Santa Lab's Blog


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「太平記」師直以下被誅事付仁義血気勇者の事(その2)

この人天下の執事にてありつるほどは、いかなる大名高家も、その笑める顔を見ては、千鍾せんしようの禄、万戸ばんここうを得たるが如く悦び、少しも心に合はぬ気色を見ては、たきぎを負うて焼原を過ぎ、らいを戴いて大江を渡るが如く恐れき。いかにいはんや将軍しやうぐんと打ち双べて、馬を進め給はんずるその中へ、誰か隔て先立つ人あるべきに、名も知らぬ田舎ゐなか武士、無云許人の若党わかたうどもどもに押し隔てられ押し隔てられ、馬ざくりの水を蹴懸けられて、衣深泥にまみれぬれば、身を知る雨の止む時なく、泪や袖を濡らすらん。執事兄弟武庫川むこがはを打ち渡つて、小堤こつつみの上を過ぎける時、三浦八郎左衛門はちらうざゑもんが中間二人ににんわしり寄りて、「ここなる遁世者の、顔をかくすは何者ぞ。その笠脱げ」とて、執事の着られたる蓮の葉笠はがさを引つ切つて捨つるに、ほうかぶりはづれて片顔かたかほの少し見へたるを、三浦八郎左衛門、「あはれ敵や、所願の幸かな」と悦びて、長刀の柄を取り延べて、胴中を切つて落とさんと、右の肩先より左の小脇まで、きつさき下がりに切り付けられて、あつと云ふところを、重ねて二打ち打つ、打たれて馬よりどうど落ちければ、三浦馬より飛んで下り、首を掻き落として、長刀の鋒に貫いて差し上げたり。




師直もろなほが天下の執事であった時には、いかなる大名高家も、その笑む顔を見ては、千鍾(一鍾は六石四斗。約600リットル)の禄、万戸の侯(領主)を得たようによろこび、わずかも心に合わぬ気色を見ては、薪を背負負って焼原(春先、晴天で風のない日、火を 放って野原の枯草を焼き払った)を過ぎ、雷に打たれながら大江を渡るかのように恐れました。ましてや将軍(足利尊氏)と並んで、馬を進むその中へ、誰か隔て先立つ者もあろうはずもありませんでしたが、人もあるべきに、名も知らぬ田舎武士、言うばかりもない若党どもに押し隔てられ押し隔てられ、馬決り([馬がひづめで水や泥を蹴り立てること])の水を蹴懸けられて、衣は深泥にまみれて、身を知る雨の止む時もなく、涙は袖を濡らしたことでしょう。執事兄弟(高師直・師泰もろやす)は武庫川を打ち渡って、小堤([あぜ])の上を過ぎる時、三浦八郎左衛門(上杉能憲よしのりの家臣)の中間([武士の下位の者])二人が走り寄って、「そこの遁世者の、顔を隠す者は何者ぞ。その笠を脱げ」と言って、執事がかぶっていた蓮葉笠を引き切って捨てると、ほうかぶりが外れて片顔([顔の半分])が少し見えました、三浦八郎左衛門は、「やはり敵であったか、思った通りよ」とよろこんで、長刀の柄を延ばして、胴中を斬って落とそうとしました、(高師直は)右の肩先より左の小脇まで、切っ先下がりに斬りつけられて、あっと言うところを、(三浦八郎左衛門は)重ねて二打ち打ちました、(高師直は)打たれて馬より落ちると、三浦(八郎左衛門は)馬より飛んで下り、首を掻き落として、長刀の切っ先に貫いて差し上げました。


続く


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by santalab | 2016-09-29 17:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田殿被引兵庫事

新田左中将さちゆうじやう義貞よしさだは、備前・美作の勢どもを待ち揃へん為に、賀古川かごかはの西なる岡に陣を取つて、二日までぞ逗留とうりうし給ひける。時節をりふし五月雨さみだれの降り続いて、河の水増さりければ、「跡より敵の懸かる事もこそ候へ。先づ総大将そうだいしやうまた宗との人々ばかりは、舟にて向かうへ御渡り候へかし」と諸人口々に申しけれども、義貞、「さる事やあるべき。渡さぬ先に敵懸かりたらば、中々引くべき方なくして、死を軽んぜんに便りあり。されば韓信が水を後ろにして陣を張りしはここなり。軍勢を渡し果てて、義貞後に渡るとも、何の痛みがあるべし」とて、先づ馬よわなる軍勢、手負うたる者どもを、漸々ぜんぜんにぞ渡されける。去るほどに水一夜に落ちて、備前・美作の勢馳せ参りければ、馬いかだを組んで、六万余騎同時に川をぞ渡されける。これまでは西国勢ども馳せ参じて、十万騎に余りたりしが、将軍兄弟上洛しやうらくし給ふ由を聞きて、いつの間にか落ち失せけん、五月十三日左中将さちゆうじやう兵庫に着き給ひける時は、その勢わづかに二万騎にも足りざりけり。




