Santa Lab's Blog


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「太平記」大元軍事(その11)

敵を討つ手立て如此したためて、帝師重ねて老翁に向かつて申しけるは、「汝先づ帝都に上り怪しげなるていにて宮中を伺ひ見るべし。去るほどならば、宮門を守るつはものども汝を捕へて嗷問がうもんすべし。たとひ水火の責めに逢ふとも、暫くは勿落事。倒懸たうけん身を苦しめ炮烙はうらく骨を砕く時に至つて、我は伯顔将軍・賈丞相かしようじやうらが使ひとして、謀反与力のつはものどもに事の子細を相触あひふれん為に、帝都に赴きたる由を白状はくじやうして、そのしるしこれなりとて、くだんの身の中に隠しける書を可取出」とぞ教へける。かの老翁已に三千両の金に身を売りし上は、命を非可惜、帝師がをしへのままに謀反催促の状を数十通すじつつう身の肉をいて中にをさめ、帝都の宮門へぞ赴きける。忽ち身を車裂きにせられ骨をひしほにせらるべきをも不顧、千金に身を替へて五刑に趣く、人の親の子を思ふ道こそ哀れなれ。




敵を討つ手立てをこう書き記して、帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)は重ねて老翁に向かって申すには、「お前はまず帝都に上り怪しげな宮中を覗き見せよ。そうすれば、宮門を守る兵どもがお前を捕えて拷問するであろう。たとえ水火の責めを受けるとも、しばらくは何も言うな。倒懸([人の手足を縛ってさかさまにつるすこと。また、非常な苦しみのたとえ])が身を苦しめ炮烙([中国の伝承的な刑罰の一。 猛火の上に多量の油を塗った銅製の丸太を渡し 、その熱された丸太のうえを罪人に裸足で渡らせ、渡りきれば免罪とするというもの])が骨を砕く時に至って、我は伯顔将軍(バヤン。モンゴル帝国の将軍で、南宋討伐軍の総司令官。南宋方ではない)・賈丞相(賈似道かじだう。南宋末期の軍人、政治家)らの使いとして、謀反与力の兵どもに事の子細を知らせるために、帝都に来たと白状して、その験がこれだと、身の中に隠した書を取り出せ」と教えました。老翁はすでに三千両の金に身を売った上は、命を惜しまず、帝師の教えのままに謀反催促の状を数十通身の肉を割いて中に収め、帝都(南宋の首都は臨安=現杭州)の宮門に赴きました。たちまち身を車裂きされ骨を醢([塩漬け肉])にされるのも顧みず、千金に身を替えて五刑([古代中国の刑罰体系])に赴く、人の親が子を思う理は哀れでした。


続く


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by santalab | 2016-11-30 07:30 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その10)

帝師使者の語るを聞きて、今はかうと思ひければ、三千両の金に身を売りたりつる老翁を呼びて、かれがももの肉を切り裂いて、呂文煥りよぶんくわん・伯顔将軍・賈丞相かしようじやう三人が手迹しゆせきを学びて返逆籌策ほんぎやくちうさくの文を書き、かれが骨のあはひをさめて疵をいやしてぞ持たせける。その文に書きけるは、「我ら已に大元の軍に打ち勝つて士卒の付き従ふ事数を不知。天已に時を与へたり。不取却つてわざはひあるべし。然れば早く士を引き約を成して帝都に赴かんと欲す。もし亡国の暗君を捨てて有道いうだうの義臣に与みせんとならば、ほこさかしまにするはかりことを可致」と書きて、宮中の警固に残し留められたる国々の兵の方へぞ遣はしける。




帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)は使者が語るのを聞いて、策を廻らせました、三千両の金で身を売った老翁を呼んで、老翁の腿の肉を切り裂いて、呂文煥(南宋末期の軍人)・伯顔将軍(バヤン。モンゴル帝国の将軍で、南宋討伐軍の総司令官)・賈丞相(賈似道かじだう。南宋末期の軍人、政治家)三人の筆跡を真似て返逆の籌策([計略])の文を書き、老翁の骨の間に収めて疵を愈して持たせました。その文に書かれていたのは、「我らは大元の軍に打ち勝って士卒の付き従う数を知らず。天はすでに時を与えた。取らずばかえって禍いとなろう。なればすぐさま兵を率い約を成して帝都に向かおうと思う。もし亡国(南宋)の暗君を捨てて有道([正しい道にかなっていること])の義臣に加わるならば、自国に戈を向ける謀を致すべし」と書いて、宮中の警固に残し留められた国々の兵の方に遣わしました。


