Santa Lab's Blog


「平家物語」首渡(その6)

三位中将も、通ふ心なれば、さても都には、いかにこころもとなう思ふらん。たとひ首どもの中にこそなくとも、矢に当たつても死に、みづに溺れて失せぬらん、今までこの世にあるものとは、よも思ひ給はじ。露の命の消えやらで、いまだ憂き世に永らへたるを、知らせ奉らんとて、使ひをいちにん仕立てて、上せられけるが、つの文をぞ書かれける。先づ北の方への御文には、「都にはかたき満ち満ちて、御身一つの置き所だにあらじに、をさなき者ども引き具して、いかに悲しうおはすらん。これへ迎へまゐらせて、一つ所にていかにもならばやとは思へども、我が身こそあらめ、御ためいたはしくて」なんど、細々と書いて、
奥には一首いつしゆの歌ぞありける。

いづくとも 知らぬあふ瀬の 藻塩草 かきおく跡を 形見ともみよ




三位中将(平維盛これもり)も、妻子の元に心を通わせて、きっと都では、心細く思っていることだろう。たとえ首の中にわたしがいないからといって、矢に当たって死んだかもしれない、水に溺れて亡くなったのかもしれないと、今まで生きていようとは、まさか思っていないだろう。露のようにはかない命をなんとか保って、まだ憂き世に生きていることを、妻子に知らせようと、使いを立てて、都に上らせましたが、三つの文を書いて持たせました。まず北の方(妻)への文には、「都には敵(源氏)が満ち満ちているので、身の置き処もないと思う、幼い子どもたちを連れて、どれほど悲しく思っていることだろうか。迎えを遣って、わたしと同じ所でどうにでもなればとも思うが、我が身はともかく、むしろ不憫に思うので」などと、いろいろと書いて、奥書には歌が一首ありました。

あなたとの逢瀬はいつどこでともわからない。藻塩草([藻塩を取るために使う海藻。海を掻くことから書くに掛る])のように海に漂うわが身なのだから。せめて書き置いたこの文を形見だと思ってほしい。


続く


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# by santalab | 2013-07-14 08:22 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その72)

広くおもしろき池の、鏡のやうなるに、龍頭、楽人ども船に乗りて遊びたるは、いみじうおもしろし。上達部、殿上人は、居余るまで多かり。右の大臣おはしたり。被け物なむ、数知らず入りたり。中宮よりも、大袿おほうちきかさね、中納言殿より被け物十襲、様々に奉り給へば、宮の御達、蔵人も、皆物見むとて、罷でぬ。中納言、たちまちに御心地も止みて、めでたし。日一日、遊び暮して、事果てて、夜更けて、罷で給ふに、物被け給はぬなし。やむごとなきには御贈物添へて、し給へり。右の大臣、中納言殿に、いと賢き馬二つ、世に名高き箏の琴、奉り給ふ。御前の人々に従ひて物被け給ふ。腰差えさせ給ふ。越前の守、「このことばかりは、我が思ふやうにせよ」とて、当て給ひてければ、いと目安くしたり。二三日ばかり、留め奉り給ひて、渡し奉り給ひける。女君、かくし給ふことを、いとうれしと思ひ聞こえ給ふ。大将、いと甲斐かひありて思す。




広くて趣のある、鏡のような池に、龍頭([竜の頭を前に付けた船])を浮かべ、楽人([雅楽を演奏する者])を船に乗せて遊ぶのは、とても楽しいものでした。上達部([公卿])、殿上人は、船に乗れないほど多く集まりました。右大臣(左大将の父)もやって来ました。被け物([贈り物])を、数知れず持って来ました。中宮(左大将の妹)からも、大袿([ゆき・丈などを大きく仕立てた贈り物用の袿])十襲、中納言殿よりも被け物十襲と、数多く持ち寄ったので、宮(后宮。左大将の妹)の御達([宮中・貴族の家に仕える上級の女房])、蔵人([天皇の警備などを勤めた役人])も、皆見物しようと、やって来ました。右大臣は、たちまちに具合がよくなって、楽しみました。一日、遊んで、宴が終わり、夜が更けると、皆帰って行きましたが、被け物を賜らない者はいませんでした。特に親しい人たちには贈り物を添えて、見送りました。左大将は右大臣と、中納言殿に、とてもりっぱな馬を二匹、名高い箏の琴([箏])を、贈りました。左大将はこの二人の御前に参って被け物を贈りました。左大将は二人の腰をささえさせました。越前守(中納言の長男)は、「今回は、わたしの思うままにせよ」と申して、役を仰せ付かりましたが、無事終えることができてよかったと思いました。左大将は二三日ほど、二人を二三日、殿に留めてから、見送りました。


