Santa Lab's Blog


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その9)

赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのりは、いつも打ち込みの軍を好まぬ者なければ、手勢計り五六十騎ごろくじつき引き分けて、返す敵あれば、追つ立て追つ立て切つて落とす。名もなき敵どもをば、何百人切つてもよしなし。あはれよからんずる敵に逢はばやと願ひて、北白川きたしらかはを今路へ向かつて歩ませ行く処に、洗ひかはの鎧の妻取つたるに竜頭たつがしらの兜のめ、五尺許りなる太刀二振り帯いて、歯のわたり八寸計りなる大鉞おほまさかりを振りかたげて、近付く敵あらばただ一打ちに打ちひしがんと尻目に敵を睨んでしづかに落ち行く武者あり。




赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)は、打ち込み([秩序がなく入り乱れること])の軍を好まなかったので、手勢ばかり五六十騎を引き分けて、返す敵があれば追い立て追い立て切つて落としました。名もない敵どもを、何百人斬っても仕方ない。ああよい敵に遭わないかと願いながら、北白川(現京都市左京区)を今路([今路越]=[近江に至る古路])へ向かって馬を歩ませ行くところに、洗い革([水に浸してよく練った白いなめし皮。また、薄紅色に染めたなめし皮])の鎧を褄取り([褄取威]=[袖や草摺の端を斜めに、地色とは別の色で威したもの])したものに竜頭([竜の形をした兜の前立])の兜の緒を締めて、五尺ばかりの太刀を二振り佩き、歯の亘り([周囲])渡り八寸ばかりの大鉞を肩に懸け、近付く敵があればただ一打ちに打ち下ろそうと尻目に敵を睨んで閑かに落ち行く武者がいました。


続く


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# by santalab | 2017-06-21 07:01 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その8)

細河ほそかは相摸のかみ清氏きようぢ、これほど御方の打ち負けたるを見ながら、すこしも機を不屈、なほ勇み進んでぞ見へたりける。吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮民部の少輔せう海東かいとう和田にぎた・楠木、皆荒手なれば細河と懸かり合つて、鴨川を西へ追ひ渡し、真如堂の前を東へ追つ立て、時移るまでぞ戦ひたる。千騎せんぎが一騎に成るまでも引かじとこそ戦ひけれども、将軍の陣あらけ靡いて後ろの御方相遠あひどほに成りければ、細河つひに打ち負けて四明しめいの峯へ引き上がる。




細川相摸守清氏(細川清氏)は、これほどに味方が打ち負けたのを見ながら、少しも気落ちせず、なおも勇み進むように見えました。吉良(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔義房よしふさ)・原・蜂屋・宇都宮民部少輔・海東・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)は、皆新手でしたので細川(清氏)と懸かり合って、鴨川を西へ追い渡し、真如堂(現京都市左京区にある真正極楽寺)の前を東へ追い立て、時が移るまで戦いました。千騎が一騎になろうとも引くまいと戦いましたが、将軍(足利尊氏)の陣が散り散りになって後ろの味方が離れてしまったので、細川(清氏)は遂に打ち負けて四明峯(四明嶽=比叡山)に引き上りました。


続く


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# by santalab | 2017-06-20 07:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その7)

宮方手合はせの軍に打ち勝つて、気を揚げ勇みに乗つて東の方を見たれば、土岐の桔梗ききやう一揆、水色の旗を差し上げ、大鍬形おほくはがた夕陽せきやう耀かかやかし、魚鱗に連なりて六七百騎がほど控へたり。小林これを見て人馬に息をも継がせず、やがて懸け合はせんとしけるを、山名右衛門うゑもんすけ扇を揚げて招き止め、荒手の兵千余騎を引き勝つて相近付あひちかづく。土岐も山名も閑々しづしづと馬を歩ませて、一矢射違ふるほどこそあれ、互ひに諸鐙を合はせて懸け入り、敵御方二千余騎、一度にさつと入り乱れて、弓手に逢ひ馬手めてに背き、半時許り切り合ひたるに、馬烟むまけぶり虚空にまはつてつじかぜ微塵みぢんを吹き立てたるに不異。太刀の鍔音つばおと・鬨の音、大山たいざんくづし大地を動かして、すはや宮方打ち勝ちぬと見へしかば、鞍の上空しき放れ馬四五百疋、河より西へわしり出でて、山名が兵のきつさきに首を貫かぬはなかりけり。




