Santa Lab's Blog


「落窪物語」巻四(その43)

少将、左の大臣おとどに参りて、北の方に、「かうかうなむ侍りつる」。そのことは言はで、「恋しく見まほしくし給ふ」と語れば、北の方「ことわりにこそはあめれ。や渡し奉り給へかし」、少将「そちも、渡れとも思ひ給はざらむに、ふと物し給ひなむ、便びんなかるべき」と言へば、北の方「それも然るべきこと。さらば御みづからおはして、帥の聞かむ折に、御消息とて『いと恋しくなむ思え給ふを、あからさまにもまれ、渡り給へ。遠くおはすべきほども、いと残り少なうなりになれば、いとあはれに心細うなむ。これよりまれ、出で立ち給へ、京におはせむ限りは見奉らむ』とのたまふと聞こえ給はむにつけて、そこに、自づから気色見えなむ。それに従ひて、渡りも迎へもし給へ。そのちひさき君は、その子とは、な知らせさせ給ひそ。御供にてて下り給ふとも、『一人おはせむが心細きに』とて、北の方の添へ奉らせ給ふにてありなむ」とのたまへば、少将、いと思ふやうに、思ひ遣りあり、めでたくぞのたまふ、うれしうあらまほしき御心かな、我が親の、非道に、ただ腹立ち給ふこそ、物言ふ甲斐かひなけれ、と思ひて、「いとよくのたまはせたり。さらば、しか物し侍らむ」とて、殿へ行くも苦しけれど、恋しと思ひ給ふにこそあらめ、と思ひて。




少将(故大納言の三男)は、左大臣殿に参って、北の方に、「四の君が母上と娘にに会いたいそうです」と言いました。母のことは言わずに、「恋しくて会いたい」と書いた四の君のことを話せば、北の方も「当然のことでしょう。すぐに母上と姫君をこちらにお連れして」と答えました、少将は「帥殿(四の君の夫)は、北の方娘が訪ねて来ることを思ってもいないところへ、訪ねるのは、よろしくありません」と言うと、北の方も「それはそうですね。ならばあなた自ら帥殿を訪ねて、帥殿に、母上から文があったと言って『四の君をとても恋しく思います、ほんのわずかの間でも、わたしを訪ねてほしい。遠く離れて行く日まで、残りわずかとなってしまいました、とても心細いのです。今すぐにでも、訪ねてください、あなたが京にいる間に会いたい』と書いてあったことを話せば、きっと、帥殿は返事なさいます。帥殿の意向に従って、北の方を訪ねるもよしこちらへ迎えてもよいでしょう。それから四の君の幼い子ですが、四の君の子であると、帥殿には知らせないでください。供として下るのは、『一人で下るのが心細くて』、北の方が付けてくれたのです」と話しなさいと言うと、少将は、かねがね思っていたことですが、左大臣殿の北の方(落窪の君)には思いやりがあり、気を使ってくださると、うれしくも理想的な人だと思い、我が親(故大納言の北の方)が、道理に外れて、ただただ腹立ちするのを、情けなく思って、「ありがたいお言葉です、ならば、そのようにいたしましょう」と言って、帥殿を訪ねるのも気が引けましたが、母上が恋しく思っているから、と思って行くことにしました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-09-02 06:51 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」高野槇(その1)

滝口入道にふだう、三位中将を見奉り、「こはうつつとも思えさふらはぬものかな。さても屋島をば、何としてかはのがれさせ給ひて候ふやらん」とまうしければ、三位中将、「さればとよ、都をば人並々に出でて、西国へ落ち下りたりしかども、ふるさとに留め置きたりしをさなき者どもが面影のみ、身にひしと立ち添ひて、忘るるひまもなかりしかば、その物思ふ心や、言はぬにしるくや見えけん、大臣おほい殿との二位にゐ殿も、この人はいけの大納言のやうに、頼朝に心を通はして、二心ふたごころありなんと思ひ隔て給ふあひだ、いとど心も留まらで、これまであくがれ出でたんなり。これにて出家しゆつけして、火の中みづの底へも、入りなばやとは思へども、ただし熊野へまゐりたき宿願しゆくぐわんあり」とのたまへば、滝口入道申しけるは、「夢まぼろしの世の中は、とてもかくても候ひなんず。ただ長き世の闇こそ心憂かるべう候へ」とぞ申しける。やがてこの滝口入道を先達せんだちにて、堂塔だうたふ巡礼じゆんれいして、奥のゐんへぞまゐられける。高野かうや山は帝城ていせいを去つて百里はくり京里きやうりを離れて無人声むにんじやう青嵐せいらんこずゑを鳴らしては、夕日せきじつの影しづかなり。八葉はちえふの峰、つの谷、まことに心も澄みぬべし。花の色はりんの底にほころび、れいの音は尾上をのへの雲に響けり。




