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「太平記」尾張左衛門佐遁世事(その2)

左衛門さゑもんすけこれを聞いて、父をや恨みにけん、世を憂しとや思ひけん、密かに出家して、いづちともなく迷ひ出でにけり。付き随ふ郎従ども二百七十人、同時に皆もとどりを切つて、思ひ思ひにぞ失せにける。この人まことに父の所存をも破らず、我が身の得道をも願うて、出家遁世しぬる事たぐひ少なき発心なり。ただしこの頃の人の有様は、昨日は髻切つてまことにたつとげに見ゆるも、今日は頭を包みて、無慚無愧むざんむぎに振る舞ふ事のみ多ければ、この遁世もまた行く末通らぬ事にてやあらんずらんと思ひしに、つひに道心醒むる事なくして、果て給ひけるこそあり難けれ。




左衛門佐(斯波氏頼うぢより)はこれを聞いて、義父(斯波高経たかつね)への恨みか、それとも世の無情を思ってか、ひそかに出家して、どこへともなくいなくなってしまいました。付き従う郎従([家来])ども二百七十人も、同時に皆髻を切って、それぞれいなくなりました。この人は父の所存([考え])に背くことなく、我が身の得道([仏道を修行して悟りを開くこと])をも願い、出家遁世しましたが類いまれな発心でした。ただしこの頃の人の有様は、昨日は髻を切ってまこと貴げに見えても、今日は頭を包み隠して、無慚無愧([悪事を働いても、それを恥じることなく平気でいること])に振る舞うことが多くありましたので、この遁世もまた行く末どうなることかと思っていましたが、遂に道心を冷ますことなく、命を終えたことはりっぱなことでした。


続く


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by santalab | 2016-12-31 07:55 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」尾張左衛門佐遁世事(その1)

都には細川相摸のかみ敵になりし後は、執事と言ふ者なくして、毎事まいじ叶はざりける間、誰をかその職に置くべしと評定ありけるが、この頃時を得たる佐々木の佐渡の判官入道はうぐわんにふだう道誉だうよが聟たるに依つて、傍かたへの人々皆追従つゐしようにや申しけん、「尾張をはりの大夫たいふ入道にふだうの子息左衛門さゑもんすけ殿に、増したる人あらじ」と申しければ、宰相さいしやう中将ちゆうじやう殿も心中に異儀なくして、執事職を内々この人に定め給ひにけり。父の大夫入道にふだうは、元来ぐわんらい当腹たうふくの三男治部ぢぶ大輔たいふ義将よしまさを寵愛して、先腹の兄二人ににんを世に在らせて見んとも思はざりければ、左衛門の佐執事職に居るべき由を聞いて、様々の非を挙げて、種々のとがを立て、この者かつてその器用にあらざる由をぞ、宰相の中将殿へ申されける。中将殿も人の申すに付き安き人にておはしければ、「げにも子を見るに父に如かず。さらば当腹の三男をおもてに立てて、幼稚のほどは、父の大夫入道に、世務を執り行はさすべし」とのたまひける。




都では細川相摸守(細川清氏きようぢ)が敵(南朝方)になった後は、執事と呼ぶ者をなくして、事毎に差し支えを生じたので、誰かをその職に置くべきと評定がありました、この頃時を得ていた佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)の聟ということで、身近の人々が皆追従([人の意見に従うこと])して申したか、「尾張大夫入道(斯波高経たかつね)の子息左衛門佐殿(斯波氏頼うぢより)に、勝る人はおりません」と申したので、宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)も異儀なく、執事職を内々氏頼に定めました。父大夫入道は、元より当腹([今の妻の腹から生まれたこと])の三男治部大輔義将(斯波義将よしゆき)を寵愛して、先腹の兄二人(氏頼ともう一人は家長いえながだが、家長はすでに亡くなっている)を世間に認めさせようとは思っていなかったので、左衛門佐(氏頼)が執事職となると聞いて、様々の非を挙げ、種々の罪をでっち上げて、この者はまったくその器でないことを、宰相中将殿へ申しました。中将殿は人の申すことを容易く信じる人でしたので、「まこと子を知る者は父を置いていない。ならば当腹の三男(義将)を執事に立てて、義将が幼稚のほどは、父の大夫入道に、世務を執り行わさせよう」と申しました。


