Santa Lab's Blog


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「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その15)

起き臥す露のとことはに、古郷こきやうを忍ぶ御涙、毎言葉繁ければ、さらでも重き濡れ衣の、袖乾く間もなかりけり、さても無実のざんによりて、被遷配所恨入骨髄、難忍思し召しければ、七日なぬかが、あひだ御身を清め一巻いつくわん告文かうぶんを遊ばして高山かうざんに登り、竿さをさきに着けて差し挙げ、七日御足をつまだてさせ給ひたるに、梵天・帝釈もその無実をやあはれみ給ひけん。黒雲一群ひとむら天より下りさがりて、この告文をつて遥かの天にぞ揚がりける。その後延喜三年二月二十五日つひに沈左遷恨薨逝こうせいし給ひぬ。今の安楽寺あんらくじ御墓所みはかしよと定めて奉送置。しいかな北闕ほくけつの春の花、随流不帰水、奈何いかんがせん西府の夜の月、入不晴虚命雲、されば貴賎滴涙、慕世誇淳素化、遠近呑声悲道蹈澆漓俗。




起き臥す床には絶えず、古郷を忍ぶ涙、恨む言葉も繁ければ、そうでなくとも重い濡れ衣の、袖は乾く間もありませんでした。それにしても無実の讒により、配所に遷されて恨みは骨髄に入り、忍び難く思われて、七日の、間身を清め一巻の告文([神に対して申し上げること・願いごとなどを書き記した文書])を書いて高山に登り、竿の先に付けて差し上げ、七日間足を爪立てました、梵天([正法護持の神])・帝釈([梵天と並び称される仏法守護の主神])もその無実を憐れんだのか。黒雲が一叢天から下りて、この告文を取って遥かの天に上って行きました。その後延喜三年(903)二月二十五日に遂に沈左遷の恨みに沈んだまま薨逝([親王または三位以上の人が死ぬこと])しました。今の安楽寺(今の太宰府天満宮。現福岡県太宰府市)を御墓所と定めて葬送しました。惜しいかな北闕([皇居])の春の花は、水に流れて遂に帰らず、西府(太宰府)の夜の月は、晴れずして命虚しく雲に隠れてしまいました。そして貴賎は涙を流し、淳素([すなおで飾りけがないこと])と誇った世を慕い、遠き近きも澆漓([道徳が衰え、人情の薄いこと])の俗に進むであろうと悲しみの声に咽びました。


続く


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by santalab | 2017-03-31 09:12 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その14)

去る仁和の頃、讚州さんしうの任に下り給ひしには、解甘寧錦纜、蘭橈桂梶らんのさをかつらのかぢ、敲舷於南海月、昌泰しやうたいの今配所の道へ赴かせ給ふには、恩賜おんし御衣ぎよいの袖を片敷いて、浪の上とまの底、傷思於西府雲、都に留め置きまゐらせし北の御方・姫君の御事も、今は昨日きのふを限りの別れと悲しく、知らぬ国々へ被流遣十八人の君達きんたちも、さこそ思はぬ旅に趣いて、苦身悩心らめと、一方ひとかたならず思し召し遣るに、御泪更に乾く間もなければ、旅泊の思ひを述べさせ給ひける詩にも、

自従勅使駈将去
父子一時五処離
口不能言眼中血
俯仰天神与地祇


北の御方より被副ける御使ひの道よりかへりけるに御文あり。

君が住む 宿のこずゑを 行く行くも 隠るるまでに かへり見しはや


心筑紫に生きの松、待つとはなしに明け暮れて、配所の西府に着かせ給へば、埴生はにふの小屋のいぶせきに、奉送置、都の官人も帰りぬ。都府楼とふろうの瓦の色、観音寺の鐘の声、聞くに随ひ見るに付けての御悲しみ、この秋は独り我が身の秋となれり。



去る仁和の頃(仁和二年(886))、讃岐守として下った時には、解甘寧(中国後漢末期の武将。孫権に仕えた)が錦のともづなを解いて、蘭の棹桂の舵で、南海の月にふなばたを叩いて興じたものでしたが、昌泰([醍醐天皇の時の年号]。昌泰の変(901))に配所の道へ赴く今は、恩賜の御衣の袖を片敷いて、浪の上篷([すげかやなどで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる])の底、傷西府(太宰府)の雲に思いを馳せて、都に留め置いた北の方・姫君のことも、今は昨日を限りの別れと悲しく、知らぬ国々へ流された十八人の君達も、それこそ思いもしなかった旅に赴いて、苦しみ心を悩ませているであろうと、一方ならず思い遣るに、涙はさらに乾く間もなければ、旅泊の思いを記す詩にも、

