Santa Lab's Blog


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その4)

垂迹すゐじやくの方便聞けば、仮りに雖似忌三宝名、内証ないしやうの深心を思へば、それもなほ有化俗結縁理思えて、そぞろに感涙かんるゐ袖を濡らしければ、日暮れけれども在家なんどに可立宿心地もし給はず、外宮げくう御前おんまへ通夜念誦つやねんじゆして、神路山かみぢやまの松風にねぶりを覚まし、御裳濯川みもすそがはの月に心を清ましておしはましける処に、俄かに空掻き曇り雨風烈しく吹いて、雲の上に車をとどろかし、馬を馳する音して東西より来たれり。「あな恐しや、これ何物やらん」と上人消肝見給へば、忽然として虚空に瑩玉鏤金たる宮殿くうでん楼閣出で来て、庭上に引幔門前に張幕。ここに十方より所来の車馬しやばかく、二三千もあるらんと思えたるが左右に居流ゐながれて、上座に一人の大人たいじんあり。そのすがたはなはだ非尋常、たけ二三十丈にさんじふぢやうもあるらんと見揚げたるに、かしらは如夜叉十二の面上おもてうへならべり。四十二の手あつて左右に相連あひつらなる。あるひは握日月、あるひは提剣戟八竜にぞ乗つたりける。相順あひしたがふ処の眷属けんぞくども、皆非常人、八臂はつぴ六足にして鉄の楯をさしはさみ、三面一体にして金のよろひを着せり。




垂迹([仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために、仮に神々の姿となって示現すること])の方便([人を真実の教えに導くため、仮に取る便宜的な手段])というのは、仮にも三宝([仏・法・僧])の名を忌み嫌うところがありますが、内証([自己の心の内で真理を悟ること])の深心を思えば、それもなお化俗([世俗の人々を教化すること])結縁([仏・菩薩が世の人を救うために 手をさしのべて縁を結ぶこと])の理ありと思われて、思わず感涙に袖を濡らせば、日が暮れても在家に宿を取る心地もせず、外宮の御前で通夜念誦して、神路山(現三重県伊勢市宇治にある内宮南方の山域)の松風に眠りを覚まし、御裳濯川(伊勢神宮内宮神域内を流れる五十鈴川の異称)に映る月に心を清ましていると、にわかに空が掻き曇り雨風が激しく吹いて、雲の上に車を轟かせ、馬が馳せる音がして東西より何物かがやって来ました。「なんと恐ろしい、何物であろうか」と解脱上人は肝を冷やし見れば、忽然として虚空に玉を磨き金を散りばめた宮殿楼閣が現れました、庭上に幔を引き門前には幕を張っていました。ここに十方より車馬の客がやって来て、二三千もいると思われましたが左右に並び、上座に一人の大きな人が座していました。その姿はまったく尋常でなく、丈は二三十丈もあろうかと見上げると、まるで夜叉のような頭に十二の面上([顔])がありました。手が四十二本あって左右に並んでいました。あるいは日月を握り、あるいは剣戟([剣と鉾])を提げて八竜に乗っていました。相従う眷属([一族])どもも、皆只人でなく、八臂六足にして鉄の楯を持ち、三面一体にして金の鎧を着ていました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-18 08:24 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その3)

以何云之ならば、文治ぶんぢの頃洛陽らくやうに有一沙門しやもん。その名を解脱げだつ上人とぞまうしける。その母七歳の時、夢中に鈴を呑むと見てまうけたりける子なりければ、非直人とて、つになりける時より、その身を入釈門、つひたつとき聖とは成しけるなり。されば慈悲深重じひじんぢゆうにして、三衣さんえれたる事を不悲、行業ぎやうごふ不退にして、一鉢いつぱつの空しき事を不愁。大隠たいいんは必ずしも市朝してうの内を不辞。身は雖交五濁塵、心は不犯三毒霧。任縁歳月を渡り、利生山川を抖薮とそうし給ひけるが、ある時伊勢太神宮にまゐつて、内外宮ないげくうを巡礼して、ひそかに自受法楽の法施ほつせをぞ被奉ける。大方おほかた自余の社には様替はつて、千木ちぎも不曲形祖木かたそぎも不剃、これ正直捨方便しやはうべんの形を顕はせるかと見へ、古松こしよう垂枝老樹らうじゆ敷葉、皆下化衆生げけしゆじやうさうへうすと思えたり。




