れ合つてぞ戦ひける。いづれを敵いづれを御方ともわきまへ難ければ、東西南北をめき叫んで、ただ同士打ちをするより外の事ぞなかりける。




官軍はわざと長追いをせず、なお東山を後ろに当てて勢のほどを見せませんでした。搦め手([城の裏門や敵陣の後ろ側を攻める軍勢])より軍が始まると、大手([敵の正面を攻撃する軍勢])が声を受けて鬨を作りました。官軍の二万余騎と将軍(足利尊氏)の八十万騎は、入れ替わり入れ替わり天地を響かして戦いました。漢楚八箇年の戦いを一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になすとも、なおこれには過ぎないように思われました。寄せ手は小勢でしたが皆心を一つにして、懸かる時は一度にさっと懸かって敵を追いまくり、引く時は手負いを中に立てて静かに引きました。京勢は大勢でしたが人は心を合わせず、懸かる時も揃わず、引く時も助けず、思い思い心々に戦ったので、午の刻([午前十二時頃])より酉の終わり([午後七時頃])まで六十余度の駆け合いに、寄せ手の官軍はその度毎に勝つに乗らずということはありませんでした。けれども将軍方は大勢でしたので、討たれても勢は減らず、逃げるとも遠引きせず、ただ一所に堪えているところに、最初に紛れて敵に交わっていた一揆の勢どもが、将軍の前後左右に中黒(大中黒)の旗を差し上げて、乱れ合って戦いました。いずれを敵いずれを味方とも見分け難ければ、東西南北喚き叫んで、ただ同士討ちをするよりほかありませんでした。


続く


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by santalab | 2016-07-23 11:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その5)

敵かかるはかりことありとは、将軍思し寄り給はず、宗とのさぶらひどもに向かふて下知されけるは、「新田はいつも平場ひらばの駆けをこそ好むと聞きしに、山を後ろに当てて、やがても駆け出でぬは、いかさま小勢のほどを敵に見せじと思へるものなり。将軍塚しやうぐんづかの上に取り上がりたる敵を置いてはいつまでか守り上げるべき。師泰もろやすかしこに馳せ向かつて追ひ散らせ」とのたまひければ、越後ゑちごかみ畏つて、「うけたまはり候ふ」とまうして、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺さうりんじ中霊山なかりやうぜんとより、二手になつてぞ上がつたりける。ここには脇屋右衛門うゑもんすけ・堀口美濃のかみ大館おほたち左馬の助・結城ゆふき上野入道以下いげ三千余騎にて向かひたりけるが、その中より逸物いちもつの射手六百余人を選つて、馬より下ろし、小松の陰を木楯こだてに取つて、差し詰め引き詰め散々にぞ射させたりける。けはしき山を上がり兼ねたりける武蔵・相摸の勢ども、物の具を通されて矢場やにはに伏し、馬を射られて跳ね落とされける間、少し猶予ゆよして見へけるところを、「得たり賢し」と、三千余騎のつはものども抜き連れて、大山のくづるるが如く、真つさかさまに落とし懸けたりける間、師泰もろやすが兵二万余騎、一足をも貯めず、五条河原かはらへさつと引き退く。ここにて、杉本の判官はうぐわん・曾我そが二郎左衛門じらうざゑもんも討たれにけり。