滝口入道(斉藤時頼ときより)は、三位中将(平維盛これもり重盛しげもりの嫡男)を見て、「これが現実とはとても思えません。にしても屋島(今の香川県高松市)を、どうして逃れて来たのですか」と申すと、維盛は、「それはな、都を平家の者たちは揃って出て、西国へ逃げたのだが、ふるさとに置き留めた幼い子どもの面影だけが、身に離れず立ち添って、忘れる間もなかったのだ、子どもたちの悲しむ心が、何も言わないがはっきりと見えて、大臣殿(平宗盛むね>もり。清盛の三男)も二位殿(平時子ときこ。清盛の継室)も、この者たちは池大納言(平頼盛よりもり。清盛の弟)のように、頼朝(源頼朝)と通じて、二心あると思うと、いっそう心も安まることもなく、ここまで心引かれて出てきたのだ。わたしはここで出家して、火の中水の底へも、入ろうかと思ったが、熊野に参りたいとの宿願([前々から抱いていた願い])があったので」と言うと、滝口入道が申すには、「夢幻の世の中というのは、何としても住みにくいところです。長い世の闇というのは心苦しいものなのです」と言いました。やがて滝口入道を先達([山伏や一般の信者が修行のために山に入る際の指導者])にして、堂塔を巡礼し、奥の院([開山祖師の霊像や神霊などを祭った所])へ参りました。高野山は帝城([天子の住む城]=[京])を去る事二百里(約800kmとなりますが、そんなに離れていません)、京里を離れて人の声もなし、青嵐([初夏の青葉を揺すって吹き渡るやや強い風])が梢を鳴らして、夕日には静かでした。八方に広がる峰、八つの谷、心が清められる場所でした。花は林霧の下にほころび、鈴(鈴といえば、まずはお遍路さんを思い出しますが、四国八十八か所は弘法大師を訪ねる巡礼です。修行者が手に持って鳴らす鈴を「金剛鈴」といいます。高野山の開祖である弘法大師=空海が手に持っていたそうです)の音が山頂の雲に響き渡りました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-09-02 06:44 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その5)

d0330386_23313943.jpg

その後横笛は、奈良の法華ほつけ寺にありけるが、その思ひの積りにや、いくほどなくて、つひにはかなくなりにけり。滝口入道にふだうこの由を伝へ聞いて、いよいよ深う行ひ清ましてたりければ、父も不孝ふけうを許しけり。親しき者どもも皆用ひて、高野かうやのひじりとぞまうしける。三位中将、この聖にたづね会ひて見給ふに、都にありし時は、法衣に立烏帽子たてゑぼし衣紋えもんつくろひ、びんを撫で、華やかなりしをのこなり。出家しゆつけの後は、今日けふ初めて見給ふに、いまだ三十さんじふにもならざるが、老僧らうそう姿に痩せ衰へ、濃き墨染に同じ袈裟けさかうけぶりに染みかをり、さかしげに思ひ入つたる道心者だうしんじや、うらやましうや思はれけん。かのしん七賢しちげん、漢の四皓しかうが住みけん、商山しやうざん、竹林の有様も、これには過ぎじとぞ見えし。




