Santa Lab's Blog


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その7)

土岐悪五郎あくごらうは、その頃天下に名を知られたる大力の早業、打ち物取つて達者なりければ、卯の花をどしの鎧に鍬形くはがた打つて、水色の笠符かさじるし吹き流させ、五尺六寸の大太刀抜いて引きそばめ、射向けの袖を振りかざいて、遥かに遠き山路やまぢをただ一息に上らんと、ゐのししの懸かるやうに、莞爾につこと笑ひ上りけるを、和田五郎あはれ敵やと打ち見て、突いたる楯をかはと投げ棄て、三尺さんじやく五寸の小長刀、茎短くきみじかに取つて渡り合ふ。ここに相摸のかみが郎従に、関左近の将監しやうげんと云ける兵、土岐が脇よりつと走り抜けて、和田五郎に打つてかる。和田が中間これを見て、小松の陰より走り出て、近々とめ寄つて、十二束三伏じふにそくみつぶせ暫く堅めて放つ矢、関将監が殻胴がらどうを、くさ目どほしに射抜かれて、小膝を突いてぞ臥したりける。悪五郎走り寄つて引き起こさんとしける処を、また和田が中間二の矢を番ふて、悪五郎が脇立わいだての壺の板、沓巻きせめてぞ射込うだる。




土岐悪五郎(土岐康貞やすさだ)は、その頃天下に名を知られた大力の早業、打ち物([太刀])の達者でしたので、卯の花威の鎧に鍬形打って、水色の笠符を吹き流し、五尺六寸の大太刀を抜いて引き側め、射向けの袖を振りかざして、遥か遠い山路をただ一息に上ろうと、猪が懸かるように、にこっと笑って上っていましたが、和田五郎(和田正隆まさたか)はよき敵と打ち見て、突いていた楯を投げ棄て、三尺五寸の小長刀を、茎短([柄の先の方を持つ構え方])かに取って渡り合いました。ここに相摸守(細川清氏きようぢ)の郎従([家来])に、関左近将監という兵が、土岐(康貞)の脇からさっと走り抜けて、和田五郎に打ってかかりました。和田(正隆)の中間([武士の下位の者])はこれを見て、小松の陰から走り出て、近々と攻め寄ると、十二束三伏の弓をしばらく固めて放つ矢は、関将監の殻胴([骨と身])を、くさ目通し(櫛目通し?)に射抜かれて、小膝を突いて臥しました。悪五郎が走り寄って引き起こそうとするところを、また和田の中間が二の矢を番い、悪五郎の脇楯([大鎧の胴の右脇のすきまに当てる防具])の壺板([脇楯の上部にある右の脇壺に当てる鉄板])を、沓巻([矢のの先端で、やじりをさし込んだ 口もとを固く糸で巻き締めてある部分])深く射込みました。


続く


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# by santalab | 2017-05-29 07:13 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その6)

去るほどに和田にぎた・楠木・紀伊の国の勢三千余騎、皆荒坂山あらさかやまへ打ち向かつてここを支へんと控へたれば、細河ほそかは相摸のかみ清氏きようぢ・同じき陸奥の守顕氏あきうぢ・土岐大膳の大夫・舎弟悪五郎あくごらう、六千余騎にて押し寄せたり。山路やまぢけはしく、峯高くそばだちたれば、麓より皆馬を蹈み放ち蹈み放ち、かづき連れてぞ上りたりける。斯かる軍に元来ぐわんらい馴れたる大和・河内の者どもなれば、岩の陰、岸の上に走り渡つて散々に射る間、面に立つ土岐と細河が兵ども、射白まされて不進得。




やがて和田(和田正隆まさたか)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)・紀伊国の勢三千余騎は、皆荒坂山(現京都府八幡市)へ打ち向かってここを支えんと控えると、細川相摸守清氏(細川清氏)・同じく陸奥守顕氏(細川顕氏)・土岐大膳大夫(土岐頼康よりやす)・舎弟悪五郎(土岐康貞やすさだ)が、六千余騎で押し寄せました。山路は険しく、峯は高く峙っていたので、麓から皆馬を踏み放ち、引き連れて上りました。このような軍に元より馴れた大和・河内の者どもでしたので、岩の陰、岸の上に走り渡って散々に矢を射たので、面に立つ土岐と細川の兵どもは、矢に怖気付いて進むことができませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-05-28 09:15 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その4)