新田左中将義貞(新田義貞)は、備前・美作の勢どもを待ち揃えようと、加古川(現兵庫県加古川市)の西の岡に陣を取って、二日間逗留しました。時節五月雨が降り続いて、川は増水していましたので、「後方より敵が攻めて来るやもしれません。とりあえず総大将また主な人々ばかりは、舟にて向こうへお渡りなさいますよう」と諸人が口々に申しましたが、義貞は、「馬鹿なことを言うな。渡らぬ前に敵が攻めて来れば、引くこともできぬ、死を軽ろんじるようなものよ。韓信(中国秦末から前漢初期にかけての武将。前漢初代皇帝劉邦の元で数々の戦いに勝利した)が水を後ろにして陣を張ったのはそういうことぞ。軍勢を渡し果てて、この義貞が後に渡るとも、何の問題もない」と申して、まず馬弱の軍勢、手負いの者どもを、順次渡しました。やがて水は一夜に落ちて、備前・美作の勢が馳せ参ったので、馬筏を組んで、六万余騎が同時に川を渡りました。これまでは西国勢どもが馳せ参じて、十万騎に余りましたが、将軍兄弟(足利尊氏・直義ただよし)が上洛すると聞いて、いつの間にか落ち失せたか、五月十三日に左中将(新田義貞)が兵庫に着いた時には、その勢はわずかに二万騎にも足りませんでした。


続く


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by santalab | 2016-09-29 09:03 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」備中福山合戦事(その10)

その後若党四人続きて自害をしけるに、備後の守が従兄弟に和田にぎた四郎範家のりいへと言ふ者、しばらく思案しけるは、敵をば一人も滅ぼしたるこそ後までの忠なれ。追ひ手の敵もし赤松が一族子どもにてやあるらん。さもあらば引つ組んで、差し違へんずるものをと思ひて、刀を抜いて逆手さかてに握り、兜を枕にして、自害したるていに見へてぞ臥したりける。ここへ追ひ手懸かりける赤松が勢の大将には、宇の弥左衛門次郎重氏しげうぢとて、和田にぎたが親類なりけり。まさしきに辻堂の庭へ馳せ来たつて、自害したる敵の首を捕らんとて、これを見るに袖に付けたる笠符かさじるし下黒すそぐろもんなり。重氏抜きたる太刀を投げて、「あら浅ましや、たれやらんと思ひたれば、児嶋・和田・今木の人々にてありけるぞや。この人たちとく知るならば、命に替へても助くべかりつるものを」と悲しみて、涙を流して立ちたりける。和田四郎この声を聞きて、「範家のりいへここにあり」とて、かはと起きたれば、重氏肝をつぶしながら立ち寄りて、「こはいかに」とぞ悦びける。やがて和田四郎をば同道して助け置き、備後の守をば、葬礼懇ろに取り沙汰して、遺骨ゆゐこつ故郷こきやうへぞ送りける。さても八十三騎は討たれて範家一人助かりける、運命のほどこそ不思議なれ。




その後若党四人が続いて自害しましたが、備後守(児島範長のりなが)の従兄弟に和田四郎範家(松崎範家?)と言う者は、しばらく思案して、敵を一人でも滅ぼしてこそ後までの忠である。追っ手の敵はもしや赤松(赤松則村のりむら)の一族子どもであろう。そうならば、引っ組んで、刺し違えてやろうと思って、刀を抜いて逆手に握り、兜を枕にして、自害したように見せかけて臥していました。ここに追っ手として懸かる赤松(則村)の勢の大将は、宇弥左衛門次郎重氏と言って、和田の親類でした。まっすぐに辻堂の庭へ馳せ来て、自害した敵の首を捕ろうと、これを見れば袖に付けた笠符は皆裾黒の紋でした。重氏は抜いた太刀を投げて、「なんということだ、誰かと思えば、児嶋・和田・今木の人々ではないか。この人たちと先に知っておれば、命に替えても助けたものを」と悲しんで、涙を流して立っていました。和田四郎はこの声を聞いて、「範家はここにおるぞ」と言って、がばと起きたので、重氏は肝をつぶしながら立ち寄って、「これはなんとことか」とよろこびました。やがて和田四郎を同道して助け置き、備後守(児島範長)の、葬礼を懇ろに執り行い、遺骨を故郷に送りました。それにしても八十三騎が討たれて範家一人が助かった、運命のほどこそ不思議なものでした。