続く


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by santalab | 2016-12-30 08:54 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」可立大将事付漢楚立義帝事(その4)

その後より漢楚の軍は利あつて、秦の兵所々にて打ち負けしかば、秦の世つひに亡びにけり。これを以つて思ふに、故新田義貞よしさだ義助よしすけ兄弟は、先帝の股肱ここうの臣として、武功天下無双。その子息二人ににん義宗よしむね義治よしはるとて越前ゑちぜんの国にあり。共に武勇ぶようの道父に不劣、才智また世に不恥。この人々を召して竜顔りようがん咫尺しせきせしめ、武将に委任せられば、誰かその家をかろんじ、誰か旧功を継がざらん。これらを差し置いて、降参不儀の人を以つて大将とせられば、吉野の主上しゆしやう天下を被召事、千に一つも不可有。たとひ一旦軍に打ち勝たせ給ふ事あるとも、世はまた人の物とぞ思へたる。




その後より漢楚の軍が勝ち、秦の兵は所々で打ち負けて、秦の世は終に滅びました。これを思えば、故新田義貞・義助(脇屋義助)兄弟は、先帝(第九十六代、南朝初代後醍醐天皇)の股肱([主君の手足となって働く、最も頼りになる家来や部下])の臣として、武功は天下に並ぶ者はありませんでした。その子息二人義宗(新田義宗。新田義貞の三男)・義治(脇屋義治。脇屋義助の子)と申して越前国にいました。ともに武勇の道は父に劣らず、才智もまた世に恥じるものではありませんでした。この人々を召して竜顔に咫尺([貴人の前近くに出て拝謁すること])し、武将に委任すれば、いったい誰がその家を軽んじ、旧功を継ごうとしないが者がいることでしょう。これらを差し置いて、降参不儀の人を大将とすれば、吉野の主上(第九十七代、南朝第二代後村上天皇)が天下を取ることは、千に一つもありませんでした。たとえ一旦の軍に打ち勝つことがあったとしても、世はまた他人のものとなると思われました。


続く


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by santalab | 2016-12-29 09:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」可立大将事付漢楚立義帝事(その3)

昔秦の始皇の世を奪はんとて陣渉ちんせふと云ひける者、みづから大将の印を帯びて大沢たいたくより出でたりしが、無程秦の右将軍白起はくきが為に被討ぬ。その後また項梁こうりやうと云ふ者、自ら大将の印を帯びて、楚国より出でたりけるも、秦の左将軍さしやうぐん章邯に被打にけり。ここに項羽かうう高祖かうそ色を失なつて、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増はんぞうとて年七十三しちじふさんに成りける老臣、座中に進み出でて申しけるは、「天地の間に興こるも亡ぶるも、その理に不依と云ふ事なし。されば楚は三戸さんこの小国なれども、秦を亡ぼさんずる人は、必ず楚王の子孫にあるべし。その故は秦の始皇六国を亡ぼして天下を並呑へいどんせし時、楚の懐王つひに秦を背く事なし。始皇帝しくわうていゆゑなくこれを殺してその地を奪へり。これ罪は秦にあつて善は楚に残るべし。ゆゑに秦を討たんとならば、如何にもして、楚の懐王の子孫を一人取り立てて、諸卒皆命に随ふべし」とぞ計らひ申しける。項羽かうう高祖かうそ諸共に、この義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありとたづね求めけるに、懐王の孫に孫心と申しける人、久しく民間に降つて、羊を養ひけるを尋ね出でて、義帝とがうし奉りて、項羽も高祖も均しく命を慎しみ随ひける。




