御兄弟の御中には、備中の守の殿の御首ばかりこそ、見えさせ給ふらひつれ。そのほかは、存ぢやうその首、その御首」と申しければ、北の方、「それも人の上とは思えず」とて、ひきかづいてぞ臥し給ふ。ややあつて、斎藤五涙を抑へて申しけるは、「この一両年は隠れ居候ひて、人にもいたう見知られ候はねば、今しばらく候ひて、見参らせたう存じ候ひつれども、世に案内詳しう知りたる者の申し候ひしは、『今度の合戦に、小松殿の公達たちは、あはせ給はず。その故は、播磨と丹波の境なる、三草の手を固めさせ給ひ候ひけるが、九郎義経に破られて、新三位の中将殿、同じき少将殿、丹後の侍従殿は、播磨の高砂より御船に召して、讃岐の屋島へ渡らせ給ひ候ひぬ。
維盛の兄弟の中では、備中守殿(平師盛。維盛の異母弟)の首が、掛けられていました。そのほかには、存じ上げる方の首、だれそれの首」と話したので、維盛の北の方(妻)は、「とても他人事とは思えません」と言って、着物を引きかぶって臥せってしまいました。少したって、斎藤五は涙を抑えて申すには、「この一年ほどはここに隠れ住んでいただいて、人にもまったく知られなくなれば、様子を見て、維盛殿を探しに行きたいと思いますが、世間の事情をよく知った者が言うには、『今度の合戦(一の谷)に、小松殿(維盛)の人たちは、遭遇していないとのことです。その訳は、播磨(今の兵庫県南西部)と丹波(今の京都府中部と兵庫県北東部あたり)の境にあります、三草山(今の兵庫県加東市にある山)を固めていたそうですが、九郎義経(源義経)に破られて、新三位中将殿(平資盛。維盛の同母弟)、同じく少将殿(平有盛。維盛の異母弟)、丹後侍従殿(平忠房。維盛の異母弟)は、播磨の高砂(今の兵庫県高砂市)より船に乗って、讃岐の屋島(今の香川県高松市)に渡られたそうです。
(続く)