Santa Lab's Blog


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その5)

去るほどに文和二年六月九日卯の刻に、南方の官軍くわんぐん、吉良・石堂いしたう和田にぎた・楠木・原・蜂屋・赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのり三千余騎、八条はつでう九条くでうの在家に火を懸けて、相図のけぶりを上げたれば、山陰道せんおんだうの寄せ手、山名伊豆いづかみ時氏ときうぢ子息右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢ・伊田・波多野はだの、五千余騎、梅津・桂・嵯峨・仁和寺・西七条に火を懸けて、先づ京中きやうぢゆうへぞ寄せたりける。洛中には向かふ敵なければ、南方西国のつはものども、一所に打ち寄つて、四条川原しでうがはらくつばみならべて控へたり。これより遥かに敵の陣を見遣れば、鹿谷ししのたに神楽岡かぐらをかの南北に、家々の旗二三百流れひるがへつて、つ目結ひの旗一流れ真つさきに進んで、真如堂の前に下り合ふたり。敵陣皆山に寄つて木陰に控へたり。勢の多少も不見分和田・楠木、法勝寺の西の門を打ち通つて、川原かはらに控へたりけるが、敵をおびき出して勢のほどを見んとて、射手の兵五百人馬より下ろし、持楯もつたて畳楯でふたて突きしとみ突き蔀み、しづかに田のくろを歩ませて、次第次第に相近付あひちかづく。




やがて文和二年(1353)六月九日卯の刻([午前六時頃])に、南方(南朝)の官軍、吉良(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔義房よしふさ)・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)三千余騎が、八条九条の在家に火を懸けて、相図の狼煙を上げると、山陰道の寄せ手、山名伊豆守時氏(山名時氏)子息右衛門佐師氏(山名師氏)・伊田・波多野、五千余騎は、梅津(現京都市右京区)・桂(現京都市西京区)・嵯峨(現京都市右京区)・仁和寺(現京都市右京区)・西七条(現京都市下京区)に火を懸けて、まず京中に寄せました。洛中には向かう敵はいませんでしたので、南方西国の兵どもは、一所に打ち寄って、四条河原(現京都市下京区・中京区)に轡を並べて控えました。これより遥かに敵陣を見遣れば、鹿ヶ谷(現京都市左京区)・神楽岡(現京都市左京区)の南北に、家々の旗が二三百流れ翻って、四目結(佐々木氏の紋)の旗が一流れ真っ先に進んで、真如堂(現京都市左京区にある真正極楽寺)の前に控えていました。敵陣は皆山沿いの木陰に控えていました。勢の多少も知れないままに和田(正武)・楠木(正儀)は、法勝寺(かつて現京都市左京区にあった寺院)の西門を通って、河原に控えていましたが、敵をおびき出して勢のほどを見ようと、射手の兵五百人を馬から下ろし、持楯畳楯([大型の楯])を突き並べて、ゆっくり田の畦を歩ませて、徐々に敵陣に近付きました。


続く


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# by santalab | 2017-06-17 08:58 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その4)

この時将軍未だ上洛しやうらくし給はで、鎌倉にをはせしかば、京都余りに無勢ぶせいにて、大敵可戦様もなかりけり。中々なる軍して敵に気を著けては叶ふまじとて、土岐・佐々木の者ども、しきりに江州がうしうへ引き退いて、勢多にて敵を相待あひまたんと申しけるを、宰相さいしやう中将ちゆうじやう義詮朝臣よしあきらあそん、「敵大勢なればとて、一軍もせでいかが聞き逃げをばすべき」とて、主上しゆしやうをば先づ山門の東坂本へ行幸なしまゐらせて、仁木・細河ほそかは・土岐・佐々木三千余騎を一処に集め、鹿谷ししのたにを後ろに当てて、敵を洛川らくせんの西に相待たる。この陣の様、前に川あつて後ろに大山そばだちたれば、引き場の思ひはなけれども、韓信が兵書をさみして背水はいすゐの陣を張りしに違へり。殊更土岐・佐々木の兵、近江と美濃とを後ろに於いて戦はんに、引きて暫く気を休めばやと思はぬ事やあるべきと、未だ戦はざるさきに敵に心をぞはかられける。




