Santa Lab's Blog


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「太平記」武蔵野合戦の事(その4)

去るほどに新田・足利両家りやうけの軍勢二十万騎にじふまんぎ、小手差原に打ち臨んで、敵三声みこゑ鬨を作れば御方も三度鬨の声を合はす。上は三十三天さんじふさんてんまでも響き、下は金輪際迄も聞こゆらんとおびたたし。先づ一番に新田左兵衛さひやうゑすけが二万余騎と、平一揆たひらいつきが三万余騎と懸け合はせて、追つつかへしつ合うつ分かれつ、半時計り相戦つて、左右へさつと引ききたれば、両方に討たるる兵八百余人、疵をかうむる者は未だかぞふるに不遑。




やがて新田・足利両家の軍勢二十万騎が、小手指原(現埼玉県所沢市)に打ち臨んで、敵が三声鬨を作れば味方も三度鬨の声を合わせました。上は三十三天([忉利天たうりてん。六欲天の下から二番目の天。帝釈天がその中心に住む])までも響き、下は金輪際([大地の最下底のところ])までも聞こえるかと思われるほどでした。まず一番に新田左兵衛佐(新田義興よしおき。新田義貞の次男)の二万余騎と、平一揆の三万余騎が駆け合わせて、追いつ返しつ合いつ分かれつ、半時ばかり戦って、左右へさっと引き退けば、両方に討たれる兵は八百余人、疵を被る者は数え切れませんでした。



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by santalab | 2017-04-28 08:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北山殿謀反の事(その2)

ある夜政所せいしよの入道、大納言殿の前に来たつてまうしけるは、「国の興亡きようばうを見るには、まつりごとの善悪を見るに不如、政の善悪を見るには、賢臣の用捨を見るに不如、されば微子びし去つていんの代傾き、范増はんぞう被罪楚王そわう滅びたり。今の朝家てうけにはただ藤房ふぢふさ一人のみにてさふらひつるが、未然に凶をかんがみて、隠遁の身と成り候ふ事、朝廷の大凶たいきよう当家たうけの御運とこそ思えて候へ。急ぎ思し召し立たせ給ひ候はば、前代の余類よるゐ十方より馳せまゐつて、天下をくつがへさん事、一日を不可出」とぞ勧めまうける。公宗卿きんむねきやうげにもと被思ければ、時興ときおきを京都の大将として、畿内近国の勢を被催。そのそのをひ相摸次郎時行ときゆきをば関東くわんとうの大将として、甲斐かひ・信濃・武蔵・相摸の勢を付けらる。名越なごや太郎時兼ときかぬをば北国の大将として、越中・能登・加賀の勢をぞ被集ける。




ある夜政所入道が、大納言殿(西園寺公宗きんむね)の御前に参って申すには、「国の興亡を見るには、政の善悪を見るには、賢臣の用捨を見るに如かずと申します、微子(微子啓びしけい。殷の王族)が去って殷の時代は傾き、范増(秦末期の楚の軍師)は罪を被り楚王(項羽。秦末期の楚の武将)は滅びました(范増は病死らしい)。今の朝家に賢臣はただ藤房(万里小路藤房)一人のみでございましたが、未然に凶を鑑みて、隠遁の身となりましたこと、朝廷の大凶、当家の幸運と思われます。急ぎ思い立たれますれば、前代(北朝初代光厳天皇)の余類が十方より馳せ参って、天下を覆すこと、一日にして叶いましょう」と勧め申しました。公宗卿もなるほどと思われて、時興(北条泰家やすいへ。鎌倉幕府第九代執権、北条貞時さだときの四男)を京都の大将として、畿内近国の勢を催しました。泰家の甥の相摸次郎時行(北条時行。鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかときの子)を関東の大将として、甲斐・信濃・武蔵・相摸の勢を付けました。名越太郎時兼(名越時兼=北条時兼)を北国の大将として、越中・能登・加賀の勢を集めました。



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by santalab | 2017-04-28 08:23 | 太平記 | Comments(0)


