Santa Lab's Blog


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「太平記」賀茂神主改補事(その2)

よはひすでに二八にもなりしかば、巫山ぶさん神女しんによ雲となりし夢の面影を留め、玉妃ぎよくひ太真院たいしんゐんを出でし春のこびを残せり。ただ容色嬋娟ようしよくせんけんの世に勝れたるのみにあらず、小野小町をののこまちもてあそびし道を学び、優婆塞宮うばそくのみやすさみ給ひし跡を追ひしかば、月の前に琵琶びはだんじては、かたぶく影を招き、花のもとに歌を詠じては、移ろう色を悲しめり。さればその情けを聞き、そのかたちを見る人毎に、心を悩ませずと言ふ事なし。その頃先帝はいまだ帥宮そつのみやにて、かすかなる御棲居すまひなり。これは後宇多ごうだゐんの第二の皇子後醍醐ごだいご天皇てんわうまうせし御事なり。今の法皇は伏見のゐんの第一の皇子にて、すでに春宮とうぐうに立たせ給ふべしと言ひ、時めき合へり。この宮々如何なる玉簾たまだれの隙にか御覧じたりけん。この娘いとあてやかに臈長らふたけしとぞ思し召されける。されども、ひたすらなる御わざは如何と思し召しわづらうて、をぎの葉に伝ふ風の便りに付け、わすれぐさ末葉すゑばに結ぶ露の託言かごとに寄せては、言ひ知らぬ御文の数、千束ちつかに余るほどになりにけり。




齢二八(十六歳)にもなれば、巫山(神女峰。中国重慶市巫山県と湖北省の境にある名山)の神女が雲となった夢(楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事)の面影を留め、玉妃(楊貴妃)が太真院を出た春の媚を思い起こさせました。容色嬋娟([容姿のあでやかで美しい様])が世に勝れているばかりでなく、小野小町が好んだ(和歌の)道を学び、優婆塞の宮(『源氏物語』の宇治八の宮)が楽しんだ跡を追い、月の前に琵琶を弾いては、傾く影を招き、花の下に歌を詠じては、移ろう色を悲しみました。こうして情けを聞き、その姿を見る人毎に、心を悩ませない人はいませんでした。その頃先帝(第九十六代後醍醐天皇)はまだ帥宮で、侘しく暮らしておられました。後宇多院(第九十一代天皇)の第二皇子後醍醐天皇(第九十六代天皇)と申されました。今の法皇(第九十三代後伏見院)は伏見院(第九十二代天皇)の第一皇子でしたが、春宮に立たれると聞こえて、時めいておられました。この宮々(後醍醐天皇と後伏見天皇)はいかなる玉簾の隙にご覧になられたか。基久の娘はたいそう気品があり美しいと思われました。けれども、一筋に思いを寄せるのもどうかと思い煩われて、荻の葉に伝ふ風の便りに付け(秋)、萱の末葉に結ぶ露の託言([口実])に寄せて、それとなく贈る文の数は、千束に余るほどになりました。


続く


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by santalab | 2016-08-22 08:57 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」賀茂神主改補事(その1)

大凶一元に帰して万機のまつりごとを新たにせられしかば、うれへを含み喜びを懐く人多かりけり。中にも賀茂社の神主職は、神職の中の重職ちようしよくとして、恩補おんふ次第ある事なれば、咎なくしては改動の沙汰もあり難き事なるを、今度尊氏たかうぢきやう貞久さだひさを改めて、基久もとひさに補任され、かれ眉を開く事わづかに二十日を過ぎず、天下また反覆はんふくせしかば、公家の御沙汰として貞久に返付さる。この事今度の改動のみならず、両院の御治世ぢせい替はる毎に転変する事、たなごころかへすが如し。その逆鱗何事の起こりぞと尋ぬれば、この基久に一人の娘あり。養はれて深窓しんさうにありし時より、若紫の匂ひ殊に、初本結はつもとゆひの寝乱れ髪、すゑ如何ならんと、見るに心も迷ひぬべし。