続く


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by santalab | 2016-11-29 07:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その9)

帝師重ねて問うて云はく、「父老のことばを聞くに、三人の子ども飢ゑて、公が百年の命已に迫れり。我三千両の金を持ちたり。願はくはこれを以つて父老の身を買はん。父老何ぞても無幾程老後の身を売りて、行末遥かなる子孫の富貴ふつきを不欲せや」と問ふに、老翁眉を揚げ面をたれて、「まことに公の言の如く、我に三千両の金を被与、我あに三子の飢ゑを助けて無幾程命を不捨や」とぞ悦びける。「さらば」とて、帝師すなはち老翁の身を三千両の金に買ひ、大元へ帰りて後、先づ使者を宋国の帝都へ遣はして、今度楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯に誇れりと聞こゆる上将軍じやうしやうぐん伯顔丞相・呂文煥りよぶんくわんらが事を、都にいかが云ひ沙汰するとぞ伺ひ聞かせける。使者都に上つて家々にたたずみ、事のてい人の云ひ沙汰する趣き、よくよく伺ひ聞きて大元に帰り、帝師にむかひて語りけるは、「伯顔丞相・呂文煥ら大元の軍に打ち勝つて、武功身に余れり。天下の士これを重んずる事、上天のに超えたり。もしこの勢を以つて世をかたぶけんと思はば、ただ指掌よりも安かるべし。いにしへ安禄山あんろくさんが兵を引きて帝都ををかし奪ひしも、斯かる折節にてこそあれと、恐れ思はぬ人も候はず」とぞ語りける。




帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)重ねて訊ねて、「父老の話を聞くと、三人の子どもは飢えて、そなたの百年の命もいくばくということか。わたしは三千両の金を持っている。この金で父老の身を買いたいのだが。父老よいくほどなき老後の身を売って、行末遥かな子孫の富貴を願わないことがあろうか」と訊ねると、老翁眉を上げ(驚いた?)首を垂れて、「まことにそなたの言葉通り、わしに三千両の金を与えてくれるのなら、どうして三子の飢えを助けてそくばくの命を捨てぬことがあろうか」とよろこびました。帝師はすぐに老翁の身を三千両の金で買い、大元へ帰った後、まず使者を宋国の帝都(南宋の首都は臨安=現杭州)に遣わして、今度の楊子江の合戦に功あって、千戸万戸の侯に誇っていると聞こえる上将軍伯顔丞相(バヤン。モンゴル帝国の将軍で、南宋討伐軍の総司令官)・呂文煥(南宋末期の軍人)のことを、都ではどう言っているのか探らせました。使者は都に上って家々に佇み、話しぶり話の内容を、よくよく聞いてから大元に帰り、帝師に向かって語るには、「伯顔丞相・呂文煥らは大元の軍に打ち勝って、その武功は身に余るほどです。天下の兵はかれらを尊敬して、(かれらの威勢は)上天の威をも越えております。もしこの勢をもって世を傾けようと思えば、掌を指す([容易である様])よりも容易いことでしょう。昔安禄山(唐代の軍人。唐玄宗に対し安禄山の乱=安史の乱。を起こし大燕皇帝に即位した)が兵を率いて帝都を侵し奪ったのも、このような時ではなかったかと、恐れ思わぬ人はおりません」と話しました。


続く


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by santalab | 2016-11-28 08:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その8)

