Santa Lab's Blog


「梅松論」(持明院統と大覚寺統の分立)

ここに後嵯峨院、寛元年中に崩御の刻み、遺勅にのたまはく、「一の御子後深草院御即位あるべし。降りの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として、御子孫永く在位の望みを止めらるべし。次は二の御子亀山院御即位ありて、御治世は累代敢へて断絶あるべからず。子細あるに依りてなり」と、御遺命あり。これに依りて、後深草院御治世、宝治元年より正元元年に至るまでなり。次に亀山院の御子後宇多院御在位、建治元年より弘安十年に至る迄なり。

後嵯峨院崩御以後、三代は御譲りに任せて御治世相違なき所に、後深草の院の御子伏見の院は一の御子の御子孫なるに、御即位ありて正応元年より永仁六年に至る。次に伏見院の御子持明院、正安元年より同じき三年に至る。この二代は関東の計らひよこしまなる沙汰なり。しかる間、二の御子亀山院の御子孫御鬱憤あるに依りて、またそのことわりに任せて後宇多院の御子後二条院御在位あり。乾元元年より徳治二年に至る。またこの君非義あるに依りて、立ち返り後伏見院の御弟萩原新院御在位あり、延慶元年より文保二年に至る。また御理、運に帰す。後宇多院の二の御子後醍醐御在位あり、元応元年より元弘元年に到る。この如く、後嵯峨院の御遺勅相違して、御即位転変せし事、併せて関東の無道なる沙汰に及びしより、「いかでか天命に背かざるべき」と、遠慮ある人々の耳目を驚かさぬはなかりけり。




後嵯峨院(第八十八代天皇)が、寛元年中に崩御の刻み(後嵯峨天皇が崩御したのは、文永九年(1272))、遺勅に申されたのは、「第一皇子である後深草院(第八十九代天皇。【持明院統】)を即位させよ。位を下りた後は長講堂領(王家領荘園群の一)百八十ヶ所を領地として、子孫は永遠に在位の望みを捨てること。次は第二皇子亀山院(後嵯峨天皇の第七皇子。第九十代天皇。【大覚寺統】)に即位させて、治世が累代([代々])万が一にも断絶することがないように。考えあってのことぞ」と、遺命されたんじゃ。この遺勅により、後深草院のご治世は、宝治元年(1247)より正元元年(1259)までじゃった。亀山院の次に亀山院の皇子後宇多院(亀山天皇の第二皇子。第九十一代天皇。【持明院統】)の在位じゃが、建治元年(1275。正しくは、文永十一年(1274))より弘安十年(1287)までじゃった。

後嵯峨院が崩御された後、三代はお譲りに任せて治世に過ちなどなかったが、後深草院の皇子伏見院(後深草天皇の第二皇子。第九十二代天皇。【持明院統】)が第一皇子(後深草天皇)の子孫じゃったが、即位されて正応元年((1288)。弘安十年(1287))より永仁六年(1298)までおられた。次に伏見院の皇子持明院(伏見天皇の第一皇子。第九十三代後伏見天皇。【持明院統】)は、正安元年(1299。永仁六年(1298))より同じ正安三年(1301)までじゃったの。この二代は関東(鎌倉幕府)の計らいによるものじゃったが道理に背くものであったな。こうして、(後嵯峨天皇の)第二皇子亀山院のご子孫は鬱憤されたが、もっともなことじゃったので後宇多院の皇子後二条院(後宇多天皇の第一皇子。第九十四代天皇。【大覚寺統】)が位に即かれた。乾元元年(1302)(正安三年(1301))より徳治二年(1307)(徳治三年(1308))までじゃったな。またこの君に非義([正義に背くこと。道理に外れること])あって(病いにより崩御)、元通り後伏見院の弟萩原新院(伏見天皇の第四皇子。第九十五代花園天皇。【持明院統】)が在位されて、延慶元年(1308)より文保二年(1318)まで位に即いておられた。道理は、運に帰するということじゃな。後宇多院の第二皇子後醍醐(第九十六代天皇。【大覚寺統】)が在位されて、元応元年(1319)(文保二年(1318))より元弘元年(1331)まで位におられた。こうして、後嵯峨院のご遺勅に相違して、即位が転変したのも、すべて関東(鎌倉幕府)が無道の沙汰に及んだものじゃったから、「どうして天命に背かぬことがあろうか」と、遠慮ある人々は耳目を驚かさぬ([耳目を驚かす]=[世間に衝撃を与える])ことはなかったのじゃ。



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# by santalab | 2018-02-08 10:27 | 梅松論 | Comments(0)


「梅松論」(受禅のこと)

しかるに高時たかときの執権は、正和五年より正中二年に至るまで十ヶ年なり。同じ正中二年の夏、病ひによりて落髪せられしかば、嘉暦元年より守時もりとき維貞これさだを以つて連署なり。これより関東の政道は漸く非義の聞こえ多かりけり。中にも殊更御在位のことを申し違へしかば、いかでか天命背かざらん。

その故は昔より、受禅と申すは代々の帝禅を受け給ひて、御在位の時は儲君ちよくんを以つて東宮に立て給ひしかば、宝祚乱るることのなかりき。あらまし往事を聞くに、天智天皇の御子大伴皇子を差し置き、御弟天武を以つて御位を譲り奉り給ひしかば、御即位の望みなき由を顕はさんがために天武吉野山に入り給ふ処に、大伴皇子天武を襲ひ給ひける間、伊賀・伊勢に御出ありて大神宮を拝し給ひて、官軍を駈りもよふし、美濃・近江の境において合戦を決して、遂に大伴の乱を平らげて位に即き給ふ。清見原天皇これなり。

