Santa Lab's Blog


明日に向かって走れ(その2)

平安の名にとても添うとも思えないその時代がなぜか好きなのですが、変化して行く様に惹かれるのではないかと。けれどもそれは後から振り返って濃縮するからこそ思えるのであって、一日一日の違いがそれほどあったのかと問われれば、やはりそんなには違わない日々の繰り返しでもあったのではないかと、今と変わらないものではなかったのかとも思えるんですけどね。


人って「平穏」を求めながらも、それをとても味気なく思うもので、どこかで「無駄に空回り」を、ってそんなことってありませんか、あたいだけのことなんでしょうかね。人に「何か」と思ったところで他人に「なるほどね」なんて、とてもとても「無理」だと思えば他になにができるのか。「一生勉強」なんて言えるのは「今」の地位を確立しはじめて言えること。必死で息継ぎしてるあたいには「夢」のような話でたしかに心惹かれるけれども。必死で「跡」を追い求めながら。


「跡」が消えてしまうから「平家」が好きなんですかね。「跡」があると思えばつらいじゃないですか。「子」を残した太宰は何を思っていたのでしょうか。とても「一縷の望み」なんて思っていなかったと思いたいものです。


「人」なんて高々なんて思ったところで所詮「以下」でも「以上」でもないんですから。


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# by santalab | 2013-09-03 20:06 | 独り言 | Comments(0)


「平家物語」高野槇(その2)

かはらに松生ひかきに苔して、星霜せいざう久しく思えたり。昔延喜えんぎの帝の御時、御夢想ごむさうの御告げあつて、檜皮ひはだ色の御衣ぎよいまゐらさせ給ふに、勅使ちよくし中納言ちうなごん資澄すけずみきやう般若はんにや寺の僧正そうじやう観賢くわんげんあひ具して、この御山おやまに上り、御廟みめうとびらを押し開き、御ころもを着せ奉らんとしけるに、霧厚う隔たつて、大師だいしをがまれさせ給はず。ときに観賢深く愁涙いうるゐして、「我悲母ひもの胎内を出でて、師匠ししやうしつに入つしよりこの方、いまだ禁戒きんかいぼんぜず、さればなどか拝み奉らざるべき」とて、五体を地に投げ、発露啼泣ほつろていきふし給へば、やうやう霧晴れて、月の出づるが如くに、大師拝まれさせ給ひけり。その時観賢随喜ずゐきの涙を流いて、御ころもを着せ奉り、御ぐしの長う生ひ伸させ給ひたるをも、剃り奉るぞあり難き。勅使と僧正は拝み給へども、僧正の御弟子、石山の内供ないく淳祐しゆんいう、その時はいまだ童形とうぎやうにて供奉ぐぶせられたりしが、大師を拝み奉らずして、深う嘆きしづんでおはしけるを、僧正手を取つて、大師の御ひざに押し当てられたりければ、その手一期いちごあひだかうばしかりけるとかや。その移り香は、石山の聖教しやうげうに残つて、いまにありとぞうけたまはる。大師、帝の御返事ぺんじまうさせ給ひけるは、「我昔さつたに会ひて、まのあたりことごとく印明いんみやうを伝ふ。無比むび請願せいぐわんを起こして、辺離へんり異域いゐきはんべり。昼夜ちうや万民ばんみんあはれんで、普賢ふげん悲願ひぐわんぢうせり。肉身にくしん三昧さんまいしようじて、慈氏じし下生げしやうを待つ」とぞ申させ給ひける。かの摩訶迦葉まかかせふ鶏足けいそくほらに籠つて、翅頭しづの春の風をし給ふらんも、かくやとぞ思えける。御入定ごにふぢやうは、承和しようわ二年三月さんぐわつ二十一にじふいち日、寅の一点いつてんのことなれば、過ぎにし方は三百さんびやく余歳、行くすゑもなほ五十六ごじふろく七千万歳しちせんまんざいの後、慈尊じそん出世しゆつせ三会さんゑあかつきを待たせ給ふらんこそ久しけれ。




