Santa Lab's Blog


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「太平記」将軍親子御退失事付井原石窟事(その3)

相公しやうこう登山し給ひし日より、岩室寺いはやでらの衆徒、座醒まさずに勝軍毘沙門の法をぞ行ひける。七日に当たりたりし日、当寺の院主雲暁うんげう僧都、巻数くわんじゆを捧げてまゐりけり。相公すなはち僧都に対面し給ひて、当寺開山の事の起こり、本尊霊験顕はし給ひしやうなど、様々問ひけるついでに、「さてもいづれの薩埵さつた帰敬ききやうし、いかなる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡す要術えうじゆつに叶ひ候ふべき」とのたまひければ、雲暁僧都畏つて申しけるは、「およそ、諸仏薩埵の利生りしやう方便まちまちにして、かれをしこれを非する覚へ、応用言葉辺々に候へば、いづれを優り何れを劣たりとは難申候へども、須弥しゆみ四方しはうりやうして、鬼門の方を守護し、摧伏さいぶくの形を現じて、専ら勝軍の利を施し給ふ事は、昆沙門の徳にしくは候ふべからず。これ我が寺の本尊にて候へばとて、無謂まうすにて候はず。いにしへ玄宗皇帝くわうていの御宇、天宝十二年に安西あんせいと申す所に軍起こつて、数万の官軍くわんぐん戦ふ度毎に打ち負けずと云ふ事なし。「今は人力の及ぶ処に非ず如何がすべき」と玄宗有司いうしに問ひ給ふに、皆同じく答へて申さく、『これまことに天の擁護に不懸ば静むる事を難得。ただ不空三蔵ふくうさんざうを召されて、大法を行はせらるべきか』と申しける間、帝すなはち不空三蔵を召されて昆沙門の法を行はせられけるに、一夜の中にくろがねの牙ある金鼠きんそ数百万安西あんせいに出で来て、謀反人の太刀・刀・兜・よろひ・矢のはず・弓の弦に至るまで、一つも不残食ひ破り食ひ切り、剰へ人をさへみ殺しさふらひけるほどに、凶徒これを防ぎかねて、かうべを延べて軍門に降りしかば、官軍くわんぐん矢の一つをも不射して若干そくばくの賊徒を平らげ候ひき。




相公(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)が登山した日より、岩室寺(現兵庫県丹波市にある石龕せきがん寺)の衆徒([僧])は、座醒まさす([座をしらけさせる])ことなく勝軍毘沙門の法を行いました。七日に当たる日、当寺の院主雲暁僧都が、巻数([僧が願主の依頼で読誦した経文・陀羅尼などの題目・巻数・度数などを記した文書または目録])を捧げて参りました。相公はすぐに僧都に対面して、当寺開山の由来、本尊霊験の様など、様々訊ねたついでに、「さてもいずれの薩埵を帰敬([帰依敬礼。仏などを心から信じ、尊敬すること])し、いかなる秘法を修行すれば、天下を静め大敵を亡す要術となろうや」と訊ねると、雲暁は僧都畏り申すには、「およそ、諸仏薩埵の利生方便([仏・菩薩が衆生に利益を与える手だてを講じること])はそれぞれですから、かれを是しこれを非すること、応用言葉辺々でございますれば、いずれが優りいずれを劣るとも申し難くございますが、須弥([古代インドの世界観の中で中心にそびえる山])の四方を領じて、鬼門の方を守護し、摧伏([打ちくじいて屈伏させること])の姿を現じて、ひたすら勝軍の利を施すことにおきましては、昆沙門の徳に敵うものはございません。昆沙門は我が寺の本尊でございますが、いわれなく申すものではございません。古玄宗皇帝(唐の第九代皇帝)の御宇、天宝十二年(753)に安西(唐の西域)と申す所に軍が起こり、数万の官軍は戦う度毎に打ち負けました。「今は人力の及ぶことろではないどうすればよいか」と玄宗が有司([役人])に訊ねますれば、皆同じく答え申すには、『これまことに天の擁護に依らずんば静めることは難しいでしょう。ただ不空三蔵(真言宗付法第六祖)を召されて、大法を行わせるべきかと』と申したので、帝はすぐに不空三蔵を呼んで昆沙門法を行わせると、一夜のうちに鉄の牙が生えた金鼠が数百万安西に現れて、謀反人の太刀・刀・兜・鎧・矢筈([矢の末端の弓の弦を受ける部分])・弓の弦にいたるまで、一つ残らず喰い破り喰い破り、さらに人をさえ咬み殺したので、凶徒はこれを防ぎかねて、首を延べて軍門に降りました、官軍は矢の一つをも射ずして若干([少しばかり])の賊徒を平らげたのでございます。