その後横笛は、奈良の法華寺(今の奈良県奈良市にある法華寺、法華滅罪寺のことらしい)に居ましたが、滝口入道への思いが積もったのでしょうか、いくらも経たないうちに、亡くなってしまいました。滝口入道は横笛の死を伝え聞いて、ますます修行に励みましたので、父も不孝([勘当])を許しました。親しい者たちからも信頼されて、高野聖(高野山から諸地方に出向き、高野信仰を広めた最下層に位置する僧。ただし滝口入道は高野山大円院住職まで上ったらしい)と呼ばれました。三位中将(平維盛これもり。清盛の嫡孫)は、滝口入道を訪ねて会いました、都にいた頃は法衣に立烏帽子、衣紋を繕い([衣服、装束に乱れがないよう心を配る])、鬢を撫で([髪を整える])、勢いがある男でした。出家の後、維盛は今日初めて見ましたが、まだ三十歳にもなっていませんでしたが、老僧のように痩せ衰え、濃い墨染めの衣に同じ色の袈裟、香の煙が染み香り、熱心な道心者([仏道に帰依した人])のように見えて、うらやましく思えました。晋の七賢([竹林の七賢])、漢の四皓([商山四皓])が住んだ商山、竹林の有様も、これにはかなわないように見えました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-09-01 07:17 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その42)

しやらむやうもおぼえで、母北の方に言ひ遣る。「かうかうの物どもせよとて、絹どもあめれど、いかがはし侍らむ。殿より侍る人々も若うのみありて、言ひ合はすべき人もなし。いと恋しく思えさせ給ふ、幼き人も見まほしく思え侍るを、忍びて渡り給へ」と言ひ遣りければ、北の方、少将を呼びて「かくなむ言ひたる。夜さり忍びて渡らむ。車しばし」とのたまへば、「忍びてと思すとも、人はまさに知らじや。また、旅立たるに、煌々きらきらしき持ち給へる、子引きさげてたらむ、いと見苦しからむ。失せにける妻の子たちとて、十ばかりなるを、帥は呼び出でて使ひ給ふめれば、いとあはれなめり。我が左の大臣おとどの上に申し給ひて、よかなりとのたまはば、渡り給へ」と言へば、北の方、いと洗はず思ひて、「あの殿の許しなくは、親子のおもても見で、下してむとするか」。ただひそみにひそみ給ひて、「何事も、この殿おはせむ限りは、え易くすまじかめり。我こそ人をば従へしか、人に従ふ身となりにたる、悲しきこと。また、我が言ふこと、同じ心にいらへたる子こそなけれ」とのたまへば、少将、例の、御腹立ち給ひぬと見て、「何しにかは。言ひ合はせ給ふ、便びんなければ、しか申し侍るに、かくさいなむなむ、いと苦しき」とて立ちぬ。うれしと夜昼喜べど、腹だに立ちぬれば、なほ、癖にて、かくなむありける。




どうしてよいのか分からないので、四の君は母である北の方に文を送りました。「帥殿が者たちの装束を用意せよと申して、絹などを与えてくださいましたが、どうすればよいのでしょう。左大臣殿から参った女房たちも若い者ばかりで、相談する相手もおりません。母上を恋しく思い、幼い我が子にも会いたいと思います、どうか忍んで訪ねて来てください」と送ると、北の方は、少将(故大納言の三男)を呼んで「四の君がこう言ってきました。夜に忍び訪ねたいのです。車をしばらく借りますよ」と申すと、少将は「忍んでと言いますが、帥殿に知れないはずはないでしょう。また、旅立つのに、目立つ子を、連れて大宰府に下るのは、よろしくありません。亡くなった妻の子で、十歳ばかりの者を、帥殿は呼んで使うようですので、四の君の子がかわいそうです。わたしがお仕えする左大臣殿の北の方(落窪の君)に申し上げ、よろしいとおっしゃったなら、訪ねなさい」と言うと、北の方は、納得できずに、「左大臣殿の北の方のお許しがなければ、娘の顔も見ないまま、大宰府に下るというのですか」と申しました。ただ口をとがらせて、「何事も、左大臣殿の北の方がいる限りは、簡単にはいかないというのですか。昔は人を従わせていたのに、今では人に従う身になってしまいました、ああ悲しい。また、わたしの言葉に、従う子さえいないとは」と申すと、少将は、北の方がいつものように、腹を立ててしまったと思って、「どうしてそのようなことを申します。相談する他に、四の君と会う方法がないから、そう言っただけのこと、なぜがみがみ申すのです、ああ情けない」と言って出て行きました。左大臣殿の北の方のお陰だと夜も昼もよろこんでいても、腹が立てば、やはり、癖が、出てしまうのでした。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-09-01 07:15 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その41)