大凶は一元に帰して(北朝初代光厳院は)万機の政を改められたので、愁いを含みあるいはよろこびを懐く人が多くいました。中でも賀茂の社の神主職は、神職の中の重職として、恩補([中世、恩賞として職に任ぜられること])によって決められていましたので、罪なくして改動([職・身分、また方針などを改めること、更迭すること])の沙汰はあり得ませんでしたが、この度尊氏卿(足利尊氏)が貞久(森貞久?)を改めて、基久(森基久)に補任し、基久が眉を開き([心配ごとがなくなって安心する])二十日を過ぎないうちに、天下はまた反覆したので、公家の沙汰として貞久に戻されました。今度の改動ばかりでなく、両院(持明院統=北朝。と大覚寺統=南朝)の治世が替わる毎に転変する様は、まるで掌を反すようでした。その逆鱗の事の起こりですが、基久に娘が一人ありました。養われて深窓([上流階級の女性の、世俗から隔離された環境])の頃より、若紫の匂い優れ、初元結い([裳着後の髪上げ髪])の寝乱れ髪は、末はいかになろうかと、見るに心も迷うほどでした。


続く


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by santalab | 2016-08-21 09:11 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上自山門還幸の事(その2)

都鄙とひ数箇度すかどの合戦のてい、君殊に叡感不浅。すなはち臨時の除目ぢもくを被行て、義貞よしさだ左近衛さこんゑ中将ちゆうじやうに被任ぜ、義助よしすけ右衛門うゑもんすけに被任けり。天下の吉凶必ずしもこれにはよらぬ事なれども、今の建武けんむの年号は公家の為不吉なりけりとて、二月二十五日に改元あつて、延元えんげんに被移。近日朝廷すでに逆臣ぎやくしんの為にかたぶけられんとせしかども、なきほど静謐せいひつしよくして、一天下いちてんがまた泰平に帰せしかば、この君の聖徳天地に叶へり。如何なる世の末までも、誰かは傾け可申と、群臣いつしかあやふきを忘れて、慎む方のなかりける、人の心ぞ愚かなる。




都鄙([都と田舎])の数箇度の合戦に打ち勝って、君(南朝初代後醍醐天皇)の叡感は決して浅いものではありませんでした。すぐに臨時の除目([大臣以外の諸官職を任命する朝廷の儀式])が行われて、義貞(新田義貞)を左近衛中将に任じ、義助(脇屋義助よしすけ。新田義貞の弟)を 右衛門佐に就けました。天下の吉凶は必ずしも年号によるものではありませんでしたが、今の建武の年号は公家にとっては不吉(武を建つ)だと、二月二十五日に改元があり、延元に改められました。日を置かず朝廷は逆臣(足利尊氏)に傾けられようとしていましたが、わずかの静謐([世の中が穏やかに治まっていること])の中にあって、天下はまた泰平に帰って、この君(後醍醐天皇)の聖徳は天地に叶うものと思えました。どんな世末までも、誰がこの御世を傾けることができるものかと、群臣はいつしか危さを忘れて、慎む者はいませんでした、人の心は愚かなものでした。


続く


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by santalab | 2016-08-20 22:22 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」主上自山門還幸の事(その1)

去る月晦日みそか逆徒ぎやくと都を落ちしかば、二月二日主上しゆしやう自山門還幸成つて、花山院くわさんのゐんを皇居くわうきよに被成にけり。同じき八日義貞よしさだ朝臣、豊嶋てしま打出うちでの合戦に打ち勝つて、すなはち朝敵てうてきを万里の波に漂はせ、同じく降人かうにんの五刑の難を宥めて京都へかへり給ふ。事のてい由々しくぞ見へたりける。その時の降人一万余騎、皆元の笠符かさじるしの紋を書きなほして着けたりけるが、墨の濃き薄きほど見へて、露はにしるかりけるにや、その次の日、五条の辻に高札を立てて、一首の歌をぞ書きたりける。

