Santa Lab's Blog


「落窪物語」巻三(その69)

十一月、

  よろづよを経て 君に仕へむ




十一月、

万世までも、君(右大臣)に仕えましょう。


続く


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# by santalab | 2013-07-11 07:00 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その3)

今度平氏の首大路おほちを渡されざらんにおいては、自今じこん以後なんの勇みあつてか凶徒きようとを退けんや」と、しきりにうつたまうされければ、法皇ほふわう力及ばせ給はず、つひに渡されけり。見る人幾千万いくせんばんと言ふ数を知らず。帝闕ていけつに袖を連ねしいにしへは、怖ぢ恐るるともがらおほかりき。ちまたにかうべを渡さるる今は、またあはれみ悲しまずと言ふことなし。中にも大覚だいかく寺に隠れ給へる、小松の三位中将維盛これもりきやうの若君、六代御前につき奉りける斎藤五、斎藤六、あまりのおぼつかなさに、様をやつして見ければ、御首どもは、皆知り奉りたれども、三位中将殿の御首は見え給はず。されどもあまりの悲しさに、包むに堪へぬ涙のみ茂かりければ、余所の人目も恐ろしくて、急ぎ大覚寺へぞかへまゐりける。北の方、「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「人々の御首どもは、皆見知り奉たれども、三位中将殿の御首は、見えさせ給ひさふらはず。




今平氏の首を大路に渡されないのでしたら、今後どうして勇気を持って凶徒([悪行を働く者])を退治できましょうか」と、何度も訴えを申したので、後白河院も仕方ないと思って、平家の首を大路に渡されました。見る人多く数えることもできないほどでした。平家の者たちが宮中に袖を並べた昔は、平家をおびえ恐れる者も多かったのでした。世間に首を晒される今となっては、憐れみ悲しまれるのは言うまでもありませんでした。中でも大覚寺に隠れ住む、小松三位中将維盛卿(平維盛)の若君、六代御前に仕える斎藤五、斎藤六は、あまりに心配になって、姿を変えて見にいくと、首は、皆知った者でしたが、三位中将殿(維盛)の首はありませんでした。けれどもあまりにも悲しくて、袖に包めないほど涙があふれ出て、他人の目も不安になったので、急いで大覚寺へ帰ってきました。維盛の北の方(妻)は、「どうでしたか維盛はいましたか」と聞きました、斎藤たちは、「首は、皆知った者でしたが、維盛の首は、ありませんでした。


続く


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# by santalab | 2013-07-11 06:56 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その2)

法皇ほふわう、このこといかがあらんずらんと、思し召しわづらはせ給ひて、太政だいじやう大臣、左右さうの大臣、内大臣、堀河ほりかはの大納言忠親ただちかの卿におほせ合はせらる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相けいしやうくらゐに至る人の首、大路おほちを渡さるること先例なし。中にもこのともがらは、先帝の御時より戚里せきりしんとして、久しく朝家てうかに仕うまつる。範頼はんらい義経ぎけい申状まうしじやう、あながちに御許容ごきよようあるべからず」と申されければ、渡さるまじきに定められたりしかども、範頼義経重ねて奏申しけるは、「保元ほうげんの昔を思へば、祖父そぶ為義ためよしあた平治へいぢいにしへを案ずるに、父義朝よしともかたきなり。されば君の御いきどほりを安め奉り、父のはぢを清めんがために、命を捨てて朝敵てうてきを滅ぼす。