次に光仁天皇譲りを受け給ふ。則ち子細あるによりて、宰相藤原百川ももかは卿を誅して即位し給ふ。

次に嵯峨天皇の御在位の時、尚侍の勧めによりて平城へいぜいの先帝合戦に及ぶといへども、桓武天皇の叡慮に任せて嵯峨天皇御在位を全うし給ふ。

次に文徳天皇の御子惟喬これたか惟仁これひと御気色何も分き難きに依りて、御即位のこと天気御計らひ難き間、相撲競馬雌雄決して、その勝ちに任せて清和御門御禅を受け給ひける。

保元に鳥羽崩御ありて、十ヶ日のうちに崇徳上皇と御兄弟御位争ひありしかば、勅命に任せて洛中に陣を取り、合戦に及ぶといへども、天の依るに任せて、終に主上御位を全うし給ひて、崇徳院は讃岐国に遷り奉り、院宣を受けし源平の軍士悉く誅せらる。

次に高倉院は賢王にてましましければ、御在位のほどは天下安全にて宝祚久しかるべき所に、安徳天皇三歳にして御即位し給ひける。これは外祖父清盛禅門の計らひなり。剰へ天下の政務をほしいままにせしほどに、則ち天に背きしなり。

次に承久に後鳥羽院、世を乱し給ひしに依りて隠岐国に移し奉る。御孫後堀河天皇を関東より御位に即け奉る。皆一旦御譲りの障害たりといへども、遂に正義に帰するなり。




さて高時(北条高塒。鎌倉幕府第十四代執権)の執権は、正和五年(1316)より正中二年(1325)に至るまでの十年間じゃった。同じ正中二年の夏、病いによって出家して、嘉暦元年(1326)より守時(北条守時。鎌倉幕府第十六代執権)は維貞(北条維貞=大仏おさらぎ維貞)を連署([鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職])として執権したのじゃ。それより関東の政道はしばらく非義([道理にはずれること])が多く聞こえるようになった。中でもとりわけ在位のことを反故にしたんじゃから、どうして天命に背かぬことがあろうか。

その訳じゃが昔から、受禅([先帝から帝位を譲られて即位すること])と申すのは代々の帝禅を受け、ご在位の時は儲君([皇太子])を東宮に立てるものじゃから、宝祚([天子の位。皇位])が乱れることはなかったのじゃ。粗方昔のことを聞くに、天智天皇(第三十八代天皇)の皇子大伴皇子(天智天皇の第一皇子。第三十九代弘文天皇)を差し置き、弟の天武(第四十代天皇)を位を譲ったもんじゃから、即位の望みがないことを示すために、天武は吉野山に入ったが、大伴皇子が天武を襲ったので、天武は伊賀・伊勢に逃れ大神宮(現三重県伊勢市にある伊勢神宮)を拝して、官軍を駆り集め、美濃・近江の境において合戦を決して、遂に大伴の乱(壬申の乱(672))を平らげて位に即かれたのじゃ。清見原天皇(天武天皇)のことじゃよ。

次には光仁天皇(第四十九代天皇)が譲位を受けられた。すなわち訳あって、宰相藤原百川卿を誅して即位された(百川は、光仁天皇擁立に尽力したとされ、その後要務を勤めた)。

次には嵯峨天皇(第五十二代天皇)ご在位の時、尚侍の勧めにより平城の先帝(第五十一代平城天皇)は合戦(薬子の変(810))に及んだが、桓武天皇(第五十代天皇)の叡慮に任せて嵯峨天皇は在位を全うしたんじゃ。

次には文徳天皇(第五十五代天皇)の皇子惟喬(文徳天皇の第一皇子)・惟仁(文徳天皇の第四皇子。第五十六代清和天皇)に対する寵愛は分け隔てなかったので、ご即位については天気([天子の機嫌])を決めかねて、相撲競馬により雌雄を決し、その勝ち通り清和天皇が禅譲を受けられたのじゃ。

保元(元年(1156))に鳥羽(第七十四代天皇)が崩御されて、十日のうちに崇徳上皇(第七十五代天皇)とご兄弟(第七十五代後白河天皇)が位を争い、勅命に任せて洛中に陣を取り、合戦に及んだが、天の味方によって、終に主上が位を全うし、崇徳院は讃岐国に遷されて、院宣を受けた源平の軍士は残らず誅されたのじゃよ。

次には高倉院(第八十一代天皇)じゃが賢王であられたので、ご在位のほどは天下安全にて宝祚([天子の位。皇位])は久しくあるべきじゃったが、安徳天皇(高倉天皇の第一皇子。第八十一代天皇)が三歳にしてご即位されたのじゃ。これは外祖父清盛禅門(平清盛)の意向じゃった。その上天下の政務をほしいままにしたので、たちまち天に背くことになったんじゃよ。

次には承久に後鳥羽院(第八十二代天皇)が、世を乱して(承久の乱(1221))隠岐国に移されたんじゃ。高倉院のお孫後堀河天皇を関東(鎌倉幕府)の意向により位により即けたんじゃよ。皆一旦譲位に障害があったが、遂には正義に帰したのじゃ。


続く


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# by santalab | 2018-02-07 08:28 | 梅松論 | Comments(0)


「梅松論」(天皇・将軍・執権)