続く


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# by santalab | 2013-07-14 08:14 | 落窪物語 | Comments(0)


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その4)

さてかの門下に仕へて、一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして、幼敏ともがらに過ぎたり。上人器骨をかがみ、意気を察して、「法機の者に侍り、早く浄教の秘蹟ひせきさづけらるべし」とて、十六歳の春、また聖達しようたつ上人の御許に、をくり遣はされ給ひけり。




智真(一遍上人)は華台上人の門下として仕え、一両年研精([細かに調べること])修学([学んで知識を得ること])しました。生まれつき聡明([物事の理解が早く賢いこと])で、幼さないながら理解は仲間たちに勝っていました。華台上人は体をかがめて智真を観察して、意気([意気込み])を感じ取り、「法機(仏法にとって大切なもの)の者である、早く浄教(浄土宗)の秘蹟(戒律)を授けなさいませ」と、智真が十六歳の春に、また聖達上人の許に、送り届けました。


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# by santalab | 2013-07-14 08:09 | 一遍聖絵 | Comments(0)


「義経記」牛若貴船詣の事(その2)

されども牛若かかる所のある由を聞き給ひ、昼は学問をし給ふていにもてなし、夜は日頃一所にてともかくもなりまゐらせんとまうしつる大衆だいしゆにも知らせずして、別当べつたうの御まぼりに参らせたる敷妙しきたへと言ふ腹巻に黄金作こがねづくりの太刀きて、ただ一人貴船きぶね明神みやうじんに参り給ひ、念誦ねんじゆまうさせ給ひけるは、「南無大慈大悲の明神、八幡はちまん大菩薩」とたなごころを合はせて、源氏をまぼらせ給へ。宿願しゆくぐわん誠に成就じやうじゆあらば、玉の御宝殿を造り、千町せんちやう所領しよりやうを寄進し奉らん」と祈誓して、正面しやうめんより未申ひつじさるに向かひて立ち給ふ。四方しはうの草木をば平家の一類と名付け、大木二本ありけるを一本をば清盛と名付け、太刀を抜きて、散々に切り、懐より毬杖ぎつちやうの玉のやうなる物を取り出だし、木の枝にかけて、一つをば重盛しげもりが首と名付け、一つをば清盛が首と懸けられける。かくて暁にもなれば、我が方にかへり、きぬ引きかづきて臥し給ふ。人これを知らず。




けれども牛若はそういう場所があることを聞いて、昼は学問をする振りをし、夜になると日頃は一所で死のうと話し合う大衆([僧])たちにも知らせずに、熊野別当を守るために持って来た敷妙(寝床に敷く布の意)と言う腹巻([簡素な鎧])に黄金作りの太刀([太刀の金具を金銅づくりにしたもの])を身に付け、ただ一人貴船明神に参り、祈り申すには、「南無大慈大悲の貴船明神、八幡大菩薩とともに、源氏をお守りください。宿願が成就しましたならば、玉の宝殿([寝殿])を造り、千町(300万坪)の所領([領地])を寄進いたしましょう」と祈誓して、正面より未申([南西])に向かって立ちました。四方の草木に平家一類([一族])の名を付けて、大木が二本ありましたので一本には清盛(平清盛)と名付け、太刀を抜いて、散々に切り、懐から毬杖の玉([木毬])のような物を取り出して、木の枝にかけて、一つは重盛(平重盛。清盛の嫡男)の首と名付け、一つは清盛の首と付けて括り付けました。こうして夜明け前になると、宿坊に帰り、衣を引きかぶって眠りました。他の者はこれを知りませんでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-14 08:04 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」牛若貴船詣の事(その1)

