Santa Lab's Blog


「太平記」南帝八幡御退失の事(その1)

三月十五日より軍始まりて、すでに五十ごじふ余日に及べば、城中じやうちゆうには早や兵粮ひやうらうを尽くし、助けの兵を待つ方もなし。かくてはいかが可有と、云ひ囁くほどこそあれ。やがて人々の気色替はつて、ただ落ち支度の外はするわざもなし。去るほどにこれぞ宗との御用にも立ちぬべき伊勢の矢野の下野しもつけかみ・熊野の湯河ゆかは庄司しやうじ、東西の陣に幕を捨てて、両勢三百余騎降人かうにんに成つて出でにけり。城の案内敵に知れなば、落つるとも落ち得じ。さらば今夜主上しゆしやうを落としまゐらせよとて、五月十一日の夜半計りに、主上しゆしやうをばれう御馬おんむまに乗せ進らせて、前後につはものども打ち囲み、大和路やまとぢへ向かつて落ちさせ給へば、数万の御敵まへよぎり跡に付いて討ち留め進らせんとす。依義軽命官軍くわんぐんども、返し合はせては防ぎ、打ち破つては落とし進らするに、疵をかうむつて腹を切り、蹈み留まつて討ち死にする者三百人に及べり。




(正平七年(1352))三月十五日より軍が始まり、すでに五十余日に及んだので、城中ではすでに兵粮が尽きて、助けの兵も当てはありませんでした。どうすればよいものかと、囁き合いました。たちまち人々の気色は替わって、ただ落ち支度のほかは何もしませんでした。やがて主にご用に立つべき伊勢の矢野下野守・熊野の湯川庄司が、東西の陣に幕を捨てて、両勢三百余騎が降人となって城を出ました。城の案内が敵に知られれば、落ちようとしても落ちることは叶わぬ。ならば今夜主上(第九十七代後村上天皇)を落とし参らせよと、五月十一日の夜半ほどに、主上をば寮の馬に乗せ参らせて、前後に兵どもが打ち囲み、大和路へ向かって落ちようとするところに、数万の敵が前を遮り後に付いて討ち止めようとしました。義により命を軽んじる官軍どもは、返し合わせては防ぎ、打ち破って落とし参らせました、疵を被って腹を切り、踏み留まって討ち死にする者は三百人に及びました。


続く


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# by santalab | 2017-06-05 07:28 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その13)

一陣破るれば残党まつたからじと見る処に、土岐・佐々木・山名・赤松が陣はすこしも動かず、鹿垣ししがききびしく結うて用心堅く見へたれば、夜討ちに可打様もなく、可打散便りもなかりけり。かくてはいつまでか可怺、和田にぎた・楠木を河内かはちの国へかへして、後攻ごづめをせさせよとて、彼ら両人を忍びて城より出だして、河内の国へぞ遣はされける。八幡にはこの後攻めを憑みて今や今やと待ち給ひける処に、これを我が大事と思ひ入れて引き立ちける和田五郎、にはかに病ひ出だして、無幾程も死にけり。楠木は父にも不似兄にも替はりて、心少し延びたる者なりければ、今日よ明日よと云ふ許りにて、主上しゆしやうの大敵に囲まれて御座あるを、如何がはせんとも心に不懸けるこそ方見うたてけれ。げうの子尭の如くならず、しゆんおとと舜に不似とは乍云、この楠木は正成が子なり。正行まさつらが弟なり。いつのほどにか親に替はり、兄にこれまで劣るらんと、そしらぬ人もなかりけり。