どうして文観僧正のことを申すかというと、文治(第八十二代後鳥羽天皇の御宇)の頃洛陽(京)に一人の沙門([バラモン階級以外の出身の男性修行者])がいました。その名を解脱上人(信西の孫に当たる)と言いました。母が七歳(?)の時、夢の中で鈴を呑むと見て出来た子でしたので、只人ではないと、三つになった時から、その身を釈門に入れて、遂に貴き聖となりました。慈悲深く、三衣([僧尼の着る僧伽梨そうぎやり鬱多羅僧うつたらそう安陀会あんだえの三種の衣 ])の破れを悲しまず、行業を怠ることなく、一鉢が空しくとも愁うことはありませんでした。大隠は朝市に隠る([真の隠者は、 人里離れた山中などに隠れ住まず、かえって俗人にまじって町中で超然と暮らしている ということ])言葉通りの人でした。身は五濁([悪世になると生じる五つの悪い現象])の塵に交わるといえども、心は不犯三毒([仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩])の霧に冒されず。縁に任せて歳月を渡り、利生([仏神が人々を救済し、悟りに導くこと])の山川を抖薮([衣食住に対する欲望を払い退け、身心を清浄にすること。また、その修行])していましたが、ある時伊勢大神宮に参って、内外宮を巡礼して、密かに自受法楽([仏が、自らの悟りの内容を深く味わい楽しむこと])の法施([仏などに向かって経を読み、法文を唱えること])を奉りました。大方の自余の社には様変わりして、千木([神社建築などに見られる、建造物の屋根に設けられた部材])は曲がらず、片削ぎ([神社の屋根に交わしてある千木ちぎの両端を斜めに削り落としたもの])を剃らず、正直捨方便([方便=人を真実の教えに導くため、仮にとる便宜的な手段。を捨ててまっすぐに法を説くこと])の形を顕わすかと見え、古松は枝を垂れ老樹は葉を敷き、どれも下化衆生([この迷いの世界にあって、真理を見ずに惑い苦しむ生きとし生けるものを教化し救済すること])の相を現すと思われました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-17 12:25 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その8)

すでに明日矢合はせと定められたりける夜、石堂四郎入道、三浦の介すけを呼び退けてのたまひけるは、「合戦すでに明日と定められたり。この間相謀あひはかりつる事を、子息にて候ふ右馬のかみに、かつて知らせ候はぬ間、この者一定いちぢやう一人残り止まつて、将軍に討たれまゐらせつと思え候ふ。一家いつけの中を引き分けて、義卒ぎそつみし、老年のかうべに兜をいただくも、もし望み達せば、後栄こうえいを子孫に残さんと存ずるゆゑなり。さればこの事を告げ知らせて、心得させばやと存ずるはいかが候ふべき」と問ひ給ひければ、三浦、「げにもこれほどの事を告げ参らせられざらんは、後悔あるべしと思え候ふ。急ぎ知らせ参らせ給へ」と申しける間、石堂禅門、子息右馬の頭を呼びて、「我薩埵山の合戦に打ち負けて、今降人かうにんの如くなれば、仁木・細川らに押し据へられて、人数ならぬ有様御辺も定めて遺恨ゐこんにぞ思ふらん。明日の合戦に、三浦の介・葦名あしな判官はうぐわん二階堂にかいだうの人々と引き合つて、合戦の最中将軍しやうぐんを討ち奉り、家運かうんを一戦の間に開かんと思ふなり。相構あひかまへてその旨を心得て、我が旗の赴くに従はれるべし」と言はれければ、右馬の頭大きに気色きしよくを損じて、「弓矢の道二心あるを以つて恥とす。人の事は知らず、なにがしに於いては将軍に深く頼まれまゐらせたる身にて候へば、後ろ矢射て名を後代こうだいに失はんとは、えこそまうすまじけれ。兄弟父子の合戦いにしへより今に至るまでなき事にて候はず。いかさま三浦の介・葦名判官、隠謀の事を将軍に告げ申さずは大きなる不忠なるべし。父子ふしの恩義すでに絶え候ひぬる上は、今生こんじやう見参げんざんはこれを限りと思し召し候へ」と、顔を赤め腹を立て、将軍の御陣へぞ参られける。