この時将軍(足利尊氏)はまだ上洛せず、鎌倉にいたので、京都はあまりにも無勢にして、大敵と戦うべくもありませんでした。つまら軍をして敵に勢いを付けては元も子もないと、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)の者どもが、しきりに江州(近江国)へ引き退いて、勢多(現滋賀県大津市)で敵を待とうと申しましたが、宰相中将義詮朝臣(足利義詮。足利尊氏の嫡男)は、「敵が大勢だからといって、一軍もせずにどうして聞き逃げできようか」と申して、主上(北朝第四代、後光厳天皇)をまず山門の東坂本(現滋賀県大津市)へ行幸参らせて、仁木(仁木義長よしなが)・細川(細川清氏きようぢ)・土岐(頼康)・佐々木(道誉)三千余騎を一所に集め、鹿ヶ谷(現京都市左京区)を後ろに当てて、敵を洛川(鴨川)の西にして待ち構えました。この陣の様は、前に川があって後ろに大山がそばだち、引き退くことは考えていませんでしたが、韓信(中国秦末から前漢初期にかけての武将)が兵書を元に背水の陣を張ったのとはまったく異なっていました。中でも土岐(頼康)・佐々木(道誉)の兵は、近江と美濃とを後ろにして戦うことになりましたが、引き退いてしばらく休む気も起こるかと、戦う前に敵に心を読まれていました。


続く


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# by santalab | 2017-06-16 07:21 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その3)

伯耆はうきの国に著かれければ、師氏もろうぢ先づ親父しんぶ左京大夫時氏ときうぢの許に行きて、「京都の沙汰の次第、面目を失ひつる間、将軍にいとまをも申さず罷り下り候ふ」と語りければ、親父も大きに忿いかつて、やがて宮方の御旗を揚げ、先づ道誉だうよが小目代にて、吉田肥前が出雲いづもの国にありけるを追ひ出だし、事の子細を相触あひふるるに、富田とんだ判官はうぐわんを始めとして、伊田・波多野はだの・矢部・小幡をばたに至るまで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国しかこく即時に打ちしたがへてげり。さらばやがて南方へ牒送てふそうせよとて、吉野殿へ奏聞をるに、山陰道せんおんだうより攻め上らば、南方よりも官軍くわんぐんを出だされて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大きに悦びて、五月七日伯耆の国を立つて、但馬・丹後の勢を引き具して、三千余騎丹波路たんばぢを経て攻め上る。兼ねて相図を差しければ、南方より惣大将そうだいしやう四条しでうの大納言隆俊たかとし・法性寺左兵衛さひやうゑかみ康長やすなが和田にぎた・楠木・原・蜂屋・赤松弾正少弼だんじやうせうひつ氏範うぢのり・湯浅・貴志きじ・藤波を始めとして、和泉・河内・大和・紀伊の国のつはものども三千余騎勝り出だしければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡おほわたり、西は梅津・桂の里・谷の・峯の堂・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焚き続けたる篝火の影、幾千万と云ふ数を不知。




伯耆国に着くと、師氏(山名師氏)は真っ先に親父左京大夫時氏(山名時氏)の許に行き、「京都の沙汰に、面目を失ったので、将軍(足利尊氏)に暇も申さず下って参りました」と語ると、親父もたいそう怒って、やがて宮方の旗を上げ、まず道誉(佐々木道誉)の小目代として、吉田肥前(吉田秀長ひでなが)が出雲国にいたので追い出し、事の子細を触れ回ると、富田判官(富田秀貞ひでさだ)をはじめとして、伊田・波多野・矢部・小幡にいたるまで皆同意したので、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国を即時に打ち従えました。ならばすぐに南方(南朝)へ牒送せよと、吉野殿(第九十七代後村上天皇)に奏聞すると、山陰道より攻め上るならば、南方よりも官軍を出して、同時に京都を攻めるべしと仰せがありました時氏はたいそうよろこんで、(文和二年(1353))五月七日に伯耆国を立って、但馬・丹後の勢を引き具して、三千余騎を丹波路を経て京に攻め上りました。かねて相図を決めていたので、南方(南朝)より総大将四条大納言隆俊(四条隆俊)・法性寺左兵衛督康長(藤原康長)・和田(和田正武まさたけ)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・原・蜂屋・赤松弾正少弼氏範(赤松氏範)・湯浅・貴志・藤波をはじめとして、和泉・河内・大和・紀伊国の兵ども三千余騎を選び出しました、南は淀(現京都市伏見区)・鳥羽(現京都市南区・伏見区)・赤井・大渡、西は梅津(現京都市右京区)・桂の里(現京都市西京区)・谷堂(現京都市西京区の西光寺) ・峯堂(法華山寺。現京都市西京区にあった)・嵐山(現京都市西京区)までも陣に取らぬ所はなく、焚き続く篝火の影は、幾千万という数を知りませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-06-15 07:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その2)