一陣を破って残党は一人も残らないと思われましたが、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)・山名(山名時氏ときうぢ)・赤松(赤松則祐のりすけ)の陣は少しも動かず、鹿垣([砦の周りに設けて防御用にした垣])を厳しく構えて守り堅く見えたので、夜討ちすることもできず、打ち散らす手立てもありませんでした。こうなってはいつまで堪えることができよう、和田(和田正隆まさたか)・楠木(楠木正儀まさのり。楠木正成の三男)を河内国に返して、後詰め([敵の背後に回って攻めること。また、その軍勢])をさせよと、彼ら両人を密かに城から出して、河内国に発向させました。八幡ではこの後詰めを頼りにして今か今かと待つところに、これを我が大事と思い入れて引き連れた和田五郎(正隆)が、にわかに病いを患って、ほどなく死んでしまいました。楠木(正儀)は父(楠木正成)にも似ず兄(楠木正行まさつら。楠木正成の長男)とも違って、少しおっとりした者でしたので、今日よ明日よと言うばかりで、主上(第九十七代後村上天皇)が大敵に囲まれておられるのを、どうしようかと心配しませんでしたが嘆かわしいことでした。尭(中国神話に登場する君主)の子(丹朱)は尭のように立派でなく、舜(中国神話に登場する君主。堯の跡を継いだ)の弟は舜に似ずとはいいながら、この楠木(正儀)は正成の子でした。正行の弟でした。いつのほどに親と異なり、兄にこれまで劣るのかと、謗らぬ人はいませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-06-04 08:51 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その12)

細河ほそかは陸奥のかみ・同じき相摸の守は、真木・葛葉くずはを打ちまはつて、八幡の西の尾崎をさき如法経塚によほふきやうづかの上に陣を取つて、堀一重を隔ててぞ攻めたりける。五月四日、官軍くわんぐん七千余騎が中より夜討ちに馴れたる兵八百人をすぐりて、法性寺左兵衛さひやうゑかみに付けらる。左兵衛の督昼ほどよりこの勢を我が陣へ集めて、笠符かさじるし一様いちやうに著けさせ、そと問はば、進むと名乗るべしと約束して、夜已に二三更にさんかうのほどなりければ、宿院しゆくゐんの後ろを廻つて如法経塚へ押し寄せ、八百人のつはものども、同音に鬨をどつと作る。細河が兵三千余人、暗さはくら分内ぶんないはなし、馬放れ人騒いで、太刀をも不抜得、弓をも不挽得ければ、手負ひ、討たるる者数を不知。遥かなる谷底へ人雪崩なだれをつかせて追ひ落とされければ、馬・物の具を捨てたる事、幾千万とも難知。




細川陸奥守(細川顕氏あきうぢ)・同じく相模守(細川清氏きようぢ)は、真木(現大阪府枚方市牧野)・葛葉(現大阪府枚方市樟葉)を打ち廻って、八幡(現京都府八幡市)の西の尾崎、如法経塚の上に陣を取って、堀一重を隔てて攻めました。五月四日に、官軍は七千余騎の中より夜討ちに馴れた兵八百人を選って、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)に付けました。左兵衛督は昼ほどよりこの勢を我が陣に集めて、笠符を一様に付けさせ、誰かと問えば、進むと名乗れと決めて、夜が二三更(午後十時頃?)ほどになると、宿院([寺の宿泊所。僧坊。また、宿坊])の後ろを廻って如法経塚へ押し寄せ、八百人の兵どもが、同音に鬨をどっと作りました。細川(顕氏)の兵三千余人は、暗くて敵味方も見分けが付かず、馬は放れ人は騒いで、太刀も抜かず、弓も引けずに、手負い、討たれる者は数知れませんでした。遥かなる谷底へ雪崩のように追い落とされて、捨てた馬・物の具([武具])は、幾千万とも知れませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-06-03 09:27 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」新田足利確執奏状の事(その1)

さるほどに足利宰相尊氏たかうぢきやうは、相摸次郎時行ときゆきを退治して、東国やがて静謐せいひつしぬれば、勅約の上はなんの子細か可有とて、いまだ宣旨をも不被下、押して足利征夷将軍とぞまうしける。東八箇国の官領くわんれいの事は、勅許ありし事なればとて、今度箱根・相摸川にて合戦の時、有忠ともがらに被行恩賞。先立さいだつて新田の一族ども拝領したる東国の所領どもを、悉く闕所けつしよに成して、給人きふにんをぞ被付ける。義貞よしさだ朝臣これを聞きて安からぬ事に被思ければ、その替はりに我が分国、越後・上野かうづけ・駿河・播磨などに足利の一族どもの知行ちぎやうの庄園を押さへて、家人けにんどもにぞ被行ける。これによつて新田・足利仲悪しく成つて、国々の確執無休時。