太平記

巻第一

後醍醐天皇御治世の事付武家繁昌の事
関所停止の事
立后事付三位殿御局事
儲王の御事
中宮御産御祈之事付俊基偽篭居の事
資朝俊基関東下向の事付御告文の事
無礼講の事付玄恵文談の事
頼員の事

巻第二
南都北嶺行幸の事
僧徒六波羅召捕事付為明詠歌の事
三人の僧徒関東下向の事
俊基朝臣再関東下向の事
長崎新左衛門尉意見の事付阿新殿の事
俊基被誅事並助光事
天下怪異の事
師賢登山の事付唐崎浜合戦の事
持明院殿御幸六波羅の事
主上臨幸依非実事山門変儀の事付紀信事

巻第三
主上御夢の事付楠事
笠置軍事付陶山小見山夜討事
主上御没落笠置事
赤坂城軍の事
桜山自害事

巻第四
笠置囚人死罪流刑の事付藤房卿の事
八歳宮御歌の事
一宮並妙法院二品親王の御事
俊明極参内の事
中宮御歎の事
先帝遷幸の事
備後三郎高徳事付呉越軍の事

巻第五
持明院殿御即位の事
宣房卿二君奉公の事
中堂新常灯消事
相摸入道弄田楽並闘犬の事
時政参篭榎嶋事
大塔宮熊野落の事

巻第六
民部卿三位局御夢想の事
楠出張天王寺の事付隅田高橋並宇都宮の事
正成天王寺未来記披見の事
赤松入道円心賜大塔宮令旨事
関東大勢上洛事
赤坂合戦の事付人見本間抜懸の事

巻第七
吉野城軍事
千剣破城軍の事
新田義貞賜綸旨事
赤松蜂起事
河野謀反事
先帝船上臨幸事
船上合戦事

巻第八
摩耶合戦の事付酒部瀬河合戦の事
三月十二日合戦の事
持明院殿行幸六波羅事
禁裡仙洞御修法の事付山崎合戦の事
山徒寄京都事
四月三日合戦の事付妻鹿孫三郎勇力の事
主上自令修金輪法給ふ事付千種殿京合戦の事
谷堂炎上事

巻第九
足利殿御上洛事
山崎攻の事付久我畷合戦の事
足利殿打越大江山事
足利殿着御篠村則国人馳参事
高氏被篭願書於篠村八幡宮事
六波羅攻の事
主上・上皇御沈落事
越後守仲時以下自害の事
主上・上皇為五宮被囚給事付資名出家の事
千葉屋城寄手敗北の事

巻第十
千寿王殿被落大蔵谷事
新田義貞謀反の事付天狗催越後勢事
三浦大多和合戦意見の事
鎌倉合戦の事
赤橋相摸守自害の事付本間自害の事
稲村崎成干潟事
鎌倉兵火の事付長崎父子武勇の事
大仏貞直並金沢貞将討死の事
信忍自害の事
塩田父子自害の事
塩飽入道自害の事
安東入道自害の事付漢王陵事
亀寿殿令落信濃事付左近の大夫偽落奥州事
長崎高重最期合戦の事
高時並一門以下於東勝寺自害の事

巻第十一
五大院右衛門宗繁賺相摸太郎事
諸将被進早馬於船上事
書写山行幸の事付新田注進の事
正成参兵庫事付還幸の事
筑紫合戦の事
長門探題降参の事
越前牛原地頭自害の事
越中守護自害の事付怨霊の事
金剛山寄手ら被誅事付佐介貞俊事

巻第十二
公家一統政道の事
大内裏造営の事付聖廟の御事
安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事
千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事
広有射怪鳥事
神泉苑の事
兵部卿親王流刑の事付驪姫事

