Santa Lab's Blog


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「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その7)

平家のつはもの、前後の敵に被囲て、叶はじとや思ひけん、一戦にも不及、皆鎌倉を指して引きけるが、また腰越こしごえにてかへし合はせて葦名あしな判官はうぐわんも被討にけり。始め遠江とほたふみの橋本より、佐夜さよの中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂じつけざか、これら十七じふしち箇度の戦ひに、平家二万余騎のつはものども、あるひは討たれあるひは疵をかうむりて、今わづかに三百余騎に成りければ、諏方すは三河みかはかみを始めとして宗との大名四十三人しじふさんにん大御堂おほみだうの内に走り入り、同じく皆自害して名を滅亡めつばうの跡にぞ留めける。その死骸を見るに、皆面の皮を剥いでいづれをそれとも見分けざれば、相摸次郎時行ときゆきも、定めてこの内にぞあるらんと、聞く人あはれをもよほしけり。三浦の介入道一人は、いかがして遁れたりけん、尾張をはりの国へ落ちて、舟より挙がりけるところを、熱田の大宮司これを生け捕つて京都へ上せければ、すなは六条河原ろくでうかはらにて首を被刎けり。




平家の兵は、前後の敵に囲まれて、敵わぬと思ったか、一戦にも及ばず、皆鎌倉を指して引き退きましたが、また腰越(現神奈川県鎌倉市)で返し合わせて葦名判官(蘆名盛員もりかず)も討たれました。はじめの遠江の橋本(現静岡県湖西市)より、佐夜の中山(現静岡県掛川市)・江尻(現静岡県静岡市清水区)・高橋(現静岡県静岡市清水区)・箱根山(現神奈川県足柄下郡箱根町)・相摸川・片瀬(現神奈川県藤沢市)・腰越・十間坂(現神奈川県茅ヶ崎市)、これら十七箇度の戦いに、平家二万余騎の兵どもは、あるいは討たれあるいは疵を負って、今はわずかに三百余騎になりました、諏方三河守(諏訪頼重よりしげ)をはじめとして主だった大名四十三人は、大御堂の内に走り入り、同じく皆自害して名を滅亡の後に留めました。その死骸を見れば、皆面の皮を剥いでいずれをそれとも見分けることができませんでした、相摸次郎時行(北条時行ときゆき)も、きっとこの中にあるだろうと、聞く人の涙を誘いました。三浦介入道ただ一人は、どのようにして遁れたのか、尾張国へ落ちて、舟から上がるところを、熱田の大宮司が生け捕って京都に上らせると、たちまち六条河原で首を刎ねられました。


続く


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by santalab | 2017-05-31 08:00 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その9)

悪五郎あくごらう討たれて官軍くわんぐん利を得たりといへども、寄せ手目に余るほどの大勢なれば、始終この陣には難怺とて、楠木次郎左衛門じらうざゑもん夜に入つて八幡へ引つ返せば、翌日朝敵てうてきやがて入り替はつて、荒坂山に陣を取る。しかれども官軍も不懸、寄せ手も不攻上、八幡を遠攻とほぜめにして四五日を経る処に、山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢ、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢を率して上洛しやうらくす。路次ろしの遠きに依つて、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、すぐに八幡へ推し寄せて一軍せんとて淀より向かはれけるが、法性寺ほふしやうじ左兵衛さひやうゑかみここに陣を取つて、淀の橋三間引き落とし、西の橋爪に掻楯かいだて掻いて相待あひまちける間、橋を渡る事は叶はず、さらばいかだを作り渡せとて、淀の在家をこぼちて筏を組みたれば、五月のながさめに水増さりて押し流されぬ。