昔秦の始皇帝の世を奪おうとして陣渉(陳勝)という者が、自ら大将の印を帯びて大沢(都=咸陽。の北東)より現れましたが、ほどなく秦の右将軍白起(公孫起)に討たれました(陳勝は己の御者=馬車に乗って馬を操る人。の荘賈に殺されたらしい)。その後また項梁という者が、自ら大将の印を帯びて、楚国より出ましたが、秦の左将軍章邯に討たれました。こうして項羽・高祖(劉邦。前漢の初代皇帝)は色を失なって、さては誰を大将として、秦を攻めるべきと案じるところに、范増(楚の軍師)と申して年七十三になる老臣が、座中に進み出て申すには、「天地の間に興こるも亡ぶも、その理によるものです。楚は三戸([わずかな戸数。小国のたとえ])の小国ですが、秦を亡ぼす人は、楚王の子孫の他におりません。その故は秦の始皇帝が六国(韓・趙・魏・楚・燕・斉?)を亡ぼして天下を並呑([統一])した時、楚の懐王は遂に秦に背くことはありませんでした。始皇帝は懐王を殺して(懐王は秦に幽閉されたまま死去したらしい)その地を奪いました。この罪は秦にあって善は楚にあります。ですから秦を討とうとするならば、なんとしても、楚の懐王の子孫を一人取り立てたならば、諸卒は皆命に従うことでしょう」と考えを申しました。項羽・高祖(劉邦)ともに、もっともな意見と思い、どこかに楚の懐王の子孫がいないかと捜し求めると、懐王の孫で孫心と申す人が、久しく民間に降って、羊飼いをしているのを探し出して、義帝と呼んで、項羽も高祖も命を重んじて従いました(後に、義帝は項羽によって殺されてしまうのだが)。


続く


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by santalab | 2016-12-28 08:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」可立大将事付漢楚立義帝事(その2)

加様かやう先蹤せんしようを、南方祗候の諸卿たれか存知し給はざるに、先づ高倉左兵衛さひやうゑかみ入道慧源ゑげんに、大将の号をさづけて、兄の尊氏たかうぢきやうを討たせんと給ひしかども叶はず。次に右兵衛うひやうゑすけ直冬ただふゆに、大将の号を許されて、父の将軍を討たせんとし給ひしも不叶。また仁木につき右京うきやうの大夫義長よしながに大将をさづけて、世をくつがへさんとせられしも不叶。今また細川相摸のかみ清氏きようぢを大将として、代々の主君宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどのを亡ぼさんとし給ふ不叶。これただその理に不当大将を立て、あるひは父兄の道をたがへ、あるひは主従の義を背くゆゑに、天のせめあるに非ずや。されば古も世を取らんとする人は、もつぱら大将を選びけるにや。




この先蹤([前例])を、南方に祗候する諸卿の誰一人として知らなかったために、まず高倉左兵衛督入道慧源(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)に、大将の号を授けて、兄である尊氏卿を討たせようとしましたが叶いませんでした。次に右兵衛佐直冬(足利直冬。尊氏の子)に、大将の号を許されて、父である将軍を討たせようとしましたが叶いませんでした。また仁木右京大夫義長(仁木義長)に大将を授けて、世を覆そうとしましたが叶いませんでした。今また細川相摸守清氏(細川清氏)を大将として、代々の主君宰相中将殿(足利義詮よしあきら。尊氏の嫡男。鎌倉幕府第二代将軍)を亡ぼそうとしても叶わないことでした。これはただその理に当たらぬ大将を立て、あるいは父兄の道に反し、あるいは主従の義を背くによって、天の責めを被ったためではないでしょうか。されば古代も世を取ろうとする人は、第一に大将を選んだのでしょう。


続く


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by santalab | 2016-12-27 07:23 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」可立大将事付漢楚立義帝事(その1)