続く


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by santalab | 2016-10-31 07:20 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍親子御退失事付井原石窟事(その2)

将軍は昨日都を東嶺とうれいの暁の霞とともに立ち隔たり、今日は旅を山陰のゆふべの雲に引き別れて、西国へと赴き給ひけるが、名将一所に集らん事は計略なきに似たりとて、御子息宰相さいしやう中将ちゆうじやう殿に、仁木につき左京さきやうの大夫頼章よりあきら・舎弟右京うきやうの大夫義長よしなが相添あいそへて二千余騎、丹波の井原ゐはら石龕いはやに止めらる。この寺の衆徒しゆと、元来無二の心ざしを存せしかば、軍勢の兵粮、馬の糟藁ぬかわらに至るまで、山の如く積み上げたり。この所は岸高く峰そびえて、四方しはう嶮岨けんそなれば、城郭じやうくわくの頼りも心安く思へたる上、荻野をぎの波々伯部はうかべ久下くげ長沢ながさは、一人も不残馳せ参つて、日夜の用心隙なかりければ、他日窮困の軍勢ども、ただ翰鳥かんてうげきを出、轍魚てつぎよの水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。




将軍(足利尊氏)は昨日都を東嶺(比叡山)の暁の霞とともに立ち隔たり、今日は山陰の夕べの雲に引き別れて、西国に赴きました、名将を一所に集めておくことは計略なきに似たりと、子息宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)に、仁木左京大夫頼章(仁木頼章)・舎弟右京大夫義長(仁木義長)を供に付けて二千余騎、丹波井原の石龕(現兵庫県丹波市にある石龕せきがん寺)に留めました。この寺の衆徒([僧])は、元より二心を持っていませんでしたので、軍勢の兵粮、馬の糟藁にいたるまで、山のように積み上がりました。この場所は岸は高く峰はそびえて、四方は皆嶮岨でしたので、城郭の頼りも心安く思われる上に、荻野・波々伯部・久下・長沢、一人も残らず馳せ参って、日夜の用心は隙もありませんでしたので、他日窮困の軍勢どもは、まるで翰鳥([空高く飛ぶ鳥])が繳([矰繳いぐるみ]=[飛んでいる鳥を捕らえるための仕掛け])を逃れ、轍魚([わだちにたまった水の中でもがく魚])が水を得たように、しばらく気を休めました。


続く


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by santalab | 2016-10-30 08:48 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍親子御退失事付井原石窟事(その1)

将軍都へ立ちかへり給ひて、桃井もものゐ合戦に打ち負けぬれば、今は八幡やはたの御敵どもも、大略将軍へぞ馳せまゐらんと、諸人推量を廻らして、今はかうと思はれけるに、案に相違して、十五日の夜半ばかりに、京都の勢また大半落ちて八幡の勢にぞくははりける。「こはそも何事ぞ。戦ひに利あれば、御方の兵いよいよ敵になる事は、よく早や尊氏を背く者多かりける。かくては洛中にて再び戦を致し難し。しばらく西国の方へ引き退いて、中国の勢をもよほし、東国の者どもにてふし合はせて、かへつて敵を攻めばや」と、将軍しきりにおほせあれば、諸人、「さるべく思へ候ふ」と同じて、正月十六じふろく日の早旦に丹波路たんばぢを西へ落ち給ふ。昨日は将軍都に立ち帰つて桃井もものゐ戦ひに負けしかば、洛中にはこれを悦び八幡には聞いて悲しむ。今日はまた将軍都を落ち給ひて桃井やがて入れ替はると聞こへしかば、八幡にはこれを悦び洛中には密かに悲しむ。吉凶はあざなへる縄の如く。哀楽時をへたり。何を悦び何事を歎くべきとも定めず。




