Santa Lab's Blog


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「太平記」武蔵野合戦の事(その6)

三番に饗庭あいば命鶴みやうづる生年しやうねん十八歳じふはつさい容貌ようばう当代無双ぶさうちごなるが、今日花一揆の大将なれば、殊更花を折つて出で立ち、花一揆六千余騎が真つさきに懸け出でたり。新田武蔵のかみこれを見て、「花一揆を散らさん為に児玉党を向かはせ、打ち輪の旗は風を含める物なり」とて、児玉党七千余騎を差し向けらる。花一揆皆若武者なれば思慮もなく敵に懸かりて、一戦ひ戦ふとぞ見へし。児玉党七千余騎に被揉立、一かへしも返さずはつと引く。自余の一揆は、駆くる時は一手に成つて懸かり、引く時は左右へ颯と別れて、荒手を入れ替へさすればこそ、後陣ごぢんは騒がで懸け違ひたれ。




三番に饗庭命鶴(饗庭氏直うぢなほ)は生年十八歳、容貌当代無双の稚児でしたが、今日の花一揆の大将でしたので、殊更花を折って出で立ち、花一揆六千余騎が真つ先に駆け出でました。新田武蔵守(新田義宗よしむね。新田義貞の三男)はこれを見て、「花一揆を蹴散らすために児玉党([武蔵七党の一])を向かわせよう、団扇の旗(児玉党の紋は、軍配団扇紋)は風を起こすものよ」と申して、児玉党七千余騎を差し向けました。花一揆は皆若武者でしたので思慮もなく敵に懸かって、戦うように見えました。児玉党七千余騎に攻め立てられて、一返しも返さずぱっと引きました。自余の一揆は、駆ける時は一手になって懸かり、引く時には左右へさっと別れて、入れ替わりに、後陣がさっと駆け違いました。


続く


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by santalab | 2017-04-30 09:07 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北山殿謀反の事(その4)

已に明日午の刻に可有臨幸由、被相触たりけるその夜、主上しゆしやう且く御目睡まどろみありける御夢に、赤き袴に鈍色にぶいろの二つ衣著たる女一人来たつて、「前には虎狼こらうの怒れるあり。後ろには熊羆いうひの猛きあり、明日の行幸ぎやうがうをば思し召し留まらせ給ふべし」とぞまうしける。主上御夢のうちに、「なんぢはいづくより来たれる者ぞ」と御たづねありければ、「神泉園しんぜんゑんあたりに多年住みはんべる者なり」と、答へ申して立ちかへりぬと被御覧、御夢は無程覚めにけり。主上怪しき夢の告げなりと被思召ながら、これまで事定まりぬる臨幸りんかう、期に臨んでは如何が可被停と被思し召しければ、つひ鳳輦ほうれんを被促。乍去夢の告げ怪しければとて、先づ神泉苑しんぜんゑん幸成みゆきなつて、竜神の御手向けありけるに、池水ちすゐ俄かに変じて、風不吹白浪岸を打つ事頻りなり。




すでに明日午の刻([午前十二時頃])に臨幸なされると、触れたその夜、主上(第九十六代後醍醐天皇)がしばらく目睡まれた夢に、赤い袴に鈍色([濃い灰色])の二つ衣を着た女が一人現れて、「前には怒れる虎狼がいます。後ろには猛き熊羆([熊とひぐま)])がいます、明日の行幸は思い止まられるよう」と申しました。主上は夢の中で、「お主はどこから来た者ぞ」と訊ねられると、「神泉苑(現京都市中京区にある寺院)のあたりに住んでおります者です」と、答え申して立ち帰りぬとご覧になられて、夢はほどなく醒めました。主上は不思議な夢の告げだと思われながらも、これまで事定まりぬ臨幸を、期に臨んでどうして止められようかと思われて、遂に鳳輦([屋形の上に金銅の鳳凰を飾った輿 。天皇の晴れの儀式の行幸用のもの])に召されましたが、夢の告げを怪しく思われて、まず神泉苑に御幸になられて、竜神に手向けられると、池水はにわかに変じて、風も吹かぬのにしきりに浪岸を打ちました。


続く


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by santalab | 2017-04-30 08:59 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」武蔵野合戦の事(その5)