足利宰相尊氏卿(足利尊氏)は、相摸次郎時行(北条時行。鎌倉幕府第十四代執権北条高時たかときの次男)を退治して、東国はやがて静謐([静かで落ち着いていること])したので、勅約の上は何の問題があろうかと、宣旨もなしに、足利征夷将軍と名乗りました。東八箇国の官領([荘園])は、勅許がありましたので、今回の箱根・相摸川の合戦で、忠義の者たちに恩賞として与えました。先立ち新田(義貞よしさだ)の一族に拝領([目上の人から物をいただくこと])のあった東国の所領を、一つ残らず闕所([所有者・権利者を欠いた土地])にして、給人([幕府・主家から恩給としての所領を与えられた者])のものとしました。義貞朝臣(新田義貞)はこれを聞いて心穏やかでなく、その代わりとして、越後・上野・駿河・播磨などに足利一族が知行する荘園を押さえて、家人([家来])たちに与えました。これによって新田(義貞)・足利(高氏)は仲違いして、国々の確執([互いに自分の意見を強く主張して譲らないこと。また、そのために生じる不和])は休まることはありませんでした。



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# by santalab | 2017-06-02 07:34 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その11)

山名右衛門うゑもんすけ財園院ざいをんゐんに陣を取れば、左兵衛さひやうゑかみなほ守堂口もりだうぐちに支へて防がんとす。四月二十五日、四方しはうの寄せ手同時にてふし合はせて攻め戦ふ。顕能あきよし卿の兵、伊賀・伊勢の勢三千余騎にて、園殿口そのどのぐちに支へて戦ふ。和田にぎた・楠木・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢は、佐羅科さらしなに支へて戦ふ。軍未だ半ばなるに、高橋の在家より神火燃え出て、魔風十方に吹き懸けけるほどに、官軍くわんぐんけむりむせんで防がんとするに叶はねば、皆八幡の御山へ引き上がる。四方の寄せ手二万余騎、すなは洞峠ほらがたうげへ打ち上りて、土岐・佐々木・山名・赤松・松田・飽庭あくは・宮の入道にふだう、一勢一勢数十箇所すじつかしよに陣を取り、鹿垣ししがき結うて、八幡山を五重六重いつへむへにぞ取り巻きける。




山名右衛門佐(山名時氏ときうぢ)が、財園院に陣を取れば、左兵衛督(藤原康長やすなが)は守堂口に支へて防ごうとしました。四月二十五日に、四方の寄せ手は同時に相図を定めて攻め戦いました。顕能卿(北畠顕能)の兵、伊賀・伊勢の勢三千余騎は、園殿口に支えて戦いました。和田・楠木・湯浅・山本・和泉・河内の軍勢は、佐羅科(現京都府八幡市)に支えて戦いました。軍いまだ半ばに、高橋の在家より神火が燃え出て、魔風が十方に吹き懸けたので、官軍は煙に咽んで敵を防ぐことができずに、皆八幡山に引き上りました。四方の寄せ手二万余騎は、たちまち洞ヶ峠(現京都府八幡市と大阪府枚方市の境にある峠)に打ち上って、土岐(土岐頼康よりやす)・佐々木(佐々木道誉だうよ)・山名(山名時氏ときうぢ)・赤松(赤松則祐のりすけ)・松田・飽庭・宮入道が、一勢一勢数十箇所に陣を取り、鹿垣([砦の周りに設けて防御用にした垣])を構えて、八幡山を五重六重に取り巻きました。


続く


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# by santalab | 2017-06-02 07:29 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その10)

