Santa Lab's Blog


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「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その21)

それ政道の為にあたなるものは、無礼・不忠・邪欲・功誇こうくわ・大酒・遊宴・抜折羅ばさら傾城けいせい・双六・博奕ばくえき剛縁かうえん・内奏、さては不直ふちよくの奉行なり。をさまりし世にはこれを以つていましめとせしに、今の代の為体皆これを肝要とせず。我こそ悪からめ。ちと礼義をも振る舞ひ、極信ごくしんをも立つる人をば、『あら見られずの延喜式や、あら気詰りの色代や』とて、目を引き、あふのきにたふれ笑ひ軽謾きやうまんす。これはただ一つのすぐなる猿が、九つの鼻欠け猿に笑はれて逃げ去りけるに不異。また仏神領に天役課役てんやくくわやくを懸けて、神慮冥慮みやうりよに背かん事を不痛。また寺道場に懸要脚僧物施料せれうむさぼる事をげふとす。




政道に害なすものは、無礼・不忠・邪欲・功誇([功を誇りうぬぼれること])・大酒・遊宴・婆娑羅([華美な衣装などで飾り立てたり、ぜいたくの限りをつくしたりして、この世を謳歌すること])・傾城([美女])・双六・博奕・剛縁([権力者との縁故。また、それを利用してわがままに振る舞うこと])・内奏([正式の手続きを経ずに天皇に奏上して請願すること])、果ては不直([正しくないこと])の奉行([上の者の命によって事を執行すること])よ。世が治まる時にはこれらを戒めとすべきに、今の時代を見るに皆これを大事に思っておらぬ。我が間違っておるのか。多少も礼義をも弁え、極信([まじめでつつしみ深いこと。控えめで素直なこと])をも立つ人を、『延喜式([平安中期の律令の施行細則])とはなんとも珍しい、なんと堅苦しい色代([挨拶])か』と申して、目を引き、仰向けに倒れ込んで笑い軽慢([人をばかにして、おごりたかぶること。人をあなどること])している。まるで一匹の正直な猿が、九匹の鼻欠け猿に笑われて逃げ去るようなものではないか。また仏神領に天役([中世、朝廷に大儀・造営があった時など、 臨時に賦課した雑税])課役([律令制で租税として朝廷が人民に出させた労働力と物品])を懸けて、神慮冥慮([神仏のおぼしめし])みやうりよに背くことを恐れぬ。また寺道場に要脚([税金])を懸け僧物([寄進された、衆僧共有の物])施料([布施としての金品])を貪ることを業としておる。


続く


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by santalab | 2017-02-28 08:08 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その20)

加様かやうに無私処神慮にや通じけん。ある時相摸のかみ鶴岡つるがをかの八幡宮に通夜つやし給ける暁、夢に衣冠いくわん正しくしたる老翁一人枕に立つて、『政道をなほくして、世を久しく保たんと思はば、心私なく理に不暗青砥左衛門あをとさゑもん賞翫しやうくわんすべし』とたしかに被示と思へて、夢忽ちに覚めてげり。相摸の守つとにかへり、近国の大庄八箇所自筆に補任を書きて、青砥左衛門あをとさゑもんにぞ賜ひたりける。青砥左衛門あをとさゑもん補任をひらき見て大きに驚きて、『これは今何事に三万貫に及ぶ大庄賜はり候ふやらん』と問ひ奉りければ、『夢想に依つて、先づ且く充て行ふなり』と答へ給ふ。青砥左衛門顔を振つて、『さては一所をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意のとほりも歎き入りて存じ候ふ。物の定相ぢやうさうなきたとへにも、如夢幻泡影如露亦如電によむげんはうやうによろやくによでんとこそ、金剛経にも説かれて候へば、もしそれがしが首を刎ねよと云ふ夢を被御覧候はば、無咎共如夢被行候はんずるか。報国の忠薄くして、超涯てうがいしやうかうむらん事、これに過ぎたる国賊や候ふべき』とて、すなは補任ふにんをぞ返しまゐらせける。自余の奉行どもも加様かやうの事を聞きて己を恥ぢし間、これまでの賢才はなかりしかども、いささかも背理耽賄賂事をせず。ここを以つて平氏相州さうしう八代まで、天下を保ちしものなり。