瓦には松が生え垣は苔生して、長い年月を経たように思われました。昔の帝の御時(醍醐天皇)に、夢の中でお告げがあって、檜皮色(ほとんど茶色に近い赤茶色)の衣を奉納するために、勅使として中納言資澄卿(どこの誰かわからないらしい)、般若寺(今の奈良市にある寺らしい。般若寺を創建したのが観賢とのこと)の僧正観賢をお供に、高野山に上り、廟([祖先、先人の霊を祭る建物])の扉を押し開き、衣を着せようとしましたが、霧が厚くさえぎって、大師(弘法大師、空海。高野山金剛峰こんがうぶ寺の開祖)を拝むことができませんでした。この時観賢は深く悲しみ涙を流して、「わたしは慈母から生まれ出て、師匠(弘法大師)の仏門に入って、まだ禁戒([戒め])を破ってはおりません、ならばどうか拝ませてください」と言って、五体を地に投げて(五体投地)、発露([発露]=[犯した罪を隠さず告白すること])して啼泣([声をあげて泣くこと])すれば、ようやく霧が晴れて、月が出るかのごとく、大師を拝むことができたのでした。その時観賢は随喜([他人のなす善を見て、これに従い喜びの心を生じること])の涙を流して、衣を着せて、髪が長く伸びていたのを剃ってさしあげたのももったいないことでした。勅使と相乗は拝みましたが、僧正の弟子で、石山寺(今の滋賀県大津市にある寺)の内供([内供奉]=[供奉])淳祐という、その時はまだ童形([稚児姿])でお供させられていた者は、大師を拝まず、深く嘆き悲しんでいたので、観賢は淳祐の手を取って、大師の膝に押し当てられると、その手を押し当てている間、香りが立っていました。その移り香は、石山寺の聖教([経典])に残って、今もあると聞いています。大師に、帝が返事を返すには、「あなたは昔薩た([菩提薩]=[釈迦])に会って、目の前ですべての印明([手に結ぶ印相と、口に唱える明呪みやうじゆつまり真言])を伝受されました。今は無比([他に比べるものがないこと])の請願を起こして、遠く離れた異国に居ます。昼夜万民を憐れみ、普賢([普賢菩薩])の悲願([仏、菩薩が慈悲の心から人々を救おうとして立てた誓い])をよりどころにして住んでおられます。肉身から雑念を取り去ってあかしを立て、慈氏([慈氏尊]=[弥勒菩薩])の下生([神仏がこの世に現れること])を待っておられるのですね」と申しました。摩訶迦葉([迦葉]=[釈迦十大弟子の一人])が鶏足山の洞([鶏足洞]=[迦葉が寂滅のために入ったと伝えられる洞])に籠り、翅頭(弥勒菩薩が竜華三会を開く都市の名前らしい)の春の風を待っていたのも、弘法大師と同じようだったかと思われます。弘法大師の入定([入滅])は承和二年(835)三月二十一日、寅の一点(午前四時頃)のことですから、弘法大師がなくなって三百年余り、行く末(弥勒菩薩が衆生を救済する未来)まではまだまだ先五十六億七千万年の後、慈尊([弥勒菩薩])の出世([仏が衆生を救うためこの世に現れること])は、三会([竜華三会]=[弥勒菩薩が衆生のために三度にわたって説くという説法の会座])のその時を待たなければなりませんが、はるか先のことです。


(誤解はないと思いますが、醍醐天皇(885~930)の御時(在位897~930)、観賢(854~925)ですから、時代は合いますが、弘法大師(774~835)の時代はさかのぼること約百年前です。そして、当然ながら菩薩=釈迦の時代ははるかかなたの紀元前のことです。)


続く


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# by santalab | 2013-09-03 07:46 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その44)

女君も同じ所におはす。「いかで物聞こえさせむ」と言へば、そち、「ここにて聞こえ給はむに」と、「敢へぬべきことならば、く入りて聞こえ給へ」と言へば、少将入りて、「しかじかなむ」と言へば、女君「げに、いかで対面せむ。ここにも、いと恋しくなむ思え給へば、いかで参り来むとなむ、昨日聞こえたりし」とのたまふ。そち「かしこへ渡り給はむ、ニ所通ひせむほどに、物しく、おのがためになむ悪しかるべきを、かたじけなくとも、ここに渡らせ給へかし。人待らばこそ慎ましくも思さめ、幼き人ばかりなむ。それを、便びんなかるべくは、離れたる方に置き侍りなむ。京に物し給ふべきほどは、げに今日、明日ばかりなり。対面なくては、いかでかは」とのたまへば、定めしもるく、「そのことをなむ、かしこにも、いといみじく嘆かるめる」と言へば、帥「やよろしう定めて、こなたに渡し奉り給へ。そち参り給はむことは、なほ悪しくなむある」と言へば、少将「さらば、かくなむ物し侍らむ」とて立てば、四の君「必ず必ず、よくそそのかし給へ」とのたまへば、「承りぬ」とて出でぬ。