数日すじつあつて後、淀の大明神だいみやうじんの前に浅瀬ありと聞き出して、二千余騎を一手になし、流れをつて打ち渡すに、法性寺の左兵衛さひやうゑかみただ一騎、馬の駆け上がりに控へて、敵三騎切つて落とし、りたる太刀を押しなほして、閑々しづしづと引きて返れば、山名が兵三千余騎、「大将とこそ見奉るに、きたなくも敵に後ろをば見せられ候ふものかな」とて追ひ懸けたり。「返すに難き事か」とて、兵衛の督取つて返してはつと追つ散らし、返し合はせては切つて落とし、淀の橋爪より御山おやままで、十七度じふしちど迄こそ返されけれ。されども馬をも切られず、我が身も痛手を負はざれば、袖の菱縫ひしぬひ吹き返しに立つ処の矢少々り懸けて、御山の陣へぞ帰られける。




数日あって後、淀大明神(現京都市伏見区にある與杼よど神社)の前に浅瀬があると聞き出して、二千余騎を一手になし、流れを切って打ち渡すと、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)がただ一騎、馬の駆け上がりに控えて、敵三騎を切って落とし、曲がった太刀を押し直して、閑々と引いて返れば、山名(山名時氏ときうぢ)の兵三千余騎が、「大将と見るが、卑怯にも敵に後ろを見せるとは」と追いかけました。「返せというか」と、兵衛督は取って返してぱっと追い散らし、返し合わせては切って落とし、淀の橋詰より八幡山まで、十七度まで返しました。けれども馬も切られず、我が身も痛手を負うことなく、袖の菱縫([兜のしころ、鎧の袖・草摺などの裾板に、赤革の紐や赤糸の組紐でX形に綴じた飾り])吹き返し([兜の左右の錏の両端が上方へ折れ返っている部分])に立つ矢を少々折り懸けて、八幡山の陣に帰りました。


続く


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# by santalab | 2017-06-01 07:56 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その8)

これのみならず、平家再興の計略、時や未だ至らざりけん、また天命にやたがひけん。名越なごや太郎時兼ときかぬが、北陸道ほくろくだうを打ちしたがへて、三万余騎にて京都へ責め上りけるも、越前と加賀とのさかひ大聖寺だいしやうじと云ふ所にて、敷地しきぢ上木うへき・山岸・瓜生うりふ・深町の者どもがわづかの勢に打ち負けて、骨を白刃はくじんの下に砕き、恩を黄泉くわうせんの底に報ぜり。時行ときゆきはすでに関東くわんとうにして滅び、時兼ときかぬはまた北国にて被討し後は、末々すゑずゑの平氏ども、少々せうせう身を隠しかたちを替へて、ここの山の奥、かしこの浦の辺にありといへども、今は平家の立ちなほる事難有とや思ひけん、その昔を忍びし人も皆怨敵をんてきの心を改めて、足利の相公しやうこうしよくし奉らずと云ふ者なかりけり。さてこそ、尊氏たかうぢきやう威勢ゐせい自然じねんに重く成つて、武運忽ちに開けければ、天下また武家の世とは成りにけり。




こればかりでなく、平家再興の計略の、時はまだ至っていなかったか、それとも天命に背いたのでしょうか。名越太郎時兼(名越時兼=北条時兼)は、北陸道の平和を従えて、三万余騎で京都に攻め上りましたが、越前と加賀との境、大聖寺(かつて現石川県加賀市にあった寺院)という所で、敷地(現石川県加賀市大聖寺敷地)・上木(現石川県加賀市)・山岸(現石川県輪島市)・瓜生(現石川県河北郡津幡町瓜生)・深町の者どものわずかの勢に打ち負けて、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報じました。時行(北条時行。鎌倉幕府第十四代執権、北条高時たかときの次男)はすでに関東で亡び、時兼もまた北国で討たれた後は、末々の平氏どは、わずかに身を隠し姿を変えて、ここの山奥、かしこの浦の辺におりましたが、今は平家が立ち直ることは困難だと思ったのか、その昔を忍び願う人も皆怨敵の心を改めて、足利相公(足利尊氏。[相公]=[参議])に付かない者はいませんでした。こうして、尊氏卿の威勢はたちまちにして重くなって、武運を開き、天下はまた武家の世となりました。


続く


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# by santalab | 2017-06-01 07:06 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」足利殿東国下向の事付時行滅亡の事(その7)