後白河院は、どう扱ったらよいものかと、思い悩んで、太政大臣(藤原師長もろなが治承ぢしよう三年の政変(1179)により解官となり、「玉葉」を書いた九条兼実かねざねが1190年に就くまでは、太政大臣は不在でした)、左右の大臣(当時の左大臣は、藤原経宗つねむね。右大臣は、九条兼実)、内大臣、堀河大納言忠親卿(藤原忠親)に意見をお聞きになりました。五人の公卿が申すには、「昔より卿相([公卿]=[大臣、納言、参議および三位以上])の位についた者の首が、大路に渡された先例はありません。中でもこの者たちは、先帝(安徳天皇)の御時より戚里([天皇の母方の親類。天皇の外戚])の者として、長い間朝廷に仕えた者たちである。範頼義経の申状([申文]=[下位の者から上位の者へ、願い事などを書いて差し出す文書])はお受けになってはいけません」と申したので、首を渡さぬようお決めになりましたが、範頼義経が重ねて奏上するには、「保元(保元の乱)の昔を思えば、祖父為義(源為義。義朝の父であったが敵味方に分かれて義朝に降伏するが、最後は義朝によって斬首された)、平治(平治の乱)のいにしえを思いだすと、父義朝(源義朝。保元の乱では平清盛とともに後白河院につき、平治の乱では二条天皇についた清盛の敵となり最後は討たれた)の敵でした。ならば後白河院のいきどおりを鎮めて、父の恥を清めるためにも、命を捨てて朝敵を滅ぼしたのです。


続く


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# by santalab | 2013-07-10 06:57 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その68)

十月、紅葉もみぢいとおもしろき中を行くに、散りかかれば、仰ぎて立てり。

旅人の ここに手向くる 幣なれや 秋過ぎて散る 山の紅葉葉




十月、紅葉がとても美しい木立の中を行くと、紅葉葉が散りかかったので、人が仰ぎ見て立ち止まっています。

旅人が、ここに手向けた、ぬさ([旅の無事を祈って贈るもの])なのでしょうか、秋が過ぎて(陰暦十月の季節は冬)散る、山の紅葉葉は。


続く


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# by santalab | 2013-07-10 06:47 | 落窪物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その67)

九月、白菊多く咲きたる家を見る。

時ならぬ 雪とや人の 思ふらむ まがきに咲ける 白菊の花




九月、白菊がたくさん咲いている家を見ています。

季節外れの、雪と、見間違うほどに、まがき([竹や柴などで目を粗く編んだ垣根])に咲いた、白菊の花です。


続く


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# by santalab | 2013-07-09 07:14 | 落窪物語 | Comments(0)


「平家物語」首渡(その1)

寿永じゆえい三年二月七日、摂津国一の谷にて討たれ給ひし平氏の首ども、十二じふに日に都へ入る。平家に結ぼれたりし人々は、今度我が方様に、いかなる憂きことをか聞き、いかなる憂き目をか、見んずらんと、嘆き合ひ悲しみ合はれけり。中にも大覚だいかく寺に隠れ給へる小松の三位中将維盛これもりきやうの北の方は、いとどおぼつかなう思はれけるに、今度一の谷にて、一門の人々残り少なに討ちなされ、今は三位中将と言ふ公卿くぎやう一人いちにん、生捕りにせられて上るなりと聞き給ひて、この人離れ給はじ者をとて、もだえ焦がれ給ひけり。ある女房にようばうの大覚寺にまゐつてまうしけるは、「三位中将殿とは、これの御事にてはさぶらはず、本三位中将殿の御事なり」と申しければ、さては首どもの中にこそあるらめとて、なほ心安うも思ひ給はず。同じき十三じふさん日、大夫たいふの判官仲頼なかより以下いげ検非違使けんびゐしども、六条ろくでう河原かはらに出で向かつて、平氏の首ども受け取り、ひんがし洞院とうゐんを北へ渡いて、獄門の木に掛けらるべき由、範頼のりより義経奏聞す。




寿永三年(1184)二月七日に、摂津国一の谷(今の兵庫県神戸市須磨区)にて討たれた平氏の首が、十二日に都へ着きました。平家に縁のある者たちは、今度は平家の者たちの、どんな心苦しいことを聞き、どのような悲しい目を、見たのだろうと、嘆き合い悲しみ合いました。中でも大覚寺(今の京都市右京区にある寺)に隠れている小松三位中将維盛卿(平維盛。清盛の嫡孫)の北の方(妻)は、さらに不安に思っていましたが、今度一の谷で、平家一門の者たちは残り少なくなるほど討ち捕られて、今度三位中将の公卿が一人、生捕りになって京に上ってくると聞いて、この人はわたしの夫(小松三位中将維盛)に違いないと思って、思いわずらわないではいられませんでした。ある女房が大覚寺に参って北の方に申すには、「三位中将殿というのは、あなたの夫ののことではありませんでした、本三身中将殿(平重衡しげひら。清盛の五男)ということです」と話しました、維盛の北の方は、ならば首の中に夫はいるのでしょうかと、やはり不安なままでした。同じ十三日、大夫判官仲頼以下の検非違使たちが、六条河原に出かけて、平氏の首を受け取り、東洞院通り(南北の通り。今、北は丸太町通から南は京都駅まで)を北に進んで、獄門の木に首をかけるよう、範頼(源範頼。頼朝の異母弟、義経の異母兄)義経(源義経。頼朝の異母弟)が後白河院に奏上しました。