すでに明日矢合わせと定まった夜のこと、石堂四郎入道(石塔義房よしふさ)が、三浦介(三浦時継ときつぐ)と二人きりになって申すには、「合戦はすでに明日と決まった。今までこのことを、子息の右馬頭に、知らせてはおらぬ、きっと一人残り止まって、将軍(足利尊氏)に討たれることであろう。一家の中を引き分けて、義卒([義兵])の味方になるのも、老年の頭に兜を戴くも、もし望み達すれば、後栄を子孫に残せると思うてのこと。ならばこの事を告げ知らせて、承知させようと思うがどうか」と訊ねると、三浦介も、「確かにこれほどの事を告げ知らせなくては、後悔がありましょう。急ぎ知らせ参らせませ」と申したので、石塔禅門は、子息右馬頭を呼んで、「わしは薩埵山(静岡県静岡市清水区にある峠)の合戦に打ち負けて、今は降人と同じようなものじゃ、仁木・細川らに押し据えられて、人数にもならぬ有様よお主もきっと遺恨に思うておろう。明日の合戦に、三浦介・葦名判官(蘆名直盛なほもり?)・二階堂の人々と組んで、合戦の最中に将軍を討ち、家運を一戦の間に開こうと思うておる。よくよくそれを心得て、わが旗に従われよ」と申せば、右馬頭はたいそう気色を損じて、「弓矢の道は二心あるを以って恥とするものです。人のことは知らず、このわたしは将軍に深く頼まれ参らせる身でございます、後ろ矢を射て名を後代に失うようなことは、決して申さないでください。兄弟父子の合戦は古より今に至るまでないことではありません。何であれ三浦介・葦名判官とともに、隠謀を企んでいることを将軍に告げ申さずは大きな不忠となりましょう。父子の恩義がすでに絶えた以上、今生の見参はこれを限りと思われませ」と、顔を赤らめ腹を立て、将軍の陣に帰って行きました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-15 07:36 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その2)

これはせめて俗人なれば不足言。かの文観僧正そうじやうの振る舞ひを伝へ聞くこそ不思議なれ。たまたま一旦名利みやうり境界きやうがいを離れ、既に三密瑜伽さんみつゆがの道場に入り給ひし無益、ただ利欲・名聞みやうもんにのみおもむいて、更に観念定坐くわんねんぢやうざの勤めを忘れたるに似たり。何の用ともなきに財宝を積倉不扶貧窮、かたはらに集武具士卒をたくましうす。成媚結交ともがらには、無忠賞を被申与ける間、文観僧正の手の者と号して、建党張臂者、洛中に充満して、及五六百人。されば程遠からぬ参内の時も、輿の前後に数百騎すひやくきの兵打ち囲んで、路次を横行しければ、法衣ほふえ忽ち汚馬蹄塵、律儀りつぎ空しく落人口譏。かの廬山ろざん慧遠法師ゑをんほつし一度ひとたび辞風塵境、寂寞じやくまくの室に坐し給ひしより、仮りにもこの山を不出と誓つて、十八じふはち賢聖げんじやうを結んで、長日ちやうじつ六時礼讚ろくじらいさんを勤めき。大梅常和尚だいばいのじやうをしやうは強ひて不被世人知住処更に茅舎ばうしやを移して入深居、詠山居風味得已熟印可給へり。有心人は、皆いにしへも今も韜光消跡、暮山の雲に伴ひ一池いつちはちすを衣として、行道清心こそ生涯を尽くす事なるに、この僧正は如此名利のきづなほだされけるも非直事、何様天魔外道げだうのその心に依託えたくして、挙動ふるまはせけるかと思えたり。