将軍(足利尊氏)は都に戻り、桃井(桃井直常ただつね)が合戦に打ち負けたからには、今は八幡(現京都府八幡市にあるある石清水八幡宮)の敵どもも、大方将軍方にぞ馳せ参るであろうと、諸人は推量を廻らして、今は勝負あったと思っていましたが、案に相違して、十五日の夜半ばかりに、京都の勢がまた大半落ちて八幡の勢に加わりました。「これはどういうことだ。戦いに勝って、味方の兵がますます敵になるということは、早くもこの尊氏を背く者が多いということだ。こうなっては洛中で再び戦をするのは無理ぞ。しばらく西国の方へ引き退いて、中国の勢を集め、東国の者どもに牒し合わせて、敵を攻めよ」と、将軍はしきりに命じたので、諸人も、「そういたしましょう」と同意して日の早旦に丹波路を西へ落ちて行きました。昨日は将軍が立ち帰って桃井が戦いに負けたので、洛中ではこれをよろこび八幡では聞いて悲しみました。今日はまた将軍が都を落ちて桃井がやがて入れ替わると聞こえたので、八幡ではこれをよろこび洛中では密かに悲しみました。吉凶は糾える縄の如し([幸福と不幸は表裏一体で、かわるがわる来るものだということのたとえ])。哀楽は時々に変わるものです。何をよろこび何事を嘆くべきとも知れませんでした。


続く


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by santalab | 2016-10-29 09:26 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍上洛事付阿保秋山河原軍事(その6)

その後合戦始まつて、桃井もものゐが七千余騎、仁木・細河ほそかはが一万余騎と、白河を西へ捲り東へ追ひ靡け、七八度がほど懸け合ひたるに、討たるる者三百人、疵をかうむる者数を不知。両陣互ひに戦ひ屈して控へ息を継ぐ処に、兼ねての相図を守つて、佐々木の判官入道はうぐわんにふだう道誉だうよ七百余騎にて、思ひも寄らぬ中霊山なかりやうぜんの南より、鬨をどつと作つて桃井もものゐが陣の後ろへ懸け出でたり。桃井が兵これに驚きあらけて、二手に分かれてあひ戦ふ。桃井は西南の敵に破り立てられて、兵引き色に見へける間、兄弟二人ににん態と馬より飛んで下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足も引く事あるべからず。ただ討ち死にをせよ」とぞ下知しける。去るほどに日已に夕陽せきやうに及びて、戦数剋すこくに成りぬれども、八幡の大勢はかつて不攻合はせ、北国の兵気疲れて暫く東山に引き上げんとしけるところに、将軍並びに羽林うりんの両勢五千余騎、二条にでうを東へ懸け出でて、桃井を山上へまた引き返させじと、跡を隔ててぞ取り巻きける。桃井終日ひねもすの合戦に入れ替はる勢もなくて、戦疲れたる上、三方さんぱうの大敵に囲まれて、叶はじとや思ひけん、粟田口あはたぐちを東へ山科越やましなごえに引いて行く。されどもなほ東坂本までは引き返さで、その夜は関山に陣を取つて、大篝おほかがりを焚いてぞ居たりける。




その後合戦が始まると、桃井(桃井直常ただつね)の七千余騎は、仁木(仁木頼章よりあき)・細川(細川清氏きようぢ)の一万余騎と、白川(現京都市左京区)を西へ捲り東へ追い靡け、七八度ほど駆け合いました、討たれる者三百人、疵を被る者は数知れませんでした。両陣互いに戦いあぐね控えて息を継ぐところに、かねての相図通り、佐々木判官入道道誉(佐々木道誉)が七百余騎で、思いも寄らぬ中霊山(京都市東山区?)の南より、鬨をどっと作って桃井の陣の後ろに駆け出ました。桃井の兵はこれに驚き散って、二手に分かれて戦いました。桃井(直常)は西南の敵に破り立てられて、兵は引き色に見えましたが、兄弟二人(高師直もろなほ師泰もろやす)が馬より飛んで下り、敷皮の上に着座して、「運は天にある、一足も引いてはならぬ。ただ討ち死にをせよ」と命じました。やがて日はすでに夕陽に及んで、戦が始まって数刻が過ぎましたが、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の大勢は攻め合わせず、北国の兵は疲れて(桃井直常が)しばらく東山に引き上げようとするところに、将軍(足利尊氏)ならびに羽林(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男。[羽林]=[中将])の両勢五千余騎が、二条を東へ駆け出て、桃井(直常)を再び山上に引き返させまいと、後陣を遮って取り巻きました。桃井は終日の合戦に入れ替わる勢もなくて、戦に疲れていた上、三方の大敵に囲まれて、敵わないと思ったか、粟田口(現京都市東山区)を東へ山科越え(小関越え=現滋賀県大津市から京都市山科区へ向かう道)に引いて行きました。けれどもなおも東坂本(現滋賀県大津市)までは引き返さず、その夜は関山(逢阪山。現京都市山科区と滋賀県大津市の境にある山)に陣を取って、大篝を焚きました。