続く


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# by santalab | 2013-07-09 07:00 | 平家物語 | Comments(0)


「平家物語」小宰相身投(その11)

胸の内の思ひは、富士のけぶりに現はれ、袖のうへの涙は、清見関きよみがせきの波なれや。見目はさいはひの花なれば、三位さんみこの女房にようばうを賜はつて、互ひの心ざし浅からず。されば西海の波の上、船の内までも引き具して、つひに同じ道へぞ赴かれける。門脇の中納言ちうなごんは、嫡子越前の三位、末子ばつし業盛なりもりにも遅れ給ひぬ。今頼み給へる人とては、能登のかみ教経のりつね、僧には中納言の律師忠快ちうくわいばかりなり。故三位殿の形見とも、この女房をこそ見給ふべきに、それさへかやうになり給へば、いとど心細うぞなられける。




胸の内の思いは、富士の煙となって現れましょう(「思ひ」の「ひ」=「火」を掛ける)、袖の上の涙は、清見関(今の静岡県静岡市にあった関)の波となりなさい。見目は幸ひの花([女性にとって容貌が美しいことは、幸福をもたらす元であるということ])と言いますが、三位(通盛、平清盛の異母弟教盛のりもりの嫡男)にこの女房が仕えて、小宰相と女房の相手を思う気持ちは決して浅いものではありませんでした。そうであれば西海の波の上、船の内までも連れて、ついに同じ道へ旅立って行きました。門脇中納言(教盛。平清盛の異母弟)は、嫡子越前三位(通盛、教盛の嫡男)、末子業盛(教盛の三男で末子)にも先立たれました。今教盛が頼れる者は、能登守教経(教盛の次男)、中納言の律師([僧正、僧都に次ぐ僧官])忠快(教盛の子)だけになってしまいました。故三位殿(通盛)の形見にも、この女房がなるべきでしたが、それさえもこのように海に沈んでしまったので、教盛はいっそう心細くなりました。


続く


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# by santalab | 2013-07-08 07:15 | 平家物語 | Comments(0)


「落窪物語」巻三(その66)

八月、嵯峨野に所の衆ども前栽せんざい堀りに、

うちむれて 掘るに嵯峨野の をみなへし 露も心を 置かで引かれよ




八月、嵯峨野(京都市右京区)の者たちが前栽([草木を植え込んだ庭])に咲いた女郎花を摘んでいます、

皆揃って、嵯峨野の女郎花を、摘んでいます。露さえ女郎花に、心引かれているようです。


続く


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# by santalab | 2013-07-08 07:09 | 落窪物語 | Comments(0)


「一遍聖絵」第一〔第一段〕(その2)

上人学問のためならば、浄土の章疏文字を読みをして来たるべき由、示し給ふによりて、独り出でて肥前国清水の華台けだい上人の御許にまうで給ひき。




聖達しようたつ上人は学問をしたいのであれば、浄土の章疏([仏典の注釈書])に書かれた文字を読んでから来なさいと、示し申されたので、随縁(一遍上人)は独り禅室を出て肥前国の清水寺(現福岡県鞍手郡若宮町にある寺)の華台上人の許を訪ねました。


続く


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# by santalab | 2013-07-08 07:05 | 一遍聖絵 | Comments(0)


一遍聖絵

第一
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# by santalab | 2013-07-07 12:26 | 一遍聖絵 | Comments(0)

    

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