平家のつはもの、前後の敵に被囲て、叶はじとや思ひけん、一戦にも不及、皆鎌倉を指して引きけるが、また腰越こしごえにてかへし合はせて葦名あしな判官はうぐわんも被討にけり。始め遠江とほたふみの橋本より、佐夜さよの中山・江尻・高橋・箱根山・相摸河・片瀬・腰越・十間坂じつけざか、これら十七じふしち箇度の戦ひに、平家二万余騎のつはものども、あるひは討たれあるひは疵をかうむりて、今わづかに三百余騎に成りければ、諏方すは三河みかはかみを始めとして宗との大名四十三人しじふさんにん大御堂おほみだうの内に走り入り、同じく皆自害して名を滅亡めつばうの跡にぞ留めける。その死骸を見るに、皆面の皮を剥いでいづれをそれとも見分けざれば、相摸次郎時行ときゆきも、定めてこの内にぞあるらんと、聞く人あはれをもよほしけり。三浦の介入道一人は、いかがして遁れたりけん、尾張をはりの国へ落ちて、舟より挙がりけるところを、熱田の大宮司これを生け捕つて京都へ上せければ、すなは六条河原ろくでうかはらにて首を被刎けり。




平家の兵は、前後の敵に囲まれて、敵わぬと思ったか、一戦にも及ばず、皆鎌倉を指して引き退きましたが、また腰越(現神奈川県鎌倉市)で返し合わせて葦名判官(蘆名盛員もりかず)も討たれました。はじめの遠江の橋本(現静岡県湖西市)より、佐夜の中山(現静岡県掛川市)・江尻(現静岡県静岡市清水区)・高橋(現静岡県静岡市清水区)・箱根山(現神奈川県足柄下郡箱根町)・相摸川・片瀬(現神奈川県藤沢市)・腰越・十間坂(現神奈川県茅ヶ崎市)、これら十七箇度の戦いに、平家二万余騎の兵どもは、あるいは討たれあるいは疵を負って、今はわずかに三百余騎になりました、諏方三河守(諏訪頼重よりしげ)をはじめとして主だった大名四十三人は、大御堂の内に走り入り、同じく皆自害して名を滅亡の後に留めました。その死骸を見れば、皆面の皮を剥いでいずれをそれとも見分けることができませんでした、相摸次郎時行(北条時行ときゆき)も、きっとこの中にあるだろうと、聞く人の涙を誘いました。三浦介入道ただ一人は、どのようにして遁れたのか、尾張国へ落ちて、舟から上がるところを、熱田の大宮司が生け捕って京都に上らせると、たちまち六条河原で首を刎ねられました。


続く


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# by santalab | 2017-05-31 08:00 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その9)

悪五郎あくごらう討たれて官軍くわんぐん利を得たりといへども、寄せ手目に余るほどの大勢なれば、始終この陣には難怺とて、楠木次郎左衛門じらうざゑもん夜に入つて八幡へ引つ返せば、翌日朝敵てうてきやがて入り替はつて、荒坂山に陣を取る。しかれども官軍も不懸、寄せ手も不攻上、八幡を遠攻とほぜめにして四五日を経る処に、山名右衛門うゑもんすけ師氏もろうぢ、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢を率して上洛しやうらくす。路次ろしの遠きに依つて、荒坂山の合戦にはづれぬる事、無念に思はれける間、すぐに八幡へ推し寄せて一軍せんとて淀より向かはれけるが、法性寺ほふしやうじ左兵衛さひやうゑかみここに陣を取つて、淀の橋三間引き落とし、西の橋爪に掻楯かいだて掻いて相待あひまちける間、橋を渡る事は叶はず、さらばいかだを作り渡せとて、淀の在家をこぼちて筏を組みたれば、五月のながさめに水増さりて押し流されぬ。