このように私なきところが神慮に通じたのか。ある時相摸守(鎌倉幕府第五代執権、北条時頼ときよりらしい)が、鶴岡八幡宮(現神奈川県鎌倉市にある神社)に通夜した暁、夢に衣冠正しくした老翁が一人枕元に立って、『政道を正しくして、世を久しく保とうと思えば、私心なく理に暗からぬ青砥左衛門(青砥藤綱ふぢつな。鎌倉時代後期の武士)を大切にせよ』と確かに示したと思えて、夢はたちまちに覚めた。相摸守は朝早く帰ると、近国の大庄八箇所の補任状([官職に任命する状])を自筆で書いて、青砥左衛門に賜わった。青砥左衛門は補任状を開いてたいそう驚いて、『これはどういう訳で三万貫に及ぶ大庄を賜わると申されるや』と訊ねると、『夢想によって、まずはしばらく与えるものである』と答えた。青砥左衛門は顔を振って、『そういうことならば一所をも賜わる訳には参りません。そのようなお考えさえ嘆かわしく思われます。物の定相([永久に変化しない、一定のかたち])なき例えに、如夢幻泡影如露亦如電([この世のものはすべて夢幻、泡や露や電光のようにはかないものとである])と、金剛経にも説かれおります、もしわたしの首を刎ねよという夢をご覧になれば、罪なくとも夢のままに誅されると申されますや。報国の忠薄くして、超涯([身分に過ぎたこと])の賞を蒙ること、これに過ぎた国賊がありましょうか』と申して、たちまち補任を辞退した。自余の奉行どももこの事を聞いて己を恥じたので、青砥左衛門ほどの賢才ではないにしろ、わずかも理に背き賄賂に耽ることはなかった。こうして平氏相州(北条武蔵守)は八代まで、天下を保つことができたのだ。


続く


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by santalab | 2017-02-28 08:00 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その19)

またある時この青砥左衛門あをとさゑもん夜に入つて出仕しけるに、いつも燧袋ひうちぶくろに入れて持ちたる銭を十文取りはづして、滑河なめりかはへぞ落とし入れたりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行き過ぐべかりしが、もつてのほかにあわてて、その辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以つて続松たいまつ十把じつぱ買ひて下り、これをとぼしてつひに十文の銭をぞ求め得たりける。後日にこれを聞きて、『十文の銭を求めんとて、五十ごじふにて続松を買つて燃したるは、小利大損かな』と笑ひければ、青砥左衛門眉をひそめて、『さればこそ御辺たちは愚かにて、世のつひえをも不知、民をめぐむ心なき人なれ。銭十文は只今不求は滑河の底に沈みて永く失せぬべし。某が続松を買はせつる五十の銭は商人の家に止まつて永く不可失。我が損は商人の利なり。彼と我と何の差別しやべつかある。かれこれ六十の銭一つをも不失、あに天下の利に非ずや』と、爪弾きをして申しければ、難じて笑ひつるかたへの人々、舌を振つてぞ感じける。




またある時青砥左衛門(青砥藤綱ふぢつな。鎌倉時代後期の武士)は夜に入って出仕しましたが、いつも燧袋に入れていた銭を十文、滑川に落としてしまった、大した額ではなかったので、そのまま通り過ぎればよいものを、たいそうあわてて、その辺の町屋へ人を走らせ、銭五十文で松明を十把買って川に下り、松明を灯して遂に十文の銭を探し出した。後日にこれを聞いて、『十文の銭を探すのに、五十文で松明を買って灯すとは、大損ではないか』と笑われると、青砥左衛門は眉を顰め呆れ顔で、『だからお主たちは愚かだというのだ、世の費をも知らず、民を恵む心もんし人たちよ。銭十文をその時さがさなければ滑川の底に沈んで永遠に失せてしまったであろう。わたしが松明を買った五十文の銭は商人の家に残って永遠に失われることはない。我が損は商人の利益となった。彼と我を区別してどうする。かれこれ六十文の銭を一文も失うことがなかったのだ、天下にとっての利益ではないか』と、爪弾き([嫌悪・軽蔑・非難などの気持ちを表すしぐさ])をして申したので、(青砥左衛門を)非難して笑っていた人々は、舌を振り([非常に驚く])感心した。


続く


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by santalab | 2017-02-28 07:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」義助朝臣病死の事付鞆軍の事(その3)

