再び物を思はせぬ先に、ただ我を失へや」とて、喚き叫び給へば、まことにさこそはと労しくて、皆伏し目にぞなられける。新中納言知盛の卿の意見に申されけるは、「さしもに我が朝の重宝、三種の神器を都へ返し入れ奉たりとも、重衡返し給はらんことあり難し。ただそのやうを恐れなく、御請け文に申させ給ふべうもや候ふらん」と申されければ、この儀もつともしかるべしとて、大臣殿御請け文を申さる。二位殿は涙に暮れて、筆の立てども思え給はねども、心ざしを導に、泣く泣く御返り事書き給へり。北の方大納言の佐殿は、とかうのことをものたまはず、引き被いてぞ伏し給ふ。その後平大納言時忠の卿、院宣のお使ひ、御壺の召し次ぎ花形を召して、「汝法皇のお使ひとして、大波路を凌いで、はるばるとこれまで下つたる印に、汝一期が間の思ひ出一つあるべし」とて、花形が面に、波形と言ふ焼い印をぞせられける。都へ返り上つたりければ、法皇叡覧あつて、「汝は花形か」。「さん候ふ」。「よしよし、さらば波形とも召せかし」とて、笑はせおはします。その後請け文をぞ開かれける。「今月十四日の院宣、同じき二十八日、讃岐国屋島の磯に到来、慎んでもつて承るところ件の如し。
再び悲しい思いをする前に、どうかわたしを殺してください」と言って、泣き叫びました、とても気の毒になって、皆目を伏せてしまいました。新中納言知盛卿(平知盛。清盛の四男)が意見を言うには、「もし我が国の大切な宝である、三種の神器を都へ返したところで、重衡(平重衡。清盛の五男)を返してくれることはないでしょう。頼朝(源頼朝)がどういうつもりでいるのか、請け文([承諾したことを書いた文書])に書いてみればどうでしょうか」と言ったので、もっともなことだと、大臣殿(平宗盛。清盛の三男)が請け文を口述しました。二位殿(清盛の継室平時子)は涙に暮れて、筆を起こすこともままなりませんでしたが、重衡への思いを筆に託して、泣きながら返事を書きました。重衡の北の方大納言佐殿は、何もいえずに、着物を引き被いて伏していました。その後大納言時忠卿(平時忠。二位殿=時子の兄)は、院宣の使いである、御壺の召し次ぎ([院の庁で、雑事を務めた下級役人])花形を呼んで、「お主は法皇(後白河院)の使いとして、大波路を、はるばるとここまで下った印として、お主の一生の思い出となるようなものを与えよう」と言って、花形の顔に、波形という焼き印を付けました。花形が都に戻ると、後白河院がご覧になって、「お主は花形か」。「そうでございます」。「そうか、ならば波形を見せてみよ」と言って、笑われました。その後請け文を開きました。「今月十四日の院宣、同じ二十八日に、讃岐国屋島(今の香川県高松市)に到着、慎んで以下の通り承りました。
(続く)