度重なれば右衛門うゑもんすけ大きに腹立ふくりふして、「周公旦しゆこうたんは文王の子武王の弟たりしかども、髪を洗ふ時訴人来たれば髪を握つて合ひ、はんを食する時賓客ひんかく来たればを吐いて対面し給ひけり。才とぼしといへども我大樹の一門につらなる身たり。礼儀を存せば、沓をさかさまにしても庭に出で迎ひ、袴の腰を結び結びも急ぎてこそ対面すべきに、この入道にふだう加様かやうに無礼に振る舞ふこそかへす返すも遺恨ゐこんなれ。所詮叶はぬ訴詔そしやうをすればこそ、へつらふまじき人をも諂へ。今夜の中に都を立つて伯耆へ下り、やがて謀反を起こして天下をくつがえし、無礼なりつる者どもに、思ひ知らせんずるものを」と独り言して、我が宿所へ帰るとひとしく、郎等らうどうどもにかくとも云はず、ただ一騎文和ぶんわ元年八月二十六日にじふろくにちの夜半に伯耆を差して落ちて行けば、相順あひしたがひしつはものども聞き伝へて、七百しちひやく余騎迹を追つてぞ下りける。




度重なれば右衛門佐(山名師氏もろうぢ)はたいそう立腹して、「周公旦は文王(朝の始祖)の子で武王(周の創始者。文王の次子)の弟であったが、髪を洗っている時に訴人がやって来れば髪を握ったまま会い、飯を食っている時に賓客([客人])が来れば哺を吐いて([口中の食物を出す])対面したという。才乏しといえどもわしは大樹(将軍)の一門に連なる身である。礼儀を知るならば、沓を逆様に履いて庭に出迎え、袴の腰を結びながらでも急いで対面すべきを、この入道(佐々木道誉だうよ)がこれほど無礼に振る舞うのは返す返すも遺恨である。所詮叶わぬ訴詔をすればこそ、諂う人でなくとも諂っておったのだ。今夜の内に都を立って伯耆へ下り、たちまち謀反を起こして天下を覆し、無礼であった者どもに、思い知らせてやるぞ」と独り言して、我の宿所へ帰るやいなや、郎等([家来])どもには何も知らせず、ただ一騎文和元年(1352)八月二十六日の夜半に伯耆を指して落ちて行けば、従う兵どもは聞き伝えて、七百余騎が後を追って下りました。


続く


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# by santalab | 2017-06-13 07:02 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」山名右衛門佐為敵事付武蔵将監自害の事(その1)

山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢは今度八幡やはたの軍に功あつて、忠賞我に勝る人非じと被思ける間、先年拝領して未だたう知行なかりける若狭の国の斉所さいしよ今積いまづみを如本の可宛給由、佐々木の佐渡の判官入道はうぐわんにふだう道誉だうよしよくしてまうし達せん為に、日々に彼の宿所へ行き給ひけれども、「今日は連歌の御会席くわいせきにて候ふ」。「只今は茶のくわいの最中にて候ふ」とて一度も対面に不及、数剋すこく立たせ、暮るるまで待たせて、ただいたづらにぞ帰しける。




山名右衛門佐師氏(山名師氏)は今度の八幡の軍に功あって、忠賞我に勝る人はないと思っていたので、先年拝領していまだ知行していない若狭国の済所([平安中期以降、租税の徴収・官物の収納などを司った国衙こくがの役所])今積(現福井県小浜市)を本通り充てられるよう、佐々木佐渡判官入道道誉(佐々木道誉)を通して申し達するために、日々かの宿所を訪ねるましたが、「今日は連歌([和歌から派生した詩歌の一 形態。五・七・五の発句と七・七の脇句以下,長短句を交互に連ねていくもの])の会席がござる」。「只今は茶の会の最中にござる」と申して一度も対面に及ばず、数刻立たせ、日が暮れるまで待たせたあげく、ただ徒らに帰しました。


