日数経れば、院宣の御使ひ、御壺の召し次ぎ花方、同じき二十八日讃岐国八島の磯に下り着いて、院宣を取り出だいて奉る。大臣殿以下の卿相雲客寄り合ひ給ひて、この院宣を開かれけり。「一人聖体、北闕の宮禁を出でて、諸州に幸し、三種の神器、南海四国に埋もれて数年をふ、もつとも朝家の嘆き、亡国の基なり。そもそもかの重衡の卿は、東大寺焼失の逆臣なり。すべからく頼朝の朝臣申し請くる旨に任せて、死罪に行はるべしと言へども、独り親族に別れて、すでに生捕りとなる。籠鳥雲を恋ふる思ひ、はるかに千里の南海に浮かび、帰雁友を失ふ心、定めて九重の中途に当然か。しかればすなはち三種の神器、都へ返し入れ奉らんにおいては、かの卿を寛宥せらるべきなり。ていれば院宣かくのごとく、よつて執達件の如し。寿永三年二月十四日、大膳大夫業忠が承り、謹上、上の平大納言殿へ」とぞ書かれたる。
日を経て、院宣([院司が上皇または法皇の命令を受けて出す文書])の使いで、御壺([宮中の局])の召し次ぎ([院の庁や東宮、摂関家などで、雑事を務めた下級職員])花方が、同じ(寿永三年(1184)二月)二十八日に、讃岐国(今の香川県)屋島(今の香川県高松市)の磯に着いて、院宣を取り出だして渡しました。大臣殿(平宗盛。清盛の三男)以下の卿相雲客([公卿と殿上人])が集まって、この院宣を開きました。「ただ一人の聖体([天皇]、安徳天皇)が、北闕([内裏])の宮禁([皇居])を出て、諸州を行幸し、三種の神器([歴代の天皇が皇位のしるしとして受け継いだという三つの宝物])は、南海四国に持ち出されて数年が経ち、当然のことながら国家は嘆き、国が滅びる原因となっているぞよ。そもそもかの重衡卿(平重衡。清盛の五男)は、東大寺を焼失させた逆臣([主君に背く家来])である。当然頼朝朝臣(源頼朝)が言う通りに、死罪にしようと思うが、ひとり親族と別れて、すでの生捕りの身となっておる。籠の鳥が雲を恋しく思い、はるか千里の南海に浮かび、戻ってくるであろう雁が友を失ったような気持ちで、必ずや九重([宮中])に戻る途中であろう。ならば三種の神器を、都へ返してもらえれば、かの卿(重衡卿)にも寛宥([寛大な気持ちで罪過を許すこと])が下るべきである。ていれば([てへれば]=[以上の次第]後白河院が院宣を下され、執達([上位の者の意向、命令などを下位の者に伝えること])は以上である。寿永三年二月十四日、大膳大夫業忠([大膳大夫]=[大膳職の長官])が承り、つつしんで奉る、上平大納言(平時忠。清盛の継妻時子の同母弟)殿へ」と書かれていました。
(続く)