帝師すなはち形を変へ身をやつして大宋国へ越え、江南のいちに行きて、あはれ身まどしくして子多く持ちたる人もがなと伺ひ見る処に、年六十有余いうよなる翁の、一つの剣を売りて肉饅頭にくまんぢゆうを買ふあり。帝師問うていはく、「剣を売りて牛を買ふはをさまれる世の備へなり。牛を売りて剣を買ふは乱れたる時の事なり。父老ふらう今剣を売つて饅頭を買ふ。その用何事ぞや」。老翁答へていはく、「我かつて兵の凶器なる事を不知、若かりし時好んで兵書を学びき。智は性のたしなむ処に出づるものなれば、呉氏・孫氏が秘する処の道、尉潦うつれう李衛りゑいが難しとする処の術、一つを挙げて占へば、則ち三つをへんして悟りき。然れば乍坐三尺さんじやくの雄剣をひつさげて、立処に四海の乱ををさめん事、我に非ずはそやと、心を千戸万戸せんこばんこの侯に懸けて思ひしに、我さかんなりしほどは世をさまり国しづかなりし間、武に於いて用ゐられず、今天下まさに乱れて、剣士もつとも功を立つる時には、我已に老衰らうすゐしてその選びに不当、久しくこの江南の市のほとりに旅宿して、わづかに三人の男子をまうけたり。相如しやうじよが破壁風さぶくして夜の衣短く、劉仲りうちゆう乾鍋かんくわたきぎ尽きて朝のざん空し。ただ老驥らうきの千里を思ふ心未だ屈せざれども、飢鷹きおうの一呼を待つ身と成りぬ。ゆゑにこの剣を売りて三子の飢ゑをたすけんと欲するなり」とくはしく身のうへつかれを侘びて涙を流してぞ立つたりける。




帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)はすぎに姿を変え身を窶して大宋国(南宋)へ越え、江南(現南京市)の市に行って、身は貧しくして子を多く持つ人はいないか探すところに、年六十有余なる翁が、一本の剣を売って肉饅頭を買っていました。帝師は訊ねて、「剣を売って牛を買うのは治世の備えのためである。牛を売って剣を買うのは乱世の時のこと。父老よ剣を売って饅頭を買っておったな。どうしてなのか」。老翁は答えて、「わしは兵が恐ろしいものとは知らず、若い頃は好んで兵書を学んでおった。好きこそ物の上手なれと申して、呉子・孫子が秘するところの道、尉潦(中国戦国時代の人らしい)・李衛(李靖りせい。中国唐代に太宗に仕えた軍人・政治家)が困難とするところの術も、一々に見極めれば、たちまち三つを悟ったものじゃ。じゃから仕事もせずただ三尺の雄剣を引っ提げて、たちまちに四海([国内])の乱を鎮めるのは、わしを置いて他におるものかと、心を千戸万戸の侯に懸けておったが、わしが若かりし頃は世は治まり国は静まっておったので、武として用いられることはなかったのじゃ、今天下はまさに乱れて、剣士がもっとも功を立てる時には、わしはすでに老衰して選ばれず、久しくこの江南の市の上に旅宿して、わずかに三人の男子を儲けた。相如(司馬相如。中国前漢頃の文章家。相如は若い頃、非常に生活に困り、家はただ四方の壁しかなかったという。後に武帝に重用された。『相如四壁』)の破壁に風寒くして夜の衣は短く、劉仲は乾鍋([四川料理で、唐辛子や花椒を利かせ、辛く味付けした汁気のない鍋料理])の薪が尽きて朝飯が食べられなかったという。老驥が千里を思う心(『老驥櫪に伏するも志は千里にあり』=[駿馬は年老いて馬屋につながれていても、なお千里を走ろうという気持ちを失わない])をいまだ失ってはおらぬが、飢鷹が一呼([人の言動に応じること])を待つ身となってしもうた。だからこの剣を売って三子の飢えを助けようと思うたのじゃよ」と詳しく身の衰えを悲しんで涙を流しました。


続く


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by santalab | 2016-11-27 09:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その7)