勅使にたちまち都を追い出された後は、
父子は一時にして五所に離れ、
話もできずに血の涙を流す。
今はただ天神地祇に俯仰([うつむくことと仰ぎ見ること])のみぞ。


北の方の使いとして供をしていた者が道中で帰る時に文を贈りました。

あなたが住む宿の梢を、道中で見えなくなるまで、幾度振り返って見たことか。


心は筑紫の生きの松(神宮皇后が三韓征伐に出征の際、渡海に先立ち、松の枝を切り逆さに濱に挿し「今般の軍に勝利あらばこの松生きよ」と勅宣があったが皆生付きて松原となったという)、待つとはなしに明け暮れて、配所の西府に着けば、憂鬱な埴生の小屋([土の上にむしろを敷いて寝るような粗末な小屋])に、留め置かれて、都の官人は帰って行きました。都府楼(かつて現福岡県太宰府市にあった大宰府政庁)の瓦の色、観音寺(現福岡県太宰府市にある観世音寺)の鐘の声を、聞くに付け見るに付けての悲しみは、この秋が独り我が身の秋のように思われました。


続く


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by santalab | 2017-03-30 08:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その13)

年久しく住み馴れ給ひし、紅梅殿を立ち出でさせ給へば、明け方の月かすかなるに、り忘れたるむめが香の御袖に余りたるも、今はこれや古郷こきやうの春の形見と思し召すに、御涙さへ留まらねば、

東風こち吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

と打ち詠じ給ひて、今夜こよひ淀の渡しまでと、追つ立ての官人くわんにんどもに道を被急、御車にぞ被召ける。心なき草木までも馴れし別れを悲しみけるにや、東風吹く風の便りを得て、このむめ飛び去さつて配所の庭にぞ生ひたりける。されば夢の告げあつて、る人つらしとしまれし、宰府さいふの飛び梅これなり。




年久しく住み慣れた、紅梅殿(菅原道真の邸宅。現京都市下京区)を立ち出ると、明け方の月幽かにして、折り忘れた梅の香は袖に余り、今はこれが古郷の春の形見と思えば、涙を抑えきれずに、

東風が吹いたなら、この匂いを届けてほしい、梅の花よ。主がいないからといって、春を忘れるでないぞ。

と打ち詠じて、今夜のうちに淀の渡し(現京都市伏見区)までと、追っ立ての官人([流罪に処せられた者を流刑地へ護送した役人])どもに道を急かされ、車に乗りました。心ない草木までも馴れし別れを悲しむのか、東風吹く風の便りを得て、この梅が飛び去さって配所の庭に生えました。こうして夢の告げあって、折る人もつらいと惜しまれる、太宰府宰府の飛び梅がこれです。


続く


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by santalab | 2017-03-29 07:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その12)

法皇この歌を御覧じて御泪御衣ぎよいうるほしければ、左遷の罪をまうし宥めさせ給はんとて、御参内ありけれども、帝つひに出御なかりければ、法皇御いきどほりを含んで空しく還御くわんぎよ成りにけり。その後流刑定まりて、菅丞相忽ちに太宰府へ被流させ給ふ。御子二十三人にじふさんにんうちに、四人は男子にてをわせしかば、皆引き分けて四方しはうの国々へ奉流。第一の姫君一人をば都に留めまゐらせ、残る君達きんたち十八人は、泣く泣く都を立ち離れ、心尽くしに赴かせ給ふ御有様こそ悲しけれ。




法皇(亭子院。第五十九代宇多天皇)はこの歌を見られて涙で御衣を濡されて、左遷の罪を申し宥められようと、参内されましたが、帝(第六十代醍醐天皇)は遂に出御されませんでした、法皇は憤りを含んで空しく還御されました。その後流刑に定まって、菅丞相(菅原道真)はたちまち太宰府に配流となりました。子二十三人のうち、四人は男子でしたので、皆引き分けて四方の国々に流されました(男子は大勢いたらしい)。第一の姫君(宇多天皇女御、菅原衍子えんし?)一人を都に留めて、残る君達十八人は、泣く泣く都を離れ、心尽くし([物思いに 心をすり減らすこと。悲しみ悩むこと])に赴く姿は悲しいものでした。