それ大将を立つるに道あり。大将その人に非ざれば、戦に勝つ事を得難し。天下すでに定まつて後、文を以つて世ををさむる時は、智慧を先とし、仁義を本とするゆゑに、今まで敵なりし人をも許容して、政道を行はせ大官をさづくる事あり。いはゆる魏徴ぎちようは楚の君の旧臣なりしかども、たうの太宗これをもちゐ給ふ。管仲は子糾しきう寵人ちようじんたりしかども、せい桓公くわんこうこれをしやうせられき。天下未だ定まらざる時、武を以つて世を取らんずるには、功ある人を賞し咎ある人を罰する間、たとひ威勢ある者なれども、降人かうにんを以つて大将とはせず。伝へ聞く秦の左将軍さしやうぐん章邯しやうかんは、四十万騎しじふまんぎの兵を率して、楚に降参したりしかども、項羽かううこれを以つて大将の印を不与。項伯は、鴻門こうもんくわいに心を入れて高祖かうそを助けたりしかども、漢に下つて後これに諸侯の国を不授。




大将を立てる道理があります。大将の器にない人を立てれば、戦に勝つことはできません。天下がすでに定まった後に、文事をもって世を治めるには、まず智慧を先とし、仁義を基本とすれば、今まで敵であった人も許容して、政道を助け大官を授けられることもあります。いわゆる魏徴(唐の政治家)は楚の君の旧臣でしたが(?)、唐の太宗(唐の第二代皇帝)は魏徴を重用しました。管仲(中国春秋時代、斉の政治家)は子糾(公子糾)の寵人でしたが、斉の桓公(春秋時代、斉の第十六代代君主)はこれを重用しました(公子糾の母は魯の人で、公子糾と管仲はともに魯に逃れたらしい)。天下がまだ決まらぬ時、武をもって世を取るには、功ある人を賞し咎ある人を罰し、たとえ威勢のある者であったとしても、降人を大将とはしないものです。伝へ聞くところ秦の左将軍章邯は、四十万騎の兵を率して、楚に降参しましたが、項羽は大将の印を与えませんでした(章邯は項羽によって殺されたらしい)。項伯(中国戦国時代末期から前漢初期にかけての政治家、武将)は、鴻門の会([楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見した故事])を企てて高祖(劉邦)を助けましたが、漢に下った後項伯に諸侯の国を授けられることはありませんでした(項伯は劉邦により射陽侯に封じられたらしい)。


続く


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by santalab | 2016-12-26 08:42 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事(その3)

ここにて今年の春を送らせ給ふに、とかくして諸寮の修理如形出来れば、四月十九日に本の里内裏へ還幸くわんかうなる。供奉の月卿雲客うんかくは指したる行粧かうさうなかりしかども、辻々の警固随兵ずゐひやうの武士ども皆あたりを耀かかやかしてぞ見へたりける。「細川相摸のかみ清氏きようぢは、近年武家の執事として、兵の随ひ付きたる事幾千万と云ふ数を不知。その身また弓箭ゆみやを取つて、無双ぶさうの勇士なりと聞こへしかば、これが宮方へ降参しぬる事、偏へに帝徳の天に叶へる瑞相ずゐさう、天下の草創は必ずこの人の武徳より事定まるべし」と、吉野の主上しゆしやうを始めまゐらせて、諸卿皆悦び思し召しければ、すなはち大将の任をぞさづけられける。その任案に相違して、去年の冬南方なんばう官軍くわんぐん相共に、宰相中将殿さいしやうのちゆうじやうどのを追ひ落として、暫く洛中に勢を振るひし時も、この人に馳せ付く勢もなし。幾程なくて官軍また都を落とされて、清氏河内かはちの国に居たれども、その旧好きうかうを慕ひてたづね来る人も稀なり。ただ禿筆とくひつたとへられし覇陵はりよう旧将軍きうしやうぐんに不異。清氏はん方なさに、「もし四国へ渡りたらば、日来相順あひしたがひしつはものどもの馳せ付く事もやあるらん」とて、正月十四日に、小船十七艘に取り乗つて阿波あはの国へぞ渡られける。