大元の王は、多日の粉骨いたづらに一時の籌策ちうさくに被破、大軍未だ帝都の戦を不致さきに三百万人まで亡びければ、この事今は叶ふまじかりけりと、気を屈して黙止もだされける処に、西蕃せいばんの帝師大元の王に謁してまうしけるは、「大器は遅くなるといへり。大元国の天下あに大器に非ずや。また機巧きかう大真たいしんに非ず。成る事は微々にして破るる事は大なり。今宋国の節度使らが武略のていを聞くに、死を善道ぜんだうに守り命を義路にかろんずるに非ず、ただ尺寸せきすんはかりことを以つて大功の成らん事を意とするものなり。宋国の臣独り智あつて元朝げんてうの人皆愚かならんや。我今謀を廻らさば勝つ事を一戦の前に得つべし。君ますます心ざしを天下の草創さうさうに懸け給へ。臣すべからく以智謀、大宋国の四百州を一日の中に可傾」と申しければ、大元の王大きに悦びて、「公が謀を以つて我もし大宋国を得ば、必ず公を上天の下、一人いちじんの上にたつとんで、代々帝王の師と可仰」とぞ被約ける。




大元の王(大元の初代皇帝、クビライ)は、多日の粉骨も空しく一時の籌策([謀略])に破られて、大軍がいまだ帝都の戦を致さぬ前に三百万人まで亡びたので、大宋国を亡ぼすことは叶わないと、意気消沈して手をこまねいていましたが、西蕃(チベット)の帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)が大元王に謁見して申すには、「大器晩成と申します。大元国の天下は大器ではございませんか。また機巧([いろいろ工夫や才知をめぐらすこと])は小手先の技に過ぎません。大した成果をなさず大抵は破られるものです。宋国の節度使らの武略を聞くに、死を善道に守り命を義路に軽んずるものではありません、ただ尺寸の謀をもって大功を得ようとしているのです。宋国(南宋)の臣だけに智があり元朝の人は皆愚かなのでしょうか。わたしが今謀を廻らせば勝つことを一戦の前に得ることができましょう。君はますます心ざしを天下の草創([物事の始まり])に向けられますよう。必ずや臣の智謀をもって、大宋国の四百州を一日の内に傾けましょう」と申したので、大元王はたいそうよろこんで、「公の謀をもって我がもし大宋国を得たならば、必ず公を上天([天上])の下、一人([天子])の上に貴び、代々帝王の師と仰ごう」と確約しました。


続く


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by santalab | 2016-11-26 08:47 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その6)

木偶人もくぐうにんまことの兵ならねば、敵責め入れども防ぐ者なし。大元三百万騎のつはものども、勇み進んで二つともなき木戸より城の中へ込み入り、あるひはいつはりて棄て置きたる財宝を争うて奪ひ合ひ、あるひはたばかつて立て置きたる木人もくにんに向かつて、剣をとりひしほこを靡かす処に、三万余家よか作り双べたる城中じやうちゆうの家々より同時に火燃え出でて、煙満城にほのほ四方しはうに盛んなり。大元の兵ども屏を上り超えて火に遁れんとすれば、可取付便りもなく橋もなし。責め入りつる木戸より出でんとするにけぶりに目暮れて胆迷うていづくをその方とも不覚、ただ猛火みやうくわの中に走り倒れて、大元の兵三百万人は皆焼け死ににけり。




木偶人は本当の兵ではありませんので、敵が攻め入っても防ぐ者はいませんでした。大元の三百万騎の兵どもは、勇み進んで二つともなき木戸より城の中へ込み入り、あるいは偽って捨て置いた財宝を争って奪い合い、あるいは謀って立て置いた木人に向かって、剣を振り下ろし鉾を払うところに、三万余家作り並べた城中の家々より同時に火が燃え出て、煙は城に充満し炎は四方に燃え上がりました。大元の兵どもは塀を上り越えて火から逃れようとしましたが、取り付くところもなく橋もありませんでした。攻め入った木戸より出ようとするにも煙に目が暮れ思い惑ってその方も知れず、ただ猛火の中に走り倒れて、大元の兵三百万人は皆焼け死にました。


続く


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by santalab | 2016-11-25 07:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その5)

