Santa Lab's Blog


「平家物語」戒文(その1)

三位中将、この由を聞き給ひて、さこそはあらんずれ、いかに一門の人々の悪う思はれけんと、後悔こうくわいせられけれども甲斐かひぞなき。げにも重衡一人いちにんしみて、さしもに我がてう重宝ちようほう三種さんじゆ神器しんきかへし給ふらんとも思えねば、この御請け文の趣きは、かねてより思ひまうけられたりしかども、今だ左右さうを申されざりつるほどは、何となう心もとなう思はれけるに、請け文すでに到来たうらいして、関東くわんとうへ下らるべきに定まりしかば、三位中将、都の名残りも、今さら惜しうや思はれけん、土肥とひ次郎じらう実平さねひらを召して、「出家せばやと思ふはいかに」とのたまへば、この由を九郎御曹司へまうす。ゐんの御所へ奏聞せられたりければ、法皇ほふわう、「頼朝に見せて後こそ、ともかうも計らはめ。ただ今はいかでか許すべき」とおほせければ、この由を中将殿に申す。「さらば年来契つたるひじりに、今一度対面して、後生ごしやうのことをも申し談ぜばやと思ふはいかに」とのたまへば、土肥の次郎、「聖をばたれと申しさふらふやらん」。「黒谷の法然房ほふねんばうと言ふ人なり」。「さては苦しう候ふまじ、う疾う」とて許し奉る。




三位中将(平重衡しげひら。清盛の五男)は、これを聞いて、そうなると思っていた、どれほど平家一門の者たちに悪く思われたことだろうかと、後悔しましたがどうすることもできませんでした。確かに重衡一人を大切に思って、我が朝の重宝である、三種の神器を返すはずもないと思っていたので、その請け文([請け書])の趣旨は、かねてより思っていたことでした、けれども返事が返ってこない内は、何となく不安に思っていましたが、請け文がすでに届けられ、関東に下ることに決まったので、三位中将(重衡)は、都の名残りを、今さらながら惜しんで、土肥次郎実平(土肥実平。源頼朝の家来)を呼んで、「出家したいと思うがどうか」と言うと、これを九郎御曹司(源義経。頼朝の弟)に伝えました。後白河院の御所を訪ねて奏聞すると、法皇(後白河院)は、「頼朝に会わせた後に、判断すればよいであろう。ただ今に出家を許すことはできない」とおっしゃったので、これを中将殿(重衡)に伝えました。重衡は「ならば年来縁のある聖([高僧])に、もう一度対面して、後生([来世])のことも申し置いておきたいのだが」と言うと、土肥次郎(実平)は、「聖とはいったい誰のことでしょうか」と訊ねました。重衡は「黒谷の法然房(法然。浄土宗の開祖)と言う者だ」と答えました。土肥実平は、「それなら差し障りありません、急いでお呼びください」と言って許しました。


続く


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# by santalab | 2013-08-03 07:15 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その18)

この券を、この越前の守、取りて立ちければ、北の方、返し奉るにやあらむと、いと怪しくて、「それは、など持て行く。さの賜へらむものを。持て来、持て来」と呼び返しければ、あな物狂ほし、大事の物を、おろかにも言ふかなと聞きけり。




結局この券([荘園・田地・邸宅などの所有を証明する手形])を、越前守(故大納言の長男)は、受け取って出て行きましたが、北の方は、越前守が再び返すのではないかと、とても心配になって、「券を、どうして持って行ったのですか。せっかくいただいたものなのに。わたしに渡して、こちらに持って来て」と越前守を呼んだので、母上は正気なのか、大事な物なのに、なんてことを言うものかと聞いていました。


続く


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# by santalab | 2013-08-03 07:09 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その17)

左衛門の佐「などかく悪しき親を持ち奉りけむ。いかで御心善うなるべからむと祈り事は、諸共に言ひ合はせて、大将殿へ聞こえ給ふ」。「かしこまりて承りぬ。ここにも、今は一人をなむ頼もしきものには思ふ聞こえさすべき。賜はせたる所々の券は、若き人々、昔人の御本意たがはむは、いかでかと、慎み侍るを、御心ざしの甲斐かひなきやうにやはとて、ここになむ賜はり留めつる。この殿の御事は、いと心ばへ深う奉らるめりし所を、あだに物せさせ給はば物しくや、亡き御影にも」、と、「いとほしく侍るを、券なほ置かせ給ひね」とて返し奉る。