続く


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by santalab | 2016-10-28 09:00 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍上洛事付阿保秋山河原軍事(その5)

相近あひぢかになれば阿保と秋山とにつこと打ち笑うて、弓手ゆんでに懸け違へ馬手めてに開き合つて、秋山はたと打てば、阿保受け太刀に成つて請け流す。阿保持つて開いてしとど切れば、秋山棒にて打ちそむく。三度逢ひ三度別ると見へしかば、秋山は棒を五尺許り切りられて、手本僅かに残り、阿保は太刀を鐔本つばもとより打ち折られて、帯添はきぞへの小太刀許り憑みたり。武蔵のかみこれを見て、「忠実ただざねは打ち物取つて手はきたれども、力量りきりやうなき者なれば、力勝りに逢うて始終は叶はじと思ゆるぞ、あれ討たすな。秋山を射て落とせ」とぞ被下知。究竟くつきやう精兵せいびやう七八人河原面かはらおもてに立ち渡つて、雨の降るが如く散々に射る。秋山件の棒を以つて、只中を指して当たる矢二十三筋にじふさんすぢまで打ち落とす。忠実も情けある者なりければ、今は秋山を討たんともせず、剰へ御方より射る矢を制して矢面にこそ塞がりけれ。かかる名人を無代むたいに射殺さんずる事をしみて、制しけるこそやさしけれ。かくて両方打ちきて、諸人の目をぞ覚ましける。さればその頃、霊仏霊社の御手向け、扇団扇あふぎうちはのばさら絵にも、阿保・秋山が河原かはら軍とて書かせぬ人はなし。




互いに近付けば阿保(阿保忠実ただざね)と秋山はにっこり笑って、弓手([左])に駆け違い馬手([右])に開き合って、秋山がはたと打てば、阿保は受け太刀になって受け流しました。阿保が太刀を振り上げて斬り下ろせば、秋山は棒で打ち払いました。三度合い三度別れたと見れば、秋山は棒を五尺ばかり切り折られて、手本がわずかに残り、阿保は太刀を鐔本より打ち折られて、佩き添えの小太刀ばかりが頼りでした。武蔵守(高師直もろなほ)はこれを見て、「忠実は打ち物([太刀])を取っては腕利きであるが、力量のない者である、力任せの勝負しては敵うまい、忠実を討たすな。秋山を射て落とせ」と命じました。究竟の精兵([強弓の兵])七八人が河原面に立ち並び、まるで雨が降る如く散々に矢を射ました。秋山は件の棒で、飛んで来る矢を二十三筋打ち落としました。忠実も情けのある者でしたので、今は秋山を討とうともせず、その上味方が射る矢を制して矢面に立ちました。このような名人が無代([おろそかにすること])に射殺されることを惜しんで、制したのでした。こうして両方は退きましたが、諸人は目を覚ましました。そしてその頃、霊仏霊社の手向け(絵馬)、扇団扇のばさら絵([扇、団扇、絵馬などの奔放な画風の絵])にも、阿保・秋山の河原軍を描かぬ者はいませんでした。


続く


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by santalab | 2016-10-27 09:04 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍上洛事付阿保秋山河原軍事(その4)

仁木につき細河ほそかは・武蔵守が内に、手柄を顕はし名を知られたる兵おほしといへども、如何思ひけん、互ひに目をくばつて我これに懸け合つて勝負をせんと云ふ者もなかりける処に、丹のたう阿保あふ肥後のかみ忠実ただざねと云ひける兵、連銭葦毛れんせんあしげなる馬に厚総あつぶさ懸けて、唐綾をどしよろひ竜頭たつがしらの兜のめ、四尺ししやく六寸の貝鎬かひしのぎの太刀を抜いて、鞘をば河中へ投げ入れ、三尺さんじやく二寸のへうの皮の尻鞘懸けたる黄金作こがねづくりの小太刀佩きへて、ただ一騎大勢の中より懸け出でて、「事めづらしく耳に立ててもうけたまはる秋山殿の御詞かな。これは執事の御内に阿保肥前の守忠実とまうす者にて候ふ。幼稚の昔より東国に居住して、明け暮れは山野のけだものを追ひ、江河のうろくづすなどつてげふとせし間、張良が一巻いつくわんの書をも呉子・孫子が伝へし所をも、かつて名をだに不聞。されども変化時に応じて敵の為に気をはつする処は、勇士の己れと心にる道なれば、元弘建武以後三百余箇度の合戦に、敵を靡け御方を助け、強きを破り堅きを砕く事その数を不知。素引すびきの精兵せいびやう畑水練はたけすゐれんことばづる人非じ。忠実が手柄のほどこころみて後、左様の広言をば吐き給へ」と高らかに呼ばはつて、閑々しづしづと馬をぞ歩ませたる。両陣の兵あれ見よとて、軍を止めて手をにぎる。数万の見物衆は、戦場とも不云走り寄つて、固唾かたづを呑みてこれを見る。まことに今日こんにちの軍の花は、ただこれに不如とぞ見へたりける。