続く


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# by santalab | 2017-06-12 07:14 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」茨宮御位事(その1)

今度吉野殿と将軍と御合体ごがつていの儀破れて合戦に及びし刻み、持明院の本院ほんゐん・新院・主上しゆしやう・春宮・梶井かぢゐ二品にほん親王しんわうまで、皆南方の敵にとらはれさせ給ひて、あるひは賀名生あなふの奥、あるひは金剛山こんがうせんの麓に御座あれば、都には御在位ございゐの君もおはしまさず、山門には時の貫首くわんじゆも渡らせ給はず。この平安城へいあんじやう比叡山ひえいさんと同時に始まりて、すでに六百余歳、一日もいまだ斯かる事をば承り及ばず、これぞ末法の世になりぬるしるしよと、浅ましかりし事どもなり。されどもかくてはいかがあるべきとて、 天台の座主には、梶井二品親王の御弟子、承胤じよういん親王をなし奉る。この宮は前門主の御振る舞ひに様替やうかはつて、遊宴奇物をも愛でせさせ給はず、行業ぎやうごふ不退ふたいにしてただ我が山の興隆をのみ御心に懸けられたりければ、靡き奉らぬ衆徒もなかりけり。さて御位には誰をか就け参らすべきとたづね求め奉るところに、本院ほんゐん第二の御子、三条さんでうの内大臣公秀きんひでの御娘三位殿さんみどのの御局、後には陽禄やうろく門院と申しし御腹に生まれさせ給ひたりしが今年十五にならせ給ふを、日野の春宮とうぐう権大進ごんのたいしん保光やすみつおほせて、南方へ取り奉らんとせられけるが、とかく料理れうりとどこほつて、保光京都に捨て置き奉りけるを尋ね出だし参らせて、御位には就け参らせけるなり。




今度吉野殿(第九十七代、南朝第二代後村上天皇)と将軍(室町幕府初代将軍、足利尊氏)と合体の儀は破れて合戦に及んだ時、持明院の本院(北朝初代光厳天皇)・新院(北朝第二代光明天皇)・主上(北朝第三代崇光天皇)・春宮(崇光天皇の第一皇子、伏見宮栄仁ふしみのみやよしひと親王)・梶井二品親王(第九十三代後伏見院の第六皇子、承胤しよういん法親王)まで、皆南方の敵に捕らわれて、あるいは賀名生(現奈良県五條市)の奥、あるいは金剛山(現大阪府南河内郡千早赤阪村)の麓におられたので、都には在位の君もおられず、山門(比叡山)には時の貫首([天台座主])も渡られることはありませんでした。平安城(平安京)と比叡山が同時に始まって、すでに六百余歳、一日もいまだこのようなことを聞くことはなく、これぞ末法([仏法が行われなくなる時代])の世になる験よと、嘆かわしいことでした。けれどもこのままではどうかと、天台座主には、梶井二品親王の弟子、承胤親王(第九十三代後伏見天皇の皇子)を就けられました。この宮は前門主の振る舞いとはまるで異なり、遊宴奇物を愛でることなく、行業不退にしてただ我が山の興隆をのみ心に懸けておられたので、靡かぬ衆徒([僧])はいませんでした。さても帝位には誰を即け参らせるべきと尋ね求めるところに、本院(光厳天皇)の第二皇子、三条内大臣公秀(正親町三条公秀)の娘三位殿局(正親町三条秀子)、後には陽禄門院と申された腹にお生まれになられた皇子が今年十五になっておられました、日野春宮権大進保光(日野保光)に命じて、南方(南朝)に移そうとしましたが、処置に手間取って、保光が京都に捨て置いたのを尋ね出して、位に即けられました(北朝第四代後光厳天皇)。



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# by santalab | 2017-06-11 08:42 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その5)