左衛門佐(故大納言の三男)は越前守(故大納言の長男)に「どうしてあんなに心の悪い親を持ったのでしょうか。なんとかして心がよくなる祈り事をしていただけるよう、二人して、左大将殿(落窪の君の夫)にお願いしてみましょう」と言いました。越前守は左大将殿に「左大将殿のお気持ちをかしこまり承りました。わたしたちはもとより、母にも左大将殿を頼もしく思っていただきたいのですが。左大将殿よりいただいた所々の券([荘園・田地・邸宅などの所有を証明する手形])でございますが、若い者たちは、故大納言の本意に違えることは、できないと、いただくことを辞退し、故大納言の意思を無駄にすることにもなりますので、やはり左大将殿がお持ちくださいませ。また殿につきましても、故大納言が強く望んでいたことですので、左大将殿にお受け取りいただけなければ残念なことを、亡き御影([死んだ人の姿、または絵や肖像])にも報告しなければなりません」、と申しましたが、左大将殿は「わたしはあなたたちを大切に思っていますので、やはり券はあなたたちがお持ちなさい」と言って受け取りませんでした。


続く


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# by santalab | 2013-08-02 07:17 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」請文(その5)

なかんづく、かの頼朝は、去んぬる平治へいぢ元年十二月、父左馬さまかみ義朝よしともが謀反によつて、すでに誅罰ちうばつせらるべき由、しきりにおほせ下さるると言へども、故入道にふだう大相国たいしやうこく、慈悲の余り、まうなだめられしところなり。しかるに昔の厚恩を忘れて、芳意はういを存ぜず、たちまちに狼戻らうるゐの身をもつて、みだりに蜂起の乱を成す。時儀しぐのはなはだしきこと申して余りあり。早く神明の天罰を招き、ひそかに敗績はいせきの存滅をするものか。それ日月じつげつ一物いちもつのために、その明らかなることを暗うせず。名王めいわう一人いちにんがために、そのほふを曲げず。一悪をもつてその善を捨てず、小瑕せうかをもつてその功をおほふことなかれ。かつうは当家たうけ代の奉公、かつうは亡父ばうぶ数度すど忠節ちうせつ、思し召し忘れずは、君かたじけなくも四国の御幸ごかうあるべきか。時に臣ら院宣をうけたまはつて、再び旧都きうとかへつて、会稽くわいけいはぢを清めん。もししからずは、鬼界、高麗かうらい天竺てんぢく震旦しんだんに至るべし。悲しきかな、人皇にんわうじふ一代の御宇ぎように当たつて、我がてう神代の霊宝、つひにむなしく異国の宝となさんか。よろしくこれらの趣きをもつて、しかるべきやうに洩らし奏聞せしめ給へ。宗盛むねもり頓首とんじゆ、慎んで申す。寿永じゆえい三年ニ月にんぐわつじふ八日、じゆ一位いちゐさきの内大臣たひらの朝臣宗盛むねもりが請け文」とこそ書かれたれ。