次に四条院、天福元年より仁治三年に至るまで御治世十年なり。

次に後嵯峨天皇、寛元元年より同じき四年に至るまで御治世なり。

次に後深草院、宝治元年より正元元年に至るまで御治世十三年なり。

次に亀山院、文応元年より文永十一年に至るまで御治世十五年なり。

次に後宇田院、建治元年より弘安十年に至るまで御治世十三年なり。

次に伏見院、正応元年より永仁六年に至るまで御治世十一年なり。

次に持明院、正安元年より同じき三年に至るまで御治世なり。

次に後二条院、乾元元年より徳治二年に至る御治世六ヶ年なり。

次に萩原院、延慶元年より文保二年に至るまで御治世十一年。

後醍醐院、元応元年より元弘元年に至るまで御治世十三年。

次に当今の量仁かずひと。また当今豊仁とよひと。およそ人皇始まりて神武天皇より後嵯峨院の御宇に至るまで、九十余代にてまします。

次に治承四年より元弘三年に至るまで百五十四年の間、関東将軍家並びに執権の次第は頼朝・頼家よりいへ実朝さねとも、以上三代武家なり。また頼経よりつね頼嗣よりつぐ、以上二代は摂政家なり。また宗尊むねたか惟康これやす久明ひさあき守邦もりくに、以上四代は親王なり。惣じて九代なり。

次に執権の次第は、遠江守時政ときまさ義時よしとき泰時やすとき時氏ときうぢ経時つねとき時頼ときより時宗ときむね貞時さだとき高時たかとき、以上九代皆以つて将軍家の御後見として政務を申し行ひ、天下を治め、武蔵・相摸両国のかみをもて職として、一族の中の器用を選び著して、御下し文・下知らを将軍の仰せらるるに依りて申し沙汰しける。元三がんさん椀飯おうばん、弓場始め・遅れの座・貢ぎ馬・随兵以下の役職の輩、諸侍どもに対しては、傍輩の義を存す。昇進においては家督を得宗と号す。従四品下を以つて先途として、遂に過分の振る舞ひなくして、政道に専らにして仏神を尊敬し、万民を憐れみ育みしかば、吹く風の草木をなびかすが如くに従ひ付きしほどに、天下悉く治まりて、代々目出度ぞありける。




次は四条院(第八十七代天皇)じゃ、天福元年(1233)より仁治三年(1242)に至るまで治世は十年じゃった。

次は後嵯峨天皇(第八十八代天皇)じゃ、寛元元年(1243)より同じ寛元四年(1246)に至るまで治世された。

次は後深草院(第八十九代天皇。【持明院統】)じゃ、宝治元年(1247)より正元元年(1259)に至るまで治世は十三年じゃった。

次は亀山院(第九十代天皇。【大覚寺統】)、文応元年(1260)より文永十一年(1274)に至るまで治世は十五年じゃった。

次は後宇田院(第九十一代天皇。【大覚寺統】)じゃ、建治元年(1275)より弘安十年(1287)に至るまで治世は十三年じゃった。

次は伏見院(第九十二代天皇。【持明院統】)じゃ、正応元年(1288)より永仁六年(1298)に至るまで治世十一年じゃった。

次は持明院(第九十三代後伏見天皇。【持明院統】)じゃ、正安元年(1299)より同じ正安三年(1301)に至るまで治世された。

次は後二条院(第九十四代天皇。【大覚寺統】)じゃ、乾元元年(1302)より徳治二年(1307)に至る治世は六ヶ年じゃった。

次は萩原院(第九十五代花園天皇。【持明院統】)じゃ、延慶元年(1308)より文保二年(1318)に至るまで御治十一年じゃった。

後醍醐院(第九十六代天皇。【大覚寺統】)は、元応元年(1320)より元弘元年(1332)に至るまでの治世十三年じゃった。

次には今の量仁(北朝初代光厳天皇。【持明院統】)。また今の豊仁(北朝第二代光明天皇。【持明院統】)じゃ。およそ人皇の時代となられて神武天皇より後嵯峨院の御宇に至るまで、九十余代であられるぞ。

次に治承四年(1180)より元弘三年(1334)に至るまで百五十四年の間の、関東将軍家並びに執権の次第じゃが頼朝(源頼朝。鎌倉幕府初代将軍)・頼家(源頼家。頼朝の次男。鎌倉幕府第二代将軍)・実朝(源実朝。頼朝の四男。鎌倉幕府第三代将軍)、以上三代は武家じゃ。また頼経(藤原頼経。鎌倉幕府第四代将軍)・頼嗣(藤原頼嗣。頼経の子。鎌倉幕府第五代将軍)、以上二代は摂政家じゃ。また宗尊(後嵯峨天皇の第一皇子。鎌倉幕府第六代将軍)・惟康(宗尊親王の嫡男。鎌倉幕府第七代将軍)・久明(後深草天皇の第六皇子。鎌倉幕府八代将軍)・守邦(久明親王の子。鎌倉幕府第九代将軍)、以上四代は親王じゃ。合わせて九代じゃった。

次に執権の次第じゃが、遠江守時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権)・義時(北条義時。時政の次男。鎌倉幕府の第二代執権)・泰時(北条泰時。義時の長男。鎌倉幕府第三代執権)・時氏(北条時氏。泰時の長男。早世したため執権にはなっていない)・経時(北条経時。時氏の長男。鎌倉幕府第四代執権)・時頼(北条時頼。時氏の次男。鎌倉幕府第五代執権)・時宗(北条時宗。時頼の子。鎌倉幕府第八代執権)・貞時(北条貞時。時宗の嫡男。鎌倉幕府第五九代執権)・高時(北条高時。貞時の三男。鎌倉幕府第十四代執権)、以上九代が皆将軍家の後見として政務を執り行い、天下を治め、武蔵・相摸両国の国守を職として、一族の中の器用([すぐれた才能のある人])を選び出して、下し文([上位者が下位者あてに下した公文書])・下知などを将軍の申されるに従い取り計らったのじゃ。元三の椀飯(鎌倉幕府では元日より数日にわたり、北条氏をはじめとする有力な御家人が将軍に対して太刀・名馬・弓矢とともに椀飯を奉った)、弓場始め(弓奉行。[御弓始め]=[中世以降、毎年正月に幕府で行われた弓を射る儀式])・遅れの座(織手座?平安時代中期以後に摂関家や院庁、寺社が寄人などの形で独自に織手を抱えるようになった)・貢ぎ馬(貢馬こうば奉行。[貢馬]=[幕府から朝廷に献上する馬を将軍が内覧する儀式])・随兵([将軍外出時の護衛のための武装騎馬武者])以下の役職の者ども、諸侍どもは、傍輩([同じ主人に仕えた仲間])に限られておった。昇進においては家督([その家を継ぐべき子])を得宗([鎌倉幕府の北条氏惣領の家系])と呼んでおったんじゃ。従四品下を先途([最高])として、過分の振る舞いもなく、政道に専念して仏神を尊敬し、万民を憐れみ育んだので、吹く風が草木を靡かすように皆人は従ったのじゃよ、天下は残りなく治まり、代々めでたくあったの。