去るほどに三百余箇所の浮橋を已に渡し済ましてければ、大元の兵三百万騎争ひすすんで橋を渡る。伯顔丞相兼ねてたばかりたる事なれば、矢軍ちとする真似して、暫くも不支引きて行く。大元の兵勝つに乗つて、逃ぐるを追ふ事甚だ急なり。宋国の兵なほもいつはりて引くていを敵にすゐせられじと、楯・ほこ・鎧・兜を取り捨て、堀りみぞに馬を乗り棄てて我先にと逃げ走る。これをたばかりとも不知ける羽衛うゑ斥候せきこうの兵、いたづらに命をかろんじて討ち死にするも多かりけり。日已に暮れければ、宋国の兵城へ引き篭もる真似をして後ろなる深山みやまへ隠れぬ。大元の兵は敵の疲れたるつひえに乗つて、すなはちこれを討たんと城のきはまでぞ攻めたりける。旗を進めほこを差し招きて、城を遥かに見上げたれば、櫓の上屏の陰に、兵袖を連ねて並居なみゐたりとは見へながら、鬨の声も幽かに、射出す矢楯をだにも不徹。大元の将軍これを見て、人形の木偶人もくぐうにんどもにまことの人が少々相交あひまじはりて防ぐ真似するとは思ひ不寄。「敵は今朝の軍に遠引とほびきして気疲れいきほひ尽き果てけるぞ。時を暫くも不可捨。攻めよやつはものども」と諌め罵つて、責めつづみを打つて楯を進めければ、城中じやうちゆうに少々残し置かれたる兵ども、暫くあつて火の燃え出づる様に、家々に火を懸けて、抜け穴より逃げ去りける。




やがて三百余箇所の浮橋をすでに渡し終わると、大元の兵三百万騎は争い進んで橋を渡りました。伯顔丞相(バヤン。モンゴル帝国の将軍で、南宋討伐軍の総司令官。南宋方ではない)はあらかじめ計略を廻らしていましたので、矢軍を少々する真似をして、しばらくも支えず引きました。大元の兵は勝つに乗って、逃げる兵を急ぎ追いました。宋国の兵はなおも偽って引く真似を敵に悟られまいと、楯・鉾・鎧・兜を取り捨て、堀り溝に馬を乗り捨てて我先にと逃げ走りました。これを謀略とも知らぬ羽衛(羽林=前漢に設立された皇帝直属の部隊名。の衛兵)斥候([本隊の移動に先駆けてその前衛に配置された兵])の兵は、無駄に命を軽んじて討ち死にする者も多くいました。日が暮れると、宋国の兵は城に引き籠もる振りをして後ろの深山に隠れました。大元の兵は敵が疲れた隙を突いて、たちまちこれを討とうと城の際まで攻めました。旗を進め鉾を差し出して、城を遥かに見上げると、櫓の上塀の陰に、兵が袖を連ねて並んでいましたが、鬨の声もわずかに、射る矢は楯に刺さりませんでした。大元の将軍はこれを見て、まさか人形の木偶人([人形])どもにまことの人が少々混じって防ぐ真似をしているとは思いもしませんでした。「敵は今朝の軍に遠引きして気疲れし勢いは尽き果てておるだろう。時をしばらくも無駄にするでない。攻めよや兵ども」と諌め罵って、攻め皷を打って楯を進めると、城中に少々残し置かれたる兵どもは、しばらくして火が燃え出たように、家々に火を懸けて、抜け穴より逃げ去りました。


続く


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by santalab | 2016-11-24 07:30 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その4)

大宋国たいそうこくの幼帝この事を聞き給ひて、「さらば討つ手を差し下せ」とて、伯顔丞相はくがんじようしやう上将軍じやうしやうぐんとして百万騎、襄陽じやうやうしゆ呂文煥りよぶんくわん将将軍として三十万騎さんじふまんぎ、大金の賈似道かじたう賈平相かへいしやう兄弟を副将軍として、六十万騎を差し下さる。三軍の兵三百万騎、江南かうなんに打ち臨み、夜を日に継いで、楊子江を前に見下ろして、三箇所に陣をぞ取つたりける。中にも伯顔丞相一陣に進みて、楊子江の南に控へたりけるが、大元のつはものどもの浮橋を懸け陣を張りたるていを見て、はかりことを廻らして不戦勝つ事を難得しと思ひければ、今の陣より六十里ろくじふり後ろに高くけはしき山を城にこしらへて、四方しはうの屏をいかに打ち破るとも無左右破られぬ様に高く塗らせて、内に数千間の家を透間もなく作り並べ、櫓の上矢間やまの陰に、人形を数千万すせんまん立て置きて、あるひはほこを差し招きやいばを交じへあるひは大皷を打ち弓を引きて、戦を致さんとする様に、風を以つて料理しつらひ、水を以つて操りて、岩を切つたる細道に、ただ木戸一つ開きて、内にまことの兵を二百余人留め置き、「敵城へ寄せば暫し戦ふ真似をして防ぎ兼ねたる体を見せよ。敵勝つに乗つて城中じやうちゆうへ責め入らば敵を皆内へ帯びき入れて後、同時に数千の家々に火を懸けて、己が身許り隠して、堀つたる土の穴より遁れ出て敵を皆可焼殺」とぞはかりける。