去るほどに新田武蔵の守義宗よしむねは、四月二十七日にじふしちにち越後の津張つばりより立つて、七千余騎越中ゑつちゆう放正津はうじやうづに着けば、桃井播磨の守直常ただつね、三千余騎にて馳せ参る。都合その勢一万余騎、九月十一日前陣せんぢんすでに能登の国へ発向はつかうす。吉良三郎・石堂も、四月二十七日に駿河の国を立つて、路次ろしの軍勢を駈りもよほし、六千余騎を率して、五月十一日に先陣すでに美濃の垂井たるゐ・赤坂に着きしかば、八幡に力をはせんと遠篝とほかがりをぞ焚きたりける。これのみならず信濃のしもの宮も、神家じんけ・滋野・友野・上杉・仁科・禰津ねづ以下の軍勢を召し具して、同じき日に信濃を立たせ給ふ。伊予には土居とゐ得能とくのう、兵船七百余艘よさうに取り乗つて、海上より責め上る。東山とうさん北陸ほくろく・四国・九州の官軍くわんぐんども、皆我が国々を立ちしかば、路次の遠近に依つて、たとひ五日三日の遅速はあるとも、後攻ごづめの勢こそ近付きたれと、云ひ立つほどならば、八幡の寄せ手は皆退散すべかりしを、今四五日不待付して、主上しゆしやうは八幡を落ちさせ給ひしかば、国々の官軍くわんぐんも力を落とし果て、皆己が本国へぞ引つ返しける。これもただ天運の時不至、神慮より事起こる故とは云ひながら、とすれば違ふ宮方の運のほどこそはかられたれ。




やがて新田武蔵守義宗(新田義宗。新田義貞の三男)は、四月二十七日に越後の津張(現新潟県中魚沼郡津南町)より立って、七千余騎で越中の放正津(現富山県射水市)に着くと、桃井播磨守直常(桃井直常)も、三千余騎で馳せ参りました。都合その勢一万余騎が、九月十一日に前陣はすでに能登国に発向しました。吉良三郎(吉良満貞みつさだ)・石塔(石塔頼房よりふさ)も、四月二十七日に駿河国を立って、路次の軍勢を駆り集め、六千余騎を率して、五月十一日に先陣が美濃の垂井(現岐阜県不破郡垂井町)・赤坂(現岐阜県大垣市)に着くと、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)に力を合わせようと遠篝を焚きました。これのみならず信濃の下宮(現長野県諏訪郡下諏訪町にある諏訪大社)も、神家・滋野・友野・上杉・仁科・禰津以下の軍勢を召し具して、同じ日に信濃を立ちました。伊予では土居・得能が、兵船七百余艘に取り乗って、海上より攻め上りました。東山道・北陸道・四国・九州の官軍どもも、皆己の国々を立ったので、路次の遠近により、五日三日の遅速はあるとも、後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢])の勢が近付くと、広まれば、八幡の寄せ手は皆退散するはずでしたが、今四五日を待たずして、主上(第九十七代後村上天皇)は八幡を落ちられました、国々の官軍も力を落とし果て、皆己が本国に引き返しました。これもただ天運の時至らず、神慮より事起こる故とは言いながら、ともすれば神慮に違う宮方の運のほどが推し量られました。


続く


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# by santalab | 2017-06-10 08:32 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その4)