続く


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by santalab | 2017-03-28 07:20 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その11)

ひかるきやう定国さだくにの卿・菅根すがねの朝臣などに内々相計あいはかつて、召陰陽頭、王城の八方に埋人形祭冥衆、菅丞相を呪咀じゆそし給ひけれども、天道てんだうわたくしなければ、御身に災難不来。さらば構讒沈罪科思して、本院ほんゐん大臣おとど時々よりより菅丞相天下の世務に有私、不知民愁、以非為理由被申ければ、帝さては乱世害民逆臣にして、諌非禁邪忠臣に非ずと被思し召しけるこそ浅ましけれ。「誰知、偽言巧似簧。勧君掩鼻君莫掩。使君夫婦為参商。請君捕峰君莫捕。使君母子成豺狼」。さしも可眤夫婦・父子の中をだにとほざくるは讒者ざんしやいつはりなり。いはんや於君臣間乎。つひ昌泰しやうたい四年正月二十日菅丞相被遷太宰権帥、筑紫へ被流給ふべきに定まりにければ、不堪左遷御悲、一首の歌に千般せんばんの恨みを述べて亭子院ていじゐんへ奉り給ふ。


流れ行く 我はみくづと なりぬとも 君しがらみと 成りてとどめよ




光卿(源光)・定国卿(藤原定国)・菅根朝臣(藤原菅根)などに内々相計って、陰陽頭を召し、王城の八方に人形を埋め冥衆([人の目に見えない、鬼神や閻魔王のような諸神])を祭り、菅丞相(菅原道真)を呪咀しましたが、天道に私なければ([天道に私なし]=[天道は正直])、身に災難は起こりませんでした。ならば讒を構え罪科に沈めようと思い、本院大臣(藤原時平ときひら)は折に付けて菅丞相は天下の世務に私心を挟み、民の愁いを知らず、道理に外れた行いをしていると申したので、帝(第六十代醍醐天皇)はさては世を乱し民に害をなす逆臣にして、非を諌め邪を禁じる忠臣でないと思われたのは残念なことでした。「誰が知るであろう、言葉巧みに偽り申すことを。(たとえ西施=中国古代四大美女の一人。のような絶世の美女が、汚物を頭からひっかけられて)鼻を覆うことを勧められても鼻を覆うことなかれ、夫婦は参商([肉親や親しい者同士が会えない 。仲が悪い])となろう。蜂を捕らえよと請えども捕えることなかれ、母子は豺狼([残酷で欲深い人])となるであろう」(白居易らしい)。仲睦まじい夫婦・父子の仲でさえ疎遠にするのは讒者の嘘です。申すまでもなく君臣の関係においては。遂に昌泰四年(901)正月二十日菅丞相を太宰権帥になし、筑紫へ流すと決まったので、不堪左遷の悲しみに堪えず、一首の歌に千般の恨みを述べて亭子院(亭子院。第五十九代宇多法皇)に奉りました。


たとえわたしが流れ行く水屑となるのなら、君(宇多法皇)が柵となられて止めてほしい。


続く


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by santalab | 2017-03-27 07:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その10)

同じき年十月に、延喜えんぎの帝即御位給ひし後は、万機のまつりごと然しながら自幕府上相出でしかば、摂禄せつろくの臣も清花せいぐわの家も無可比肩人。昌泰しやうたい二年の二月に、大臣の大将だいしやうに成らせ給ふ。この時本院ほんゐん大臣おとどまうすは、大織冠たいしよくくわん九代のそん昭宣公せうせんこう第一のなん皇后くわうごうの御せうと、村上天皇てんわうの御伯父をぢなり。摂家と云ひ高貴かうきと云ひ、旁々かたがた我に等しき人非じと思ひ給ひけるに、官位・禄賞ろくしやうともに菅丞相くわんしようじやうに被越給ひければ、御いきどほり更に無休時。