都を被立ける日はその勢わづかに五百余騎ありしかども、近江あふみ・美濃・尾張をはり・三河・遠江とほたふみの勢馳せくははつて、駿河の国に着き給ひける時は三万余騎に成りにけり。左馬のかみ直義ただよし尊氏たかうぢきやうの勢を合はせて五万余騎、矢矯やはぎの宿より取つて返してまた鎌倉へ発向はつかうす。相摸次郎時行ときゆきこれを聞いて、「源氏は若干そくばくの大勢と聞こゆれば、待ち軍して敵に気を呑まれては不叶。先んずる時は人を制するに利あり」とて、我が身は鎌倉に在りながら、名越なごや式部の大輔を大将として、東海・東山とうせん両道を押して責め上る。その勢三万余騎、八月三日鎌倉を立たんとしける夜、にはかに大風吹いて、家々を吹き破りける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃げ入り、各々身をちぢめてたりけるに、大仏殿の棟梁とうりやう微塵みぢんれてたふれける間、その内に集まりたる軍兵ども五百余人、一人も不残しに打てて死にけり。戦場せんぢやうに趣く門出に懸かる天災に逢ふ。この軍はかばかしからじと、ささやきけれども、さてあるべき事ならねば、重ねて日を取り、名越式部の大輔鎌倉を立つて、夜を日に継いで路を急ぎける間、八月七日前陣ぜんぢんすでに遠江とほたふみ佐夜さよの中山を越えけり。




都を立った日にはその勢はわずか五百余騎でしたが、近江・美濃・尾張・三河・遠江の勢が馳せ加わり、駿河国に着いた時には三万余騎になっていました。左馬頭直義(足利直義。足利尊氏の弟)は、尊氏卿の勢を合わせて五万余騎で、矢作宿(現愛知県岡崎市)より取って返してまた鎌倉へ発向しました。相摸次郎時行(北条時行)はこれを聞いて、「源氏はたいそう大勢と聞いておる、待ち軍して敵に気を呑まれては敵うまい。先んずれば人を制するに利あり」と申して、我が身は鎌倉にいながら、名越式部大輔を大将として、東海・東山両道を攻め上りました。その勢三万余騎が、八月三日に鎌倉を立とうとする夜に、急に大風が吹いて、家々を吹き壊したので、天災を遁れようと大仏殿の中へ逃げ入り、各々身を縮めているところに、大仏殿の棟梁([むねはり])が、微塵に折れて倒れました、その中に集まっていた軍兵ども五百余人は、一人も残らず圧死しました。戦場に赴く門出にこのような天災に遭いました。この軍は望み通りとはなるまいと、ささやき合いましたが、止める訳にもいきませんでしたので、重ねて日を決めて、名越式部大輔は鎌倉を立って、夜を日に継いで路を急ぎました、八月七日には前陣はすでに遠江の佐夜の中山(現静岡県掛川市)を越えました。


続く


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# by santalab | 2017-05-28 09:10 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その3)

この両条は天下治乱ちらんはしなれば、君もよくよく御思案あるべかりけるを、まうし請くる旨に任せて、無左右勅許ありけるこそ、始終いかがとは思へけれ。但し征夷将軍の事は関東くわんとう静謐せいひつの忠に可依。とう八箇国の官領くわんれいの事は先づ不可有子細とて、すなはち綸旨を被成下ける。これのみならず、忝くも天子の御諱おんいみなの字を被下て、高氏たかうぢと名乗られける高の字を改めて、そんの字にぞ被成ける。尊氏たかうぢきやう東八箇国を官領の所望しよまう、容易く道行きて、征夷将軍の事は今度の忠節に可依と勅約ありければ、時日ときひを不回関東へ被下向けり。吉良兵衛ひやうゑすけを先立てて、我が身は五日引き下がりて進発し給ひけり。




この両条(征夷大将軍と関東官領)は天下治乱の元ともなるものでしたので、君(第九十六代後醍醐天皇)もよくよく思案すべきでしたが、申すに任せて、勅許がありました、末はどうなることかと思われました。ただし征夷将軍については関東を平定した時の忠とする。東八箇国の官領([長官])については問題なしと、たちまち綸旨を下されました。こればかりでなく、忝くも天子の諱の字を下されて(後醍醐天皇の諱は尊治たかはる)、高氏と名乗っていた高の字を改めて、尊の字としました。尊氏卿は東八箇国を官領の所望を、容易く達して、征夷将軍については今度の忠節に依るべしと勅約があったので、時日を廻らすことなくたちまち関東に下向しました。吉良兵衛佐(吉良満義みつよし)を先立てて、尊氏は五日後に進発しました。


