Santa Lab's Blog


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その4)

さてかの門下に仕へて、一両年研精修学し給ふ。天性聡明にして、幼敏ともがらに過ぎたり。上人器骨をかがみ、意気を察して、「法機の者に侍り、早く浄教の秘蹟ひせきさづけらるべし」とて、十六歳の春、また聖達しようたつ上人の御許に、をくり遣はされ給ひけり。




智真(一遍上人)は華台上人の門下として仕え、一両年研精([細かに調べること])修学([学んで知識を得ること])しました。生まれつき聡明([物事の理解が早く賢いこと])で、幼さないながら理解は仲間たちに勝っていました。華台上人は体をかがめて智真を観察して、意気([意気込み])を感じ取り、「法機(仏法にとって大切なもの)の者である、早く浄教(浄土宗)の秘蹟(戒律)を授けなさいませ」と、智真が十六歳の春に、また聖達上人の許に、送り届けました。


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# by santalab | 2013-07-14 08:09 | 一遍聖絵 | Comments(0)


「義経記」牛若貴船詣の事(その2)

されども牛若かかる所のある由を聞き給ひ、昼は学問をし給ふていにもてなし、夜は日頃一所にてともかくもなりまゐらせんとまうしつる大衆だいしゆにも知らせずして、別当べつたうの御まぼりに参らせたる敷妙しきたへと言ふ腹巻に黄金作こがねづくりの太刀きて、ただ一人貴船きぶね明神みやうじんに参り給ひ、念誦ねんじゆまうさせ給ひけるは、「南無大慈大悲の明神、八幡はちまん大菩薩」とたなごころを合はせて、源氏をまぼらせ給へ。宿願しゆくぐわん誠に成就じやうじゆあらば、玉の御宝殿を造り、千町せんちやう所領しよりやうを寄進し奉らん」と祈誓して、正面しやうめんより未申ひつじさるに向かひて立ち給ふ。四方しはうの草木をば平家の一類と名付け、大木二本ありけるを一本をば清盛と名付け、太刀を抜きて、散々に切り、懐より毬杖ぎつちやうの玉のやうなる物を取り出だし、木の枝にかけて、一つをば重盛しげもりが首と名付け、一つをば清盛が首と懸けられける。かくて暁にもなれば、我が方にかへり、きぬ引きかづきて臥し給ふ。人これを知らず。




けれども牛若はそういう場所があることを聞いて、昼は学問をする振りをし、夜になると日頃は一所で死のうと話し合う大衆([僧])たちにも知らせずに、熊野別当を守るために持って来た敷妙(寝床に敷く布の意)と言う腹巻([簡素な鎧])に黄金作りの太刀([太刀の金具を金銅づくりにしたもの])を身に付け、ただ一人貴船明神に参り、祈り申すには、「南無大慈大悲の貴船明神、八幡大菩薩とともに、源氏をお守りください。宿願が成就しましたならば、玉の宝殿([寝殿])を造り、千町(300万坪)の所領([領地])を寄進いたしましょう」と祈誓して、正面より未申([南西])に向かって立ちました。四方の草木に平家一類([一族])の名を付けて、大木が二本ありましたので一本には清盛(平清盛)と名付け、太刀を抜いて、散々に切り、懐から毬杖の玉([木毬])のような物を取り出して、木の枝にかけて、一つは重盛(平重盛。清盛の嫡男)の首と名付け、一つは清盛の首と付けて括り付けました。こうして夜明け前になると、宿坊に帰り、衣を引きかぶって眠りました。他の者はこれを知りませんでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-14 08:04 | 義経記 | Comments(0)


「義経記」牛若貴船詣の事(その1)

聖門しやうもんに逢ひて給ひて後は、学問の事は跡形なく忘れ果てて、明け暮れ謀反の事をのみぞ思し召しける。謀反起こす程ならば、早業をせでは叶ふまじ。先づ早業を習はんとて、このばう諸人しよじん寄合所よりあひどころなり。如何に叶ひ難きとて、鞍馬の奥に僧正そうじやうが谷と言ふ所あり。昔は如何なる人が崇め奉りけん、貴船きぶねの明神とて霊験殊勝しゆせうに渡らせ給ひければ、智恵ちゑある上人しやうにんも行ひ給ひけり。れいこゑも怠らず。神主もありけるが、御神楽の鼓の音も絶えず、あらたに渡らせ給ひしかども、世すゑにならば、仏の方便も神の験徳けんとくも劣らせ給ひて、人住み荒らし、偏へに天狗の住処すみかとなりて、夕日ゆふひ西にかたぶけば、物の怪おめき叫ぶ。さればまゐりよる人をも取り悩ますあひだ、参篭する人もなかりけり。