同じ年(寛平九年(897))の十月に、延喜帝(第六十代醍醐天皇)が位に即かれた後は、万機の政は(菅原道真が)幕府([近衛大将])上相(亜相?大納言)となって、摂籙([摂政・関白。また、その家柄])の臣も清華家([公家の家格の一。最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する])の家も肩を並べる人はいませんでした。昌泰二年(899)の二月に、大臣の大将(右大臣、右大将)になりました。この時本院大臣(藤原時平ときひら)と申すは、大織冠(藤原鎌足)の九代孫(藤原鎌足・不比等ふひと房前ふささき真楯またて内麻呂うちまろ冬嗣ふゆつぐ長良ながら基経もとつね・時平)、昭宣公(藤原基経)の長男で、皇后(醍醐天皇中宮、藤原穏子やすこ)の兄(同母兄)、村上天皇(第六十二代天皇)の伯父(村上天皇は、藤原穏子の子)でした。摂家といい高貴といい、いずれも我に等しい人はいないと思っていましたが、官位・禄賞ともに菅丞相(菅原道真)に越えられて、その憤りは休む時はありませんでした。


続く


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by santalab | 2017-03-26 08:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その9)

同じき年の三月二十六日に、延喜えんぎの帝未だ東宮にて御坐ありけるが、菅少将くわんせうしやうを被召て「漢朝かんてう李嶠りけうは一夜に百首の詩を作りけると見えたり。なんぢ盍如其才。一時に作十首詩可備天覧」被仰下ければ、すなはじふの題を賜はりて、半時許りに十首の詩をぞ作らせ給ひける。

送春不用動舟車
唯別残鴬与落花
若使韶光知我意
今宵旅宿在詩家

と云ふ暮春ぼしゆんの詩もその十首の絶句の内なるべし。才賢の誉れ・仁義の道、一つとして無所欠、君は帰三皇五帝徳、世は均周公・孔子治只在此人、君無限しやうじ思し召しければ、寛平くわんへい九年六月に中納言より大納言に上がり、やがて大将だいしやうに成り給ふ。




同じ年(貞観十二年(870))の三月二十六日に、延喜帝(第六十代醍醐天皇)はまだ東宮でしたが、菅少将(菅原道真)を召されて、「漢朝の李嶠(初唐の詩人)は一夜に百首の詩を作ったという。お主もたいそう才能があると聞いておる。一時に十首の詩を作り天覧([天皇が観賞すること])に備えよ」と命じられたので、たちまち十の題を賜わると、半時許りに十首の詩を作りました。

舟車に乗っているわけでもないのに春は過ぎて行く。
残鶯([春が過ぎてもまだ鳴いているうぐいす])と落花に別れを告げて。
韶光せうくわう([うららかな春の光])よもしわたしの気持ちが分かるならば、
今宵は詩家([詩人])の許に旅泊してはくれまいか。

という晩春の詩もその十首の絶句([漢詩における近体詩の代表的な詩型の一。四句から成る])の一つです。才賢の誉れ・仁義の道、一つとして欠くところなく、君は三皇五帝([古代中国の神話伝説時代の八人の帝王])の徳に帰し、世は菅原道真により均周公(周公旦。周の政治家)・孔子の治世に等しいものでした。君(第五十九代宇多天皇)は限りなく褒めたたえ、寛平九年(897)六月に中納言より大納言に上がり、やがて大将(右大将)になりました。


続く


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by santalab | 2017-03-25 09:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その8)

それより後、詩は捲盛唐波瀾先七歩才、文は漱漢魏芳潤、諳万巻書給ひしかば、貞観ちやうぐわん十二年三月二十三日にじふさんにち対策及第してみづか詞場しぢやうに折桂給ふ。その年の春都良香とりやうきやうの家に人集まつて弓を射ける所へ菅少将くわんせうしやうをはしたり。都良香、この公は無何と、学窓がくさうに聚蛍、稽古に無隙人なれば、弓の本末もとうらをも知り給はじ、的を射させ奉りわらはばやと思して、的矢に弓を取りへて閣菅少将の御まへに、「春の始めにて候ふに、一度ひとこぶし遊ばし候へ」とぞ被請ける。菅少将くわんせうしやうさしも辞退し給はず、つがひの逢ひ手に立ち合ひて、如雪はだを押しはだぬき、打ち上げて引き下ろすより、しばらしをりて堅めたるすがた、切つて放したる矢色・弦音つるおと弓倒ゆんだふし、五善いづれもたくましくいきほひあつて、矢所やつぼ一寸も退かず、五度のつづをし給ひければ、都良香感に堪へ兼ねて、みづから下りて御手を引き、酒宴及数刻、様々の引出物をぞ被進ける。