続く


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# by santalab | 2017-05-27 08:26 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その5)

同じき三月二十四日、宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどの三万余騎の勢を率し、宇治路うぢぢまはつて木津河こつがはを打ち渡り、洞峠ほらがたうげに陣を取らんとす。これは河内・東条とうでうの通路を塞ぎて、敵を兵粮にめん為なり。八幡より北へは、和田にぎた次郎左衛門じらうざゑもんとを向けられけるが、楠木は今年二十三、和田は十六じふろく、いづれも皆若武者なれば思慮なき合戦をや致さんずらんと、諸卿悉く危ぶみ思はれけるに、和田五郎参内して申しけるは、「親類兄弟悉く度々の合戦に、身を捨て討ち死に仕りさうらをはんぬ。今日の合戦はまた公私の一大事と存ずる事にて候ふ上は、命をきはの合戦仕て、敵の大将を一人討ち取り候はずは、生きて再び御前おんまへへ帰り参る事候ふまじ」と、申し切つて罷り出でければ、列座の諸卿・国々の兵、あはれ代々の勇士なりと、感ぜぬ人はなかりけり。




同じ(正平七年(1352))三月二十四日に、宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)は三万余騎の勢を率し、宇治路を廻って木津川を打ち渡り、洞ヶ峠(現京都府八幡市と大阪府枚方市の境にある峠)に陣を取ろうとしました。これは河内・東条の通路を塞いで、敵を兵粮攻めにするためでした。八幡より北へは、和田五郎(和田正隆まさたか)・楠木次郎左衛門(楠木三郎正儀まさのり。楠木正成の三男)を向けましたが、楠木は今年二十三、和田は十六、いずれも皆若武者でしたので思慮なき合戦を致すのではないかと、諸卿は残らず危ぶんでいましたが、和田五郎が参内して申すには、「親類兄弟は残らず度々の合戦で、身を捨て討ち死にしました。今日の合戦はまた公私の一大事と存ずることでございますれば、命を限りの合戦仕り、敵の大将を一人討ち取らずば、生きて再び御前に帰り参ることはございません」と、申し切って罷り出ました、列座の諸卿・国々の兵は、代々の勇士であると、感心しない人はいませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-05-27 08:18 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その4)

また赤松律師則祐そくいうは、吉野殿より宮を一人まうし下しまゐらせて、今までは宮方を仕る由にてありけるが、これもいかが思案したりけん。宮方を背きて京都へ馳せ来たりければ、宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどのりようの水を得、虎の山によりかかるが如くに成つて、いきほ京畿けいきおほへり。




また赤松律師則祐(赤松則祐のりすけ)は、吉野殿(第九十七代後村上天皇)より宮(護良もりよし親王の王子、興良おきよし親王)を一人申し下し参らせて、今までは宮方に付いていましたが、これも何を思ったか。宮方に背いて京都へ馳せ参ったので、宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)は龍が水を得、虎が山を頼りにするが如くになって、勢いは京畿に及びました。


続く


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# by santalab | 2017-05-26 06:49 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その2)

これによつて諸卿議奏あつて、急ぎ足利宰相高氏たかうぢきやうを討つ手に可被下に定まりけり。すなはち勅使を以つて、この由を被仰下ければ、相公しやうこう勅使に対して被申けるは、「去んぬる元弘の乱の始め、高氏御方に参ぜしに依つて、天下の士卒皆官軍くわんぐんしよくして、勝つ事を一時に決しさふらひき。しかれば今一統の御代、偏へに高氏が武功と可云。そもそも征夷将軍の任は、代々源平のともがら功に依つて、そのくらゐきよする例不可勝計。この一事殊に為朝為家、望み深きところなり。次には乱をしづを致す以謀、士卒有功時節をりふしに、賞を行ふにしくはなし。もし註進を経て、軍勢の忠否ちゆうびを奏聞せば、挙達道遠くして、忠戦の輩勇みを不可成。然れば暫くとう八箇国の官領くわんれいを被許、ぢきに軍勢の恩賞を執り行ふやうに、勅裁を被成下、夜を日に継いで罷り下つて、朝敵てうてき退治たいぢ仕るべきにて候ふ。もしこの両条勅許をかうむらずんば、関東くわんとう征罰の事、可被仰付他人候ふ」とぞ被申ける。