続く


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by santalab | 2016-09-28 10:19 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」備中福山合戦事(その9)

赤松が勢案内者なりければ、駆け散らされながら、先々へ馳せ過ぎて、「落人おちうとの通るぞ、打ち留め物の具剥げ」と、近隣傍庄ばうしやうにぞ触れたりける。これによつてその辺二三里が間の野伏のぶしども、二三千人出で合ひてここの山の隠れ、かしこの田のあぜに立ち渡りて、散々に射ける間、備後のかみ若党わかたうども、主を落とさんが為に、進んでは駆け破り引き下がつては討ち死にし、名和なはより阿弥陀が宿の辺まで、十八度まで戦つて落ちける間、打ち残されたる者、今はわづかに主従六騎になりにけり。備後の守ある辻堂つじだうの前にて馬を控へて、若党どもに向かつて申しけるは、「あはれ一族どもだに打ち連れたりせば、播磨の国中をば安く蹴散らして通るべかりつるものを、方々の手分けに向けられて一族一所に居ざりつれば、力なく範長のりなが討たるべき時刻の到来しけるなり。今は遁るべしとも思えねば、最後の念仏心静かに唱へて腹を切らんと思ふぞ。そのほど敵の近付かぬ様に防げ」とて、馬より飛んで下り、辻堂の中へ走り入り、本尊に向かひ手を合はせ念仏高声かうじやうに二三百返がほど唱へて、腹一文字に掻き切つて、その刀を口にくはへて、うつ伏しになつてぞ臥したりける。




赤松(赤松則村のりむら)の勢は案内をよく知る者でしたので、駆け散らされながらも、先々へ馳せ過ぎて、「落人が通るぞ、討ち止め物の具([武具])を剥げ」と、近隣傍庄に触れ回りました。そしてその辺二三里の間の野伏どもが、二三千人出てここの山の隠れ、かしこの田の畷に立ち、散々に矢を射たので、備後守(児島範長のりなが)の若党どもは、主を逃すために、進んでは駆け破り引き下がっては討ち死にし、名和(縄手?現兵庫県姫路市)より阿弥陀宿(現兵庫県高砂市)の辺まで、十八度まで戦って落ちる間に、打ち残された者は、今はわずかに主従六騎になりました。備後守はある辻堂の前で馬を控えて、若党どもに向かって申すには、「ああ一族どもさえ打ち連れておれば、播磨の国中を容易く蹴散らして通るものを、方々の手分けに向けられて一族は一所におらぬ、仕方のないことだがこの範長が討たれる時刻が到来したか。今は遁れようとも思わない、最後の念仏を心静かに唱えて腹を切ろうと思う。それまで敵が近付かぬように防げ」と申して、馬より飛んで下り、辻堂の中へ走り入り、本尊に向かい手を合わせ念仏を高声に二三百返ほど唱えて、腹を一文字に掻き切って、その刀を口に咥えて、うつ伏しに臥しました。


続く


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by santalab | 2016-09-27 11:01 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」師直以下被誅事付仁義血気勇者の事(その1)