これはせめて俗人なれば申すに及ばぬところですが。かの文観僧正の振る舞いを伝え聞くに不思議なことでした。一旦名利の境界を離れ、三密瑜伽([行者の三密=口密・身密・意密。と仏の三密とが相応・融合すること])の道場に入ったにも関わらず、ただ利欲・名聞を求め、さらに観念定座([座して禅定に入ること])の勤めを忘れたようなものでした。何の役にも立たないのに財宝を倉に積み貧窮を助けず、武具を集め士卒の守りとしました。媚をなし近付いて来る者どもには、忠なく賞を申し与えたので、文観僧正の手の者と申して、徒党を組み肘を張る([威張って振る舞う])者が、洛中に充満して、五六百人に及びました。こうして遠くはない参内の時も、輿の前後に数百騎の兵が打ち囲んで、路地を横行([自由気ままに歩きまわること])したので、法衣はたちまち馬蹄の塵に汚れ、律儀([悪や過失に陥ることを防ぐ働きのあるもの。善行のこと])は空しく人口の譏りとなりました。かの廬山(江西省北部の九江の南にある山)の慧遠法師(東晋の僧)は一度風塵([わずらわしい俗世間])境を出て、寂寞の室に座してからというもの、仮りにもこの山を出るまいと誓い、十八賢聖([聖者と賢者。菩薩と、その位に至る前の 仏道修行の人])の蓮社([浄土宗の信者で作る念仏結社])を結んで、長日([長い日数])六時礼讚([浄土教における法要、念仏三昧行のひとつ。中国の僧・ 善導の『往生礼讃』に基づいて一日を六つに分け、誦経、念仏、 礼拝を行う])を勤められました。大梅常和尚(大梅法常。唐代の僧)はあえて世の人が住まない山奥にに茅舎を移して住み、山中の風情を歌に詠み悟りを開きました。心ある人は、皆昔も今も韜光消跡([悟りを開いたものが俗世を離れてひっそりと生活すること])、暮山の雲に誘われ一池の蓮を衣として、心清らかにして修行し生涯を全うするものですが、文観僧正がこうして名利の絆にほだされたのは只事ではありませんでした、どうして天魔外道のその心に依託([他の人にま任せてやってもらうこと])して、振る舞ったのかと思うばかりです。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-15 07:26 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その7)

久米河くめがはに一日逗留とうりうし給へば、河越かはごえ弾正だんじやう少弼せうひつ・同じく上野かうづけの守・同じく唐戸からと十郎左衛門・江戸遠江とほたふみの守・同じく下野しもつけの守・同じく修理しゆりすけ高坂かうさか兵部ひやうぶ大輔たいふ・同じく下野しもつけの守・同じく下総の守・同じく掃部かもんの助・豊島としま弾正左衛門だんじやうざゑもん・同じく兵庫ひやうごの助・土屋備前の守・同じく修理しゆりすけ・同じく出雲いづもの守・同じく肥後の守・土肥とひ次郎兵衛入道ひやうゑにふだう・子息掃部かもんの助・舎弟甲斐かひの守・同じく三郎左衛門さぶらうざゑもん・二宮但馬たぢまの守・同じく伊豆いづの守・同じく近江あふみの守・同じく河内かはちの守・曽我周防すはうの守・同じく三河みかはの守・同じく上野かうづけの守・子息兵庫ひやうごの助・渋谷木工左衛門もくざゑもん・同じく石見いはみの守・海老名四郎左衛門しらうざゑもん・子息信濃の守・舎弟修理しゆりすけ小早河こばやかは刑部ぎやうぶの大夫・同じく勘解由左衛門かげゆざゑもん・豊田因幡の守・狩野かのの介・那須遠江とほたふみの守・本間四郎左衛門しらうざゑもん・鹿島越前ゑちぜんの守・島田備前の守・浄法寺じやうほふじ左近の大夫・白塩しらしほ下総しもふさの守・高山越前ゑちぜんの守・小林右馬の助・瓦葺かはらふき出雲いづもの守・見田みた常陸の守・古尾谷ふるをや民部の大輔たいふ・長峯石見いはみの守・都合その勢八万余騎、将軍の陣へ馳せ参る。