これによって諸卿の議奏があり、急ぎ足利宰相高氏卿(足利高氏)を討っ手に下すことが決まりました。たちまち勅使をもって、この由を仰せ下すと、相公(足利高氏)が勅使に対して申すには、「去る元弘の乱の始め、この高氏が味方に参ることにより、天下の士卒は皆官軍に属して、勝つことを一時に決することができたのです。なれば今一統の時代も、ひとえにこの高氏の武功ではありませんか。そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩が功に依って、その位に就く例数知れません。この一事はとりわけ朝のため家のため、望み深いものです。次に乱を鎮め治を致す企てをなしたのは、士卒の功によるものです、これに対して賞に及ぶものはありません。注進([事件を書き記して上申すること])を経て、軍勢の忠否を奏聞するようなことあらば、挙達([推挙されて出世すること])の道は遠く、忠戦の輩はたちまち勇みをなくすことでしょう。ならばしばらく我に東八箇国の官領([長官])を許されて、我自ら軍勢の恩賞を執り行えるよう、勅裁を下されれば、たちまち夜を日に継いで罷り下り、朝敵を退治する所存でございます。もしこの願いに勅許を下されないならば、関東征罰は、他の人に命じられますよう」と申しました。


続く


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# by santalab | 2017-05-26 06:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その1)

直義ただよし朝臣は鎌倉を落ちて被上洛しやうらくけるが、その路次に於いて、駿河の国入江のしやうは、海道第一の難所なり。相摸次郎が与力の者ども、もし道をや塞がんずらんと、士卒皆これを危ふく思へり。これによつてその所の地頭入江左衛門さゑもんじよう春倫はるともが許へ使ひを被遣て、可憑由を被仰たりければ、春倫が一族ども、関東くわんとう再興の時到りぬと、料簡れうけんしける者どもは、左馬の頭を奉打、相摸次郎殿じらうどのに馳せまゐらんと云ひけるを、春倫つくづく思案して、「天下の落居は、愚蒙ぐもうの我らが可知処に非ず。ただ義の向かふところを思ふに、入江の庄と云ふは、本徳宗領とくそうりやうにてありしを、朝恩てうおんに下し賜はり、この二三年が間、一家をかへりみる事日来に勝れり。これ天恩のうへになお義を重ねたり。この時いかでか傾敗けいはいつひえに乗つて、不義の振る舞ひを致さん」とて、春倫すなはち御迎ひに参じければ、直義朝臣不斜喜びて、やがて彼らを召し具し、矢矯やはぎの宿にぢんを取つて、これに暫く汗馬かんばの足を休め、京都へ早馬はやむまをぞ被立ける。




直義朝臣(足利直義。足利尊氏の弟)は鎌倉を落ちて上洛しましたが、道中の、駿河国入江庄(薩埵峠。現静岡県清水市)は、東海道第一の難所でした。相摸二郎(北条時行ときゆき。鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかときの次男)に与力の者どもが、もしや道を塞いでいるのではないかと、士卒は皆これを危ぶんでいました。そこで入江庄の地頭入江左衛門尉春倫(入江春倫)の許に使いを遣って、頼むべき由を告げると、春倫の一族どもは、関東再興の時が到りぬと、考える者どもでしたので、左馬頭(足利直義)を討ち、相摸二郎殿(北条時行)に馳せ参ろうと言いましたが、春倫はつくづくと思案して、「天下の落居は、愚蒙([おろかで道理がわからないこと])の我らの知るところではない。ただ義の向かうところを思えば、入江庄は、本は徳宗領([北条氏家督の知行する所領])であったが、朝恩により下し賜り、この二三年の間、一家を振り返れば日頃に勝るものであった。これは天恩の上になお義を重ねたからではないか。今どうして傾敗の弊えに乗って、不義の振る舞いを致さねばならぬ」と申して、春倫はたちまち迎えに参ると、直義朝臣はたいそうよろこんで、やがて彼らを召し具し、矢作宿(現愛知県岡崎市)に陣を取って、ここでしばらく汗馬の足を休め、京都に早馬を立てました。


続く


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# by santalab | 2017-05-25 06:57 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その3)

