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「平家物語」首渡(その2)

法皇ほふわう、このこといかがあらんずらんと、思し召しわづらはせ給ひて、太政だいじやう大臣、左右さうの大臣、内大臣、堀河ほりかはの大納言忠親ただちかの卿におほせ合はせらる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相けいしやうくらゐに至る人の首、大路おほちを渡さるること先例なし。中にもこのともがらは、先帝の御時より戚里せきりしんとして、久しく朝家てうかに仕うまつる。範頼はんらい義経ぎけい申状まうしじやう、あながちに御許容ごきよようあるべからず」と申されければ、渡さるまじきに定められたりしかども、範頼義経重ねて奏申しけるは、「保元ほうげんの昔を思へば、祖父そぶ為義ためよしあた平治へいぢいにしへを案ずるに、父義朝よしともかたきなり。されば君の御いきどほりを安め奉り、父のはぢを清めんがために、命を捨てて朝敵てうてきを滅ぼす。




後白河院は、どう扱ったらよいものかと、思い悩んで、太政大臣(藤原師長もろなが治承ぢしよう三年の政変(1179)により解官となり、「玉葉」を書いた九条兼実かねざねが1190年に就くまでは、太政大臣は不在でした)、左右の大臣(当時の左大臣は、藤原経宗つねむね。右大臣は、九条兼実)、内大臣、堀河大納言忠親卿(藤原忠親)に意見をお聞きになりました。五人の公卿が申すには、「昔より卿相([公卿]=[大臣、納言、参議および三位以上])の位についた者の首が、大路に渡された先例はありません。中でもこの者たちは、先帝(安徳天皇)の御時より戚里([天皇の母方の親類。天皇の外戚])の者として、長い間朝廷に仕えた者たちである。範頼義経の申状([申文]=[下位の者から上位の者へ、願い事などを書いて差し出す文書])はお受けになってはいけません」と申したので、首を渡さぬようお決めになりましたが、範頼義経が重ねて奏上するには、「保元(保元の乱)の昔を思えば、祖父為義(源為義。義朝の父であったが敵味方に分かれて義朝に降伏するが、最後は義朝によって斬首された)、平治(平治の乱)のいにしえを思いだすと、父義朝(源義朝。保元の乱では平清盛とともに後白河院につき、平治の乱では二条天皇についた清盛の敵となり最後は討たれた)の敵でした。ならば後白河院のいきどおりを鎮めて、父の恥を清めるためにも、命を捨てて朝敵を滅ぼしたのです。


続く


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by santalab | 2013-07-10 06:57 | 平家物語

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