同じき二十六日にじふろくにちに、将軍すでに御合体がつていにて上洛しやうらくし給へば、執事兄弟も、同じき遁世者に打ち紛れて、無常のちまたむちを打つ。折節春雨しめやかに降りて、数万すまんの敵ここかしこに控へたる中を打ち通れば、それよと人に被見知じと、はすの葉笠を打ちかたぶけ、袖にて顔を引き隠せども、中々紛れぬあめが下、身のせばきほどこそ哀れなれ。将軍に離れ奉ては、道にてもいかなる事かあらんずらんと危ぶみて少しも下がらず、馬を早めて打ちけるを、上杉・畠山のつはものども、兼ねて儀したる事なれば、路の両方に百騎、二百騎、五十騎、三十騎、処々に控へて待ちける者ども、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔てんと鷹角たかづの一揆七十しちじふ余騎、会尺色代ゑしやくしきたいもなく、馬を中へ打ち込み打ち込みしけるほどに、心ならず押し隔てられて、武庫川の辺を過ぎける時は、将軍と執事との間、河を隔て山を阻てて、五十町許りに成りにけり。哀れなるかな、盛衰せいすゐ刹那せつなの間に替はれる事、修羅しゆら帝釈の軍に負けて、藕花ぐうげの穴に身を隠し、天人の五衰ごすゐの日に逢ひて、歓喜苑くわんぎゑんに彷徨ふらんもかくやと被思知たり。




同じ(正平六年(1351)一月)二十六日に、将軍(足利尊氏)が(畠山国清くにきよと)合体して上洛したので、執事兄弟(高師直もろなほ師泰もろやす)も、同じく遁世者に紛れて、無常の岐([路地])に鞭を打ちました。折節春雨がしめやかに降って、数万の敵がここかしこに控待ち構える中を打ち通ったので、あれよと人に見知られまいと、蓮葉笠を傾け、袖で顔を隠しましたが、天下に隠れる所なく、肩身の狭さは哀れでした。将軍(足利尊氏)に離れては、道中でいかなる事があるかと危ぶんで少しも下がらず、馬を早めて鞭を打ちましたが、上杉(上杉憲顕のりあき)・畠山(畠山国清くにきよ)の兵どもは、かねて通じていましたので、路の両方に百騎、二百騎、五十騎、三十騎、処々に控えて待ち構えていた者どもは、執事(高師直)と見れば、将軍と執事(高師直)との間を次第に隔てようと鷹角一揆七十余騎が、会尺色代([挨拶])もなく、馬を中へ割り込ませたので、心ならずも押し隔てられて、武庫川の辺を過ぎる時には、将軍と執事との間、川(武庫川)を隔て山を阻てて、五十町ばかりになりました。哀れなことでした、盛衰が刹那([一瞬])の間に替わる様は、修羅が帝釈との軍に負けて、藕花([蓮の花])の穴に身を隠し、天人が五衰([天人の死に際して現れるという五種の衰えの相])の日を迎えて、歓喜苑([帝釈天の宮殿である善見城の北にある庭園。この庭園に入る人は皆、歓喜の心を生ずるという])に彷徨うもこのようなものかと思い知られるのでした。


続く


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by santalab | 2016-09-26 11:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」備中福山合戦事(その8)

去るほどにこの道より落人おちうととほりけると聞きて、赤松入道三百余騎を差し遣はして、名和なわ辺にてぞ待たせける。備後のかみわづかに八十三騎にて、大道おほちへと心ざして打ちけるところに、赤松が勢とある山陰に寄せ合つて、「落人と見るはたれ人ぞ。命しくば弓をはづし物の具脱いで降人かうにんに参れ」とぞかけたりける。備後の守これを聞きて、からからと打ち笑ひ、「聞きも習はぬ言葉かな、降人になるべくは、筑紫より将軍の、様々の御教書みげうしよをなしてすかされし時こそならんずれ。それをだに引き裂きて火にべたりし範長のりながが、御辺たちに向かつて、降人にならんと、ゑこそ申すまじけれ。物の具欲しくばいで取らせん」と言ふままに、八十三騎の者ども、三百余騎の中へをめいて駆け入り、敵十二騎斬つて落とし、二十三騎に手負はせ、大勢の囲みを破つて、浜路はまぢを東へぞ落ち行きける。




やがてこの道を落人が通ると聞いて、赤松入道(赤松則村のりむら)は三百余騎を差し遣わして、名和(縄手?現兵庫県姫路市)辺で待たせました。備後守(児島範長のりなが)はわずかに八十三騎で、大道へと急ぐところに、赤松の勢と山陰で遭遇して、「落人と見るが誰だ。命が惜しければ弓を外し物の具([武具])を脱いで降人に参れ」と声をかけました。備後守はこれを聞いて、からからと打ち笑い、「何を申すかと思えば、降人になる積もりなら、筑紫より将軍(足利尊氏)が、様々の御教書([三位以上の貴人の意向を伝える奉書])をなして言いくるめようとした時になっておるわ。それさえ引き裂り火に焚べたこの範長が、お主たちに向かって、降人になろうと、申すはずもない。物の具([武具])が欲しければさあ取らせるぞ」と言うままに、八十三騎の者どもが、三百余騎の中へ喚いて駆け入り、敵十二騎を斬って落とし、二十三騎に手負わせ、大勢の囲みを破って、浜路を東へ落ちて行きました。