巻第十三
北山殿謀反の事
中前代蜂起の事

巻第十四
将軍御進発大渡・山崎等合戦の事
主上都落の事付勅使河原自害の事
長年帰洛の事付内裏炎上の事
将軍入洛の事付親光討死の事
坂本御皇居並御願書の事

巻第十五
園城寺戒壇事
奥州勢着坂本事
三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事
建武二年正月十六日合戦事
正月二十七日合戦事
将軍都落事付薬師丸帰京事
大樹摂津国豊嶋河原合戦事
主上自山門還幸の事
賀茂神主改補事

巻第十六
将軍筑紫御開の事
小弐与菊池合戦事付宗応蔵主事

備中福山合戦事
新田殿被引兵庫事
正成下向兵庫事
兵庫海陸寄手事
本間孫四郎遠矢事
経嶋合戦事
正成兄弟討死事
新田殿湊河合戦事
小山田太郎高家刈青麦事
聖主又臨幸山門事
持明院本院潜幸東寺事
日本朝敵の事
正成首送故郷事

巻第十七
義貞北国落事
還幸供奉人々被禁殺事
北国下向勢凍死事

巻第十九
光厳院殿重祚の御事
本朝将軍補任兄弟無其例事
新田義貞落越前府城事
金崎東宮並将軍宮御隠の事
諸国宮方蜂起の事
相摸次郎時行勅免の事
奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛の事
追奥勢跡道々合戦の事
青野原軍事付嚢沙背水事

巻第二十
黒丸城初度軍の事付足羽度々軍の事
越後勢越越前事
宸筆の勅書被下於義貞事

八幡炎上の事
義貞重黒丸合戦の事付平泉寺調伏法の事
義貞夢想の事付諸葛孔明事
義貞の馬属強の事
義貞自害の事
義助重集敗軍事
義貞の首懸獄門事付勾当内侍の事
奥州下向勢逢難風事
結城入道堕地獄事

巻第二十一
天下時勢粧の事
佐渡判官入道流刑の事
法勝寺の塔炎上の事
先帝崩御の事
南帝受禅の事
任遺勅被成綸旨事義助攻落黒丸城事

巻第二十二
作々木信胤成宮方事
義助予州下向の事
義助朝臣病死の事付鞆軍の事
大館左馬助討死の事付篠塚勇力の事

巻第二十三
大森彦七事
就直義病悩上皇御願書の事
土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事

巻第二十四
三宅・荻野謀反の付壬生地蔵の事

巻第二十五
持明院殿御即位事付仙洞事

自伊勢進宝剣事黄粱夢事
住吉合戦の事

巻第二十六
正行参吉野事

巻第二十七
右兵衛佐直冬鎮西没落事
左馬頭義詮上洛事
直義朝臣隠遁の事付玄慧法印末期の事
上杉畠山流罪死刑の事
大嘗会の事

巻第二十八
義詮朝臣御政務事
太宰少弐奉聟直冬事
三角入道謀反事
直冬朝臣蜂起の事付将軍御進発の事

巻第二十九
宮方京攻事
将軍上洛事付阿保秋山河原軍事
将軍親子御退失事付井原石窟事
越後守自石見引返事
光明寺合戦の事付師直怪異の事
小清水合戦の事付瑞夢の事
松岡の城周章の事
師直師泰出家事付薬師寺遁世事
師冬自害事付諏方五郎事
師直以下被誅事付仁義血気勇者の事

巻第三十
将軍御兄弟和睦事付天狗勢汰事
高倉殿京都退去の事付殷紂王の事
直義追罰の宣旨御使の事付鴨社鳴動の事
薩多山合戦の事
慧源禅門逝去の事
吉野殿与相公羽林御和睦の事付住吉松折事
相公江州落事
持明院殿吉野遷幸事付梶井宮事

巻第三十一
新田起義兵事
武蔵野合戦の事

巻第三十二
主上義詮没落事付佐々木秀綱討死事

巻第三十三
京軍事
八幡御託宣の事

将軍御逝去事
新待賢門院並梶井宮御隠事
崇徳院御事
菊池合戦事
新田左兵衛佐義興自害事

巻第三十四
宰相中将殿賜将軍宣旨事

龍泉寺軍の事

巻第三十五
新将軍帰洛の事付擬討仁木義長事

北野通夜物語の事付青砥左衛門事

巻第三十六
仁木京兆参南方事付大神宮御託宣事
大地震並夏雪事
天王寺造営事付京都御祈祷事
山名伊豆守落美作城事付菊池軍事
秀詮兄弟討死事
清氏反逆事付相摸守子息元服事
頓宮心替事付畠山道誓事