聖門坊(鎌田正近まさちか。天狗の面をかぶり鞍馬天狗に化けたのが正近だという説あり)に逢ってから後は、牛若は学問の事はすっかり忘れ果てて、明け暮れ謀反のことばかり思うようになりました。謀反を起こそうとすれば、早業([すばやく巧みな業])を習得しなければ叶わない。先ず早業を習おうと思っていましたが、牛若のいた僧坊は諸人の寄合所([集会所])となっていました。ここでは修行できないと、鞍馬山の奥に僧正が谷(鞍馬山奥の院不動堂と貴船神社との間にある谷)と言う所がありました。昔はどのような者が崇めたのか、貴船明神と申す霊験特にあらたかな御堂がありましたので、智恵([真理を見極める認識力])のある上人([すぐれた僧])たちも修行していました。鈴の音が絶えることはありませんでした。神主もいましたので、御神楽の鼓の音も絶えず、霊験あらたかな場所でしたが、世末になって、仏の方便([教え導きによって、悟りに近づくこと])も神の験徳([加持祈祷(かじきとう)などによって霊験を得ること])も廃れて、人が住み荒らした後は、ただ天狗の住処となって、夕日が西に傾けば、物の怪が喚き叫ぶような場所になっていました。そして参る者を苦しめたので、参篭([祈願のため、神社や寺院などに、ある期間籠もること])する者もいませんでした。


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続く


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# by santalab | 2013-07-13 11:02 | 義経記 | Comments(0)


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その3)

上人あひ見て、「いづれの所の人、何のゆゑに来たれるぞ」、と問ひ給ふに、事の趣きくはしく答へ申されければ、 所の上人、「さては昔の同朋の弟子にこそ、往時いまだ忘れず、旧好いと睦まじ、さらばこの所に居住るべし」とて、名字を問ひ給ふに、随縁と申す由答へ申し給ふに、「随縁雑善恐難生と言ふ文あり、しかるべからず」とて、智真と改め給ひき。




華台けだい上人は随縁(一遍上人)に面会して、「どこの者だ、どうしてここに来たのだ」、と訊ねました、随縁が訳を詳しく答えると、華台上人は、「そうか昔の同朋([仲間])であった法然上人の弟子聖達しようたつ上人は、当時のことをいまだ忘れず、よしみと思っているのであろう、ならばここに居るがよい」と申して、名を訊ねました、随縁と申すと答えると、華台上人は「縁に従って雑善([念仏以外のさまざまな善根功徳を修めること])しても浄土に生まれることは難しい。という文がある(『法事讃』)、その名はよろしくない」と申して、智真と改めました。


続く


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# by santalab | 2013-07-13 08:37 | 一遍聖絵 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その71)

御杖の、

八十坂を 越えよと伐れる 枝なれば 突きてを上れ 位山にも

などなむありけり。




杖には、

八十やその坂を、越えてほしいと自ら刈った枝で作った杖です。どうかこの杖を突いて上ってください、一番高い位(太政大臣・左大臣)までも。

などと書かれていました。


続く


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# by santalab | 2013-07-13 08:25 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その5)

何としてかは離れさせ給ひてさふらひけるやらん、その中に備中びつちうかうの殿ばかりこそ、今度一の谷にて討たれさせ給ひて候へ』と語りまうし候ひしほどに、さて三位中将殿の御事は、いかにと問ひ候ひつれば、『それはいくさ以前より、大事の御労はりとて、讃岐の屋島へ渡らせ給ひて、この度は向かはせ給はず』と、申す者にこそ会うて候ひつれ」と、細々と語り申したりければ、北の方、「それもわれらがことを心苦しう思ひ給ひて、朝夕あさゆふ嘆かせ給ふが、やまふとなつたるにこそ。風の吹く日は、今日けふもや船に乗り給ふらんと肝を消し、戦と言ふ時は、ただ今もや討たれ給ひぬらんと心を尽くす。まして左様さやうの御労はりなんどをば、たれか心安うあつかひ奉るべき。それをくはしう聞かばや」とのたまへば、若君姫君も、「などなにの御労はりとは問はざりけるぞ」とのたまひけるこそあはれなれ。




どうして戦から離れたのでしょうか、その中で備中守殿(平師盛もろもり。維盛の異母弟)だけが、今度一の谷で討たれたのでしょうか』と北の方(妻)が聞くと、斎藤五は、三位中将殿(平維盛)は、どうなったかと訊ねると、『維盛殿は戦の前から、重い病気になって、讃岐の屋島(今の香川県高松市)に渡ったので、この度の戦には出陣していないそうです』と、詳しく話しました。北の方は、「それはわたしたちが心苦しく思って、朝夕嘆いていたので、維盛は病気になったのでしょう。風の吹く日は、今日にも船に乗って戦に出ていくのではないかと肝を潰し、戦があると聞けば、今にも討たれるのではないかと心の底から心配するのです。ましてやそのような重い病気になろうとは、いったい誰が安心するというのでしょうか。病気のことを詳しく聞きたいのです」と言えば、維盛の若君姫君も、「いったいどのような病気なのか聞きたい」と言ったので憐れに思ったのでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-13 08:22 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その4)

