知時これを賜はつて、帰り参りたりければ、守護の武士ども、また、「いかなる御文にてか候ふらん。見参らせん」と申しければ、見せてげり。「苦しう候ふまじ」とて奉る。中将これを見給ひて、いとど御物思ひや増さられけん、ややあつて、土肥の次郎実平を召してのたまひけるは、「さてもこのほど各々の情け深う芳心せられつるこそ、ありがたううれしけれ。今一度芳恩蒙りたきことあり。我は一人の子なければ、憂き世に思ひ置くことなし。年頃契つたりし女房に、今一度対面して、後生のことをも言ひ置かばやと思ふはいかに」とのたまへば、土肥次郎情けある者にて、「まことに女房などの御事は、何か苦しう候ふべき。疾う疾う」とて許し奉る。中将斜めならず喜び、人に車借つて遣はされたりければ、女房取り敢へず、急ぎ乗つてぞおはしける。縁に車遣り寄せ、この由かくと申したりければ、中将車寄せまで出で迎ひ、「武士どもの見参らせ候ふに、下りさせ給ふべからず」とて、車の簾をうち被き、手に手を取り組み、顔に顔を押し当てて、しばしはとかうのことをものたまはず、ただ泣くよりほかのことぞなき。
知時は女房から文を受け取って、重衡の許へ帰ってきました、重衡の護衛の武士たちは、やはり、「どういう文なのか。見せよ」と言ったので、知時は文を見せました。武士は、「差し支えない」と言ったので重衡に届けました。中将(重衡。清盛の五男)は文を見て、さらに思いわずらい増さったのでしょうか、少したってから、土肥次郎実平(源頼朝の家臣)を呼んで言うには、「何と申したらよいのかこの度はいろいろ情けを深くかけて親切にしていただきありがたいことだと思っています。実はもう一つ御恩を受けたいと思っていることがあります。わたしには一人の子もいないので、この世に思い残すことはありません。ただ契った女房に、もう一度会って、後生([死後の世])のことを言い残しておきたいのですがどうでしょうか」と言えば、土肥次郎は情けのある者でしたので、「女房のことならば、何ら差し支えあるまい。早く呼んであげなさい」と言って許しました。重衡はとても喜んで、人に車を借りて女房の許へ遣わしました、女房はすぐに、急ぎ車に乗ってやってきました。縁に車を寄せて、女房が着いたことを知らせれば、重衡は車の近くまで迎え出て、「武士たちがいるので、車から下りてはいけない」と言って、車の簾を頭から被せて、手に手を組み合わせ、顔と顔を押し当てて、しばらく何もいわず、ただ泣くばかりでした。
(続く)