巻第三十七
清氏正儀寄京事
新将軍京落事
南方官軍落都事
持明院新帝自江州還幸事付相州渡四国事
可立大将事付漢楚立義帝事
尾張左衛門佐遁世事
身子声聞一角仙人志賀寺上人事
畠山入道道誓謀反事付楊国忠事

巻第三十八
彗星客星事付湖水乾事
諸国宮方蜂起事付越中軍事
九州探題下向事付李将軍陣中禁女事
菊池大友軍の事
畠山兄弟修禅寺城楯篭事付遊佐入道事
細川相摸守討死事付西長尾軍事
和田楠与箕浦次郎左衛門軍の事
大元軍事

巻第三十九
大内介降参事
山名京兆被参御方事
仁木京兆降参事
芳賀兵衛入道軍事

光厳院禅定法皇行脚事
法皇御葬礼事

巻第四十
中殿御会事
左馬頭基氏逝去事
南禅寺与三井寺確執事
最勝講之時闘諍に及ぶ事
将軍薨逝の事
細川右馬頭自西国上洛の事
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by santalab | 2017-04-27 07:00 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」北山殿謀反の事(その1)

故相摸入道にふだうの舎弟、四郎しらう左近の大夫入道は、元弘の鎌倉合戦の時、自害したる真似をして、潛かに鎌倉を落ちて、しばしは奥州あうしうにありけるが、人に見知られじが為に、還俗して京都に上り、西園寺殿さいをんじどのを憑み奉て、田舎侍ゐなかさぶらひの始めて召し仕はるるていにてぞ居たりける。これも承久しようきうの合戦の時、西園寺の太政だいじやう大臣公経公きんつねこう関東くわんとうへ内通の旨ありしに依つて、義時よしときその日の合戦に利を得たりし間、子孫七代まで、西園寺殿を可憑申と云ひ置きたりしかば、今に至るまで武家異他思ひを成せり。これによつて代々の立后も、おほくはこの家より出でて、国々の拝任も半ばはその族にあり。然ればくわん太政大臣に至り、位一品くらゐいつぼん極位ごくゐを不極と云ふ事なし。偏へにこれ関東くわんとう贔屓の厚恩なりと被思けるにや、如何にもして故相摸入道が一族を取り立てて、再び天下の権を取らせ、我が身公家の執政として、四海をたなごころに握らばやと被思ければ、この四郎左近の大夫入道を還俗せさせ、刑部ぎやうぶ少輔せう時興ときおきと名を替へて、明け暮れはただ謀反の計略をぞ被回ける。




故相摸入道(鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかとき)の舎弟、四郎左近大夫入道(北条泰家やすいへ)は、元弘の鎌倉合戦の時、自害した振りをして、密かに鎌倉を落ちて、しばらくは奥州にいましたが、人に見知られぬために、還俗して京都に上り、西園寺殿(西園寺公宗きんむね)を頼んで、田舎侍として初めて召し仕える体で潜伏していました。承久合戦の時、西園寺太政大臣公経公(西園寺公経)が、関東(鎌倉幕府)に内通し、義時(北条義時。鎌倉幕府第二代執権)がその日の合戦に勝ったので、子孫七代まで、西園寺殿を頼み申すべきと言い置きしたので、今に至るまで他の武家と同じように思っていませんでした。これによって代々の立后も、多くはこの家より出て、国々の拝任も半ばは西園寺一族が務めました。こうして官は太政大臣に至り、位一品の極位を極めずということはありませんでした。ひとえにこれは関東贔屓の厚恩と思っていたのか、如何にもして故相摸入道(北条高時)の一族を取り立てて、再び天下の権を取らせ、我が身は公家の執政として、四海([国内])を掌に握ろうと思い、この四郎左近大夫入道(北条泰家)を還俗させ、刑部少輔時興と名を替えて、明け暮れはただ謀反の計略を廻らせました。