申すまでもなく、かの頼朝(源頼朝)は、去る平治元年(1159)十二月、父である左馬頭義朝(源義朝)の謀反(平治の乱)によって、誅罰するようにと、しきりに仰せ下されましたが、故入道大相国(平清盛)が、慈悲の余り、死罪を止められるよう宥められたのです([罪などに対して寛大な処置をとること])。けれども昔の厚恩を忘れて、芳意([心づかい])もなく、たちまち狼戻([欲深く道理にもとること])の身をもって、無法に蜂起の乱を起こしました。時儀([礼儀])知らずにもほどがあります。たちまち神明([神])の天罰を受け、ひそかに敗績([大敗して今までの功績を失うこと])し存滅することを望むしかないのでしょうか。日月は一物([ほんの少しのもの])のために、その明るさを失うことはありません。名王([優れた王])もまた一人のために、法を曲げることはないのです。一悪により善を捨てることなく、小瑕([少しのあやまちや欠点])をもってその功を覆ってはなりません。当家(平家)数代に渡る奉公、亡父(平清盛)の数度の忠節を、お忘れでなければ、君(後白河院)が四国(屋島)に御幸になられるべきでしょう。叶うならばわたしたち家臣は院宣([上皇の命令])を賜り、再び旧都(京)に帰り、会稽の恥([敗戦の恥辱])を清めることにいたします。もし叶うことがなければ、我々は鬼界([九州の南西海上の諸島])、高麗(朝鮮)、天竺(インド)、震旦(中国)に行くほかありません。悲しいことです。人皇([初代神武天皇以後の天皇])八十一代の時代に当たり、我が国の神代の霊宝(三種の神器)が、終に異国の宝となってしまうのでしょうか。わたくしどもの意趣をよろしく計らわれて、しかるべく君(後白河院)に奏聞なされますよう。宗盛(平宗盛。清盛の三男)が頓首([中国の礼式で、頭を地面にすりつけるように拝礼すること])、慎んで申し上げます。寿永三年(1184)二月二十八日、従一位前内大臣平朝臣宗盛の請け文([上申書])」と書きました。


続く


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# by santalab | 2013-08-02 07:11 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」請文(その4)

ただしこれについてかれを案ずるに、通盛みちもりきやう以下当家たうけ数輩すはい摂州せつしう一の谷にてすでにちうせられはんぬ。なんぞ重衡一人いちにん寛宥くわんいうをよろこぶべきや。それ我が君は、故高倉のゐんの御ゆづりを受けさせ給ひて、御在位ざいゐすでに箇年、まつりごと尭舜げうしゆんの古風をとぶらふところに、東夷とうい北狄ほくてきたうを結び軍をなして入洛じゆらくあひだ、かつうは幼帝えうてい母后ぼこうの御嘆きもつとも深く、かつうは外戚ぐわいせき近臣きんしんいきどほり浅からざるによつて、しばらく九国にかうす。還幸くわんかうなからんにおいては、三種さんじゆ神器しんきいかでか玉体を放ち奉るべきや。それ臣は君をもつて心とし、君は臣をもつてたいとす。君安ければすなはち臣安く、臣安ければすなはち国安し。君かみに憂ふれば臣しもに楽しまず。心中しんぢうに憂へあれば、体外たいぐわいによろこびなし。曩祖なうそ平将軍へいしやうぐん貞盛さだもり相馬さうま小次郎こじらう将門まさかど追討つゐたうせしよりこの方、とう八箇国をしづめて、子々孫々ししそんぞんに伝へて、朝敵てうてき謀臣ぼうしん誅罰ちうばつして、代々世々だいだいせぜにいたるまで、朝家てうかの聖運をまぼり奉る。しかればすなはち故亡父ばうふ太政だいじやう大臣、保元平治両度りやうど逆乱げきらんの時、勅命ちよくめいを重んじてわたくしのめいかろんず。これひとへに君のためにして、まつたく身のためにせず。




あれこれ考えますと、通盛卿(平清盛の弟平教盛のりもりの嫡男)以下、当家(平家)数人が、摂津国一の谷(神戸市須磨区)ですでに誅せられました。なぜ重衡(平重衡。清盛の五男)一人の寛宥([寛大な気持ちで罪過を許すこと])をよろこぶべきでしょう。それに我が君(第八十一代安徳天皇)は、故高倉院(第八十代天皇。安徳天皇の父)から帝位を譲り受けられて、在位すでに四年、政治を尭舜([中国古代の伝説上の帝王、尭と舜])の古風([昔の風習])に倣っているところに、東夷([粗野な東国武士])北狄([北方の異民族])が、党を組み軍勢となって入洛したので、幼帝(安徳天皇)母后(安徳天皇の生母で清盛の娘徳子とくこ=建礼門院)の嘆きは深く、また外戚(天皇母方の親族=平家)近臣の怒りも浅からずして、しばらく九国([九州])に移られたのです。帝の還幸なしに、三種の神器([八咫鏡やたのかがみ天叢雲剣あまのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたま])をどうして玉体([天皇の体])から離さなくてはならないのでしょう。臣は忠心をもって仕え、君は臣をもって体をなすものです。君が安心であれば臣もまた安心し、臣が安心であればこそ国も安全なのです。君に憂うことあれば臣も心穏やかでなく、心に心配事があれば、よろこべないのと同じことです。曩祖([祖先])である平将軍貞盛(平貞盛)が、相馬小次郎将門(平将門)を追討してより、平家が東八箇国([相模・武蔵・安房あは上総かづさ下総しもふさ・常陸・上野かうづけ下野しもつけ])を平定して、子々孫々に伝え、朝敵謀臣を誅罰して、代々世々にいたるまで、朝家の聖運([天子の運命])をお守りしてきたのです。だからこそ故亡父太政大臣(平清盛)は、保元(保元の乱(1156))平治(平治の乱(1159))両度の逆乱の時、勅命を重んじて命を惜しまなかったのです。これすべて君(後白河院)のためであって、我が身のためにしたことではありません。