敵がそのような謀を企てているとは、将軍(足利尊氏)は思いも寄らず、主だった侍どもに向かって下知するには、「新田はいつも平場の駆けを好むと聞いておるが、山を後ろに当てて、たちまち駆け出ぬとは、きっと小勢のほどを敵に見せまいと思ってのことであろう。将軍塚(現京都市東山区華頂山上にある塚)の上に上がった敵を置いていてはいつまで守ることができよう。師泰(高師泰)よかしこに馳せ向かって追い散らせ」と申せば、越後守(師泰)は畏り、「承りました」と申して、武蔵・相摸の勢二万余騎を率して、双林寺(雙林寺。現京都市東山区にある寺院)と中霊山(現京都市東山区)より、二手になって上りました。ここには脇屋右衛門佐(脇屋義助よしすけ)・堀口美濃守(堀口貞満さだみつ)・大館左馬助(大舘氏明うぢあき)・結城上野入道(結城宗広むねひろ)以下三千余騎で向かっていましたが、その中より逸物の射手六百余人を選って、馬から下ろし、小松の陰を木楯に取って、差し詰め引き詰め散々に射させました。険しい山を上がり兼ねた武蔵・相摸の勢どもは、物の具([武具])を射通されてたちまちに伏し、馬を射られて跳ね落とされました、少しためらうように見えるところを、「しめた」と、三千余騎の兵どもを抜き連れて([大勢の者が一斉に刀を抜く])、まるで大山が崩れるように、真っさかさまに落とし駆けたので、師泰(高師泰)の兵二万余騎は、一足も留め得ず、五条河原へさっと引き退きました。ここで、杉本判官・曾我二郎左衛門が討たれました。


続く


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by santalab | 2016-07-22 08:22 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その4)

義貞よしさだ朝臣弓杖ゆんづゑにすがり下知されけるは、「敵の勢に御方を合はすれば、大海の一滴、九牛が一毛いちまうなり。ただ世の常の如くにいくさをせば、勝つ事を得難し。相互あひたがひにおもてを知り知られたらんずるさぶらひども、五十騎づつ手を分けて、笠符かさじるしを取り捨て、はたを巻いて、敵の中に紛れ入り、ここかしこに控へ控へ、しばらく相待つべし。将軍塚しやうぐんづかへ上せつる勢、すでに軍を始むと見ば、この陣よりつはものを進めて戦はしむべし。その時に至つて、御辺たち敵の前後左右に旗を差し上げて、馬の足を静めず、前にあるかとせば後ろへ抜け、左にあるかとせば右へまはつて、七縦しちじゆう八横はちわうに乱れて敵に見するほどならば、敵の大勢は、かへつて御方の勢に見へて、同士打ちをするか、引いて退くか、尊氏この二つの中を出づべからず」。韓信がはかりことを出だしかば、諸大将だいしやうの中より、逞兵ていへい五十騎づつすぐり出だして、二千余騎各々一様いちやうに、中黒なかぐろの旗を巻いて、もんを隠し、笠符かさじるしを取つて袖の下にをさめ、三井寺みゐでらより引きをくれたる勢の真似をして、京勢きやうぜいの中へぞ馳せくははりける。




義貞朝臣(新田義貞)が弓杖に寄りかかって下知するには、「敵の勢に味方を比べれば、大海の一滴、九牛の一毛である。ただ世の常の軍をしたところで、勝つことは叶わぬ。互いに面を知られておらぬ侍ども、五十騎ずつ手を分けて、笠符を取り捨て、旗を巻いて、敵の中に紛れ入り、ここかしこに控え、しばらく待て。将軍塚(現京都市東山区華頂山上にある塚)に上せた勢が、軍を始めたと見れば、この陣より兵を進めて戦わせる。その時になれば、お主たちは敵の前後左右に旗を差し上げて、馬の足を休ませず、前にあるかと思えば後ろへ抜け、左にあるかと思えば右へ廻って、七縦八横に乱れて敵に見せよ、敵の大勢は、味方の勢と思い、同士討ちをするか、引いて退くか、尊氏(足利尊氏)の軍はこのどちらかとなるであろう」。韓信(秦末から前漢初期にかけての武将)の謀によって、諸大将の中より、逞兵([たくましく勇ましい兵士])を五十騎ずつ選び出して、二千余騎各々一様に、中黒(大中黒。新田氏の家紋)の旗を巻いて、紋を隠し、笠符を取って袖の下に隠し、三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)より引き遅れた勢の振りをして、京勢の中に馳せ加わりました。


続く


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by santalab | 2016-07-21 08:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その3)