悪五郎(土岐康貞やすさだ)が討たれて官軍は利を得ましたが、寄せ手は目に余るほどの大勢でしたので、いつまでもこの陣が堪えることはできまいと、楠木次郎左衛門(楠木三郎正儀まさのり。楠木正成の三男)は夜に入ると八幡山(現京都府八幡市)に引き返しました、翌日朝敵はたちまち入れ替わって、荒坂山(現京都府八幡市)に陣を取りました。けれども官軍も駆けず、寄せ手も攻め上らず、八幡を遠攻めにして四五日を経るところに、山名右衛門佐師氏(山名師氏)が、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢を率して上洛しました。路次遠く、荒坂山(現京都府八幡市)の合戦に間に合わなかったことを、無念に思い、すぐに八幡へ押し寄せて一軍しようと淀(現京都市伏見区)より向かいましたが、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)がそこに陣を取って、淀の橋を三間引き落とし、西の橋詰に掻楯([垣根のように楯を立て並べること])を掻いて待ち構えていたので、橋を渡る事は叶わず、ならば筏を作って渡せと、淀の在家を壊して筏を組みましたが、五月の長雨で水嵩が増して押し流されてしまいました。


続く


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by santalab | 2017-05-31 07:08 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その8)

将監しやうげんこれを見て、今は可助く人なしと思ひけるにや、腰の刀を抜いて腹を切らんとしけるを、悪五郎あくごらう、「暫し自害なせそ、助けんずる」とて、壺板に射立てられたる矢をば、脇立わいだてながら引き切つて投げ棄て、懸かる敵を五六人切り臥せ、関将監を左の小脇にさしはさみ、右手にて件の太刀を打ち振り打ち振り、近付く敵を打ち払つて、三町さんちやう許りぞ落ちたりける。跡に続ひていづくまでもと追ひ懸けける和田五郎も討ち遁しぬ。不安思ひける処に、悪五郎が運や尽きにけん、夕立ゆふだちに掘れたる片岸のありけるを、ゆらりと越えけるに、岸のひたひかたつちくわつとくづれて、薬研やげんのやうなる所へ、悪五郎落ちければ、わしり寄つて長刀の柄を取り延べ、二人ににんの敵をば討つてげり。入り乱れたる軍の最中なれば、首を取るまでもなし。悪五郎が引き切つて捨てたりつる、脇立許わいだてばかりを取つて、討つたる証拠しようごに備へ、身に射立て触れたる矢ども少々り懸けて、主上しゆしやう御前おんまへへ参り合戦のていを奏し申せば、「初め申しつる言葉に少しも不違、大敵の一将を討ち取つて数箇所すかしよの疵をかうむりながら、無恙して帰り参るでう、前代未聞の高名なり」と、叡感更に不浅。




関将監はこれを見て、今は助ける人もないと思ったか、腰の刀を抜いて腹を切ろうとしましたが、悪五郎(土岐康貞やすさだ)が、「今は自害するな、助けてやるぞ」と言って、壺板([脇楯わいだての上部にある右の脇壺に当てる鉄板])に射立った矢を、脇楯([大鎧の胴の右脇のすきまに当てる防具])ごと引き切って投げ捨て、懸かる敵を五六人切り臥せ、関将監を左の小脇に抱えて、右手で件の太刀を打ち振り、近付く敵を打ち払って、三町ばかり落ちました。後に続いてどこまでもと追いかける和田五郎(和田正隆まさたか)も討ち逃してしまいました。安からず思うところに、悪五郎の運が尽きたのか、夕立に崩れた片岸があったので、ゆらりと越えると、岸の額の盛り土が崩れて、薬研([薬研掘]=[V字形に深く掘った堀])のような所に、悪五郎が落ちたので、走り寄って長刀の柄を取り延べ、二人の敵を討ちました。入り乱れた軍の最中でしたので、首を取る隙もありませんでした。悪五郎が引き切って捨てた、脇楯ばかり取って、討った証拠として、身に射立てられた矢を少々折り懸けて、主上(第九十七代後村上天皇)の御前に参り合戦の次第を奏し申せば、「初めに申した言葉に少しも違わず、大敵の一将を討ち取って数箇所の疵を被りながら、無事に帰り参るとは、前代未聞の高名である」と、叡感はさらに浅いものではありませんでした。