聖門しやうもんに逢ひて給ひて後は、学問の事は跡形なく忘れ果てて、明け暮れ謀反の事をのみぞ思し召しける。謀反起こす程ならば、早業をせでは叶ふまじ。先づ早業を習はんとて、このばう諸人しよじん寄合所よりあひどころなり。如何に叶ひ難きとて、鞍馬の奥に僧正そうじやうが谷と言ふ所あり。昔は如何なる人が崇め奉りけん、貴船きぶねの明神とて霊験殊勝しゆせうに渡らせ給ひければ、智恵ちゑある上人しやうにんも行ひ給ひけり。れいこゑも怠らず。神主もありけるが、御神楽の鼓の音も絶えず、あらたに渡らせ給ひしかども、世すゑにならば、仏の方便も神の験徳けんとくも劣らせ給ひて、人住み荒らし、偏へに天狗の住処すみかとなりて、夕日ゆふひ西にかたぶけば、物の怪おめき叫ぶ。さればまゐりよる人をも取り悩ますあひだ、参篭する人もなかりけり。




聖門坊(鎌田正近まさちか。天狗の面をかぶり鞍馬天狗に化けたのが正近だという説あり)に逢ってから後は、牛若は学問の事はすっかり忘れ果てて、明け暮れ謀反のことばかり思うようになりました。謀反を起こそうとすれば、早業([すばやく巧みな業])を習得しなければ叶わない。先ず早業を習おうと思っていましたが、牛若のいた僧坊は諸人の寄合所([集会所])となっていました。ここでは修行できないと、鞍馬山の奥に僧正が谷(鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷)と言う所がありました。昔はどのような者が崇めたのか、貴船明神と申す霊験特にあらたかな御堂がありましたので、智恵([真理を見極める認識力])のある上人([すぐれた僧])たちも修行していました。鈴の音が絶えることはありませんでした。神主もいましたので、御神楽の鼓の音も絶えず、霊験あらたかな場所でしたが、世末になって、仏の方便([教え導きによって、悟りに近づくこと])も神の験徳([加持祈祷(かじきとう)などによって霊験を得ること])も廃れて、人が住み荒らした後は、ただ天狗の住処となって、夕日が西に傾けば、物の怪が喚き叫ぶような場所になっていました。そして参る者を苦しめたので、参篭([祈願のため、神社や寺院などに、ある期間籠もること])する者もいませんでした。


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続く


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# by santalab | 2013-07-13 11:02 | 義経記 | Comments(0)


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その3)

上人あひ見て、「いづれの所の人、何のゆゑに来たれるぞ」、と問ひ給ふに、事の趣きくはしく答へ申されければ、 所の上人、「さては昔の同朋の弟子にこそ、往時いまだ忘れず、旧好いと睦まじ、さらばこの所に居住るべし」とて、名字を問ひ給ふに、随縁と申す由答へ申し給ふに、「随縁雑善恐難生と言ふ文あり、しかるべからず」とて、智真と改め給ひき。




華台けだい上人は随縁(一遍上人)に面会して、「どこの者だ、どうしてここに来たのだ」、と訊ねました、随縁が訳を詳しく答えると、華台上人は、「そうか昔の同朋([仲間])であった法然上人の弟子聖達しようたつ上人は、当時のことをいまだ忘れず、よしみと思っているのであろう、ならばここに居るがよい」と申して、名を訊ねました、随縁と申すと答えると、華台上人は「縁に従って雑善([念仏以外のさまざまな善根功徳を修めること])しても浄土に生まれることは難しい。という文がある(『法事讃』)、その名はよろしくない」と申して、智真と改めました。


続く


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# by santalab | 2013-07-13 08:37 | 一遍聖絵 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その71)

御杖の、

八十坂を 越えよと伐れる 枝なれば 突きてを上れ 位山にも

などなむありけり。




杖には、

八十やその坂を、越えてほしいと自ら刈った枝で作った杖です。どうかこの杖を突いて上ってください、一番高い位(太政大臣・左大臣)までも。

などと書かれていました。


続く


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# by santalab | 2013-07-13 08:25 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その5)

何としてかは離れさせ給ひてさふらひけるやらん、その中に備中びつちうかうの殿ばかりこそ、今度一の谷にて討たれさせ給ひて候へ』と語りまうし候ひしほどに、さて三位中将殿の御事は、いかにと問ひ候ひつれば、『それはいくさ以前より、大事の御労はりとて、讃岐の屋島へ渡らせ給ひて、この度は向かはせ給はず』と、申す者にこそ会うて候ひつれ」と、細々と語り申したりければ、北の方、「それもわれらがことを心苦しう思ひ給ひて、朝夕あさゆふ嘆かせ給ふが、やまふとなつたるにこそ。風の吹く日は、今日けふもや船に乗り給ふらんと肝を消し、戦と言ふ時は、ただ今もや討たれ給ひぬらんと心を尽くす。まして左様さやうの御労はりなんどをば、たれか心安うあつかひ奉るべき。それをくはしう聞かばや」とのたまへば、若君姫君も、「などなにの御労はりとは問はざりけるぞ」とのたまひけるこそあはれなれ。