続く


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# by santalab | 2013-07-30 07:11 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その16)

「御返り、いかが聞こえむ」と言へば、「いさ、物言へば、ひごみたりと、かしがましう言へば、聞き苦し。よきこと知り、物の心知りたらむ人、推し量りて申せかし」と言へば、守「人のために申すにもあらず、御身のためのことなり。三、四の君、御前をも、『いかに仕うまつらむ』と大将殿ののたまへば、北の方の御心に従ひ給ふにこそ。一つ同胞はらからの御心だに、かくやはある」と咎めれば、「かくこの御方ののたまふこと。麻呂は、いかに。心憂し。我が得たらむ丹波の荘は、年に米一斗だに出で来べき侍らず。今一つは越中にて、たはやすく物もはかるべきにあらず。弁の殿の得給へるは、三百石の物出で来なり。かく遠くしきは、景純かげずみり、くれたるなり」と、いみじくさいなみけれど、誰も誰も、大殿おとどのし置き給ひしを皆見給ひて、「かくやはのたまふべき。ただこれにて思せ。隔てなく、片身に顧みるべき人だに、かかる心を持ち給へる」と言へば、北の方「あはかしがまし。いたくな言ひ沈めそ。誰も誰も皆貧しければ、言ふにこそあらめ」と言ふほどに、左衛門の佐の来会ひて、心にもあらず思え、「身貧しけれど、よき人は、方異に、あやどるに、をかしうぞある。先づ、北の方の、ここにおはせしほどは、聞い奉り給へしが、いささか、のたまへること聞こえざりかし。かく心苦しき御物言ひも、あはれに従ひて、『心やはらまなり』とこそは、みそかにのたまふめりしか」とのたまへば、北の方「いかで、我死なむ。憎き、しき者にのたまへば、罪もあらむ」とのたまふに、「あなかしこ。よしよし、聞こえさせじ」とて、二人ながら、掻い続きて立てば、さすがに、「やや、この御返事申せ」と招き給へば、聞き入れぬやうにて、往ぬ。




越前守(故大納言の長男)は北の方に「返事は、どうしましょう」と言うと、北の方は「どうかしら、何か申せば、僻み言だと、あれこれ言われます、聞きたくありません。正しいことを知って、人の心を分かる者が、適当な返事をすればよいでしょう」と答えました、越前守が「人のために申すのではありません、母上のためです。三、四の君、母上も、『できるばかりのことをしてさしあげましょう』と左大将殿が申してくれたのです、北の方(落窪の君)の意向を汲んでのことです。実の子でも、そんなことは申しません」と北の方を咎めれば、北の方は「そんなことを落窪の君が申すはずがありません。わたしが、どんなに、悲しんでいるかも知らないで。わたしがいただいた丹波荘なんて、一年に米一斗(十升=約18リットル)さえもできないのですよ。もう一つは越中で、田さえ簡単に作れない所だわ。弁殿(右中弁。中の君の夫)のいただいた所なんて、三百石(一石=約180リットル)の米が出来るのに。こんなに遠く出来の悪い所を、景純(越前守=故大納言の長男)が選んで、わたしにくれたのでしょうけど」と、越前守を責めました、誰かれも、大殿(故大納言)があらかじめ決めておいたことを知っていたので、越前守が「そんなことをおっしゃいますな。父上がお決めになったことです。離れることなく、父上にずっと寄り添ったあなたでさえ、そんな風に思っているとは」と言うと、北の方は「だまらっしゃい。わたしをそんなに責めないで。これも誰もかれもが皆貧しいからです、愚痴の一つくらい言いたくなるものですよ」と言っているうちに、左衛門佐(故大納言の三男)がやって来て、思ってもいないことを聞いて、「わたしは確かに貧しいけれど、心のきれいな人は、そんなことは言いませんよ、上品で、美しいものです。先ほど、大将殿の北の方(落窪の君)が、わたしの許に来たので、話をしましたが、まったく、不平など言っていませんでした。あなたの愚痴さえも、哀れに思って、『心穏やかであられますように』と、密かに申しているそうです」と言いました、北の方が「どうせ、わたしが死ねばいいと思っているに違いないんですから。わたしを憎み、心の悪い者と言う者には、ばちが当たることでしょう」と言うと、左衛門佐は「分かりましたよ。もうよしてください、わたしも何も申しませんから」と言って、二人(越前守と左衛門佐)とも、立ってしまいました、さすがに北の方も、「ちょっと待ちなさい、返事はどうするのですか」と呼び戻しましたが、二人は聞こえないふりで、出て行きました。