その後は、詩は盛唐([唐代を四分した第二期。唐詩の最盛期])にも勝り七歩の才([文才に恵まれていること]。曹操の子、曹植のこと)を凌ぎ、文は漢魏の芳潤([香り高くうるおいのあること。 また、その様])をくちすすぎ([すぐれた詩文を味わい学ぶ])、万巻の書を諳んじて、貞観十二年(870)三月二十三日には対策([ 律令制の官吏登用試験の一。文章博士が問題を出して文章得業生に答えさせるもの])に及第して詞場([詩文などを作る所。また、詩人・文人の社会 ])に折桂([日本の律令制で、官吏登用試験の策試に合格すること])しました。その年の春都良香よしか(菅原道真の師で平安時代の漢詩歌人)の家に人が集まって弓を射るところに菅少将(菅原道真)がやって来ました。都良香は、この公はきっと、学窓に蛍を集め、稽古([学問])ばかりしておるから、弓の本末([弓の下=本。と上=末])も知らぬであろう。的を射させて笑ってやろうと思い、的矢に弓を取り添え菅少将の御前に置いて、「春の初めです、一つ遊ばれよ」と勧めました。菅少将はわずかも辞退せず、相手に立ち合い、雪のような膚を押肌脱いで、打ち上げて引き下ろすより、しばらく弓を引き絞り固める姿、切って離す矢色([放たれて、飛んでいく矢の勢い])・弦音・弓倒し([矢所を見ながら両手を腰の位置に戻す時、弓を前面に倒す動作])、五善([弓を射る時の五つのよい形])はいずれもたくましく勢いがあって、矢壺を一寸も外さず、五度の十([弓の勝負は一度に二矢ずつ五度で決するところから、射た矢がすべて的に当たること])でした。都良香は感に堪えかねて、自ら下りて手を引き、酒宴は数刻に及び、様々の引出物を贈りました。


続く


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by santalab | 2017-03-24 08:11 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その7)

そもそもかの天満大神とまうすは、風月の本主、文道ぶんだうの大祖たり。天におはしましては日月じつげつに顕光照国土、地に降下あまくだつては塩梅えんばいの臣と成つて群生ぐんしやうを利し給ふ。その始めを申せば、菅原すがはらの宰相是善ぜぜんきやうの南庭に、五六歳許りなる小児せうにの容顔美麗なるが、詠前栽花ただ一人立ち給へり。菅相公くわんしやうこう怪しと見給ひて、「君はいづれの処の人、が家のなんにておはしますぞ」と問い給ふに、「我は無父無母、願はくは相公しやうこうを親とせんと思ひはんべるなり」と被仰ければ、相公嬉しく思し召して、手づから奉舁懐、鴛鴦ゑんあうふすまの下に、恩愛の養育を為事生はごくみ奉り、御名をばくわん少将とぞまうしける。未だ習はずして悟道、御才学さいかく世にまたたぐひも非じと見え給ひしかば、十一歳に成らせ給ひし時父菅相公くわんしやうこう御髪を掻き撫でて、「もし詩や作り給ふべき」と問ひまゐらせ給ひければ、少しも案じたる御気色もなうて、

月耀如晴雪
梅花似照星
可憐金鏡転
庭上玉芳馨

寒夜かんやの即事を、言葉明らかに五言ごごんの絶句にぞ作らせ給ひける。




そもそもかの天満大神と申すは、風月([自然と交わり、詩歌を作ること])の本主、文道の大祖です。天にあられては日月に光を顕わし国土を照らし、地に下っては塩梅([君主を助けて、政務をよく処理すること])の臣となって群生に利益を与えました。事の起こりは、菅原宰相是善卿(菅原是善これよし)の南庭に、五六歳ばかりの容顔美麗な小児が、前栽([草木を植え込んだ庭])花を詠んでただ一人立っていました。菅相公(是善)は不思議に思って、「君はどこの人か、誰の家の男子か」と訊ねると、「わたしには父も母もおりません、願わくは相公を親としたいのです」と申したので、相公はうれしく思って、自ら手で舁き懐き、鴛鴦の衾([男女が共寝する寝床])の下に、恩愛の養育をなして、菅少将と呼びました。習わずして道を悟り、才学は世に並ぶ者なしと思えたので、十一歳になった時父の菅相公は髪を掻き撫でて、「詩は作れるか」と訊ねると、少しも案じる気色もなく、