大宋国の幼帝(南宋最後の第九代皇帝、祥興帝=衛王)はこの事を聞いて、「ならば討っ手を下せ」と申して、伯顔丞相(バヤン。モンゴル帝国の将軍で、南宋討伐軍の総司令官。南宋方ではない)を上将として百万騎、襄陽守呂文煥(南宋末期の軍人)を裨将将軍として三十万騎、大金の賈似道(南宋末期の軍人、政治家)・賈平相兄弟を副将軍として、六十万騎を差し下しました。三軍の兵三百万騎が、江南に打ち臨み、夜を日に継いで、楊子江を前に見下ろして、三箇所に陣を取りました。中でも伯顔丞相は一陣に進んで、楊子江の南に控えましたが、大元の兵どもが浮橋を懸け陣を張る様子を見て、謀を廻らして戦わずに勝つことは難しいと思い、今の陣より六十里後ろに高く険しい山を城に拵えて、四方の塀をいかに打ち破るとも容易く破られぬように高く塗らせて、内には数千間の家を隙間なく作り並べ、櫓の上矢間([矢狭間]=[城の塀や櫓・軍船の胴壁などに設けた、中から矢を射るための穴])の陰に、人形を数千万立て置いて、あるいは鉾を突き出し刃を向けあるいは大皷を打ち弓を引いて、戦をするかの如く、風をもって動くように飾り付け、水をもって操り、岩を切り立てた細道に、ただ木戸一つ開いて、内に本当の兵を二百余人留め置き、「敵が城に攻めて来ればしばらく戦う真似をして防ぎかねる姿を見せよ。敵が勝つに乗って城中に攻め入れば敵を皆内へ帯びき入れた後、同時に数千の家々に火を懸けて、己が身を隠して、堀った土の穴より逃れ出て敵を皆焼き殺せ」と謀略を立てました。


続く


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by santalab | 2016-11-23 09:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その3)

老皇帝らうくわうてい夢醒めて後心更に悦ばず、大きに不吉なる夢なりと思ひ給ひければ、つとに起きて西蕃せいばんの帝師この夢を語り給ふ。帝師これを聞いて心の中に夢を占うていはく、「羊と云ふ文字は八点に王を書いて懸け針を余せり。八点はつのなり、懸け針はなり。羊二つの角と一つの尾を失はば王と云ふ字になるべし。これ老皇帝大元宋国高麗かうらいの国を合はせ保つて天下に主たるべき瑞相ずゐさうなり。また宋朝の幼帝獅子に成つて闘ひ忿いかると見へけるも、自滅のさうなり。獅子の身中に毒虫ありて必ずその身を食ひ殺す。如何様幼帝の官軍くわんぐんの中に二心ある者出で来て、ほこさかしまにする事あるべし」と占ふ。夢のことわり明らかに両方の吉凶を心に勘へければ、「これおほいなる吉夢きつむなり。時を不易兵を召されて宋国を可被攻」とぞ、帝師勧め申されける。老皇帝は元より帝師が才智を信じて、万事をこれがまうままに用ひ給ひければ、重ねて吉凶の故をたづね問ふまでに不及、大元七百州の兵三百万騎の勢をもよほして、楊子江の北のほとりに打ち臨み、河の面三百余箇所に浮橋を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。