(足利尊氏は)久米川(現東京都東村山市)に一日逗留すると、河越弾正少弼(河越直重ただしげ)・同じく上野守・同じく唐戸十郎左衛門・江戸遠江守・同じく下野守・同じく修理亮・高坂兵部大輔(高坂氏重うぢしげ?)・同じく下野守・同じく下総守・同じく掃部助・豊島弾正左衛門・同じく兵庫助・土屋備前守・同じく修理亮・同じく出雲守・同じく肥後守・土肥次郎兵衛入道・子息掃部助・舎弟甲斐守・同じく三郎左衛門・二宮但馬守・同じく伊豆守・同じく近江守・同じく河内守・曽我周防守・同じく三河守・同じく上野守・子息兵庫助・渋谷木工左衛門・同じく石見守・海老名四郎左衛門・子息信濃守・舎弟修理亮・小早川刑部大夫・同じく勘解由左衛門・豊田因幡守・狩野介・那須遠江守・本間四郎左衛門・鹿島越前守(鹿島幹重もとしげ)・島田備前守・浄法寺左近大夫・白塩下総守・高山越前守・小林右馬助・瓦葺出雲守・見田常陸守・古尾谷民部大輔・長峯石見守、都合その勢八万余騎が、将軍(足利尊氏)の陣へ馳せ参りました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-14 07:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」千種殿並文観僧正奢侈の事付解脱上人の事(その1)

中にも千種の頭の中将忠顕ただあき朝臣は、故六条ろくでう内府だいふ有房ありふさ公の孫にておはせしかば文字もんじの道をこそ、家業かげふともたしなまるべかりしに、弱冠じやくくわんの頃より我が道にもあらぬ笠懸け・犬追物いぬおふものを好み、博奕ばくえき・婬乱を事とせられける間、父有忠ありただあのきやう離父子義、不幸の由にてぞ被置ける。されどもこの朝臣、一時の栄花えいぐわを可開過去くわこ因縁いんえんにやありけん、主上しゆしやう隠岐の国へ御遷幸せんかうの時供仕りて、六波羅の討つ手に上りたりし忠功に依つて、大国三箇国、闕所けつしよ数十箇所すじつかしよ被拝領たりしかば、朝恩てうおん身に余り、そのおごり目を驚かせり。その重恩そのぢゆうおんを与へたる家人けにんどもに、毎日の巡酒を振る舞はせけるに、堂上だうじやうに袖を連ぬる諸大夫・侍三百人に余れり。その酒肉珍膳しゆじくちんぜんつひへ、一度に万銭もなほ不可足。また数十間すじつけんむまやを作り双べて、ししに余れる馬を五六十疋被立たり。さかもりんで和興に時は、数百騎すひやくき相随あひしたがへて内野うちの・北山辺に打ち出でて追出犬、小鷹狩こたかがりに日を暮らし給ふ。その衣裳はへう・虎の皮を行縢むかばきち、金襴纐纈きんらんかうけつ直垂ひたたれに縫へり。賎しきが服貴服謂之僭上。僭上無礼せんじやうぶれいは国の凶賊なりと、孔安国こうあんこくいましめを不恥けるこそうたてけれ。




中でも千種頭中将忠顕朝臣(千種忠顕)は、故六条内府有房公(六条有房。内府=内大臣)の孫でしたので文字(和歌)の道をこそ、家業とし嗜むべきところを、弱冠の頃より我が道にもあらぬ笠懸([馬に乗って遠距離の的を射る競技])・犬追物([騎馬で犬を追い、弓で 射る騎射訓練の武術])を好み、博奕・婬乱に耽ったので、父有忠卿(六条有忠)と父子の縁を切られて、不孝の身となりました。けれども忠顕朝臣が、一時の栄華を開いたのは過去の因縁によるものでしょうか、主上(第九十六代後醍醐天皇)が隠岐国へ遷幸の時供をして、六波羅の討手として上った忠功により、大国三箇国、闕所([財産没収刑又はその刑罰により所有者がいなくなった所領])数十箇所を拝領しました、朝恩は身に余り、驕りは目を驚かせるほどでした。重恩の家人どもに、毎日巡酒を振る舞い、堂上に袖を連ねる諸大夫・侍は三百人に余りました。その酒肉珍膳の費用は、一度に万銭でもなお足りませんでした。また数十間の厩を作り並べて、肉付きのよい馬を五六十匹立てていました。酒盛りが済むと、数百騎を従えて内野(大内裏があった場所。鎌倉時代には一面野原となっていたらしい)・北山(現京都市北区)辺に打ち出て犬を追い、小鷹狩りに日を暮らしました。その衣裳は豹・虎の皮を行縢([遠行の外出・旅行・狩猟の際に両足の覆いとした布帛ふはくや毛皮の類])に裁ち、金襴([金糸を絵緯えぬき=横糸。として文様を織り出した織物])纐纈([絞染])を直垂としました。『故賤服貴服、謂之僭上』(賎しき故に貴き服を着ることは、僭上=身分を越えて出過ぎた行いをすること。の振る舞いである。『孝経』)。僭上の無礼は国の凶賊であると、孔安国(前漢代の学者。孔子十一世の孫らしい)の戒めを恥じないことこそ愚かなことでした。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-14 06:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その6)