権のかみも蔵人の大夫も、送りせむとて、暇、朝廷おはやけに申して、皆下る。そち、被け物どもし給へば、人々の装束にとて、絹二百ひき、染草ども、皆あづけ給ひたれば、四の君、叢々そうそうと並びて、取り触れむ方なし。




権守も蔵人大夫(帥殿の長男と次男)も、帥殿を見送ろうと、休暇を、朝廷に願い出て、皆見送りに行きました。帥殿は、贈り物として、者たちの装束にと、絹二百疋([一疋]=[二反])、染草([染料になる草])など、すべて与えたので、四の君は、山のような品々が並ぶのを見て、どうすればよいのかと思いました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-08-31 08:23 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その4)

その後滝口入道、同宿どうしゆくの僧に語りけるは、これもよにしづかにて、念仏の障礙しやうげさふらはねども、飽かで別れし女に、この住まひを見えてさふらへば、たとひ一度は心強くとも、またも慕ふことあらば、心も働き候ひなんず。いとま申す」とて、嵯峨をば出でて高野かうやへ上り、清浄しやうじやう心院しんゐんに行ひすましてぞたりける。横笛もやがて様を変へぬる由聞こえしかば、滝口入道、いつしゆの歌をぞ贈りける。

反るまでは 恨みしかども 梓弓 真の道に 入るぞうれしき

横笛が返事に、
反るとても なにか恨みむ 梓弓 ひきとどむべき 心ならねば




その後滝口入道が、同宿の僧に語るには、ここも静かな所で、念仏の妨げになることはありませんが、嫌いになって別れたわけでもない女が、この住まいを訪ねてきたので、たとえ一度はつれなくしても、また恋しく思うことがあれば、精神も統一できません。お別れしたく思います」と言って、嵯峨(今の京都市右京区)を出て高野(高野山。今の和歌山県伊都郡にあります)に上り、清浄心院(高野山にある寺院)で修行に励みました。横笛もやがて仏門に入ったと聞いたので、滝口入道は、一首の歌を贈りました。

梓弓ではないですが反る(髪を剃って仏門に入る)までは、さんざんわたしのことを恨みもしたことでしょう。あなたが恨みを忘れ、真の道([仏道])に入ったと聞いて、ありがたく思っています。

横笛の返事は、
梓弓が反ったからといって何を恨むことがありましょうか。わたしが髪を剃って仏門に入ったのは、あなたを引きとめることができなかったのはこのわたしだからなのです。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-08-31 08:18 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その3)

横笛この由を伝へ聞いて、我をこそ捨てめ、様をさへ変へけんことの恨めしさよ。たとひ世をば背くとも、などかはかくと知らせざらん。人こそ心強くとも、たづねて恨みんと思ひつつ、ある暮れ方に都を出でて、嵯峨の方へぞあくがれける。頃は如月きさらぎとを日余りのことなれば、梅津うめづの里の春風に、余所のにほひも懐かしく、大井川おほゐがはの月影も、かすみに籠めておぼろなり。一方ならぬあはれさも、誰故たれゆゑとこそ思ひけめ。往生院わうじやうゐんとは聞きつれども、定かにいづれのばうとも知らざれば、ここに安らひかしこにたたずみ、尋ねかぬるぞ無残なる。住み荒らしたる僧坊そうばうに、念誦ねんじゆこゑしけるを、滝口入道にふだうが声と聞き澄まして、「御様の変はりておはすらんをも、見もし見えまゐらせんがために、わらはこそこれまで参つてさぶらへ」と、具したるをんなに言はせければ、滝口入道、胸うち騒ぎ、浅ましさに、障子しやうじひまより覗きて見れば、裾は露、袖は涙にうちしをれつつ、少し面痩おもやせたるかほばせ、まことに尋ねかねたる有様、いかなる大道心者だいだうしんじやも、心弱うなりぬべし。滝口入道、人を出だいて、「まつたくこれにはさる人なし。もし門違かどたがへにてもやさふらふらん」と、言はせたりければ、横笛情けなう恨めしけれども、力及ばず、涙を抑へてかへりけり。