老皇帝(大元の初代皇帝、クビライ)は夢から醒めてよろこびはなく、とても不吉な夢と思い、すぐに起きて西蕃の帝師(パクパ。チベット仏教サキャ派の座主)にこの夢を語りました。帝師はこれを聞いて心の中で夢を占って申すには、「羊という文字は八の字に王を書いて懸け針を付けた形をしております。八点は角です、懸け針は尾です。羊が二つの角と一つの尾を失えば王という字になります。これは老皇帝が大元宋国高麗の国を合わせ保って天下の主となる瑞相です。また宋朝の幼帝(南宋最後の第九代皇帝、祥興帝=衛王)獅子になって戦い怒ると見えたのも、自滅の相です。獅子の身中には毒虫がいて必ずその身を食い殺すといいます。きっと幼帝の官軍の中に二心ある者が出て来て、味方に鉾を向けることでしょう」と占いました。夢の理を明らかにし両方の吉凶を心に導いて、「これはとてもよい吉夢です。時を移さず兵を召されて宋国を攻めるべきです」と、帝師は勧め申しました。老皇帝は元より帝師の才智を信じて、万事を帝師の申すままに用いたので、重ねて吉凶の故を尋ね問うまでに及ばず、大元七百州の兵三百万騎の勢を集めて、楊子江の北の畔に打ち臨み、河の面三百余箇所に浮橋を渡し、同時に兵を渡す支度をしました。


続く


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by santalab | 2016-11-22 07:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大元軍事(その2)

その草創さうさうの依れるところを尋ぬれば、宋朝そうてう世ををさめてすでに三十七代、その亡びし時の帝をば幼帝えうていとぞ申しける。この時大元の国主老こくしゆらう皇帝くわうてい、その頃は未だ吐蕃とばんの諸侯にてありけるが、あはれいかにもして宋朝四百州・雲南万里・高麗かうらい三韓に至るまで不残これを打ち取らばやと思ふ心、骨髄こつずゐに入つて止む時なし。ある時かの老皇帝らうくわうていこの事を天にあふぎ、少し目睡まどろみ給ひける夢に、「宋朝の幼帝と大元の老皇帝と楊子江やうすがうを隔てて陣を張りて相対あひたいする事日久し。時に楊子江、にはかに水陸地くがぢとなる。両陣の兵すでに相近付あひちかづきて戦はんとする処に、幼帝はその身して勇猛忿迅ゆうまうふんじんの獅子となり、老皇帝は形俄かに変じて白色柔和はくしきにうわの羊となる。両方の兵これを見て、弓を伏せほこを棄てて、「天下の勝負はただこの獅子と羊との戦ひに可在」と伺ひ見る処に、羊獅子の忿いかれる形におそれて忽ちに地に倒る。時に羊二つの角と一つの尾骨を突き折つて、天に登りぬ」とぞ見給ひける。




その草創([物事の始まり])を尋ぬれば、宋朝が世を治めてすでに三十七代(北宋、南宋含めて十八代か?)、宋が亡んだ時の帝を幼帝(南宋最後の第九代皇帝、祥興帝=衛王)といいました。この時大元国の主老皇帝(大元の初代皇帝、クビライ)は、その頃はまだ吐蕃(チベット)の諸侯でしたが、なんとしても宋朝四百州・雲南万里(現中国西南部)・高麗三韓(朝鮮半島)に至るまで残さずこれを打ち取りたいと思う気持ちは、深く止むことはありませんでした。ある時老皇帝はこの事を天に仰ぎ、少し目睡んだ夢に、「宋朝の幼帝と大元の老皇帝が楊子江を隔てて陣を張って相対して日数を経ました。時に楊子江は、にわかに水が引いて陸地となりました。両陣の兵が近付いて戦おうとすると、幼帝はその身を変えて勇猛忿迅(忿迅=激しく怒れる)の獅子となり、老皇帝は姿をたちまち変えて白色柔和([柔和]=[性格や性質などが穏やかな様])の羊となりました。両方の兵はこれを見て、弓を伏せ鉾を捨てて、「天下の勝負はただこの獅子と羊との戦いで決するであろう」と見ていましたが、羊は獅子の怒れる姿に恐れてたちまち地に倒れました。その時羊は二つの角と一つの尾骨を突き折って、天に上る」夢を見ました。


続く


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by santalab | 2016-11-21 07:53 | 太平記 | Comments(0)

    

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