続く


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# by santalab | 2018-02-02 11:21 | 梅松論 | Comments(0)


「梅松論」(承久の変)

しかる間、関東に将軍御座おましなくては、いかがあるべきとて、二位の禅尼の計らひとして、同じき年承久元年二月二十九日、摂政道家みちいへ公の三男頼経よりつね、二歳にして関東に御下向。御母太政大臣公経きんつねの御娘なり。

嘉禄二年十二月二十九日、頼経八歳にて御元服あり。武蔵守平泰時やすとき加冠たり。

去る程に、武蔵守泰時・相摸守時房ときふさ連署として政務を執り行ふ処に、同じき承久三年の夏、後鳥羽院御気色として、関東を亡ぼさむために、先づ三浦平九郎判官胤義たねよし・佐々木弥太郎判官高重たかしげ・同じき子息経高つねたからを以つて、六波羅伊賀太郎判官光季みつすゑらを誅し、則ち官軍関東へ発向すべき由、五月十九日、その聞こえある間、二位の禅尼は、舎弟右京亮並びに諸侍らを召してのたまいしは、「我なまじひにこの命残りもて、三代将軍の墓所を西国のやからの馬の蹄にかけむこと、はなはだ口惜き次第なり。我存命しても由なし。先づ尼を害してから君の御方へ参ずべし」と泣く泣く仰せられければ、侍ども申しけるは、「我ら皆、右幕下うばつかの重恩に浴しながら、いかでか御遺跡を惜しみ奉らざるべき。西を枕とし命を捨つべき由」各々申しければ、同じき二十一日、十死一生の日なりけるに、泰時並びに時房ときふさ両大将として鎌倉を立ち給ふ。しかるに、泰時は父の義時よしときに向かひていはく、「国は皆王土にあらずといふことなし。されば和漢ともに、勅命を背く者、古今誰か安全することなし。そのもと平相国禅門は後白河院を悩まし奉りしかば、これに依りて故将軍頼朝卿潜かに勅命を蒙り、平家一類を誅伐ありしかば、忠賞官録残る処なかりき。就中、祖父時政ときまさを始めとしてその賞に預かる随一なり。しからば身に当たつて勅勘を蒙ること、嘆きてもなほ余りありて、ただ天命逃れ難きことなれば、所詮合戦を止め降参すべき由」をしきりに諫めける処に、義時ややしばらくありていはく、「この儀、尤も神妙なり。ただそれは君王の御政道正しき時のことなり。近年天下の行ひを見るに、君の御まつりごと古に代へて実を失へり。その子細は朝に勅裁ありて夕べに改まり、一処に数輩の主を補へらるる間、国土穏やかなる所なし。「わざわひいまだ及ばざる所は、恐らく関東の計らひなり。治乱は水火の戦に同じきなり。この如きの儀に及ぶ間、天下静謐の為たる間、天道に任せて合戦を致すべし。もし東士利を得ば、申し勧めたる逆臣を給ひて重科に行ふべし。また御位においては、かの院の御子孫を位に就け奉るべし。御迎ひあらば、兜を脱ぎ弓をはづし頭を延べて参るべし。これまた一義なきにあらず」とのたまひければ、泰時をはじめとして東士は各々鞭を上げて三つの道を同時に責め上る。東海道の大将軍は武蔵守泰時・相摸守時房、東山道は武田・小笠原、北陸道は式部丞朝時。都合その勢十九万騎にて発向し、三つの道から同時に洛中に乱れ入りしかば、都門たちまちに破れて逆臣ことごとく討ち取りし間、院をば隠岐国に移し奉り、則ち貞応元年に、院の御後堀河天皇を御位に就け奉る。御治世貞応元年より貞永元年に至る十一ヶ年なり。




こうして、関東に将軍がおられなくては、どうなることか、いかがあるべきと、二位禅尼(北条正子)の計らいで、同じ年承久元年(1219)の二月二十九日に、摂政道家公(九条道家)の三男頼経(藤原頼経)が、二歳にして関東に下向されたのじゃ(藤原頼経は源頼朝の同母妹である坊門姫の曾孫にあたる)。母は太政大臣公経(西園寺公経)の娘(西園寺掄子りんし)じゃった。

嘉禄二年(1226)十二月二十九日に、頼経は八歳で元服したんじゃよ。武蔵守平泰時やすとき(北条泰時。鎌倉幕府第三代執権。鎌倉幕府第二代北条義時よしときの長男)が烏帽子親([加冠]=[元服する者に冠をかぶせること])じゃった。