続く


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by santalab | 2017-04-27 06:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」武蔵野合戦の事(その3)

五陣は仁木左京大夫頼章よりあきら・舎弟越後ゑちごかみ義長よしなが・三男修理しゆりすけ義氏よしうぢ、その勢三千余騎、笠符をも不著、旌をも不差、遥かの外に引き退けて、馬より下りてぞ居たりける。これは両方大勢の合戦なれば、十度じふど二十度懸け合ひ懸け合ひ戦はんに、敵も御方も気をくつし、力疲れぬ事不可有。その時荒手に代はりて、敵の大将の控へたらんずる所を見澄まして、夜討ちせんが為なりけり。




五陣は仁木左京大夫頼章(仁木頼章)・舎弟越後守義長(仁木義長)・三男修理亮義氏(仁木義氏)が、その勢三千余騎で、笠符も付けず、旗をも差さず、遥か外に引き退けて、馬から下りて控えました。これは両方大勢の合戦でしたので、十度二十度駆け合って戦えば、敵も味方も、戦い疲れるであろうと思ってのことでした。その時新手に代わって、敵の大将が控える所を見澄まして、夜討ちにするためでした。


続く


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by santalab | 2017-04-26 08:06 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その6)

代々の御門崇之家々の賢臣敬之。もし旱魃かんばつ起こる時は先づ池を浄む。然るを後鳥羽の法皇ほふわうり居させ給ひて後、建保けんほうの頃よりこの所すたれ、荊棘けいぎよく路を閉づるのみならず、猪鹿ちよろくの害蛇放たれ、流鏑かぶらの音驚護法聴、飛蹄ひていの響き騒冥衆心。有心人不恐歎云ふ事なし。承久しようきうの乱の後、故武州禅門ごぶしうぜんもんひそかに悲此事、高築垣堅門被止雑穢。その後涼燠りやういくしばしば改まつて門牆もんしやうやうやく不全。不浄汚穢ふじやうわゑの男女出入無制止、牛馬水草を求むる往来わうらい無憚。定めて知んぬ竜神不快か。早く加修理可崇重給。崇此所国土可治なり。




代々の帝家々の賢臣が神泉苑(現京都市中京区にある寺院)を崇めました。旱魃が起これば池を浄めました。けれども後鳥羽法皇(第八十二代天皇)が位を下りられた後、建保(第八十四代順徳天皇の御宇)の頃より廃れて、荊棘が路を閉じるのみならず、猪鹿害蛇が放たれ、流鏑矢の音は護法([護法善神]=[仏法を守護する鬼神])の耳を驚かせ、蹄の響きは天まで響き冥衆([閻魔王や梵天など、人の目に見えない鬼神や諸天])の心を騒がせました。心ある人は恐れ嘆かぬ者はいませんでした。承久の乱(1221)の後、故武州禅門(鎌倉幕府第二代執権、北条泰時やすとき)は密かにこれを悲しんで、高い築垣([土塀])で門を閉じ雑穢([様々な穢れ])を防ぎました。その後涼燠(年号)はしばしば改まって門牆([門と垣])は崩れました。不浄汚穢の男女が出入りし、牛馬が水草を求めて往来を憚ることはありませんでした。きっと竜神は不快に思われておられることでしょう。ただちに修理を加え厚く敬うことにしました。必ずや国土が治まる基となることでしょう。


続く


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by santalab | 2017-04-26 07:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その5)