かかるところに粟田口あはたぐちより 馬煙むまけむりを立てて、その勢四五万騎しごまんぎがほど引いて出で来たり。誰やらんと見給へば、三井寺みゐでらへ向かひし四国・西国の勢どもなり。まことに皆いくさ手痛くしたりと見へて、薄手少々せうせう負はぬ者もなく、鎧の袖兜の吹きかへしに、矢三筋さんすぢ四筋り懸けぬ人もなかりけり。さるほどに新田左兵衛さひやうゑかみ、二万三千余騎を三手に分けて、一手ひとてをば将軍塚しやうぐんづかの上へ上げ、一手をば真如堂しんによだうの前より出し、一手をば法勝寺ほつしようじを後ろに当てて、二条河原にでうがはらへ出だして、すなはち合図あひづの煙をぞ上げさせける。みづからは花頂山くわちやうざんに打ち上がつて、敵の陣を見渡し給へば、かみただすの森より、しも七条河原しちでうがはらまで、馬の三頭さんづに馬を打ち懸け、鎧の袖に袖を重ねて、東西南北四十しじふ余町よちやうが間、きりを立つるばかりの地も見えず、身をそばだてて打ち囲みたり。




そうこうするところに粟田口(現京都市東山区。平安京七口の一つで、東海道の京への入り口)より馬煙を立てて、その勢四五万騎ばかり引き連れてやって来ました。誰かと見れば、三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)に向かった四国・西国の勢どもでした。まことに皆激しく軍したと見えて、薄手を少々負わぬ者もなく、鎧の袖兜の吹き返し([兜の左右のしころの両端が上方へ折れ返っている部分])に、矢を三筋四筋折り懸けぬ人はいませんでした。やがて新田左兵衛督(新田義貞)は、二万三千余騎を三手に分けて、一手を将軍塚(現京都市東山区華頂山上にある塚)の上へ上げ、一手を真如堂(現京都市左京区にある真正極楽寺)の前より出し、一手を法勝寺(かつて現京都市左京区にあった寺院)を後ろに当てて、二条河原へ向けて、たちまち合図の煙を上げさせました。義貞は花頂山(華頂山)に打ち上がり、敵の陣を見渡せば、上は糺の森(現京都市左京区の下鴨神社の境内にある社叢林)より、下は七条河原まで、馬の三頭([牛馬の背の尻に近い高くなっている所])に馬を連ね、鎧の袖に袖を重ねて、東西南北四十余町の間には、錐を立つるほどの地も見えず、びっしりと打ち囲んでいました。


続く


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by santalab | 2016-07-20 08:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その2)

由良ゆら・長浜・吉江・高橋、真つ先に進んで追ひけるが、大敵をば欺くべからずとて、広みにて敵のかへし合ひつべき所まではさまで追はず、遠矢とほや射懸け遠矢射懸け、鬨を作るばかりにて、静々しづしづとこれを追ひ、道迫りて、しかも敵の行く先難所なんじよなる山路やまぢにては、笠より落とし駆けて、透間もなく射落とし斬り臥せける間、敵一度も返し得ず、ただ我先にとぞ落ち行きける。されば手を負うたる者はそのまま馬人に踏み殺され、馬離れたる者は引き兼ねて無力腹を切りけり。その死骸谷を埋め溝をうづみければ、追手おふての為には道たひらかになつて、いよいよ輪宝りんはう山谷さんこくを平らぐるに異ならず、将軍三井寺みゐでらいくさ始まりたりと聞こへて後、黒煙天におほうを見へければ、「御方いかさま負け軍したりと思ゆるぞ。急ぎ勢を遣はせ」とて、三条河原さんでうがはらに打ち出で、先づ勢揃へをぞし給ひける。




由良・長浜・吉江・高橋が、真っ先に進んで敵を追いましたが、大敵と張り合うべきではないと、広みでは敵が返し合わせるまでは執拗に追わず、遠矢を射懸け、鬨を作るばかりで、静々と敵を追い、道が迫り、しかも敵の行く先が難所となる山路では、笠より落とし駆けて、透間もなく射落とし斬り臥せました、敵は一度も返すことなく、ただ我先にと落ち行きました。こうして手負いの者はそのまま馬人に踏み殺され、馬から離れた者は引き兼ねてやむなく腹を切りました。その死骸は谷を埋め溝を埋めたので、追手の道は平地となって、ますます輪宝(菊輪宝。比叡山の寺紋)の山谷を平らげることとなりました、将軍(足利尊氏)は三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)に軍が始まったと聞いて後、黒煙が天を覆うのが見えたので、「味方はきっと負け軍をしたと思える。急ぎ勢を遣わせ」と申して、三条河原に打ち出て、まず勢揃えしました。