二筋の 中の白みを 塗隠し 新田新田しげな 笠符かな




さる月の晦日(建武三年(1336)正月三十日)に逆徒(足利尊氏)が都を落ちたので、二月二日に主上(南朝初代後醍醐天皇)は山門(比叡山)から戻られて、花山院(現京都市上京区、京都御苑敷地内にあった)を皇居になさいました。同じ二月八日には義貞朝臣(新田義貞)が、豊嶋(豊島河原。現大阪府箕面市)・打出(打出浜。現兵庫県芦屋市)の合戦に打ち勝って、たちまち朝敵を万里の波に漂わせ、同じく降人の五刑([日本の律で規定された五つの刑。ぢやう)・・死])の難を宥めて京都へ帰りました。立派な采配でした。その時の降人一万騎余りは、皆もとの笠符(足利氏の紋は足利二つ引き。丸に二)を書き直して着けていましたが(新田氏の紋は新田一つ引き。丸に一)、墨の濃薄が、明らかでしたので、その次の日、五条の辻に高札が立てられて、一首の歌が書かれていました。

二筋の中の白みを塗り隠して一筋に変えて新田氏を装っているものの、その跡が明らかに見えて、思わず笑ってしまう笠符かな(新田氏の家紋は、大中黒・新田一つ引、足利氏の家紋は、足利二つ引。源義家よしいへの子、源義国よしくにの子から新田・足利に分かれた)。


続く


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by santalab | 2016-08-17 10:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大樹摂津国豊嶋河原合戦事(その6)

尊氏たかうぢきやうは福原のきやうをさへ追つかれ落ちて、長汀ちやうていの月に心をいたましめ、曲浦きよくほの波に袖を濡らして、心尽くしに漂泊し給へば、義貞よしさだ朝臣は、百戦の功を高うして、数万すまん降人かうにんを召し具し、天下の士卒じそつに将として花の都にかへり給ふ。憂喜いうきたちまちに相替あひかはつて、うつつもさながら夢の如くの世になりけり。




尊氏卿(足利尊氏)は福原京(現兵庫県神戸市兵庫区)をさへ追われ落ちて、長汀([長く続く渚])の月に心を傷め、曲浦([曲がりくねった形の海岸])の波に袖を濡らして、心を尽くして漂泊すれば、義貞朝臣(新田義貞は)は、百戦の功高くして、数万の降人を引き連れ、天下の士卒の大将として花の都に帰りました。憂喜はたちまち相替わって、現もさながら夢の如くの世になりました。


続く


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by santalab | 2016-08-15 10:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大樹摂津国豊嶋河原合戦事(その5)

千度百般ちたびももたび戦へども、御方の軍勢のいくさしたる有様、見るに敵ふべくとも思えざりければ、将軍も早や退屈のてい見へ給ひけるところへ、大伴まゐつて、「今の如くにては何としても御合戦よかるべしとも思え候はず。さいはひに船ども数多あまた候へば、ただ先づ筑紫つくしへ御開き候へかし。小弐せうに筑後の入道御方にて候ふなれば、九国の勢多く付きまゐらせ候はば、やがて大軍を動かして京都を攻められ候はんに、何程の事か候ふべき」とまうしければ、将軍げにもとや思し召しけん、やがて大伴が舟にぞ乗り給ひける。諸軍勢これを見て、「すはや将軍こそ御舟に召されて落ちさせ給へ」とののめき立つて、取る物も取り敢へず、乗りをくれじとあはて騒ぐ。舟はわづかに三百余艘よさうなり。乗らんとする人は二十万騎にじふまんぎに余れり。一艘いつさうに二千人ばかりこみ乗りける間、大船一艘乗りしづめて、一人も残らず失せにけり。自余の舟どもこれを見て、さのみは人を乗せじとともづなを解いて差し出だす。乗り遅れたるつはものども、物の具衣裳いしやうを脱ぎ捨てて、遥かの沖に泳ぎ出で、舟に取り付かんとすれば、太刀・長刀にて切り殺し、櫓櫂にて打ち落とす。乗り得ずして渚に帰る者は、いたづらに自害をして礒越す波に漂へり。