大師ちがやと云ふ草を結んで、竜の形に作つて壇上に立てて行はせ給ひける。法成就の後、聖衆しやうじゆを奉送給ひけるに、まことの善女龍王をば、やがて神泉園しんぜんゑんに留め奉つて、「竜華下生三会りゆうげげしやうさんゑの暁まで、守此国治我法給へ」と、御契約ありければ、今まで迹を留めてかの池に住み給ふ。かの茅の竜王は大龍に成つて、無熱池むねつちへ飛びかへり給ふとも云ひ、あるひは云はく聖衆と共に空に昇つて、指東を、飛び去り、尾張をはりの国熱田の宮に留まり給ふとも云ふ説あり。仏法東漸とうぜん先兆せんてう、東海鎮護の奇瑞きずゐなるにや。大師の言はく、「もしこの竜王他界に移らば池浅く水少なくして国荒れ世とぼしからん。その時は我が門徒加祈請、竜王を奉請留可助国」のたまへり。今は水浅く池あせたり。恐らくは竜王移他界給へるか。しかれども請雨経しやううぎやうの法被行ごとに掲焉けつえんの霊験なほ不絶、未だ国を捨て給ふに似たり、風雨叶時感応奇特かんおうきどくの霊池なり。




弘法大師(空海)はチガヤ([イネ科チガヤ属])という草を結んで、竜の形に作って壇上に立てて修法を行いました。法成就の後、聖衆([極楽浄土の諸菩薩])を送られましたが、善女龍王([『法華経・提婆達多品』に現れる八大竜王の一尊])は、神泉苑(現京都市中京区にある寺院)に留められて、「竜華下生三会([弥勒菩薩が、釈迦の滅後五十六億七千万年後に、この世に下生して龍華樹の下で悟りを開き、衆生済度のために開くという三番の法会])の暁まで、我が法の長としてこの国を守られよ」と、契約されたので、今まで跡を留めてかの池に住んでおられます。かの茅の竜王は大龍になって、無熱池([阿耨達池あのくだつち]=[ヒマラヤの北にあるという想像上の池。阿耨達竜王が住むという])へ飛び帰ったとも、あるいは聖衆と共に空に昇って、東を指して、飛び去り、尾張国熱田宮(現愛知県名古屋市熱田区にある熱田神宮)に留まったという説もあります。仏法東漸([文明や勢力が次第に東方に移り進むこと])の先兆([前兆])、東海鎮護の奇瑞([めでたいことの前ぶれとして起こる不思議な現象])でしたか。弘法大師の言葉に、「もし善女竜王が他界に移れば池浅く水少なくして国は荒れ世は疲弊するであろう。その時は我が門徒が祈請を加え、竜王を留め奉り国を助けよう」と申されました。今は水は浅く池は干上がっています。もしや竜王は他界に移られたのでしょうか。けれども請雨経法([日照りの時、諸大竜王を勧請して降雨を祈る修法])を行うたびに掲焉([明らかな様])の霊験はなお絶えず、いまだ国を捨てておられぬやと、風雨が叶う時には感応([人に対する仏の働きかけと、それを受け止める人の心。また、信心が神仏に通じること])格別の霊池でした。


続く


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by santalab | 2017-04-25 08:54 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」神泉苑の事(その4)

于時かの善女龍王金色こんじきの八寸の竜に現じて、たけ九尺くしやく許りのくちなはいただきに乗つてこの池に来たり給ふ。すなはちこの由を奏す。公家殊に敬嘆きやうたんせさせ給ひて、和気の真綱まつなを勅使として、以御幣種々物供龍王りゆうわうを祭らせらる。その後湿雲しふうん油然ゆぜんとして降雨事国土にあまねし。三日の間を止みなくして、災旱さいかんの憂へ永く消えぬ。真言の道を被崇事自是いよいよ盛んなり。守敏なほ腹を立てて、さらば弘法こうぼふ大師を奉調伏思ひて、西寺に引き篭もり、三角の壇を構へ本尊を北向きに立てて、軍荼利夜叉ぐだりやしやの法をぞ被行ける。大師この由を聞き給ひて、則ち東寺に炉壇ろだんを構へ大威徳明王みやうわうの法を修し給ふ。両人いづれも徳行薫修とくぎやうくんじゆの尊宿なりしかば、二尊の射給ひける流鏑矢かぶらや空中に合つて中に落つる事、鳴り休む隙もなかりけり。ここに大師、守敏を油断させんと思し召して、俄かに御入滅にふめつの由を被披露ければ、緇素しそ流悲歎泪、貴賎呑哀慟声。守敏聞之、「法威成就ほふゐじやうじゆしぬ」と成悦則ち被破壇けり。この時守敏俄かに目暮れ鼻血はなぢつて、心身被悩乱けるが、仏壇の前にたふれ伏してつひに無墓成りにけり。「呪咀諸毒薬還着於本人じゆそしよどくやくげんぢやくをほんにん」と説き給ふ金言きんげん、まことにしるしあつて、不思議なりし効験かうげんなり。自是して東寺は繁昌し西寺滅亡す。