少将(故大納言の三男)が帥殿を訪ねると四の君も同じ部屋にいました。帥殿に「申し上げたいことがございます」と言うと、帥殿(四の君の夫)は、「ここで聞こう」と答えて、「急ぎ申すことならば、すぐにここへ来て話せ」と言いました、少将は部屋に入って、「しかじかでございます」と言うと、四の君も「本当ですか、なんとしても母上に会いたい。わたしも、母上をとても恋しく思って、どうしても母上を訪ねたいと、昨日申したのです」と言いました。帥殿は「こちらから訪ねれば、二人で訪ねなくてはならず、煩わしくて、わたしにとって不都合なこと、かたじけないことだが、こちらに来てはもらえないか。ほかに人がいるのなら嫌だろうが、幼い子どもたちばかりだ。それでも、都合悪ければ、子どもたちを離れた所に置こう。京にいられるのは、今日、明日ばかり。母上に会わずに、大宰府には下れない」と申したので、落窪の君が話した通りに、「母もそのことを、あちらで、とても嘆いておりましょう」と言うと、帥は「早くよく計らって、こちらを訪ねていただきたい。わたしが母上の許を訪ねるのは、よろしくないでしょう」と申しました、少将は「分かりました、母に伝えましょう」と言って立ち去ろうとしたので、四の君は、「必ず必ず、母上にうまく伝えてください」と言うと、少将は「分かりました」と言って出て行きました。


続く


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# by santalab | 2013-09-03 07:43 | 落窪物語 | Comments(0)


明日に向かって走れ(その1)

酔いどれの今にも目の前すべての景色が霧か霞かはたまた幻か、いずれにせよ何ともはや、まこと頼り甲斐のないものと思いながらも、それでもわずかながら確かにくっきりと映る「何か」が、ほとんど「偶然」と言える確率で現れては、しかし所詮「錯覚」としか思えないのだけれども、せめても「存在した」ばかりのことをただ拠り所にして。


「それで満足?」なんて決して思うことはないのだけれども、それでもほんの一歩高望みしたところで一体何になるというわけでもなし、とにもかくにも一瞬の「その時」を逃さないようにと。


そんな「どうでもいい」ようで「決してそうではない」、結局のところ「どうしようもない」のもまた定めとして諦めるほかなく、外に何を願っても仕方ないというものでしょうが。


そんな与太話も話している内が「華」なのでしょう。面と向かって話せないどころか己の口さえも利けなくなった時、一体何を思い残そうとするのですかね。ただただこの「痛み」から逃れた「安らぎ」ばかりなのかも知れませんけれども。それはそれで「悲しい」ことではあります。


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# by santalab | 2013-09-02 20:13 | 独り言 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その43)

少将、左の大臣おとどに参りて、北の方に、「かうかうなむ侍りつる」。そのことは言はで、「恋しく見まほしくし給ふ」と語れば、北の方「ことわりにこそはあめれ。や渡し奉り給へかし」、少将「そちも、渡れとも思ひ給はざらむに、ふと物し給ひなむ、便びんなかるべき」と言へば、北の方「それも然るべきこと。さらば御みづからおはして、帥の聞かむ折に、御消息とて『いと恋しくなむ思え給ふを、あからさまにもまれ、渡り給へ。遠くおはすべきほども、いと残り少なうなりになれば、いとあはれに心細うなむ。これよりまれ、出で立ち給へ、京におはせむ限りは見奉らむ』とのたまふと聞こえ給はむにつけて、そこに、自づから気色見えなむ。それに従ひて、渡りも迎へもし給へ。そのちひさき君は、その子とは、な知らせさせ給ひそ。御供にてて下り給ふとも、『一人おはせむが心細きに』とて、北の方の添へ奉らせ給ふにてありなむ」とのたまへば、少将、いと思ふやうに、思ひ遣りあり、めでたくぞのたまふ、うれしうあらまほしき御心かな、我が親の、非道に、ただ腹立ち給ふこそ、物言ふ甲斐かひなけれ、と思ひて、「いとよくのたまはせたり。さらば、しか物し侍らむ」とて、殿へ行くも苦しけれど、恋しと思ひ給ふにこそあらめ、と思ひて。




