Santa Lab's Blog


「落窪物語」巻三(その67)

九月、白菊多く咲きたる家を見る。

時ならぬ 雪とや人の 思ふらむ まがきに咲ける 白菊の花




九月、白菊がたくさん咲いている家を見ています。

季節外れの、雪と、見間違うほどに、まがき([竹や柴などで目を粗く編んだ垣根])に咲いた、白菊の花です。


続く


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# by santalab | 2013-07-09 07:14 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その1)

寿永じゆえい三年二月七日、摂津国一の谷にて討たれ給ひし平氏の首ども、十二じふに日に都へ入る。平家に結ぼれたりし人々は、今度我が方様に、いかなる憂きことをか聞き、いかなる憂き目をか、見んずらんと、嘆き合ひ悲しみ合はれけり。中にも大覚だいかく寺に隠れ給へる小松の三位中将維盛これもりきやうの北の方は、いとどおぼつかなう思はれけるに、今度一の谷にて、一門の人々残り少なに討ちなされ、今は三位中将と言ふ公卿くぎやう一人いちにん、生捕りにせられて上るなりと聞き給ひて、この人離れ給はじ者をとて、もだえ焦がれ給ひけり。ある女房にようばうの大覚寺にまゐつてまうしけるは、「三位中将殿とは、これの御事にてはさぶらはず、本三位中将殿の御事なり」と申しければ、さては首どもの中にこそあるらめとて、なほ心安うも思ひ給はず。同じき十三じふさん日、大夫たいふの判官仲頼なかより以下いげ検非違使けんびゐしども、六条ろくでう河原かはらに出で向かつて、平氏の首ども受け取り、ひんがし洞院とうゐんを北へ渡いて、獄門の木に掛けらるべき由、範頼のりより義経奏聞す。




寿永三年(1184)二月七日に、摂津国一の谷(今の兵庫県神戸市須磨区)にて討たれた平氏の首が、十二日に都へ着きました。平家に縁のある者たちは、今度は平家の者たちの、どんな心苦しいことを聞き、どのような悲しい目を、見たのだろうと、嘆き合い悲しみ合いました。中でも大覚寺(今の京都市右京区にある寺)に隠れている小松三位中将維盛卿(平維盛。清盛の嫡孫)の北の方(妻)は、さらに不安に思っていましたが、今度一の谷で、平家一門の者たちは残り少なくなるほど討ち捕られて、今度三位中将の公卿が一人、生捕りになって京に上ってくると聞いて、この人はわたしの夫(小松三位中将維盛)に違いないと思って、思いわずらわないではいられませんでした。ある女房が大覚寺に参って北の方に申すには、「三位中将殿というのは、あなたの夫ののことではありませんでした、本三身中将殿(平重衡しげひら。清盛の五男)ということです」と話しました、維盛の北の方は、ならば首の中に夫はいるのでしょうかと、やはり不安なままでした。同じ十三日、大夫判官仲頼以下の検非違使たちが、六条河原に出かけて、平氏の首を受け取り、東洞院通り(南北の通り。今、北は丸太町通から南は京都駅まで)を北に進んで、獄門の木に首をかけるよう、範頼(源範頼。頼朝の異母弟、義経の異母兄)義経(源義経。頼朝の異母弟)が後白河院に奏上しました。


続く


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# by santalab | 2013-07-09 07:00 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」小宰相身投(その11)

胸の内の思ひは、富士のけぶりに現はれ、袖のうへの涙は、清見関きよみがせきの波なれや。見目はさいはひの花なれば、三位さんみこの女房にようばうを賜はつて、互ひの心ざし浅からず。されば西海の波の上、船の内までも引き具して、つひに同じ道へぞ赴かれける。門脇の中納言ちうなごんは、嫡子越前の三位、末子ばつし業盛なりもりにも遅れ給ひぬ。今頼み給へる人とては、能登のかみ教経のりつね、僧には中納言の律師忠快ちうくわいばかりなり。故三位殿の形見とも、この女房をこそ見給ふべきに、それさへかやうになり給へば、いとど心細うぞなられける。




胸の内の思いは、富士の煙となって現れましょう(「思ひ」の「ひ」=「火」を掛ける)、袖の上の涙は、清見関(今の静岡県静岡市にあった関)の波となりなさい。見目は幸ひの花([女性にとって容貌が美しいことは、幸福をもたらす元であるということ])と言いますが、三位(通盛、平清盛の異母弟教盛のりもりの嫡男)にこの女房が仕えて、小宰相と女房の相手を思う気持ちは決して浅いものではありませんでした。そうであれば西海の波の上、船の内までも連れて、ついに同じ道へ旅立って行きました。門脇中納言(教盛。平清盛の異母弟)は、嫡子越前三位(通盛、教盛の嫡男)、末子業盛(教盛の三男で末子)にも先立たれました。今教盛が頼れる者は、能登守教経(教盛の次男)、中納言の律師([僧正、僧都に次ぐ僧官])忠快(教盛の子)だけになってしまいました。故三位殿(通盛)の形見にも、この女房がなるべきでしたが、それさえもこのように海に沈んでしまったので、教盛はいっそう心細くなりました。


続く


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# by santalab | 2013-07-08 07:15 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その66)

八月、嵯峨野に所の衆ども前栽せんざい堀りに、

うちむれて 掘るに嵯峨野の をみなへし 露も心を 置かで引かれよ




八月、嵯峨野(京都市右京区)の者たちが前栽([草木を植え込んだ庭])に咲いた女郎花を摘んでいます、

皆揃って、嵯峨野の女郎花を、摘んでいます。露さえ女郎花に、心引かれているようです。


続く


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# by santalab | 2013-07-08 07:09 | 落窪物語 | Comments(0)


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その2)

上人学問のためならば、浄土の章疏文字を読みをして来たるべき由、示し給ふによりて、独り出でて肥前国清水の華台けだい上人の御許にまうで給ひき。




聖達しようたつ上人は学問をしたいのであれば、浄土の章疏([仏典の注釈書])に書かれた文字を読んでから来なさいと、示し申されたので、随縁(一遍上人)は独り禅室を出て肥前国の清水寺(現福岡県鞍手郡若宮町にある寺)の華台上人の許を訪ねました。


続く


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# by santalab | 2013-07-08 07:05 | 一遍聖絵 | Comments(0)


一遍聖絵

第一
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# by santalab | 2013-07-07 12:26 | 一遍聖絵 | Comments(0)


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その1)

一遍ひじりは、俗姓は越智氏、河野四郎通信みちのぶが孫、同じく七郎通広みちひろが子なり。延応えんおう元年予州にして誕生。十歳にて悲母にをくれて、始めて無常の理を悟り給ひぬ。つゐに父の命を受け、出家を遂げて、法名は随縁と申しけるが、建長けんちやう三年の春十三歳にて、僧善入とあひ具して鎮西に修行し、大宰府の聖達しようたつ上人の禅室に臨み給ふ。




一遍上人は、俗名を越智氏と申し、河野四郎通信の孫に当たり、同じく七郎通広(河野通広=別府通広)の子でした。延応元年(1239)に予州(伊予国。現愛媛県)で誕生しました。十歳で悲母([慈悲深い母])に先立たれ、はじめて無常の理を悟りました。父(河野通広)の命を受け、出家を遂げて、法名随縁を名乗りましたが、建長三年(1251)の春十三歳で、僧善入とともに鎮西で修行し、大宰府の聖達上人(法然上人の孫弟子)の禅室に参りました。


続く


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# by santalab | 2013-07-07 12:24 | 一遍聖絵 | Comments(0)

    

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