月の輝きは晴れた日の雪のように明るく、
梅の花は光る星のようです。
金鏡が天に上り、
庭上に玉房([先が玉のようになった房])をちりばめたようです。

と寒夜の風景を、明確五言絶句([漢詩の詩体の一。起・承・転・結の四句からなり、一句が五字のもの])を作りました。


続く


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by santalab | 2017-03-23 08:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」大内裏造営の事付聖廟の御事(その6)

ほういらか翔天虹のうつばり聳雲、さしもいみじく被造双たりし大内裏、天災を消すに無便、回禄くわいろく度々に及んで、今は昔のいしずゑのみ残れり。尋回禄由、かの唐尭たうげう虞舜ぐじゆんの君は支那四百州のあるじとして、その徳天地に応ぜしかども、「茆茨不剪、柴椽不削」とこそまうし伝へたれ。いはんや粟散国ぞくさんこくの主として、この大内このだいだいを被造たる事、その徳不可相応。後王こうわうもし無徳にして欲令居安給はば、国の財力もこれによつて可尽と、高野大師かうやだいし鑒之、門々の額を書かせ給ひけるに、大極殿だいごくでんの大の字の中を引き切つて、くわと云ふ字に成し、朱雀門しゆじやくもんの朱の字をべいと云ふ字にぞ遊ばしける。小野の道風たうふう見之、大極殿は火極殿くわこくでん、朱雀門は米雀門べいじやくもんとぞ難じたりける。大権たいごん聖者しやうじや鑒未来書き給へる事を、凡俗として難じまうしたりける罰ばつにや、その後より道風執筆、手ふるひて文字正しからざれども、草書さうしよに得妙人なれば、戦うて書きけるも、やがて筆勢にぞ成りにける。遂に大極殿より火出でて、諸司八省しよしはつしやう悉く焼けにけり。無程また造営ざうえいありしを、北野天神の御眷属けんぞく火雷気毒神くわらいきどくじん清涼殿せいりやうでんひつじさるの柱に落ち掛かり給ひし時焼けけるとぞうけたまはる。




鳳の甍は天を翔け虹の梁は雲に従う、さしも厳しく造り並べた大内裏も、天災を消ことはできず、回禄([火災])は度々に及んで、今は昔の礎が残るばかりでした。どうして回禄が起こったかというと、かの尭([中国神話に登場する君主])・舜([中国神話に登場する君主])の君は支那四百州の主として、その徳は天地に叶うものでしたが「茆茨([かやぶきの屋根])を切らず、柴の椽([屋根板を支えるために棟木から軒桁に架け渡す長い材])を削らず」と伝えられています(『鼓腹撃壌』)。申すまでもなく粟散国([粟粒を散らしたような小国。日本])の主として、この大内裏を造ることは、その徳に相応したものではありませんでした。後王に徳なくして大内裏に安住すれば、国の財力も尽きるであろうと、高野大師(空海)はこれを戒めて、門々の額を書く時、大極殿の大の字の中を引き切って、火という字に成し、朱雀門の朱の字を米と書きました。小野道風(平安時代の貴族・能書家)はこれを見て、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門だと非難しました。大権の聖者が未来を戒めて書いたのを、凡俗として非難した罰か、その後より道風が執筆しようとすると、手が震えて文字を正しく書けなくなりましたが、草書が得意な人でしたので、敢えて書いたものが、やがて筆勢([筆力])になりました。遂に大極殿より火が出て、諸司八省は残らず焼けました。ほどなまた造営がありましたが、北野天神の眷属([一族])火雷気毒神が、清涼殿の坤([南西])の柱に落ち掛かった時に焼けたと聞いております。


続く


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by santalab | 2017-03-22 07:25 | 太平記 | Comments(0)

    

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