少将(故大納言の三男)は、左大臣殿に参って、北の方に、「四の君が母上と娘にに会いたいそうです」と言いました。母のことは言わずに、「恋しくて会いたい」と書いた四の君のことを話せば、北の方も「当然のことでしょう。すぐに母上と姫君をこちらにお連れして」と答えました、少将は「帥殿(四の君の夫)は、北の方娘が訪ねて来ることを思ってもいないところへ、訪ねるのは、よろしくありません」と言うと、北の方も「それはそうですね。ならばあなた自ら帥殿を訪ねて、帥殿に、母上から文があったと言って『四の君をとても恋しく思います、ほんのわずかの間でも、わたしを訪ねてほしい。遠く離れて行く日まで、残りわずかとなってしまいました、とても心細いのです。今すぐにでも、訪ねてください、あなたが京にいる間に会いたい』と書いてあったことを話せば、きっと、帥殿は返事なさいます。帥殿の意向に従って、北の方を訪ねるもよしこちらへ迎えてもよいでしょう。それから四の君の幼い子ですが、四の君の子であると、帥殿には知らせないでください。供として下るのは、『一人で下るのが心細くて』、北の方が付けてくれたのです」と話しなさいと言うと、少将は、かねがね思っていたことですが、左大臣殿の北の方(落窪の君)には思いやりがあり、気を使ってくださると、うれしくも理想的な人だと思い、我が親(故大納言の北の方)が、道理に外れて、ただただ腹立ちするのを、情けなく思って、「ありがたいお言葉です、ならば、そのようにいたしましょう」と言って、帥殿を訪ねるのも気が引けましたが、母上が恋しく思っているから、と思って行くことにしました。


続く


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# by santalab | 2013-09-02 06:51 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」高野槇(その1)

滝口入道にふだう、三位中将を見奉り、「こはうつつとも思えさふらはぬものかな。さても屋島をば、何としてかはのがれさせ給ひて候ふやらん」とまうしければ、三位中将、「さればとよ、都をば人並々に出でて、西国へ落ち下りたりしかども、ふるさとに留め置きたりしをさなき者どもが面影のみ、身にひしと立ち添ひて、忘るるひまもなかりしかば、その物思ふ心や、言はぬにしるくや見えけん、大臣おほい殿との二位にゐ殿も、この人はいけの大納言のやうに、頼朝に心を通はして、二心ふたごころありなんと思ひ隔て給ふあひだ、いとど心も留まらで、これまであくがれ出でたんなり。これにて出家しゆつけして、火の中みづの底へも、入りなばやとは思へども、ただし熊野へまゐりたき宿願しゆくぐわんあり」とのたまへば、滝口入道申しけるは、「夢まぼろしの世の中は、とてもかくても候ひなんず。ただ長き世の闇こそ心憂かるべう候へ」とぞ申しける。やがてこの滝口入道を先達せんだちにて、堂塔だうたふ巡礼じゆんれいして、奥のゐんへぞまゐられける。高野かうや山は帝城ていせいを去つて百里はくり京里きやうりを離れて無人声むにんじやう青嵐せいらんこずゑを鳴らしては、夕日せきじつの影しづかなり。八葉はちえふの峰、つの谷、まことに心も澄みぬべし。花の色はりんの底にほころび、れいの音は尾上をのへの雲に響けり。




滝口入道(斉藤時頼ときより)は、三位中将(平維盛これもり重盛しげもりの嫡男)を見て、「これが現実とはとても思えません。にしても屋島(今の香川県高松市)を、どうして逃れて来たのですか」と申すと、維盛は、「それはな、都を平家の者たちは揃って出て、西国へ逃げたのだが、ふるさとに置き留めた幼い子どもの面影だけが、身に離れず立ち添って、忘れる間もなかったのだ、子どもたちの悲しむ心が、何も言わないがはっきりと見えて、大臣殿(平宗盛むね>もり。清盛の三男)も二位殿(平時子ときこ。清盛の継室)も、この者たちは池大納言(平頼盛よりもり。清盛の弟)のように、頼朝(源頼朝)と通じて、二心あると思うと、いっそう心も安まることもなく、ここまで心引かれて出てきたのだ。わたしはここで出家して、火の中水の底へも、入ろうかと思ったが、熊野に参りたいとの宿願([前々から抱いていた願い])があったので」と言うと、滝口入道が申すには、「夢幻の世の中というのは、何としても住みにくいところです。長い世の闇というのは心苦しいものなのです」と言いました。やがて滝口入道を先達([山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])にして、堂塔を巡礼し、奥の院([開山祖師の霊像や神霊などを祭った所])へ参りました。高野山は帝城([天子の住む城]=[京])を去る事二百里(約800kmとなりますが、そんなに離れていません)、京里を離れて人の声もなし、青嵐([初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風])が梢を鳴らして、夕日には静かでした。八方に広がる峰、八つの谷、心が清められる場所でした。花は林霧の下にほころび、鈴(鈴といえば、まずはお遍路さんを思い出しますが、四国八十八か所は弘法大師を訪ねる巡礼です。修行者が手に持って鳴らす鈴を「金剛鈴」といいます。高野山の開祖である弘法大師=空海が手に持っていたそうです)の音が山頂の雲に響き渡りました。