千度百度戦いましたが、味方の軍勢の軍を様を、見るに付け敵うとも思われず、将軍(足利尊氏)もすでに退屈([困難にぶつかってしりごみすること])するように見えるところに、大伴が参って、「今のままでは合戦に勝てるとも思われません。幸いにも船が数多くございます、まずは筑紫に参られますよう。小弐筑後入道(少弐貞経さだつね)は味方でございます、九国([九州])の勢が多く付けば、たちまち大軍を動かして京都を攻めたならば、あっという間に方が付くことでございましょう」と申したので、将軍はもっともなことだと思ったか、やがて大伴の舟に乗りました。諸軍勢はこれを見て、「なんと将軍が舟に乗られて落ちて行かれるぞ」と叫び立てて、取る物も取り敢えず、乗り遅れまいとあわて騒ぎました。舟はわずかに三百余艘でした。乗ろうとする人は二十万騎に余りました。一艘に二千人ばかり混み乗ったので、大船一艘を乗り沈めて、一人も残らず失せました。自余の舟どもはこれを見て、大勢乗せまいと艫綱を解いて船を出しました。乗り遅れた兵どもは、物の具([武具])衣を脱ぎ捨てて、遥か沖に泳ぎ出て、舟に取り付こうとすれば、太刀・長刀で切り殺し、櫓櫂で打ち落としました。乗り得ず渚に帰った者は、ただ自害をして磯越す波に漂いました。


続く


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by santalab | 2016-08-14 09:09 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大樹摂津国豊嶋河原合戦事(その4)

官軍くわんぐんがたは並べて言ふべきほどもなき小勢なりけれども、元来ぐわんらいの兵は、これ人の大事にあらず、我が身の上の安否と思ひ、新手の土居・得能は、今日の合戦言ふなき甲斐しては、河野かうのの名を失うべしと、機をとき心を励せり。されば両陣いまだ戦はざるさきに安危の端機にあらはれて、勝負の色暗に見えたり。されども新手のしるしなれば、大伴・厚東・大内おほちが勢三千余騎、一番に旗を進めたり。土居どゐ・得能後ろへつと駆け抜けて、左馬のかみの控へ給へる打出の宿の西の端へ駆けとほり、「葉武者はむしやどもに目な懸けそ、大将に組め」と下知げぢして、風の如くに散らし雲の如くに集つて、をめひて駆け入り、駆け入つては戦ひ、戦ふては駆け抜け、千騎が一騎になるまでも、引くなと互ひにはぢしめておもても振らず戦ひける間、左馬の頭敵はじとや思はれけん、また兵庫を指して引き給ふ。




官軍(第九十六代後醍醐天皇)方は比べようもない小勢でしたが、元よりの兵は、人の大事ではなく、我が身の上の安否と思い、新手の土居・得能は、今日の合戦で甲斐なき軍をしては、河野の名を失うであろうと、思い気を奮い起たせました。こうして両陣がまだ戦わぬ前に安危の端が顕れて、勝負の色は暗に見えるようでした。しかしながら新手でしたので、大伴・厚東・大内の勢三千余騎が、一番に旗を進めました。土居・得能の後ろへさっと駆け抜けると、左馬頭(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)が控える打出宿(現兵庫県芦屋市)の西の端へ駆け通り、「葉武者([身分の低い、取るに足りない武者])どもを相手にするな、大将と組め」と命じて、風の如く敵を散らし雲の如くに集まって、喚いて駆け入り、駆け入っては戦い、戦っては駆け抜け、千騎が一騎になろうとも、引くなと互いに恥しめて面も振らず戦ったので、左馬頭は敵わないと思ったか、また兵庫(現兵庫県神戸市兵庫区)を指して引きました。