ここで今年の春を送られましたが、なんとか諸寮の修理が型通り出来がったので、四月十九日に本の里内裏に還幸されました。供奉の月卿雲客([公卿・殿上人])は取り立てて申すほどの行粧([外出や旅のときの服装])ではありませんでしたが、辻々の警固随兵の武士どもは皆あたりを輝かすほどに見えました。「細川相摸守清氏(細川清氏)は、近年武家(室町幕府第二代将軍、足利義詮よしあきら)の執事として、従い付く兵の数は知れないほどでした。清氏もまた弓矢を持ち、無双の勇士と聞こえたので、これが宮方(南朝)に降参した時には、ひとえに帝徳が天に叶う瑞相([前兆])であり、天下の草創は必ずやこの人の武徳によって決するであろう」と、吉野の主上(第九十七代後村上天皇)をはじめ、諸卿は皆よろこんで、たちまち大将の任を授けました。その任は案に反して、去年の冬南方(南朝)の官軍とともに、宰相中将殿(北畠顕能あきよし)を追い落として、しばらく洛中に勢を振るいましたが、この人に馳せ付く勢はありませんでした。ほどなく官軍はまた都を落とされて、清氏は河内国にいましたが、旧好を慕い訪ねる人は稀でした。ただ禿筆([穂先の擦り切れた筆])にたとえられた覇陵の旧将軍(李広。中国前漢時代の将軍)に異なりませんでした。清氏は仕方なく、「もしや四国へ渡れば、日来従っていた兵どもが馳せ付くこともあろうか」と、正月十四日に、小船十七艘に取り乗って阿波国に渡りました。


続く


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by santalab | 2016-12-25 08:53 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事(その2)

近日はいささかの事も、公家の御計らひとしては叶ひ難ければ、内裡修理の事武家へ仰せられたりけれども、領掌りやうじやうは申されながら、いつ道行くべしとも見へざりければ、いつまでか外都ぐわいとの御住居すまゐもあるべきとて、三月十三日に西園寺さいをんじ旧宅きうたく還幸くわんかうなる、これは后妃遊宴のみぎり先皇せんくわう臨幸の地なれば、楼閣玉を散りばめて、客殿雲にそびえたり。丹青たんぜいを尽くせる妙音堂、瑠璃るりべたる法水院ほつすゐゐん、年々に皆荒れ果てて、見しにもあらず成りぬれば、雨を疑ふ岩下の松風、糸を乱せる門前の柳、五柳先生ごりうせんじやう旧跡きうせき七松居士しちしようこじ幽棲いうせいもかくやと思えて物さびたり。




近日ではちょっとした事も、公家の計らいなしには叶い難ければ、内裏修理の件を武家へ仰せられましたが、領掌([承諾すること])を申しながらも、いつになるとも思えなく、いつまでも外都に住まわれるべきではないと、三月十三日に後光厳天皇(北朝第四代天皇)は西園寺の旧宅へ還幸になられました(後光厳天皇の生母は、西園寺寧子やすこ)、これは后妃(第九十六代後醍醐天皇中宮、西園寺禧子きし?)遊宴の時、先皇(北朝初代光厳天皇?)が臨幸([天皇が行幸してその場に臨むこと])された所でしたので、楼閣は玉を散りばめて、客殿は雲にそびえ立っていました。丹青([彩色])を尽くした妙音堂、瑠璃([ガラス])を展べた法水院は、年々に皆荒れ果てて、かつて見た姿とはうって変わり、雨と疑う岩下の松風、糸を乱した門前の柳、五柳先生(陶淵明たうえんめい。中国六朝時代の東晋の詩人)の旧跡、七松居士(?)が幽棲した地もこのようなものと思えるほど物さびしく思われました。


続く


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by santalab | 2016-12-24 09:08 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事(その1)