同じき十五日宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどの京都に発向はつかうして、東山に陣を召さるれば、宮方の大将北畠右衛門うゑもんかみ顕能あきよし、都を去つて淀・赤井に陣を取る。同じき十七日じふしちにちに宰相の中将殿下京しもぎやうに御移りあつて、東寺に御陣を召さるれば、顕能卿淀河よどかはを引きて、八幡の山下さんげに陣を取る。未だ戦はざるさきに宮方の大将陣を去る事三箇度なれば、行く末とてもさぞあらんずらめと、憑み少なくぞ見えたりける。さはありながら、八幡は究竟くつきやうの要害なるに、赤井の橋を引きて、畿内の官軍くわんぐん七千余騎にて立て篭もりたり。三方さんぱう大河たいか隔たつて橋もなく舟もなし。宇治路うぢぢを後ろへまはらば、前後皆敵陣にはさまりて、進退心安かるまじ、如何すべきと評定あつて、東寺にはなほ国々の勢を待たれける処に、細川陸奥のかみ四国の勢を率して、三千余騎にて上洛しやうらくせらる。




同じ(正平七年(1352)三月)十五日宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)が京都に発向して、東山に陣を取れば、宮方の大将北畠右衛門督顕能(北畠顕能)は、都を去って淀(現京都市伏見区)・赤井に陣を取りました。同じ十七日に宰相中将殿は下京に移り、東寺(現京都市南区にある教王護国寺)に陣を取ると、顕能卿は淀川を引いて、八幡(現京都府八幡市)の山下に陣を取りました。いまだ戦わぬ前に宮方の大将が陣を去ること三箇度でしたので、行く末はどうなることかと、頼み少なく思われました。とはいえ、八幡は究竟の要害でしたので、赤井の橋を引いて、畿内の官軍が七千余騎で立て籠もりました。三方は大河に隔てられて橋もなく舟もありませんでした。宇治路を後ろへ廻れば、前後を皆敵陣に囲まれて、進退は容易くなかろう、どうすべきと評定があって、東寺で国々の勢を待つところに、細川陸奥守(細川顕氏あきうぢ)が四国の勢を率して、三千余騎で上洛しました。


続く


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# by santalab | 2017-05-25 06:45 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その2)

宰相さいしやう中将殿ちゆうじやうどのは、近江の四十九院しじふくゐんに、遥々とをはしけれども、土岐・佐々木が外は、相従ふ勢もなかりしが、東国の合戦に、将軍勝ち給ひぬと聞こへて、後ろより勢の付き奉る事如雲霞。さらばやがて京都へ寄せよとて、三月十一日四十九院を立つて、三万余騎先づ伊祇代いぎす三大寺にして手を分かつ。あるひは漫々たる湖上に、山田・矢早瀬やばせの渡し舟のさを差す人もあり。或ひは渺々べうべうたる沙頭しやとうに、堅田かただ・高島を経て駒に鞭打つ勢もあり。旌旗せいき水烟すゐえんひるがへつて、竜蛇りようじや忽ちに天に上がり、甲胄かつちう夕陽せきやう耀かかやいて、星斗せいとすなはち地につらなる。中院の宰相の中将具忠ともただきやう、千余騎にてこの勢を防がん為に、大津辺おほつへんに控へられたりけるが、敵の大勢なるていを見て、戦ふ事不叶とや思はれけん。敵の未だ不近さき八幡やはたへ引つ返さる。




宰相中将殿(足利義詮よしあきら。足利尊氏の嫡男)は、近江の四十九院(現滋賀県犬上郡豊郷町)に、遥々と引いて行きました、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)のほかは、従う勢もありませんでしたが、東国の合戦で、将軍(足利尊氏)が勝ったと聞こえたので、後からまるで雲霞のように勢が付きました。ならばすぐに京都へ寄せよと、(正平七年(1352))三月十一日に四十九院を立って、三万余騎をまず伊祇代三大寺(現滋賀県草津市にある三大神社)で手を分けました。あるいは漫々たる湖上に、山田・矢早瀬の渡し舟の棹差す人もありました。あるいは渺々たる沙頭([砂浜])に、堅田(現滋賀県大津市)・高島(現滋賀県高島市)を経て駒に鞭打つ勢もありました。旌旗([軍旗])は水煙に翻り、竜蛇はたちまち天に上り、甲胄は夕陽に輝いて、星を地に連ねたようでした。中院宰相中将具忠卿(中院具忠)は、千余騎で勢を防ぐために、大津辺に控えていましたが、大勢の敵を見て、戦っても敵わないと思ったか。敵がまだ近付かぬ前に八幡(現京都府八幡市)に引き返しました。


続く


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# by santalab | 2017-05-24 07:01 | 太平記 | Comments(0)

    

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