続く


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by santalab | 2017-05-30 08:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その6)

この山は海道第一の難所なれば、源氏無左右懸かり得じと思ひけるところに、赤松筑前のかみ貞範さだのり、さしもけはしき山路やまぢを、短兵ただちに進んで、敵の中へ懸け入つて、前後に当たり、左右にげきしける勇力に被払て、平家またこの山をも支へず、大崩おほくづれまで引き退く。清久きよく山城のかみかへし合はせて、一足も不引闘ひけるが、源氏の兵に被組て、腹切る間もやなかりけん、その身は忽ちに被虜、郎従らうじゆうは皆被討にけり。路次ろし数箇度すかどの合戦に打ち負けて、平家やたけに思へども不叶。相摸河を引き越して、水をへだてて支へたり。時節をりふし秋の急雨しぐれ一通ひととほりして、河水岸を浸しければ、源氏よも渡しては懸からじと、平家少し由断して、手負ひを扶け馬を休めて、敗軍の士を集めんとしけるところに、夜に入つて、かう越後ゑちごの守二千余騎にてかみの瀬を渡し、赤松筑前の守貞範さだのりは中の瀬を渡し、佐々木の佐渡の判官はうぐわん入道道誉だうよと、長井ながゐ治部の少輔は、しもの瀬を渡して、平家の陣の後ろへまはり、東西に分かれて、同時に鬨をどつと作る。




箱根山は東海道第一の難所でしたので、源氏は攻めて来ないであろうと思うところに、赤松筑前守貞範(赤松貞範)は、険しい山路を上り、短兵急([いきなり敵に攻撃をしかける様])に、敵の中へ駆け入って、前後から攻め、左右を囲みました、平家は箱根山をも防げず、大崩(現静岡県静岡市・焼津市)まで引き退きました。清久山城守は返し合わせて、一足も引かず戦いましたが、源氏の兵に組まれて、腹を切る間もなかったか、その身はたちまちに捕らわれて、郎従([家来])は皆討たれました。路次での数箇度の合戦に打ち負けて、平家はやたけ([盛んに勇み立つ様])に思えど叶いませんでした。相摸川を渡って、川を隔てて防ぎました。ちょうど秋時雨が一通りして、河水が岸を浸していたので、源氏はまさか攻めて来ないであろうと、平家は少し油断して、手負いを助け馬を休めて、敗軍の士を集ようとするところに、夜に入って、高越後守(高師泰もろやす)は二千余騎で川上の瀬を渡り、赤松筑前守貞範(赤松貞範)は中の瀬を渡り、佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)と、長井治部少輔は、下の瀬を渡って、平家の陣の後ろに回り、東西に分かれて、同時に鬨をどっと作りました。


続く


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by santalab | 2017-05-30 07:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その5)

足利の相公しやうこうこの由を聞き給ひて、「六韜りくたうの十四変に、『敵経長途来急可撃』と云へり。これ太公武王にをしふるところの兵法なり」とて、同じき八日の卯の刻に平家の陣へ押し寄せて、終日ひねもす闘ひ暮らされけり。平家もここを前途せんどと心を一つにして相当あひあたる事三十さんじふ余箇度、入れ替へ入れ替へ戦ひけるが、野心のつわもの後ろにあつて、跡より引きけるに力を失つて、橋本の陣を引き退き、佐夜さよの中山にて支へたり。源氏の真つさきには、仁木につき細河ほそかわの人々、命を義にかろんじて進みたり。平家の後陣には、諏方すは祝部はふり身を恩に報じて、防ぎ戦ひけり。両陣互ひに勇気を励まして、終日ひねもす相戦あひたたかひけるが、平家ここをも被破て、箱根の水飲みづのみたうげへ引き退く。