横笛は滝口が仏門に入ったと伝え聞いて、わたしを棄てて、僧になるとはなんと憎らしいこと。たとえ世に背くためとはいえ、どうして知らせてくれなかったのでしょうか。つれなくされても、捜し出して恨み事を言ってやろうと思って、ある日の暮れ方に都を出て、嵯峨の方へとふらふらと歩いていきました。頃は如月(二月)の十日過ぎのことでしたので、梅津の里(今の京都市右京区梅津)から吹く春風の、匂いも懐かしく、大井川(桂川。嵐山あたりらしい)に映る月影も、霞がたちこめてぼんやり見えました。ひとなみでないもの悲しさも、いったい誰のせいかと思いました。滝口が往生院に居ることは聞いていましたが、どの坊かまでは知らなかったので、往生院に静かにたたずんで、訪ねあぐねていましたが哀れなことでした。住み荒らした僧坊に、念誦の声がして、滝口入道の声と聞き澄まして、「僧になったあなたに、会いたくて、わたしはここまで訪ねてきたのです」と、供の女に伝えさせました、滝口入道は、落ち着かなくなって、いやしくも、障子の隙間から覗いて見れば、裾は露、袖は涙に濡れて萎れ、少し顔がやつれた表情で、何と声をかけてよいのかわからない有様でした、どんな大道心者([道心者]=[仏道に帰依した人])でも、気が弱くなるような姿でした。滝口入道は、人を出して、「本当にここにはそのような者はいません。もしや坊を間違えてはおりませんか」と、言わせました、横笛は情けなく恨めしく思いましたが、仕方なく、涙を抑えて帰っていきました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-08-30 19:17 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その40)

暮れぬれば、そちいましぬ。御供の人々に物被けさせ給ふ。あるじなどせさせ給ふ。


四日よりは、日けつつなむ出でける。物々しく清げに目安し。面白の駒と一つ口に言ふべきにあらず。帥の言ふ、「罷り下るべきほどいと近し。したたむべき事どもの、いと多かるを、人もなし、渡り給ひね。また、下らむと言はむ人召し集めて、や思ひし立て。日はただ十余日になむある」とのたまへば、女君、「遠かなる所に、頼もしき人々を置き奉りては、いかで」とのたまへば、帥「さは、一人罷り下れとや。ただかく一二日見給ひて止み給ひなむとや思しし」と、うち笑ひ給ふ様、いと安らかなり。女君を、帥、かたちはをかしげなめり、心いかがあらむと、飽かず思ひけれど、かかるやむごとなき人の、わざとし給へるに、今日明日下るべきに捨つべきにあらず、と思ひて、「諸心もろごころに何事もし給へ」とて、にはかに迎ふれば、「しうはあらぬ婿取り。いとう迎ふるは」と笑ひ給ひて、御送り、るべき人々、睦ましき、御前には指し給へり。車三つして渡り給ひぬ。殿よりありける御達ごたち「今は何しにか参らむ」など言ひければ、北の方「なほ参れ」と、強ひて遣り給ひつ。我添ひて歩き給へば、本の御達「いつしかとも代り居給ふかな」「御心いかならむ。君たちの御ため悪しう、いみじうものあるべきかな」「ただ今の時の人の御族とて、押し立ちてあらむかし」など、己がどち、言ひ合へり。初めの腹とて、太郎はごんかみ、次郎は蔵人より叙爵じよしやく賜はりてある、このごろ死にたる腹の女子十、ニつになる男子なむありける。これニ人をなむ、父かなしくすとは愚かなり。