その時善女龍王([『法華経・提婆達多品』に現れる八大竜王の一尊])が金色の八寸の竜の姿で現れて、丈九尺ばかりの蛇の頭の上に乗ってこの池に来ました。(空海は)たちまちこれを申し上げました。公家はとりわけ敬嘆し、和気真綱(和気清麻呂の五男)を勅使として、御幣種々の供物を供えて龍王を祭りました。その後湿雲が油然([盛んにわき起こる様])と湧き上がり余す所なく国土に雨を降らせました。雨は三日間降り止まず、災旱の憂えは永くなくなりました。これより真言の道を崇めることますます盛んになりました。守敏はなおも腹を立てて、ならば弘法大師を調伏しようと思って、西寺に引き籠もり、三角壇([密教で、降伏護摩を修するときに設ける三角形の壇])を構え本尊を北向きに立てて、軍荼利夜叉法([軍荼利明王を本尊として、 調伏や息災・増益ぞうやくを祈る修法])を行いました。弘法大師はこれを聞いて、たちまち東寺(現京都市南区にある教王護国寺)に炉壇を構え大威徳明王([五大明王の一。八大明王の一尊])法を執り行ないました。両人いずれも徳行薫修([香の薫りが衣服に染みつくように、習慣として 修行を繰り返すこと])の尊宿([徳の高い僧])でしたので、二尊が射る鏑矢が空中でぶつかり中に落ち、鳴り休む隙もありませんでした。そこで弘法大師は、守敏を油断させようと思い、にわかに入滅したと広めたので、緇素([僧と俗人])は悲嘆の涙を流し、貴賎は哀慟の声を上げました。守敏はこれを聞いて、「法威は成就した」とよろこびたちまち壇を壊しました。この時守敏はにわかに目は暮れ鼻血を出して、心身は悩乱して、仏壇の前に倒れ伏して遂にはかなくなりました。「呪咀諸毒薬は本人に還着する」と説く金言は、まことに霊験あって、不思議な効験([効能])でした。こうして東寺は繁昌し西寺は滅亡しました。


続く


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by santalab | 2017-04-24 08:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」武蔵野合戦の事(その2)

小手差原こてさしばらにありと聞こへければ、将軍十万じふまん余騎を五手に分けて、中道なかみちよりぞ寄せられける。先陣は平一揆たひらいつき三万余騎、小手の袋・四幅袴よのはかま笠符かさじるしに至るまで一色いつしきに皆赤かりければ、殊更耀かかやいてぞ見へたりける。二陣には白旗一揆しらはたいつき二万余騎、白葦毛しろあしげ白瓦毛しろかはらけ白佐馬しろさめ・月毛なる馬に乗つて、練貫ねりぬきの笠符に白旌しらはたを差したりけるが、敵にも白旌ありと聞きてにはかに短くぞ切つたりける。三陣には花一揆、命鶴みやうづるを大将として六千余騎、萌黄もよぎ火威ひをどし紫糸むらさきいと・卯の花の妻取つたる鎧に薄紅うすくれなゐの笠符を付け、梅花一枝ひとえだ折つて兜の真つかふに差したれば、四方よもの嵐の吹く度に鎧の袖や匂ふらん。四陣は御所一揆とて三万余騎、二つ引両ひきりやうの旌のもとに将軍を守護し奉て、御内の長者・国大名、しづかに馬を控へたり。