鎌倉より追つ付き奉る人々には、畠山上野かうづけ・子息伊豆いづかみ・畠山左京さきやうの大夫・舎弟尾張をはりの守・舎弟大夫の将監しやうげん・その次式部の大夫・仁木につき左京さきやうの大夫・舎弟越後ゑちごの守・三男修理しゆりすけ岩松いはまつ式部の大夫・大島讃岐の守・石堂左馬のかみ・今河五郎入道・同じき式部の大夫・田中三郎・大高だいかう伊予の守・同じく土佐の修理しゆりすけ太平おほひら安芸の守・同じく出羽ではの守・宇津木平三・宍戸安芸の守・山城の判官はうぐわん・曽我兵庫ひやうごの助・梶原弾正だんじやうちゆう二階堂にかいだう丹後の守・同じく三郎左衛門さぶらうざゑもん饗庭命鶴あいばみやうづる・和田筑前の守・長井ながゐ大膳だいぜんの大夫・同じく備前の守・同じく治部ぢぶ少輔せう・子息右近の将監しやうげんらなり。元より隠謀ありしかば、石堂入道・三浦の介・小俣をまた少輔せう次郎・葦名あしな判官はうぐわん二階堂にかいだう下野しもつけの次郎、その勢三千余騎は、他勢を交えず、将軍の御馬おんむまの前後に透き間もなくぞ打つたりける。




鎌倉より追い付き奉る人々には、畠山上野介(畠山高国たかくに)・子息伊豆守・畠山左京大夫(畠山国清くにきよ)・舎弟尾張守・舎弟大夫将監・その次式部大夫・仁木左京大夫(仁木頼章よりあき)・舎弟越後守(仁木義長よしなが)・三男修理亮・岩松式部大夫・大島讃岐守・石塔左馬頭(石塔頼房よりふさ。ただし右馬頭)・今川五郎入道(今川範国のりくに)・同じく式部大夫・田中三郎・大高伊予守(大高重成しげなり)・同じく土佐修理亮・大平安芸守・同じく出羽守・宇津木平三・宍戸安芸守・山城判官・曽我兵庫助・梶原弾正忠・二階堂丹後守・同じく三郎左衛門・饗庭命鶴(饗庭氏直うぢなほ)・和田筑前守・長井大膳大夫・同じく備前守・同じく治部少輔・子息右近将監らでした。元より隠謀ありしかば、石塔入道(石塔義房よしふさ)・三浦介(三浦高通?)・小俣少輔次郎・葦名判官(葦名直盛なほもり)・二階堂下野次郎、その勢三千余騎は、他勢を交えず、将軍(足利尊氏)の馬の前後に隙間もなく付きました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-13 07:29 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事(その3)