続く


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# by santalab | 2013-07-30 07:03 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻四(その15)

守、北の方、君たちに、「かうかうなむのたまへる」と言へば、北の方、この家は、いと惜しかりつるに、いとうれしくのたまへば、なほ、我はとらうじ代へらるると見ると思ふに、いとねたければ、「落窪の君の、かくし給ふか。いで、あはうれしのことや」と言ふに、越前の守、ただ腹立ちに腹立ちて、爪弾きをして、「うつし心にはおはせぬか。先々は、いとほしく恥をか見、ちようぜられ給ひし。引き返へて、かくねむごろに顧み給ふ御徳をだに、かつ見で、かくのたまふ。まして昔、いかなる様に。人聞きも、我が身も、物苦ほしや、落窪、何くぼとのたまふ」と言へば、北の方「何ばかりの徳か、我は見侍る。大殿おとどは父なれば、せしにこそあめれ。取りはづして落窪と言ひたらむ、何か僻みたらむ」と言へば、越前の守「あはれの御心や。物思ひ知り給はぬじぞかし。徳は見ずと。御心にこそ、差し当たりて、見ずと思すらめ、大夫、左衛門の佐になりたるは、誰がし給ふにか。景純かげずみはこの殿の家司けいしになりて加階せしは、誰がせしぞ。今にても見給へ。また、をのこも人々しくならむことは、ただこの御徳。先づは家も賜はぬに、この家領じ給はましかば、いづこに引き続きておはせまし。先づただ思し合はせよ。目の前なる事どもを見れば、うれしく哀れに思え給はずやある。景純らも、国を治めて、徳なきにしあらねど、妻を先づ思ふとて、え奉らず。今にてもえ奉るまじきは、子、心ざしの薄きぞかし。おのが生みたらむ子どもだに、かく愚かにて、仕うまつらぬ。御身は、かく哀れなる御心ばへを、泣く泣くこそ喜び聞こえ給はめ」と、とにかくに言ひ知らすれば、げにと思ひて、いらへせず。