内侍所のひつをば、初め賜はつて持ちたりける人が田の中に捨てたりけるを、伯耆はうきの太郎左衛門長生ながなり、着たる鎧を脱ぎ捨てて、みづか荷担かたんしたりける。迹より追ふ敵ども、蒔き捨つる様に射ける矢なれば、御櫃のふたに当たる音、板屋を過ぐる村雨の如し。されども身には一筋ひとすぢも不立ければ、長生とかくかかくり付いて、賀名生あなふの御所へぞ参りける。多くの矢ども御櫃に当たりつれば、内侍所も矢や立たせ給ひたるらんと、浅ましくて御櫃を見進らせたれば、矢の跡は十三までありけるが、わづかに薄き桧木板ひのきいた射徹いとほす矢の一筋もなかりけるこそ不思議なれ。今度たばかりて京都を攻められん為に、先づ住吉・天王寺てんわうじへ行幸成りたりし時、児島三郎入道志純しじゆんも召されて参りたりけるを、「これが一大事なれば急ぎ東国・北国に下つて、新田義貞よしさだをひ・子どもに義兵を興こさせ、小山をやま・宇都宮以下、便宜びんぎの大名を語らひて、天下の大功を即時に致す様に、智謀をめぐらせ」とおほせ出だされければ、志純夜を日に継いで関東くわんとうへ下りたれば、東国の合戦早や事散じて、新田義興よしおき義治よしはるは河村のじやうに立て篭もり、武蔵のかみ義宗よしむね越後ゑちごの国にぞ居たりける。勅使東国・北国に行き向かうて、「君すでに大敵に囲まれさせ給ひて助けの兵、力疲れぬ。もし神竜しんりようして釣者てうしやの為に捕らはれさせ給ひなば、天下誰が為にか争はん」と、依義重可軽命習ひを申しければ、小山をやま五郎・宇都宮少将せうしやう入道も、「勅定ちよくぢやうに随ふなり」とて、東国静謐せいひつの計略を可運由約諾す。義興よしおき義治よしはるはなほ東国に止まりて将軍と戦ひ、新田武蔵のかみ義宗よしむね桃井もものゐ播磨の守直常ただつね・上杉民部の大輔・吉良三郎満貞みつさだ・石堂入道、東山とうせん・東海・北陸道ほくろくだうの勢を率し二手に成つて上洛しやうらくし、八幡の後攻ごづめを致して朝敵てうてきを千里の外に可退と、諸将の相図を定めて、勅使を先立ちてぞ上りける。




内侍所([三種の神器の一つである神鏡、八咫鏡やたのかがみ])の櫃は、最初に賜わって持っていた人が田の中に捨てたのを、伯耆太郎左衛門長生(名和長生)が、着ていた鎧を脱ぎ捨てて、自ら荷担しました。後を追う敵どもは、蒔き捨てるように矢を射たので、櫃の蓋に当たる音は、まるで板屋に降る村雨のようでした。けれども身には一筋も立ちませんでしたので、長生はなんとか逃れて、賀名生(現奈良県五條市)の御所にたどり着きました。多くの矢が櫃に当たったので、内侍所にも矢が立っているであろうと、嘆いて櫃を見ると、矢の跡は十三ありましたが、わずかに薄い桧木板を射通す矢は一筋もなかったのは不思議なことでした。今度謀略を廻らせて京都を攻めるために、まず住吉(現大阪市住吉区にある住吉大社)・天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)に行幸された時、児島三郎入道志純も召されて参っていましたが、(第九十七代後村上天皇は)「今が一大事である急ぎ東国・北国に下って、新田義貞の甥・子どもに義兵を起こさせ、小山・宇都宮以下、便宜(親交)の大名を味方に付けて、天下の大功を即時に致すよう、智謀を廻らせ」と命じられたので、志純は夜を日に継いで関東に下りましたが、東国の合戦はすでに治まり、新田義興(新田義貞の次男)・義治(脇屋義治。新田義貞の弟、脇屋義助の子)は河村城(現神奈川県足柄上郡山北町)に立て籠もり、武蔵守義宗(新田義宗)は越後国にいました。勅使が東国・北国に向かって、「君(後村上天皇)が大敵に囲まれて守護の兵は、疲弊しています。神竜が魚に変じて釣者に捕らわれて、天下を誰のために争うというのですか」と、義を重んじ命を軽んじる道理を申せば、小山五郎・宇都宮少将入道(宇都宮公綱きんつな)も、「勅定に従いましょう」と、東国静謐の計略を廻らせることを約諾しました。義興・義治はなおも東国に止まって将軍(足利尊氏)と戦い、新田武蔵守義宗・桃井播磨守直常(桃井直常)・上杉民部大輔(上杉憲顕のりあき)・吉良三郎満貞(吉良満貞)・石塔入道(石塔義房よしふさ)は、東山道・東海道・北陸道の勢を率し二手になって上洛し、八幡(現京都府八幡市にある石清水八幡宮)の後詰め([敵の背後に回って攻める軍勢。援軍])に向かい朝敵を千里の外に退けるべしと、諸将の相図を定めて、勅使を先立てて京に上りました。


続く


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# by santalab | 2017-06-09 07:16 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その3)