東国・西国已に静謐しければ、自筑紫小弐・大友・菊池・松浦まつらの者ども、大船たいせん七百余艘よさうにて参洛す。新田左馬の助・舎弟兵庫ひやうごの助七千余騎にて被上洛しやうらく。この外国々の武士ども、一人も不残上り集まりける間、京白河に充満して、王城の富貴ふうき日来に百倍せり。諸軍勢の恩賞は暫く延引すとも、先づ大功のともがら抽賞ちうしやうを可被行とて、足利治部の大輔高氏たかうぢに、武蔵・常陸ひたち下総しもふさ三箇国、舎弟左馬のかみ直義ただよし遠江とほたふみの国、新田左馬の助義貞に上野かうづけ・播磨両国、子息義顕よしあき越後ゑちごの国、舎弟兵部ひやうぶ少輔せう義助よしすけに駿河の国、楠木判官正成に摂津の国・河内、名和伯耆はうきかみ長年ながとしに因幡・伯耆両国をぞ被行ける。その外公家・武家の輩、二箇国・三箇国を賜わり給はりけるに、さしもの軍忠ありし赤松入道円心ゑんしんに、佐用さよの庄一所許りを被行。播磨の国の守護職をば無程被召返けり。されば建武の乱に円心俄かに心替はりして、朝敵てうてきと成りしも、この恨みとぞ聞こへし。その外五十ごじふ余箇国の守護・国司・国々の闕所大庄けつしよたいしやうをば悉く公家被官ひくわんの人々拝領はいりやうしける間、誇陶朱之富貴飽鄭白之衣食矣。




東国・西国はすでに鎮まり、筑紫の小弐・大友・菊池・松浦の者どもが、大船七百余艘で参洛しました。新田左馬助(新田義貞)・舎弟兵庫助(脇屋義助よしすけ)は七千余騎で上洛しました。このほか国々の武士どもが、一人残らず上り集まったので、京白川に充満して、王城の富貴は日頃の百倍にも達しました。諸軍勢の恩賞はしばらく延引するとも、まず大功の者どもの抽賞を行うべきと、足利治部大輔高氏(足利高氏)に、武蔵・常陸・下総三箇国、舎弟左馬頭直義(足利直義)に遠江国、新田左馬助義貞(新田義貞)には上野・播磨両国、子息義顕(新田義顕。新田義貞の長男)に越後国、舎弟兵部少輔義助(脇屋義助)に駿河国、楠木判官正成(楠木正成)に摂津国・河内、名和伯耆守長年(名和長年)に因幡・伯耆両国を与えられました。そのほか公家・武家の輩が、二箇国・三箇国を賜わりましたが、あれほど軍忠のあった赤松入道円心(赤松則村のりむら)には、佐用庄(現兵庫県佐用郡佐用町)一所を与えただけでした。播磨国の守護職は程なく召し返されました。こうして建武の乱(延元の乱)に円心はにわかに心変わりして、朝敵となったのもこの恨みによるものだといわれました。そのほか五十余箇国の守護・国司・国々の闕所([財産没収刑またはその刑罰により所有者がいなくなった所領])大庄を残らず公家被官の人々に拝領したので、まさに陶朱(范蠡はんれい。中国春秋時代の越の政治家、軍人)の富貴([陶朱猗頓たうしゆいとんの富]=[陶朱は 金満家として知られ、猗頓は魯国の富豪であったところから、莫大な富])に誇り飽白(中国戦国時代の韓の鄭国と漢代の趙の大夫白公のこと)が衣食に飽きる([飽白の衣食に飽く]=[中国で、韓の鄭国と趙の白公の灌漑工事により、人々の生活が豊かになったという故事から、生活に不自由がないたとえ])に同じでした。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-13 07:22 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田起義兵事(その5)

これによつて武蔵・上野より早馬を打つて鎌倉へ急を告ぐる事、櫛の歯を引くが如し。「さて敵の勢はいかほどあるぞ」と問へば、使者ども皆、「二十万騎にじふまんぎには劣り候はじ」とぞ答へける。仁木・細川の人々これを聞いて、「さては由々しき大事ごさんなれ。鎌倉中かまくらぢゆうの勢、千騎に増さらじと思ゆるなり。国々の軍勢はたとひ参るとも、今の用には立ち難し。千騎に足らぬ御勢を以つて、敵の二十万騎を防がん事は、叶うべしとも思え候はず。ただ先づ安房あは上総かづさへ開かせ給ひて、御勢を付けて御合戦こそ候はめ」と申されけるを、将軍つくづくと聞き給ひて、「軍の習ひ、落ちて後利ある事千に一つの事なり。勢をもよほさん為に、安房・上総へ落ちなば、武蔵・相摸・上野・下野の者どもは、たとひ尊氏に心ざしありとも、敵に隔てられて御方になる事あるべからず。また尊氏鎌倉を落ちたりと聞かば、諸国に敵になる者多かるべし。今度に於いては、たとひ少勢なりとも、鎌倉を打ち出でて敵を道に待て、戦を決せんにはしかじ」とて、十六じふろく日の早旦に、将軍わづかに五百余騎の勢を率し、敵の行き合はんずる所までと、武蔵の国へ下り給ふ。