悪五郎(土岐康貞やすさだ)が討たれて官軍は利を得ましたが、寄せ手は目に余るほどの大勢でしたので、いつまでもこの陣が堪えることはできまいと、楠木次郎左衛門(楠木三郎正儀まさのり。楠木正成の三男)は夜に入ると八幡山(現京都府八幡市)に引き返しました、翌日朝敵はたちまち入れ替わって、荒坂山(現京都府八幡市)に陣を取りました。けれども官軍も駆けず、寄せ手も攻め上らず、八幡を遠攻めにして四五日を経るところに、山名右衛門佐師氏(山名師氏)が、出雲・因幡・伯耆三箇国の勢を率して上洛しました。路次遠く、荒坂山(現京都府八幡市)の合戦に間に合わなかったことを、無念に思い、すぐに八幡へ押し寄せて一軍しようと淀(現京都市伏見区)より向かいましたが、法性寺左兵衛督(藤原康長やすなが)がそこに陣を取って、淀の橋を三間引き落とし、西の橋詰に掻楯([垣根のように楯を立て並べること])を掻いて待ち構えていたので、橋を渡る事は叶わず、ならば筏を作って渡せと、淀の在家を壊して筏を組みましたが、五月の長雨で水嵩が増して押し流されてしまいました。


続く


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# by santalab | 2017-05-31 07:08 | 太平記 | Comments(0)


「太平記」八幡合戦事付官軍夜討の事(その8)

将監しやうげんこれを見て、今は可助く人なしと思ひけるにや、腰の刀を抜いて腹を切らんとしけるを、悪五郎あくごらう、「暫し自害なせそ、助けんずる」とて、壺板に射立てられたる矢をば、脇立わいだてながら引き切つて投げ棄て、懸かる敵を五六人切り臥せ、関将監を左の小脇にさしはさみ、右手にて件の太刀を打ち振り打ち振り、近付く敵を打ち払つて、三町さんちやう許りぞ落ちたりける。跡に続ひていづくまでもと追ひ懸けける和田五郎も討ち遁しぬ。不安思ひける処に、悪五郎が運や尽きにけん、夕立ゆふだちに掘れたる片岸のありけるを、ゆらりと越えけるに、岸のひたひかたつちくわつとくづれて、薬研やげんのやうなる所へ、悪五郎落ちければ、わしり寄つて長刀の柄を取り延べ、二人ににんの敵をば討つてげり。入り乱れたる軍の最中なれば、首を取るまでもなし。悪五郎が引き切つて捨てたりつる、脇立許わいだてばかりを取つて、討つたる証拠しようごに備へ、身に射立て触れたる矢ども少々り懸けて、主上しゆしやう御前おんまへへ参り合戦のていを奏し申せば、「初め申しつる言葉に少しも不違、大敵の一将を討ち取つて数箇所すかしよの疵をかうむりながら、無恙して帰り参るでう、前代未聞の高名なり」と、叡感更に不浅。




関将監はこれを見て、今は助ける人もないと思ったか、腰の刀を抜いて腹を切ろうとしましたが、悪五郎(土岐康貞やすさだ)が、「今は自害するな、助けてやるぞ」と言って、壺板([脇楯わいだての上部にある右の脇壺に当てる鉄板])に射立った矢を、脇楯([大鎧の胴の右脇のすきまに当てる防具])ごと引き切って投げ捨て、懸かる敵を五六人切り臥せ、関将監を左の小脇に抱えて、右手で件の太刀を打ち振り、近付く敵を打ち払って、三町ばかり落ちました。後に続いてどこまでもと追いかける和田五郎(和田正隆まさたか)も討ち逃してしまいました。安からず思うところに、悪五郎の運が尽きたのか、夕立に崩れた片岸があったので、ゆらりと越えると、岸の額の盛り土が崩れて、薬研([薬研掘]=[V字形に深く掘った堀])のような所に、悪五郎が落ちたので、走り寄って長刀の柄を取り延べ、二人の敵を討ちました。入り乱れた軍の最中でしたので、首を取る隙もありませんでした。悪五郎が引き切って捨てた、脇楯ばかり取って、討った証拠として、身に射立てられた矢を少々折り懸けて、主上(第九十七代後村上天皇)の御前に参り合戦の次第を奏し申せば、「初めに申した言葉に少しも違わず、大敵の一将を討ち取って数箇所の疵を被りながら、無事に帰り参るとは、前代未聞の高名である」と、叡感はさらに浅いものではありませんでした。


続く


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# by santalab | 2017-05-30 08:16 | 太平記 | Comments(0)

    

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