Santa Lab's Blog


「太平記」兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事(その9)

ある時天に一つの悪星出でて天下のえうを示す事あり。張華ちやうくわ雷煥らいくわんと云ひける二人ににんの臣、楼台ろうだいに上ぼつてこの星を見るに、旧き獄門の辺より剣の光天に上ぼつて悪星と闘ふ気あり。張華怪しんで光の指す所を掘らせて見るに、件の干将莫耶かんしやうばくやの剣土五尺が下にうづもれてぞ残りける。張華・雷煥これを取つて天子にたてまつらん為に、みづからこれを帯し、延平津えんへいしんと云ふ沢の辺をとほりける時、剣自ら抜けて水の中に入りけるが、雌雄二つの竜と成つて遥かの浪にぞ沈みける。淵辺加様かやう前蹤ぜんしようを思ひければ、兵部卿ひやうぶきやう親王しんわうの刀のきつさきひ切らせ給ひて、御口の中に被含たりけるを見て、左馬の頭に近付け奉らじと、その御首をばやぶかたはらに棄てけるとなり。




ある時天に一つの悪星が現れて天下の妖([不吉])を示すことがありました。張華(西晋の文人、政治家)・雷煥という二人の臣が、楼台に上ぼってこの星を見れば、昔の獄門のあたりより剣の光が天に上ぼって悪星と戦うように見えました。張華は不思議に思って光が指す場所を掘らせて見れば、件の干将莫耶(名剣の製作者である夫婦の名)の剣土が五尺下に埋れていました。張華・雷煥はこれを取って天子に献上するために、自らこれを帯し、延平津という沢のあたりを通っていた時、剣は自ら抜けて水の中に飛び込むと、雌雄二つの竜となって遥かの浪に沈みました。淵辺(淵辺義博よしひろ)はこの前蹤([前例])を思い、兵部卿親王(護良もりよし親王)が刀の切っ先を喰い切って、口の中に含んだのを見て、左馬頭(足利直義ただよし。足利尊氏の弟)に近付けてはならないと、その首をば薮の傍らに捨てたということです。


続く


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# by santalab | 2017-05-24 06:54 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その1)

都には去月二十日の合戦に打ち負けて、足利宰相さいしやう中将ちゆうじやう殿は近江あふみの国へ落ちさせ給ひ、持明院の本院ほんゐん・新院・主上しゆしやう・春宮は、皆捕らはれさせ給ひて、賀名生あなふ遷幸せんかう成りぬ。吉野の主上はなほ世をあやぶみて、八幡に御座あり。月卿雲客げつけいうんかくは、西山・東山・吉峯・鞍馬の奥などに逃げ隠れてをはすれば、帝城の九禁きうきんいつしか虎賁猛将こふんまうしやうの備へもなく、朝儀てうぎ大礼の沙汰もなくて、野干やかんの棲みかと成りにけり。桓武くわんむの聖代この四神ししん相応さうおうの地を撰んで、東山に将軍塚しやうぐんづかかれ、うしとらの方に天台山を立て、百王万代ばんだい宝祚はうそを修し置かれし勝地なれば、後五百歳ごごひやくさい未来永々みらいやうやうに至るまで、荒廃くわうはい非じとこそ思えつるに、こはそもいかに成りぬる世の中ぞやと、歎かぬ人もなかりけり。




都では去月(正平七年(1352)二月)二十日の合戦に打ち負けて、足利宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)は近江国に落ち、持明院の本院(北朝初代光厳院)・新院(北朝第二代光明院)・主上(北朝第三代崇光院)・春宮(第九十五代花園天皇の皇子で、実は光厳天皇の皇子。直仁なほひと親王。崇光天皇の皇太弟)は、皆捕らえられて、賀名生(現奈良県五條市)に遷幸されました。吉野の主上(第九十七代後村上天皇)はなおも世を危ぶまれて、八幡(現京都府八幡市)におられました。月卿雲客([公卿と殿上人])は、西山・東山・善峯・鞍馬の奥などに逃げ隠れたので、帝城の九禁([皇居])はいつしか虎賁([前漢代に設立された皇帝直属の部隊名])の猛将の備えもなく、朝儀大礼の沙汰もなくて、野干([狐の異名])の棲みかとなりました。桓武(第五十代天皇)の聖代にこの四神相応([大地の四方の方角を司る 四神=東に青竜・西に白虎・南に朱雀・北に玄武。の存在に最もふさわしいと伝統的に信じられてきた地勢や地相])の地を選んで、東山に将軍塚([桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ八尺の土の人形に甲冑を着せ、弓矢を持たせ、京都の方を向けて埋めた塚であると伝わる])を築き、艮([北東])の方に天台山(延暦寺)を建て、百王万代の宝祚([天子の位])を修め置かれた勝地でしたので、後五百歳未来永々に至るまで、荒廃することはないと思われましたが、これはいったい世の中はどうなるのかと、嘆かぬ人はいませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-05-23 06:59 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事(その8)