宮方は手合わせの軍に打ち勝って、気を上げ勇みに乗って東の方を見れば、土岐の桔梗一揆([土岐氏一族の強力な武士団])が、水色の旗を差し上げ、大鍬形([兜の前立の一])を夕陽に輝かせて、魚鱗([兵法で、八陣の一。中央が突き出した陣形])に連なり六七百騎ほど控えていました。小林(左京亮)はこれを見て人馬に息をも継がせず、たちまち駆け合わせようとしましたが、山名右衛門佐(山名師氏もろうぢ)が扇を上げて招き止め、新手の兵千余騎を引き選って進ませました。土岐(土岐頼康よりやす)も山名(師氏)もゆっくりと馬を歩ませて、互いに諸鐙を合わせて駆け入り、敵御方二千余騎が、一度にさっと入り乱れると、弓手([左])に当たり馬手([右])に別れ、半時ばかり切り合いました、馬煙が虚空に舞い上がりまるで旋風が微塵を吹き立てたようでした。太刀の鍔音・鬨の声は、大山を崩し大地を動かして、すでに宮方が打ち勝ったと見えると、鞍の上空しき放れ馬が四五百匹、川(鴨川)より西へ走り出て、山名(師氏)の兵の切っ先に首を貫かぬ者はいませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-06-19 07:17 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その6)

ここに佐々木惣領そうりやう氏頼うぢより、その頃遁世にて西山辺に隠れ居たりける間、舎弟五郎右衛門うゑもんじよう世務せむに代はつて国の権柄を執りしが、近江あふみの国の地頭・御家人、この手にしよくして五百余騎ありけるが、楠木が勢に招かれて、胡録えびらたたき鬨の声を揚げをめいて懸かる。楠木が勢やうに開き陰にかためて散々に射る。射れども佐々木が勢ひるまず、しころを傾けて袖をかざし、懸け入りけるを見て、山名が執事小林左京さきやうすけ、七百余騎にて横合ひに逢ふ。佐々木勢余りに手痛く懸けられて、叶はじとや思ひけん、神楽岡かぐらをかへ引き上がる。




佐々木惣領氏頼(六角氏頼)は、その頃遁世して西山辺に隠れ住んでいました、舎弟五郎右衛門尉(山内信詮)が千手(六角氏頼の嫡男)に代わって国の権柄を執っていました、近江国の地頭・御家人は、この手に属して五百余騎ありましたが、楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)の勢に手招きされて、箙([矢を入れて右腰につける武具])を叩き鬨の声を上げて喚いて懸かりました。楠木(正儀)の勢は陽に開き陰に固めて散々に矢を射ました。矢を射れども佐々木の勢はひるまず、錣([兜・頭巾の左右・後方に下げて首筋をおおう部分])を傾けて袖で覆い、駆け入るのを見て、山名(山名師氏もろうぢ)の執事小林左京亮が、七百余騎で横合いに当たりました。佐々木勢はあまりに手痛く駆けられて、敵わないと思ったか、神楽岡(現京都市左京区)に引き上がりました。


続く


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# by santalab | 2017-06-18 08:53 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その5)