続く


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by santalab | 2016-07-15 08:09 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」建武二年正月十六日合戦事(その1)

三井寺みゐでらの敵事故ことゆゑなく攻め落としたりければ、長途ちやうどに疲れたる人馬、一両日いちりやうにち機を助けてこそまた合戦をも致さめとて、顕家あきいへきやう坂本へ引き返されければ、その勢二万余騎は、かの趣きに相順ふ。新田左兵衛さひやうゑかみも、同じく坂本へ帰らんとし給ひけるを、舟田ふなた長門のかみ経政つねまさ、馬を控へてまうしけるは、「いくさの利、勝つに乗る時、逃ぐるを追ふより外の手立てはあらじと存じ候ふ。この合戦に打たれ漏れて、馬を棄て物の具を脱いで、命ばかりを助からんと落ち行き候ふ敵を追つ懸けて、京中きやうぢゆうへ押し寄するほどならば、臆病神おくびやうがみの付きたる大勢に引き立てられ、自余の敵も定めて機を失はんか。さるほどならば、官軍くわんぐん敵の中へ紛れ入りて、勢の分際ぶんざいを敵に見せじとて、ここに火を懸け、かしこに鬨を作り、縦横無碍じゆうわうむげに駆け立つるものならば、などか足利殿御兄弟きやうだいの間に近付き奉て、勝負を仕らでは候ふべき。落ち候ひつる敵、よも幾程も隔たり候はじ。いかさま一追ひ追つ懸けて見候はばや」とまうしければ、義貞よしただ、「我もこの儀を思ひつるところに、いしくも申したり。さらばやがて追つ懸けよ」とて、また旗の手を下ろして馬を進め給へば、新田の一族五千余人、その勢三万余騎、走る馬に鞭を進めて、落ち行く敵をぞ追つ懸けたる。敵今は遥かに隔たりぬらんと思ゆる程なれば、逃ふるは大勢にて遅く、追ふは小勢にて早かりければ、山階やましな辺にてやうやく敵にぞ追ひ付きける。




三井寺(現滋賀県大津市にある園城寺)の敵を無事攻め落として、長途に疲れた人馬を、一両日気を蓄えてまた合戦を致そうと、顕家卿(北畠顕家)が坂本(現滋賀県大津市)へ引き返すと、その勢二万余騎も、従いました。新田左兵衛督(新田義貞)も、同じく坂本へ帰ろうとするところに、舟田長門守経政(船田義昌)が、馬を控えて申すには、「軍の利は、勝つに乗る時、逃げる敵を追うよりほかの手立てはないと存じます。この合戦に討たれ漏れて、馬を捨て物の具([武具])を脱いで、命ばかりを助かろうと落ち行く敵を追いかけて、京中に押し寄せれば、臆病神の付いた大勢に引き立てられて、自余の敵も必ずや気力を失うことでしょう。それから、官軍を敵の中へ紛れ入りて、勢の分際([数])を敵に悟られないよう、ここに火を懸け、かしこに鬨を作り、縦横無碍に駆け立てれば、どうして足利殿ご兄弟(足利尊氏・直義ただよし)に近付いて、勝負を仕掛けられぬことがありましょうか。落ちる敵は、よもやさほど離れていないでしょう。ともかく一追い追い駆けてみましょう」と申すと、義貞も、「我も同じことを考えていたのだ、よくぞ申した。ならばすぐに追いかけよ」と申して、また旗の手を下ろして馬を進め給へば、新田一族五千余人、その勢三万余騎が、走る馬に鞭を進めて、落ち行く敵をぞ追い駆けました。敵は遥かに離れたと思う頃でした、逃げる敵は大勢で遅く、追うは小勢で速かったので、山階(現京都市山科区)辺でようやく敵に追い付きました。


続く


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by santalab | 2016-07-13 08:24 | 太平記 | Comments(0)

    

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