夜が暮れて、帥殿が左大臣殿にやって来ました。大宰府に下る供の者たちに贈り物をしました。見送りの者たちには供宴を設けました。


結婚して四日目からは、帥殿は朝遅くになってから左大臣殿を出て行くようになりました。帥殿は威厳があり清らかで見た目よい人でした。面白の駒と同じように言うべきではありません。帥殿が四の君に言いました、「大宰府に下る日も近くなった。整理しておかねばならないことも、多く残っているが、人もない、わたしの殿に移ってほしい。また、大宰府に下ってもよいと言う者を集めて、あなたも早く準備するように。残り十日余りです」と申したので、四の君は、「遠い所に、頼りになる人々を残して、どうして下れましょう」と答えました、帥殿は「それは、わたし一人で大宰府に下れと言うことか。ただ一二日あなたを逢っただけで終わりにしようと思っているか」と、言って笑いましたが、とてもやさしい口調でした。四の君のことを、帥殿は、「顔かたちは美しいが、心はどうだろうかと、ずっと思っていたが、左大臣殿のようなりっぱな人が、世話する四の君と、今日明日にも下るからと言って別れるべきではない、と思って、「わたしに従ってほしい」と、急ぎ四の君を殿に迎えました、左大臣殿は「悪くない婿取りをしたな。こんなに早く迎えに来るとは」と笑って、見送りに、相応の者たち、四の君と親しい者たちを、先ず帥殿に遣りました。車三台で移りました。左大臣殿より四の君に仕えていた御達([宮中・貴族の家に仕える上級の女房たち])が「なぜ帥殿に移らなければならないのですか」と言うと、左大臣殿の北の方は「とにかく参りなさい」と、強く言って女房たちを帥殿に移しました。北の方が女房たちに付き添いましたが、女房たちは「お仕えする北の方が替わられるとは」「北の方の心はどうでしょう。帥殿のお子たちにはよいことではありません、悲しく思われているのでは」「今の時の人の親族だからと、威張っておられるかも」などと、仲間たちで、言い合っていました。帥殿の最初の妻の子に、太郎([長男])は権守、次郎([次男])は五位蔵人([叙爵]=[六位から従五位下に叙せられること])でした、この頃亡くなった妻には十歳の女の子、二つになる男の子がいました。この二人の子を帥殿はとてもかわいがっていました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-08-30 19:12 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その39)

そちは、この二十八日になむ、船に乗るべき日、取りたりければ、出で立ち、さらにいと近し。


かくて左の大臣おとどには、三日の夜のこと、今初めたるやうに設け給へり。「人は、ただかしづき労はるになむ、夫の心ざしも、かかるものをと、いとほしきこと添はりて思ひなる。細かにと口入れ給へ。ここにて事始めしたることなれば、愚かならむ、愛ほし」とのたまへば、女君、昔我を見はじめ給ひしこと、思ひ出でられて、「いかに思ほしけむ。阿漕あこきは、心憂き目は見聞かじと思ほえて。いかに、麻呂見初め給ひしり、始めて、やむごとなくのみ思ほし増さりけむ」とのたまへば、殿、いとよく微笑ほほゑみ、「さて、空言ぞ」とのたまひて、近う寄りて、「かの『落窪』と、言ひ立てられて、さいなまれ給ひし夜こそ、いみじき心ざしは、増さりしか。その夜、思ひ臥したりし本意の、皆叶ひたるかな。これが当に、いみじうちようじ伏せて、後には喜び惑ふばかり顧みばや、となむ思ひしかば、四の君のことも、かくするぞ。北の方は、うれしと思ひたりや。景純かげずみなどは思ひ知りためり」などのたまへば、女君「かしこにも、うれしとのたまふ時、多かめり」とのたまふ。