この口の中に含んだりし三寸の剣、えんの国に留まつて太子丹が剣となる。太子丹、荊軻けいか秦舞陽しんぶやうをして秦の始皇しくわうたんとせし時、みづか差図さしづの箱の中より飛び出でて、始皇帝を追ひ奉りしが、薬の袋を被投懸ながら、口六尺のあかがねの柱の半ばを切つて、つひに三つにれて失せたりし匕首ひしゆの剣これなり。その雌雄二つの剣は干将莫耶かんしやうばくやの剣と被云て、代々の天子の宝たりしが、陳の代に至つて俄かに失せにけり。




この口の中に含んだ三寸の剣は、燕の国に留まって太子丹(中国戦国時代末期の燕の王族)の剣となりました。太子丹は、荊軻(中国戦国時代末期の刺客)・秦舞陽をもって秦始皇帝を討とうとした時、自ら差図([地図])の箱の中から飛び出て、始皇帝を追いかけました、剣は薬の袋を投げ懸けられながら、口(口径)六尺の銅の柱の半ばを切って、遂に三つに折れて失せた匕首の剣がこれです。その雌雄二つの剣は干将莫耶(名剣の製作者である夫婦の名)の剣と言われて、代々の天子の宝でしたが、陳の代になってにわかに失せました。


続く


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# by santalab | 2017-05-23 06:53 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事(その7)

かく眉間尺みけんじやくが首を取つて、すなはち楚王にたてまつる。楚王おほきに喜びてこれを獄門に被懸たるに、三月までそのくび不爛、みはり目を、切歯を、常に歯喫はがみをしける間、楚王これを恐れて敢へて不近給。これをかなへの中に入れ、七日七夜までぞ被煮ける。余りに強く被煮て、このくび少しただれて目を塞ぎたりけるを、今は子細非じとて、楚王みづから鼎の蓋を開けさせて、これを見給ひける時、このこのくび、口に含んだる剣のきつさきを楚王にはつと奉吹懸。剣の鋒不誤、楚王の頚の骨を切りければ、楚王のくび忽ちに落ちて、鼎の中へ入りにけり。楚王のくびと眉間尺が首と、え揚がる湯の中にして、うへになり下に成り、ひ合ひけるが、ややもすれば眉間尺がくびは下に成つて、喫ひ負けぬべく見へける間、かくみづから己が首を掻き落として鼎の中へ投げ入れ、すなはち眉間尺がくびと相共に、楚王のくびを喫ひ破つて、眉間尺がくびは、「死して後父のあたを報じぬ」と呼ばはり、客の頭は、「泉下せんか朋友ほういうの恩を謝しぬ」と悦ぶ声して、共に皆煮えただれて失せにけり。




客(甑山人そうさんじん)は眉間尺の首を取ると、すぐさま楚王に献上しました。楚王はたいそうよろこんでこれを獄門に懸けましたが、三月までその首は朽ちず、目を見張り、歯を喰いしばり、常に睨んでいたので、楚王はこれを恐れてあえて近付きませんでした。これを鼎([鍋・釜の用に用いられた古代中国の金属製の器])の中に入れて、七日七夜これを煮ました。あまりに強く煮たので、この首は少し崩れて目が塞がれたので、今は恐れることはないと、楚王は自ら鼎の蓋を開けさせて、これを見た時、この首が、口に含んだ剣の切っ先を楚王に吹き懸けました。剣の切っ先は外れることなく、楚王の首の骨を切ったので、楚王の首はたちまち落ちて、鼎の中へ入りました。楚王の頭と眉間尺が首が、沸き上がる湯の中で、上になり下になり、喰い合っていましたが、ややもすれば眉間尺の首が下になって、喰い負けると見えたので、客は自ら己の首を掻き落として鼎の中へ投げ入れ、たちまち眉間尺の首とともに、楚王の首を喰い破りました、眉間尺の首は、「死んだ後に父の敵に復讐したぞ」と叫び、客の首は、「泉下([あの世])で朋友([友人])の恩に報いることができた」とよろこぶ声がして、ともに皆煮え崩れて失せました。