去るほどに文和二年六月九日卯の刻に、南方の官軍くわんぐん、吉良・石堂いしたう和田にぎた・楠木・原・蜂屋・赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのり三千余騎、八条はつでう九条くでうの在家に火を懸けて、相図のけぶりを上げたれば、山陰道せんおんだうの寄せ手、山名伊豆いづかみ時氏ときうぢ子息右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢ・伊田・波多野はだの、五千余騎、梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条に火を懸けて、先づ京中きやうぢゆうへぞ寄せたりける。洛中には向かふ敵なければ、南方西国のつはものども、一所に打ち寄つて、四条川原しでうがはらくつばみならべて控へたり。これより遥かに敵の陣を見遣れば、鹿谷ししのたに神楽岡かぐらをかの南北に、家々の旗二三百流れひるがへつて、つ目結ひの旗一流れ真つさきに進んで、真如堂の前に下り合ふたり。敵陣皆山に寄つて木陰に控へたり。勢の多少も不見分和田・楠木、法勝寺の西の門を打ち通つて、川原かはらに控へたりけるが、敵をおびき出して勢のほどを見んとて、射手の兵五百人馬より下ろし、持楯もつたて畳楯でふたて突きしとみ突き蔀み、しづかに田のくろを歩ませて、次第次第に相近付あひちかづく。




やがて文和二年(1353)六月九日卯の刻([午前六時頃])に、南方(南朝)の官軍、吉良(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔義房よしふさ)・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)三千余騎が、八条九条の在家に火を懸けて、相図の狼煙を上げると、山陰道の寄せ手、山名伊豆守時氏(山名時氏)子息右衛門佐師氏(山名師氏)・伊田・波多野、五千余騎は、梅津(現京都市右京区)・桂(現京都市西京区)・嵯峨(現京都市右京区)・仁和寺(現京都市右京区)・西七条(現京都市下京区)に火を懸けて、まず京中に寄せました。洛中には向かう敵はいませんでしたので、南方西国の兵どもは、一所に打ち寄って、四条河原(現京都市下京区・中京区)に轡を並べて控えました。これより遥かに敵陣を見遣れば、鹿ヶ谷(現京都市左京区)・神楽岡(現京都市左京区)の南北に、家々の旗が二三百流れ翻って、四目結(佐々木氏の紋)の旗が一流れ真っ先に進んで、真如堂(現京都市左京区にある真正極楽寺)の前に控えていました。敵陣は皆山沿いの木陰に控えていました。勢の多少も知れないままに和田(正武)・楠木(正儀)は、法勝寺(かつて現京都市左京区にあった寺院)の西門を通って、河原に控えていましたが、敵をおびき出して勢のほどを見ようと、射手の兵五百人を馬から下ろし、持楯畳楯([大型の楯])を突き並べて、ゆっくり田の畦を歩ませて、徐々に敵陣に近付きました。


続く


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# by santalab | 2017-06-17 08:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その4)

この時将軍未だ上洛しやうらくし給はで、鎌倉にをはせしかば、京都余りに無勢ぶせいにて、大敵可戦様もなかりけり。中々なる軍して敵に気を著けては叶ふまじとて、土岐・佐々木の者ども、しきりに江州がうしうへ引き退いて、勢多にて敵を相待あひまたんと申しけるを、宰相さいしやう中将ちゆうじやう義詮朝臣よしあきらあそん、「敵大勢なればとて、一軍もせでいかが聞き逃げをばすべき」とて、主上しゆしやうをば先づ山門の東坂本へ行幸なしまゐらせて、仁木・細河ほそかは・土岐・佐々木三千余騎を一処に集め、鹿谷ししのたにを後ろに当てて、敵を洛川らくせんの西に相待たる。この陣の様、前に川あつて後ろに大山そばだちたれば、引き場の思ひはなけれども、韓信が兵書をさみして背水はいすゐの陣を張りしに違へり。殊更土岐・佐々木の兵、近江と美濃とを後ろに於いて戦はんに、引きて暫く気を休めばやと思はぬ事やあるべきと、未だ戦はざるさきに敵に心をぞはかられける。