やがて、武蔵守泰時・相摸守時房(北条政子・北条義時の異母弟)が連署([鎌倉幕府の役職。執権の補佐役であり執権に次ぐ重職])として政務を執るところに、同じ承久三年(1221)の夏に、後鳥羽院(第八十二代天皇)のお考えにより、関東(鎌倉幕府)を亡ぼすため、まず三浦平九郎判官胤義(三浦胤義)・佐々木弥太郎判官高重(佐々木高重)・同じく子息経高(佐々木経高。ただし、経高は高重の父)らをもって、六波羅伊賀太郎判官光季(伊賀光季。京都守護)らを誅し、すぐさま官軍は関東へ発向すべしと申されたと、五月十九日に、伝わったので、二位禅尼は、弟である右京亮(北条義時。正しくは右京兆=右京権大夫)ならびに諸侍らを召して申すには、「われは無駄にこの命を長らえておるが、三代将軍(源頼朝・頼家よりいへ実朝さねとも)の墓所を西国の輩の馬の蹄に踏み荒らされては、はなはだ口惜しいことであるぞ。われが存命したところで何にもならぬ。まずこの尼(北条政子)を殺して君(後鳥羽院)の方へ参られよ」と泣く泣く申さると、侍どもが申すには、「我らは皆、右幕下(右近衛大将頼朝)の重恩にあずかりながら、どうしてご遺跡を惜しまぬことがありましょうか。西を枕として命を捨てる覚悟でございます」と各々申して、同じ五月二十一日に、十死一生の日([十死日]=[すべてに大凶とする日])じゃったが、泰時並びに時房を両大将として鎌倉を立ったんじゃよ。じゃがな、泰時は父の義時に向かって申すには、「国は皆王土ではない所はございません。なれば和漢ともに、勅命に背く者で、古今命を落とさぬ者はおりません。その昔平相国禅門(平清盛)が後白河院(第七十七代天皇)に背き、これにより故将軍頼朝卿はひそかに勅命を蒙り、平家一類([一族])を誅伐し、その忠賞官録は残るところございませんでした。申すまでもなく、祖父時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権)をはじめとしてその賞にあずかる一番の者ではありませんか。ならばこの身ながら勅勘を被ることは、嘆いてもなお嘆ききれません、ただし天命は逃れ難いことでございますれば、ともかくも合戦を止めて降参すべきでございます」としきりに勧めたので、義時はややしばらく思案して申すには、「お主の申すこと、まことりっぱなことである。だがそれは君王の政道が正しい時のことぞ。近年の天下の行いを見るに、君の政は古とは打って変わり徳を失っておる。詳しく申せば朝に勅裁あり夕べに改め、一度に数輩の主を捕らえ、国土に穏やかな所はない。禍がここにいまだ及んでおらぬのは、おそらく関東(鎌倉幕府)のおかげであろう。治乱は水火の戦([水火の争い]=[水と火のように正反対の性格を持っていたり、相容れない立場にあって、非常に仲の悪い者同士の争いをたとえた言葉])に同じ。そう思えば、天下静謐のためならば、天道に任せて合戦を致すべきぞ。もし東国武士が軍に勝ったならば、後白河院に進言した逆臣を譲り受けて重科に処すべし。また位においては、かの院のご子孫を位に就け奉るべし。お迎えがあれば、兜を脱ぎ弓を外し頭を延べて参るべし。これもまた一理ではないか」と申したので、泰時をはじめとして東国武士は各々急ぎ三つの道(東海道・東山道・北陸道)を同時に攻め上ったのじゃ。東海道の大将軍は武蔵守泰時・相摸守時房、東山道は武田(武田信光のぶみつ)・小笠原(小笠原長清ながきよ)、北陸道は式部丞朝時(北条朝時。北条義時の次男)。都合その勢十九万騎で発向し、三つの道から同時に洛中に乱れ入ったので、都門はたちまちに破られて逆臣は一人残らず討ち取られた、後白河院を隠岐国に移し奉り、すぐさま貞応元年(1222)に、高倉院(第八十代天皇)のお孫後堀河天皇(第八十六代天皇)を位に就け奉ったんじゃよ。治世は貞応元年より貞永元年(1232)に至る十一年間じゃった。


続く


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# by santalab | 2018-01-31 11:39 | 梅松論 | Comments(0)


「梅松論」(日本武尊より源氏三代将軍まで)

ここに「先代」と云ふは、元弘年中に滅亡せし相模守高時たかとき入道のことなり。承久元年より、武家の遺跡絶えてより以来、故頼朝卿後室二位の禅尼の計らひとして、公家より将軍を申し下りて、北条遠江守時政ときまさが子孫を執権として、関東において天下を沙汰せしなり。将軍と云ふは、人皇十二代景行天皇の御時に、東夷起こる。御子日本武尊やまとたけるのみことを以つて大将軍としてこれを征伐し給ふ。