続く


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# by santalab | 2017-05-22 07:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」笛吹峠軍の事(その9)

よひのほどは皆心を取り静めて居たりけるが、夜半許りに続松たいまつをびたたしく見へて、将軍へ大勢の続く勢見へければ、明日の戦も叶はじとや思はれけん、上杉民部の大輔、篝計かがりばかりを焼き棄てて、信濃へ落ちにければ、新田武蔵のかみ、その暁越後へ落ちられけり。斯かりし後は、只今まで新田・上杉に付きしたがひつる武蔵・上野のつはものどもも、未だいづ方へも不著して、一合戦の勝負を伺ひ見つる上総・下総の者どもも、我前さきにと将軍へ馳せ参りけるほどに、その勢無程百倍して、八十万騎はちじふまんぎに成りにけり。新田左兵衛さひやうゑすけ義興よしおき・脇屋左衛門さゑもんの佐義治よしはるは、六千余騎にてなほ鎌倉にをはしけるが、将軍已に笛吹うすひの峠の合戦に打ち勝つて、八箇国の勢を率して、鎌倉へ寄せ給ふ由聞こへければ、義興も義治も、ただここにて討ち死にせんとのたまひけるを、松田・河村の者ども、「それがしらが所領の内、相摸河の河上に究竟くつきやう深山みやま候へば、ただそれへ先づ引き篭もらせ給ひて、京都の御左右をも聞こし召し、越後信乃しなのの大将たちへも被牒合さふらひて、天下の機を得、諸国の兵を集めてこそ重ねて御合戦も候はめ」と、度々よりより強ひてまうしければ、義興・義治諸共に、三月四日鎌倉を引きて、石堂・小俣をまた二階堂にかいだう・葦名判官・三浦の介・松田・河村・酒勾さかわ以下、六千余騎の勢を率して、国府津山こふづやまの奥にぞ篭もりける。




宵のほどは皆心を取り直していましたが、夜半ばかりに松明が数多く見えて、将軍(足利尊氏)に大勢集まると見えたので、明日の戦も敵わないと思ったか、上杉民部大輔(上杉憲顕のりあき)は、篝火だけを残して、信濃へ落ちたので、新田武蔵守(新田義宗よしむね。新田義貞の三男)も、暁に越後に落ちて行きました。その後は、今まで新田・上杉に付き従っていた武蔵・上野の兵どもも、どちらにも付かず、一合戦の勝負を窺っていた上総・下総の者どもも、我先にと将軍に馳せ参ったので、その勢はほどなく百倍となって、八十万騎になりました。新田左兵衛佐義興(新田義興。新田義貞の次男)・脇屋左衛門佐義治(脇屋義治。新田義貞の弟、脇屋義助よしすけの子)は、六千余騎でなおも鎌倉にいましたが、将軍が碓氷峠(現群馬県安中市と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠)の合戦に打ち勝って、八箇国の勢を率して、鎌倉へ寄せると聞こたので、義興も義治も、ただここで討ち死にすると申しましたが、松田・河村の者どもが、「某らが所領の内、相摸川の川上に究竟の深山がございます、まずはそこへ引き籠もられて、京都の成り行きもお聞きになり、越後信濃の大将たちへも牒合されて、天下の機を得、諸国の兵を集めて重ねて合戦されますよう」と、度々申したので、義興・義治ともに、三月四日に鎌倉を引いて、石塔(石塔義房よしふさ)・小俣・二階堂・葦名判官(正しくは、蘆名直盛なほもり。葦名判官は蘆名直盛の兄、蘆名盛員もりかず)・三浦介(三浦高通たかみち?)・松田・河村・酒勾以下、六千余騎の勢を率して、国府津山(現神奈川県小田原市)の奥に籠もりました。


続く


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# by santalab | 2017-05-22 07:09 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事(その6)