帝都の主上しゆしやうは、いまだ近江へ武佐寺むさでら御坐ござあつて、京都の合戦いかがあるらんと、御心苦しく思し召しけるところに、康安かうあん元年十二月二十七日に、宰相中将殿さいしやうのちゆうじやうどの早馬を立てて、洛中の凶徒ら事故なく追ひ落とし候ひぬ。急ぎ還幸くわんかうなるべき由を申されたりければ、君を始め参らせて、供奉ぐぶ月卿げつけい雲客うんかく奴婢僕従ぬひぼくじゆうに至るまで、悦び合へる事世の常ならず。その明けの朝やがて竜駕りようがうながされて、先づ比叡山ひえいさんの東坂本へ行幸なつて、ここにて御越年をつねんあり。佐々波さざなみ寄する志賀の浦、荒れて久しき跡なれど、昔ながらの花園は、今年を春と待ちがほなり。これも都とは思ひながら馴れぬ旅寝の物憂さに、諸卿皆今一日もと還幸くわんかうを勧め申されけれども、「去年十二月八日都を落ちさせ給ひし刻みに、さらでだに諸寮つかさけたりし里内裏、垣も格子も破れ失せ、御簾みす畳もなかりければ、しばらく御修理みしゆりくはへてこそ還幸くわんかうならめ」とて、翌年の春の暮月ぼげつに至るまで、なほ坂本にぞ御坐ありける。




帝都の主上(北朝第四代後光厳天皇)は、まだ近江の武佐寺(現滋賀県近江八幡市にある広済寺)におられて、京都の合戦はどうなることかと、心配されておりましたが、康安元年(1361)十二月二十七日に、宰相中将殿(北畠顕能あきよし)が早馬を立てて、洛中の凶徒らを無事追い落としました。急ぎ還幸なされますようにと申したので、君(後光厳天皇)をはじめ、供奉の月卿雲客([公卿・殿上人])、奴婢僕従([賤民・召使い])にいたるまで、よろこび合うこと尋常ではありませんでした。その明けの朝やがて竜駕([天子の乗用する車])に乗られて、まず比叡山の東坂本(現滋賀県大津市)に行幸になられて、そこで越年されました。さざ波寄せる志賀の浦、荒れて久しい場所でしたが、昔ながらの花園は、今年を春と待ち顔でした。これも都とは思いながら慣れぬ旅寝のつらさに、諸卿は皆今一日もと還幸を勧め申しましたが、「去年十二月八日に都を落ちた折に、諸寮司所も壊されて里内裏の、垣も格子も破れ失せ、御簾畳もなければ、しばらく修理をしてから還幸しようではないか」と申されたので、翌年の春の暮月([陰暦三月])に至るまで、なおも坂本におられました。


続く


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by santalab | 2016-12-23 09:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南方官軍落都事(その3)

宮方の官軍くわんぐん、始めは京都にてこそともかくもならめと申しけるが、四方しはうの敵雲霞の如くなりと告げたりければ、これほどによくし寄せたる天下を、一時に失ふべきにあらず。先づ南方へ引いて、四国・西国へ大将を分け遣はし、越前・信濃・山名・仁木にてふし合はせて、またこそ都を落とさめとて、同じき二十六日の晩景ばんげいほどに、南方の宮方宇治を経て、天王寺てんわうじ・住吉へ落ちければ、同じき二十九日将軍京へ入り給ひけり。




宮方(南朝)の官軍は、はじめは京都でいかにもなろうと申していましたが、四方の敵が雲霞の如くなったと告げ知らせたので、手に届きそうな天下を、一時に失うことはできませんでした。まずは南方へ引いて、四国・西国へ大将を分け、越前・信濃・山名・仁木に牒([文])で示し合わせて、再度都を落とそうと、同じ十二月二十六日の晩景([夕方])ほどに、南方の宮方は宇治(現京都府宇治市)を経て、天王寺(現大阪市天王寺区)・住吉(現大阪市住吉区)へ落ちたので、同じ二十九日に将軍(室町幕府第二代将軍、足利義詮顕能よしあきら。足利尊氏の嫡男)は京に入りました。


続く


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by santalab | 2016-12-22 07:57 | 太平記 | Comments(0)

    

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