この時将軍(足利尊氏)はまだ上洛せず、鎌倉にいたので、京都はあまりにも無勢にして、大敵と戦うべくもありませんでした。つまら軍をして敵に勢いを付けては元も子もないと、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)の者どもが、しきりに江州(近江国)へ引き退いて、勢多(現滋賀県大津市)で敵を待とうと申しましたが、宰相中将義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)は、「敵が大勢だからといって、一軍もせずにどうして聞き逃げできようか」と申して、主上(北朝第四代、後光厳天皇)をまず山門の東坂本(現滋賀県大津市)へ行幸参らせて、仁木(仁木義長よしなが)・細川(細川清氏きようぢ)・土岐(頼康)・佐々木(道誉)三千余騎を一所に集め、鹿ヶ谷(現京都市左京区)を後ろに当てて、敵を洛川(鴨川)の西にして待ち構えました。この陣の様は、前に川があって後ろに大山がそばだち、引き退くことは考えていませんでしたが、韓信(中国秦末から前漢初期にかけての武将)が兵書を元に背水の陣を張ったのとはまったく異なっていました。中でも土岐(頼康)・佐々木(道誉)の兵は、近江と美濃とを後ろにして戦うことになりましたが、引き退いてしばらく休む気も起こるかと、戦う前に敵に心を読まれていました。


続く


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# by santalab | 2017-06-16 07:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その3)

伯耆はうきの国に著かれければ、師氏もろうぢ先づ親父しんぶ左京大夫時氏ときうぢの許に行きて、「京都の沙汰の次第、面目を失ひつる間、将軍にいとまをも申さず罷り下り候ふ」と語りければ、親父も大きに忿いかつて、やがて宮方の御旗を揚げ、先づ道誉だうよが小目代にて、吉田肥前が出雲いづもの国にありけるを追ひ出だし、事の子細を相触あひふるるに、富田とんだ判官はうぐわんを始めとして、伊田・波多野はだの・矢部・小幡をばたに至るまで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国しかこく即時に打ちしたがへてげり。さらばやがて南方へ牒送てふそうせよとて、吉野殿へ奏聞をるに、山陰道せんおんだうより攻め上らば、南方よりも官軍くわんぐんを出だされて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大きに悦びて、五月七日伯耆の国を立つて、但馬・丹後の勢を引き具して、三千余騎丹波路たんばぢを経て攻め上る。兼ねて相図を差しければ、南方より惣大将そうだいしやう四条しでうの大納言隆俊たかとし・法性寺左兵衛さひやうゑかみ康長やすなが和田にぎた・楠木・原・蜂屋・赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのり・湯浅・貴志きじ・藤波を始めとして、和泉・河内・大和・紀伊の国のつはものども三千余騎勝り出だしければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡おほわたり、西は梅津・桂の里・谷の・峯の堂・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焚き続けたる篝火の影、幾千万と云ふ数を不知。




伯耆国に着くと、師氏(山名師氏)は真っ先に親父左京大夫時氏(山名時氏)の許に行き、「京都の沙汰に、面目を失ったので、将軍(足利尊氏)に暇も申さず下って参りました」と語ると、親父もたいそう怒って、やがて宮方の旗を上げ、まず道誉(佐々木道誉)の小目代として、吉田肥前(吉田秀長ひでなが)が出雲国にいたので追い出し、事の子細を触れ回ると、富田判官(富田秀貞ひでさだ)をはじめとして、伊田・波多野・矢部・小幡にいたるまで皆同意したので、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国を即時に打ち従えました。ならばすぐに南方(南朝)へ牒送せよと、吉野殿(第九十七代後村上天皇)に奏聞すると、山陰道より攻め上るならば、南方よりも官軍を出して、同時に京都を攻めるべしと仰せがありました時氏はたいそうよろこんで、(文和二年(1353))五月七日に伯耆国を立って、但馬・丹後の勢を引き具して、三千余騎を丹波路を経て京に攻め上りました。かねて相図を決めていたので、南方(南朝)より総大将四条大納言隆俊(四条隆俊)・法性寺左兵衛督康長(藤原康長)・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)・湯浅・貴志・藤波をはじめとして、和泉・河内・大和・紀伊国の兵ども三千余騎を選び出しました、南は淀(現京都市伏見区)・鳥羽(現京都市南区・伏見区)・赤井・大渡、西は梅津(現京都市右京区)・桂の里(現京都市西京区)・谷堂(現京都市西京区の西光寺) ・峯堂(法華山寺。現京都市西京区にあった)・嵐山(現京都市西京区)までも陣に取らぬ所はなく、焚き続く篝火の影は、幾千万という数を知りませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-06-15 07:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その2)