御兄弟ごきやうだいの御中には、備中びつちうかうの殿の御首ばかりこそ、見えさせ給ふらひつれ。そのほかは、そんぢやうその首、その御首」とまうしければ、北の方、「それも人のうへとは思えず」とて、ひきかづいてぞ臥し給ふ。ややあつて、斎藤五涙を抑へてまうしけるは、「この一両年いちりやうねんは隠れさふらひて、人にもいたう見知られ候はねば、今しばらく候ひて、見まゐらせたう存じ候ひつれども、世に案内くはしう知りたる者の申し候ひしは、『今度のかつせんに、小松殿の公達たちは、あはせ給はず。そのゆゑは、播磨と丹波のさかひなる、三草みくさの手を固めさせ給ひ候ひけるが、九郎義経に破られて、新三位ざんみ中将ちうじやう殿、同じき少将せうしやう殿、丹後たんご侍従じじう殿は、播磨の高砂より御船に召して、讃岐の屋島へ渡らせ給ひ候ひぬ。




維盛の兄弟の中では、備中守殿(平師盛もろもり。維盛の異母弟)の首が、掛けられていました。そのほかには、存じ上げる方の首、だれそれの首」と話したので、維盛の北の方(妻)は、「とても他人事とは思えません」と言って、着物を引きかぶって臥せってしまいました。少したって、斎藤五は涙を抑えて申すには、「この一年ほどはここに隠れ住んでいただいて、人にもまったく知られなくなれば、様子を見て、維盛殿を探しに行きたいと思いますが、世間の事情をよく知った者が言うには、『今度の合戦(一の谷)に、小松殿(維盛)の人たちは、遭遇していないとのことです。その訳は、播磨(今の兵庫県南西部)と丹波(今の京都府中部と兵庫県北東部あたり)の境にあります、三草山(今の兵庫県加東市にある山)を固めていたそうですが、九郎義経(源義経)に破られて、新三位中将殿(平資盛すけもり。維盛の同母弟)、同じく少将殿(平有盛ありもり。維盛の異母弟)、丹後侍従殿(平忠房ただふさ。維盛の異母弟)は、播磨の高砂(今の兵庫県高砂市)より船に乗って、讃岐の屋島(今の香川県高松市)に渡られたそうです。


続く


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# by santalab | 2013-07-12 07:20 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その70)

十二月、山に雪いと高く降れる家に、女ながめて居たり。

雪深く 積もりてのちは 山里に ふりはへて来る 人のなきかな




十二月、山に雪が高く積もり雪の降る家から、女が外を眺めています。

雪がこんなに深く、積もっているので、山里にわざわざ([振りへ])訪ねて来る人もいないでしょう。


続く


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# by santalab | 2013-07-12 07:11 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その69)

十一月、

  よろづよを経て 君に仕へむ




十一月、

万世までも、君(右大臣)に仕えましょう。


続く


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# by santalab | 2013-07-11 07:00 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その3)

今度平氏の首大路おほちを渡されざらんにおいては、自今じこん以後なんの勇みあつてか凶徒きようとを退けんや」と、しきりにうつたまうされければ、法皇ほふわう力及ばせ給はず、つひに渡されけり。見る人幾千万いくせんばんと言ふ数を知らず。帝闕ていけつに袖を連ねしいにしへは、怖ぢ恐るるともがらおほかりき。ちまたにかうべを渡さるる今は、またあはれみ悲しまずと言ふことなし。中にも大覚だいかく寺に隠れ給へる、小松の三位中将維盛これもりきやうの若君、六代御前につき奉りける斎藤五、斎藤六、あまりのおぼつかなさに、様をやつして見ければ、御首どもは、皆知り奉りたれども、三位中将殿の御首は見え給はず。されどもあまりの悲しさに、包むに堪へぬ涙のみ茂かりければ、余所の人目も恐ろしくて、急ぎ大覚寺へぞかへまゐりける。北の方、「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「人々の御首どもは、皆見知り奉たれども、三位中将殿の御首は、見えさせ給ひさふらはず。




今平氏の首を大路に渡されないのでしたら、今後どうして勇気を持って凶徒([悪行を働く者])を退治できましょうか」と、何度も訴えを申したので、後白河院も仕方ないと思って、平家の首を大路に渡されました。見る人多く数えることもできないほどでした。平家の者たちが宮中に袖を並べた昔は、平家をおびえ恐れる者も多かったのでした。世間に首を晒される今となっては、憐れみ悲しまれるのは言うまでもありませんでした。中でも大覚寺に隠れ住む、小松三位中将維盛卿(平維盛)の若君、六代御前に仕える斎藤五、斎藤六は、あまりに心配になって、姿を変えて見にいくと、首は、皆知った者でしたが、三位中将殿(維盛)の首はありませんでした。けれどもあまりにも悲しくて、袖に包めないほど涙があふれ出て、他人の目も不安になったので、急いで大覚寺へ帰ってきました。維盛の北の方(妻)は、「どうでしたか維盛はいましたか」と聞きました、斎藤たちは、「首は、皆知った者でしたが、維盛の首は、ありませんでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-11 06:56 | 平家物語 | Comments(0)

    

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