越前守(故大納言の長男)は、北の方、君(故大納言の娘)たちに、「左大将殿がこのように申しました」と言うと、北の方は、この家を手放すことを、とても惜しんでいたので、うれしい知らせと、今まで通り、北の方の持ち物のままだと思うと同時に、落窪の君をとても妬ましく思って、「落窪の君が、そう口添えでもしたかえ。まぁ、うれしいことには違いないけれども」と嫌味言を申したので、越前守は、ただただ腹立ちするばかり、爪弾き([嫌悪・軽蔑・非難などの気持ちを表すしぐさ])をして、「心を入れかえるお気持ちはないのですか。この前、まことにはずかしい恥をかき、懲りたはずです。あなたに比べて、これほどまでに親切にしようとする落窪の君の徳([人徳])さえも、分かろうとせずに、そんなことを申すとは。ましてや昔、落窪の君にどんな仕打ちをして来たのですか。人聞きも、そして我が身さえも、心苦しくなります。落窪、何くぼと申していたでしょう」と言うと、北の方は「そんなものが何の徳になると言うんです、わたしには分かっているのよ、大殿(故大納言)は落窪の君の父なんですから家を与えたんです、けれどわたしだってできることはやって来たつもりです。出来の悪い子だったから落窪と言ったまでのこと、何を嫌味たらしく」と答えたので、越前守は「なんと哀れな心を持っているのですか。何も理解されないのですね。徳も分からないとは。あなたには、きっと、分からないと思いますが、(故大納言の三男が)大夫、左衛門佐([左衛門府の次官])になれたのは、誰のおかげだと思っているのですか。わたし景純(越前守)を左大将殿の家司([親王家・内親王家・摂関家および三位以上の家に置かれ、家政をつかさどった職])となって加階([位階を上げること])させたのは、誰ですか。今の有様を見てください。そうです、息子たちが人としてあるのは、ただ左大将殿の徳によるものではありませんか。あなたは家も持っていないのに、この家を左大将殿が持たれたら、いったいどこに住むというのですか。とにかく左大将殿と落窪の君に感謝なさいませ。目の前の物事を見れば、うれしくありがたいことと思わずにいられないでしょう。わたし景純たちも、国を治めていますから、決して徳がないわけではありませんが、妻を思うと、母上に財産を差し上げることはできません。今も差し上げることができないのは、子として、親を思う気持ちが薄いからです。あなたが生んだ子でさえも、愚かにも、十分にしてあげられません。母上、落窪の君のありがたい気持ちを、泣いてよろこび申し上げてください」と、あれこれと言うのも、当然のことと思って、北の方は返事もしませんでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-29 07:13 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」請文(その3)

再び物を思はせぬ先に、ただ我を失へや」とて、をめき叫び給へば、まことにさこそはといたはしくて、皆伏し目にぞなられける。新ぢう納言知盛とももりきやうの意見にまうされけるは、「さしもに我がてう重宝ちようほう三種さんじゆ神器しんきを都へかえし入れ奉たりとも、重衡しげひら返し給はらんことあり難し。ただそのやうを恐れなく、御請け文にまうさせ給ふべうもやさふらふらん」と申されければ、この儀もつともしかるべしとて、大臣殿御請け文を申さる。二位にゐ殿は涙に暮れて、筆の立てども思え給はねども、心ざしをしるべに、泣く泣く御返り事書き給へり。北の方大納言のすけ殿は、とかうのことをものたまはず、引きかづいてぞ伏し給ふ。その後平大納言時忠ときただきやう、院宣のお使ひ、御壺の召し次ぎ花形はなかたを召して、「なんぢ法皇ほふわうのお使ひとして、大波路おほなみぢしのいで、はるばるとこれまで下つたるしるしに、汝一期があひだの思ひ出一つあるべし」とて、花形がつらに、波形なみかたと言ふ焼い印をぞせられける。都へ返り上つたりければ、法皇ほふわう叡覧あつて、「汝は花形か」。「さんざふらふ」。「よしよし、さらば波形とも召せかし」とて、笑はせおはします。その後請け文をぞ開かれける。「今月こんぐわつ十四じふし日の院宣、同じき二十八日、讃岐国屋島の磯に到来たうらい、慎んでもつてうけたまはるところくだんの如し。




再び悲しい思いをする前に、どうかわたしを殺してください」と言って、泣き叫びました、とても気の毒になって、皆目を伏せてしまいました。新中納言知盛卿(平知盛。清盛の四男)が意見を言うには、「もし我が国の大切な宝である、三種の神器を都へ返したところで、重衡(平重衡。清盛の五男)を返してくれることはないでしょう。頼朝(源頼朝)がどういうつもりでいるのか、請け文([承諾したことを書いた文書])に書いてみればどうでしょうか」と言ったので、もっともなことだと、大臣殿(平むねもり。清盛の三男)が請け文を口述しました。二位殿(清盛の継室平時子ときこ)は涙に暮れて、筆を起こすこともままなりませんでしたが、重衡への思いを筆に託して、泣きながら返事を書きました。重衡の北の方大納言佐殿は、何もいえずに、着物を引き被いて伏していました。その後大納言時忠卿(平時忠。二位殿=時子の兄)は、院宣の使いである、御壺の召し次ぎ([院の庁で、雑事を務めた下級役人])花形を呼んで、「お主は法皇(後白河院)の使いとして、大波路を、はるばるとここまで下った印として、お主の一生の思い出となるようなものを与えよう」と言って、花形の顔に、波形という焼き印を付けました。花形が都に戻ると、後白河院がご覧になって、「お主は花形か」。「そうでございます」。「そうか、ならば波形を見せてみよ」と言って、笑われました。その後請け文を開きました。「今月十四日の院宣、同じ二十八日に、讃岐国屋島(今の香川県高松市)に到着、慎んで以下の通り承りました。