二番に脇屋左衛門さゑもんすけが二万余騎と、白旗一揆が二万七千余騎と、東西より相懸あひがかりに懸かつて、一所にさつと入り乱れ、火を散らして戦ふに、汗馬かんばの馳せ違ふ音、太刀の鐔音つばおと、天に光り地に響く。あるひは引つ組んで首を取るもあり被取もあり、あるひは弓手馬手ゆんでめてに相付きて、切つて落とすもあり被落もあり。血は馬蹄に被蹴懸紅葉もみぢそそく雨の如く、かばね野径やけいに横たはつて尺寸せきすんの地も不余。追ひ靡け懸け立てられ、七八度がほど戦つて東西へさつと別れたれば、敵御方に討たるる者また五百人に及べり。




二番に脇屋左衛門佐(脇屋義治よしはる。新田義貞の弟、脇屋義助よしすけの子)の二万余騎と、白旗一揆の二万七千余騎が、東西より相懸かりに懸かって、一所にさっと入り乱れ、火を散らして戦いました、汗馬の馳せ違う音、太刀の鐔音が、天に光り地に響きました。あるいは引っ組んで首を取るもあり取られるもあり、あるいは弓手馬手([左右])に付いて、斬って落とす者もあり落とされる者もありました。血は馬蹄に蹴り駆けられて紅葉に降る雨の如く、屍は野径([野路])に横たわって尺寸の地も残しませんでした。追い靡け駆け立てられ、七八度ほど戦って東西へさっと別れると、敵味方に討たれる者は五百人に及びました。


続く


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by santalab | 2017-04-29 08:52 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北山殿謀反の事(その3)

如此諸方の相図あひづを同時に定めて後、西のきやうより番匠ばんじやう数多あまた召し寄せて、俄かに温殿ゆどのをぞ被作ける。その襄がり場に板を一間蹈めば落つるやうに構へて、その下に刀のひしを被殖たり。これは主上しゆしやう御遊ぎよいうの為に臨幸りんかう成りたらんずる時、華清宮くわせいきゆう温泉をんせんなぞらへて、浴室の宴を勧めまうして、君をこの下へ陥とし入れ奉らん為のくはだてなり。加様かやうに様々のはかりことを定めつはものを調へて、「北山の紅葉もみぢ御覧の為に臨幸成り候へ」と被申ければ、すなはち日を被定、行幸ぎやうがう儀則ぎそくをぞ被調ける。




こうして諸方の相図を同時に定めた後、西ノ京(現京都市中京区)より番匠([中世日本において木造建築に関わった建築工])を数多く召し寄せて、急ぎ温殿を作らせました。その上がり場に板を一間踏めば落ちるように施して、その下に刀の菱([武器の一。鉄製で菱の実形に作り、先端をとがらせたもの])を植えてありました。これは主上(第九十六代後醍醐天皇)が御遊のために臨幸になられる時、華清宮(長安=現西安市の東北に、唐代に造られた離宮。『長恨歌』において、楊貴妃が湯浴みしたことで知られる)の温泉に準えて、浴室の宴を勧め申して、君をこの下へ落とし入れるための企てでした。こうして様々の謀を定め兵を揃えて、「北山の紅葉をご覧のために臨幸なされませ」と申せば、たちまち日を定められて、行幸の儀則([儀式])を調えられました。


続く


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by santalab | 2017-04-29 08:47 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」武蔵野合戦の事(その4)

去るほどに新田・足利両家りやうけの軍勢二十万騎にじふまんぎ、小手差原に打ち臨んで、敵三声みこゑ鬨を作れば御方も三度鬨の声を合はす。上は三十三天さんじふさんてんまでも響き、下は金輪際迄も聞こゆらんとおびたたし。先づ一番に新田左兵衛さひやうゑすけが二万余騎と、平一揆たひらいつきが三万余騎と懸け合はせて、追つつかへしつ合うつ分かれつ、半時計り相戦つて、左右へさつと引ききたれば、両方に討たるる兵八百余人、疵をかうむる者は未だかぞふるに不遑。