斯かる処に、父干将かんしやういにしへ知音ちいんなりける甑山人そうさんじん来たつて、眉間尺みけんじやくに向かつて云ひけるは、「我なんぢが父干将と交はりを結ぶ事年久しかりき。然れば、その朋友ほういうの恩を謝せん為、汝と共に楚王を可奉討事を可謀。汝もし父のあたを報ぜんとならば、持つ所の剣のきつさきを三寸ひ切つて口の中に含んで可死。我汝がくびを取つて楚王に献ぜば、楚王悦んで必ず汝がくびを見給はん時、口に含める剣の先を楚王に吹き懸けて、共に可死」と云ひければ、眉間尺みけんじやくおほきに悦んで、すなは雌剣しけんきつさき三寸ひ切つて、口の内に含み、みづから己がくびを掻き切つて、かくの前にぞ指し置きける。




そうこうするところに、父干将の古くからの知音([互いによく心を知り合った友])である甑山人が訪ね来て、眉間尺に向かって言うには、「わしはお前の父干将とは長い付き合いをしておった。だから、朋友の恩に報いるため、お前とともに楚王を討とうと思うておるのだ。お前が父の敵に復讐しようと思うておるのならば、持っておる剣の切っ先を三寸喰い切って口の中に含んで死ぬがよい。わしがお前の首を取って楚王に献上すれば、楚王はよろこんで必ずやお前の首を見るであろう、その時口に含んでおった剣の先を楚王に吹き懸けて、ともに死ぬがよい」と言うと、眉間尺はたいそうよろこんで、たりまち雌剣の切っ先を三寸喰い切って、口の内に含み、自ら己の首を掻き切って、客の前に差し置きました。


続く


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# by santalab | 2017-05-21 07:36 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」笛吹峠軍の事(その8)

夜に入りければ、両陣ともに引き退きて陣々にかがりを焚きたるに、将軍の御陣を見渡せば、四方しはう五六里に及びて、銀漢高く澄める夜に、星を列ぬるが如くなり。笛吹うすひの峠をかへりみれば、月に消え行く蛍火の山陰やまかげに残るに不異。義宗よしむねこれを見給ひて、「終日ひねもすの合戦に、兵若干そくばく討たれぬといへども、これほどまで陣のくべしとは思えぬに、篝の数の余りにさびしく見ゆるは、如何様勢の落ち行くと思ゆるぞ。道々に関を据ゑよ」とて、栽田山うえたやま信濃路しなのぢに、きびしく関を据ゑられたり。「それ士率将を疑ふ時は戦不利云ふ事あり。前には大敵勝つに乗つて、後ろは御方の国々なれば、今夜一定いちぢやう越後・信濃へ引き返さんずらんと、我を疑はぬ軍勢不可有。舟をしづかてを捨て、二度ふたたびかへらじと云ふ心を示すは良将のはかりことなり。皆馬の鞍をろしよろひを脱いで、引くまじき気色、人に見せよ」とて、大将鎧を脱ぎ給へば士率悉く鞍を下ろして馬を休む。




夜に入ると、両陣ともに引き退いて陣々に篝火を焚きましたが、将軍(足利尊氏)の陣を見渡せば、四方五六里に及んで、まるで銀漢([天の川])高く澄み渡る夜に、星をちりばめたようでした。碓氷峠(現群馬県安中市と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠)を振り返り見れば、月に消え行く蛍火が山陰に残るばかりでした。義宗(新田義宗。新田義貞の三男)はこれを見て、「終日の合戦で、兵が若干討たれたといえども、これほどまで陣が少ないとは思えぬ、篝火の数があまりにさびしく見えるのは、おそらく勢が落ち行ったに違いない。道々に関を据えよ」と申して、栽田山(現長野県上田市?)と信濃路に、厳しく関を据えました。「士率が将を疑う時は戦に利なしと言うぞ。前には大敵が勝つに乗って、後ろは味方の国々である、今夜必ず越後・信濃へ引き返すであろうと、疑わぬ軍勢があろうか。舟を沈め糧を捨て、再び帰らぬ心を示すのが良将(韓信。秦末から前漢初期にかけての武将)の謀よ。皆馬の鞍を下ろし鎧を脱いで、引くまじき気色を、人に見せよ」と申して、大将(新田義宗)が鎧を脱いだので士率も残らず鞍を下ろして馬を休めました。


続く


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# by santalab | 2017-05-21 07:31 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」笛吹峠軍の事(その7)