続く


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# by santalab | 2013-07-29 07:11 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」禿髪

かくて清盛公、仁安にんあん三年十一月十一日、歳五十一ごじふいちにて病ひにをかされ、存命の為にとて、すなはち出家しゆつけ入道にふだうす。法名ほふみやうをば淨海じやうかいとこそ付き給へ。その故にや、宿病しゆくびやうたちどころに癒えて天命をまつたうす。出家の後も、栄耀えいえうはなほ尽きずとぞ見えし。おのづから殿従ひ付き奉ることは、吹く風の草木をなびかすごとく、世のあふげることも、降る雨の国土をうるほすに同じ。六波羅殿の御一家いつけの君達とだに言へば、華族くわそくも英雄も、たれ肩を並べ、おもてを向かふ者なし。また入道にふだう相国しやうこく小舅こじうとへい大納言時忠ときただきやうののたまひけるは、「この一門にあらざらん者は、皆人非人にんぴにんたるべし」とぞのたまひける。さればいかなる人も、この一門に結ぼれんとぞしける。烏帽子ゑぼしのためやうより始めて、衣文えもんの掛き様にいたるまで、何事も六波羅様とだに言ひてしかば、一天いつてん四海しかいの人皆これを学ぶ。いかなる賢王けんわう賢主けんしゆの御まつりごと摂政せつしやうくわんばくの御成敗にも、世にあまされたるほどのいたづら者などの、かたはらに寄り合ひて、何となそりかたぶけ申すことは常の習ひなれども、この禅門世ざかりのほどは、いささかゆるがせに申す者なし。その故は入道相国のはかり事に、十四五六じふしごろくの童を三百人過ぐつて、髪を禿髪かぶろに切りまはし、あか直垂ひたたれを着せて、召し使はれけるが、京中きゃうぢうに満ち満ちて往返わうばんしけり。自づから平家の御事、悪し様に申す者あれば、一人いちにん聞き出ださぬほどこそありけれ、余党よたうに触れまはし、かのいへ乱入らんにふし、資財雑具ざふぐ追捕つゐふくし、その奴をからめて、六波羅殿へまゐる。されば目に見、心に知ると言へども、言葉に表はしてまうす者なし。六波羅殿の禿髪とだに言へば、道を過ぐる馬車むまくるまも、皆よぎてぞとほしける。禁門を出入しゆつにふすと言へども、姓名しやうみやうたづねらるるに及ばず。京師けいし長吏ちやうり、これがために目をそばむと見えたり。