続く


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by santalab | 2016-08-13 09:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大樹摂津国豊嶋河原合戦事(その3)

義貞よしさだやがて追つ懸けて、西宮に着き給へば、直義ただよしはなほ相支あひささへて、湊河に陣をぞ取られける。同じき七日の朝なぎに、遥かの沖を見渡せば、大船五百余艘よさう、順風に帆を上げて東を指して馳せたり。いづ方に付く勢にかと見るところに、二百余艘はかぢなほして兵庫の島へ漕ぎ入る。三百余艘は帆をつゐて、西宮へぞ漕ぎ寄せける。これは大伴・厚東こうとう大内おほちの介が、将軍しやうぐん方へ上りけると、伊予の土居どゐ得能とくのうが、御所方へ参りけると漕ぎ連れて、昨日までは同じみなとに泊まりたりしが、今日は両方へ引き分かれて、心々にぞ着きたりける。新手の大勢両方へ着きにければ、互ひにつはものを進めて、小清水こしみづの辺に馳せ向かふ。将軍方は目に余る程の大勢なりけれども、日頃の兵、新手にせさせんとて、いくさをせず。厚東・大伴は、またあながちに我らばかりが大事にあらずと思ひければ、さしも勇める気色きしよくもなし。




義貞(新田義貞)はすぐに追いかけて、西宮(現兵庫県西宮市)に着けば、直義(足利直義。足利尊氏の弟)はなおも支えて、湊川(現兵庫県神戸市中央区)に陣を取りました。同じ二月七日の朝なぎに、遥かの沖を見渡せば、大船五百余艘が、順風に帆を上げて東を指して急いでいました。どちらに付く勢かと見るところに、二百余艘は梶を直して兵庫の島に漕ぎ入りました。三百余艘は帆に風を受けて、西宮に漕ぎ寄せました。これは大伴・厚東・大内介(大内弘幸ひろゆき?)が、将軍(足利尊氏)方へ上るのと、伊予の土居・得能が、御所方へ参るのに漕ぎ連れて、昨日までは同じ湊に泊まっていましたが、今日は両方へ引き分かれて、心々に着いたのでした。新手の大勢両方に付いたので、互いに兵を進めて、小清水(越水城。現兵庫県西宮市にあった城)の辺に馳せ向かいました。将軍方は目に余るほどの大勢でしたが、日頃の兵は、新手に軍をさせようと、自らは軍をしませんでした。厚東・大伴は、我らばかりが軍をすることもないと思って、さして勇める様子もありませんでした。


続く


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by santalab | 2016-08-12 08:38 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大樹摂津国豊嶋河原合戦事(その2)

さるほどに両家りやうけの軍勢、二月六日の巳の刻に、はしたなく豊嶋てしま河原かはらにてぞ行ち合ひける。互ひに旗の手を下ろして、東西に陣を張り、南北にりよたむろす。奥州あうしうの国司先づ再び逢うて、いくさ利あらず、引き退いて息を継げば、宇都宮入れ替はつて、一面目に備へんと攻め戦ふ。その勢二百余騎討たれて引き退けば、脇屋右衛門うゑもんすけ二千余騎にて入れ替はりたり。敵には仁木につき・細川・かう・畠山、先日の恥を清めんと命を棄てて戦ふ。官軍くわんぐんには江田・大館おほたち・里見・鳥山、ここを破られてはいづくへか引くべきと、身をなき者になしてぞ防ぎける。されば互ひに死をかろんぜしかども、つひに雌雄を決せずして、その日は戦ひ暮らしてけり。ここに楠木判官正成まさしげ、遅ればせにて下りけるが、合戦のていを見て、おもてよりは駆けず、神崎より打ちまはつて、浜の南よりぞ寄せたりける。左馬のかみの兵、終日ひねもすいくさに戦ひくたびれたる上、敵に後ろを包まれじと思ひければ、一戦ひといくさもせで、兵庫を指して引き退く。