根津と長尾と、支度相違さうゐしぬと思ひければ、きつさきに貫きたる首をげて、乱れ髪を振り揚げ、大勢の中をつて通る。彼ら二人ににんが鋒にまはる敵、一人として兜の鉢を胸板むねいたまで真つ二つに破り著けられ、腰のつがひを切つて落とされぬはなかりけり。されども敵は大勢なり。これらはただ二騎なり、十方より矢衾やぶすまを作つて散々に射ける間、叶はじとや思ひけん、「あはれ運強き足利殿や」と高らかにあざむいて、閑々しづしづと本陣へぞ帰りける。




根津と長尾は、想定と違うと思い、切っ先に貫いた首を投げ捨てて、乱れ髪を振り上げ、大勢の中を駆け破って通りました。彼ら二人の切っ先に廻る敵は、一人として兜の鉢を胸板まで真っ二つに破り付けられ、腰の番いを切って落とされぬ者はいませんでした。けれども敵は大勢でした。かれらはただ二騎でしたので、十方より矢衾([射手がすきまなく並び立った列])を作って散々に矢を射たので、敵わないと思ったか、「なんと運の強い足利殿(足利尊氏)よ」と高らかに大口をたたいて、閑々と本陣に帰って行きました。


続く


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# by santalab | 2017-05-20 08:06 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事(その5)

年十五に成りける時、父が書き置きけることばを見るに、


日出北戸ほつこにいづ
南山其松
松生於石
剣在其中


と書けり。さてはこの剣北戸の柱の中にありと心得て、柱をつて見るに、果たして一つの雌剣しけんあり。眉間尺これを得て、あはれ楚王を奉討父のあたを報ぜばやと思ふ事骨髄こつずゐとほれり。楚王も眉間尺がいきどほりを聞き給ひて、かれ世にあらんほどは、不心安被思ければ、数万すまん官軍くわんぐんを差し遣はして、これを被責けるに、眉間尺一人が勇力ゆうりきに被摧、またその雌剣のやいばに触れて、死傷する者幾千万と云ふ数を不知。




眉間尺みけんじやくは十五歳になって、父が書き置いた文を見れば、


北戸を東に向かえば、
南山に松が生えておる。
松の根元に石がある。
剣はその中にある。


と書いてありました。さては剣は北戸の柱の中にあると心得て、柱を割って見れば、果たして一つの雌剣がありました。眉間尺はこれを得て、なんとしても楚王を討って父の敵に報復しようと思う気持ちが骨髄に染みました。楚王も眉間尺の怒りを聞いて、彼が世にいる限り、安心できまいと思って、数万の官軍を差し遣わして、眉間尺を攻めましたが、眉間尺一人の勇力に砕かれ、またその雌剣の刃に触れて、死傷する者は幾千万という数を知りませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-05-20 08:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」兵部卿宮薨御の事付干将莫耶事(その4)

楚王雄剣を開いて見給ふに、まことに精霊ありと見へければ、箱の中にをさめて被置たるに、この剣箱の中にして常に悲泣ひきふの声あり。楚王怪しみて群臣にその泣くゆゑを問ひ給ふに、臣皆まうさく、「この剣必ず雄とと二つ可有。その雌雄一所に不在間、これを悲しんで泣くものなり」とぞ奏しける。楚王おほきに忿いかつて、すなはち干将を被召出、典獄てんごくの官におほせて首を被刎けり。その後莫耶ばくや子を生めり。面貌めんばう世の常の人に替はつてたけの高き事一丈いちぢやう五尺、力は五百人が力を合はせたり。おもて三尺あつて眉間一尺ありければ、世の人その名を眉間尺みけんじやくとぞ名付けける。




楚王が雄剣を開いて見ると、まことに精霊がいるように思われて、箱の中に収め置きましたが、箱の中で常に泣き悲しむ声がしました。楚王は不思議に思い群臣に泣く訳を訊ねると、臣が口を揃えて申すには、「剣はきっと雄と雌の二つあるのでしょう。雌雄が一所にいないため、これを悲しんで泣いていると思われます」と申しました。楚王はたいそう怒って、たちまち干将を呼び出すと、典獄の官に命じて首を刎ねさせました。その後莫耶は子を生みました。顔かたち世の常の人とは違って丈が高く一丈五尺(約4.5m)、力は五百人力ありました。顔は三尺あって眉間が一尺あったので、世の人その名を眉間尺と名付けました。


続く


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# by santalab | 2017-05-19 21:51 | 太平記 | Comments(0)

    

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