続く


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# by santalab | 2013-09-02 06:44 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その5)

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その後横笛は、奈良の法華ほつけ寺にありけるが、その思ひの積りにや、いくほどなくて、つひにはかなくなりにけり。滝口入道にふだうこの由を伝へ聞いて、いよいよ深う行ひ清ましてたりければ、父も不孝ふけうを許しけり。親しき者どもも皆用ひて、高野かうやのひじりとぞまうしける。三位中将、この聖にたづね会ひて見給ふに、都にありし時は、法衣に立烏帽子たてゑぼし衣紋えもんつくろひ、びんを撫で、華やかなりしをのこなり。出家しゆつけの後は、今日けふ初めて見給ふに、いまだ三十さんじふにもならざるが、老僧らうそう姿に痩せ衰へ、濃き墨染に同じ袈裟けさかうけぶりに染みかをり、さかしげに思ひ入つたる道心者だうしんじや、うらやましうや思はれけん。かのしん七賢しちげん、漢の四皓しかうが住みけん、商山しやうざん、竹林の有様も、これには過ぎじとぞ見えし。




その後横笛は、奈良の法華寺(今の奈良県奈良市にある法華寺、法華滅罪寺のことらしい)に居ましたが、滝口入道への思いが積もったのでしょうか、いくらも経たないうちに、亡くなってしまいました。滝口入道は横笛の死を伝え聞いて、ますます修行に励みましたので、父も不孝([勘当])を許しました。親しい者たちからも信頼されて、高野聖(高野山から諸地方に出向き、高野信仰を広めた最下層に位置する僧。ただし滝口入道は高野山大円院住職まで上ったらしい)と呼ばれました。三位中将(平維盛これもり。清盛の嫡孫)は、滝口入道を訪ねて会いました、都にいた頃は法衣に立烏帽子、衣紋を繕い([衣服、装束に乱れがないよう心を配る])、鬢を撫で([髪を整える])、勢いがある男でした。出家の後、維盛は今日初めて見ましたが、まだ三十歳にもなっていませんでしたが、老僧のように痩せ衰え、濃い墨染めの衣に同じ色の袈裟、香の煙が染み香り、熱心な道心者([仏道に帰依した人])のように見えて、うらやましく思えました。晋の七賢([竹林の七賢])、漢の四皓([商山四皓])が住んだ商山、竹林の有様も、これにはかなわないように見えました。


続く


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# by santalab | 2013-09-01 07:17 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その42)

しやらむやうもおぼえで、母北の方に言ひ遣る。「かうかうの物どもせよとて、絹どもあめれど、いかがはし侍らむ。殿より侍る人々も若うのみありて、言ひ合はすべき人もなし。いと恋しく思えさせ給ふ、幼き人も見まほしく思え侍るを、忍びて渡り給へ」と言ひ遣りければ、北の方、少将を呼びて「かくなむ言ひたる。夜さり忍びて渡らむ。車しばし」とのたまへば、「忍びてと思すとも、人はまさに知らじや。また、旅立たるに、煌々きらきらしき持ち給へる、子引きさげてたらむ、いと見苦しからむ。失せにける妻の子たちとて、十ばかりなるを、帥は呼び出でて使ひ給ふめれば、いとあはれなめり。我が左の大臣おとどの上に申し給ひて、よかなりとのたまはば、渡り給へ」と言へば、北の方、いと洗はず思ひて、「あの殿の許しなくは、親子のおもても見で、下してむとするか」。ただひそみにひそみ給ひて、「何事も、この殿おはせむ限りは、え易くすまじかめり。我こそ人をば従へしか、人に従ふ身となりにたる、悲しきこと。また、我が言ふこと、同じ心にいらへたる子こそなけれ」とのたまへば、少将、例の、御腹立ち給ひぬと見て、「何しにかは。言ひ合はせ給ふ、便びんなければ、しか申し侍るに、かくさいなむなむ、いと苦しき」とて立ちぬ。うれしと夜昼喜べど、腹だに立ちぬれば、なほ、癖にて、かくなむありける。