敵は小手指原(現埼玉県所沢市)にありと聞こえたので、将軍(足利尊氏)は十万余騎を五手に分けて、中道(現埼玉県所沢市)より寄せました。先陣は平一揆が三万余騎、小手の袋・四幅袴([前後各二幅ふたので仕立てた、ひざ丈くらいの袴])・笠符に至るまで一色で皆赤く、とりわけ輝くようでした。二陣には白旗一揆が二万余騎、白葦毛([一般に灰色の馬])・白瓦毛([灰白色・黄白色で、 たてがみ・下肢・ひづめが黒いもの])・白佐馬([クリーム色の毛を持つもの])・月毛([栗毛])の馬に乗って、練貫([縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物])の笠符に白旗を差していましたが、敵にも白旗があると聞いてにわかに短く切っていました。三陣には花一揆が、命鶴(饗庭氏直うぢなほ)を大将として六千余騎、萌黄・火威・紫糸・卯の花の褄取りの鎧([鎧の縅の一。袖・草摺・しころの片側の端を斜めに色をかえて縅すもの])に薄紅の笠符を付け、梅花を一枝折って兜の真っ向に差していました、四方の嵐が吹く度に鎧の袖が匂うようでした。四陣は御所一揆という三万余騎、二つ引両(足利氏の紋)の旗の下に将軍(足利尊氏)を守護し、身内の長者・国大名が、静かに馬を控えました。


続く


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by santalab | 2017-04-24 08:11 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」武蔵野合戦の事(その1)

三浦が相図あひづ相違したるをば、新田武蔵のかみ夢にも不知、時刻よく成りぬと急ぎ、明くればうるふ二月二十日の辰の刻に、武蔵野の小手差原こてさしはらへ打ち臨み給ふ。一方の大将には、新田武蔵のかみ義宗よしむね五万余騎、白旗しらはた・中黒・頭黒かしらくろ、打ち輪の旗は児玉党、坂東の八平氏・赤印一揆を五手いつてに引き分けて、五所いつところに陣をぞ取つたりける。一方には新田左兵衛さひやうゑすけ義興よしおきを大将にて、その勢都合二万余騎、片喰かたばみ・鷹の羽・一文字・十五夜の月弓一揆、引いては一人もかへらじとこれも五手に一揆して四方しはう六里に控へたり。一方には脇屋左衛門さゑもんすけ義治よしはるを大将にて、二万余騎、大旗・小旗・下濃すそごの旗、鍬形くはがた一揆・母衣ほろ一揆、これも五箇所に陣を張り、射手をば左右に進ませて懸け手は後ろに控へたり。




三浦(三浦時継ときつぐ)が相図に相違したことを、新田武蔵守(新田義宗。新田義貞の三男)は夢にも思わず、時刻到来と急いで、夜が明けると(観応三年(1352))閏二月二十日の辰の刻([午前八時頃])に、武蔵野の小手指原(現埼玉県所沢市)に打ち臨みました。一方の大将には、新田武蔵守義宗(新田義宗。新田義貞の三男)五万余騎、白旗・中黒・頭黒、団扇の旗は児玉党、坂東八平氏・赤印一揆を五手に引き分けて、五所に陣を取りました。一方には新田左兵衛佐義興(新田義興。新田義貞の次男)を大将として、その勢都合二万余騎、片喰・鷹の羽・一文字・十五夜の月弓一揆、引いては一人も帰らじとこれも五手に一揆して四方六里に控えました。一方には脇屋左衛門佐義治(脇屋義治。新田義貞の弟、脇屋義助よしすけの子)を大将として、二万余騎、大旗・小旗・下濃の旗、鍬形一揆・母衣一揆、これも五箇所に陣を張り、射手を左右に進ませて駆け手は後ろに控えました。


続く


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by santalab | 2017-04-23 10:30 | 太平記 | Comments(0)

    

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