備後・安芸・周防の舟は皆大船なれば、ともに櫓を高く掻いて、指し下ろして散々に射る。伊予・土佐の舟は皆小舟なれば、逆櫓さかろを立てて縦横に相当あひあたる。両方のつはもの、よしや死して海底の魚腹にさうせらるるとも、逃げて天下てんがの人口には落ちじものをと、互ひに機を進め、一引きも不引終日ひねもす戦ひ暮らしける処に、海上にはかに風来たつて、宮方の舟をば悉く西を差して吹き戻す。寄せ手の舟をば悉く伊予の地へ吹き送る。夜に入りて風少し静まりければ、宮方の兵ども、「これほどに運の利かぬ時なれば、如何に思ふとも不可叶。ただ元の方へ漕ぎかへすべきか」とまうしけるを、大将金谷かなや修理しゆりの大夫、「運を計り勝つ事を求むる時こそ、身をまつたうして功をなさんとは思へ。ただ一人たのみたる大将軍脇屋義助よしすけは病ひに被侵失せ給ひぬる上は、今は可為方なき微運の我らが、生きてあらばいか許りの事か可有。命を限りの戦ひして、弓矢の義を専らにする許りなるべし。されば運の通塞も軍の吉凶も非可謂処。いざや今夜備後のともへ推し寄せて、そのじやうを追ひ落として、中国の勢着かば西国を責め随へん」とて、その夜の夜半許りに、備後の鞆へ押し寄する。




備後・安芸・周防の舟は皆大船でしたので、艫([船の後方])・舳([船の前方])に櫓を高く掻いて、下ろ様に散々に矢を射ました。伊予・土佐の舟は皆小舟でしたので、逆櫓([船を後ろへも自由に漕ぎ進められるように 、艪を船の前部に取り付けること])を立てて縦横から当たりました。両方の兵は、たとえ死んで海底の魚腹に葬られることになろうとも、逃げて天下の人口に落ちまいと、互い勇み立ち、一引きも引かず終日戦い暮らすところに、海上は急に荒れて、宮方の舟を残らず西方に吹き戻しました。寄せ手の舟は残らず伊予の地に吹き送りました。夜に入って風が少し静まれば、宮方の兵どもは、「これほど運がない時ならば、何を思うとも叶うまい。ただ元の方へ漕ぎ返すべきか」と申すと、大将金谷修理大夫(金谷経氏つねうぢ)、「運を頼って勝つことを求めるより、身を全うして功をなそうとは思わぬか。ただ一人頼みにしていた大将軍脇屋義助(新田義貞の弟)が病いに失せた上は、今は申すべくもない微運の我らが、命長らえたところで何になろうや。命を限りの戦いをして、弓矢(武士)の義を専らにする他あるまい。なれば運の通塞([幸と不幸])も軍の吉凶も気にすることはない。どうだ今夜備後の鞆(現広島県福山市)へ押し寄せて、敵を城から追い落として、中国の勢が付けば西国を攻め従えようではないか」と申して、その夜の夜半ばかりに、備後の鞆へ押し寄せました。


続く


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by santalab | 2017-02-28 07:07 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その18)

ある時徳宗領とくそうりやうに沙汰出で来て、地下の公文と、相摸のかみ訴陳そぢんに番ふ事あり。理非懸隔けんかくして、公文がまうす処道理なりけれども、奉行・頭人・評定衆、皆徳宗領に憚つて、公文を負かしけるを、青砥左衛門あをとさゑもんただ一人、権門にも不恐、理の当たる処をつぶさに申し立て、遂に相摸の守をぞ負かしける。公文不慮に得利して、所帯に安堵したりけるが、その恩を報ぜんとや思ひけん、銭を三百貫さんびやくくわんたはらつつみて、後ろの山より潜かに青砥左衛門が坪の内へぞ入れたりける。青砥左衛門これを見て大きに忿り、『沙汰の理非を申しつるは相摸殿を奉思ゆゑなり。全く地下の公文を引くに非ず。もし引出物を取るべくは、上の御悪名を申し留めぬれば、相摸殿よりこそ、悦びをばし給ふべけれ。沙汰に勝ちたる公文が、引出物をすべき様なし』とて一銭をもつひに不用、はるかに遠き田舎まで持ち送らせてぞ返しける。