仁木(仁木頼章よりあき)・細川(細川清氏きようぢ)・武蔵守(高師直もろなほ)の手の中に、手柄を上げ名を知られた兵は多くいましたが、何を思ったか、互いに目を配って我がこれに駆け合って勝負をしようと申し出る者はいませんでしたが、丹党([武蔵七党の一])の阿保肥後守忠実という兵が、連銭葦毛([葦毛に灰色の丸い斑点のまじっているもの])馬に厚総懸けて、唐綾威の鎧に竜頭の兜([前立に龍の飾りを付けたもの])の緒を締め、四尺六寸の貝鎬([刀剣のしのぎ=棟と刃との中間で鍔元つばもとから切っ先までのりようを高くした所。が角立たないで、普通よりは 少し丸みのあるもの])の太刀を抜いて、鞘を川へ投げ入れ、三尺二寸の豹の皮の尻鞘([雨露を防ぐために、太刀の鞘をおおう毛皮製の袋])をを懸けた黄金作り([金めっきや金銅などで装飾したもの])の小太刀を佩き添えて、ただ一騎大勢の中より駆け出ると、「聞き馴れぬことを申す秋山殿かな。これは執事(高師直)の身内に阿保肥前守忠実と申す者よ。幼稚の昔より東国に居住して、明け暮れは山野の獣を追い、江河([川])の鱗([魚])を獲って業いをしておった、張良(始皇帝暗殺を企図したが失敗。後、黄石公から太公望の兵法書を授けられ、漢の高祖=劉邦。を助けて秦を滅ぼし、漢の建国に尽くした)の一巻の書も呉子([春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一])・孫子([武経七書の一。孫武の作とされる])が伝えるところも、その名さえ聞かず。けれども変化時に応じて敵に向かう者こそ、勇士であると悟り、元弘建武以後三百余箇度の合戦に、敵を退け味方を助け、強きを破り堅きを砕くことその数を知らぬ。素引き([弓に矢をつがえず、弦だけを引くこと])の精兵([強弓の兵])、畑水練([実際の役には立たないこと])の言葉に恐れる者はおるまい。この忠実の手柄のほどを見てから、そのような広言([大口])を吐かれよ」と高らかに叫んで、ゆっくりと馬をぞ歩ませました。両陣の兵はあれを見よと、軍を止めて手を握り締めました。数万の見物衆は、戦場にも関わらず走り寄って、固唾を呑んで見守りました。まこと今日の軍の華は、ただこれにしかずと見えました。


続く


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by santalab | 2016-10-26 07:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍上洛事付阿保秋山河原軍事(その3)

桃井もものゐは八幡の勢の攻め寄せんずるほどを待つて、わざと事を延ばさんとす。互ひに勇気を励ますほどに、あるひは五騎十騎じつき馬を懸け据ゑ懸けまはし、駆け引き自在に当たらんと、馬を乗り浮かぶるもあり。あるひは母衣袋ほろふくろより母衣取り出だして、ここを先途の戦と思へる気色顕はれて、最後と出で立つ人もあり。斯かる処に、桃井が扇一揆の中より、たけ七尺許りなる男の、髭黒に血眼ちまなこなるが、火威ひをどしの鎧に五枚兜のめ、鍬形くはがたの間に、くれなゐの扇の月日出したるを不残開て夕陽せきやう耀かかやかし、かしの木の棒の一丈いちぢやう余りに見へたるを、八角にけづつて両方に石突き入れ、右の小脇に引きそばめて、白瓦毛しろかはらけなる馬の太くたくましきに、白泡噛ませて、ただ一騎河原面かはらおもてに進み出でて、高声に申しけるは、「戦場せんぢやうに臨む人毎に、討ち死にを不志云ふ者なし。然れども今日の合戦には、それがし殊更死をかろんじて、日来の広言くわうげんをげにもと人に云はれんと存ずるなり。その名人に知らるべき身にても候はぬ間、余りに事々しき様に候へども、名字をまうすにて候ふなり。これは清和源氏の後胤こういんに、秋山新蔵人しんくらんど光政みつまさと申す者候ふ。出王氏雖不遠、已に武略の家に生まれて、数代ただ弓箭きゆうせんつて、名を高くせん事を存ぜし間、幼稚えうちの昔より長年ちやうねんの今に至るまで、兵法をもてあそたしなむ事隙なし。ただし黄石公くわうせきこう子房しばうさづけし所は、天下の為にして、匹夫の勇に非ざれば、我未だ学ばず、鞍馬の奥僧正そうじやうが谷にて愛宕あたご高雄たかをの天狗どもが、九郎判官義経に授けし所の兵法に於いては、光政これを不残伝へ得たる処なり。仁木につき細河ほそかは高家かうけの御中に、我と思はん人々名乗つてこれへ御出で候へ。声花やかなる打ち物して見物の衆のねぶり醒まさん」と呼ばはつて、いきほひ当たりをはらうて西頭にしがしらに馬をぞ控へたる。