足利相公(足利尊氏)はこれを聞いて、「六韜([中国の代表的な兵法書])の十四変に、『敵が長途につく時にはたちまちこれを攻めよ』と書かれておる。太公望が武王(周朝の創始者)に教えた兵法である」と申して、同じ八日の卯の刻([午前八時頃])に平家の陣へ押し寄せて、終日戦いました。平家もここを先途([勝敗や運命を決する大事な分かれ目])と思い心を一つにして攻め合うこと三十余箇度、新手を入れ替え入れ替え戦いましたが、野心の兵が後ろにあって、後に引いたので力を失い、橋本(現静岡県湖西市)の陣を引き退き、佐夜の中山(現静岡県掛川市)で対峙しました。源氏の真っ先を、仁木・細川の人々が、命を義に軽んじて進みました。平家の後陣には、諏訪(現長野県にある諏訪大社)の祝部([神職])が身を恩に報じて、防ぎ戦いました。両陣互いに勇気を励まして、終日戦いましたが、平家はここも破られて、箱根の水呑峠(箱根峠)に引き退きました。


続く


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by santalab | 2017-05-29 07:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その7)

土岐悪五郎あくごらうは、その頃天下に名を知られたる大力の早業、打ち物取つて達者なりければ、卯の花をどしの鎧に鍬形くはがた打つて、水色の笠符かさじるし吹き流させ、五尺六寸の大太刀抜いて引きそばめ、射向けの袖を振りかざいて、遥かに遠き山路やまぢをただ一息に上らんと、ゐのししの懸かるやうに、莞爾につこと笑ひ上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打ち見て、突いたる楯をかはと投げ棄て、三尺さんじやく五寸の小長刀、茎短くきみじかに取つて渡り合ふ。ここに相摸のかみが郎従に、関左近の将監しやうげんと云ける兵、土岐が脇よりつと走り抜けて、和田五郎に打つてかる。和田が中間これを見て、小松の陰より走り出て、近々とめ寄つて、十二束三伏じふにそくみつぶせ暫く堅めて放つ矢、関将監が殻胴がらどうを、くさ目どほしに射抜かれて、小膝を突いてぞ臥したりける。悪五郎走り寄つて引き起こさんとしける処を、また和田が中間二の矢を番ふて、悪五郎が脇立わいだての壺の板、沓巻きせめてぞ射込うだる。




土岐悪五郎(土岐康貞やすさだ)は、その頃天下に名を知られた大力の早業、打ち物([太刀])の達者でしたので、卯の花威の鎧に鍬形打って、水色の笠符を吹き流し、五尺六寸の大太刀を抜いて引き側め、射向けの袖を振りかざして、遥か遠い山路をただ一息に上ろうと、猪が懸かるように、にこっと笑って上っていましたが、和田五郎(和田正隆まさたか)はよき敵と打ち見て、突いていた楯を投げ棄て、三尺五寸の小長刀を、茎短([柄の先の方を持つ構え方])かに取って渡り合いました。ここに相摸守(細川清氏きようぢ)の郎従([家来])に、関左近将監という兵が、土岐(康貞)の脇からさっと走り抜けて、和田五郎に打ってかかりました。和田(正隆)の中間([武士の下位の者])はこれを見て、小松の陰から走り出て、近々と攻め寄ると、十二束三伏の弓をしばらく固めて放つ矢は、関将監の殻胴([骨と身])を、くさ目通し(櫛目通し?)に射抜かれて、小膝を突いて臥しました。悪五郎が走り寄って引き起こそうとするところを、また和田の中間が二の矢を番い、悪五郎の脇楯([大鎧の胴の右脇のすきまに当てる防具])の壺板([脇楯の上部にある右の脇壺に当てる鉄板])を、沓巻([矢のの先端で、やじりをさし込んだ 口もとを固く糸で巻き締めてある部分])深く射込みました。


続く


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by santalab | 2017-05-29 07:13 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その6)