ある時徳宗領([北条氏家督の知行する所領])に沙汰([訴訟])が起こって、地下([殿上人でない者])の公文([公文書を取り扱う職])と、相摸守(鎌倉幕府第五代執権、北条時頼ときより)が訴陳([訴人=原告。と論人=被告。がそれぞれ訴状と陳状により申し立てをすること])に番う事があった。理非([道理にあっていることとは外れていること。正しいことと間違っていること])懸隔([二つの物事がかけ離れていること。非常に差があること])して、公文が申すところ道理であったが、奉行([政務分掌により公事くじを担当し執行する者])・頭人([鎌倉・室町幕府の引付衆の主席])・評定衆([執権・連署とともに幕府の最高意思決定機関を構成し、政務一般および訴訟の裁断について合議した])、皆徳宗領に憚って公文の負けとした、だが青砥左衛門(青砥藤綱ふぢつな。鎌倉時代後期の武士)ただ一人だけは、権門にも恐れをなさず、道理に適うところを事細かに申し立て、遂に相摸守(北条時頼)の負けとした。公文は意外にも勝利して、所帯(領地)を守ることができた、その恩に報いようと思ったか、銭を三百貫俵に入れて、後ろの山より密かに青砥左衛門の坪([庭])の内に運び入れた。青砥左衛門これを見てたいそう怒って、『沙汰の理非を申したのは相摸殿のことを思ってのことである。まった地下の公文を贔屓した訳ではない。もしも引出物を取るならば、悪名を止めた、相摸殿より、感謝されてしかるべき。沙汰に勝った公文が、どうして引出物をしなければならぬのだ』と申して一銭をも遂に取らず、遥か遠くの田舎まで運ばせて返した。


続く


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by santalab | 2017-02-27 08:12 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その17)

また報光はうくわう寺・最勝園寺さいそうをんじ二代の相州さうしうに仕へて、引付けの人数につらなりける青砥左衛門あをとさゑもんと云ふ者あり。数十箇所すじつかしよの所領を知行して、財宝豊かなりけれども、衣裳には細布さいみ直垂ひたたれ、布の大口、いひの菜には焼きたる塩、干したる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻きざやまきの刀を差し木太刀を持たせけるが、叙爵後は、この太刀に弦袋つるぶくろをぞ付けたりける。加様かやうに我が身の為には、いささかも過差くわさなる事をせずして、公方くばうの事には千金万玉をも不惜。また飢ゑたる乞食こつじき、疲れたる訴詔人そせうにんなどを見ては、ぶんに随ひしなに依つて、米銭絹布けふの類を与へければ、仏菩薩の悲願にひとしき慈悲にてぞありける。




また宝光寺(鎌倉幕府第八代執権、北条時宗ときむね)・最勝園寺(鎌倉幕府第九代執権、北条貞時さだとき。北条時宗の嫡男)二代の相州(相模守)に仕えて、引付([引付衆]=[鎌倉幕府第五代執権、北条時頼ときよりの時、評定衆の下に御家人の領地訴訟の裁判の迅速さと公正さをはかる為に設置された職])の人数に連なった青砥左衛門(青砥藤綱ふぢつな。鎌倉時代後期の武士)という人がいた。数十箇所の所領を知行して、財宝は豊かであったが、衣裳は細布([綿織物の低級品])の直垂、布の大口([袴の一])、飯の菜には焼いた塩、干した魚一つよりほかは何もしなかった。出仕の時は木鞘巻の刀を差し木太刀([木刀])を持っていたが、叙爵後は、この太刀に弦袋([掛け替えの弓弦ゆづるを巻いて持ち歩く道具])を付けていた。このように我が身のためには、多少なりとも過差([分に過ぎたこと])なることをせず、公方のことには千金万玉をも惜しまなかった。また飢えた乞食、疲弊した訴詔人を見ては、身分に従い階位に応じて、米銭絹布などを与えた、仏菩薩の悲願にも匹敵する慈悲の持ち主であった。


続く


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by santalab | 2017-02-27 08:04 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その16)

関東くわんとう帰居の後、最前にこの事をありの侭に被申しかば、仙洞大きに有御恥久我こが旧領きうりやう悉く早速さつそくに被還付けり。さてこそこの修行者をば、貞時さだときと被知けれ。一日二日のほどなれど、旅に過ぎたる哀れはなし。況乎いはんや烟霞えんか万里の道の末、思ひ遣るだに憂きものを、深山路みやまぢに行き暮れては、苔のむしろに露を敷き、遠き野原を分け佗びては、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口船立ち、失山頭路帰る。烟蓑雨笠えんさうりつ破草鞋はさうあいの底、すべて故郷を思ふ愁へならずと云ふ事なし。あに天下のあるじとして、身富貴ふつききよする人、好んで諸国を可修行や。ただ身安く楽しみに誇つては、世難治事を知るゆゑに、三年の間ただ一人、山川を斗薮とそうし給ひける心のほどこそ難有けれと、感ぜぬ人もなかりけり。