どうしてよいのか分からないので、四の君は母である北の方に文を送りました。「帥殿が者たちの装束を用意せよと申して、絹などを与えてくださいましたが、どうすればよいのでしょう。左大臣殿から参った女房たちも若い者ばかりで、相談する相手もおりません。母上を恋しく思い、幼い我が子にも会いたいと思います、どうか忍んで訪ねて来てください」と送ると、北の方は、少将(故大納言の三男)を呼んで「四の君がこう言ってきました。夜に忍び訪ねたいのです。車をしばらく借りますよ」と申すと、少将は「忍んでと言いますが、帥殿に知れないはずはないでしょう。また、旅立つのに、目立つ子を、連れて大宰府に下るのは、よろしくありません。亡くなった妻の子で、十歳ばかりの者を、帥殿は呼んで使うようですので、四の君の子がかわいそうです。わたしがお仕えする左大臣殿の北の方(落窪の君)に申し上げ、よろしいとおっしゃったなら、訪ねなさい」と言うと、北の方は、納得できずに、「左大臣殿の北の方のお許しがなければ、娘の顔も見ないまま、大宰府に下るというのですか」と申しました。ただ口をとがらせて、「何事も、左大臣殿の北の方がいる限りは、簡単にはいかないというのですか。昔は人を従わせていたのに、今では人に従う身になってしまいました、ああ悲しい。また、わたしの言葉に、従う子さえいないとは」と申すと、少将は、北の方がいつものように、腹を立ててしまったと思って、「どうしてそのようなことを申します。相談する他に、四の君と会う方法がないから、そう言っただけのこと、なぜがみがみ申すのです、ああ情けない」と言って出て行きました。左大臣殿の北の方のお陰だと夜も昼もよろこんでいても、腹が立てば、やはり、癖が、出てしまうのでした。


続く


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# by santalab | 2013-09-01 07:15 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その41)

権のかみも蔵人の大夫も、送りせむとて、暇、朝廷おはやけに申して、皆下る。そち、被け物どもし給へば、人々の装束にとて、絹二百ひき、染草ども、皆あづけ給ひたれば、四の君、叢々そうそうと並びて、取り触れむ方なし。




権守も蔵人大夫(帥殿の長男と次男)も、帥殿を見送ろうと、休暇を、朝廷に願い出て、皆見送りに行きました。帥殿は、贈り物として、者たちの装束にと、絹二百疋([一疋]=[二反])、染草([染料になる草])など、すべて与えたので、四の君は、山のような品々が並ぶのを見て、どうすればよいのかと思いました。


続く


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# by santalab | 2013-08-31 08:23 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その4)

その後滝口入道、同宿どうしゆくの僧に語りけるは、これもよにしづかにて、念仏の障礙しやうげさふらはねども、飽かで別れし女に、この住まひを見えてさふらへば、たとひ一度は心強くとも、またも慕ふことあらば、心も働き候ひなんず。いとま申す」とて、嵯峨をば出でて高野かうやへ上り、清浄しやうじやう心院しんゐんに行ひすましてぞたりける。横笛もやがて様を変へぬる由聞こえしかば、滝口入道、いつしゆの歌をぞ贈りける。

反るまでは 恨みしかども 梓弓 真の道に 入るぞうれしき

横笛が返事に、
反るとても なにか恨みむ 梓弓 ひきとどむべき 心ならねば




その後滝口入道が、同宿の僧に語るには、ここも静かな所で、念仏の妨げになることはありませんが、嫌いになって別れたわけでもない女が、この住まいを訪ねてきたので、たとえ一度はつれなくしても、また恋しく思うことがあれば、精神も統一できません。お別れしたく思います」と言って、嵯峨(今の京都市右京区)を出て高野(高野山。今の和歌山県伊都郡にあります)に上り、清浄心院(高野山にある寺院)で修行に励みました。横笛もやがて仏門に入ったと聞いたので、滝口入道は、一首の歌を贈りました。

梓弓ではないですが反る(髪を剃って仏門に入る)までは、さんざんわたしのことを恨みもしたことでしょう。あなたが恨みを忘れ、真の道([仏道])に入ったと聞いて、ありがたく思っています。

横笛の返事は、
梓弓が反ったからといって何を恨むことがありましょうか。わたしが髪を剃って仏門に入ったのは、あなたを引きとめることができなかったのはこのわたしだからなのです。


続く


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# by santalab | 2013-08-31 08:18 | 平家物語 | Comments(0)

    

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