度重なれば右衛門うゑもんすけ大きに腹立ふくりふして、「周公旦しゆこうたんは文王の子武王の弟たりしかども、髪を洗ふ時訴人来たれば髪を握つて合ひ、はんを食する時賓客ひんかく来たればを吐いて対面し給ひけり。才とぼしといへども我大樹の一門につらなる身たり。礼儀を存せば、沓をさかさまにしても庭に出で迎ひ、袴の腰を結び結びも急ぎてこそ対面すべきに、この入道にふだう加様かやうに無礼に振る舞ふこそかへす返すも遺恨ゐこんなれ。所詮叶はぬ訴詔そしやうをすればこそ、へつらふまじき人をも諂へ。今夜の中に都を立つて伯耆へ下り、やがて謀反を起こして天下をくつがえし、無礼なりつる者どもに、思ひ知らせんずるものを」と独り言して、我が宿所へ帰るとひとしく、郎等らうどうどもにかくとも云はず、ただ一騎文和ぶんわ元年八月二十六日にじふろくにちの夜半に伯耆を差して落ちて行けば、相順あひしたがひしつはものども聞き伝へて、七百しちひやく余騎迹を追つてぞ下りける。




度重なれば右衛門佐(山名師氏もろうぢ)はたいそう立腹して、「周公旦は文王(朝の始祖)の子で武王(周の創始者。文王の次子)の弟であったが、髪を洗っている時に訴人がやって来れば髪を握ったまま会い、飯を食っている時に賓客([客人])が来れば哺を吐いて([口中の食物を出す])対面したという。才乏しといえどもわしは大樹(将軍)の一門に連なる身である。礼儀を知るならば、沓を逆様に履いて庭に出迎え、袴の腰を結びながらでも急いで対面すべきを、この入道(佐々木道誉だうよ)がこれほど無礼に振る舞うのは返す返すも遺恨である。所詮叶わぬ訴詔をすればこそ、諂う人でなくとも諂っておったのだ。今夜の内に都を立って伯耆へ下り、たちまち謀反を起こして天下を覆し、無礼であった者どもに、思い知らせてやるぞ」と独り言して、我の宿所へ帰るやいなや、郎等([家来])どもには何も知らせず、ただ一騎文和元年(1352)八月二十六日の夜半に伯耆を指して落ちて行けば、従う兵どもは聞き伝えて、七百余騎が後を追って下りました。


続く


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# by santalab | 2017-06-13 07:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その1)

山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢは今度八幡やはたの軍に功あつて、忠賞我に勝る人非じと被思ける間、先年拝領して未だたう知行なかりける若狭の国の斉所さいしよ今積いまづみを如本の可宛給由、佐々木の佐渡の判官入道はうぐわんにふだう道誉だうよしよくしてまうし達せん為に、日々に彼の宿所へ行き給ひけれども、「今日は連歌の御会席くわいせきにて候ふ」。「只今は茶のくわいの最中にて候ふ」とて一度も対面に不及、数剋すこく立たせ、暮るるまで待たせて、ただいたづらにぞ帰しける。




山名右衛門佐師氏(山名師氏)は今度の八幡の軍に功あって、忠賞我に勝る人はないと思っていたので、先年拝領していまだ知行していない若狭国の済所([平安中期以降、租税の徴収・官物の収納などを司った国衙こくがの役所])今積(現福井県小浜市)を本通り充てられるよう、佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)を通して申し達するために、日々かの宿所を訪ねるましたが、「今日は連歌([和歌から派生した詩歌の一 形態。五・七・五の発句と七・七の脇句以下,長短句を交互に連ねていくもの])の会席がござる」。「只今は茶の会の最中にござる」と申して一度も対面に及ばず、数刻立たせ、日が暮れるまで待たせたあげく、ただ徒らに帰しました。