去るほどに和田にぎた・楠木・紀伊の国の勢三千余騎、皆荒坂山あらさかやまへ打ち向かつてここを支へんと控へたれば、細河ほそかは相摸のかみ清氏きようぢ・同じき陸奥の守顕氏あきうぢ・土岐大膳の大夫・舎弟悪五郎あくごらう、六千余騎にて押し寄せたり。山路やまぢけはしく、峯高くそばだちたれば、麓より皆馬を蹈み放ち蹈み放ち、かづき連れてぞ上りたりける。斯かる軍に元来ぐわんらい馴れたる大和・河内の者どもなれば、岩の陰、岸の上に走り渡つて散々に射る間、面に立つ土岐と細河が兵ども、射白まされて不進得。




やがて和田(和田正隆まさたか)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・紀伊国の勢三千余騎は、皆荒坂山(現京都府八幡市)へ打ち向かってここを支えんと控えると、細川相摸守清氏(細川清氏)・同じく陸奥守顕氏(細川顕氏)・土岐大膳大夫(土岐頼康よりやす)・舎弟悪五郎(土岐康貞やすさだ)が、六千余騎で押し寄せました。山路は険しく、峯は高く峙っていたので、麓から皆馬を踏み放ち、引き連れて上りました。このような軍に元より馴れた大和・河内の者どもでしたので、岩の陰、岸の上に走り渡って散々に矢を射たので、面に立つ土岐と細川の兵どもは、矢に怖気付いて進むことができませんでした。


続く


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by santalab | 2017-05-28 09:15 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その4)

都を被立ける日はその勢わづかに五百余騎ありしかども、近江あふみ・美濃・尾張をはり・三河・遠江とほたふみの勢馳せくははつて、駿河の国に着き給ひける時は三万余騎に成りにけり。左馬のかみ直義ただよし尊氏たかうぢきやうの勢を合はせて五万余騎、矢矯やはぎの宿より取つて返してまた鎌倉へ発向はつかうす。相摸次郎時行ときゆきこれを聞いて、「源氏は若干そくばくの大勢と聞こゆれば、待ち軍して敵に気を呑まれては不叶。先んずる時は人を制するに利あり」とて、我が身は鎌倉に在りながら、名越なごや式部の大輔を大将として、東海・東山とうせん両道を押して責め上る。その勢三万余騎、八月三日鎌倉を立たんとしける夜、にはかに大風吹いて、家々を吹き破りける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃げ入り、各々身をちぢめてたりけるに、大仏殿の棟梁とうりやう微塵みぢんれてたふれける間、その内に集まりたる軍兵ども五百余人、一人も不残しに打てて死にけり。戦場せんぢやうに趣く門出に懸かる天災に逢ふ。この軍はかばかしからじと、ささやきけれども、さてあるべき事ならねば、重ねて日を取り、名越式部の大輔鎌倉を立つて、夜を日に継いで路を急ぎける間、八月七日前陣ぜんぢんすでに遠江とほたふみ佐夜さよの中山を越えけり。




都を立った日にはその勢はわずか五百余騎でしたが、近江・美濃・尾張・三河・遠江の勢が馳せ加わり、駿河国に着いた時には三万余騎になっていました。左馬頭直義(足利直義。足利尊氏の弟)は、尊氏卿の勢を合わせて五万余騎で、矢作宿(現愛知県岡崎市)より取って返してまた鎌倉へ発向しました。相摸次郎時行(北条時行)はこれを聞いて、「源氏はたいそう大勢と聞いておる、待ち軍して敵に気を呑まれては敵うまい。先んずれば人を制するに利あり」と申して、我が身は鎌倉にいながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を攻め上りました。その勢三万余騎が、八月三日に鎌倉を立とうとする夜に、急に大風が吹いて、家々を吹き壊したので、天災を遁れようと大仏殿の中へ逃げ入り、各々身を縮めているところに、大仏殿の棟梁([むねはり])が、微塵に折れて倒れました、その中に集まっていた軍兵ども五百余人は、一人も残らず圧死しました。戦場に赴く門出にこのような天災に遭いました。この軍は望み通りとはなるまいと、ささやき合いましたが、止める訳にもいきませんでしたので、重ねて日を決めて、名越式部大輔は鎌倉を立って、夜を日に継いで路を急ぎました、八月七日には前陣はすでに遠江の佐夜の中山(現静岡県掛川市)を越えました。