こうして武蔵・上野より早馬を打って鎌倉へ急を告げること、まるで櫛の歯を挽く([物事が絶え間なく続く])ようでした。「敵の勢はどれほどか」と訊ねると、使者どもは皆、「二十万騎には劣りますまい」と答えました。仁木・細川の人々はこれを聞いて、「由々しき大事ぞ。鎌倉中の勢は、千騎に及ぶまいと思われる。国々の軍勢が参ったところで、今の用には立つまい。千騎に足らぬ勢をもって敵の二十万騎を防ぐことが、できるとも思えぬ。ただまず安房・上総に散って、勢を付けて合戦に及ぶのがよろしいでしょう」と申しましたが、将軍(足利尊氏)はつくづくと聞いて「軍の習い、落ちた後に勝つことは千に一つである。勢を集めるために、安房・上総へ落ちれば、武蔵・相摸・上野・下野の者どもは、たとえ尊氏に心ざしがあったとしても、敵に隔てられて味方になることはあるまい。また尊氏が鎌倉を落ちたと聞けば、諸国に敵になる者が多くいよう。今度に於いては、たとえ小勢であろうとも、鎌倉を打ち出て敵を道に待って、戦を決するほかない」と申して、(観応三年(1352))閏二月十六日の早旦に、将軍はわずかに五百余騎の勢を率し、敵に行き合う所までと、武蔵国に下りました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-12 08:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」安鎮国家の法の事付諸大将恩賞の事(その2)

四門しもんの警固には、結城ゆふき七郎左衛門しちらうざゑもん親光ちかみつ・楠木河内かはちかみ正成まさしげ塩冶えんや判官高貞たかさだ・名和伯耆はうきの守長年ながとしなり。南庭の陣には右は三浦の介、左は千葉の大介貞胤ちばのおほすけさだたねをぞ被召ける。この両人兼ねては可随其役由を領状申りやうじやうまうしたりけるが、臨其期千葉は三浦が相手に成らん事を嫌ひ、三浦は千葉が右に立たん事を忿いかつて、共に出仕しゆしを留めければ、天魔の障礙しやうげ法会ほふゑ違乱ゐらんとぞ成りにける。後に思ひ合はするに天下久しく無為ぶゐなるまじき表示へうじなりけり。されどもこの法の効験かうげんにや、飯盛いひもりの丸城は正成に被攻落、立烏帽子たてゑぼしの城は、土居・得能に被責破、筑紫は大友・小弐に打ち負けて、朝敵てうてきの首京都に上りしかば、共に被渡大路、やがて被懸獄門けり。




四門の警固は、結城七郎左衛門親光(結城親光)・楠木河内守正成(楠木正成)・塩冶判官高貞(塩冶高貞)・名和伯耆守長年(名和長年)でした。南庭の陣には右は三浦介(三浦時継ときつぐ?)、左は千葉大介貞胤(千葉貞胤)を召されました。この両人はかねてはその役に従うと領状申しておりましたが、その期に及んで千葉は三浦が相手になることを嫌い、三浦は千葉が右に立つことに腹を立てて、ともに出仕しませんでした、天魔の障礙([妨げ])が、法会の違乱([法に違反し秩序を乱すこと])となったのでした。後に思い合わせると天下が久しく無為([無事])とならぬ表示([兆候])でした。けれどもこの法の効験か、飯盛丸城(現大阪府大東市・四條畷市)は(楠木)正成に攻め落とされ、立烏帽子城(現愛媛県松山市)は、土居(土居通増みちます)・得能(得能通綱みちつな)に攻め落とされ、筑紫は大友・小弐に打ち負けて、朝敵の首は京都に上ると、ともに大路を渡され、やがて獄門に懸けられました。


続く


[PR]
# by santalab | 2017-04-12 08:22 | 太平記 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
すみません、日本語の起源..
by 春日 at 21:17
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