古津河こつかはの端を西に傍うて、御馬おんむまを早めらるるところに、備前の松田・備後の宮の入道がつはものども、二三百騎にて取り篭め奉る。十方より如雨降射る矢なれば、遁れ給ふべしとも不見けるが、天地神明の御加護もありけるにや、御鎧の袖・草摺くさずり二筋ふたすぢ当たりける矢も、かつて裏をぞ懸かざりける。法性寺左兵衛さひやうゑかみ、これまでもなほ離れまゐらせず、ただ一騎供奉したりけるが、迹より敵懸かれば引つ返して追ひ散らし、敵前をさへぎれば懸破て、主上しゆしやうを落とし進らせけるところに、いづくより来るとも不知御方の兵百騎計り、皆中黒の笠符かさじるし着けて、御馬の前後にさうらひけるが、近付く敵を右往左往うわうさわうに追ひ散らして、掻き消す様に失せにければ、主上は玉体無恙して東条へ落ちさせ給ひにけり。




木津川の川端を西に沿って、馬を早めるところに、備前の松田・備後の宮入道の兵どもが、二三百騎で取り囲みました。十方より射る矢はまるで雨が降るようでしたので、とても逃れることはできないと思われましたが、天地神明の加護があったか、鎧の袖・草摺([甲冑の胴の裾に垂れ、下半身を防御する部分])に二筋当たる矢も、裏を射通しませんでした。法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが?)は、これまでも(第九十七代後村上天皇の)側を離れず、ただ一騎供奉していましたが、後ろより敵が懸かれば引き返して追い散らし、敵が前を防げば駆け破って、主上(後村上天皇)を落とし参らせるところに、どこから来たとも知れず味方の兵が百騎ばかり、皆中黒(新田氏の紋)の笠符を付けて、馬の前後に付いて、近付く敵を右往左往に追い散らし、掻き消すようにいなくなったので、主上は玉体無事にして東条(現兵庫県加東市)へ落ちられました。


続く


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# by santalab | 2017-06-08 08:03 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」南帝八幡御退失の事(その2)

その中に宮一人討たれさせ給ひぬ。四条しでうの大納言隆資たかすけ円明院ゑんみやうゐん大納言・三条の中納言雅賢まさかたきやうも討たれ給ひぬ。主上しゆしやうは軍勢に紛れさせ給はん為に、山本判官がまゐらせたりける黄糸の鎧を召して、栗毛なる馬に召されたるを、一の宮弾正左衛門だんじやうざゑもん有種ありたね追ひ懸け進らせて、「可然大将とこそ見進らせ候ふ。きたなくも敵に被追立、一度も返させ給はぬ者かな」と呼ばはり懸けて、弓杖ゆんづえ三杖みつゑ許り近付きたりけるを、法性寺左兵衛さひやうゑかみきつとかへりみて、「にくひ奴ばらが云ふ様かな。いで己の手柄のほどを見せん」とて、馬より飛んで下り、四尺八寸の太刀を以つて、兜の鉢を破れ砕けよとぞ打たれたる。さしもしたたかなる一の宮、尻居しりゐにどうど打ち据ゑられて、目暮れ胆消えにければ、暫く心を静めんと、目を塞ぎて居たる間に、主上遥かに落ち延びさせ給ひにけり。




その中に宮が一人(第九十六代後醍醐天皇皇子、法仁ほふにん法親王?)討たれました。四条大納言隆資(四条隆資)・円明院大納言・三条中納言雅賢卿(三条雅賢)も討たれました。主上(第九十七代後村上天皇)は軍勢に紛れるために、山本判官が参らせた黄糸の鎧を召して、栗毛の馬に乗っておられましたが、一宮弾正左衛門有種が追いかけて、「しかるべき大将とお見受けする。卑怯にも敵に追い立てられて、一度も返さぬとはどういうことか」と叫んで、弓杖三杖ばかりに近付くところを、法性寺左兵衛督が振り返り見て、「憎むべき奴の言い様よ。わしの手柄のほどを見せてやるぞ」と言って、馬から飛んで下り、四尺八寸の太刀で、兜の鉢を破れ砕けよと打ち付けました。したたかな一宮も、尻居に打ち据えられて、目は暮れ胆は消えて、しばらく心を静めようと、目を塞ぐ間に、主上は遥かに落ち延びられました。


続く


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# by santalab | 2017-06-06 08:25 | 太平記 | Comments(0)

    

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