(鎌倉幕府第九代執権、北条貞時さだときは)関東帰居の後、真っ先この事をありのままに申し上げたので、仙洞はたいそう後悔されてさっそく久我の旧領を残らず返された。こうしてこの修行者が、貞時だと知れたのだ。それにしても一日二日のほどでさえ、旅ほど哀れに思うものはない。烟霞万里の道の末を、思ひ遣るさえ憂きものを、深山路に行き暮れて、苔の莚に露を敷き、里遠い野原を分けて、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口(相模川?)を船で出て、山頭に路を見失い引き返す、蓑は煙り笠は雨に濡れて、草鞋の底は擦り切れて、すべて故郷を思う愁えとなったであろう。どうして天下の主として、富貴に身を置く人が、好んで諸国を修行するものか。ただ安寧にして楽しみに誇っていては、世を治め難いことを知って、三年間ただ一人、山川を斗薮([衣食住に対する欲望を払い退け、身心を清浄にすること。また、その修行])しようと思う気持ちのありがたさよと、感心しない人はいなかった。


続く


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by santalab | 2017-02-27 07:09 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」義助朝臣病死の事付鞆軍の事(その2)

義助よしすけ順付したがひつきたりし多年恩顧のつはものども、土居・得能・合田あひだ二宮にのみや・日吉・多田・三木・羽床はゆか・三宅・高市たけいちの者ども、金谷かなや修理しゆりの大夫経氏つねうぢを大将にて、兵船ひやうせん五百余艘よさうにて、土肥が後攻ごづめの為に海上に推し浮かぶ。これを聞きて、備後のとも尾道をのみち舟汰ふなぞろへして、土肥が城へ寄せんとしける備後・安芸・周防・長門の大船千余艘にて推し出だす。両陣の兵船ども、渡中となかに帆を突いて、扣舷鬨を作る。しほに追ひ風に随つて推し合ひ推し合ひ相戦ひける。その中に大館おほたち左馬の助氏明うぢあきらが執事、岡部出羽ではかみが乗りたる舟十七艘、備後の宮下野しもつけの守兼信かねのぶ、左右に別れて漕ぎ双べたる舟四十しじふ余艘が中へ分け入りて、敵の船に乗り遷り乗り遷り、皆引つ組んで海中へ飛び入りけるこそ、厳しかりし振る舞ひなれ。




義助(脇屋義助。新田義貞の弟)に付き従ってきた多年恩顧の兵ども、土居・得能・合田・二宮・日吉・多田・三木・羽床・三宅・高市の者どもは、金谷修理大夫経氏(金谷経氏)を大将に立てて、兵船五百で、土肥(土肥義昌よしまさ)の後詰め([先陣の後方に待機している軍勢])のために海上に船を押し浮かべました。これを聞いて、備後の鞆(現広島県福山市)・尾道(現広島県尾道市)に舟揃えして、土肥(義昌)の城(川之江城。現愛媛県四国中央市)へ寄せようと備後・安芸・周防・長門の大船が千余艘が押し出しました。両陣の兵船は、渡中で帆を突き合わせ、舷を当てて鬨を作りました。潮に追い風に従って押し合い押し合い戦いました。その中に大館左馬助氏明(大舘氏明)の執事、岡部出羽守が乗った舟十七艘は、備後宮下野守兼信(宮兼信)が、左右に分かれて漕ぎ並べた舟四十余艘の中へ分け入って、敵の船に乗り移り乗り移り、皆引っ組んで海中へ飛び入りました、容赦知らずの振る舞いでした。


続く


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by santalab | 2017-02-27 07:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その15)