やがて新田・足利両家の軍勢二十万騎が、小手指原(現埼玉県所沢市)に打ち臨んで、敵が三声鬨を作れば味方も三度鬨の声を合わせました。上は三十三天([忉利天たうりてん。六欲天の下から二番目の天。帝釈天がその中心に住む])までも響き、下は金輪際([大地の最下底のところ])までも聞こえるかと思われるほどでした。まず一番に新田左兵衛佐(新田義興よしおき。新田義貞の次男)の二万余騎と、平一揆の三万余騎が駆け合わせて、追いつ返しつ合いつ分かれつ、半時ばかり戦って、左右へさっと引き退けば、両方に討たれる兵は八百余人、疵を被る者は数え切れませんでした。


続く


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by santalab | 2017-04-28 08:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北山殿謀反の事(その2)

ある夜政所せいしよの入道、大納言殿の前に来たつてまうしけるは、「国の興亡きようばうを見るには、まつりごとの善悪を見るに不如、政の善悪を見るには、賢臣の用捨を見るに不如、されば微子びし去つていんの代傾き、范増はんぞう被罪楚王そわう滅びたり。今の朝家てうけにはただ藤房ふぢふさ一人のみにてさふらひつるが、未然に凶をかんがみて、隠遁の身と成り候ふ事、朝廷の大凶たいきよう当家たうけの御運とこそ思えて候へ。急ぎ思し召し立たせ給ひ候はば、前代の余類よるゐ十方より馳せまゐつて、天下をくつがへさん事、一日を不可出」とぞ勧めまうける。公宗卿きんむねきやうげにもと被思ければ、時興ときおきを京都の大将として、畿内近国の勢を被催。そのそのをひ相摸次郎時行ときゆきをば関東くわんとうの大将として、甲斐かひ・信濃・武蔵・相摸の勢を付けらる。名越なごや太郎時兼ときかぬをば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。




ある夜政所入道が、大納言殿(西園寺公宗きんむね)の御前に参って申すには、「国の興亡を見るには、政の善悪を見るには、賢臣の用捨を見るに如かずと申します、微子(微子啓びしけい。殷の王族)が去って殷の時代は傾き、范増(秦末期の楚の軍師)は罪を被り楚王(項羽。秦末期の楚の武将)は滅びました(范増は病死らしい)。今の朝家に賢臣はただ藤房(万里小路藤房)一人のみでございましたが、未然に凶を鑑みて、隠遁の身となりましたこと、朝廷の大凶、当家の幸運と思われます。急ぎ思い立たれますれば、前代(北朝初代光厳天皇)の余類が十方より馳せ参って、天下を覆すこと、一日にして叶いましょう」と勧め申しました。公宗卿もなるほどと思われて、時興(北条泰家やすいへ。鎌倉幕府第九代執権、北条貞時さだときの四男)を京都の大将として、畿内近国の勢を催しました。泰家の甥の相摸次郎時行(北条時行。鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかときの子)を関東の大将として、甲斐・信濃・武蔵・相摸の勢を付けました。名越太郎時兼(名越時兼=北条時兼)を北国の大将として、越中・能登・加賀の勢を集めました。


続く


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by santalab | 2017-04-28 08:23 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北山殿謀反の事(その1)

故相摸入道にふだうの舎弟、四郎しらう左近の大夫入道は、元弘の鎌倉合戦の時、自害したる真似をして、潛かに鎌倉を落ちて、しばしは奥州あうしうにありけるが、人に見知られじが為に、還俗して京都に上り、西園寺殿さいをんじどのを憑み奉て、田舎侍ゐなかさぶらひの始めて召し仕はるるていにてぞ居たりける。これも承久しようきうの合戦の時、西園寺の太政だいじやう大臣公経公きんつねこう関東くわんとうへ内通の旨ありしに依つて、義時よしときその日の合戦に利を得たりし間、子孫七代まで、西園寺殿を可憑申と云ひ置きたりしかば、今に至るまで武家異他思ひを成せり。これによつて代々の立后も、おほくはこの家より出でて、国々の拝任も半ばはその族にあり。然ればくわん太政大臣に至り、位一品くらゐいつぼん極位ごくゐを不極と云ふ事なし。偏へにこれ関東くわんとう贔屓の厚恩なりと被思けるにや、如何にもして故相摸入道が一族を取り立てて、再び天下の権を取らせ、我が身公家の執政として、四海をたなごころに握らばやと被思ければ、この四郎左近の大夫入道を還俗せさせ、刑部ぎやうぶ少輔せう時興ときおきと名を替へて、明け暮れはただ謀反の計略をぞ被回ける。