桃井(桃井直常ただつね)は八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の勢が攻め寄せるのを待って、わざと軍を延引しようとしました。互いに勇気を励まして、あるいは五騎十騎馬を駆け据え駆け廻し、駆け引き自在に当たろうと、馬を乗り浮かぶ([落ち着かない])者もいました。あるいは母衣袋より母衣([矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもの])を取り出して、ここを先途([勝敗・運命などの大事な分かれ目])の戦と思う気色を現じて、最後と出で立つ者もありました。そこに、桃井(直常)の扇一揆の中より、丈七尺ばかりで、髭黒([黒々と髭が生えていること])に血眼の男が、緋威の鎧に五枚兜の緒を締め、鍬形([兜の前立])の間に、月日を描いた紅の扇を大きく開いて夕陽に輝かせ、一丈に余る樫の木の棒を、八角に削って両端に石突き([杖・傘・ ピッケルなどの、地面を突く部分。また、そこにはめた金具])を入れ、右の小脇に挟んで、白瓦毛の馬の太くたくましきに、白泡を噛ませて、ただ一騎河原面に進み出て、高声に申すには、「戦場に臨む人毎に、討ち死にを覚悟せぬ者はおるまい。けれども今日の合戦に、某は殊更死を軽んじて、日来の広言([あたりを憚らず大げさなことや偉そうなことを言うこと])を確かにと人に言われたいと思うておるのだ。名は人に知られる身でもない、あまりに仰々しいことではあるが、名字を申しておこう。我は清和源氏の後胤([子孫])、秋山新蔵人光政(秋山光政)と申す者よ。出自王氏に遠からずといえども、武略の家に生まれて、数代ただ弓箭([弓矢])を取って、高名を上げようと思い、幼稚の昔より長年の今に至るまで、隙なく兵法を学ぶ。ただし黄石公(秦代中国の隠士。張良に兵書を与えたという)が子房(張良)に授けたところは、天下の、匹夫の勇([深く考えず、ただ血気にはやるだけの勇気])にあらざれば、学んだことはない。鞍馬の奥僧正谷(現京都市左京区。牛若丸が武術を修行したと伝えられる地)で愛宕(現京都市右京区)・高雄(現京都市右京区)の天狗どもが、九郎判官義経(源義経)に授けた兵法は、この光政が残さず体得しておる。仁木・細川・高家の中に、我と思う人々は名乗って出て来られよ。声華やかに打ち合って見物の衆の睡りを醒ましてやろう」と叫びました、その勢いは当たりを払い西頭に馬を控えました。


続く


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by santalab | 2016-10-25 08:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍上洛事付阿保秋山河原軍事(その2)