続く


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by santalab | 2016-09-26 09:59 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」備中福山合戦事(その7)

ここにて人にたづぬれば、「脇屋殿は早やよひに播磨へ引かせ給ひて候ふなり」と申しける間、さては舟坂をばとほり得じとて、先日搦め手のまはりたりし三石みついしの南の山路やまぢを、たどるたどる夜もすがら越えて、坂越さごしの浦へぞ出でたりける。夜いまだ深かりければ、このまま少しの逗留とうりうもなくて打つて通らば、 新田殿には安く追つ着き奉るべかりけるを、子息高徳たかのりが先のいくさに負うたりける疵、いまだ愈えざりけるが、馬に振られけるに依つて、目くらく肝消して、馬にもたまらざりける間、坂越の辺に相知あひしつたる僧のありけるをたづね出だして、あづけ置きけるほどに、時刻押し遷りければ、五月さつきの短か夜明けにけり。




ここで人に訊ねると、「脇屋殿(脇屋義助よしすけ。新田義貞の弟)はすでに宵に播磨に引き退かれました」と申したので、さては船坂(現岡山・兵庫県境にある峠)は通れまいと、先日搦め手が迂回した三石(現岡山県備前市)の南の山路を、たどるたどる夜もすがら越えて、坂越の浦(現兵庫県赤穂市)に出ました。夜はまだ深かったので、このまま少しも逗留せず打って通れば、新田殿(新田義貞)には容易く追い付くことができましたが、子息高徳(児島高徳)が先の軍で負った疵が、まだ愈えていませんでしたので、馬に揺られて、目は眩み肝は消えて、馬に乗っていられなくなりました、坂越の辺に知った僧がいたので尋ね出して、預け置くほどに、時刻は押し移って、五月の短か夜は明けました。


続く


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by santalab | 2016-09-24 08:55 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」備中福山合戦事(その6)

城中の勢ども、これに機を得て、舟坂山ふなさかやまに出で合ひ、道を塞いで散々に射る。宵の間の月、山に隠れて、前後定かに見へぬ事なれば、親討たれ子討たるれども、ただ一足も先へこそ行き延びんとしけるところに、菊池が若党わかたうに、原の源五・源六とて、名を得たる大剛たいかうの者ありけるが、わざと後に引き下がりて、御方の勢を落とさんと、防ぎ矢を射たりける。矢種皆射尽くしければ、打ち物の鞘をはづして、「傍輩はうばいどもあらば返せ」とぞ呼ばはりける。菊池が若党どもこれを聞きて、遥かに落ち延びたりける者ども、「それがしここにあり」と名乗り懸けて返し合はせける間、城よりり合はせける敵ども、さすがに近付き得ずして、ただ余所の峰々に立ち渡つて鬨の声をぞ作りける。その間に数万の官軍くわんぐんども、一人も討たるる事なくして、大江田おいだ式部の大輔たいふ、その夜の曙には山の里へ着きにけり。和田にぎた備後のかみ範長のりなが・子息三郎高徳たかのり、佐々木の一党が舟より上がる由を聞きて、これを防がん為に、西川尻にしかはじりに陣を取つて居たりけるが、福山すでに落とされぬと聞こへければ、三石みついしの勢と成り合はんが為に、九日の夜に入つて、三石へぞ馳せ着きける。