故相摸入道(鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかとき)の舎弟、四郎左近大夫入道(北条泰家やすいへ)は、元弘の鎌倉合戦の時、自害した振りをして、密かに鎌倉を落ちて、しばらくは奥州にいましたが、人に見知られぬために、還俗して京都に上り、西園寺殿(西園寺公宗きんむね)を頼んで、田舎侍として初めて召し仕える体で潜伏していました。承久合戦の時、西園寺太政大臣公経公(西園寺公経)が、関東(鎌倉幕府)に内通し、義時(北条義時。鎌倉幕府第二代執権)がその日の合戦に勝ったので、子孫七代まで、西園寺殿を頼み申すべきと言い置きしたので、今に至るまで他の武家と同じように思っていませんでした。これによって代々の立后も、多くはこの家より出て、国々の拝任も半ばは西園寺一族が務めました。こうして官は太政大臣に至り、位一品の極位を極めずということはありませんでした。ひとえにこれは関東贔屓の厚恩と思っていたのか、如何にもして故相摸入道(北条高時)の一族を取り立てて、再び天下の権を取らせ、我が身は公家の執政として、四海([国内])を掌に握ろうと思い、この四郎左近大夫入道(北条泰家)を還俗させ、刑部少輔時興と名を替えて、明け暮れはただ謀反の計略を廻らせました。


続く


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by santalab | 2017-04-27 06:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」武蔵野合戦の事(その3)

五陣は仁木左京大夫頼章よりあきら・舎弟越後ゑちごかみ義長よしなが・三男修理しゆりすけ義氏よしうぢ、その勢三千余騎、笠符をも不著、旌をも不差、遥かの外に引き退けて、馬より下りてぞ居たりける。これは両方大勢の合戦なれば、十度じふど二十度懸け合ひ懸け合ひ戦はんに、敵も御方も気をくつし、力疲れぬ事不可有。その時荒手に代はりて、敵の大将の控へたらんずる所を見澄まして、夜討ちせんが為なりけり。




五陣は仁木左京大夫頼章(仁木頼章)・舎弟越後守義長(仁木義長)・三男修理亮義氏(仁木義氏)が、その勢三千余騎で、笠符も付けず、旗をも差さず、遥か外に引き退けて、馬から下りて控えました。これは両方大勢の合戦でしたので、十度二十度駆け合って戦えば、敵も味方も、戦い疲れるであろうと思ってのことでした。その時新手に代わって、敵の大将が控える所を見澄まして、夜討ちにするためでした。


続く


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by santalab | 2017-04-26 08:06 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その6)

代々の御門崇之家々の賢臣敬之。もし旱魃かんばつ起こる時は先づ池を浄む。然るを後鳥羽の法皇ほふわうり居させ給ひて後、建保けんほうの頃よりこの所すたれ、荊棘けいぎよく路を閉づるのみならず、猪鹿ちよろくの害蛇放たれ、流鏑かぶらの音驚護法聴、飛蹄ひていの響き騒冥衆心。有心人不恐歎云ふ事なし。承久しようきうの乱の後、故武州禅門ごぶしうぜんもんひそかに悲此事、高築垣堅門被止雑穢。その後涼燠りやういくしばしば改まつて門牆もんしやうやうやく不全。不浄汚穢ふじやうわゑの男女出入無制止、牛馬水草を求むる往来わうらい無憚。定めて知んぬ竜神不快か。早く加修理可崇重給。崇此所国土可治なり。