同じき十五代神功皇后じんぐうくわうごう、自ら将軍として、諏訪・住吉の二神相伴ひ給ひて三韓を平らげ給ふ。

同じき三十二代用明天皇の御宇、厩戸王子うまやどのわうじ自ら大将として守屋もりや大臣を誅せらる。

同じき三十九代天智天皇、大織冠鎌足を以つて入鹿いるか大臣を誅せらる。

同じき四十代天武天皇、自ら大将として大友皇子を誅す。浄見原天皇きよみはらてんわうこれなり。

同じき四十五代聖武天皇、大野東人おほのあづまひとを大将として、右近衛少将太宰大弐藤原広嗣ひろつぐを誅せらる。松浦明神まつらみやうじんこれなり。

同じき四十八代称徳天皇女帝、中納言兼鎮守府将軍坂上刈田丸を以つて大将として、淡路廃帝並びに与党藤原仲麻呂なかまろを誅伐せらる。恵美押勝えみおしかつと号す。

同じき五十代桓武天皇、中納言兼鎮守府将軍坂上田村丸を遣はして、奥州の夷、赤髪以下の凶賊を平らげらる。

同じき五十二代嵯峨天皇、鎮守府将軍坂上錦丸を以つて右兵衛督藤原仲成なかなりを誅せらる。

同じき六十一代朱雀院の御宇、平貞盛さだもり・藤原秀郷ひでさと両将軍を以つて平将門を誅せらる。

同じき七十代後冷泉院の御宇、永承年中(1046-1053)に、陸奥守源頼義よりよしを以つて安部貞任さだたふらを平らげらる。

同じき七十二代白河院の御宇、永保年中に、陸奥守兼鎮守府将軍源義家よしいへを以つて清原武衡たけひら家衡いへひらを誅せらる。

同じき七十三代堀河天皇の御宇、康和年中に、因幡守平正盛まさもりを以つて対馬守源義親よしちかを討たる。

同じき七十七代後白河院御在位の始め、保元元年に、御兄崇徳院と国論の時、下野守源義朝よしとも並びに安芸守平清盛を以つて六条判官為義ためよし、右馬助平忠正ただまさらを誅せらる。

同じき七十八代二条院の御宇、平治元年に、信頼のぶより義朝よしともら大内に引き籠もりしを、清盛一力を以つて即時に討ち平らげて、天下静謐せしめき。その功に誇つて政務を恣にし、朝威を背き、悪逆無道なりしほどに、法皇潜かに院宣を下されしに依つて、頼朝義兵を発こして平家の一族らを誅伐せし叡感のあまりに、日本国中の惣追捕使、並びに征夷大将軍の職に補任せらる。御昇進、正二位大納言兼右近衛大将なり。当官補任の後、則ち両職を辞し給ふ。正治元年正月十一日、病ひによりて出家。同じき十三日に御年五十三にて逝去す。治承四年よりその期に至るまで、天下治まりて民間の愁ひもなかりしに、嫡子左衛門督頼家よりいへ遺跡を継ぎて、建仁二年にいたるまで関東の将軍なりしかども、悪事多きによりて、外祖父時政ときまさの沙汰として、伊豆国修善寺において子細あり。御年二十三。

次に頼家卿の舎弟実朝さねとも公、建仁三年より建保七年に改元承久、十七ヶ年の間、将軍として次第に昇進して、右大臣の右大将を兼ね給ふ。同じき年正月二十七日戌の刻に、鶴岡の八幡宮に御参詣の時、石橋において、当社の別当公暁くげう討ち奉る。御年二十八。則ち討つ手を遣はして、公暁を誅せらる。この時に及んで、三代の将軍の遺跡絶えし間、人々の嘆き悲しむこと申すも中々愚かなり。これに依りて百余人出家す。



「先代」と申すのは、元弘年中(1331~1334)に滅亡した相模守高時入道(北条高塒。鎌倉幕府第十四代執権)のことじゃ。承久元年(1219)以降、武家の遺跡が絶えてよりこの方、故頼朝卿の後室二位禅尼(北条政子)の計らいで、公家より将軍を申し下されて、北条遠江守時政(北条時政。鎌倉幕府初代執権。北条政子の父)の子孫を執権([鎌倉幕府で将軍を補佐し,幕政を統轄した職])として、関東において天下を治めておった。将軍と申すは、人皇十二代景行天皇の御時に、東夷が起こった。時に皇子日本武尊をもって大将軍となしてこれを征伐したんじゃよ。

同じく十五代神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)は、自ら将軍として、諏訪(現長野県の諏訪湖の周辺に四箇所の境内地をもつ諏訪大社)・住吉(住吉大社。現大阪市住吉区)の二神を伴って三韓を平らげたのじゃ(三韓征伐)。

同じく三十二代用明天皇(第三十一代天皇)の御宇に、厩戸王子(聖徳太子)自らが大将として守屋大臣(物部守屋)を誅伐した。

同じく三十九代天智天皇(第三十八代天皇)は、大織冠鎌足(藤原鎌足)をもって入鹿大臣(蘇我入鹿)を誅伐した。

同じく四十代天武天皇は、自ら大将として大友皇子(第三十九代弘文天皇)を誅伐した。天武天皇とは浄見原天皇のことじゃ。

同じく四十五代聖武天皇は、大野東人を大将として、右近衛少将太宰大弐藤原広嗣(ただし、広嗣は大宰少弐)を誅伐した(藤原広嗣の乱)。松浦明神(鏡神社の祭神の一。現佐賀県唐津市)のことじゃ。

同じく四十八代称徳天皇女帝(第四十六代孝謙天皇が重祚)は、中納言兼鎮守府将軍坂上刈田丸(坂上苅田麻呂)をもって大将として、淡路廃帝(第四十七代淳仁天皇)並びに与党藤原仲麻呂を誅伐したんじゃ。恵美押勝と名乗っておったそうじゃな(藤原仲麻呂の乱)。

同じく五十代桓武天皇は、中納言兼鎮守府将軍坂上田村丸(坂上田村麻呂)を遣わして、奥州の夷、赤髪(赤頭)以下の凶賊を平らげた。

同じく五十二代嵯峨天皇は、鎮守府将軍坂上錦丸(坂上田村麻呂)をもって右兵衛督藤原仲成(藤原薬子くすこの弟)を討った(薬子の変)。

同じく六十一代朱雀院の御宇に、平貞盛・藤原秀郷両将軍をもって平将門を討ったのじゃ(承平天慶の乱)。

同じく七十代後冷泉院の御宇、永承年中(1046~1053)には、陸奥守源頼義をもって安部貞任らを平らげた(前九年の役。ただし、安部貞任の死没は康平五年(1062))。