将軍と宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどのは、一万余騎を一手ひとてに合はせ、大宮おほみやを上りに打ちとほり、二条にでうを東へ法勝寺ほつしようじの前に打ち出でんと、相図あひづを定めて寄せ給ふ。これは桃井もものゐ東山に陣を取つたりと聞こえければ、四条しでうより寄する勢に向かつて、「合戦は定めて川原かはらにてぞあらんずらん。御方いつはつて京中きやうぢゆうへ引き退かば、桃井定めて勝つに乗つて進まんか、その時道誉だうよ桃井が陣の後ろへけ出でて、不意に戦を致さば前後の大敵にさへぎられて、進退度を失はん時、将軍の大勢北白河きたしらかはへ懸け出でて、敵の後ろへ廻るほどならば、桃井武しと云ふとも引かではやはか戦ふと、はかりことを廻らす処なり」。如案中の手大宮おほみやにて旗を下ろして、すぐに四条川原しでうがはらへ懸け出でたれば、桃井は東山を後ろに当て賀茂河を前に堺うて、赤旗一揆・扇一揆・鈴付一揆・二千余騎を三所に控へて、射手をば面に進ませ、帖楯でふたて二三百帖にさんびやくでふ突き並べて、敵懸からばともに蒐かり合ふて、広みにて勝負を決せんと、しづまり返つて待ち懸けたり。両陣旗を上げて、鬨の声をば揚げたれども、寄せ手は搦め手の勢の相図を待つて未だ懸けず。




将軍(足利尊氏)と宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)は、一万余騎を一手に合わせ、大宮を上りに打ち通り、二条を東へ法勝寺(かつて現京都市左京区にあった寺院)の前に打ち出ようと、相図([あらかじめ決めた方法で相手に意思や事柄を知らせること。また、その方法や信号])を定めて寄せました。これは桃井(桃井直常ただつね)が東山に陣を取ったと聞こえたので、四条より寄する勢に向かって、「合戦はきっと川原であるであろう。味方が偽って京中へ引き退けば、桃井(直常)は必ずや勝つに乗って進むことでしょう、その時この道誉(佐々木道誉)が桃井の陣の後ろへ駆け出て、不意に戦をすれば敵は前後の大敵に遮られて、進退極まったところに、将軍の大勢が北白川(現京都府京都市左京区)へ駆け出て、敵の後ろを突けば、いくら桃井が武勇に秀れているとはいえ引かずに戦えるかと、謀を廻らしておるのだ」。案の通り中の手が大宮で旗を下ろして、すぐに四条河原に駆け出ると、桃井(直常)は東山を後ろに当て賀茂川を前にして、赤旗一揆・扇一揆・鈴付一揆・二千余騎を三所に控えて、射手を前に進ませ、帖楯([大型の楯])を二三百帖突き並べて、敵が懸かればともに懸かり合って、広みで勝負を決しようと、静まり返って待ち懸けました。両陣は旗を上げて、鬨の声を上げましたが、寄せ手は搦め手の勢の相図を待ってまだ駆け出しませんでした。


続く


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by santalab | 2016-10-24 07:39 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」将軍上洛事付阿保秋山河原軍事(その1)

義詮よしあきら心細く都を落ちて、桂河を打ち渡り、向日むかふの明神を南へ打ち過ぐさせ給はんとする処に、物集女もづめの前西のをかに当て、馬煙うまけぶりおびたたしく立て、勢の多少は未だ見ず、旗二三十流ひるがへして、小松原より懸け出でたり。義詮馬を控へて、「これはもし八幡より搦め手にまはる敵にてやあらん」とて、先づ人を見せに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵のかみ師直もろなほ山陽道せんやうだうの勢を駆り具し、二万余騎を率して上洛しやうらくし給ふにてぞありける。義詮を始め奉て、諸軍勢に至るまで、ただ窮子くうしの他国より帰つて、父の長者に逢へるが如く、悦び合ふ事限りなし。さらばやがて取つて返して洛中へ打ち寄せ、桃井もものゐを責め落とせと、将軍父子の御勢都合つがふ二万余騎を桂川より三手に分けて、大手は武蔵の守を大将として、仁木につき兵部ひやうぶの大輔頼章よりあきら・舎弟右馬のごんの助義長よしなが細河ほそかは阿波あは将監しやうげん清氏きようぢ・今河駿河の守、五千余騎四条しでうを東へ押し寄する。佐々木の佐渡の判官入道はうぐわんにふだうは、手勢七百余騎を引き分けて、東寺の前を東へ打ちとほりて、今比叡の辺に控へ、大手の合戦半ばならん時、思ひも寄らぬ方より、敵の後うしろけ出でんと、旗竿はたざをを引きそば笠符かさじるしを巻き隠し、東山へ打ち上る。