続く


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by santalab | 2017-05-28 09:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その3)

この両条は天下治乱ちらんはしなれば、君もよくよく御思案あるべかりけるを、まうし請くる旨に任せて、無左右勅許ありけるこそ、始終いかがとは思へけれ。但し征夷将軍の事は関東くわんとう静謐せいひつの忠に可依。とう八箇国の官領くわんれいの事は先づ不可有子細とて、すなはち綸旨を被成下ける。これのみならず、忝くも天子の御諱おんいみなの字を被下て、高氏たかうぢと名乗られける高の字を改めて、そんの字にぞ被成ける。尊氏たかうぢきやう東八箇国を官領の所望しよまう、容易く道行きて、征夷将軍の事は今度の忠節に可依と勅約ありければ、時日ときひを不回関東へ被下向けり。吉良兵衛ひやうゑすけを先立てて、我が身は五日引き下がりて進発し給ひけり。




この両条(征夷大将軍と関東官領)は天下治乱の元ともなるものでしたので、君(第九十六代後醍醐天皇)もよくよく思案すべきでしたが、申すに任せて、勅許がありました、末はどうなることかと思われました。ただし征夷将軍については関東を平定した時の忠とする。東八箇国の官領([長官])については問題なしと、たちまち綸旨を下されました。こればかりでなく、忝くも天子の諱の字を下されて(後醍醐天皇の諱は尊治たかはる)、高氏と名乗っていた高の字を改めて、尊の字としました。尊氏卿は東八箇国を官領の所望を、容易く達して、征夷将軍については今度の忠節に依るべしと勅約があったので、時日を廻らすことなくたちまち関東に下向しました。吉良兵衛佐(吉良満義みつよし)を先立てて、尊氏は五日後に進発しました。


続く


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by santalab | 2017-05-27 08:26 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その5)

同じき三月二十四日、宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどの三万余騎の勢を率し、宇治路うぢぢまはつて木津河こつがはを打ち渡り、洞峠ほらがたうげに陣を取らんとす。これは河内・東条とうでうの通路を塞ぎて、敵を兵粮にめん為なり。八幡より北へは、和田にぎた次郎左衛門じらうざゑもんとを向けられけるが、楠木は今年二十三、和田は十六じふろく、いづれも皆若武者なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉く危ぶみ思はれけるに、和田五郎参内して申しけるは、「親類兄弟悉く度々の合戦に、身を捨て討ち死に仕りさうらをはんぬ。今日の合戦はまた公私の一大事と存ずる事にて候ふ上は、命をきはの合戦仕て、敵の大将を一人討ち取り候はずは、生きて再び御前おんまへへ帰り参る事候ふまじ」と、申し切つて罷り出でければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々の勇士なりと、感ぜぬ人はなかりけり。




同じ(正平七年(1352))三月二十四日に、宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)は三万余騎の勢を率し、宇治路を廻って木津川を打ち渡り、洞ヶ峠(現京都府八幡市と大阪府枚方市の境にある峠)に陣を取ろうとしました。これは河内・東条の通路を塞いで、敵を兵粮攻めにするためでした。八幡より北へは、和田五郎(和田正隆まさたか)・楠木次郎左衛門(楠木三郎正儀まさのり。楠木正成の三男)を向けましたが、楠木は今年二十三、和田は十六、いずれも皆若武者でしたので思慮なき合戦を致すのではないかと、諸卿は残らず危ぶんでいましたが、和田五郎が参内して申すには、「親類兄弟は残らず度々の合戦で、身を捨て討ち死にしました。今日の合戦はまた公私の一大事と存ずることでございますれば、命を限りの合戦仕り、敵の大将を一人討ち取らずば、生きて再び御前に帰り参ることはございません」と、申し切って罷り出ました、列座の諸卿・国々の兵は、代々の勇士であると、感心しない人はいませんでした。


続く


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by santalab | 2017-05-27 08:18 | 太平記 | Comments(0)

    

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