後の最勝園寺貞時さいしようをんじさだときも、追先蹤また修行し給ひしに、その頃久我こがの内大臣、仙洞の叡慮に違ひ給ひて、領家悉く被没収給ひしかば、城南ぜいなん茅宮ばうきゆうに、閑寂かんせきを耕してぞ隠居し給ひける。貞時斗薮とそうの次でにかの故宮の有様を見給ひて、『いかなる人の棲遅せいちにてかあるらん』と、事問ひ給ふ処に、諸大夫と思しき人立ち出でて、しかしかとぞ答へける。貞時つぶさに聞きて、『御罪科差したる事にても候はず、そのうへ大家の一跡、この時断亡だんばうせん事無勿体候。など関東くわんとう様へは御歎き候はぬやらん』と、この修行者申しければ、諸大夫、『さ候へばこそ、この御所の御様昔びれて、加様かやうの事申せば、去る事や可有。我が身の無咎由に関東へ歎かば、仙洞の御誤りを挙ぐるに似たり。たとひ一家いつけこの時亡ぶとも、いかでか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来たうらい歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡この時にて候ふ』と語りければ、修行者感涙を押さへて立ちかへりにけり。誰と云ふ事を不知。




後の最勝園寺貞時(鎌倉幕府第九代執権、北条貞時)も、先蹤([前例])を追ってまた修行したが、その頃久我内大臣(久我通基みちもと)は、仙洞(第八十九代後深草院?)の叡慮に違い、領家は残らず没収され、城南の茅宮に、閑寂を添えて隠居した。貞時は斗薮([衣食住に対する欲望を払い退け、身心を清浄にすること。また、その修行])の途中にかの故宮の有様を見て『いかなる人が棲遅([心静かに住むこと])しておるのだろう』と、尋ねるところに、諸大夫と思われる人が立ち出て、しかじかと答えた。貞時は詳しく話を聞いて『大した罪科でもなく、その上に大家の一跡が、この時断亡するのはもったいないことよ。どうして関東(鎌倉幕府)に嘆願されないのか』と、この修行者が申せば、諸大夫は、『そのことですが、この御所の御様(久我通基)は昔気質の人でございますれば、そのことを申すと、そんなことはできない。我が身の咎なきことを関東に嘆願することは、仙洞の誤りを上げるようなものではないか。たとえ一家がこの時亡ぶとも、どうして臣として君の非をあげつらわねばならぬ。どうしようもないことだ、その時が来ようが悲しまぬと申されますれば、家門の滅亡は間違いありません』と語ったので、修行者は感涙を押さえて立ち帰った。修行者が誰とは知らなかったのだ。


続く


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by santalab | 2017-02-26 09:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北野通夜物語の事付青砥左衛門事(その14)

斗薮とそうの聖つくづくとこれを聞きて、余りにあはれに思えて、おひの中より小硯こすずり取り出だし、しよくの上に立てたりける位牌ゐはいの裏に、一首の歌をぞ被書ける。

難波潟 塩干にとほき 月影の また元の江に すまざらめやは

禅門諸国斗薮はつて鎌倉にかへり給ふとひとしく、この位牌を召し出だし、押領せし地頭が所帯を没収もつしゆして、尼公が本領の上にへてぞこれをびたりける。この外到る所ごとに、人の善悪をたづね聞きてくはしく注し付けられしかば、善人にはしやうを与へ、悪者には罰をくはへられける事、不可勝計しようげ。されば国には守護・国司、所には地頭・領家りやうけ、有威不驕、隠れても僻事ひがことをせず、世帰淳素民の家々豊かなり。




斗薮([衣食住に対する欲望を払い退け、身心を清浄にすること。また、その修行])の聖(鎌倉幕府第五代執権、北条時頼ときより)は話を始終聞いて、あまりに哀れに思い、笈([荷物や書籍を入れて背負う竹製の箱])の中から小硯を取り出し、卓の上に立てていた位牌の裏に、一首の歌を書いた。

難波潟の塩干を遠く照らす月影を、また元の江を照らすようにさせたいと思う。

禅門(北条時頼)は諸国斗薮を終えて鎌倉に帰るやいなや、この位牌を探させて、地頭が押領した所帯([所領])を没収して、尼公の本領とともに添えて与えた。このほか至る所ごとに、人の善悪を訊ね聞いて詳細に記し付けたので、善人には賞を与え、悪者には罰を加えること、数知れず([勝計]=[数え尽くすこと])。こうして国では守護・国司、所には地頭・領家、威を驕らず、隠れて僻事([過ち])を犯さず、世は正しくなり民はこれに従って家々は豊かであった。


続く


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by santalab | 2017-02-26 09:20 | 太平記 | Comments(0)

    

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