義詮(足利義詮。足利尊氏の嫡男)は心細く都を落ちて、桂川を打ち渡り、向日明神(現京都府向日市にある向日神社)を南へ打ち過ぎようとするところに、物集女(現京都府向日市)の前西の岡に当て、馬煙をもうもうと立てて、勢の多少は分かりませんでしたが、旗を二三十流翻して、小松原より駆け出て来ました。義詮は馬を控えて、「これはもしや八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)より搦め手に廻る敵ではないか」と申して、まず人を見せに遣らせると、八幡の敵ではなく、将軍(足利尊氏)と武蔵守師直(高師直)が、山陽道の勢を集め、二万余騎を率して上洛したのでした。義詮をはじめ、諸軍勢にいたるまで、まるで窮子(衆生)が他国より帰り、父の長者(仏)に逢う如く(「長者窮子」=「長者とは仏で、窮子とは衆生であり、仏の様々な化導によって、一切の衆生はみな仏の子であることを自覚し、成仏することができるということを表しているらしい」)、よろこび合うこと限りありませんでした。ならばすぐに取って返して洛中へ打ち寄せ、桃井(桃井直常ただつね)を攻め落とせと、将軍父子の勢都合二万余騎を桂川より三手に分けて、大手は武蔵守(高師直)を大将として、仁木兵部太輔頼章(仁木頼章)・舎弟右馬権助義長(仁木義長)・細川阿波将監清氏(細川清氏)・今川駿河守(今川範氏のりうぢ)は、五千余騎で四条を東へ押し寄せました。佐々木佐渡判官入道(佐々木道誉だうよ)は、手勢七百余騎を引き分けて、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)の前を東へ打ち通って、今比叡(現京都市下京区にある佛光寺。当時現京都市東山区にあった)の辺に控え、大手の合戦半ばになろうとする時、思いも寄らぬ方より、敵の後ろに駆け出そうと、旗竿を巻き笠符を隠して、東山(現京都市東山区)へ打ち上りました。


続く


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by santalab | 2016-10-23 09:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」松岡の城周章の事(その4)

直頼なほよりつくづくと父の遺訓ゆゐきんを聞きて、扇取りなほして申しけるは、「人の幼少えうせうほどとまうすは、五つやつないし十歳に足らぬ時にてこそ候へ。我已に善悪を悟るほどに成つて、たまたまこの座に在り合ひながら、御自害を見捨てて一人故郷こきやうへ帰つては、誰をか父と憑み、誰にか面を向かふべき。また僧に成つたらば、沙弥しやみ喝食かつしきに指を指され、聖道しやうだうに成つたらば、ちごどもに被笑ずと云ふ事不可有。たとひまたいかなる果報くわはうあつて、後の栄花えいぐわを開き候ふとも、をくまゐらせては、永らふべき心地もせず。色代しきだいは時に依る事にて候ふ。腹切りの最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先づ飲みて思ひざし申さん」とて、前なる盃を少し取りかたぶくるていにて、糟谷かすや新左衛門しんざゑもんじよう保連やすつらに差し給へば、三度飲みて、糟谷新左衛門の尉伊朝これとも・奥次郎左衛門の尉・岡本をかもと次郎左衛門じらうざゑもん・中山の助五郎すけごらう、次第に飲み下し、無明むみやうの酒の酔ひの中に、近付く命ぞ哀れなる。




直頼(赤松直頼)はじっくり父の遺訓を聞いて、扇を取り直して申すには、「人の幼少と申すのは、五つや六つないし十歳に足らぬ時のことでございます。わたしはすでに善悪を悟るほどになっております、たまたまこの座にありながら、自害を見捨てて一人故郷へ帰って、誰を父と頼み、誰に顔を合わせるというのです。また僧になったならば、沙弥([出家はしたが、まだ具足戒を受けず、出家修行者である比丘になる以前の少年])喝食([禅寺で食事をする時、食事の種別や進め方を僧たちに告げながら給仕する未得度の者])に指を指され、聖道([法相・三論・天台・真言宗などの聖道門の僧])になったなら、稚児どもに笑われないことがありましょうか。たとえまたどのような果報があって、後の栄華を開くとも、後れ参らせては、永らえる心地もありません。色代([儀礼])も時によるものです。腹切りの最後の盃の席で、いったい誰に論じておられるのか。わたしが最初に飲んで思い差し([この人と思う人に杯を差すこと])いたしましょう」と申して、前の盃を少し取り傾ける真似をして、糟谷新左衛門尉保連(糟谷保連)に差すと、三度飲んで、糟谷新左衛門尉伊朝(櫛橋伊朝)・奥次郎左衛門尉・岡本次郎左衛門・中山助五郎が、順に飲み下し、無明([迷い])の酒の酔いのうちに、近付く命は哀れなものでした。


続く


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by santalab | 2016-10-22 09:08 | 太平記 | Comments(0)

    

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