同じく七十二代白河院の御宇、永保年中(1081~1084)には、陸奥守兼鎮守府将軍源義家をもって清原武衡・家衡(清原武衡の甥)を討ったんじゃ(後三年の役)。

同じく七十三代堀河天皇の御宇、康和年中(1099~1104)に、因幡守平正盛(平清盛の祖父)をもって対馬守源義親を討ったんじゃよ(源義親の乱。ただし、源義親が討たれたのは嘉承三年(1108)といわれている)。

同じく七十七代後白河院が在位の初め、保元元年(1156)に、兄である崇徳院(第七十五代天皇)と国を争い、下野守源義朝(源義朝。源頼朝の父)並びに安芸守平清盛をもって六条判官為義(源為義。源義朝の甥にあたる)、右馬助平忠正(平清盛の叔父にあたる)らを誅したんじゃよ(保元の乱)。

同じく七十八代二条院の御宇、平治元年(1159)には、信頼(藤原信頼)・義朝(源義朝)らが大内裏に引き籠もった(平治の乱)のじゃが、清盛(平清盛)一人の力をもって即時に討ち平らげて、天下静謐せしめたのじゃ。その功に誇って政務をほしいままにし、朝威に背き、悪逆無道を働いたが、法皇(第七十七代後白河院)はひそかに院宣を下され、頼朝(源頼朝)が義兵を起こして平家の一族らを誅伐したのであまりの叡感に、日本国中の惣追捕使([源義経追討名目で地頭とともに全国に設置した軍事検察官])、並びに征夷大将軍(鎌倉幕府初代将軍)の職に補任されたんじゃよ。その後昇進し、正二位大納言兼右近衛大将となった。当官補任の後、たちまち両職を辞したのじゃ。正治元年(1199)正月十一日に、病いにより出家。同じ正月十三日に御年五十三で逝去された。治承四年(1180)より最期に至るまで、天下は治まり民間の憂いもなかったが、嫡子左衛門督頼家(源頼家。鎌倉幕府第二代将軍)が遺跡を継ぎ、建仁二年(1202)まで関東の将軍じゃったが、悪事多く、外祖父時政(北条時政。北条政子の父。鎌倉幕府初代執権)の沙汰として、伊豆国修善寺(現静岡県伊豆市)に移され殺害されたのじゃ。御年二十三じゃった。

次に頼家卿の弟実朝公(源実朝。鎌倉幕府第三代将軍)は、建仁三年(1203)より建保七年(1219)に承久に改元があった、十七年の間、将軍として次第に昇進して、右大臣の右大将を兼ねておった。同じ年の正月二十七日戌の刻([午後八時頃])に、鶴岡八幡宮(現神奈川県鎌倉市)に参詣の時、石橋で、当社の別当公暁(源頼家の子)に討たれたんじゃ。御年二十八じゃった。たちまち討手を遣わして、公暁を誅したのじゃ。この時に及び、三代の将軍の遺跡は絶えて、人々の嘆き悲しみは申すまでもないことじゃったな。実朝公の死によって百余人が出家したんじゃよ。


続く


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# by santalab | 2018-01-30 14:12 | 梅松論 | Comments(0)


「梅松論」

いづれの年の春にやありけん。二月二十五日を参籠の結願に定めて、北野の神宮寺毘沙門堂に道俗男女群集し侍りて、あるひは経・陀羅尼を読誦し、あるひは坐禅観法をぎようし、あるひは詩歌を詠じけるに、更に闌夜らんやにて、松の風、梅の匂ひ、いづれもいと神さびて、心澄み渡りけり。かくてしばらく念珠の隙ありけるに、ある人の云はく、「かかる折節申せるは憚りあれども、御存知ある方もやあると思ひ侍りて、多年心中の不審申すなり。知ろしめす方もあらば、御物語あれかし。もつとも先代を亡ぼして、当代御運を開かれて、栄耀他に越えたる次第委しくうけ給ひりたく候ふ。誰にても御語り候へかし」と申し侍りければ、やや静まりかへりてありけるに、何某なにがしの法印とかや申して、多智多芸の聞こえありける老僧進み出て申しける、「年老ぬるしるしに、古よりの事ども聞き置き侍りしを粗々あらあら語り申すべきなり。失念定めて多かるべし。それを御存知あらむ人々助言も候へ」と申されければ、本人は申すに及ばず、満座「これこそ神の御託宣」と悦びの思ひをなして聞き侍りけるに、法印いはく、




いずれの年の春のことでしたか。二月二十五日を参籠の結願の日に定めて、北野(北野天満宮。現京都市上京区)の神宮寺毘沙門堂(東向観音寺)に道俗男女が集まり、ある者は経陀羅尼を読誦し、ある者は坐禅観法([真理と現象を心のなかで観察し念じる瞑想の実践修行法])に集中し、ある者は詩歌を詠じておりますと、さらに夜は更けて、松の風、梅の匂い、いずれもたいそう神秘的で、心が澄み渡るようでございました。そうこうしておりますとしばらく念珠の隙がございました折に、ある人が申すには、「このような場で申すのも憚られるが、ご存知のお方もあるかと思い、長年疑問に思うておることを申してみよう。知っておられるお方があれば、お話しくだされ。と言うのも先代(北条高塒たかとき。鎌倉幕府第十四代執権)を亡ぼして、当代(足利尊氏。室町幕府初代征夷大将軍)がご運を開かれ、他に越えて栄耀を極められた次第をくわしく承りたいと思うておったのじゃ。誰かお話ししてくださらんか」と申したので、やや静まり返っておりますと、何某の法印とか申して、多智多芸の聞こえある老僧が進み出て申されました、「年老いた証に、昔からの事をかいつまんで申して進ぜよう。失念もきっと多かろう。ご存知の人々よ助言されよ」と申したので、本人は申すに及ばず、満座の者どもは「これこそ神のご託宣よ」とよろこんで聞いておりますと、法印が申すには、