続く


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# by santalab | 2017-06-12 07:14 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」茨宮御位事(その1)

今度吉野殿と将軍と御合体ごがつていの儀破れて合戦に及びし刻み、持明院の本院ほんゐん・新院・主上しゆしやう・春宮・梶井かぢゐ二品にほん親王しんわうまで、皆南方の敵にとらはれさせ給ひて、あるひは賀名生あなふの奥、あるひは金剛山こんがうせんの麓に御座あれば、都には御在位ございゐの君もおはしまさず、山門には時の貫首くわんじゆも渡らせ給はず。この平安城へいあんじやう比叡山ひえいさんと同時に始まりて、すでに六百余歳、一日もいまだ斯かる事をば承り及ばず、これぞ末法の世になりぬるしるしよと、浅ましかりし事どもなり。されどもかくてはいかがあるべきとて、 天台の座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤じよういん親王をなし奉る。この宮は前門主の御振る舞ひに様替やうかはつて、遊宴奇物をも愛でせさせ給はず、行業ぎやうごふ不退ふたいにしてただ我が山の興隆をのみ御心に懸けられたりければ、靡き奉らぬ衆徒もなかりけり。さて御位には誰をか就け参らすべきとたづね求め奉るところに、本院ほんゐん第二の御子、三条さんでうの内大臣公秀きんひでの御娘三位殿さんみどのの御局、後には陽禄やうろく門院と申しし御腹に生まれさせ給ひたりしが今年十五にならせ給ふを、日野の春宮とうぐう権大進ごんのたいしん保光やすみつおほせて、南方へ取り奉らんとせられけるが、とかく料理れうりとどこほつて、保光京都に捨て置き奉りけるを尋ね出だし参らせて、御位には就け参らせけるなり。




今度吉野殿(第九十七代、南朝第二代後村上天皇)と将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)と合体の儀は破れて合戦に及んだ時、持明院の本院(北朝初代光厳天皇)・新院(北朝第二代光明天皇)・主上(北朝第三代崇光天皇)・春宮(崇光天皇の第一皇子、伏見宮栄仁ふしみのみやよしひと親王)・梶井二品親王(第九十三代後伏見院の第六皇子、承胤しよういん法親王)まで、皆南方の敵に捕らわれて、あるいは賀名生(現奈良県五條市)の奥、あるいは金剛山(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の麓におられたので、都には在位の君もおられず、山門(比叡山)には時の貫首([天台座主])も渡られることはありませんでした。平安城(平安京)と比叡山が同時に始まって、すでに六百余歳、一日もいまだこのようなことを聞くことはなく、これぞ末法([仏法が行われなくなる時代])の世になる験よと、嘆かわしいことでした。けれどもこのままではどうかと、天台座主には、梶井二品親王の弟子、承胤親王(第九十三代後伏見天皇の皇子)を就けられました。この宮は前門主の振る舞いとはまるで異なり、遊宴奇物を愛でることなく、行業不退にしてただ我が山の興隆をのみ心に懸けておられたので、靡かぬ衆徒([僧])はいませんでした。さても帝位には誰を即け参らせるべきと尋ね求めるところに、本院(光厳天皇)の第二皇子、三条内大臣公秀(正親町三条公秀)の娘三位殿局(正親町三条秀子)、後には陽禄門院と申された腹にお生まれになられた皇子が今年十五になっておられました、日野春宮権大進保光(日野保光)に命じて、南方(南朝)に移そうとしましたが、処置に手間取って、保光が京都に捨て置いたのを尋ね出して、位に即けられました(北朝第四代後光厳天皇)。



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# by santalab | 2017-06-11 08:42 | 太平記 | Comments(0)

    

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