城中の勢どもは、これに時を得て、船坂山(現岡山・兵庫県境にある船坂峠)で合流し、道を塞いで散々に矢を射ました。宵の月は、山に隠れて、前後も定かに見えませんでしたので、親が討たれ子が討たれようとも、ただ一足も先へと行き延びようとするところに、菊池(菊池武重たけしげ。菊池氏の第十三代当主)の若党に、原源五・源六という、名を得た大剛の者がいましたが、わざと後に引き下がって、味方の勢を逃がそうと、防ぎ矢を射ました。矢種を皆射尽くすと、打ち物([太刀])の鞘を外して、「傍輩([同じ主人に仕えたり、同じ先生についたりしている仲間])どもよおれば返せ」と叫びました。菊池の若党どもはこれを聞いて、遥かに落ち延びた者どもも、「某はここだ」と名乗り懸けて返し合わせたので、城より下り合わせた敵どもは、さすがに近付くことができずに、ただ余所の峰々に立ち並んで鬨の声を作りました。その間に数万の官軍どもは、一人も討たれることもなく、大江田式部大輔(大井田義政よしまさ)は、その夜の曙には山の里(広山里?現兵庫県揖保郡)に着きました。和田備後守範長(児島範長)・子息三郎高徳(児島高徳)は、佐々木(佐々木道誉)の一党が舟より上がると聞いて、これを防ぐために、西川尻(現岡山県岡山市)に陣を取っていましたが、福山(現岡山県総社市)がすでに落とされたと聞こえたので、三石(現岡山県備前市)の勢と合体するために、九日(五月十九日?)の夜に入って、三石に馳せ着きました。


続く


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by santalab | 2016-09-23 07:35 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」師冬自害事付諏方五郎事(その3)

さるほどに城の後ろより破れて、敵四方しはうより追ひしかば、諏方すはの五郎と播州とは手に手を取り違へ、腹掻き切つて臥し給ふ。この外義を重んじ名をしむさぶらひども六十四人、同時に皆自害して、名を九原きうげんの上の苔に残し、かばねを一戦の場の土に晒さる。その後は東国・北国残りなく、高倉殿の御方へなりて候ふ。「世は今はさてとこそ見へて候へ」と、泣く泣く執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛ひやうゑすけ殿に従ひ付きぬと聞こゆ。四国は細川陸奥のかみしよくしてすでに須磨の大蔵谷おほくらだにの辺まで寄せたりと告げたり。今は東国をこそ、さりともと頼みたれば、師冬さへ討たれにけり。さてはいづくへか落ち誰をか頼むべきとて、さしも勇みし人々の気色、皆心細く見へたりける。命はよく棄て難きものなりけり。執事兄弟、かくてももし命や助かると、心も起こらぬ出家して、師直もろなほ入道道常、師泰もろやす入道道勝とて、なし衣にげ鞘提げて、降人かうにんになつて出でければ、見る人毎に爪弾きして、出家の功徳くどく莫太ばくだいなれば、後生ごしやうの罪はまぬかるとも、今生こんじやうの命は助かり難しと、欺かぬ人はなかりけり。




やがて城の後ろより破れて、敵が四方より攻めて来たので、諏方五郎と播磨守(高師冬もろふゆ)は手に手を取り違え、腹を掻き切って臥しました。このほか忠義を重んじ名を惜しむ侍ども六十四人が、同時に皆自害して、名を九原([中国の春秋時代、しんけい・大夫の墓があった地名])の上の苔に残し、屍を一戦の場の土に晒しました。その後は東国・北国は残りなく、高倉殿(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)の味方になりました。(足利尊氏の四男、足利基氏もとうぢは)「世は今はこれまでと思われる」と、泣く泣く執事に語りました。筑紫九国は兵衛佐殿(足利直冬ただふゆ。足利尊氏の子で足利直義の猶子となった)に従い付いたと聞こえました。四国は細川陸奥守(細川顕氏あきうぢ)に属してすでに須磨の大蔵谷(現兵庫県明石市)の辺まで寄せたと知らせました。東国ばかりは、よもや背くまいと頼みにしていましたが、師冬(高師冬)さえ討たれました。さてはどこへにか落ち誰を頼むべきと、あれほど勇んでいた人々の気色も、皆心細く見えました。命は捨て難いものです。執事兄弟は、もしや命が助かるのではないかと、発心もなく出家して、師直(高師直)入道道常、師泰(高師泰。高師直の弟)入道道勝と号して、裳になした衣([裳衣]=[喪中に着る衣服])に提げ鞘([僧や茶人などが守り刀としてたずさえる小刀])を提げて、降人になって出ましたので、見る人は皆爪弾き([嫌悪・軽蔑・非難などの気持ちを表すしぐさ])をしました、出家の功徳は莫大なれば、後生の罪は免れるとも、今生の命は助かり難しと、嘆かぬ人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2016-09-22 09:29 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」師冬自害事付諏方五郎事(その2)