こうして清盛公(平清盛)は、仁安三年(1168)十一月十一日(史実では二月十一日、誤写か?)、五十一歳ので病に冒され、生き長らえるために、すぐに出家し仏門に入りました。法名は淨海と名付けられました。それが功を奏したのでしょうか、病気はたちまち治って寿命を果たしました。出家の後も、栄華はなお尽きていないようでした。自然と天皇に従事することは、吹く風が草木をなびかせるのと同じように、世の者たちからうやまわれるのも、降る雨が国土をうるおすのと同じく当然のことでした。六波羅殿(平清盛のこと、京都六波羅、今の京都市東山区に平家の大殿があったらしい)一家の子息と言えば、華族(清華家、公家)も英雄(清華家と同じ)も、誰一人対等に張り合い、立ち向かえる者はいませんでした。また入道相国(清盛のこと、[相国]=[太政大臣])の義兄弟である平大納言時忠卿(平時忠、清盛の正室、時子の弟)が言うには、「清盛一門でない者は、皆人非人(人でなし)である」と言っておりました。そんな訳でどんな人も、この一門と関係を持とうとしました。烏帽子(公家のイメージが強いが、室町時代以降のことらしい。それまでは公家でなくとも被っていたそうな。先が折れ曲った黒い帽子)の折れ様から始めて、着物の着方にいたるまで、どんなことでも六波羅の様だと言っては、一天四海(日本中)の者たちは真似をしました。どのような賢王(賢明な君主)、賢主(賢王に同じ)が政治を行おうとも、摂政関白が法を定めようとも、世の者たちがが持て余すほどのいたずら者(何の役にも立たない者)などが、道脇とかに集まって、何かに文句をつけたり人を悪く言って非難するのが世の常であるけれども、この禅門(清盛のこと)が全盛であれば、多少なりとも一門のことをぞんざいに言う者はありませんでした。その訳は入道相国(清盛)の計略にありました、十四五六歳の童を三百人以上集めて、髪を禿(髪を短く切り揃えた子どもの髪型、おかっぱ)に切って、赤色の直垂(庶民が着る平服)を着せて、使用人としましたが、童たちが京中に満ち溢れて行ったり来たりしました。平家のことを、悪く言う者があれば、誰一人聞く者がいなければともかくもそうでなければ、残りの童たちに触れまわって、その者の家に押し入っては、財産やいろいろな道具を奪い取り、その奴を縄で縛って、六波羅殿(清盛の御殿)へ引き連れて行きました。その様子を見たり、知ったりすれば、言葉に出して平家の悪口を言う者はいなくなりました。「六波羅殿の禿髪」と言っただけで、道を往来する馬車も、皆道を避けて通してくれました。禁門(皇居)に出入りしても、名前をたずねられることもありません。京師(京)の長吏(役人)さえも、「六波羅殿の禿髪」から目をそらせました。


続く


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# by santalab | 2013-07-28 19:55 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」請文(その2)

かつうは頼朝がかへり聞かんずるところも、言ふ甲斐かひなうさふらふ。そのうへ帝王ていわう御世おんよを保たせ給ふ御事も、ひとへにこの内侍所ないしどころの渡らせ給ふ御ゆゑなり。さて世の子ども、親しき人々をば、中将ちうじやう一人いちにんに思し召しかへさせ給ふべきか。この悲しいと言ふことも、事にこそより候へ。努々ゆめゆめ叶ひ候ふまじ」とのたまへば、二位にゐ殿、よにも本意ほいなげにて、重ねてのたまひけるは、「我故入道にふだう相国しやうこくに遅れて後は、一日片時へんし命生きて、世にあるべしとは思はざりしかども、主上しゆしやうのいつとなく、西海の波のうへに、漂はせ給ふ御心苦しさ、再び世にあらせ奉らんがために、憂きながら今日けふまでも永らへたれ。中将一の谷にて、生捕りにせられぬと聞きし後は、いとど胸堰きて、湯水ゆみづも喉へ入れられず。中将この世になきものと聞かば、我も同じ道に赴かんと思ふなり。




また三種の神器を返したところで頼朝が重衡しげひら(平重衡。清盛の五男)の願いを、叶えるとはとても思えません。その上、帝王(安徳天皇)が世を治められるのも、ひとえにこの内侍所([八咫鏡やたのかがみ])があってのことなのです。世の子ども、親しい者たちを、中将(重衡)一人と引き換えにすべきでしょうか。冷たいことを言うようですが、そういう訳なのです。よもや叶えられるものではないでしょう」と言えば、二位殿(清盛の継室平時子ときこ。重衡の生母)は、少しも納得できなくて、重ねていうには、「わたしは故入道相国(平清盛)と死に別れて後は、一日片時も命を生きて、世にあるべきとも思いませんでしたが、主上(安徳天皇)がいつまでも、西海の波の上に、漂っておられるのが心苦しく、再び世を治められますようにと、悲しみながらも今日まで命を永らえてきたのです。重衡が一の谷で、生捕りにされたと聞いた後は、いっそう胸が苦しくて、湯水さえ喉を通りません。もし重衡がこの世からいなくなったと聞いたなら、わたしも同じ道に赴きたいと思っているのです。


続く


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# by santalab | 2013-07-28 08:01 | 平家物語 | Comments(0)

    

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