どうして戦から離れたのでしょうか、その中で備中守殿(平師盛もろもり。維盛の異母弟)だけが、今度一の谷で討たれたのでしょうか』と北の方(妻)が聞くと、斎藤五は、三位中将殿(平維盛)は、どうなったかと訊ねると、『維盛殿は戦の前から、重い病気になって、讃岐の屋島(今の香川県高松市)に渡ったので、この度の戦には出陣していないそうです』と、詳しく話しました。北の方は、「それはわたしたちが心苦しく思って、朝夕嘆いていたので、維盛は病気になったのでしょう。風の吹く日は、今日にも船に乗って戦に出ていくのではないかと肝を潰し、戦があると聞けば、今にも討たれるのではないかと心の底から心配するのです。ましてやそのような重い病気になろうとは、いったい誰が安心するというのでしょうか。病気のことを詳しく聞きたいのです」と言えば、維盛の若君姫君も、「いったいどのような病気なのか聞きたい」と言ったので憐れに思ったのでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-13 08:22 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その4)

御兄弟ごきやうだいの御中には、備中びつちうかうの殿の御首ばかりこそ、見えさせ給ふらひつれ。そのほかは、そんぢやうその首、その御首」とまうしければ、北の方、「それも人のうへとは思えず」とて、ひきかづいてぞ臥し給ふ。ややあつて、斎藤五涙を抑へてまうしけるは、「この一両年いちりやうねんは隠れさふらひて、人にもいたう見知られ候はねば、今しばらく候ひて、見まゐらせたう存じ候ひつれども、世に案内くはしう知りたる者の申し候ひしは、『今度のかつせんに、小松殿の公達たちは、あはせ給はず。そのゆゑは、播磨と丹波のさかひなる、三草みくさの手を固めさせ給ひ候ひけるが、九郎義経に破られて、新三位ざんみ中将ちうじやう殿、同じき少将せうしやう殿、丹後たんご侍従じじう殿は、播磨の高砂より御船に召して、讃岐の屋島へ渡らせ給ひ候ひぬ。




維盛の兄弟の中では、備中守殿(平師盛もろもり。維盛の異母弟)の首が、掛けられていました。そのほかには、存じ上げる方の首、だれそれの首」と話したので、維盛の北の方(妻)は、「とても他人事とは思えません」と言って、着物を引きかぶって臥せってしまいました。少したって、斎藤五は涙を抑えて申すには、「この一年ほどはここに隠れ住んでいただいて、人にもまったく知られなくなれば、様子を見て、維盛殿を探しに行きたいと思いますが、世間の事情をよく知った者が言うには、『今度の合戦(一の谷)に、小松殿(維盛)の人たちは、遭遇していないとのことです。その訳は、播磨(今の兵庫県南西部)と丹波(今の京都府中部と兵庫県北東部あたり)の境にあります、三草山(今の兵庫県加東市にある山)を固めていたそうですが、九郎義経(源義経)に破られて、新三位中将殿(平資盛すけもり。維盛の同母弟)、同じく少将殿(平有盛ありもり。維盛の異母弟)、丹後侍従殿(平忠房ただふさ。維盛の異母弟)は、播磨の高砂(今の兵庫県高砂市)より船に乗って、讃岐の屋島(今の香川県高松市)に渡られたそうです。


続く


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# by santalab | 2013-07-12 07:20 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その70)

十二月、山に雪いと高く降れる家に、女ながめて居たり。

雪深く 積もりてのちは 山里に ふりはへて来る 人のなきかな




十二月、山に雪が高く積もり雪の降る家から、女が外を眺めています。

雪がこんなに深く、積もっているので、山里にわざわざ([振りへ])訪ねて来る人もいないでしょう。


続く


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# by santalab | 2013-07-12 07:11 | 落窪物語 | Comments(0)

    

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