帥殿(四の君の夫)は、今月二十八日に、船に乗ることが、決まったので、旅立ちは、さらに近くなりました。


左大臣殿は、三日夜の餅([三日の餅]=[婚礼後三日目の夜に、妻の家で新郎・新婦に食べさせた祝いの儀式])を、四の君が初めて結婚するように盛大に準備しました。「妻が、夫をただただ大切にお世話すれば、夫(帥殿)の気持ちも、同じように、妻を愛しく思うものです。心細やかに尽くしなさい。この結婚はわたしが言い出したことだから、疎かにすることは、憚られるのだ」と申すと、北の方(落窪の君)は、昔わたしを初めて見た時のことを、思い出して、「わたしの時はどう思われましたか。阿漕は、わたしが悲しい目に遭わないようにしてくれました。なぜ、わたしを初めてご覧になった時より、ずっと、わたしのことを大切にしてくださったのでしょうか」と言うと、左大臣殿は、大きく笑って、「はじめは、冗談だった」と申して、北の方に近く寄って、「『落窪の君』と、言われて、北の方(故大納言の妻)に言い罵られていた夜に、あなたへの想いが、増さったのだ。その夜、あなたを思い添い寝してわたしの思いは、すべて叶った。そのせいで、あなたが北の方にいじめられたので、後には喜び惑うばかりのことをしてあげよう、と思ったのだ、四の君のことも、同じようにしようと。北の方(故大納言の妻)はうれしく思うだろうか。景純(故大納言の長男)などは分かっているようだが」と申すと、左大臣殿の北の方も「わたしにも、うれしいと、何度も申しております」と答えました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-08-29 20:15 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」横笛(その2)

滝口これに最愛す。父この由を伝へ聞いて、「世にあらん者の婿子むこごにもなし、出仕しゆつしなんどをも、心安うせさせんと思ひたれば、由なき者を思ひ染めて」など、あながちにいさめければ、滝口まうしけるは、「西王母せいわうぼといつし人も、昔はあつて今はなし。東方朔とうばうさくと聞きし者も、名をのみ聞きて目には見ず。老少不定らうせうふぢやうさかひは、ただ石火せきくわの光に異ならず。たとひ人長命ぢやうみやうと言へども、七十しちじふ八十はちじふをば過ぎず。その内に身の盛んなることは、わづかに二十余年なり。夢まぼろしの世の中に、醜きものを、片時も見てなにかせん。思はしきものを見んとすれば、父の命を背くに似たり。これ善知識ぜんぢしきなり。しかじ、憂き世をいとひ、まことの道に入りなん」とて、十九の年もとどり切つて、嵯峨の往生院わうじやうゐんに行ひすましてぞたりける。




滝口(斎藤時頼)は横笛を最愛しました。父はこれを伝え聞いて、「世に名を聞く者の婿でもなし、出仕というものは、安心だと思っていたが、まさか理由もない者に心を寄せるとは」などと、強く忠告すれば、滝口が申すには、「西王母([中国の古代神話上の女神。不老長寿だったらしい])という者も、昔はいたが今はいない。東方朔([前漢の文人。西王母の桃を盗んで食べ長寿を得たという])と聞く者も、名が残るだけでどこにもいない。老少不定([人の寿命に老若の定めのないこと])の境遇は、ただ石火([きわめてわずかの時間])の光でしょう。たとえ長寿と言ったところで、七十八十を超えることはありません。その内で勢いがあるのは、わずか二十年余りにすぎません。夢幻のはかない世の中で、醜いものを、たとえわずかでも見るのは無駄なこと。見たいと思うものを見ようとすれば、父の命令に背くようなものです。これは善知識([人を仏道へ導く機縁となるもの])です。いっそのこと、憂き世を避けて、真の道([仏道])に入ることにします」と言って、十九歳の年に髪を丸めて、嵯峨(今の京都市右京区)の往生院(今の京都市右京区嵯峨にかつてあった寺らしい)に入ってひたすら修行に励みました。


続く


[PR]
# by santalab | 2013-08-29 20:09 | 平家物語 | Comments(0)

    

Santa Lab's Blog
by santalab
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
カテゴリ
以前の記事
フォロー中のブログ
最新のコメント
返歌 草枕…に因んで短歌..
by 井上勇 at 23:54
ただおし出づるままに の..
by SiNa at 21:40
「義経記」の御紹介記事を..
by Magohati38 at 02:04
すばらしいサイト おかげ..
by johsei1129 at 23:54
青き花咲く大地 気高き..
by 北朝鮮の水爆に十神山も激怒 at 02:50
全然現代語訳できてない
by あ at 02:04
 その島根県(旧出雲国東..
by 民俗学者 at 23:34
うーん、松島からまた仙台..
by 五十嵐洋(秋田県大館市) at 00:51
「下野の室の八嶋にて待て..
by 八島 守 at 12:03
ひょんな事から、このブロ..
by yoshy at 18:50
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