播州師冬もろふゆこれを被聞さふらひて、八箇国の勢を被催に、更に一騎も不馳寄。かくては叶ふまじ。さらば左馬のかみ殿を先立てまゐらせて上杉を退治たいぢせんとて、僅かに五百騎を率して、上野へ発向はつかう候ひし路次ろしにて、さりとも二心ろ非じと憑み切つたるつはものども心変はりして、左馬の頭殿を奪ひ奉る間、左馬の頭殿の御後ろ見三戸の七郎しちらうは、その夜同士打ちせられて半死半生に候ひしが、行く方を不知なり候ひぬ。これより上杉にはいよいよ勢加はり、播州師冬には付き従ふ者候はざりし間、一歩いつほも落ちてこなたの様をも聞かばやとて、甲斐かひの国へ落ちて、州沢すざはじやうに被篭候処に、諏方すはの下宮の祝部はふり六千余騎にて打ち寄せ、三日三夜の手負ひ討ち死にその数を不知。敵皆大手へ向かふにより、城中じやうちゆうの勢大略大手にり下つて、防ぎ戦ふ隙を得て、山の案内者後ろへまはつて、かさより落とし懸かる間、八代やしろなにがし一足も引かず討ち死に仕る。城すでに落ちんとし候ふ時、御烏帽子子おんえぼしごに候ひし諏方五郎、初めは祝部にしよくして城を攻め候ひしが、城の弱りたるを見て、「そもそも我執事の烏帽子子にて、父子の契約を致しながら、世挙がつて背けばとて、不義の振る舞ひをばいかが致すべき。曽参そうしんは復車於勝母之郷、孔子は忍渇於盜泉之水といへり。君子は其於不為処名をだにも恐る。いはんや義の違ふ処においてをや」とて、祝部に最後の暇乞うて城中へ入り、かへつて寄せ手を防ぐ事、身命しんめいを惜しまず。




播磨守師冬(高師冬)はこれを聞いて、八箇国の勢を集めましたが、一騎も馳せ来ませんでした。こうなっては敵うまい。ならば左馬頭殿(足利基氏もとうぢ。足利尊氏の四男)を立てて上杉(上杉憲顕のりあき)を退治しようと、わずかに五百騎を率して、上野に発向する道中で、まさか二心はないとと頼み切った兵どもが心変わりして、左馬頭殿を奪い取りました、左馬頭殿の後ろ見の三戸七郎(足利基氏の後見人)は、その夜同士討ちに合い半死半生となって、行方知れずになりました。これより上杉にはますます勢が加わり、播磨守師冬には付き従う者はいなかったので、一歩も落ちて状況を窺うために、甲斐国へ落ちて、州沢城に籠もるところに、諏方下宮祝部が六千余騎で打ち寄せ、三日三夜の手負い討ち死にはその数を知りませんでした。敵は皆大手([敵を表門または正面から攻める兵])に向かったので、城中の勢はほとんど大手に下って、防ぎ戦う隙を得て、山の案内者が後ろへ廻って、笠より落とし懸かったので、八代某は一足も引かず討ち死にしました。城がすでに落ちようとした時、烏帽子子の諏方五郎は、はじ祝部に属して城を攻めていましたが、城が弱ったのを見て、「そもそも我は執事((高師冬もろふゆ)の烏帽子子として、父子の契りを致しながら、世間が背くからといって、どうして不義の振る舞いができようか。曽参(孔子の弟子)は廻車於勝母之閭(曾参が柴刈りに行き留守中に来客が来たものの母は客人をどうもてなせばよいのかわからず、曾参の帰宅を促すために自分の指をかみ続けた。すると、曾参の胸が痛み帰宅し客人に気付き曾参が客人をもてなしたという。[閭]=[村里の入り口にある門])、孔子は忍渇於盜泉之水(孔子はからからに喉が渇いていたが、「盗泉」という泉の名を嫌い、その水を飲まなかったという。どんなに苦しい境遇にあった場合でも、決して悪事には手を出さないというたとえ)という。君子はその名に背く行いでさえ恐れる(?)。申すまでもなく義を違えてどうするのか」と、祝部に最後の暇を乞うて城中へ入り、反対に寄せ手を防ぐこと、身命を惜しみませんでした。


続く


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by santalab | 2016-09-22 09:23 | 太平記 | Comments(0)

    

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