やがて両家の軍勢は、(建武三年(1336))二月六日の巳の刻([午前十時頃])に、大軍が豊島河原(現大阪府箕面市・池田市)で対峙しました(豊島河原合戦)。互いに旗の手を下ろして、東西に陣を張り、南北に陣を構えました。奥州国司(北畠顕家あきいへ。後醍醐天皇方)がまず戦いましたが、軍に負けて、引き退いて息を継げば、宇都宮(宇都宮公綱きんつな)が入れ替わって、面目を立てようと攻め戦いました。その勢二百余騎が討たれて引き退けば、脇屋右衛門佐(脇屋義助よしすけ。新田義貞の弟)が二千余騎で入れ替わりました。敵には仁木(仁木頼章よりあき)・細川(細川頼春よりはる)・高(高師直もろなほ師泰もろやす)・畠山(畠山国清くにきよ)が、先日の恥を雪ごうと命を棄てて戦いました。官軍には江田・大館・里見・鳥山が、ここを破られてどこへか引くべきと、身をなきものになして防ぎました。こうして互いに死を軽んじて戦いましたが、遂に雌雄を決せずして、その日は戦い暮らしました。ここに楠木判官正成(楠木正成)が、遅れて下って来ましたが、合戦の様子を見て、面よりは駆けず、神崎(現兵庫県尼崎市)より打ち廻って、浜の南より寄せました。左馬頭(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)の兵が、終日の軍に戦いくたびれていた上、敵に後ろを囲まれまいと思って、一戦もせずに、兵庫(現兵庫県神戸市兵庫区)を指して引き退きました。


続く


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by santalab | 2016-08-11 08:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大樹摂津国豊嶋河原合戦事(その1)

将軍湊河に着き給ひければ、気を失ひつる軍勢ども、また色をなほして、方々より馳せ参りける間、なきほどにその勢二十万騎にじふまんぎになりにけり。この勢にてやがて攻め上り給はば、また官軍くわんぐん京には堪るまじかりしを、湊河の宿に、その事となく三日まで逗留とうりうありける間、宇都宮五百余騎道より引つかへして、官軍くわんぐんしよくし、八幡やはたに置かれたる武田式部の大輔たいふも、こらへ兼ねて降人かうにんになりぬ。その外ここかしこに隠れ居たりしつはものども、義貞よしさだに属しける間、官軍くわんぐんいよいよ大勢おほぜいになつて、竜虎りようこいきほひを振るへり。二月五日顕家あきいへきやう・義貞朝臣、十万じふまん余騎にて都を立ちて、その日摂津の国の芥河あくたがはにぞ着かれける。将軍この由を聞き給ひて、「さらば行き向かつて合戦を致せ」とて、将軍の舎弟左馬のかみに、十六万騎を差し添へて、京都へぞ上られける。




将軍(足利尊氏)が湊川(現兵庫県神戸市中央区)に着けば、気力を失っていた軍勢どもは、また色を直して、方々より馳せ参り、またたく間にその勢は二十万騎になりました。この勢でたちまち攻め上れば、官軍は京に留まることはできませんでしたが、湊川の宿に、さして訳もなく三日間逗留したので、宇都宮(宇都宮公綱きんつな)は五百余騎で道より引き返し、官軍に属し、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に置かれていた武田式部大輔も、堪え兼ねて降人になりました。そのほかあちらこちらに隠れていた兵どもが、義貞(新田義貞)に付いたので、官軍はますます大勢になって、まるで竜虎の勢いとなりました。二月五日に顕家卿(北畠顕家)・義貞朝臣は、十万余騎にて都を立て、その日摂津国の芥川(現大阪府高槻市)に着きました。将軍(足利尊氏)はこれを聞いて、「ならば行き向かって合戦せよ」と申して、将軍の舎弟左馬頭(足利直義ただよし)に、十六万騎を差し添えて、京都に上せました。


続く


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by santalab | 2016-08-08 08:25 | 太平記 | Comments(0)

    

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