続く


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# by santalab | 2018-01-29 10:28 | 梅松論 | Comments(0)


「宇津保物語」楼の上(その13)

大将は、やがて殿に参り給ひて、「物忌みし侍らむとて、石作に籠もりて侍りつるに、しかしかの人なむ、いとうつくしげにてこそおはしけれ。はや、今日明日にても、迎へ奉らせ給へ。東の一の対かけてこそは、よく侍らめ」など聞こえ給へば、「いさや。心などの思ふやうによくもあらずは、ためにも、面目なくこそは。左の大臣おとどの、具者ぐさのやうにて、ゆうゆうと引き連れてありき給ふに、一人なれど、かれを押し伏すばかりものし給ふこそ、世の中の人も、『なかなか、かうて』と思ひたるを、なまよろしくてあるべき」とのたまへば、大将・尚侍かん大殿おとど聞こえ給ふ、「すべて、御心せばく思ほせばなりけり。たとひ、人の同胞はらから、なま悪くても、侍らむからに、それに付けてや、覚えの劣らむ。思ふやうにものし給はずとも、それに付けてこそ、いとど、かの優れたる様は見え聞こえ給ふべかめれ。いと心憂き御物言ひなりや。はや迎へ奉り給へ」と聞こえ給へば、「いさ、さ、はや、ともかくも」と聞こえ給ふ。




大将【藤原仲忠】は、すぐに右大臣【藤原兼雅。藤原仲忠の父】の殿に参って、「物忌みしようと、石作寺(かつて、現京都市西京区あたりにあったらしい)に籠もっておりましたが、しかじかの人と、お会いしたのです。はやく、今日明日にでも、迎えられますよう。住まいは東の一の対屋が、よろしいでしょう」と申せば、「それはどうだろう。気が進まぬことよ、お主【藤原仲忠】のためにもならぬであろう、面目が立たぬことよ。左大臣【源正頼】は、まるで具者([供の者])のように、多くの子を引き連れておるが、わしにはそなた一人、だがそなたはかれら【源正頼】を圧倒するほどの勢いぞ、世の中の人も、『なんと、りっぱなことよ』 と思っておるぞ、弟がおるというのはよろしくなかろう」と申しました、大将【藤原仲忠】・尚侍の大殿【藤原仲忠の母。清原俊蔭の娘】が申すには、「何を申します、何とお心の狭いお考えなのでしょう。たとえ、大将【藤原仲忠】の弟の、出来が多少悪くとも、大将【藤原仲忠】の弟なれば、兄弟ですから、評判が悪いはずはございません。望み通りの弟でないとしても、それに付けても、なおさら、大将【藤原仲忠】の優れた様を人は見聞きすることになりましょう。悪く考えすぎです。すぐに迎えなさいませ」と申したので、「ならば、迎えよう、今すぐ、ともかくも」と申しました。



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# by santalab | 2018-01-11 08:29 | 宇津保物語 | Comments(0)


「宇津保物語」楼の上(その12)

同じほどに出で給ふ。御君の御供に、殊に、人もなし。御迎へに参り給へるさるべき人、睦ましき人を、「参れ」とて添へ奉り給ふ。西の大宮なりけり。一町なれど、いみじうあばれて、いと幽かなり。祖母おばも、「かくなむ」と聞き給ひて、限りなく喜び給ふ。人どもに、菓物くだもの・肴など、清げにして出だし給へり。




大将【藤原仲忠】も女【宰相の上】と同じ頃に寺を出ました。君【小君】の供には、これといって、人はいませんでした。大将【藤原仲忠】は迎えに参った供にふさわしい者、懇意の者を、「供に参れ」と申して供に付けました。女の宿所は西大宮大路([大内裏西側に接していた通り])にありました。一町([300坪])の広さがありましたが、たいそう荒れて、たいそうみすぼらしい所でした。祖母は、「かくかくしかじか」と聞いて、限りなくよろこびました。供の者たちに、菓子・肴など、見た目よく出しました。


続く


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# by santalab | 2018-01-10 08:16 | 宇津保物語 | Comments(0)


「宇津保物語」楼の上(その11)

三日果てぬれば、出で給ひなむとす。「いづくより参り来べき」と聞こえ給へば、「言ひ知らぬ山里のやうになりたる侍り。御覧ぜむにも、いと怪しげになむ侍る」と聞こえ給ふ。




三日経って、女【宰相の上】は石作寺を出ようとしました。大将【藤原仲忠】が「どこから参られたか」と伝えると、「言いようもない山里のような所でございます。ご覧になられましたら、なんと怪しい所かと思われることでございましょう」と返事がありました。


続く


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# by santalab | 2018-01-03 18:16 | 宇津保物語 | Comments(0)


「宇津保物語」楼の上(その10)

またの日も、呼び奉り給ひて、御菓物くだものなど参り給へど、遊びのみし給ふ。大将の詩ずんじ給へば、声いとをかしうて、もろともに誦じ給へば、「いとうつくしう。誰か、教へ奉りしは」。「母上」と聞こえ給へば、「をかしかりけり」と思す。




次の日も、大将【藤原仲忠】は小君を呼んで、菓子などを出しましたが、小君は遊ぶばかりでした。大将【藤原仲忠】が漢詩を口ずさむと、とてもかわいらしい声で、一緒になって口ずさんだので、「なんとも美しい声だ。誰が、教えてくれたのだ」。「母上【宰相の上】が」と答えたので、大将【藤原仲忠】は「なるほど」と思うのでした。


続く


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# by santalab | 2018-01-02 18:46 | 宇津保物語 | Comments(0)

    

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