代々の帝家々の賢臣が神泉苑(現京都市中京区にある寺院)を崇めました。旱魃が起これば池を浄めました。けれども後鳥羽法皇(第八十二代天皇)が位を下りられた後、建保(第八十四代順徳天皇の御宇)の頃より廃れて、荊棘が路を閉じるのみならず、猪鹿害蛇が放たれ、流鏑矢の音は護法([護法善神]=[仏法を守護する鬼神])の耳を驚かせ、蹄の響きは天まで響き冥衆([閻魔王や梵天など、人の目に見えない鬼神や諸天])の心を騒がせました。心ある人は恐れ嘆かぬ者はいませんでした。承久の乱(1221)の後、故武州禅門(鎌倉幕府第二代執権、北条泰時やすとき)は密かにこれを悲しんで、高い築垣([土塀])で門を閉じ雑穢([様々な穢れ])を防ぎました。その後涼燠(年号)はしばしば改まって門牆([門と垣])は崩れました。不浄汚穢の男女が出入りし、牛馬が水草を求めて往来を憚ることはありませんでした。きっと竜神は不快に思われておられることでしょう。ただちに修理を加え厚く敬うことにしました。必ずや国土が治まる基となることでしょう。


続く


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by santalab | 2017-04-26 07:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その5)

大師ちがやと云ふ草を結んで、竜の形に作つて壇上に立てて行はせ給ひける。法成就の後、聖衆しやうじゆを奉送給ひけるに、まことの善女龍王をば、やがて神泉園しんぜんゑんに留め奉つて、「竜華下生三会りゆうげげしやうさんゑの暁まで、守此国治我法給へ」と、御契約ありければ、今まで迹を留めてかの池に住み給ふ。かの茅の竜王は大龍に成つて、無熱池むねつちへ飛びかへり給ふとも云ひ、あるひは云はく聖衆と共に空に昇つて、指東を、飛び去り、尾張をはりの国熱田の宮に留まり給ふとも云ふ説あり。仏法東漸とうぜん先兆せんてう、東海鎮護の奇瑞きずゐなるにや。大師の言はく、「もしこの竜王他界に移らば池浅く水少なくして国荒れ世とぼしからん。その時は我が門徒加祈請、竜王を奉請留可助国」のたまへり。今は水浅く池あせたり。恐らくは竜王移他界給へるか。しかれども請雨経しやううぎやうの法被行ごとに掲焉けつえんの霊験なほ不絶、未だ国を捨て給ふに似たり、風雨叶時感応奇特かんおうきどくの霊池なり。




弘法大師(空海)はチガヤ([イネ科チガヤ属])という草を結んで、竜の形に作って壇上に立てて修法を行いました。法成就の後、聖衆([極楽浄土の諸菩薩])を送られましたが、善女龍王([『法華経・提婆達多品』に現れる八大竜王の一尊])は、神泉苑(現京都市中京区にある寺院)に留められて、「竜華下生三会([弥勒菩薩が、釈迦の滅後五十六億七千万年後に、この世に下生して龍華樹の下で悟りを開き、衆生済度のために開くという三番の法会])の暁まで、我が法の長としてこの国を守られよ」と、契約されたので、今まで跡を留めてかの池に住んでおられます。かの茅の竜王は大龍になって、無熱池([阿耨達池あのくだつち]=[ヒマラヤの北にあるという想像上の池。阿耨達竜王が住むという])へ飛び帰ったとも、あるいは聖衆と共に空に昇って、東を指して、飛び去り、尾張国熱田宮(現愛知県名古屋市熱田区にある熱田神宮)に留まったという説もあります。仏法東漸([文明や勢力が次第に東方に移り進むこと])の先兆([前兆])、東海鎮護の奇瑞([めでたいことの前ぶれとして起こる不思議な現象])でしたか。弘法大師の言葉に、「もし善女竜王が他界に移れば池浅く水少なくして国は荒れ世は疲弊するであろう。その時は我が門徒が祈請を加え、竜王を留め奉り国を助けよう」と申されました。今は水は浅く池は干上がっています。もしや竜王は他界に移られたのでしょうか。けれども請雨経法([日照りの時、諸大竜王を勧請して降雨を祈る修法])を行うたびに掲焉([明らかな様])の霊験はなお絶えず、いまだ国を捨てておられぬやと、風雨が叶う時には感応([人に対する仏の働きかけと、それを受け止める人の心。また、信心が神仏に通じること])格別の霊池でした。


続く


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by santalab | 2017-04-25 08:54 | 太平記 | Comments(0)

    

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